マルコ福音書講解

32 十二人の派遣


マルコ福音書 六章六節b〜一三節

 6b それから、イエスは付近の村を巡り歩いて教えられた。 7 また十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして派遣することを始め、彼らに汚れた霊に対する権威をお授けになった。 8 また、旅のために、杖一本のほかは何も持たず、パンも、袋も、帯の中に小銭も持たず、 9 ただサンダルを履くだけで、着物も二枚は着ないように命じられた。 10 そして彼らに言われた、「どこでも、ある家に入ったならば、その地を去るまで、その家に留まっていなさい。 11 また、あなたがたを迎え入れず、あなたがたの言葉を聴こうともしない所があれば、そこを去るとき、足の裏の塵を払い落として、彼らに対する絶縁の証としなさい」。 12 そこで彼らは出ていって、立ち帰るように宣べ伝え、 13 多くの悪霊を追い出し、大勢の病人に油を塗って癒した。



 終末のイスラエル

 イエスが「十二人」と呼ばれる新しい共同体を創設されたことについては、先に(三章一三〜一九節の講解で)触れた。そこで述べたように、この新しい共同体は、「神の国」を世界に宣べ伝えるというイエスの事業を、イエスの地上の生涯を超えて継承していく使命のために創設されたのであった。しかし、この「十二人」の創設はこのような働きのためだけではない。さらに深い根本的な意義を担う出来事である。その意義はまず何よりも「十二」という数が象徴している。

 イスラエルにおいては「十二」という数は、とくに神の民イスラエルを構成する部族の数として重要である。イスラエルとはヤーウェとの契約によって結び合わされた十二部族の連合体であった。イスラエルとはこの「十二部族」であるとの理念は、北王国の滅亡にともない九部族半は行方がわからなくなり、捕囚後は現実にはユダ族、ベニヤミン族、レビ族の半分の二部族半しか存在しなくなった時にも保持された。そして終末の時にはいなくなった諸部族が伝説的なサンバチオン河のかなたから導き帰されて、十二部族からなるイスラエルが再建されるという希望が広く行き渡っていた。

 イエスが「十二人」を創設されたのは、終末的な「神の支配」をもたらされた方が、終末時の神の民「新しいイスラエル」を創設されるという終末的な出来事であった。イエスが「十二」という数をそのような意味で用いておられることは、イエスが「十二人」に、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたもわたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ一九・二八)と言っておられることからも明らかである。

 十二人の派遣

 さて今や、イエスはこの「十二人」を世に遣わされる。終末時の神の民は終末的な「神の支配」の到来を世界に告げ知らせるという本来の課題に当たらなければならない。その際、イエスは「十二人」を二人ずつ組にして派遣される。使者が二人ずつ組にして派遣されるのは、当時すでにユダヤ教においても慣行になっていた。一つには、人気のない危険な道を行く時の安全の面から、もう一つは、使信の信憑性を保証するためには二人以上の証人が必要であるという法的な面からである。この場合、弟子たちが宣べ伝える使信(福音)の信憑性を保証するだけでなく、一一節のイエスの言葉からすると、この使信を受け入れたか拒否したかによって神が裁きを行なわれる時、その有効な証人となるためでもあったと考えられる(申命記一九・一五参照)。

 イエスは「十二人」を世に派遣するに当たって、「汚れた霊を制する権威」を授け(三章一三〜一九節の講解参照)、それだけで身を支え、生活を保証するための外のものは一切持たないように命じられる。当面の食料としてのパンも、生活用具を入れる袋も、旅の途中で必要な物を買い求めるための小銭も、一切携えるなという厳しいものである。自分の生活の必要はひたすら神に委せて、使信を伝えることに専心せよ、ということである。荒野を旅する時に襲って来る野獣を追い払うための杖一本と、足にからみつく害虫を防ぐサンダルを履く以外には、「二枚の着物を着るな」と野宿に必要な外套さえ着ることが禁じられる。派遣に関するルカの特殊資料(ルカ一〇・四)によると、さらに「途中でだれにも挨拶するな」と命じておられる。一見奇妙なこの命令は、当時のベドウィン的な環境での挨拶の慣行から、たとえばキャラバンに挨拶して一行に加えてもらうよなことを含んでいたことが分かると理解しやすい。この命令は身の安全のために使命の緊急性を忘れるなという意味になる。

 このような厳しい命令は、「神の支配」の到来を宣べ伝える使者の使命がいかに差し迫ったものかを示している。イスラエルにはもはや時が残されていない。弟子たちはイスラエルが今いかに緊迫した状況にあるかを、身をもって理解しなければならない。

 「死者を葬ることは死んだ者たちにまかせ」(マタイ九・二二)、自分の衣食のことを「思い煩うことなく」(マタイ六・二五〜三四)、ひたすら「神の支配」を告げ知らせなければならない。この「思い煩う」と訳されている動詞は、「心配して考える」という意味ではなく、「心配して働く」ことを指している(エレミアス)とすれば、「空の鳥、野の花」の一段は本来弟子たちを宣教に派遣するさいの訓戒の一部であったと理解することができる。すなわち、遣わされた使者は自分の衣食のためのお金を稼ぐためにあくせく働いて時を失うことなく、生活の必要はいっさい神に委せて、使命に専心するように求められたのである。また、マルコでは認められている杖とサンダルが、マタイ(一〇・一〇)とルカ(九・三、一〇・四)では禁じられているのは、この訓戒の言葉が伝承されていく過程で、もはや実際的な指示としてではなく、使命の緊急性を示す理念的な言葉として理解されるようになったのでないかと推測させる。われわれも現在の状況の中でこの派遣のさいの訓戒を読むとき、これらの指示を文字どおりに実行することはできない状況であるが、「神の国」を告げ知らせる使命の緊迫性は身をもって受けとめていなければならないと思う。

 受ける者と拒む者

 使者は自分を迎え入れてくれる家に留まるように指示される(一〇節)。使者が挨拶で願う平安は、それを受けるにふさわしい家であれば、その家に与えられる(マタイ一〇・一二〜一三)。ここで彼らを通して与えられる「平安」《シャローム》、《エイレネー》は「神との平和」であり、「救い」と同じである。使者を受け入れる者は彼らを遣わしたイエスを受け入れるのであり、イエスを受け入れる者はイエスを遣わした神を受け入れるのである(マタイ一〇・四〇)。それに対して、使者を拒む者はイエスを拒み、神を拒む者として裁きを受けるであろう。その時、裁かれるべき不信の者たちとは一切何の関係もないことを証するため、すなわち彼らとの絶縁の証として、使者はその地を去るとき、足についた塵を払い落すように指示されている。このようにして使者は、受け入れるか拒むかによって、救いか裁きをもたらす者となる。すなわち、彼らは「繋ぎ、または解く」権能を持つ者となる。

 「十二人」は指示されたように出て行って、ガリラヤの町や村に「神の支配」が差し迫っていることを告げ知らせ、神に立ち帰るように宣べ伝えた。その際、与えられている権威によって悪霊を追い出し、病人を癒し、その使信の「しるし」とした。「油を塗っていやし」という表現(ルカ一〇・三四、ヤコブ五・一四参照)は、それがパレスチナの慣行を反映している古い伝承であることをうかがわせる。

 「十二人」のガリラヤでの宣教活動がどのような結果になったのかは報告されていない。彼らの活動がいつも歓迎され、民衆に受け入れられたとは限らず、むしろ多くの反対があり、様々な形での迫害にさらされたことが、派遣するにあたってイエスが苦難を予告された言葉からもうかがわれる。イスラエルはイエスを扱ったように、その弟子たちを扱った。マタイでは「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」というイエスの言葉は、この場面で語られたものとされている(一〇・二四〜二五)。遣わされた弟子は、その師が世から受けた辱めを身に負って、使命を全うしなければならない。その際、迫害や苦難の中で使信を語るのは、もはや自分ではなく内に賜る聖霊であることを体験することになる。


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