マルコ福音書講解

38 異邦の女の信仰


マルコ福音書 七章二四〜三〇節

 24 さて、イエスはそこを去って、ツロの地方に入って行かれた。そして誰にも知られないようにある家に入られたが、隠れていることはできなかった。 25 汚れた霊につかれた娘をもつ女が、すぐにイエスのことを聞きつけて、来て足元にひれ伏した。 26 この女はギリシャ人で、シリア・フェニキア生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださるようにとイエスに懇願した。 27 するとイエスは女に言われた、「まず子供たちを満腹させてやらねばならない。子供たちのパンを取り上げて、これを小犬に投げ与えるのはよくない」。 28 しかし彼女は答えて言った、「主よ、食卓の下の小犬でも、子供たちのパン屑はいただきます」。 29 この言葉を聞いてイエスは言われた、「帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。 30 女が家に帰ってみると、子供は寝台に投げ出されて横たわり、悪霊は出てしまっていた。



 異邦の女

 ここまでの記事においては、イエスはまだガリラヤ湖の近辺におられる。ここでイエスはガリラヤを去って、北西へ約六十キロにある地中海沿いのツロの地方に行かれたとされている。マルコの構成では、ここから弟子たちを連れて異邦の地を巡るイエスの旅が始まることになる。これは、エルサレムから派遣されていた監察使ともいうべき学者たちと律法の問題で正面切って対決された前段(七・一〜二三)を受けて、エルサレムの宗教当局の追求の手が届きにくい異邦の地で、ご自分の時が来るまで弟子たちと過ごすためであったと考えられる。

 ツロでは誰にも知られないでいることを望まれたが、イエスの一行が来ていることはすぐに噂になってしまった。すでにイエスがガリラヤで病人を癒しておられた時、ツロからも多くの人が来て、イエスの癒しを受け、その力ある業を見ていた(マルコ三・八)。そのイエスが来ておられるという噂を聞いた一人の女性が、イエスのおられる家を捜し当て、足元にひれ伏して自分の娘を癒してくださるように懇願した。彼女の幼い娘は悪霊につかれていて、どのような方法をもってしても追い出すことができず、状況は絶望的になっていたのであろう。事態が深刻で絶望的なことは、イエスの足元にひれ伏して懇願している女性の姿からも十分うかがわれる。マタイ(一五・二二〜二八)では、弟子に追い払われても叫びながらついてきた、と女性の懇願の切実さがさらに強調されている。

 ここでマルコは、この女性が「ギリシャ人で、シリア・フェニキア生まれであった」とその出身を具体的に説明して、彼女がユダヤ人ではなく異邦人であること、すなわちユダヤ教徒ではなく異教徒であることを強調している。ツロ(現在一般的はティルスと呼ばれている)やシドンというような貿易港を中心都市とするこの地中海沿いの地方は、古くからギリシャなどの地中海諸国の影響を強く受けていたのであるが、とくにアレキサンドロス大王の征服以後はセレウコス朝の支配下に入り、この地方に住むギリシャ人も多くなっていた。この地方はギリシャ人によって「フェニキア」と呼ばれてきたが、前六四年のポンペイウスの征服によってローマの新しい属州シリアに併合されたので、「シリア・フェニキア」と呼ばれるようになっていた。 マタイ(一五・二二)ではこの女性は「この地に生まれたカナンの女」と言われているが、それはこの地方がヘレニズム時代にいたるまでその本来の名称である「カナン」という地名でも呼ばれていたからである。この女性が異邦人(異教徒)であることがマタイでも主題であることは、それに続くイエスとの対話からも明らかである。(なお、本来の地名「カナン」も、ギリシャ人が与えた訳語の「フェニキア」も、この地方に産する紫貝からとれる深紅の色から来ていると言われる。)

 女の信仰

 この女性の懇願に対して、イエスは「まず子供たちを満腹させてやらねばならない。子供たちのパンを取り上げて、これを小犬に投げ与えるのはよくない」と言って、これを拒絶される。ガリラヤでは病気で苦しむ人々を深く憐れみ、癒しを求めてくる者を拒まれることはなかった。そのイエスがここではなぜ、このように切実に助けを求める女性の懇願を、一見冷たく拒まれるのであろうか。われわれはイエスのお心の奥を推測することはできない。テキストに表れた限りの内容で理解しなければならない。

 ここでイエスが語っておられる「子供と小犬」の譬の言葉からしてもすでに、イエスがご自分の使命をイスラエルの民に神の救いをもたらすことに限っておられることは十分うかがえる。マタイはそれをイエスの明白な言葉として、この場面に置いている。イエスはこの女性の懇願を黙殺しておられたが、「叫びながらついて来るこの女を追い払ってください」とお願いする弟子たちに対して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って、ご自分の態度を説明しておられる(マタイ一五・二四)。今はイスラエルの救いのために遣わされた自分の使命を全うするためにこの身を捧げるべき時である、その使命のために賜わっているものを異邦人の生活問題のために注ぐべきではない、ということであろう。

 もはやイエスに縋る他はない女性は、イエスのこの言葉を見事に引き取って、自分の信仰を告白する。 「主よ、食卓の下の小犬でも、子供たちのパン屑はいただきます」。女性はこう言っているのである、「主よ、たしかにわたしは、神が様々な約束を与えておられる神の民イスラエルの一員ではありません。食卓につく子供ではなく、食卓の下にいる小犬です。けれども、食卓の下の小犬でも食卓から落ちるパン屑はいただくのですから、異教徒のわたしも、あなたがイスラエルに与えておられる神の救いをいただくことはできるはずです。主よ、わたしを助けてください」。

 これは見事な信仰である。イエスも「婦人よ、あなたの信仰は立派なものだ」と感心しておられる(マタイ一五・二八)。この女性は、イエスが神から来られた方であること、神の救い、神からの生命のパンを人に与える方であること、神の力によって悪霊を追い出す方であること、そしてイエスが与える神の救いはイスラエルだけではなく、すべての人間に及ぶものであることを信じているのである。娘を助けて欲しいという願いで心は一杯であるから、彼女自身はどれほどその内容を自覚していたかは分からないが、自分の全存在を懸けた彼女のこの一言はこのような信仰を見事に言い表わしているのである。信仰は意識や自覚以上のものである。この女性の姿が示しているように、信仰は自分の側の状態を問題にせず、ひたすら神の恩恵と信実と力だけを頼りにして、自分を神に向かって投げかけていく全存在的な行為である。

 この信仰の言葉を聞いて、イエスは言われた、「帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」。ここの原文の語順は、「イエスは彼女に言われた、この言葉のゆえに、帰りなさい」となっている。「この言葉のゆえに」からイエスの言葉が始まると理解して、「この言葉のゆえに、帰りなさい」の意味で訳されることが多いが、この句は直前の「彼女に言われた」を修飾するものと理解し、「この言葉のゆえにイエスは彼女に言われた」とすべきであろう。(原文では本来句読点は一切用いられていないのであるから、どこに句読点を入れるかも解釈の問題である。) イエスは女性のこの一言が言い表わしている信仰をしっかりと受けとめ、信仰による勝利を宣言される。ここのイエスの言葉は、イエスがしばしば言われた「あなたの信仰があなたを救った」と同じである。信仰が、そして信仰だけが神との現実の関わりをもたらし、神の力を体験させる。

 この場面でのイエスと異邦の女性との対話は、神の恩恵と人間の悲惨が出会った時のドラマを、これ以上煮詰めることができない簡潔な形で提示している。その簡潔さにふさわしい形で、マルコはこのドラマの帰結を伝える。「女が家に帰ってみると、子供は寝台に投げ出されて横たわり、悪霊は出てしまっていた」。

 異邦人の救い

 イエスが異邦人に対して、すなわちユダヤ教から見た異教徒に対してとられた態度について福音書が語るところを、この機会に簡単にまとめておきたい。

 イエスがご自分の使命をイスラエルへの宣教に限定しておられるように見える御言葉が二ヶ所ある。一つはここで引用した「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という御言葉である(マタイ一五・二四)。もう一つは弟子たちを宣教に派遣する時に、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。…はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」と言っておられる御言葉である(マタイ一〇・五、六、二三)。両方ともマルコとルカには並行記事がなく、マタイだけにあることが注目される。異邦人に福音を宣べ伝えるために書かれたマルコやルカ福音書にはこのような内容の御言葉が保存されず、ユダヤ人キリスト教徒が多いシリアで成立したとされるマタイ福音書だけが、このような内容の御言葉を比較的忠実に保存し得たのであろう。このことから、イエスご自身は、使命としてはご自分の働きをイスラエルに限定しておられたと考えられる。

 そのイエスが異邦人に癒しを与えられた場合が二ヶ所報告されている。一つはここのシリア・フェニキアの女性の場合で、他の一つはローマの百人隊長の僕を癒された場合である(マタイ八・五〜一三)。この両方で、イエスは初めは彼らの願いを退けておられる(マタイ八・七はNEB欄外の読みのように「わたしが行って治すのか」と拒絶の響きをもつ質問と解すべきである)。それはイエスの使命感から出る自然な態度である。けれども、イエスは律法の外にいる異邦人を差別したり除外したりはされない。彼らの信仰を「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言って誉め、彼らが天国の宴席に着く事を確言しておられる。この二つの記事は、初代の教団が異邦人への宣教に乗り出すときに、重要な支えとなり根拠となったであろう。

 このように、イエスは地上の働きとしては自分の使命をイスラエルに限定しておられたが、そのイスラエルにおける働きが完成する時、すなわち十字架と復活によってイスラエルに与えられていた約束が成就してイスラエルの歴史が満ちる時、その働きがもたらす救いが異邦の諸国民すべてに及ぶことを見ておられた。このことはマタイを含めてすべての福音書が語っている(マタイ八・一一以下、二一・四三、二八・一九、マルコ一三・一〇、ルカ二・三二、一三・二八以下、二四・四七など)。そして、「ぶどう園と農夫」の譬(マタイ二一・三三〜四四)をはじめ多くの譬が、イエスを拒むイスラエルに対する滅びの審判の後、救いがイエスを信じる異邦諸国民に及ぶことを予言しているのである。


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