マルコ福音書講解

49 誰がいちばん偉いか


マルコ福音書 九章三三〜三七節

 33 それから、一行はカペナウムに来た。そして家におられる時、イエスは弟子たちに、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」とお尋ねになった。 34 弟子たちは黙っていた。彼らは途中、誰がいちばん偉いかと、互いに論じ合っていたからである。 35 そこで、イエスは座って、十二人を呼び寄せて言われた、「誰でもいちばん先になろうと思う者は、すべての人の最後になり、すべての人に仕える者になるがよい」。 36 そして、ひとりの幼児をつれてきて彼らの真ん中に置き、その幼児を腕に抱いて彼らに言われた、 37 「誰でも、このような幼な子のひとりを、わたしの名によって受け入れる者は、わたしを受け入れているのである。また、わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れているのではなく、わたしを遣わした方を受け入れているのである」。



 最後になる者

 イエスと弟子たちの一行は、変容の山を下ってから、ひそかにガリラヤを通って(九・三〇)、イエスが活動の拠点とされていたガリラヤ湖畔の町カペナウムにいったん帰ってきた。「そして家におられる時」、とくに弟子たちに教えておきたいことを語り出された。このエルサレムに向かう最後の旅においては、イエスは群衆との接触を避けておられるが、とくに「家にいる」という状況は、一行を群衆から隔離して、これが弟子たちだけへの言葉であることを強調している。

 この旅においては、イエスはその行き先に苦しみと辱めの刑死が待っていることを見据え、それを明白な言葉で予告しておられるにもかかわらず、弟子たちはイエスのお言葉を理解することができず、全然違ったことを期待し、心はイエスとまったく別の方向に向いていた。「彼らは途中、誰がいちばん偉いかと、互いに論じ合っていた」のである。イエスは刑死というどん底の場にまで下って、すべての人を下から担おうとされているのに、弟子たちはすこしでも偉くなって人よりも上になり、支配する立場に立ちたいと願っているのである。同じ道を旅しながら、イエスと弟子たちはまったく別の道を歩んでいる。そのことをイエスは察知して、「あなたがたは途中で何を論じていたのか」とお尋ねになる。弟子たちは答える言葉もなく黙ってしまう。この沈黙に、イエスと弟子たちとの、すなわち神の霊によって歩む人と生まれながらの人間の無限の落差が露呈する。

 「そこで、イエスは座って、十二人を呼び寄せ」という描写は、「家におられる時」という状況では不自然である。おそらくマルコは、ここのイエスのお言葉を用いるに際して、元の伝承に用いられいた状況描写をそのまま使ったのであろう。いずれにせよ、この表現はイエスが改まった態度で重要な事柄を語りだそうとしておられることを印象づける。 ここで語られた「誰でもいちばん先になろうと思う者は、すべての人の最後になり、すべての人に仕える者になるがよい」というお言葉は、すこしずつ違った形で、マルコ一〇・四三〜四四(並行箇所マタイ二〇・二六〜二七)、ルカ九・四八 c、ルカ二二・二六(マタイ二三・一一)に出てくる。いずれもこの最後の旅以後の時期に集中している。このように、それぞれの福音書記者が状況に応じた表現で繰り返して用いているのは、この言葉の重要性を示している。そしてこの言葉が重要であるのは、これが弟子たちに対するたんなる道徳訓ではなく、イエスご自身の心を表現し、イエスという方の本質を語っているからである。イエスご自身が「すべての人の最後になり、すべての人に仕える者」となって、十字架に至る道を歩んでおられるのである(このことはマルコ一〇・四三〜四五で、弟子たちへの教訓をご自身の姿から根拠づけておられることでも明らかである)。イエスはすべての人の救いに仕えるために、ご自分を十字架の死という最も低い場に置かれるのである。ここにイエスの偉大さがある。

 「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ九・四八 c)。これが、「誰がいちばん偉いか」という問いに対する神の答えである。これが、神の前で人物の偉大さを測る物差しである。人間の偉大さは、そのすぐれた能力でどれだけ多くの人や物を支配できるかにあるのではなく、大きな能力のある者がどれだけ自分を小さく低くすることができるか、そうすることによってどれだけ多くの人に仕え、どれだけ有効に役立つことができるかにある。この観点からすれば、イエスこそ最も偉大な人物、あるいは偉大な人物の原型であると言える。

 幼児を受け入れる者

 この真理を印象づけるために、イエスは一人の幼児を抱き上げて語られる。「誰でも、このような幼な子のひとりを、わたしの名によって受け入れる者は、わたしを受け入れているのである」。ここで「幼な子」は無邪気さとか純粋さの象徴ではなくて、「小さい者」を指し示している。「小さい者」とは存在する価値もないとして社会で無視されている者、とるに足りない者である。そのような者を受け入れることは、自分をそのような低い場に置くことになる。「イエスの名によって」、あるいは「イエスの名に基づいて」受け入れるとは、ほかに何の理由がなくても、むしろ自分の願いに反して、イエスがそのようにされるから、あるいはイエスがそうすることを望まれるからという理由だけで、受け入れることである。そのように「小さい者」を受け入れる者は、じつにイエスを自分の中に迎え入れていることになる、というのである。この消息をさらに詳しく譬で語ったものが、マタイ福音書二五章の「羊と山羊を分ける人の子」の譬である。そこでは王が、社会で無視され苦しめられている者を世話した人たちに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(四〇節)と言っている。

 そして、「わたしを受け入れる者は、わたしを受け入れているのではなく、わたしを遣わした方を受け入れているのである」。すなわち、このようにしてイエスを受け入れる者は、イエスを遣わした方、イエスの父である神を受け入れていることになる。これはじつにたいへんな宣言である。神を自分の中に迎え入れ、神と共に生きることは人間の究極の境地である。その境地に到達する道が、ここにじつに大胆に提示されている。その境地に到るためには、神が遣わされたイエスを自分の中に受け入れればよい。そして、イエスを受け入れるとは、イエスの名によってこの世の「小さい者」を受け入れることである。神と共に生きる境地に到るのは、特定の宗教に精進してその奥義を究めた者ではなく、イエスの名によって「小さい者」を受け入れて生きる者である。神に最も近いのは、諸宗教の高位の聖職者ではなく、日常の生活の場で「小さい者」と苦しみを分かちながら共に生きている「小さい者」たちである。真剣に受け取れば、このみ言葉はあらゆる宗教制度を粉砕する爆破力を秘めている。


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