マルコ福音書講解

51 小さい者にしたこと


マルコ福音書 九章四一〜四二節

 41 「誰でも、あなたがたがキリストに属する者であるという名のゆえに、一杯の水を飲ませてくれるならば、よく言っておくが、その人はその報いを失うことは決してない。 42 また、わたしを信じているこれらの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、ろばが引く石臼を首にかけられて海に投げ込まれる方が、その人にはまだましである」。



 小さい者を受け入れる

 四一節の「誰でも、あなたがたがキリストに属する者であるという名のゆえに、一杯の水を飲ませてくれるならば、よく言っておくが、その人はその報いを失うことは決してない」という言葉は、本来「小さい者」を受け入れることの重要性を語るみ言葉であろう。マタイは「わたしの弟子だという理由で、この小さい者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人」と表現し、すこし違った文脈に置いている(マタイ一〇・四二)。マルコは「小さい者」という用語をここで用いていないが、「(キリストの)名のゆえに」という表現の背後に、他には何の理由もない、取るに足りない者、すなわち「小さい者」という意味が含まれている。そして、このみ言葉は本来三七節に続いていたと考えられる。そう読むと、「小さい者」を受け入れることの具体的な展開として、自然に理解できる。この自然な文脈を破る形になるが、三七節の「わたしの名によって」を連結語として、三八〜四〇節が間に置かれたのであろう。そして、あらためて四一節に隠されている「小さい者」を支える行為との対比で、四二節で「小さい者」をつまずかせる行為の重大性が語られることになる。

 地上のイエスがここで「キリスト」という用語を用いられたとは考えられない。マタイは「わたしの弟子だという理由で」と言い換えている。「キリストに属する者」というのは、キリストを宣べ伝える伝道者をさす初代教団の用語である。見栄えのない、取るに足りない小さい者であるが、彼がキリストに仕え、キリストを宣べ伝える者であるという理由だけで、彼にささやかな奉仕を捧げて彼を受け入れる者は、キリストに属する者に約束されている祝福を、かならず神から受けることになる。初代の教団はこの言葉を、三七節のイエスの言葉を自分たちの状況において展開する言葉として受けとめたのである。

 小さい者をつまずかせる

 四一節で「小さい者」を受け入れる祝福が語られたが、それとの対比で、四二節で「小さい者」をつまずかせる行為の重大さが、「ろばが引く石臼を首にかけられて海に投げ込まれる」という、かなり誇張した表現で語られる。では、「小さい者をつまずかせる」とはどのようなことであろうか。

 ここの「小さい者」には「わたしを信じているこれらの小さい者たち」という説明の句がついている。この「信じている」に焦点をあてると、「つまずかせる」とはイエスへの信仰から引き離したり、そのきっかけとなる行為を指すことになる。しかし、「わたしを信じている」という説明の句を、四一節の「キリストに属する者」と同じように、「小さい」ということの説明とするならば、この世で無視されている無力な者を、その人生においてさらに苦しめ、倒れさせるような行為を広く指すことになる。そのような行為の中には、もちろん彼らがひたすらイエスに縋っている信仰を破壊するような行為が、もっとも重大な行為として含まれるのは当然である。四一節との並行関係からすれば、後の広い意味に理解すべきであろう。マタイ福音書二五章の「羊と山羊を分ける人の子」の譬も、マルコのこの段落をこのような意味に理解して形成されたものではないかと考えられる。


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