マルコ福音書講解

58 ヤコブとヨハネの野心


マルコ福音書 一〇章三五〜四五節

 35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスのもとに来て言った、「先生、わたしたちがお頼みすることをかなえてくださるよう、お願いします」。 36 イエスは彼らに言われた、「わたしに何をしてもらいたいのか」。 37 そこで二人は言った、「あなたが栄光の座につかれるとき、ひとりがあなたの右に、ひとりがあなたの左に座るようにしていただきたいのです」。 38 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。 39 彼らは「できます」と言った。そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。 40 しかし、わたしの右または左に座らせることは、わたしが与えることではない。それは定められた者たちに与えられるのである」。
  41 十人の者たちはこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで憤慨しだした。 42 そこでイエスは彼らを呼び集めて言われた、「あなたがたが知っているとおり、諸国民の支配者と認められている者たちは、人々に主権者として臨み、彼らの中の大いなる者は人々の上に立って権力をふるっている。 43 しかし、あなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で大いなる者になろうと願う者は、仕える者になりなさい。 44 また、あなたがの中で第一の者であろうと願う者は、すべての人の奴隷になりなさい。 45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の身代金として自分の命を与えるためである」。



 わが杯・わがバプテスマ

 このエルサレムへ向かう最後の旅では、すでに見てきたように、同じ道を旅しながら、イエスと弟子たちが別の道を歩んでいることがますます明らかになってくる。そして、この過程はこの段落で頂点に達する。イエスは他者のために苦しみを受ける道を歩んでおられるのに、弟子たちは自分が栄光にあずかり、他者を支配することだけを考えている。彼らがイエスを信じるのも、イエスが受けられるはずの栄光に自分たちもあずかるためである。彼らの思いはヤコブとヨハネの願いによく現われている。

 二人はイエスに言った、「あなたが栄光の座につかれるとき、ひとりがあなたの右に、ひとりがあなたの左に座るようにしていただきたいのです」。イエスが繰り返して「苦しみを受ける人の子」について明白に語られたにもかかわらず、弟子たちはその奥義を理解せず、自分たちが考えているメシアとしてのイエスに期待をかけていた。彼らの理解によれば、メシアは神の力により異教徒の支配を打ち破り、世界を支配する栄光の座につくはずであった。「人の子」という称号も当時の黙示思想では天の栄光の中に現われる人物の称号であった。イエスがエルサレムに入られる時には、いよいよイエスがその栄光の座につかれる決定的な出来事が起こるにちがいないと彼らは信じていた。その時には自分たち二人が栄光の王の右と左という最高の栄誉の座に座らせてくださいという願いである。この旅の途上で弟子たちは、誰がいちばん偉いかと論じ合ってイエスから戒められていたが(九・三三〜三七)、彼らの心は最後まで同じであったことが分かる。人の上に立ちたいという願いは、訓戒の言葉では変わることのない、人間の本性であろう。

 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」。イエスと栄光を共にするためには、イエスの苦難をも共に受けなければならない。彼らが栄光を求めるとき、それはイエスの苦難をも共にすることを求めているのだということ、そしてその苦難がどのような質のものかが、彼らには分かっていない。マルコ福音書はこのことを分からせるために書かれていると言ってもよい。イエスはこのことを分からせるために、杯とバプテスマという二つの象徴を用いて語られる。

 旧約聖書では、杯は神からの救いや祝福の象徴として用いられる(詩編二三・五、一六・五、一一六・一三など)と同時に、神の審判の象徴としても用いられている(イザヤ五一・一七〜二三、エレミヤ二五・一五〜二九、詩編七五・八などー審判の象徴としての杯は神明裁判で被告が苦い水を飲まされた杯に起源があるのかもしれない)。イエスはここでご自分が受けなければならない苦難を「わたしが飲む杯」と表現しておられる。この杯には神の怒りと裁きという苦い水が満たされて、イエスに突きつけられている。イエスにとってこの杯を飲むことがいかにつらいことであったかは、ゲッセマネで三度まで「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られたことからもうかがえる。それは単なる肉体の苦しみではない。神の裁きに身を委ねる魂の苦しみ、死の苦悩である。イエスは共に栄光にあずかることを求めた弟子たちに、この杯を飲むことができるかと迫られる。これは、栄光にいたる道はイエスと共に死ぬことであることを示唆しておられるのである。

 イエスはヨハネからバプテスマを受けておられる。弟子たちもバプテスマを受けている。当時の多くのユダヤ人にとってバプテスマは共通の体験である。しかし、人々はただ「罪の赦しを与える悔い改めのバプテスマ」を受けたのであるが、イエスはご自分がこれから受けようとしておられる死にいたる苦しみを「わたしが受けるバプテスマ」と呼んで、別のものとしておられる。イエスにとってヨルダン川でヨハネから受けたバプテスマは、これからエルサレムで受けようとしているバプテスマの象徴であった。あの時全身が水に浸されたように、神の裁きの大水がイエスの全存在を覆い尽くし、押し流そうとしている。

 「バプテスマ」とはもともと「浸されること」であるが、イエスは詩編(四二・七や六九・一〜二など)に見られる大水のイメージで、ご自分が神の裁きの大水に浸されて苦しみを受けることを、「わたしが受けるバプテスマ」と語られたのであろう。そして、このようなバプテスマを受けることができるかと二人に反問される。このバプテスマを受けて、イエスの苦しみと死に合わせられるのでなければ、イエスと栄光を共にすることはできないのである。

 「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができるか」というイエスの問いに対して、彼らは「できます」と言った。この答えは自分が何を求めているのか解っていない無知からくる思い上がりである。イエスでさえ取り除けてくださいと切に祈られた杯を、誰がよく進んで受けることができようか。このような人間の決意や自信がいかに脆いものであるかは、すぐ後イエスの裁判が行なわれている時、ペテロが三度までイエスを知らないと誓ったことからも明らかである(マルコ一四・六六〜七二)。
 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる。しかし、わたしの右または左に座らせることは、わたしが与えることではない。それは定められた者たちに与えられるのである」。彼らが自分が求めているところを理解しているかどうか、その杯とかバプテスマとは何を意味するかを理解しているかどうか、また自分の力でイエスと苦難を共にすることができるかどうかは問わないで、彼らもイエスの弟子として、その師であるイエスが世から受けたのと同じ扱いを受けるにいたることを、イエスは予告される。このことはすでに何回も触れて、弟子たる者の覚悟を促しておられた。しかしここで、たとえイエスの名による苦難を受けても、それが栄光の座に座るための資格になるものではないことが示される。どのような栄光を与えられるかは、神だけが決められることである。

 ここで「定められた」と受動態が用いられているが、これはイエスがよく用いられた神を主語とすることを避けた受動態で、これを能動態で表現すれば「神が定めた」という文になる。たしかに神はイエスに従う者に栄光を約束しておられる。しかし誰にどのような栄光を与えるかは、神がその主権と恩恵によって定められることであって、人間の功績や苦難の量で決まることではない。イエスでさえ、それを決める立場にないことをここで明らかにしておられる。

 多くの人の身代金

 「十人の者たちはこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで憤慨しだした」。憤慨したことで、他の十人の弟子たちもこの二人と同じ心情であったことを暴露している。そこでイエスは彼らを呼び集めて言われた、「あなたがたが知っているとおり、諸国民の支配者と認められている者たちは、人々に主権者として臨み、彼らの中の大いなる者は人々の上に立って権力をふるっている」。これがこの世の現実である。けれども、神の支配の下にある者たちの間では、まったく逆の原理が支配する。イエスは続けて言われる、「しかし、あなたがたの間ではそうではない。あなたがたの中で大いなる者になろうと願う者は、仕える者になりなさい。また、あなたがの中で第一の者であろうと願う者は、すべての人の奴隷になりなさい」。先に教えられたように(九・三三〜三七)、神の国で偉大な者とは、多くの人を支配する者ではなく、多くの人に仕える者である。この神の国の基本原理が、ここで再び繰り返して教えられる。神の国で第一の者、最も大いなる者とは、すべての人の奴隷として仕える者である。まさにイエスご自身がそうである。イエスはこの言葉をご自分の在り方から語っておられる。そこにイエスの偉大さがある。

 イエスは言われる、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の身代金として自分の命を与えるためである」。「人の子」とは本来栄光の称号である。その人の子がこの世に来たのは、栄光の座から人々を支配し、人々に仕えられるためではなく、自分の命をすべての人の身代金として与えるという、もっとも徹底した形で人々に仕えるためである、と言っておられる。この人の子の姿は、弟子たちを含めて当時のユダヤ人たちがメシアや人の子を偉大な支配者と考えていたのとまったく反対の姿である。

 イエスはここで、ご自分の死を「多くの人の身代金として自分の命を与える」ことだと語っておられる。この言葉は、最後の晩餐の席での言葉と並んで、イエスの死の意義を語る重要な言葉であるので、すこし詳しく見ておこう。
 「身代金」と訳されているギリシャ語《リュトロン》は、七十人訳ギリシャ語旧約聖書では、
 (一)自分の命の代償として差し出す金(出エジプト記二一・三〇、三〇・一二、民数記三五・三一〜三二)
 (二)親族の者を奴隷の境遇から買い戻すための金(レビ二五・四七〜五五)
 (三)初子を贖うための贖い金(出エジプト記一三・一三〜一五、民数記一八・一五)
 というそれぞれ異なる内容を指す三つの違ったヘブライ語の訳語として用いられている。イエスの言葉には、どういう状況で誰に支払われる身代金であるかは何も触れられていないので、この三つの中のどの意味で用いられているのかを決めることは困難である。状況が特定されていないこと、また、イエスはご自分の死をイザヤ書五三章の成就だと見ておられることから、この《リュトロン》という語は、(七十人訳では用いられていないが)イザヤ書五三章一〇節の「償いの献げ物」(《アーシャーム》の新共同訳)を指していると見るべきであろう。

 この身代金を修飾する句は、《アンティ》という前置詞の意味から、「多くの人の代価として」という意味にも、「多くの人に代わって」という意味にもなりうる。どちらの意味にとっても、《リュトロン》を「償いの献げ物」という広い意味に理解する以上、実質的には同じ内容になり、イザヤ書五三章で主の僕が「多くの人のために」苦しみを受けて砕かれると言われていることを指す句であると言える。「多くの人々」というのは、マルコ一四・二四の場合と同様、「すべての人々」という包括的な意味を表すときのセム語表現である。

 この身代金は誰に支払われるのかは、ここでは問題になっていない。神の前に負目のある人間が、赦され、受け入れられ、祝福にあずかるためには、贖いの供え物が必要なことは、イスラエルはその供儀の制度によって長年にわたってたたき込まれてきた。わざわざ言及するまでもなく、罪のための贖いの供え物は神に捧げられなければならないことは、イスラエルは熟知していたはずである。

 このように「身代金」の言葉全体は、最後の晩餐での言葉と共に、きわめて強くイザヤ書五三章の反響を響かせていると言える。イエスはこの一言で、イザヤ書五三章の「主の僕」の姿を指し示しておられるのである。


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