マルコ福音書講解

59 エリコの盲人


マルコ福音書 一〇章四六〜五二節

 46 さて、一行はエリコに来た。そして、イエスが弟子たちや大勢の群衆とエリコから出て行かれる時、テマイの子バルテマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。 47 彼はナザレのイエスが来ておられると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び始めた。 48 多くの人が彼を叱って黙らせようとしたが、彼はますます激しく「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫びつづけた。 49 イエスは立ち止まって、「彼を呼べ」と言われた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。 50 すると盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとに来た。 51 イエスは彼に答えて言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。すると盲人は言った、「先生、再び見えるようになることです」。 52 イエスは彼に言われた、「行け。あなたの信仰があなたを救った」。するとただちに、彼は見えるようになり、道を進まれるイエスに従った。



 ダビデの子イエス

 ガリラヤからの巡礼たちが、サマリヤを避けてヨルダン川の東側を通ってエルサレムに入ろうとするとき、その直前に、エルサレムの東二十キロほどにあるエリコを通ることになる。イエスの一行も「ヨルダンの向こう側」(一〇・一)からエルサレムに入ろうとして、エリコを通過される。イエスのエルサレムへの最後の旅も、いよいよ最終段階に達する。イエスを偉大な預言者とする大勢の群衆が、この方がエルサレムに入られると何か大いなる事が起こるのではないかという期待に興奮して、イエスを取り巻き、一緒に行進して行く。

 一行がエリコ出てエルサレムに向かおうとする時、道端に座って物乞いをしていた一人の盲人が、突然叫び出す。この盲人は「テマイの子バルテマイ」であると、名前まであげて紹介されている(バルはアラム語で息子の意味の語であるから、バル・テマイというアラム語名の説明のギリシャ語がそのまま残って、このような重なった形の呼び方になったのであろう)。普通、イエスの力ある業によって癒された人の名があげられることはない。この盲人の場合は、彼がその地域でよく知られていた人物で、彼の盲目が癒されたことは地域で大評判になっていたのであろう。それで、この出来事を語り伝える伝承においても、「あのテマイの子が見えるようになった」というような形で伝承されていたのを、マルコがそのまま用いたことが考えられる。あるいはさらに、福音書執筆当時この人物はまだ生存していたので、この驚くべき奇跡は直接本人から確かめることができることだという意図で、名前をあげた可能性もある。

 この盲人はイエスに向かって、「ダビデの子イエスよ」と呼びかけている。「ダビデの子」という称号は、当時のユダヤ人の間では、来るべきメシアを指す称号であった。先にペテロの告白のところで見たように、イエスはご自分を当時のユダヤ人たちが待ち望んでいるようなメシアではないことを示そうとされていたのであるから、ご自分から「ダビデの子」という称号を口にされたことはないし、ただ一回話題にされたときは、自分がダビデの子ではないことを示すためであった(一二・三五〜三七)。けれども、ユダヤ人が期待しているようなメシアではないが、約束された「来るべき者」であることは事実であるから、この盲人がイエスを「来るべき方」と信じて、素朴な信仰心から用いたこの称号を拒むことなく、彼の信仰の告白として受け入れられる。

 「多くの人が彼を叱って黙らせようとした」のは、イエスが沈黙を命じておられるのではないから、ここに「メシアの秘密」の動機を推察することは当たらない。これは、盲人の信仰の熱意を際だたせるために用いられた状況描写であろう。このような多数の人からの圧力にもかかわらず、この盲人はイエスに向かって助けを求めて叫び続けるのである。彼の信仰に応えて、イエスは彼を呼ばれる。それを聞いた彼は、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとに来た」。彼のこの姿に、彼の信仰が現れている。彼はイエスの招きの声に歓喜勇躍し、自分の持てるものを投げ捨て、ひたすらイエスだけを見つめて、イエスのもとに来るのである。

 「わたしに何をしてほしいのか」というイエスの問いに、彼は答える。「先生、再び見えるようになることです」。彼の答えの言葉に、彼の信仰が溢れている。盲人が見えるようになるということは、人間の力では不可能なことである。彼がそのようなことをイエスに願ったのは、イエスが神から来られた方であり、イエスの中に神の力が働いていると信じていたからである。イエスを預言者以上の方、神の終末的救済をもたらしてくださる方と信じていたからである。イエスは彼の信仰の言葉を受け止め、彼に言われる、「行け。あなたの信仰があなたを救った」。この時、イエスと盲人との間に太いパイプが通じ、イエスを通して神の霊の創造的な力が注がれる。「するとただちに、彼は見えるようになり、道を進まれるイエスに従った」。

 マルコは、イエスのエルサレムへの旅の最後に一人の盲人の癒しの記事を置いて、その福音書の第二部を締めくくる。それは、最後の時にいたるまで民を愛して、その救いの業をなされるイエスの姿を示すためであり、この第二の区分も「あなたの信仰があなたを救った」という福音の告知の言葉で締めくくるためであろう。


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