マルコ福音書講解

 82 ペテロの否認の予言



マルコ福音書 一四章 二六〜三一節

 26 それから一同は賛美を歌い、オリーヴ山へ出かけた。 27 イエスは弟子たちに言われた、「あなたがたは皆つまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる』と書かれているからである。 28 しかし、わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」。 29 するとペテロがイエスに言った、「たとえ皆がつまずいても、わたしはつまずきません」。 30 そこでイエスは彼に言われた、「よくあなたに言っておくが、今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そのあなたが三度わたしを否認する」。 31 ペテロは力をこめて繰り返して言った、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」。みんなの者も同じように言った。

 弟子の躓き

 過越の食事の後には「ハレル詩編」の後半(詩編一一五〜一一八編)が歌われることになっていた。イエスと弟子たちの一行は最後にこのハレル詩編を歌って食事を終え、市街を出てキデロンの谷を通り、オリーヴ山に向かって行った(二六節)。

 イスラエルの民は過越の食事をした夜はエルサレムで過ごさなければならないのである。それは過越について書かれている律法の規定を守るためである。そこにはこう書かれている。

 「夕方、太陽の沈むころ、あなたがエジプトを出た時刻に過越のいけにえを屠りなさい。それをあなたの神、主が選ばれる場所で煮て食べ、翌朝自分の天幕に帰りなさい」。

(申命記 一六章六〜七節)

 その当時、巡礼者の数が多くてエルサレム市街地だけでは泊まれないので、周辺の地域もエルサレムと見なされるようになっており、市街の東にあるキドロンの谷や、その谷の向こう側のオリーヴ山西側斜面(そこにゲッセマネがある)もそれに含まれていたのである。  イエスがその夜、それまでのようにベタニアに引き揚げないでエルサレムにとどまられたのは、この祭の規定を守るためだけのものではない。それ以上に、迫っている死に対するイエスの覚悟を示す行為である。すでにユダはイエスを引き渡そうとして祭司長たちのところに走っていることをイエスは知っておられる。もし逮捕を免れようとするならば、夜陰にまぎれて遠くへ逃げることもできる。しかし、イエスはあえて祭司長たちの権力が容易に及ぶエルサレムにとどまられる。それは神の定めから逃げようとされないイエスの覚悟を示す行為であると言える。
 
 その道の途上で、あらためてイエスはご自分の死を予告し、その死に直面して弟子たちがみなイエスを見捨てることを予告される(二七節)。イエスは「あなたがたは皆つまずく」と言われる。「つまずく」というのは歩いている者が石などにつまずいて倒れることであり、この場合、イエスの死の意味を理解できず、失望と恐れからイエスと一緒に歩もうとする心を失い、イエスを見捨て、イエスから離反することを指している。そのことをイエスは「わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散らされる」という預言者の言葉を用いて語られる。
 
 ここに引用されているのは、ゼカリア書一三章七節の中の「羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」という一句をすこし言い換えた形である。「撃て」という命令形は七十人訳ギリシャ語聖書でも同じであるから、「わたしは打つであろう」という形への変形は、七十人訳聖書を正典として用いていた初代教団での伝承の過程で起こったのではないであろう。イエスご自身がこの預言をご自分の場合に適用するために言い換えられたと考えられる。イエスは字句の表面にとらわれずに聖書全体の語るところを聴いておられたことが、ここからもうかがわれる。そして、この言い換えられた形はイエスの死が神の定めたもうところであるという福音の核心(ガラテヤ一・四参照)をよく表現している。

 先立ってガリラヤへ

 イエスが受難と死の後に復活を見ておられたことは、すでにエルサレムに上る途上で繰り返し語られた受難予告の言葉でも明かである。いま死を目前にして弟子たちの離反を予告されるのであるが、イエスご自身が死の中に放置されないで復活されるとき、弟子たちもつまずき倒れ離反したまま放置されないで、復活されたイエスによって再び集められ導かれることが予言される。イエスは羊の群れが散らされることを語られた後すぐに続けて言われる。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたに先だってガリラヤに行く」(二八節)。

 ここに用いられている「先だって行く」という動詞は、先頭に立って(群れを)導いて行くという意味(一〇・三二の用法)と、先に行っていて後から来る者を待っているという意味(六・四五の用法)とがある。この動詞は、空の墓で天使が女たちに語った「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(一六・七新共同訳)という重要な言葉の中でも用いられている。この天使の言葉では時間的に先に行っているという意味でマルコはこの動詞を用いているのであるから、「かねて言われたとおり」として言及されたいるここでのイエスの予告の言葉もこの意味に理解すべきであろう。しかし、ここでは撃たれる羊飼いと散らされる羊の群れのイメージの中で用いられているのであるから、復活されたイエスが羊飼いのように群れの先頭に立って導いて行かれる姿が聴く者を圧倒する。イエスの死にさいして、イエスにつまずき、師を見捨て、散りじりになって逃亡した弟子たちは、復活されたイエスによって再び集められ、立ち上がらされ、導かれるようになることが約束される。イエスの死後の弟子団の存立はただこの約束の上に立つことになる。福音信仰は人間のすべての理解や能力や努力が挫折する地点で、復活の主の真実と働きによって成立する。
 
 ところでマルコ福音書では、この約束は復活されたイエスが弟子たちを導かれるという一般的な意味だけではなく、「ガリラヤへ」行くと目的地が特定されていることが重要である。ここでのイエスの予告の言葉でも空の墓での天使の言葉でも、「ガリラヤへ」が中心的な位置を占めている。このことはマルコ福音書の性格を理解する上できわめて重要な意義をもっているのであるが、それについては福音書の結びの箇所(一六章一〜八節)の講解で改めて触れることにする。

 人間の決意と信仰

 「あなたがたは皆つまずく」というイエスの予告に対して、ペテロが抗議する。「たとえ皆がつまずいても、わたしはつまずきません」(二九節)。大変な自信である。ペテロは師イエスに対する自分の忠誠心にいささかも疑念を持っていない。どんな状況になっても忠誠心を貫く力が自分にはあるという確信に溢れている。このような自信は人間社会の中ではその人のアイデンティティとか人格の尊厳の要素であり大切なものであろうが、信仰の次元では決して神との関わりの土台にはなりえないものである。普通このような忠誠心とか確信や意志の強さが信仰であるかのように考えられているが、まったく逆である。信仰とはこのような自信が崩壊して人間が自己の能力や資格が無になってしまう場において初めて成立する。ペテロはすぐにこのことを体験することになる。

 そこでイエスはペテロに言われた、「よくあなたに言っておくが、今日、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そのあなたが三度わたしを否認する」(三〇節)。「否認する」というのは「(知っている者を)知らないと言う」ことである。全然関わりのない者を「知らない」というのは「否認する」ことではない。その人との関わりがあることを恥じて、その人との関わりを否定することである。それは「(関わりを)言い表す」とか「告白する」の反対である。この反対の二つの動詞はルカ福音書一二章八〜九節(新共同訳)では「知らないと言う」と「仲間であると言い表す」という形で表現されている。マルコもさきに、イエスを否認することは終末の救いを失うことであると、その重大さを警告している(八・三八)。その重大な否認を三度も繰り返すというのである。それも「今日、今夜」、「わたしだけはつまずきません」と言ったその舌の根の乾かぬうちにである。夜明けににわとりが鳴くとき、一度きりで終るのではない。何回も繰り返して鳴くものである。そのにわとりが二度目に鳴くまでの短い間に、三度までも繰り返して否認するというのである。これはペテロの自信の崩壊の急激さと徹底さをよく表現している。信仰の事態に対する無知からくるペテロの自信に対して、イエスはいかなる人間の忠誠心も内面的な力もこれから臨もうとしている試練に耐えうるものでないこと、また人間の側の土台が崩壊した後はじめて死者を復活させる神の力によって信仰が成立することをご存じなのである。
 
 このイエスの言葉に対して、ペテロは力をこめて繰り返して言った、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」(三一節)。ペテロの自信はさらに一段と勇ましい言葉で表現される。イエスの仲間であることを言い表したために、イエスと一緒に死ぬことになってもよいという決意の表明である。それに対してイエスはもはや何も言われない。やがてすぐにペテロ自身がその決意がいかに脆いものかを身をもって知るようになることをご存じなのである。
 
 ペテロだけでなく、「みんなの者も同じように言った」(三一節)。しかし、イエスを裏切ったユダを除く十一人の弟子たちもその全員が、イエスの逮捕のときイエスを見捨て、イエスの処刑のあと危険なエルサレムを去りガリラヤへ逃亡したのである。この事実は、十一人の弟子たちにとっても復活後の教団にとっても名誉なことではなかった。ところが、イエスはそうなることを予め知っておられた。すなわち、このような出来事もすべて神の定めたもうところであると、この段落は語るのである。こうして、不名誉な人間の挫折も神の大きな救済計画の中に取り入れられる。


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