マルコ福音書講解

 86 ペテロの否認



マルコ福音書 一四章 六六〜七二節

 66 ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の召使の女が一人来て、 67 ペテロが火にあたっているのを見つけ、彼をじっと見つめて言った、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」。 68 ところが、ペテロはそれを否定して、「知らない。お前が言っていることは何のことだか分からない」と言って、外庭へ出て行った。[すると鶏が鳴いた。]  69 そこでも先の召使の女が彼を見つけ、またもや回りの人々に「この人は彼らの仲間です」と言い始めた。 70 ところがペテロは再びそれを否定した。しばらくしてまた、回りの人たちがペテロに言った、「お前はたしかに彼らの仲間だ。お前もガリラヤ出だから」。 71 ところがペテロは、嘘なら呪われてもよいと言い始め、誓って言った、「あなたがたが話しているそんな男をわたしは知らない」。 72 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」とイエスが彼に言われた言葉を思いだし、うち砕かれて泣き続けた。

 ナザレ派の分派

 イエスが大祭司の前で決定的な告白をされている時、ペテロは大祭司の屋敷の庭で一人の召使の女に問いつめられてイエスを否認している。マルコはこの告白と否認を劇的な構成で一つの物語にまとめて、信仰にとっての重大な使信をじつに印象深い仕方で語る(NTDは五三節から七二節までを一つの段落にまとめ、「イエスの告白とペテロの否認」という標題をつけている)。

 ペテロは下で中庭にいたが、大祭司の召使の女が一人来て、ペテロが火にあたっているのを見つけ、彼をじっと見つめて言った、「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」(六六〜六七節)

 初代のユダヤ人キリスト教徒は、正統派のユダヤ人からは《ナゾライオイ》(ナゾレ派、ナゾレ人)と呼ばれて異端の扱いを受けていたことが知られている(使徒二四・五、シェモネ・エスレ第十二祈願)。この名は新共同訳では「ナザレ人の分派」と訳されている。この呼び方の起源は明かではない。ここでの召使の女の言葉は、「あなたもあのナザレ人と一緒だった」となっていて、後で付け足したように「イエス」という名が加えられている。この召使の女の問いただすような言葉使いの背後には、「おまえもナザレ派の者か」と会堂で問いつめられて苦悩した初期のユダヤ人キリスト教徒の状況が重なっている。この踏み絵的な状況に置かれているユダヤ人信徒にとって、ペテロの否認の物語は意味深い出来事であり、彼らの間で大切に語り伝えられ、大きな慰めと励ましとなったことであろう。そして今、その歴史的状況を超えて、すべてイエスを信じる者にとって信仰の本質を語る重要な物語となっている。

 三度の否認

 ところが、ペテロはそれを否定して、「知らない。お前が言っていることは何のことだか分からない」と言って、外庭へ出て行った。[すると鶏が鳴いた。](六八節)

 ペテロはイエスと寝食を共にして教えを受けてきた弟子である。イエスを信頼する心は深く、イエスに従おうとする決意は堅い人物である。その決意をつい先刻、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」と明言したばかりである。そのイエスを「知らない」と言って否認するのである。これは、イエスが「この反逆する罪深い時代において、わたしとわたしの言葉とを恥じて拒む者は、人の子もまた、父の栄光の中に聖なる御使いと共に来る時、その人を恥じて拒む」(マルコ八・三八)と言われた時の、「わたしとわたしの言葉とを恥じて拒む者」の典型である。

 これは裁判の席ではない。夜の暗闇の中で、ペテロは一人の召使いの女と対面しているだけである。その状況で女から問われて、あの堅い決意のペテロが思わず否認してしまう。どうしてそんなことになったのか、ペテロ自身にも分からなかったことであろう。

 そこでも先の召使の女が彼を見つけ、またもや回りの人々に「この人は彼らの仲間です」と言い始めた。ところがペテロは再びそれを否定した。(六九節〜七〇節a)

 召使いの女の顔を逃れて、中庭から外庭に出て行くと、そこでまたその女がペテロを見つける。今度は回りの人々に、ペテロが「彼らの仲間だ」と言い始める。この「彼らの仲間」という言い方にも、「ナザレ派」という呼び方の反響が聞こえる。ペテロは再び否認する。

 しばらくしてまた、回りの人たちがペテロに言った、「お前はたしかに彼らの仲間だ。お前もガリラヤ出だから」(七〇節b)

 今度は回りの人々がペテロを問いつめる。ペテロがガリラヤ出身であることは、ペテロの言葉のガリラヤ訛りから分かったようである(マタイ二六・七三)。「回りの人々」はほとんどエルサレムの住民であるから、ペテロのガリラヤ訛りはすぐ分かったのであろう。ガリラヤでのイエスの活動はエルサレムでも評判になっており、エルサレムの住民から見れば、ガリラヤの人間はイエスの運動に荷担する仲間であって当然という見方があったと考えられる。「ナザレ派」は、エルサレムの正統派ユダヤ教から見れば、ガリラヤの異端運動であった。

 ところがペテロは、嘘なら呪われてもよいと言い始め、誓って言った、「あなたがたが話しているそんな男をわたしは知らない」(七一節)

 ペテロはイエスの名を口にすることさえ恐れ、また自分が無関係であることを強調しようとして、「あなたがたが話しているそんな男」と呼んでいる。そして、「そんな男をわたしは知らない」と、誓いを立てて断言する。初め召使いの女から問いつめられた時は、思わず「知らない」と言ったのであろうが、三度までイエスを否認し、しかも誓いをもって知らないと言ったのであるから、動転したからとか、魔がさしたというような言い訳は通らない。ペテロは全人格をもって否認の責任を負わなければならない。

 するとすぐ、鶏が二度目に鳴いた。ペテロは「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」とイエスが彼に言われた言葉を思いだし、うち砕かれて泣き続けた(七二節)

 夜明けに鶏が鳴くときは、立て続けに鳴くものである。したがって「鶏が二度鳴く前に」というのは、「ごく短い時間に」の意味になる。「三度」は動作が徹底的であることを示す。イエスの予告の言葉は、鶏が鳴く夜明け前に、弟子たちがイエスを徹底的に激しく否認することを、イエス独自の表現で語られたものである。ペテロがおそらく涙をもって告白したこの否認の出来事は、イエスのこの予告の言葉を核として劇的に構成されて、この物語となったのであろう。伝承あるいは福音書記者は、イエスの予告の言葉が文字どおりに実現したことを強調するために、最初の否認のときに「鶏が鳴いた」を入れ(六八節、有力な写本でこれを欠くものがある)、最後の否認のさい鶏が鳴いたことに「二度目に」の句をつけている(七二節、この句を欠く写本もある)。

 鶏が鳴くのを聞いたペテロは、イエスの言葉を思い起こし、「うち砕かれて泣き続けた」。「うち砕かれて」と訳した語にはさまざまな訳が提案されているが、本来「(身を)投げ出す」という意味の動詞であるから、この場面でのペテロの姿をもっともよく表現すると考えてこの訳語を用いた(NRSVも「ブレイク・ダウン」という動詞を当てている)。
 


 うち砕かれて

 このように、初代の教団を代表する大使徒ペテロが三度までイエスを否認したことが、受難物語の一部分として語り伝えられ、福音書に記録されるようになった事実は意味深い。普通、どのような集団も指導的人物の弱さや失敗は隠そうとするものである。ところが、教団は、師に対する裏切りといってよいほど深刻なペテロの否認の行為を、語り伝え、書きとどめている。おそらく、この出来事はペテロ自身が繰り返し語ったのであろう。それは、この時のペテロの姿によって、信仰とは何かについてきわめて大切なことを語りたいからである。

 イエスは最後の晩餐の後、ゲッセマネへ向かう途中で、弟子たちのつまずきを予告された。その時ペテロは、「たとえあなたと一緒に死なねばならないとしても、決してあなたを否認しません」と言っている(マルコ一四・三一)。そのペテロが、舌の根も乾かぬうちに、「そんな男は知らない」と言って、三度までイエスを否認するのである。この事実は、いかに堅い決意をもってしても、人間の決意や意志の力でイエスに従うことはできない、ということを示している。
 
 もし信仰が人間の決意や意志の力によってイエスに従うことを意味するのであれば、それは不可能事である。この時のペテロの姿がそれを示している。ペテロは直接イエスに教えられ、イエスの力ある業を見、自らもイエスの名によって不思議な業をなした弟子の筆頭である。彼の激しい性格と、イエスと一緒に死ぬことになってもよいという堅い決意が本物であることを疑う理由はない。そのペテロがこのようにイエスを否認してしまうのである。いったい誰がイエスに従うことができるのか。
 
 この物語を語り伝えた教団は、ペテロが復活されたイエスの顕現に接し、聖霊の力を受けて福音を宣べ伝え、投獄や脅迫にひるむことなく、命がけで信徒の群れを導いたことを知っている。おそらく、福音書が書かれた時点では、ペテロが殉教したことも知っているであろう。このペテロはもはやあのペテロではない。このペテロはあのペテロが「打ち砕かれた」ところに生まれた別のペテロである。この新しいペテロの存在は、ペテロの側には何の根拠もなく、ただ神の側の恩恵と真実によるのである。この事実は一人ペテロに与えられた特別の恩恵を示すだけではない。広く信仰の本質を告げ示す出来事である。
 
 信仰とは、このペテロの場合に見られるように、生まれながらの人間の力が打ち砕かれたところに、恩恵として上から与えられる神の力によって成立する、神と人との新しい関わり方である。人が神との関わりにおいて少しでも自分の能力とか、道徳的価値とか、内面的な誠意とかを拠り所としているかぎり、そのような信仰は必ず挫折する。その挫折の場で、われわれは自分の道徳的価値はもちろん、キリストへの忠誠というような自分が信仰だと思っていたものまでも否定されて、完全に自分が打ち砕かれ、神の無条件の恩恵と、自分が不信実であっても信実でありたもう神の絶対の信実に自己の存在を委ねるときに初めて、われわれは神との本来の関わりの場に入ることができるのである。このように、自分の信仰にさえ絶して、神の信実だけを拠り所とする質の信仰を「絶信の信」と呼んでいるが、ここのペテロの姿はこの「絶信の信」の消息を物語るものである。


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