ロマ書による「新しい人間」 第一講

 信仰によって生きる人間




 人間の問題

 わたしたち人間はじつに多くのことを理解し、知るに至ったけれども、人間自身、自分自身については解らないことばかりである。人間にとって人間が最大の謎であることは、古来人間が感じていたことであって、有名なスフィンクスの謎の話しにも示されている。この人間というものの謎はさまざまな形で語られてきた。古代の人は現代の発達した時代から比べると無知であったかというと、こと人間の理解に関する限り決してそうではない。それを述べる仕方は、現代の厳密な概念を用いた科学的な描写という点から見ると、確かに古代の表現は素朴であるが、非常に人間の本質をついた描写をしている。いちばん古い形には神話がある。神話というのは神々のことを語っているようであるが、じつは人間自身の姿を神々の姿に託して語っているのである。この神話を手掛りにして、古代人の人間理解というものを知ることができる。この神話からいろいろの違った描写の仕方が発達してきたのである。

 人間の心ほど解りにくいものはないと思われるが、最近は科学が発達して、いろいろな方向から光を当て、また意識の下にある心の姿、深層心理にもそれは及んでいる。しかし何と言っても昔から人間をいちばん深く把握し、人々に教えてきたのは宗教である。宗教はギリシャの文化の中で哲学という形をとったが、その哲学も含めて人類が産み出した多くの宗教は、人々に人間とはこういうものだということを教えてきた。

 古来どの民族もそれぞれの宗教をもってその中で人間の理解を教えられてきたが、わたしたちは聖書を与えられ、聖書こそ見えないまことの神が人類に与えて下さった啓示であると信じている。だから、わたしたちが人間を考える際のよりどころは聖書しかない。では聖書は一体人間の姿をどう描写しているのか。今回は聖書という光に照らし出された人間の姿を学んでみたい。

 聖書は神を啓示する書であると言われるが、神が人間から離れて抽象的に、天空に存在する方として示されているというのでは決してなく、あくまでも人間との関わりの中で示されている。具体的な人間の姿と歴史の描写を通して、その中に働かれる神、人間の目には見えない神が示される。そして、神は主イエス・キリストの福音という音信を通して人間に働きかけ、その働きかけの中でご自身を最終的に啓示されたのである。

 聖書というのはいろいろな性格、方面があって、聖書を識らないときは、それは何か神様が口移しに語られた言葉をそのまま書き留めた書ではないかと思っていたが、ひとたび聖書に接すると、聖書は極めて人間的な側面をもっているということが解る。今回は旧約聖書の中の「伝道の書」を少し見ていきたい。これは旧約聖書の中でもかなり後期、いちばん最後の時期に書かれたものであって、具体的に言うとヘレニズム文明が地中海世界を覆っていた時代、イスラエルがギリシャ文明の影響のもとにあった時代で、イスラエルの人々もギリシャ的な知恵をもって考え始めていた時代の書である。ここには当時のギリシャ人の知恵というものが色濃く反映している。ということは、たしかにイスラエルの民は神様から特別に取り扱われてきた民で、特別な歴史をもっている民であるが、やはり他の民族と全く同じ人間として自分の姿を見たとき、彼らはその目にどのような姿の人間を見ているのだろうか。それは「伝道の書」の中によくでている。その初めの部分を引用する。

 伝道者は言う、
 空の空、空の空、いっさいは空である。
 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるか。
 世は去り、世はきたる。
 しかし地は永遠に変わらない。
 日はいで、日は没し、
 その出た所に急ぎ行く。
 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
 めぐりめぐって、またそのめぐる所に帰る。
 川はみな、海に流れ入る、
 しかし海は満ちることがない。
 川はその出てきた所にまた帰って行く。
 すべての事は人をうみ疲れさせる、
 人はこれを言いつくすことができない。
 目は見ることに飽きることがなく、
 耳は聞くことに満足することがない。
 先にあったことは、また後にもある、
 先になされたことは、また後にもなされる。
 日の下には新しいものはない。
 「見よ、これは新しいものだ」と
 言われるものがあるか、
 それはわれわれの前にあった世々に、
 すでにあったものである。
 前の者のことは覚えられることがない。
 また、きたるべき後の者のことも、
 後に起こる者はこれを覚えることがない。

(伝道の書一・二〜一一)

 伝道者と呼ばれる人は、エルサレムでイスラエルの王であったので、人間のなすわざをすべて見尽くしてきた。ソロモン王であろうと言われているが、著者が誰であれ、人間の知恵としては最高の賜を与えられた知恵深い人物で、この世で行われるすべてのことを観察してきた。その結果はどうであったかというと、形は変わっても昔も今も結局人間の姿は同じだ、日の下に何ら新しいものはあり得ないのだ、だから一切は無意味な、限りない繰り返しだ、一切は空しい、という結論に達している。わたくしは最近新聞で歌人が万葉集について解説しているのを見て、生活の苦労や仕事の苦労、恋の悩みなどわれわれと同じようなことを感じ、やっていたことを知った。万葉の時代は今と比べると生活環境などずいぶんと違っているが、それにもかかわらず人間がしていることは変わらないのである。それを見て、何千年も前にイスラエルの智者が「伝道の書」に言ったことはやはり真理だということを感じたのである。

 現代は何でも新しければよいようで、新しいということが人々の興味をひいて、どんどん新しいものが出てくる時代であるが、人間の本質は全く新しくなってはいない。これは新しいものだと断言できるものはないというのが、イスラエルの賢者の結論であり、またわれわれも歳を経るに従い、人生の知恵を身につけるにつれて、そう結論せざるを得ない。わたくしも歳とともにそういう実感を深くするものである。若いときは未知なものがたくさんあって、世の中は新しいもので満ちているような気がして生きていたが、歳を重ねるに従って、人間とは結局こういうもんだ、なんにも変わらないし、新しいものなんかないんだとつくづく思う。もしこの福音という新しい事態がなかったら、人生これほど無意味で退屈なものはない。「伝道の書」の言うことがほんとうに実感となる。その方向にだけ進んでいくならば、ニヒリズムに陥り、自ら生命を断ってしまうというところまで行きかねない。人間の姿を深く見つめ、理解すればするほどそういうところに行きかねない空しさが人生の姿である。

 新しいアイオーン

 そういう世界にキリストの福音が宣べ伝えられているのである。新約聖書全体がこの福音を提示しているのであるが、パウロが書いたロマ書が、この福音を最も明確な形で示す貴重な書物である。今回はこのロマ書(一〜八章)によって、新しい光に照らし出され、新しい姿に変えられた人間を見ていきたい。

「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから−−この福音は、神が預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、御子に関するものである。御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである」。

(ロマ書一・一〜四)

 福音というのは主イエス・キリストというかたを伝える音信である。パウロはこの音信を伝えるために選び別たれた僕であると自己紹介をしている。人間の新しい考えや理論が生まれたというのではなく、じつにイスラエル民族の中に、ダビデ王家の子孫として一人のイエスという方がお生れになって、地上で具体的な人生を送られた。その方が復活することによって、人類に対する神の支配をうちたてる方として定められた、という具体的なできごとを福音は宣べ伝えるのである。特に、復活により神の子キリストとして立てられたこと、それはまさに人類の歴史の中で「新しいこと」である。

 死人が復活するということは真実の意味で新しいことなのである。しばしばキリストという御名が、言わば固有名詞のようになってしまって(これは最近始まったことではなく、使徒たちの時代にすでにそういう傾向があったようであるが)、まるでソクラテスや釈迦やマホメットと並んで、イエス・キリストという名の人物がこの地上におられて、その方の教えが尊い教えであるのだと理解されている。しかし本来聖書においては、キリストというのは復活された方を指す称号である。具体的にわれわれと同じ人間の姿をとって生きられたイエスが、キリストとして、すなわち復活された方として今も生きておられる、この方こそ主(キュリオス)であり、全世界の支配者である。この事実は人類の歴史にとって全く新しいことなのである。それがどのような意味で新しいかということをパウロの手紙から引用してみよう。

「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである」。

(コリント前書一五・二〇)

 始めの「しかし事実」という言葉はパウロが好んで使う大事な言葉であるが、他のところではたいてい「しかるに今や」と訳されている。ここでは前後の関係から「しかし事実」と訳されているが、この訳は、その報知は偽りでなく事実であると主張しているように見える。しかしパウロのいう意味はそうではなく、「今や」という語が示しているように、時の流れの中に起こったある決定的な転換を指す句なのである。今や新しいことが起こったのだということを示す表現であり、このことは今回繰り返して述べておきたいことである。この「しかるに今や」という表現は、パウロはとてもよく使い、非常に大事な意味合いをもった言葉である。

 「しかるに今や」という表現をパウロが使う背景には、じつは二つの世(これをギリシャ語でアイオ−ンという)、二つのアイオ−ンの考え方がある。「アイオ−ン」とは世、あるいは時代と言ったほうがよいかもしれない。これは当時のユダヤ教の世界において常識となっていた世界の見方である。それによると、神は一つのアイオ−ンを造られたのではなく、二つのアイオ−ン、二つの世を造られたというのである。パウロの時代は、ダニエル書のような黙示文書が多く流布していて、皆終わりの時が近いということを信じて生きていたのである。そういう信仰の考えの基本的な枠組みの中に、二つのアイオ−ンという理解がある。すなわち、今は神の民が神に敵対する勢力に圧迫されて苦しめられている悪しき世である、しかしこのような時代がいつまでも続くのではない、神は必ず直接この歴史に介入して、驚くべき業をなし、神に敵対する勢力を打ち滅ぼし、神の民を栄光のうちにあげて下さる時がくる、即ち一種の革命が起こり、神が直接支配される新しい世が来る、こういう待望をもって人々は生きていたのである。

 当時のユダヤ教において、新しいアイオ−ンが来る時にどんなことが起こるのかについてさまざまな意見があった。一体どのような人物が世界に新しいアイオ−ンをもたらすのであろうかという点についてもさまざまな違った考え方があった。しかし、今の時代は必ず移り、神御自身が新しい支配を打ち立てられるときがくるという点は共通であった。パウロが「しかるに今や」という言葉を使うとき、このアイオ−ンの転換、新しいアイオ−ンの到来を告知しているのである。その中で「キリストが眠っている者の初穂として死人の中から復活された」こと、この出来事が新しいアイオ−ンを始める出来事であると宣べ伝えているのである。

 新しいアイオ−ンが到来するとき何が起こるかについては、すでに当時のユダヤ教においては、死者が復活するということはもはや正統信仰になっていた。死者の復活と言っても、もちろんこれは神に属する者、イスラエルの民として神に選ばれ、神の民として律法に忠実であり、神に忠誠を尽くしている民が死者の中から復活するということが信じられていた(ヨハネ一一・二四)。そのような世界に、福音はその日が到来したことを宣べ伝えるのである。イエスが死人のうちから復活されたとき、じつは終わりの日、新しいアイオ−ンが始まるときに実現するはずのあの死者の復活が始まったのだ、イエスの復活は多くの神の民の復活の初穂である、と宣べ伝えられたのである。だから、イエスが復活されたとき、すでに新しい時代が始まったのである。復活されることにより、イエスはキリストとなり、新しいアイオ−ンを導き入れる方となられた。

 アダムとキリスト

「それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない」。

(コリント前書一五・二一)

 「死がひとりのひとによってきた」というのは、アダムのことを指しているのは明白である。アダムという最初に造られた人間が神に背いたのである。そしてその罪の故に死が入ってきた。このひとりの人アダムを通して死が人類に入って、すべての人が死ぬようになった。人類に普遍的な死の現実を聖書(創世記)がこのように記しているのは、死人が復活するという出来事もひとりの人を通してくるという終末的事態を、あらかじめ「型」として示すためであった。たしかに復活されたのはイエスおひとりである。しかしイエスおひとりが復活されたということは、新しいアイオ−ンが始まったということ、即ち、死人が復活するという事態が始まったということである。ひとりの人の復活によって、死者たちの復活がこの世に始まったということであり、ちょうどそれは、死がこの世に入ってきたのと対をなす形である。イエスが復活されるまでは、アダムから始まった古いアイオ−ンはずっと続いていたが、そのただ中に、イエスが復活されることによって新しいアイオ−ンが突入してきたのである。だからパウロが、イエスが復活されたということを福音の核心として宣べ伝えるときに、それは単に世界の中にとても不思議な奇跡が起こったのだということではなくて、この新しいアイオ−ンが来ていることを伝えようとしているのである。日の下に何ら新しいものはないと、延々と続いて来ざるを得なかった旧い旧い人間性の中に、死人の中から復活するという新しい質が始まったのである。

「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」。

(コリント前書十五・二十二)

 この死ぬとか生きるということはどういうことであるかを、ロ−マ書に導かれてすこし詳しく述べてみたい。ここでアダムという名前の前に定冠詞が付いている。これは普通の個人名には付けないものである。ここでアダムとキリストに定冠詞が付いているということは、人類全体を代表するものとして扱われているからである。アダムというのは人という意味で、人に定冠詞が付いたら、まさに人類そのものという意味である。人類そのものを代表する人が二人いるのである。アダムと呼んでいる代表者とキリストと呼んでいる代表者である。アダムと呼んでいる代表者は旧いアイオ−ンにおける人間を代表するもので、キリストと呼んでいる方は新しいアイオ−ンの代表者である。だからキリストは「終わりのアダム」とも呼ばれる。わたしたちが聖書の光りに照らされて人間を理解しようとするときに、この二人の代表者アダムとキリストは基本的な枠組みとなる。

 これらは確かにパウロの言っていることであるが、わたしたちは何もパウロの思想を勉強しようとしているのではない。わたしたちは具体的に生身の人間として、本当に神のもとに生きる道はどこにあるのかを探しているのであって、生きるか死ぬかの真剣な問題なのである。偽りの道を歩んで死に至るのか、生命の道を歩んで永遠の生命に至るのか、わたしたちは自分で選ぶように、このように福音を与えられている。この生命の世界、これはキリストにある。わたしたちは集会に行ったり、パウロの言葉を学んだりしているが、それはできるだけ的確に生命の道を歩み、永遠の生命に至りたいからである。

「死人の復活もまた同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。聖書に『最初の人アダムは生きたものとなった』と書いてあるとおりである。しかし最初のアダムは生命を与える霊となった」。

(コリント前書一五・四二〜四五)

 イエスが復活されたように、死者は復活する。そのときどんなからだをして復活するのか考えられないという反論が起こるので、パウロはこのように答えたのである。われわれは今は卑しいもの、朽ちるものでまかれているけれども、ちょうど植物の種という形で生命を与えられているものが、地に落ちて死んでから新しいからだが出て来るように、われわれが死んだあと、朽ちた後に、神はみ心のままに、御霊の生命にふさわしい、朽ちない栄光のからだを与えてくださるのである。パウロはそれを「霊のからだ」と言っている。最初の人アダムは土から造られた。そしてそのからだに神の息が吹き入れられることによって、生ける魂となった。ところがキリストは復活されることによって霊体を与えられた。キリストは彼につながる者すべてに、生命を与えることができるような、栄光の霊にふさわしいからだを神様から与えられた。それが復活である。

「最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである」。

(コリント前書一五・四六)

 当時のユダヤ教の、終末を待ち望む人々の間ではこういう思想が有力であった。原人というか、いちばんもとになる人間が天界にいて、それが地上に下って今のような人間の姿をとったという考え方である。それに対してパウロはそうではなくて逆だ、初めに来るのは地に属する者アダムであり、後に来るのは天に属する人キリストであるのだと主張した。

「第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう」。

(コリント前書一五・四七〜四九)

 今わたしたちは土に属する形をとっている。これは朽ち果てる弱いからだを着ている人間の姿のことである。ところが天に属する形というのは、復活されたイエスがそうであったように、霊のからだを与えられた人間の姿である。われわれもまた、キリストに属する者はその形をとるであろう、と述べている。神の前にある人間は、アダムに属するか、キリストに属するか、その所属する頭(かしら)によって、その人の姿や行く先が決まるのである。わたしも最近になって、キリストのこのような意義というか、復活者キリストがアダムに対して終わりの人間そのものとして存在し、ここに人間の新しい姿があるんだということに目を開かれて、聖書が本当に新しくなった思いである。

 ここで一つ指摘しておきたい点は、アダムという場所とキリストという場所が別にあるのではない。地上の全人類がアダムにあるのであって、皆アダムと同じように土で造られ、神の息吹を与えられ、生ける魂となり、その魂が神に背いて死に陥っている。そういう人類の中にキリストという新しい人類の代表者が来られ、復活することによって、新しい時代を切り拓いて下さったのである。だからキリストにあるという場所は、アダムの外にあるのではなく、その中にあり、同心円のように重なっているのである。

 現実の人間はすべて「アダムにあって」古い人間性の中にいるのであるから、キリストを信じキリストに結びついて生きる者、すなわち「キリストにある」者は、この古い人間性の中に新しい霊のいのちを受けて生きることになる。ここに一種の二重性が生じる。生まれながらの古い人間性(これをパウロは「肉」と呼んでいる)と、上から賜る霊の生命が、一人の人間の中で関わることになり、人間の現実は複雑な様相を示すようになる。ロマ書においてパウロが現実の人間を語ろうとするとき、この二つの相を共に語らないではおれないのである。

 人間は信仰によって生きる

「わたしは福音を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に救を得させる神の力である。神の義は、その福音な中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」。

(ロマ書一・一六〜一七)

 福音はキリストの出来事を宣べ伝える言葉であるが、この言葉はその背後に神の力、神の信実をもっている。この言葉を本当に信じ受け入れる者には、その背後にある力が働き、その人を救いに至らせるのである。これはどこの国のどのような人であってもかまわない。ただこの福音を信じることによって、その背後にある神の信実が誠実に働きかけ、神の力をもって救いに至らせる。それはこの福音の中にこそ、信じる者を義とする神の働きがあるからである。

「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される」。

(ロマ書一・一八)

 全ての人間が神の怒りのもとにあるということをパウロはまず明らかにしている。人間はキリストの光りに照らし出されなければ、自分が神の怒りのもとにあるということを知らないままで、神の怒りのもとにいるのである。わたしたちは神の怒りのもとにありながら、それを知ることができないのである。それが人間として当たり前の姿だと思っている。ひとたびパウロのようにキリストの光りを受けて、その光りのなかに人間というものを見ると、どのような人間も皆、生まれながらの人間である限り例外なく、神の怒りのもとにあるのだということが見えてくる。

 神の怒りというのは、人間に対する神の否定、神の「ノ−」である。神は生まれながらの人間を受け入れることができないのである。なぜか、これはパウロが異邦人とユダヤ人に分けて説明している。異邦人も人間である以上、自分を造った方に対する感覚というのは本来あるはずであるが、自分を造った方を神として崇めることをしないで、人間の手で作った偶像や、地を這う獣などに置き換えてしまっている。人間がどうして狐とか蛇とかを神として拝んでいるのか不思議であるが、真面目に、これこそ人間を救う神様だとして拝んでいて、それを不自然なことだとも思わなくなってしまっている。これを福音の光りに照らし出された目で見ると、まことに何と言うか、むかつくような、人間の転倒した姿である。だから神は人間を正しからざることに引き渡してしまわれたのである。

 その中でユダヤ人だけは、「われわれは偶像を拝んでいない、われわれはまことの神を拝んでいる」という主張をすることができる民族であったが、そのユダヤ人がまことの神を示され、その神から律法を与えられていながら、またその民であることを誇りとしながらも律法を犯している。ユダヤ人は律法を与えられているがゆえに、律法を犯すという形で神に背いているものであることを述べている。こうしてパウロは、義人はいない、ひとりもいない、すべての人は罪の支配のもとにあると結論している。

 人間がどのような立派な宗教をもっていても、またもっていなくても、人間がアダムにある限り、生まれながらの人間としてある限り、人間はまことの神と、正しい本来の関わりの中に生きていくことはできないものであるということを、パウロはユダヤ人と異邦人に分けて、その罪の姿をかなり具体的に描写している。最近、異邦人の罪の問題を研究会で学んでいて、パウロが述べている罪の目録の短い一つ一つの言葉を、どういう日本語に翻訳したらよいかを討論していて、現代のこの世の中にぴったり同じようなことがいっぱい実現しているということを実感した。またキリスト教界の現況を見るときに、パウロがユダヤ人に関して述べたことがそのままあてはまるケースが多く見られるのである。とにかく人間が復活の新しい生命の次元を識らないままだと、どんな立派な思想で、どんな立派な知識を貯えたとしても、アダムに代表される人間の姿である限り、すべての人間は神の怒りのもとにあるのである。

「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて 現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。

(ロマ書三・二一〜二二)

 この「しかし今や」はイエスが復活してキリストとなっておられる今は、という意味である。このキリストにあって、律法とは別に、しかも律法と預言者とに証しされて神の義が現されている。新しいアイオーン、新しい時代が始まっている、それはキリストにあって神が人間を義とし、ご自分の内にしっかりと受け入れて下さる、そういう神の働きが実現しているのである。

 「イエス・キリストを信じる信仰」というのはもってまわった言い方であるが、パウロはよく、キリストの信という簡潔な表現を使う。キリストの信とは、キリストによる信であり、キリストにおいて神の信実が現されているがゆえに、神の信実によりかかって、キリストに結びついている人間の姿である。パウロはよく「キリストにあって」という表現を使う。それは「イン・クライスト」つまり「キリストと結ばれて」という意味である。キリストは人格であるから、キリストと結ばれるためにはキリストへの信頼がまず前提である。信頼関係なしには相手の人格と結ばれることはありえない。だから、キリストという方の信実に自分を委ねるという、全存在的な信頼によって自分を投げかけていくことである。この方の働きによって、わたしたちはキリストと結ばれるという姿になる。

 こういう事態において、彼が十字架の上で流した血が、わたしたちの罪の贖いとなる。キリストと離れている限り、キリストの中にどんなことが行なわれようとも、わたしたちのものとはならない。いくらキリストのなされたことを深く理解していようとも、キリストの中になされた神のわざというのはわたしたちのものにはならない。わたしたちがキリストと結ばれるときに始めて、キリストが十字架の上で流されたあの血が、神はそれを罪の贖いの供え物として扱っておられるのだから、その供え物の効果がわたしたちの身に及ぶのである。

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。

(ロマ書三・二三〜二四)

 わたしたちが義とされるためには、キリストのあの十字架の死が必要なのである。キリストという罪なき方が、ほんとうに汚れのない、傷のない供え物として、神の聖なる祭壇の前に捧げられて、罪の贖いをする必要があったのである。そしてそれはなされた。イエスがこの地上に来られて、あの十字架の上で苦しみをお受けになり、血を流されたときに、その供え物はすでに捧げられた。その捧げものの血がわたしたちの身に注がれ、わたしたちが神の裁きから救い出されて神の前に受け入れられる。義とされる。わたしたちはキリストと結ばれ、本当にキリストのものになる、これだけが必要なのである。これだけで充分であり、またこれがなければほかに何があっても義とされることはない。

 ローマ人への手紙四章に入って、信仰によって生きる者の代表者として旧約のアブラハムを挙げている。彼はすべての神の民の先祖であり、このアブラハムの生涯こそわたしたち神に属する者の模範である。

「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。

(ロマ書四・一七〜一八)

 アブラハムのときはまだ誰も復活していなかったのである。けれどもアブラハムはその信仰の生涯を貫くことによって、最後にはイサクを捧げるようにというあの命令に従うことによって、神は死人を生かす方であるということを信じることができるようになった。こういう信仰、神は死人を生かす方であるという信仰こそ、神が喜び、自分のものとして受け入れて下さる質の信仰である。この質の信仰をもつことだけが、神の前に義とされることである。というのはわたしたちがいくらイエス・キリストを信じていると言っても、もしも神がイエスを死人の中から復活させたということを信じていないならば、また神は最終的に死者たちを復活させる方であって、その初穂としてイエスを死人の内から復活させたということを信じていないならば、その人のイエスに対する信仰というのはあくまでも地上のわれわれと同じような、死んでしまった一人の人に対する尊敬に過ぎない。神は死にも打ち克てないような神として扱われることには耐えられないのである。死人を生かすということが神の本質であるから、それを信じることによって神はおのが民であるとして受け入れてくださる。

「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」。

(ロマ書五・一〜二)

 以下一一節までで、信仰によって義とされ、その結果われわれの具体的な人生においてどのような実を結ぶのかを詳しく述べている。

 恩恵の支配

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので死が全人類にはいり込んだのである。というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。しかし、アダムからモーセまでの間においても、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった。このアダムはきたるべき者の型である」。

(ロマ書五・一二〜一四)

 ここでパウロはそれまで(ロマ書一章一八節から三章二〇節まで)で語った「すべての人はアダムにある限り、神の怒りのもとにある」ということを要約している。パウロはそこでは現在の具体的な人間の状況を描写したが、ここではその原因にまで遡ってその罪の支配を描いている。どうしてそのようなことになったのかというと、それはひとりの人によって罪が入り、罪によって死が入ってきたからである。もちろんひとりの人というのはアダムである。このアダムが神の戒め、善悪を知る木の実を食べてはならないという戒めに背いて、自ら神になろうとしてその木の実を食べたのである。この、自らを神とし、自分を存在させているまことの神を不要として退けたその罪、この罪のよって死が入ってきたのである。罪というのは、それが道徳的な戒めであれ、宗教的な戒めであれ、国家の法であれ、何か人がなすべからざることの規範というものがあって、それに背くことが罪であると定義されている。しかしじつは罪というのはそういうものではない。戒めはなくても罪はあるのである。罪とは何かというと、創世記のアダムの記事が示しているように、人間をして自分を存在せしめている方、まことの神に背かせる力なのである。そういう力が人間を支配しているのである。そしてその結果、死という滅びが人間に臨まざるを得ないのである。戒めがなければ、戒めに対する背きというものもないけれども、それがないところでも死は人間を支配していた。なぜかというと、それは自分の生命の根源である方に背かせるような力がすでに人間を強く捕らえてしまっていて、その力のもとに支配されていたからである。そのように、人間を神に背かせる支配力、それがパウロの言う罪なのである。このようなアダムの背神によって罪が入り、それによって死が入ってきたということが創世記に記録されているのは、じつはこのアダムの姿はきたるべき者、すなわちキリストの型として描かれているのである。

「しかし、恵みの賜物は罪過の場合とは異なっている。すなわち、もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか。かつ、この賜物は、ひとりの犯した罪の場合とは異なっている。なぜなら、さばきの場合は、ひとりの罪過から、罪に定めることになったが、恵みの場合には、多くの人の罪過から、義とする結果になるからである。もしひとりの罪過によって、そのひとりをとおし死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けいる者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。このようなわけで、ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶのである」。

(ロマ書五・一五〜一八)

 ひとりのアダムの背きによってすべての人が罪に定められ、死に支配されている。そのように、ひとりの人キリストは完全に神に従い、そして復活された。この新しい代表者であるキリストに属することによって、わたしたちが生命を得るのである。

 ここで近代の聖書学から非常に難しい問題が提出された。アダムが神話的な人物であって、実際にひとりの人であったとは考えられない。確かにアダムという名前は人という意味であるから、その人間が神に背いて高ぶった存在であり、その結果死に支配されているという事実は理解できる。アダムの記事がそういう人類の現実を描写する神話としては理解できるけれども、たったひとりの人間がまず居て、彼が罪を犯して、それでその子孫が同じように罪に定められるというような意識は、現実の事実としては考えられないという内容の問題である。そうするとひとりの人アダムによって罪の支配に陥ったように、ひとりの人キリストによって義と生命がすべての人に及ぶという、このパウロの議論は成り立たなくなるのではないだろうか。これが成り立つためには、どうしてもアダムにひとりの人間でいてもらわなくてはならない。だから聖書の見方も創世記を神話として読んだり、学問的、批判的に読んだりすることは許されない。そういう見方をすることは、信仰そのものが成り立たなくなるのではないかという考え方もある。率直に言うと、わたしもこの疑問の前には実に苦しい思いをした。しかしこれは生きるか死ぬかの問題であるので、わたしなりに必死になって取り組んできて、現在はこう理解している。

 アダムがひとりの人間でなければ、ここでパウロが言っている議論が成り立たないと考えるのは、アダムの出来事がキリストの出来事、つまりひとりのキリストによってすべての人が救われるという出来事を根拠づける根拠だと考えているからである。じつはキリストの出来事のほうが根拠なのである。神はこの人類の歴史の中で最後に、御自身の御子をひとりの人間としてこの地上に生まれさせて、この人によってすべての者を救おうとされたのである。これが神のご計画なのである。こちらが根拠であり、本体なのである。その本体、すなわち、ひとりの人によって多くの人が義とされ、救われるというという出来事が起こるということをあらかじめ型として示すために、人類の堕落の現実をあのようなひとりの人の行為の結果として描いたのである。どちらが本体かということを考えるとき、このアダムの記事に関する聖書学的な批判がどうであろうとも、パウロのこのアダム対キリストのアナロギア(類比)は、救済史の的確な描写としてわたしたちにとって重要な意味をもつ。

「すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」。

(ロマ書五・一九〜二一)

 アダムにあるという場所においては、人間が生まれながらの人間である限りは、そこでは罪が支配し、神に背かせる力がわたしたちを支配し、ひきずりまわして、いくらわたしたちが社会的、道徳的な戒めに合った立派なやり方をしていても、そういうものには関わりなく、人間の奥底から神に背かせる力が支配している。われわれが意識するとしないとに拘らず、神に背いてしまっている。その結果は死である。そのような状況においては、人間は復活という神の栄光の事態を信じることはできなかった。確かに教義では知る。しかし本当に復活の生命に生かされるという事態には達しし得なかった。やはり死が最後だったのである。

 しかし今はキリストにあって恩寵が支配しているのである。無条件にわたしたちを受け入れてくださる神の恵みが、力強くわたしたちを支配しているのである。その恵みが義を与えるのである。そしてその義の結果として永遠の生命が与えられる。永遠の生命は、具体的に復活に至らざるを得ない質の生命である。この状態がいつまでも続くのではない。この肉のからだは必ず滅びる。けれども霊のからだに変えられ、神と永遠にその栄光を共にすることができるような質の生命、それがキリストにおいて与えられるのである。

 こういう恩恵の支配する場所に生きる人間というのは、じつはいままでのアダムにあって罪の支配のもとに生きる人間とは姿が変わってくる。どんなに変わるかは、これから学んでいくことになる。支配という言葉を何度も用いたけれども、人間というのはちゃんと自分を支配し、自分の好きなものになっていくように思っているがとんでもない錯覚である。わたしたちはさまざまな力に支配されているのである。生まれながらの人間はいつも罪の力に支配されて、そして死の力に支配されていく。死というのは永遠に神から切り離され、神の栄光とは全く無縁な現実である。それがどういうものか充分描写できないけれども、いわゆる肉体が朽ち果てていく死とは違って、もっと深刻な状況で、神の栄光から永遠に切り離されてしまうのである。それに対して、神ご自身が救い主として定めておられたこのキリストを死人から復活させて、救いとは死からの解放なのだということを現実に示された。復活されたキリストに所属することによって、わたしたちは神の憐れみにより、キリストの十字架の血によって罪を赦され、義とされ、そしてイエスを死人のうちから復活させた質の生命にあずかるのである。これはすべて神の恩寵のみ業なのである。

 このようなところに律法が入ることによって、自分たちの在り方が、願うことも行なうことも結局神に背いている、ということを自覚させるのである。自覚すれば人間はよくなるかというとそうではない。自覚すればするほど、神をより深く憎むものである。罪は却って深くなるという結果になるのである。それは人間の本性が、徹底的に神に逆らっているからである。しかしそういう人間であればあるほど、神の恩寵が赦し救うという、恩寵の素晴らしさがますます明らかになる。恵みが支配するということは素晴らしいことである。イエス様の宣教の内容は神の国と呼ばれているが、これは神の恩寵の支配のことである。いかなる罪人もありのまま神はご自分のもとに受け入れてくださる。こういう事態が今やキリストの十字架と復活によって非常に明確になったのである。

 
(天旅 1988年2号、3号)