ロマ書による「新しい人間」 第二講

キリストに合わせられて生きる人間




 恩恵の下にある人間

 わたしたち人間は、生まれながらの人間としてはアダムにあると呼ばれる場所にある。しかし、その中にキリストという方が来られて、すなわち死人から復活された方がわれらの中に出現されて、今や新しいアイオーン、新しい支配が始まったのである。このキリストにあるという人間がどのような姿になるのか、この一点について今回は話を進めてみたい。わたしたちはそのすべてを悟ったり、身に体現したりすることはできないかも知れない。しかし皆さんはすでにキリストの中に居られるのである。この世のものに頼ることを止め、自分に頼ることを止め、自分のために十字架について死に、死人の中から三日目に復活されたこのイエス・キリストに望みをおいて、この方の名を呼び求めて生きて居られる。そしてここに居られるのである。このキリストにあるという場所はどんな素晴らしい場所であろうか。われわれの目には見えないけれども、神の御霊の救けによって、このキリストにあるという場所の栄光が少しでも示されるよう願ってこの集会をするものである。

 前回においてロマ書一章から五章までの概要をお話しして、キリストにあっては神の恩寵が支配している、その恩寵によってわたしたちキリストにある者は罪人でありながらそれが赦されて神の義を与えられている、わたしたちは信仰によってキリストの中にいる以外に神に至る道はない、生命に至る道はないということを学んできた。
 
 信仰によって義とされる、というのがルッターの唱えた福音の中心点である。そして、聖書学者のシュラッターが言うようにプロテスタントの福音主義の神学はロマ書を講ずるにあたって五章までくると途端に熱意を失ってしまうようだといわれる。確かに三章を中心にして、五章までの間に信仰によって罪人が義とされるという消息が力をこめて主張されている。それを講ずることに福音主義の教会は熱心であるが、五章を過ぎると熱意を失って、後は付け足しであるかのような扱いをすることが多い。しかし今回わたしはこのロマ書を読み直してみて感じたのであるが、むしろわたしたちにとってほんとうに素晴らしく思われるのは五章以下、六、七、八章のあたりである。この辺りがわたしたちキリストにある者にとって中心ではないかと思われる。五章の終わりにパウロは今まで述べてきたキリストにあって受けている恵みを、アダムにあってわたしたちが置かれている罪と死の支配と対比して描いて見せた。このアダムにあって、すなわち生まれながらの人間が普遍的に陥っている死の支配の状況にたいして、ひとりの復活された方、キリストにおいて始めて人間は新しい恵みの支配、義の賜物、永遠の生命の実を受けることができるということを見事に描いて見せてくれた。

 聖霊のバプテスマ

 そうするとこういう反論や誤解があるということをパウロは六章の始めに自ら述べている。

「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」。

(ロマ書六・一〜二)

 罪が増し加わるところに恵みが増し加わるのであれば、むしろ恵みが増し加わるためにわれわれは罪の中に留まっていれば良いのではないか、というようなことを言う人はキリストにあるということの内容を知らないのだということ、また、キリストに合わせられるとはどういうことであるかを三節以下で語ってくれている。この六章から七章六節までの今回の講話で取り上げる箇所はたったひとつのことを言っているとわたしは思う。すなわち、キリストと合わせられるとは一体どういうことなのかということを語ろうとしているのである。それをあえて言うならば三つの譬をもって説明してくれる。最初はバプテスマという儀式をひとつの譬として、キリストと合わせられている姿を示してくれている。第二は一五節以下六章の終わりまでで、当時の奴隷制度の主人と奴隷という関係を譬として、キリストと合わせられるという事態を説明している。第三番目は七章一節から六節までで、結婚という制度を譬として語っている。皆ひとつのことを語っているのである。そしてキリストと合わせられているという事実、これが実は福音の核心である、とわたしはこのごろ痛感している。それに比べると三章で出てきた、信仰によって義とされるというのは、このような中心点へ進むための土台であって、信仰の中心であるとは言えないのではないかと思う。ついでに言えば、八章はそういう福音の事態の頂点であるという表現を使っても良いのではないかと思う。

「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである」。

(ロマ書六・三)

 パウロはここで当時の信仰者がバプテスマを受けているということを一応前提にしているが、このバプテスマというのは、主イエスの前に出現したバプテスマのヨハネから発したものであって、悔い改めて神に立ち帰ることを告白する行為として、ヨハネの場合はヨハネの面前で水につけられたり、或いは沐浴したと言われている。イエス御自身は公の伝道においてはバプテスマをお授けにならなかったが、ペテロを始めとする弟子たちはこのイエスをキリストとして告白する行為として、このバプテスマを受けるように勧めた。ペテロはもともとヨハネの弟子であったので、バプテスマの形式もヨハネのそれに似たものであった。そういうバプテスマを受けるということは、キリストの中へ浸し入れられるということを象徴しているものであった。ここでキリストの死に与るバプテスマを受けたとあるが、これは原語をそのまま訳すと「キリストの中へとバプテスマされる」となる。キリストという霊的な現実の中へ浸しこまれるということである。
 
 キリストは生ける霊である。その中へ入れられるということは霊界の出来事である。わたしたちが水の中に浸されるというバプテスマの儀式は、実はこの霊の世界で起こっていることのしるしであり、象徴であるに過ぎない。決してわたしたちの体が水の中に浸けられるから、それでキリストに合わせられたことになるのではない。これはあくまでも霊の世界の出来事であるから、実際にわたしたちの霊をキリストという霊の中に浸し入れるのは、神の霊だけがなし得ることである。神の霊の世界を物質的な表現で測ることは不可能であるが、それにも拘らずわれわれは見えない世界のことを語るのには目に見える世界の事象をもって語らざるを得ない。それはすべて、広い意味の譬なのである。
 
 だから、キリストの中にバプテスマされるという霊の出来事は、神の御霊によってわたしたちの存在に為される業である。多量の水を注ぐとその人の体をとっぷりと浸してしまうように、神の霊が圧倒的な勢いで注がれるときに、もはやそれまでの、自分の判断で神を理解しようとしたり、自分の意志で良い生活をしようとしたりしたことは吹き飛んでしまい、自分のために死なれた方の愛の中に完全に自分を浸しこんでしまうという体験をするのである。それを聖霊のバプテスマと呼んでいる。イエス御自身がはっきりと「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたはまもなく聖霊によってバプテスマされるであろう」と言われた。そしてそれはペンテコステの日に起こり、それ以後も主イエスの御名を信ずる人々のうえに起こってきた。そして今日に至るまで、イエスが復活されたキリストであると信じる者には、神は約束に従って聖霊を注いでくださる。これが福音である。この事実がなければ福音は単なる観念の言葉に過ぎない。この御霊の注ぎがあるからこそ、福音は人を救う神の力なのである。この御霊の注ぎが人をキリストの中へと浸し入れる。これが聖霊のバプテスマである。聖霊によってキリストの中へと浸し入れられた者は、じつはそのことによってイエスの死に合わせられているのである。このことをしっかりと識らなければならない。

「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」。

(ロマ書六・四a)

 バプテスマというのは葬りの式であって、キリストと共に葬られることである。なぜわれわれはキリストの死に与り、彼と共に葬られなくてはならないのか。

「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。

(ロマ書六・四b)

 

 今までわたしたちが生きていた生命ではなく、別の新しい生命によって人生を生きていくためである。聖霊によってバプテスマされるという体験は非常に現実的な体験である。それはしばしば目に見えるしるしが伴う。聖霊の圧倒的な力に深く入れられて、祈りが普段の祈りではなくなって、異言の祈りになるということも多くみられる。或いは考えられないような預言が出てくることもある。時には力ある業、奇跡が行われる。こういう神の霊の働きが人の目を驚かすような形で表れることがある。しかしパウロの手紙を読んでいくとき、そういう聖霊の表れは神の御こころのままに、エクレシアをたてるために与えてくださっているもので、すべての人が預言をしたり、異言を語るのではないとも言っている。その意味では部分的であり、一時的である。
 
 それに対して、この聖霊のバプテスマが与えられるとき、その魂は必ず圧倒的な復活のキリストとの出会いを体験する。圧倒的な出会いと言っても、さまざまな程度の差がある。けれどもなんらかの意味において、キリストは生きておられる、復活しておられるということをその魂が直観的に認め、その愛にひれ伏すのである。一回の聖霊のバプテスマですべてが自覚されるとは限らないけれども、聖霊によって霊なるキリストと合わせられるとき、この方の死が自分のための死であり、そこで自分も死んでいるのだという奥義が自覚されてくる。そのとき、キリストをわたしのためにたててくださった神、このキリストによってわたしを赦し、受け入れてくださり、キリストと共に生かしてくださる神の愛が伝わってくる。いままで体験したことのないような質の愛である。そのときほんとうに自分というものが打ち砕かれて、ただ神の愛だけが世界に満ちていると感じる、そういう体験をするのである。このように聖霊を与えられることによって、御霊の働きによって復活者キリストと出会い、この方の十字架に自分の死を認める、彼と共に死んだが故に、今度は彼と共に復活された方の生命をもって新しい生き方を始める、この点こそ実は福音の中心的な真理なのである。これがなければ他に何があっても、知識があっても、教会生活の長い経験があっても、何の意味もない。

「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう」。

(ロマ書六・五)

 パウロはここで、聖霊によりバプテスマされるということは、第一にキリストの死に合わせられることだと言ったが、死に合わせられた以上は、必ず復活にも合わせられるということを確言している。ここで一つ注意することは、死に合わせられたというのは現在完了形であるが、復活の様にも等しくなるであろうというのは未来形である。わたしは長い間この点を考えていた。パウロはコリント人への手紙一五章で詳しく復活の希望を述べている。それに対してロマ書では殆どそのことにふれていない。死人の復活というのは今まで繰り返し述べてきたように、わたしたちの信仰の本質的な部分であるなら、ロマ書という大切な、パウロにとっては信仰の全容を語るような書簡において、なぜあのコリント書簡のようにまとめて語ろうとしないのであろうかと不審に思っていた。

 しかしよく考えてみると今まで見た箇所や、ロマ書八章の中ほどにパウロは、イエスが復活されたようにわたしたちも復活するということをはっきりと断言している。パウロがなぜロマ書でそのことを多くの場所をとって語らないのかということを考えてみて、今回ロマ書をやり直してみて解ったことは、ロマ書においてはパウロはすべてのことを現在の人間に引き寄せて語っていることである。神のことを語り、キリストのことを語り、十字架の贖いのこと、聖霊のこと、死人の復活のこと、再臨のことを語っているが、すべて今の人間に関係するときにどのような形をとるのかという形ですべてのことを語っている。再臨はしばしば個人を超えた宇宙的な出来事として語られるが、パウロはここではそういうことをひとつも語っていない。あくまでも現在の自分の中で再臨という信仰はどのような働き、どのような現実となってわたしたちに宿っているのかというその点に目をとめて語っている。

 ここもそうである。「彼の復活のさまにも等しくなる」、この一語の中にじつはコリント人への第一の手紙一五章全体の全体が含まれていると言える。コリント人への手紙では先に読んだようにイエスは死人の内から復活された、それはわれわれの知らない新しいからだをもって生き始められたのである。それがどのようなからだであるのか、福音書の最後のほうの記事を読むだけではまだ理解できない。時間や空間を超えた驚くべき不思議なからだであるということしか解らない。しかしわれわれもまたあのイエスと同じ霊のからだを与えられて復活するのだと明言しているのである。われわれは今は土に属する者として、土に属する者の形をとっている、アダムが創られたときと同じ形をとっていて、壊れていく物質と同じ物でできていて、やがて分解して生命のない物質になる。しかしやがて神の時が来るとキリストに属する物は天に属する者の形、すなわち復活されたイエスの形をとる。
 
 これらのことは未来形で記されている。これは今は全く関係ないけれども将来いつか起こるであろうといっているのではない。これはある意味では既に現在始まっていることであって、その完成は未来に残されている。だからこの未来形というのは、現在から始まって未来の方向に向かっているということである。キリストに合わせられて死んだというのは現在完了形であり、既に起こったことであるが、将来はキリストと同じ復活のからだに変えられるのである。キリストが十字架の上に死なれたということは、わたしたちのために死なれたことに違いないのだけれども、ただそれに留まるのではなく、わたしたちも十字架のうえで一緒に死ぬためのものである。そしてわたしたちがキリストと一緒に十字架について死ななければ、復活されたキリストと一緒に生きるという新しい生命は始まらないのである。その意味では十字架はわたしたちの信仰の不可欠の要素である。
 
 わたしは最近復活を中心にして話をすすめているが、そのことが本当に現実になるためには、わたしたちが十字架にキリストと共に死ぬというところにしっかり合わせられていなければ、復活は絵に描いた餅であり、言葉の上の空虚な響きに過ぎないのであって、人間の現実の体験にはならない。しかもそれが聖霊のバプテスマ、神様から約束の御霊を受けることによって始めて、わたしたちがキリストと共に十字架につけられて死に、キリストと共に復活の生命を生きるということが可能なのだということになるのだから、この十字架と聖霊と復活という真理はどうしても一体であって、一つだけを切り放して十字架だけを信じるとか、復活だけを生きるとか、聖霊だけを体験するということはできないものである。
 
 

 

 キリストと共に十字架につけられ

 

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」。

(ロマ書六・六)

 わたしたちの中には古き人と新しき人がある。古き人というのは生まれながらの人間で、キリストが死なれたということは、生まれながらのアダムにある自分は神の前に全く無意味で、存在を否定された、死ぬほかはない者だということの表れなのである。罪の奴隷というのは一種の譬であって、罪というのは単にわれわれが戒めに反する行為をしたというのではなくて、われわれを神と反する方向に引っ張っていく力なのである。その罪の支配力の中にいる限り、罪の奴隷である。そこから神を愛して止まないという状態にはなり得ないのである。ここでこのような罪の支配から解放されるためには、わたしたちが死ななければ他に道がないのである。

「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである」。

(ロマ書六・七)

 罪から解放される唯一の道は自分が死ぬことである。この死をキリストが十字架の上で死んでくださったのである。だからキリストに合わせられたときに、そこに自分が死んでいることを見るのである。

「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。

(ロマ書六・八)

 ここで信じるという言葉を使っていることも注目される。キリストと共に死ぬということ、その結果として今度は復活されたキリストと共に生きるということ、これは目に見える世界のことではない。神がキリストという方をこの世界に送ってくださって、このキリストの中で罪の贖いとか、死人の復活という出来事を始めてくださったのである。そこでは新しい復活の生命が来て働いていて、わたしたちはキリストと合わせられてその中に入っていくがそれは目に見えることではない。やがてだんだんと霊的に深められるとある意味ではそれを霊的に体験するかも知れないが、始めのうちはわれわれはそれを信じていくのである。本当にキリストを信じて委ねていくならば、神はキリストの中にある者をそのようにキリストに合わせて死なせて、罪から解放し、復活させた生命と一緒に生かしてくださるということを信じていくのである。

「キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を 支配しないことを、知っているからである」。

(ロマ書六・九)

 これは事実である。キリストは復活された。そしてもはや死ぬことはなく生きておられる。こういうキリストの中にわたしはいるのである。

「なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」。

(ロマ書六・一〇〜一一)

 自分がそのような者であることを、はっきりと認めるべきなのである。これは信仰の行為である。信仰というのは神の言葉を現実とするのであって、時には自分の目に見えるところや、自分が体験するところや、自分が望み得るところに反してでも、神の言葉のほうが事実であるということを認めるところから始まるのである。キリストという方は事実である。キリストは来られ、革命は起こり、死人の内から復活されたのは事実なのである。わたしたちは自分をこの方の中に投げ込んでいけば良いのである。そうすれば神は、あなたはキリストと共に死んで罪から解放されて、キリストが復活された生命をもってキリストと一緒に生きることができると言っておられる。これが神の言葉である。これを事実としてわたしたちが受け止めていくところから、わたしたちの中に新しい時代が始まる。キリストに合わせられているというようなことは目には見えない。感情的にいかにもそうなったという感じがする訳でもない。やがてそれも与えられるであろう。しかし根底はやはり信仰である。この事実をわたしたちは信じぬいていく。わたしたちは弱い者である。肉にある人間であるから罪を犯し、失敗をし、神に対して本当に申し訳ないことをする。しかしそういうわたしの弱さや失敗やバカさ加減にも関わらず、そういうときにこそ神の憐れみはそういうものに打ち勝つ実力をもったものであることを信じるのである。どうしようもない自分を絶えずキリストの中に投げ込み、キリストの中に自分を見い出し、そこで死に、また復活されたキリストと生きるのである。復活されたキリストと生きるということは恵みの恩寵の事態である。決してわたしの功績から出たことではない。

「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」。

(ロマ書六・一二〜一四)

 わたしたちは神に敵対する力に自分を明け渡して、その引きずるままに人生を過ごしていた。しかし今は罪に対して死んだのだから、罪の支配に引き回されることなく、本当に心から自分の人生を神のために捧げようという願いをもつことができるのである。人が律法にあるときは命令は外から来てわたしたちを支配するが、神の恵みの内にあって無条件に赦し、神の生命を与えてやまないような場所にいるのだから、その神の働きによって自分を神への奉仕のために捧げることができるのである。


 比喩による表現

 水のバプテスマを「たとえ」という表現で使うと教会の先生方から怒られるかも知れない。洗礼は本当に救いをもたらすもので神の定め給うた神聖な儀式であって、決してたとえではないと言われるかも知れない。しかしよく考えてみていただきたい。水という物質がどうしてわたしたちをキリストに結びつけることができるか。水はあくまでもひとつの象徴である。すなわち神の御霊がわたしたちに注がれ、満たすことによってわたしたちの霊がキリストに結びつけられ、浸しこまれるという出来事を目に見える形で象徴しているにすぎない。本来は告白行為であるが、水に浸されるという行為をパウロはここで、聖霊のバプテスマによってわたしたちの内に起こる霊の事実を象徴するしるしとして用いている。バプテスマをしるしとして用いて、われわれの霊の事態、霊なるキリストに合わせられるという事態を表現している。しかしわれわれ霊的に鈍くなった魂には解りにくいことかも知れないというわけで、もっと具体的な実例を二つ挙げている。ひとつは奴隷のたとえであり、もうひとつは結婚制度のたとえである。

 
 

 奴隷の比喩

 

「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたし たちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」。

(ロマ書六・一五)

 神の恵みのもとにあるということは、それを第三者として理論的に観察すると、必ずこういう反論が起こってくる。恵みのもとにあるということがそれを受ける本人からすれば、本当に神の無条件の赦しの恩寵に感激して、もう自分の一切を神に捧げてお仕えしたいという、そういう態度でしか受けられないものなのである。ところが第三者として、他の人が神様から恵みを受けているということを客観的に観察した場合に、その人がどんな悪人でも罪人でも無条件に神が受け入れて生命を与えているとするならば、その人は罪を犯し続けても良いのかというような理屈による反論がどうしても出てくる。それに対してパウロは事情を説明している。

「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」。

(ロマ書六・一六)

 当時の奴隷制度では、奴隷は同時に二人の主人に仕えることはできなかった。もし他の人の奴隷になりたいなら、今の主人の許しを得て、釈放してもらってから他の人の奴隷になることができた。主人同士のお金による売買もあったようであるが、とにかく一人の人にしか仕えられない。だからもし罪という主人の僕になると、必ず死に至る。しかしもし、罪という主人の僕であることに耐えられなくて、新しい主人のほうに代わったとすると、以前の主人の支配を受けることはない、というたとえである。こういう奴隷制度のたとえをもって、あなたが以前は罪の支配下にあったけれども、新しい主人、ここでは義とか従順といわれるように、キリストにあって砕けた心をもって神に従おうとする心であるが、そのように主人が代わった以上は前の主人に仕えることはできない筈である。だからあなたがたキリストに合わせられた者は、また恩恵の世界に支配されるようになった者は、もはや罪の奴隷ではなく、罪に帰ることはないと言っている。どうしてそのような主人が代わるようなことが起こったのかを次に述べている。

「しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教えの基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった」。

(ロマ書六・一七〜一八)

 あなたがたは生まれながらの人間として、皆罪の支配下にあった。しかし、あなたがたに宣べ伝えられた福音の型を心から受け入れ、信じた。そのお陰で今まで罪の奴隷であったが、福音を信じたことによって義という新しい主人の奴隷になった。だから古い主人の罪に仕えることはできなくなっている、ということを述べている。パウロが言っている。あなたがたのなかには、力ある者、富める者、賢い者は多くない。むしろこの社会では貧しい者、無に等しい者が多いからこそ、主人が代わるという奴隷の立場が解る人が多い。

「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あ なたがたは、かって自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように 今や自分の肢体を義の僕としてささげてきよくならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。

(ロマ書六・一九〜二三)

 罪という主人はそれにふさわしい報酬をあたえる。わたしたちは罪という主人にさんざん仕えてきたので、それにふさわしい死という報酬を受けるべき者である。しかし神という主人が与えてくださるのは報酬ではない。わたしたちがいくら神に仕えても、永遠の生命に値する報酬にはならない。しかしそれにもかかわらず、神はキリストに合わせられて生きる人間には、神様の恵みとして永遠の生命を与えてくださるのである。賜物を受ける資格がない者に、賜物として与えてくださる。わたしたちが神様から受けるものは、始めから終わりまで神の恵みによるものである。義もそれを受けるのに値しないのに神から与えられた。最後の永遠の生命、復活という事態も、わたしたちはそれを受けるのに値しない、わたしたちは決して復活して当然というような神々しい存在にはなれない、それにもかかわらず、神は恵みによって与えてくださったのである。それが第二の誕生である。


 結婚の比喩

「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々 に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。すなわち 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が 死ねば、夫の律法から解放される。であるから、夫の生存中に他の夫に行けば、その女 は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても 淫婦とはならない」。

(ロマ書七・一〜三)

 律法というとユダヤ教の律法、モーセの律法を連想するが、ここでパウロが律法というときにはロゴスという言葉を使っていて、われわれのいう法律という意味である。法律は人をその生きている期間だけ支配している。犯罪を犯した人が死んでしまえば、もう法律はその人に刑罰を課することを求めない。その人は法の支配から免れている。その法律を結婚にあてはめている。夫が生きている間は、女の人は結婚の法律によって、妻としての役目を果たさなければならない。しかしもし夫が死ねば、結婚の法律から解放されるので、他の男に嫁いでも良い。これが世間でいう法律の世界で、これがひとつのたとえとして用いられている。

「わたしの兄弟たちよ。このようにあなたがたも、キリストのからだをとおして、律法 に対して死んだのである。それはあなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」。

(ロマ書七・四)

 律法に対して死ぬという言葉をパウロはしばしば使う。この内容は解りにくいとしてよく問題になるが、この結婚のたとえを見るとかなりはっきりしてくる。このたとえの中では、女性本人も死んでいないし、律法も健在であるが、この女性と法律との関係が、夫が生きている間は有効である。しかし夫が死ねば、夫のところにとどまっていなければならないという法律の規制は及ばない。女性はこの律法から見たら、もう死んだ者としての扱いである。もう責任を追求されない相手になった。そういう関係を、律法に死ぬとパウロは言う。そのように、神の律法は厳然として永遠にあるし、わたしたちも人間としてそのままいる。けれども丁度この女性の場合、自分とひとつであったその夫が死んだことによって、この女性も結婚の法律に死んだように、わたしもわたしとひとつであるキリストが死なれたことによって、このわたしが律法に対して死んだ者の扱いになる。すなわち、律法の規制が及ばない存在になってしまう。だから別の人、復活されたキリストのところに行って結ばれて、子供ができるようになる、そういうたとえである。ここでいちばんむつかしい点は、「キリストのからだをとおして死んだ」ということである。学者はいろいろな理解の仕方をわたしたちに提出してくれるが、要するに、わたしたちがキリストにあって、キリストに合わせられた人間であるから、キリストの十字架の死が、そこにわたしも死んでいるのだと認める限り、キリストを死に追いやった律法とに関係において、わたしたちもまた死んだ者という扱いを受けるのである。そしてもはや律法はわたしたちを支配したり、追求することはできない。

 文字によらず霊によって

「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」。

(ロマ書七・五〜六)

 ここでまた、アダムにある人間とキリストにある人間が見事に対比されている。ここでは「肉にあったとき」と言われているが、肉というのはパウロによれば旧い生まれながらの人間性であるから、アダムにあるという人間の姿と同じである。わたしたちが生まれながらの人間でいたときは、律法によって呼び覚まされる罪からの欲情が、死のために実を結ばせようとして働く。これが生まれながらの人間の本性に関する啓示である。

 わたしたちの思いを越えた罪という力が、人間の世界には働いている。罪はひとつの力であり、支配力である。そこからさまざまな欲情が、われわれのこの具体的な身体をもった存在に働きかけ、神に反する生活をさせるのであるが、そういう罪からの欲情は、律法によって刺激され、引き起こされる。律法が外からわれわれに向かって、盗んではならないと言うと、罪からの欲情は少しでも自分のために有利になるためには、他人を蹴り落とすことも辞さないような欲望であるから、却って盗んではならないという命令に隠れて巧妙に、またそれだけ陰惨な形で、本来他人に属するものを盗み取ろうとする。だんだんそれが巧妙になって、他人から褒められるような仕方で、罪を働くようになる。社会的な不正義、搾取、いろいろな形でこの世界は盗みに満ちている。もし人間が完全に他人のものを盗まなかったら、非常に正義と平和に満ちた世界が実現するはずである。戦闘とか、暴動とか、法律的に罰せられる罪はごく表面の一部に過ない。盗んではならないという法律のもとにある社会全体が、常に他人のものを盗みながら成り立っている。ここにそういう人間の本性がよく表れている。
 
 「しかし今は」というのは、キリストにある今はという意味である。今は全然違った力が支配している。すなわち、神の恵みという力が支配している。こういうキリストの中にあるということを、今、結婚のたとえで示したように、わたしたちをつないでいた律法から解放されている。律法から解放されているということは、もはや外からの命令によって拘束されてはいない。むしろ内に与えられている霊によって、神に仕え、新しい生命に生きることができるようになる。旧い文字というのは律法のことを示し、外からわたしたちにいろいろな命令を与えるが、キリストにあってはもはや、恩寵によって賜る御霊が、わたしたちの内にあって生きる力となり、神の思いを内に宿らせ、神に仕えることを願う力となって働き始める。
 
 今回見てきた六章から七章六節までは、実にただ一つのことを語っている。すなわち、わたしたちはキリストに合わせられている人間であるということである。このことをパウロはいろいろな表現で語ってきたが、その代表的なものがキリストの中に入れられる、キリストと一緒に死に一緒に生きているという表現である。パウロは霊の現実を語るのに人間の言葉はもどかしくて仕方がないといわんばかりに様々な言葉を使ってキリストと一つに合わせられているということを語っている。事実は御霊によってしかわたしたちの内に起こり得ないし、理解し得ないことである。復活された方とわたしたちは一つにされて、そしてこのことが今までの生まれながらの人間世界の中に全く新しい人間の姿である。
 
 ここに実は人間の救い、本当の生命の核があるのである。ここから離れては何もない。その意味で今回述べたことはまさに福音の中核点である。わたしたいはそれを目では見ない。信仰によってそれを信じ、現実として受け止めて、感謝し、告白し、その事実に自分を委ねて生きていく。今はアダムにあるという古い人の中に、キリストにあるという新しい生命は隠されている。それが必ずはっきりと顕れ出る時が来ることをわたしたちは知っている。また信じている。それが「彼の復活の様に等しくなる」という事態である。あの霊のからだを与えられる、あの復活の様に等しくなるのである。神の信実の故にわたしたちはそれを待ち望んでいる。


(天旅 1988年4号、5号)