パウロによるキリストの福音 I

第二章 ユダヤ教の克服

第一節 初期の宣教活動
第二節 アンティオキアでの活動
第三節 エルサレム会議
第四節 アンティオキアでの衝突




 はじめに


 第一章では、ガラテヤ書によってダマスコ体験までのパウロ、すなわち「ユダヤ教にいた時」のパウロとダマスコ途上での回心について述べました。本章ではそれに続いて、ダマスコ体験以後のパウロの活動について、とくにユダヤ教との関わりに注目して見ておきたいと思います。もちろん、ここでパウロは自分の伝記を書いているのではなく、キリストの福音を確立するために、自分がユダヤ教とどのような関わり方をしてきたかを語っているのです。この点については次章以降で詳しく触れることになりますが、本章では前章に続いて、本人が書いた一次資料としてのガラテヤ書に基づいて、パウロの初期の宣教活動を歴史的に見ていきましょう。


第一節 初期の宣教活動


ダマスコでの活動

 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」。(ガラテヤ一・一五〜一七)

 パウロが復活されたイエスに出会った出来事は、ダマスコを中心とする地域で起こったことは、パウロ自身のここでの証言からも裏付けられます。パウロは回心直後の行動として、「エルサレムには上らず、アラビアに赴き、再びダマスコに戻った」と語っています。この表現は、行動の起点がダマスコであることを示しています。パウロは回心の出来事においても、その後の活動においても、ダマスコの信徒の群れと深いつながりがあったことは、使徒言行録九章(一〜二五節)が伝えていますが、これはパウロ自身の証言(こことコリントU一一・三二〜三三)からも裏付けられています。

 パウロは回心直後から、ダマスコのユダヤ人会堂で、イエスがメシアであることを論証して、ダマスコのユダヤ人社会に大きな衝撃を与えたようです(使徒言行録九・二〇〜二二)。ダマスコのユダヤ人会堂は、パウロのエルサレムでの迫害行動も、ダマスコにやってきた目的もよく知っていました。そのパウロがイエスをメシアとして宣べ伝えたのですから、驚くのは当然です。会堂内のイエスを信じるユダヤ人たちは、迫害者として恐れていたパウロが、自分たちの側に立ってイエスを宣べ伝えるようになったのですから、大いに力づけられてますます大胆にイエスを告白したことでしょう。会堂では指導的な地位にあるパウロが逆転したのですから、ユダヤ人会堂は混乱に陥ったと考えられます。

 パウロのダマスコ滞在は短期間でした。「三年後にエルサレムに上った」(一・一八)というときの年数は、ユダヤ人の慣用から足掛け三年という意味と考えられますので、一年余りから三年足らずの期間ということになります。その期間のいつごろかは分かりませんが、パウロはしばらくダマスコから離れてアラビアに赴いています。ここに用いられている動詞は、「(〜から離れて)行く、出て行く」という意味の動詞です。「退いた」という新共同訳は、なにか人里離れた場所に引きこもるという印象を与えますが、これはパウロのアラビア行きを瞑想のためであるとする説からの解釈でしょうか。ここは協会訳のように、「再び戻る」の起点として、単純に「出て行く」の方がよいと思います。


 「アラビア」というのは、ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤの東に隣接する砂漠と山岳の広大な地域です。この地域には、前一世紀から後一世紀にかけて、ペトラ(死海から南一〇〇キロ)を首都とするナバテア王国が繁栄していました。この王国は新約聖書時代のユダヤ人の歴史と深く関わっています。パウロが滞在した時代のダマスコは、ポンペイウスの征服以来すでにローマ領でしたが、このナバテア王の管理下にあり、アレタ王(四世、在位前九年〜後四〇年)の代官が駐在して統治していました。
 
 パウロがダマスコから出て行って「アラビア」に赴いたのは、瞑想のためではなくキリストの福音を宣べ伝えるためであったと見る方が自然です。ダマスコの信徒たちが、自分の所属する王国に宣教活動を広げようとすることは当然で、パウロはその活動の先端を担ったと考えられます。アラビアでのパウロの福音宣教は、ユダヤ人に対するものか、それとも異邦人に向かってなされたのか、史料がないので確かなことは分かりません。ただ、この伝道活動は成果がなかったようで、パウロもルカもこのアラビアでの活動には全然触れていません。
 
 瞑想する一人の修行者を権力が弾圧することは考えられませんので、アラビアでの活動を含むパウロのダマスコ時代は、初期の熱心に燃えた活発な宣教活動の時期であったと見られます。その結果、福音に反対するユダヤ人から告訴されたのでしょう、騒乱を引き起こす危険人物と見られて、アレタ王の代官から逮捕されようとします。パウロは信徒の協力で、かろうじてこの危機を逃れ、ダマスコから脱出します。パウロにとって、キリストの使徒として最初に経験した生命を脅かす危険は忘れられないものであったようで、後に書いた手紙の中で使徒としての苦難を列挙したとき、最後にこの体験に触れてこう書いています。

「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」。 (コリントU一一・三二〜三三)

 パウロに対する脅迫について、ルカはアレタ王の代官によるものであることには触れず、ユダヤ人の陰謀によるものだとしています(使徒言行録九・二三〜二五)。おそらく、イエスを殺そうとしたユダヤ人たちがローマ総督を利用したように、パウロを殺そうとしたユダヤ人たちがアレタ王の代官を動かして、代官の手でパウロを処刑させようとしたのでしょう。なぜユダヤ人がこれほどパウロを憎んだのか、それはダマスコに来るまでのパウロがイエスに従う人々を憎んだのと同じ理由です。すなわち、それまでは律法の神聖を擁護するチャンピオンであったパウロが、ダマスコではイエスをキリストと信じることが救いであって、ユダヤ教律法はもはや救いには無用であると唱えたからです。パウロがダマスコでユダヤ人たちから生命を脅かされたという事実は、パウロが最初から「律法(ユダヤ教)とは別の神の義」を宣べ伝えたことを示しています。さらに、ダマスコ途上での復活者キリストとの遭遇が、パウロの律法(ユダヤ教)観ににとっていかに決定的な逆転であったかを示唆しています。

エルサレムでのペトロとの接触

「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません」。 (ガラテヤ一・一八〜二〇)

 パウロはこの手紙では、自分の使徒としての資格が人間的な任命や派遣によるものではないことを強調しています(一・一、一・一一〜一二)。ガラテヤでの批判者たちが、パウロはエルサレム教団の権威の下に立つ者であるのに、エルサレム教団と異なる主張をしているという批判をしたのに対して、パウロは自分がエルサレムとの関わりの中ではじめて使徒となったのではないことを強調しなければならなかったのです。それで、回心直後の行動についても、「エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに赴いた」(一・一七)と語り、それに続いてこの箇所で、批判者たちにも周知の「三年後」のエルサレム訪問について、それがきわめて個人的な性格のものであり、エルサレ使徒団による任命とか派遣というような問題とは無関係であることを、「神の御前で断言します」と誓うのです。

 たしかに、パウロがエルサレムの使徒団から任命されて使徒となったのではないことは事実であったとしても、パウロがエルサレム教団と無関係にキリストの福音を宣べ伝えようとはしなかったことも事実です。まず第一に、パウロがエルサレムに上ったのは、「ケファ(ペトロ)と知り合いになろうとして」でした。イエスをメシア・キリストとして宣べ伝える以上、イエスについての正確な知識が必要です。イエスの言葉と働き、またその生涯の出来事を直接目撃した証人は、イエスの生前の弟子たちでした。彼らがエルサレム教団の「アラム語系ユダヤ人」(ギリシャ語で《ヘブライオイ》と呼ばれている、アラム語を話すおもにパレスチナ生まれのユダヤ人を、本稿では以後こう呼ぶことにします)の指導者として、イエスに関する伝承を担っていました。その中で、ペトロが代表的人物として当時すでに教団の内外で認められていたはずです。パウロがこのペトロに会おうとしたのは、ペトロが代表して担っているイエス伝承を知るためであったと考えられます。
 
 十五日間ペトロの家に宿泊して語り合った内容は、イエス・キリストのことに集中していたはずです。その間にパウロが受けたのは、地上のイエスの言葉や出来事だけでなく、当時のエルサレム教団が宣べ伝えていた福音の定式化した文言も、この時に継承した可能性があります。すなわち、パウロがコリントの信徒にあてた手紙T(一五・三〜五)で、「わたしも受けたものです」として引用している福音の言葉です。(この福音定式をパウロがいつどこで受けたかについては議論がありますが、ここでは立ち入ることができません。)
 
 パウロがこの時エルサレムに上ったのは、「ケファと知り合いになろうとして」という動機だけでなく、別の動機もあったのではないかと考えられます。それは、熱烈なユダヤ教徒パウロの聖都エルサレム重視の姿勢から推察される動機です。パウロにとって神の御業の中心地はエルサレムの他には考えられませんでした。もし自分が受けたキリストの啓示が神からのものであれば、そのキリストの福音はまずエルサレムにおいて確立されなければなりません。パウロは回心後まず、エルサレムで自分が受けたキリストの福音を宣べ伝えることを願ったことでしょう。しかし、自分がかって所属していたギリシャ語系ユダヤ人のシナゴーグ(ギリシャ語を話すユダヤ人の会堂)からの激しい迫害を覚悟しなければなりません。彼らから見ればパウロは裏切り者です。パウロはダマスコでの回心後、エルサレムに戻る時期を待っていましたが、ダマスコから追放されるに及んで、エルサレム上京を決行したと見られます。
 
 ルカが伝えるところ(使徒言行録九・二六〜三〇)によると、エルサレム教団はかっての迫害者パウロを恐れて弟子と認めようとしませんでしたが、バルナバの仲介で初めて受け入れたとされています。それは十分ありうることです。ペトロが密かに自分の家にパウロをかくまうように泊めたのでしょう。パウロはかっての仲間であるギリシャ語系ユダヤ人(ギリシャ語を話すユダヤ人)に語りかけましたが、パウロが宣べ伝える「律法とは別の神の義」は、彼らの敵意を燃やすだけの結果となり、彼らはパウロを殺そうと企みます。三年前の迫害者パウロは、自分が迫害したのと同じ理由で迫害される者になったのです。パウロはわずか二週間ほどでエルサレムから脱出しなければならなくなります。
 
 パウロの最初のエルサレムでのユダヤ人伝道は成果を上げることができませんでした。しかし、パウロの気持ちの中では、このエルサレム伝道は全伝道活動の出発点をなしています。パウロがその活動の最期の段階で書いたローマ書(一五・一九)において、「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」と言っています。この言葉から、パウロの視野の中では、エルサレムがやはり神の業の出発点として、中心の位置を占めていることがうかがえます。


第二節 アンティオキアでの活動


シリア・キリキアへ

その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、わたしのことで神をほめたたえておりました。 (ガラテヤ一・二一〜二四)

 使徒言行録(九・二〇、一一・一九〜二五、一三・一)によりますと、エルサレムを脱出したパウロはカイサリアに下り、そこから(おそらく船で)故郷のタルソスに向かいました。タルソスでパウロがどのような活動をしたかは、史料がないのでまったく分かりません。ところが、当時すでに多くの異邦人を迎え入れて活発に活動していたアンティオキアの教会で、エルサレムから派遣されて指導していたバルナバが、パウロを捜しに来て、タルソスで活動していたパウロを見つけ、アンティオキアに連れて帰ったとされています。その後パウロはバルナバらと共にアンティオキア教会で指導的な立場で活動します。

 タルソスでの活動とアンティオキアでの活動は、合わせると十四年以上の期間に及びます(二・一)。とくにアンティオキアで活動した期間は、異邦人教会の指導と異邦人世界への伝道活動を通して、パウロの神学形成にきわめて重要な意義を持っています。しかし、パウロはここで、「その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました」と、この期間のことをわずか一行の短い文で触れるにすぎません。ここではあくまで、エルサレムの直接の影響が及ばない地域で過ごした事実に触れることで、自分の使徒としての資格がエルサレム教団とは直接の関係がないことを強調しようとしているからです。
 
 ここで「シリア」というのは、ローマの属州としてのシリア州(それにはパレスチナも含まれます)ではなくて、アンティオキアを中心地とする地域の名として用いられています。「キリキヤ」はタルソスを中心地とする地域です。「シリア」を先にあげたのは、タルソス時代よりもアンティオキア時代の方が、パウロにとって比重が大きかったからでしょう。あるいは、アンティオキア時代の活動の一つとして、キリキヤ地方への伝道活動があったからかも知れません。
 
 エルサレムではギリシャ語系ユダヤ人の会堂で議論をした他は、ペトロとヤコブに密かに会っただけですので、「ユダヤ」(パレスチナのユダヤ人居住地域の総称)にある、アラム語を話すパレスチナ・ユダヤ人の成立したばかりの若い諸教会には、パウロは顔を知られていませんでした。彼らはただ、ダマスコやアンティオキアでのパウロの活動を伝え聞いて、迫害者を福音の使徒に変えられる神の大いなる恵みの御業を賛美するだけでした。

 ここの「ユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした」というパウロの証言は、パウロがエルサレムでイエスの信徒を迫害したこと、さらにエルサレムで律法教育を受けたことを否定する根拠としてよく引用されます。しかし、当時のキリスト教諸集団にもユダヤ人会堂にも、アラム語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の二つのグループがあって、両グループはかなり別の生活圏を形成していたこと、パウロのエルサレムでの活動はもっぱらギリシャ語を話すユダヤ人の間のことであったこと、さらに、「ユダヤ」という用語はエルサレムだけを指すのではなく、広くパレスチナのユダヤ人居住地域を指すものであることを考慮に入れると、この証言はパウロのエルサレムでの教育と迫害活動を否定する根拠にはならないことが理解できます。



アンティオキア教会の成立

 パウロは、最初のエルサレム訪問から再び会議のためにエルサレムに上るまでの十四年間の大半を、アンティオキア教会の指導的な一員として過ごしました。アンティオキア教会は初期の福音の展開の歴史においてきわめて重要な意義をもっていますし、パウロにとってもアンティオキア時代は重要です。パウロは、後で見るような事情から、手紙の中でアンティオキア教会について触れることは避けていますので、他の資料から分かる範囲内で、アンティオキア教会とパウロのアンティオキア時代について、ここで概略のことをまとめておきたいと思います。

 アンティオキア教会の成立と状況については、使徒言行録一一章一九〜三〇節と一三章一節が伝えています。それによりますと、ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のためにエルサレムから散らされたギリシャ語系ユダヤ人の中のある人々が、アンティオキアまで来て、そこで初めてユダヤ人以外のギリシャ語の人々に、「主《キュリオス》イエス」の福音を語り伝えたとされています。この宣教活動は成功し、多くの非ユダヤ人(ユダヤ人から見れば「異邦人」)が信仰に入り、アンティオキアにユダヤ人と異邦人の両方を含む集会が成立することになります。

 二〇節の《ヘレニースタイ》(ギリシャ語を話す人々)は、六章一節や九章二九節の用語と同じです。しかし、状況からして、そこではユダヤ人の中でギリシャ語を話す人々をさしましたが、それと違ってここでは、一九節の「ユダヤ人」と対照されているという文脈から、ユダヤ人以外のギリシャ語を話す人々、すなわちギリシャ人一般を指すと理解されます。《ヘレネス》(ギリシャ人)と読む有力な写本もあります。

 アンティオキアは合併属州であるシリア・キリキア州(パレスチナもこの州に含まれます)の州都であり、当時ローマとアレキサンドリアに次ぐ、ヘレニズム世界第三の大都市でした。この大都会に異邦人を多数含む教会が成立したことは、初期の福音の展開にとってきわめて重大な意義をもつ出来事でした。ガリラヤという田舎で始まった「イエス運動」が、エルサレムで都会的な教団になり、さらに二、三年というごく短時日の間にアンティオキアで大都会的な性格を帯びた教会となったことは、福音の驚くべき活力を示しています。アンティオキアのようなヘレニズム的大都市ではユダヤ人の勢力や影響力も限られており、大都会の自由な雰囲気の中で初めて、異邦人を含む教会が成立し活動することができたと言えます。また、これ以後福音がヘレニズム世界に進展してゆくさいに、(後にパウロの伝道に見られるように)アンティオキアでの大都市的教団がモデルとなり、福音は都会的宗教として、まず大都市に拠点を確立してゆくことになります。
 
 それまでにも、あるいは並行して、ペトロやフィリポらも異邦人に福音を伝えています。しかし、異邦人の入信は「神を敬う者」に限られていたり、個々の特別な場合に限られていました。ところがアンティオキアで初めて、異邦人が異邦人として原理的に受け入れられるようになったのです。教会の指導者はバルナバやパウロをはじめユダヤ人が占めていましたが、信徒の数から見れば異邦人がユダヤ人を上回っていた可能性があります。少なくとも外から見た場合、教団はもはやユダヤ人の集団ではありませんでした。それまでは、キリスト信徒の群れはユダヤ人の中の一派としてしか認められていませんでした。しかし、アンティオキアで初めて、信徒の群れはユダヤ人とは別の集団であることが認められるようになり、《ユーダイオイ》(ユダヤ人、ユダヤ教徒)とは別の名称である《クリスティアノイ》(クリスティアン、キリスト教徒)という名で呼ばれるようになったのです。
 
 アンティオキアの教会は多数の異邦人を含んでいただけではなく、異邦人への伝道を使命とするようになります。バルナバやパウロをはじめ、この教会の指導的立場のユダヤ人たちは、ユダヤ人に対する伝道よりもユダヤ人以外の諸民族に広く福音を宣べ伝えることを優先課題とします。それまでの散発的な異邦人伝道とは違って、異邦人伝道が原理的に撰び取られた使命となるのです。これは福音の進展にとって決定的な段階が踏み出されたことを意味します。後に書かれた書簡で、パウロは異邦人への使徒としての使命感と、異邦人伝道優先の救済史的な根拠づけを語っていますが、このような使命感と神学的省察はアンティオキア時代に形成されたと見てよいでしょう。

《キュリオス・イエスース》

  アンティオキアでの宣教活動を語るさいに、ルカは「主イエスを福音として告げ知らせた」とか「主に立ち帰った」とか「主に導かれた」と言うように、「主《キュリオス》」という称号を繰り返して用いています。これは偶然ではなく、アンティオキアでの異邦人伝道において初めて、《キュリオス》という称号が重要な意味をもつようになったことと関係しています。

 すでにヘブライ/アラム語を話す教団でも、イエスに対して「主」という称号が用いられていました。たとえば、「マラナ・タ」というアラム語は、「主よ、来たりたまえ」を意味します。しかし、多くの異邦人を擁し、外の異邦人世界に宣教することを使命としたアンティオキア教会において、「主」を意味する《キュリオス》というギリシャ語の称号は新しい意味内容を得て、信仰告白の中心的な位置を占めるようになります。
 
 ギリシャ語を用いるヘレニズム世界に福音が宣べ伝えられていった時、「イエスはキリストである」という告白の意味が理解されなくなっていきます。「キリスト」というギリシャ語は、本来「神から油を注がれた者」という意味のヘブライ語「メシア」の訳語であり、神から遣わされた救済者を指す称号でした。ところが、ユダヤ人の宗教的伝統(旧約聖書)と無縁なヘレニズム世界の人々は、そのような「キリスト」の意味を理解できないので、「イエス・キリスト」とか「キリスト」を一人の人の名前として扱うようになります。ヘレニズム世界で称号としての「キリスト」が個人の名前になっていく過程は、かなり急速であったようで、アンティオキアですでにその過程が始まっていると見られます。アンティオキアで信徒が《クリスティアノイ》(キリストの人々)と呼ばれたのも、そのような過程の始まりを示すしるしであると見られます。
 
 そこで、イエスの地位を表す称号として、「キリスト」に代わって《キュリオス》が用いられるようになります。七十人訳ギリシャ語聖書で神を指す《キュリオス》称号が、復活して高く挙げられたイエスにも適用されることになるのです。そのさい、「主がわたしの主に言われた」という詩編一一〇編一節の表現が重要な役割を果たしたと考えられます。《キュリオス》は、「あらゆる名にまさる名」、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、その前にひざまずく名」であります(フィリピ二・九〜一〇)。これは、《キュリオス》を全宇宙の支配者《コスモクラトール》の称号として用いていたヘレニズム世界の人々には、分かりやすい称号でした。イエスは復活して神の右に上げられ、天上や地下の諸霊、地上のすべての民を支配する地位につかれたのです。このような意味で、「イエスは《キュリオス》である」と言い表すことが、ヘレニズム世界での信仰告白の核心となったのです(コリントT一二・三、フィリピ二・一〇)。「主《キュリオス》イエス・キリスト」という御名に、この信仰が凝縮しているのです。
 
 復活されたイエスの地位を表す称号が「メシア/キリスト」から《キュリオス》に変わったことは、福音がユダヤ教の枠を超えて広くヘレニズム世界の諸民族に伝えられるようになった事態に対応しています。「メシア」はあくまでユダヤ教の枠の中での救済者でした。それに対して、《キュリオス》はギリシャ語圏の人々に直ちに理解されて、ユダヤ人と異邦人の区別なく「すべての者の主」(使徒一〇・三六、ローマ一〇・一二)となることができました。
 
 パウロはこのアンティオキア教会で確立していた「主イエス・キリスト」の福音を携えて全世界に宣教の働きを進めていくことになります。パウロはこの《キュリオス》としてのイエスの信仰をアンティオキア教会から「受けた」だけではなく、アンティオキア教会でのパウロの指導的な地位からすると、パウロ自身がこの信仰の形成に積極的に貢献したと考えられます。パウロ書簡に見られる《キュリオス》キリスト、「御子」キリスト、先在・派遣のキリスト、御霊のキリストなどの深遠なキリスト論は、ダマスコでの聖霊体験を土台として、ユダヤ教の伝統、ヘレニズム世界の文化的背景、教会の具体的状況の中で、アンティオキア時代に形成され確立したものと見られます。この意味で、パウロの伝記の中で空白期のようなアンティオキア時代は、きわめて重要な時期であったことが分かります。



キプロス・ガラテヤ州南部への伝道旅行



 このアンティオキア時代に、パウロがバルナバと共にキプロスとガラテヤ州南部の諸都市に伝道したことが、使徒言行録一三章と一四章に伝えられています。この伝道活動は、出発の記事(一三・一〜三)と帰着の記事(一四・二六〜二八)からも分かるように、二人はアンティオキア教会から派遣され、その教会の宣教活動の一環として行ったものでした。ここでその詳細に立ち入ることはできませんので、本講解の関連で必要な点について絞って簡単に触れておきます。
 
 パウロとバルナバはキプロスでの活動の後、小アジアに上陸してピシディア地方のアンティオキア、ルカオニア地方のイコニオン、リストラ、デルベの諸都市に伝道します。ここに名を上げた諸都市はみな、ローマの行政区画上は「ガラテヤ州」に属します。当時の「ガラテヤ州」は、北部ではアンキュラ(現在のアンカラ)を中心とするガラテヤ地方、南部ではパンフィリア地方、ピシディア地方、ルカオニア地方(これらの地方を新共同訳が「州」としていることは問題)を含む、南北に長い州でした。それで、「ガラテヤ書」はこの時にパウロが伝道した「ガラテヤ州」南部の諸都市の教会にあてられた手紙であるとの説が出てくるわけです。しかし、そうではなくて「ガラテヤ州」北部の、本来ガラテヤと呼ばれていた地方の教会にあてられたものであることは、後述する「執筆の事情」のところで触れることになります。

 この伝道旅行において、パウロとバルナバはユダヤ人にも異邦人にも福音を告げ知らせています。まずユダヤ人の会堂に入って、イエスが約束されたメシアであることを説きますが、不信のユダヤ人たちに退けられ追い出されます。かえって異邦人たちが多く福音を受け入れ、信仰に入ったことが強調されます。この伝道旅行でもパウロはユダヤ人から石打のリンチを受けていますが(使徒一四・一九)、これはパウロが、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、キリストを信じることによって救われるという福音を宣べ伝えたことで、ユダヤ人の憎しみを買ったことを示しています。アンティオキアに帰ってきて教会で行った報告においても、「神が異邦人に信仰の門を開いてくださった」ことが特に意味のあることとして取り上げらています(一四・二七)。これは、すぐ後にくるエルサレム会議の主題を準備する表現です。ルカはこの伝道活動の記事で、アンティオキア教会の活動によって多くの異邦人が信仰に入ってくるようになった事態を報告しているのです。

 この伝道活動は普通、パウロの「第一次伝道旅行」と呼ばれています。この伝道地域がキリキアにごく近い地方に限られていることが注目されます。それはアンティオキアの教会が、合併属州である「シリア・キリキア州」(その首都がアンティオキア)の範囲を超えて、徐々にその宣教活動を広げていく様子を示しているようです。この伝道旅行はアンティオキア教会の宣教活動の一環としてなされたものですから、パウロが独立で進めた「第二次伝道旅行」と「第三次伝道旅行」とは性格が異なりますので、並べて一連の番号をつけるのは問題ですが、本講では通例に従って、こう呼ぶことにします。また、この伝道旅行をエルサレム会議の後、アンティオキアでのペトロとの衝突事件の前の時期と考える説もありますが(佐竹明『使徒パウロ』も)、その根拠は十分ではないと思われます。

万民の主イエス・キリスト


 このように、ダマスコとアンティオキアを拠点とするパウロの初期の宣教活動を見ていきますと、パウロはごく初期からユダヤ人の激しい敵意に会い、命の危険にさらされていたことが分かります。パウロに対するユダヤ人の敵意は、パウロがステファノに代表されるギリシャ語系ユダヤ人キリスト教徒に対して抱いた敵意と同じです。すなわち、イエスをキリストと信じることによって救われるのであって、そのさいユダヤ教律法の遵守は必要ではないとする主張に対して、律法に熱心なユダヤ人が抱く敵意です。パウロは律法にきわめて熱心なユダヤ教徒であり、その熱心さのゆえにイエスを信じる者を迫害したのですから、ダマスコ途上で復活の主イエスと出会ったときに、律法遵守によって義とされようとする姿勢の倒錯を徹底的に思い知らされたのでした。パウロは、まさに自分が迫害していた信仰に転換したのです。それで、パウロの福音宣教は、回心の直後から「ユダヤ教律法とは無関係の救い」を宣べ伝えるものとなったのです。

 このことは、パウロが最も初期の活動時期においてすでに、ユダヤ教に無関係の異邦人に福音を告げ知らせる立場におり、その使命を自覚していたことを示しています。回心の体験と異邦人伝道の使命感とは、パウロ自身ダマスコ体験を「御子をわたしの内に啓示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」と語ることができるほど、密接に結びついていました。

 パウロにとってイエス・キリストはユダヤ人の救済者メシアであるだけでなく、地上のすべての民の主《キュリオス》であり、救い主《ソーテール》であるのです。キリストはユダヤ人を信仰によって義とし、ユダヤ教の外にいる異邦人を信仰によって救ってくださる方なのです。この福音理解に呼応して、実際の福音宣教の働きにおいても、パウロは他の誰よりも積極的にユダヤ人以外の民族に福音を宣べ伝えていきます。この「万民の主」としてのイエス・キリストの福音は、今回見たように、パウロのアンティオキア時代までの最初期に確立していたことが分かります。



第三節 エルサレム会議


エルサレムとアンティオキア

 その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。 (ガラテヤ二・一〜二a)

 イエス・キリストの福音は当初(三〇年代と四〇年代)、シリア州を中心に進展していきました。シリア州は北ではシリア・キリキア地方、南ではパレスチナの諸地方、すなわちユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ、沿岸地方を含んでいます。この州の主要都市は、北では州都であるアンティオキア、南ではユダヤ人の聖都であるエルサレム、そして中間にあるダマスコと地中海沿岸のカイサリアです(パウロの生涯と活動は最初から最期までこれらの諸都市と深く関わっています)。この時期、シリア州の各地に信徒の群れが広がっていったと見られますが、その中でエルサレム教会とアンティオキア教会が福音の担い手としてもっとも重要な位置を占めていました。
 
 二つの教会は対照的な性格の教会でした。エルサレム教会はおもにヘブライ/アラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人から成る教会であり、ユダヤ教の伝統に忠実で、イエス伝承の担い手またイエスの復活の証人としての「十二人」を中心とする、母教会的な教会でした。それに対してアンティオキア教会は、エルサレムから追放されたギリシャ語系ユダヤ人によって設立され指導される教会で、ギリシャ語を用いるユダヤ人と多数の異邦人から構成されていました。もともとユダヤ教律法や神殿祭儀に批判的なギリシャ語系ユダヤ人に指導されていることや、非ユダヤ人信徒が多数を占めていること、さらにヘレニズム世界の代表的大都市にあるという環境から、アンティオキア教会はユダヤ教伝統には拘束されない自由な立場を取り、異邦人への伝道を熱心に推し進める教会でした。
 
 この二つの教会は、性格が対照的ではありますが、同じ主イエス・キリストに属する民として、お互いに重要性を認めて密接な関係を維持したようです。ルカが伝えるところによると、アンティオキアに信徒の群れが成立したとき、エルサレム教会は主要メンバーの一人であるバルナバを派遣して、貴重なイエス伝承や福音伝承を伝えていますし、その後も「預言者たち」がエルサレムからアンティオキアに来ています。また、飢饉の時にアンティオキア教会はエルサレムに援助の金品を送り届けたりしています(使徒一一・二七〜三〇)。

バルナバ

 この二つの教会の結びつきに最も重要な役割を果たした人物はバルナバです。バルナバは、ルカが伝えている伝承(使徒四・三六〜三七)によると、本名はヨセフ、キプロス系のレビ族のユダヤ人です。新共同訳はキプロス「生まれの」と訳していますが、原語は出身とか家系を示す語であって、必ずしも出生地を指すわけではありません。聖都エルサレムには様々な地方出身のディアスポラのユダヤ人が住居を構えていましたから、バルナバの家族もキプロスから出てきてエルサレムに住んでいて、そこでバルナバが生まれたという可能性もあります。出身地からして、また後の活動が示すように、バルナバはギリシャ語を母語とするはずですが、幼いときからエルサレムでヘブライ/アラム語に親しみ、バイリンガルな生活をしたのではないかと推定されます。それで、エルサレムにイエスを信じる人たちの集会が成立したごく初期に、キプロスの土地資産を売却して「使徒たち」に提供し、共同生活に参加したようです。「使徒たち」(彼らはアラム語系ユダヤ人)から「バルナバ」(慰めの子)と呼ばれて篤い信頼を受けていたこと、これほどの重要人物でありながらギリシャ語系ユダヤ人の「七人」の指導者名簿に彼の名がないこと、ステファノ事件をきっかけとする迫害の後もエルサレムに残っていることなどから見て、バルナバは「十二人」を中心とするアラム語系ユダヤ人の共同体に参加し、その中で重要な位置を占めていたと考えられます。
 

 

 バルナバはステファノに代表されるギリシャ語系ユダヤ人の一員であって、迫害でエルサレムから追われ、アンティオキアまで行って異邦人に福音を伝えた「キプロス出身の」人である(使徒一一・二〇)、すなわちアンティオキア教会の創設者の一人であるという推察もあります(佐竹『使徒パウロ』も)。しかし、「七人」に含まれていないこと、ギリシャ語を母語とするディアスポラ・ユダヤ人にも、アラム語をもよくして「十二人」を中心とするエルサレム教会に属する人たちがかなりいたこと(たとえばマルコやシラスなど)、後にバルナバがエルサレムとアンティオキアの橋渡し役を果たすという事情を考えますと、バルナバは初めからアラム語系ユダヤ人の共同体に参加していたと見る方がよいと考えられます。

 

 ギリシャ語を話すディアスポラのユダヤ人でありながらエルサレム教会で重要な地位を占めるというバルナバの特殊な立場が、彼にアンティオキア教会とエルサレム教会の橋渡し役をさせることになります。まず、アンティオキアに多くの異邦人を含む教会が成立したとき、エルサレム教会からバルナバが派遣されて(バルナバが自発的に行ったのをルカがそう表現したという可能性も捨てきれません)、アンティオキア教会に貴重なイエス伝承と福音伝承を伝えて指導し、教会の指導者として中心的な役割を担います。このような立場から、アンティオキア教会が、会議であれ援助であれ、エルサレム教会と関わるときはいつも、バルナバが第一に代表として選ばれることになります。
 
 さらにバルナバは、パウロの初期の活動において、よき理解者また同労者として重要な役割を果たします。パウロが回心後三年目に初めてエルサレムを訪れたとき、迫害者としての前歴を恐れるエルサレム教会の人々に、キリストの証人としてのパウロを紹介したのはバルナバでした。エルサレムでユダヤ人から命を狙われてタルソに逃れていたパウロを探し出して、アンティオキア教会で一緒に活動するようにしたのはバルナバでした。そして、アンティオキア教会の異邦人伝道の担い手として、キプロスやガラテヤ州南部の諸都市でパウロと伝道の労苦を共にしたのはバルナバでした。
 
 このような事実から、バルナバはパウロの福音理解に深く共鳴していたことがうかがえます。先に見ましたように、パウロはユダヤ教律法への熱心さのゆえに、律法からの自由を唱えるギリシャ語系ユダヤ人信徒を迫害したのですが、それだけに、復活したイエスに遭遇して回心したとき、ユダヤ教律法がもはや救いの道としては終わったのだという理解も徹底していました。アンティオキア教会において、パウロはユダヤ教伝統から自由な福音の提唱において急先鋒であったと思われます。バルナバもディアスポラのユダヤ人として、エルサレムにいたときからステファノらの主張に共感するところがあったのでしょうが、アンティオキアに来てからは、パウロと一緒にますます明確に律法から自由な福音を推し進めることになったと見られます。
 
 バルナバはアンティオキア教会の中心人物ですから(使徒一三章一節では指導者の筆頭に上げられています)、バルナバの福音理解はアンティオキア教会の在り方を決める大きな要因となったはずです。アンティオキアでは、異邦人で信仰に入った者に割礼を受けることは求められませんでした。すなわち、割礼を受けてユダヤ教徒となり、ユダヤ教の諸々の規定を守ることは要求されなかったのです。アンティオキアでは、異邦人は異邦人のままで、キリストに結ばれることにより神の子とされ、神の民に属する者となるという原則が確立していました。

割礼の問題

 ところが、この点について問題が起こりました。「ある人々がユダヤから(アンティオキアに)下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えた」のです(使徒一五・一)。ユダヤからアンティオキアに下って来た「ある人々」とは、おそらくエルサレム教会の「ファリサイ派から信者になった人々」(使徒一五・五)か、彼らの同調者たちであったと考えられます。
 
 成立後十数年を経て、エルサレム教会にも変化が生じていました。イエスの直弟子である少数のガリラヤ人がエルサレムで始めたイエスをメシアとする宣教活動は、神の霊の大きな働きによって、多くのエルサレムのユダヤ人を獲得していきます。大祭司を頂点とするサドカイ派は初めから厳しく反対して、この運動を弾圧しましたが、ファリサイ派やエッセネ派の中には信仰に入る者が多く出ました。ルカが「祭司も大勢この信仰に入った」(使徒六・七)と言うとき、サドカイ派の上級祭司ではなく、下級祭司やエッセネ派の祭司的な立場の人々がエルサレム教会に参加するようになったという事実が背後にある可能性があります。
 
 彼らはユダヤ教伝統の熱心な擁護者たちでしたから、このようなユダヤ人が増えるにつれて、エルサレム教会ではユダヤ教の伝統に忠実に生きることが強調されるようになる傾向が出てきます。モーセ律法と神殿祭儀に対して自由な立場をとるギリシャ語系ユダヤ人がエルサレムから追放されてからは、この傾向は加速されたと考えられます。エルサレム教会の中でユダヤ教律法の厳格な実行を求めるグループの中心的な人物は、「主の兄弟」と呼ばれるヤコブでした。この人物は、パウロが回心後三年目にエルサレムを訪ねたとき、すでにペトロと並んで影響力のある立場にいたことがうかがえます(一・一九)。
 
 ヤコブは「主の兄弟」と呼ばれ、イエスの兄弟(イエスの従兄弟であるとする説も有力です)であるという血縁から、教会の中で重要視されたのでしょう。ヤコブはイエスの存命中はイエスの活動に懐疑的でしたが、復活されたイエスの顕現に接して回心し、エルサレムの教会に加わったとされています。ヤコブは「義人」と呼ばれていることからも分かるように、ユダヤ教律法の厳格な実行者として、ユダヤ人社会でも尊敬されていました。それで、エルサレム教会の中でユダヤ教伝統に忠実なグループが増えるにしたがって、ヤコブの権威も増し加わり、それと共にペトロを代表とする「十二人」の影響力は相対的に低下したようです。この傾向を決定的にしたのは、ヘロデ・アグリッパ一世が、律法熱心なユダヤ人の歓心を買おうとして、四三年にエルサレム教会に迫害の手を伸ばし、「十二人」の一人であるゼベダイの子のヤコブを剣で殺し、ペトロを逮捕した事件です。ペトロは奇跡的に獄から救い出されますが、すぐにエルサレムを去って他の土地に行きます(使徒一二章)。
 
 この事件でペトロがエルサレムを去ってからは、「主の兄弟」ヤコブがエルサレム教会を代表するようになります。ますます増大するユダヤ人の敵意の中でエルサレム教会が存続するためには、ユダヤ教律法への忠誠において模範的とされるヤコブのような人物が教会の顔となることが必要という面もあったようです。パウロがあげているイエス復活の証人のリストにも、ペトロを筆頭とする系列と並んでヤコブを筆頭とする系列(コリントT一五・七)が出ていることにも、ヤコブの権威の確立がうかがえます。後にユダヤ人キリスト教の流れの中で成立したと見られる偽典には、復活されたイエスは最初にヤコブに現れた(ヘブル人福音書)とか、イエスはヤコブを後継者に指名した(トマス福音書)という伝承が用いられるようになります。
 
 このような傾向を強めつつあるエルサレム教会が、アンティオキアでは異邦人がどんどんと割礼を受けないままで教会に加入しているということを伝え聞いたとき、これを放置できない事態と見たわけです。律法への熱心に燃える一部のユダヤ人がアンティオキアまで来て、イエスを信じる異邦人信徒は、割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ神の契約にあずかることはできない、すなわち救われないと主張して、異邦人信徒に割礼を施すことを要求します。彼らは異邦人伝道に反対したのではありません。異邦人信徒に割礼を受けてユダヤ教徒になること、すなわちユダヤ人になることを要求したのです。このような主張を掲げた人々を、普通「ユダヤ主義者」と呼んでいますが、厳密に言うと「ユダヤ化主義者」と呼ぶべきでしょう。彼らはたんにユダヤ教の優越性を叫んだのではなく、異邦人信徒をユダヤ人にしようとしたのです。以下で通例に従って「ユダヤ主義者」という用語を使いますが、内容は「ユダヤ化主義者」であることを念頭に置いておいて読んでください。

「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった」。 (使徒一五・二)


 パウロやバルナバはこの福音のユダヤ化に激しく反対します。もし「ユダヤ化主義者」の要求に屈して、異邦人信徒に割礼を施してユダヤ教徒にするようなことをすれば、キリストの福音はユダヤ教の枠に閉じ込められ、すべての民への救いの告知ではなくなり、パウロたちの宣教はユダヤ教の一派の宣教活動にすぎなくなります。
 
 エルサレムから来た一部のユダヤ人がこのような割礼の要求をしたので激しい議論になりましたが、この点で意見が対立したからといってエルサレム教会との関わりを絶つことはできません。エルサレムは何といっても神がその名を置かれた聖都であり、そこに成立した教会は主イエスの直弟子たちが設立した教会として、全世界のキリストの民にとって根になる存在です。それから切り離された福音は、根なし草になってしまいます。当時の代表的教会であるエルサレムとアンティオキアの二つの教会が分裂すれば、生まれたばかりのキリストの民は致命的な打撃を受けます。ここはどうしても、異邦人に割礼を施してユダヤ人にすることは拒否して福音の真理を護ると同時に、エルサレム教会との関係を維持する方策を話し合わなければならないという状況に迫られます。そこで、アンティオキア教会はパウロとバルナバを含む数名の代表団をエルサレムに派遣することになります。
 
 パウロはこのエルサレム行きを「啓示によるもの」としています。この「啓示」がパウロの個人的な祈りの中での体験であるのか、教会の祈りの場での霊感された預言によるもの(たとえば使徒一三章二節)かは決定できません。いづれにしても、このエルサレム行きはエルサレム教会の指図によるものではなく、パウロまたはアンティオキア教会側からの自発的な決定であること、いや、神の指示によるものであることを言おうとしています。
 
 パウロは「その際、テトスも連れて行きました」。テトスはギリシャ人の信徒で、割礼を受けないままでアンティオキア教会の一員として活動していました。パウロはテトスを、割礼を受けない異邦人信徒の実例として、意図的にエルサレム会議に連れて行ったのです。
 
 「その後十四年たってから」は、最初のエルサレム訪問から(足掛け)十四年と考えられますので、このエルサレム会議はほぼ四八年と見られます。パウロはこの時五十才前後の働き盛りの年代であったことになります。

パウロの立場

 わたしは、自分が無意味に走っていることにならないために、また走ったことにならないために、自分が異邦人に宣べ伝えている福音を、おもだった人々との個人的な協議の場においてですが、人々に提示しました。 (ガラテヤ二・二b 私訳)

 この節の動詞《アナティセマイ》は「(協議や決定のために)提示する」という意味です。新共同訳の「に話して、意見を求めた」という表現は意味が弱いと思います。NRSVもこの私訳とほぼ同じ理解を示しています。

 ガラテヤ書のこの段落(二章一〜一〇節)と使徒言行録の一五章は、同じエルサレム会議のことを書いていると考えられますが、二つの記事は一読してかなり違った印象を受けます。それは、パウロはこの会議の一方の当事者であり、自分の立場を主張するために書いているのに対して、ルカは数十年後に福音の進展の歴史を語るにさいして、教会の一致を美化する立場で書いているという、両者の立場と動機の違いからくるものでしょう。
 
 使徒言行録一五章の記事によりますと、この会議はヤコブを議長とする使徒たちと長老たちの公式会議という印象を受けます。それで、この会議はエルサレムの「使徒会議」と呼ばれることが多いわけです。しかし、「おもだった人たちに個人的に」というパウロの記述からすると、公式の会議というより個人的な会談であったようです。すくなくともこの話し合いは、後世の世界教会会議のように、使徒たちが全教会の指針を決定するという性質のものではなく、あくまでエルサレム教会の「おもだった人たち」(ヤコブ、ケファ、ヨハネら)とアンティオキア教会の代表者(バルナバ、パウロ)による二教会間協議であったと見られます。
 
 いずれにせよ、パウロにとってはこのエルサレム会談は重要な協議でした。パウロはすでに十数年にわたって「律法とは別の(すなわち、ユダヤ教の外での)神の義」を宣べ伝えてきました。現在も異邦人に、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、イエス・キリストを信じることによって救われると宣べ伝えて、多くの異邦人を異邦人のままで教会に受け入れてきました。もし、このようなパウロが宣べ伝えてきた福音が、エルサレム教会の指導者たちに認められず、異邦人信徒に割礼が要求されるようなことになれば、パウロは、その要求を受け入れて異邦人信徒に割礼を施すか、その要求を拒否してエルサレム教会と分裂するか、どちらかを選ばなければならない窮地に立たされます。異邦人信徒に割礼を施すことにすれば、パウロがこれまで、ユダヤ人から命を狙われる危険を冒しても宣べ伝えてきた、律法から自由な福音のための働きは無意味になってしまいます。もし異邦人信徒の割礼を拒否してエルサレム教会と袂を分かてば、パウロが設立した教会はイエスの直弟子たちが伝えたイエス伝承と福音伝承から切り離されて、新しい別のヘレニズム的救済宗教に陥る危険を背負います。
 
 おそらく熱烈なユダヤ人としての体質からして、パウロにはイスラエルの宗教的伝統の担い手であるエルサレムから切り離されるということは考えられなかったのでしょう(そのことはパウロの以後の活動にも現れています)。また、イエスをキリストと告白する信仰を宣べ伝える者として、イエスの出来事の原証人であるエルサレムのユダヤ人指導者と分裂することはできなかったのでしょう。それで、もしエルサレム教会が異邦人信徒に割礼を求める決定をしたら、「ユダヤ主義者」はエルサレムの権威を後盾にして活動を強め、異邦人に割礼を強制する傾向は歯止めがきかなくなるでしょう。そうすれば、パウロが現在進めている異邦人伝道は無意味になりますし、これまで苦労してきたことも無駄になります。そこでパウロは、自分が宣べ伝えている「律法とは別の神の義」の福音が人間の思いから出たものでなく、復活されたキリストとの出会いを通して神から直接与えられた啓示であると確信していますので、この福音をエルサレム教会のおもだった人々に直接提示して、この福音に対する彼らの承認を迫ります。ここはどうしても、エルサレム教会の正式の承認を得て、エルサレムの権威を後盾にして異邦人信徒に割礼を要求する「ユダヤ主義者」の活動を封じ、自分の異邦人伝道が無駄にならないようにしなければならないのです。

会議の成果

 しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。 (ガラテヤ二・三〜四)

 協議の経過と結論については、パウロは何も語っていません。ギリシャ人であるテトスが割礼を強制されなかったという事実だけを報告して、エルサレム教会がパウロの立場を承認したことを伝えます。パウロが意図したとおり、目の前にいる異邦人信徒テトスに割礼を施すべきかどうかで激論があったようです。テトスに割礼を要求するエルサレム教会の一部のユダヤ人を、パウロは同じキリストに結ばれている兄弟と呼ぶに値しない者と断定して、「偽兄弟」と呼んでいます。彼らがエルサレム教会の中にいるのは、神によって召されてキリストの民に加えられたのではなく、盗人のようにこっそりと忍びこんできたのだと決めつけます。パウロがこのように激しい言葉で彼らを非難するのは、いまガリラヤの信徒に割礼を要求している「ユダヤ主義者」に対する激しい憤りが、当時のエルサレムの敵対者たちに重ねられているからでしょう。
 
 彼らが盗もうとして狙っていたものは、「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」だとパウロは言います。キリストに結ばれている者は、もはやユダヤ人も異邦人も区別なく、神の子とされているのです。ユダヤ教の規定にはもはや拘束されていないのです。そのような自由の中に生きている異邦人信徒に割礼を強要することは、外にいる自由な彼らを再びユダヤ教の細かい規定に拘束される奴隷として、自分たちの特殊な囲いの中に取り込もうとする行為であり、他人に所属する者を奪う盗人の行為であると、パウロは極言するのです。
 

 福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 (ガラテヤ二・五)

 このような「潜り込んで来た偽の兄弟たち」の異邦人信徒に割礼を施せという要求、さしあたってはテトスに割礼を施せという要求に、パウロたちは屈服することなく、また諸般の事情を考慮して、テトスだけならばとかの条件をつけて、ある程度譲歩するということもいっさいしないで、自分たちの主張を貫き、テトスの割礼を拒否しました。もしここでテトスの割礼を認めるならば、異邦人信徒に割礼を施せという彼らの主張を認めることになり、やがてはパウロが設立した諸集会の異邦人信徒にその要求が波及することを防ぐことができなくなります。
 
 もしそうなれば、パウロが宣べ伝えてきた「福音の真理」、すなわち、ユダヤ人と異邦人の区別なく、信仰によってイエス・キリストに結ばれることによって救われるという、福音のもっとも基本的な原理が崩れることになります。ユダヤ人にならなければ救われないことになるのです。パウロはこの時、福音の全将来がかかっていることを自覚して、「かたときも」譲歩屈服することはしなかったのです。
 
 パウロが、「福音の真理が『あなたがたのもとに』とどまっているように」と書くとき、それは、この手紙の読者であるガラテヤの信徒だけではなく、将来の異邦人信徒の全体を念頭において書いています(エルサレム会議の時点ではガラテヤの集会はまだ存在していません)。パウロがこのとき断固としてテトスの割礼を拒否してくれたおかげで、わたしたち現在の異邦人信徒は、割礼を受けたり、安息日規定を守ったり、豚肉を食べないなどの食物規定を守ったりしなくても、すなわちユダヤ人にならないで、日本人は日本人のままで、キリストにあって救いに到らせる神の力を受けることができるのです。

 おもだった人たちからも強制されませんでした。…この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいこことです。神は人を分け隔てなさいません。…実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 (ガラテヤ二・六)

 この異邦人信徒の割礼の問題、具体的にはテトスの割礼の問題に関して、エルサレム教会の「おもだった人たち」も、テトスに割礼を強制することはなかったし、パウロの異邦人伝道に対していかなる注文をつけることもなかった、とパウロは言明します。そのさい、パウロが主張する「福音の真理」が彼らの了解の上に成立するものではなく、パウロに直接与えられた啓示に基づくものであることを強調する文を挿入します。エルサレム教会の「おもだった人たち」がどのような権威を持つ者であれ、それはパウロに無関係であること、パウロが提示する福音は神から受けたものであり、エルサレム教会の権威に依存するものでないことを、改めて明言します。

異邦人への使徒

 それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としたの任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 (ガラテヤ二・七〜九)

 

 七節から九節までは長い一つの文で、主文は「それどころか、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました」という箇所です。その前に「〜を知って」(七〜八節)と「〜を認めて」という理由を示す副文があり、後に「〜ことになった」という結果を示す副文が続きます。

 「おもだった人たち」は異邦人信徒に割礼を要求するどころか、「反対に」(七節冒頭の語)、異邦人信徒の割礼を拒否するパウロとバルナバの立場を認めて、一致のしるしとして右手を差し出したのです。それは、「おもだった人々との個人的な協議の場において」パウロが行った捨て身の告白によって、彼らが、パウロが与えられた神の恵みによて使徒とされたことを認め、パウロに「無割礼の福音」が任されていることを知ったからです。
 
 パウロは、「この福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」(一・一二)ものであることを自覚していますし、今の自分の態度に異邦世界における福音の将来がかかっていることを確信していますので、エルサレム教会の「おもだった人々」の前に、恐れることなく、自分の全存在を投げ出して、確信するところを語ります。このパウロの姿は、後にこのパウロの「信仰による義」の福音を携えて、ローマ教会指導者の前で「われここに立つ」と叫んだ改革者ルターの姿を想い起こさせます。
 
 パウロの場合は、エルサレム教会の指導的な立場にいる人々が、自分たちを導いている同じ御霊がパウロに彼独自の福音を委ねられたことを認めたので、一致の握手をすることができました。彼らは、復活されたイエスがペトロに現れて、福音を宣べ伝え、主の民を養うことを任されこと、それがエルサレム教会(それは割礼を受けている者たちの教会でした)の土台であることを知っていましたが、そうされた同じ主がパウロに働きかけて、異邦人への使徒とされたことを認めたのです。律法熱心なヤコブを筆頭とするユダヤ人指導者たちが、「無割礼の福音」を宣べ伝えるパウロを認めるということはよくよくのことです。その場に御霊の力強い働きがあったとしか考えられません。
 
 ここで、彼らはパウロに「無割礼の福音」が委ねられていることを認めたと語られています。この句は、「ペトロには割礼の福音が任されたように」と句と並行していますので、「割礼を受けていない人々に対する福音」と理解してよいでしょう。しかし、この表現は同時に「割礼を伴わない福音」と理解することもできます。事実、パウロは割礼を受けていない異邦人に「割礼を伴わない福音」を宣べ伝え、ここでもそれを主張しているのです。彼らはその「割礼なしの福音」を認めたのです。
 
 ここで初めて、エルサレム教会で「柱と目されるおもだった人たち」が「ヤコブとケファとヨハネ」と名前を挙げられています(この三人の名前のリストでヤコブが筆頭にきていることについては先に触れました)。この協議に出席した人たちはこの三人だけではないかもしれませんが、この三人がエルサレム教会を代表して、アンティオキア教会を代表するパウロとバルナバに、一致のしるしとして右手を差し出したのです。ここに性格の異なる二つの代表的な教会は、異邦人信徒の割礼問題で決裂することを回避し、握手することができたのです。
 
 この合意成立の結果、パウロとバルナバが代表するアンティオキア教会は異邦人への福音宣教を使命として働き、「彼ら」(ここではおもにアラム語系ユダヤ人から成るエルサレム教会を指すと見られます)は割礼を受けている人たち(ユダヤ人)に福音を伝える役割を引き受けることになったのです。

エルサレム教会への献金

 ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。 (ガラテヤ二・一〇)

 この合意にさいして、エルサレム教会の「おもだった人たち」はパウロとバルナバに、ひいては異邦人信徒たちに、「どんな義務も負わせませんでした」が、ただ一つ、「貧しい人たちのことを忘れないように」という要望が加えられました。
 
 「貧しい人たち」というのはエルサレム教会の信徒たちを指します。エルサレム教会は最初から資産を共有する共同体を形成したことが、使徒言行録の初めの五章に示唆されています。信徒たちは資産を持ち寄って使徒たちに委ね、その共有の資産によって、食卓を共にし、教会の運営や活動を進めたようです。詳しいことは分かりませんが、このような共同体の在り方は、エッセネ派の影響があったのではないかと考えられます。先にも触れましたように、当時エルサレム南西地区にはエッセネ派の居住区がありました。そして、最後の晩餐が行われ、イエスの復活後、最初の信徒たちが集まった家を記念する教会も、このエルサレム南西のシオン地区にあります。おそらく、エルサレム教会はこの地区に集会の場所を持ち、最初から自然に、身近にあるエッセネ共同体をモデルにして共同体を形成したのではないかと考えられます。「十二人」の指導体制、「三人」の最高幹部、共同の食卓、資産の共有など、「死海文書」に見られるエッセネ派クムラン宗団の共同体規定に似たところが多く認められます。
 
 エッセネ派の人々は自分たちを「貧しい者たち」と呼んでいました。これは詩編などで、神に敵対する傲慢な人たちに対して、神に縋る敬虔な人たちを指すのに用いられている呼び方を受け継いだものです。イエスの弟子たちも、主がご自分の民を「貧しい人々」と呼ばれたことを知っています。エルサレム教会は自分たちのことを「貧しい者たち」と自称するようになります。(後にユダヤ人キリスト教徒の一派は、「貧しい」のヘブライ語である《エビオーン》から「エビオン派」と呼ばれるようになります。)
 
 初期のエルサレム教会は主イエス・キリストの来臨《パルーシア》を熱烈に待ち望んでいましたので、このような共有資産で運営していくことで十分と考えられました。しかし、十年二十年と時が経ちますと、共有資産だけではやっていけなくなります。外からの運営資金の供与がどうしても必要となってきます。エルサレム会議の時、「柱と目されるおもだった人たち」は、パウロとバルナバに「割礼なしの福音」を異邦人に宣べ伝えることを認めて、働きの領域を二つに分けましたが、そのさい、異邦人の諸教会がエルサレム教会の維持のために資金協力はするようにと要望したのです。
 
 パウロはこの要望に応えて、自分が創設した異邦人の諸教会から献金を集めてエルサレム教会に届ける活動を熱心に進めます。すでにこの「ガラテヤ書」を書いた時点で、パウロは「これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」と言っています。この募金活動は、パウロの伝道生涯に重要な意味を持つようになり、しばしば手紙の中で触れるようになります。それについては、別の機会に詳しく触れることになりますが、ここでは、エルサレム会議でなされた要望の性質について説明するにとどめます。



第四節 アンティオキアでの衝突


共同の食事の問題

 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 (ガラテヤ二・一一〜一二)

 エルサレム会議でパウロとバルナバは当面の目的を達しました。すなわち、アンティオキア教会が行っている割礼なしの異邦人伝道をエルサレム教会に承認させることに成功したのです。しかし、エルサレム会議は福音における律法の位置の問題、具体的にはキリストの福音とユダヤ教の関係の問題を根本的に解決したものではありませんでした。それは、いわば「両論並記」の解決でした。ユダヤ人信徒はユダヤ教律法を遵守する義務があるが、異邦人信徒はユダヤ教律法を守る必要はないという、信徒を二つのグループに区分した上での解決でした。
 
 この解決は、パウロの立場からすれば、不徹底なものであったはずです。パウロのキリスト体験は、キリストが律法の終わりとなられたことを啓示しました。律法にもっとも熱心なパウロが、律法がもはや救いの道としては役割のないことを、身をもって知ったのです。「律法なしの義」という真理は、ユダヤ人にこそ宣べ伝えなければならない福音の核心です。そのユダヤ人信徒には、これまでと同じようにユダヤ教律法の遵守を要求するというのでは、パウロの福音はユダヤ人には受け入れられなかったことになります。パウロの捨て身の告白も、すでにヤコブの指導下にあるユダヤ人教会たるエルサレム教会の受け入れるところとはならず、ただ異邦人信徒には「割礼なしの福音」を宣べ伝えることを承認したにとどまりました。
 
 このようなユダヤ教律法問題の解決の不徹底さからくる矛盾が、ペトロがアンティオキアに来た時にあらわになりました。アンティオキアに来たとき、ペトロは「異邦人と一緒に食事をした」、すなわちアンティオキア教会で行われていたユダヤ人信徒と異邦人信徒の共同の食事に参加していたのです。この共同の食事について事件が起こるのです。
 
 初期の信徒の集会では、共同の食事は信仰生活の中心でした。その共同の食事の場に復活されたキリストが現臨され、そこでキリストの十字架の死が記念され、神への賛美と祈りが捧げられ、信徒相互の愛の交わりが具体化したのでした。アンティオキアでは、キリストに結ばれている者は、もはやユダヤ人と異邦人の区別なく、この食卓の交わりを共にしたのでした。ところが、ユダヤ人にとって異邦人と食卓を共にすることは、律法を破り、父祖の慣習(宗教)を捨てる重大な行為でした。アンティオキアのユダヤ人信徒はあえて一線を越えて、異邦人信徒と食卓を共にしたのです。
 
 アンティオキアでユダヤ人信徒と異邦人信徒が一緒に食事をしたのはいつからであったかは、確定する資料がありません。エルサレム会議以前にすでに、パウロやバルナバの指導の下にそういう共同の食事が実現していた可能性もあります。あるいは、エルサレム会議での決定を受けて、それまでためらわれていた共同の食事が一気に実現したのかもしれません。エルサレム会議では割礼のことだけが問題になっており、共同の食事が問題になっていない(「使徒教令」の問題については後述)ところを見ると、共同の食事はエルサレム会議後に実現したと見る方が自然でしょう。いずれにしても、エルサレム会議の後しばらくしてペトロがアンティオキアに来たときには、ユダヤ人信徒と異邦人信徒は共同の食卓を囲んで礼拝を捧げていました。ペトロはこの共同の食事に参加したのです。
 
 ところが、「ヤコブのもとからある人々が来る」におよんで、ペトロは「割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだした」のです。「ヤコブのもとからの人々」とは、ヤコブの指導下にあるエルサレム教会のユダヤ人の有力信徒であり、律法に対してヤコブと同じく厳格な立場をとっていた人々です。エルサレム教会は、アンティオキアでユダヤ人が異邦人と食事を共にしていること、さらに「割礼の福音」を委ねられたペトロまでが異邦人との共同の食卓に加わっていることを伝え聞いて、それを放置できない事態として、査問と説得の使節団を送り込んできたのです。
 
 ペトロは、エルサレム教会の指導者(使徒たち)の中では、パウロの立場をもっともよく理解している人物でした。ルカはペトロを異邦人伝道の口火を切った使徒として描いています(使徒言行録一〇章)。その時すでにカイサリアで、ペトロはまだ割礼を受けていない人々と食事を共にしています。「割礼を受けていない者たちのところに行き、一緒に食事をした」というエルサレム教会での非難に対して、ペトロは自分の行為を神の啓示と承認に基づくものと、堂々と弁論しています(使徒一一・一〜一八)。エルサレム会議でも、パウロの立場を擁護しています(使徒一五・七〜一一)。使徒言行録の記事には、パウロとペトロの一致を強調しようとするルカの意図からくる偏りがありますが、それでも、ペトロは厳格な律法主義者である「義人」ヤコブと違って、律法を超えておられたイエスの直弟子として、律法に対してはかなり自由な立場をとっていたことは十分うかがえます。それは、ペトロがアンティオキアに来たとき、ためらわずに異邦人との共同の食事に参加したことにも表れています。
 
 ところが、ヤコブが代表するエルサレム教会から査問の使節団が到着するにおよんで、ペトロは動揺します。使節団は、いかなる状況でもユダヤ人は異邦人と一緒に食事をすることによって汚れをうけてはならないと、キリストの福音における交わりにおいてもユダヤ教律法の遵守貫徹を主張したのです。彼らはとくに、エルサレム教会の柱の一人であり、「割礼の者」への福音宣教を委ねられたペトロが、公然と律法を破っていることを問題にしたことでしょう。彼らの批判に屈して、ペトロは共同の食事から身を引きます。それは、「しり込みし、身を引こうとしだした」という表現にも示唆されているように、ペトロにとって苦渋にみちた決断だったのでしょう。

 ペトロが恐れた「割礼を受けている者たち」とは誰のことでしょうか。まず、ユダヤ人信徒からなるエルサレム教会、とくにその中の指導的なユダヤ人たちが考えられます。エルサレム教会における自分の立場を考えると、「ヤコブのもとからきた人々」の非難を無視することはできなかったのでしょう。しかしそれ以外に、教会の外のユダヤ人一般を指す可能性もあります。すなわち、教会の外のユダヤ人たちが教会に対する態度を硬化させることを恐れて、という意味です。
 
 当時、イエス・キリストを信じる者たちの群れに対する周囲のユダヤ人たちの反感は、強くなってきていました。この時代はユダヤ戦争前の時期で、熱心党《ゼーロータイ》の運動が拡大し、ユダヤ人の間にユダヤ教律法に対する熱気が高揚していた時代でした。その中で、イエス・キリストを信じるユダヤ人(とくにギリシャ語系ユダヤ人)は、律法をないがしろにするような態度をとる裏切り者という疑念をもたれ、律法熱心な周囲のユダヤ人からの反感を受けていました。もしアンティオキアでユダヤ人キリスト信徒が異邦人と食事を共にして、公然と律法を破っていることが聞こえてきたら、同じイエスを信じるエルサレム教会も、律法を公然と破る者たちの一味として、その存立が危険にさらされることになりかねません。「ヤコブのもとからきた人々」は、ユダヤ人は当然律法を遵守すべきであるという原理的な説得と共に、このようなエルサレム教会の立場を説明して、アンティオキアのユダヤ人信徒に異邦人との共同の食事を止めるように説得したのでしょう。

パウロとペトロの対立

 ペトロは、エルサレム教会の指導者の中で、異邦人を受け入れることではもっとも積極的な人物でしたが、エルサレム教会が置かれている状況を思うと、「ヤコブのもとからきた人々」の要求も断固拒否することができず、異邦人との共同の食事を続けるべきかどうかについて、ずいぶん苦悩したのではないかと推察されます。その結果、共同の食事に対してあいまいな態度をとるようになります。
 
 この段階で、パウロはペトロに対して「彼の面前で」(直訳)、すなわち一対一で、共同の食事から身を引こうとする態度に反対します。しかし、「ヤコブのものからきた人々」のユダヤ人信徒に対する説得は進められて事態は深刻化し、ついに集会全体の場で決着しなければならないところまでいきます。
 

 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」。 (ガラテヤ二・一三〜一四)

 ペトロの動揺に引きずられて、アンティオキア教会のユダヤ人信徒全体が「同じ偽善に陥り」(直訳)、異邦人信徒との共同の食事から身を引きます。ヤコブのもとからきた説得のための使節団は成功したのです。そして、パウロがこの人だけは自分の立場を理解してくれるであろうと期待していたバルナバまでもが、「彼らの偽善によって(誤りへと)引き込まれた」(直訳)のです。パウロは彼らが異邦人信徒との共同の食事から身を引いた行為を「偽善」と呼んで批判します。パウロにとって、福音を信じることを言い表していながら「福音の真理に従って歩まない」ことが「偽善」なのです。
 
 福音は、律法の下にあるユダヤ人も、律法の外にいる異邦人も、区別なく信仰によって義とされることを告知しています。その福音を信じると口で言い表していながら、実際の行為では、異邦人もユダヤ人と同じように律法を守らなければならないと強いることは「偽善」に他なりません。ペトロはイエスの弟子の筆頭として全信徒に対して指導的な立場にあります。バルナバはアンティオキア教会の指導者の筆頭です。そのペトロやバルナバが共同の食卓から身を引いたことは、実際上は、異邦人信徒にキリスト教団に留まろうとするならばユダヤ教律法を守るように強制することに他なりません。
 
 このような事態にたち至って、パウロは「皆の面前で」、すなわち集会全体の場で、この問題を取り上げ、決着を図らなければならなくなります。パウロは、全教団に対してもっとも大きな影響力をもつペトロに向かって、異邦人信徒が異邦人のままで、すなわちユダヤ教律法遵守を強制されることなく、食卓の交わりにとどまることができるように要求します。
 
 ペトロはすでに異邦人との食卓を共にすることによって、ユダヤ人としての枠から出ていました。ユダヤ人は律法によって異邦人と食事を共にすることを、汚れを受ける行為として禁じられていたからです。この行為によって、ペトロはすでに律法の外にいる者、すなわち異邦人のように振る舞っていたのです。そのペトロがここにきて、今までの自分の行為を否定して、共同の食事から身を引き、異邦人信徒にユダヤ教律法を守ることを強要するような態度をとるのは、いったいどういうことかと批判します。動機は何であれ、ペトロの行為は「福音の真理」を危うくする行為なのです。これはペトロ個人を非難するためではなく、「福音の真理」を守るためのパウロの戦いです。
 
 ガラテヤ書では、ペトロへの批判の言葉に後に、パウロが「福音の真理」を提示する重要な段落が続いています(二・一五〜二一)。この部分は、一四節の批判の言葉から自然に続いるので、パウロがアンティオキアでペトロに向かって語った言葉であるとする理解も可能です。しかし、内容から見ても、それ以後の手紙の流れからしても、ガラテヤのユダヤ主義者たちに向かって語っていると考える方が自然です。ここでは、ガラテヤ書を資料にして、パウロの働きの歴史的展開に焦点をあてて考察していますので、アンティオキアでの衝突の記事は一四節で切り、一五節以下の段落は後で別に扱います。

独立の宣教活動の開始

 この公の集会の場での対決がどういう結果に終わったのか、パウロは何も書いていません。もしパウロの主張が通って、ペトロやバルナバが共同の食卓に復帰したのであれば、その事実はガラテヤの信徒を説得するのに有力な材料になるので、何らかの形で触れるはずだと考えられます。パウロが結果について沈黙していることと、その後の事態の進展から見ますと、パウロの抵抗も空しく、ヤコブのもとから来た使節団の説得は成功し、パウロは孤立したと見られます。
 
 使徒言行録にはこの重要な事件のことは何も書かれていません。ルカは全教団と使徒たちの一致を美化しようとする傾向がありますから、代表的な使徒であるペトロとパウロの深刻な衝突に触れなかったことは十分に理解できます。しかし、使徒言行録にもこの事件を示唆する記事があります。使徒言行録一五章三六〜四一節でルカは、エルサレム会議の後パウロとバルナバが再び宣教の旅に出ようとした時、マルコを同行するかどうかで「意見が激しく衝突し、ついに別行動をとるようになった」ことを報告しています。しかし、それまでの協力関係からすると、パウロとバルナバという福音のための熱い同志が、マルコを同行するかどうかという些細な問題で決裂すると考えることは、きわめて不自然です。二人の訣別の背景にはもっと深刻な対立があったと見なければなりません。二人の訣別は、パウロがガラテヤ書で報告しているアンティオキアの衝突事件を背景として見るとき、もっとも自然に理解できます。
 
 この事件によって、パウロはバルナバと訣別しただけではなく、アンティオキア教会からも離れたと見られます。バルナバはアンティオキア教会のもっとも有力な指導者ですから、これは当然です。この衝突事件までは、パウロは異邦人に福音を宣べ伝えるという使命をアンティオキア教会と共に進めてきました。アンティオキア教会はパウロの異邦人伝道の拠点でした。しかし、この事件以後は、パウロはアンティオキア教会から離れ、独立でヘレニズム世界の異邦人に福音を宣べ伝える働きを進めるようになります。
 
 エルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件の後では、パウロの宣教活動はそれ以前のものと性格が違ってきます。バルナバと共になされたキプロスとガラテヤ州南部への伝道旅行(いわゆる「第一次伝道旅行」)は、アンティオキア教会から派遣されて行われた、アンティオキア教会の活動の一部でした。この事件以後になされた小アジアとギリシャ方面への宣教活動(いわゆる「第二次伝道旅行」と「第三次伝道旅行」)は、アンティオキア教会とは関係なく、パウロがシラスやテモテたちと独自のチームを形成し、生活と宣教活動のための必要経費はみずからの手仕事で満たしながら進められた、独立の宣教活動となります。パウロの書簡はみなこの時期に書かれていますので、パウロはアンティオキア教会について触れることは一切ありません。この「ケファがアンティオキアに来たとき」という箇所が唯一の例外です。使徒としての生涯の前半を形成する重要なアンティオキア時代のことについて、パウロがかたくなに沈黙を守っているという事実に、この衝突事件がパウロにとってどれほど大きな衝撃であったかがうかがわれます。
 
 一方、ペトロはアンティオキアにとどまり、アンティオキアを中心にシリア地方で宣教を進め、この地域に影響力を及ぼしていきます。ペトロの名は、ユダヤ人信徒だけでなく異邦人信徒にとっても、イエス復活の第一の証人として、イエスの直弟子の筆頭として、また、イエス伝承の担い手の代表として、特別の権威をもっていました。シリアにおいてペトロの権威が確立していったことは、後にこの地方で成立したと見られるマタイ福音書がペトロを教会の首座に置いている(一六・一六以下など)ことからも、十分うかがわれます。パウロのアンティオキアについての沈黙も、その地域がすでにペトロの権威の下にあるという認識からきているという面もあると考えられます。

「使徒教令」の問題

 ルカによると、エルサレム会議での決議が文書にされて、アンティオキアとシリア・キリキア州の諸教会に送られたことになっています(使徒一五・二二〜二九)。その文書はエルサレム教会の「使徒と長老」から出されたもので、ユダヤ人信徒と異邦人信徒が共同の食事をするために、異邦人信徒の側で守るべき最低限度の規定を定めています。

「長老」というのは、ユダヤ人の共同体の指導機関を構成する人々の総称であり、パレスチナではエルサレムの《サンヘドリン》(最高法院)を構成し、ディアスポラのユダヤ人社会では《ゲルーシア》(長老会議)を構成しました。エルサレム教会では、イエスの弟子であった「使徒」と共に、信徒の中の有力な年輩者が「長老」としてエルサレム教会の指導機関を構成しました。その「長老たち」の代表者がヤコブです。ヤコブは「主の兄弟」として、またユダヤ教律法の厳格な実践者として「義人」と呼ばれ、全員ユダヤ人であるエルサレム教会の尊敬を集めて、「長老たち」の筆頭者の地位を占めるようになります。とくに、ペトロがエルサレムを去ってからは、「使徒たち」の影響力は相対的に低下し、ヤコブと「長老たち」の権威が強くなります。エルサレム会議ではまだ「使徒と長老」と並べられていますが、すでに会議の議長は「長老たち」の代表であるヤコブであり、教会の「おもだった人々」の筆頭者はヤコブです。そして、エルサレム会議以後は「使徒」は登場せず、「長老」だけがエルサレム教会を指導していることが使徒言行録からうかがわれます。

 「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」 (使徒一五・二八〜二九)

 この四項目は、レビ記の一七章と一八章に書かれている規定の要約であって、その中の初めの三項目は食物規定です。普通「使徒教令」と呼ばれているこの文書は、きわめて軽減された形にはなっていますが、異邦人にユダヤ教律法の遵守を課するものです。これはパウロが、エルサレム会議で「おもだった人たちはわたしにどんな義務も負わせませんでした」(二・六)と言っていることと正面から矛盾します。たとえ一部であれユダヤ教律法が異邦人信徒に課せられるようなことには、律法問題でいかなる妥協も拒否したパウロ(二・五)が同意したとは考えられません。
 
 もし、このような文書がエルサレム会議の決議としてアンティオキア教会に伝えられ受け入れられていたのであれば、共同の食事についてアンティオキア教会で衝突が起こることもなかったでしょう。この取り決めはむしろ、アンティオキア教会で共同の食事について衝突が起こったので、教会の分裂を回避するためにとられた妥協の産物であったと見られます。
 
 ヤコブのもとから来た使節団の説得が成功して、アンティオキア教会のユダヤ人信徒は、ペトロとバルナバを含めて、異邦人信徒との共同の食事から身を引きます、そうすると、異邦人信徒は実質的に教会の交わりから締め出される結果になります。教会は分裂します。それはペトロやバルナバたち指導者の望むところではありません。パウロがアンティオキア教会を去った後、なんとか共同の食事を成立させようとして、エルサレム教会の「使徒と長老」たちとの折衝が重ねられて、このような妥協が成立したのでしょう。その交渉の場には、もはやパウロは居合わせなかったはずです。

 パウロはこの「使徒教令」の存在を知りません。パウロの全書簡の中で「使徒教令」に触れているところはありません。あるいは、その存在を知っていて無視している可能性もあります。いずれにせよ、パウロにとってこのような妥協はあずかり知らぬこと、とうてい承認できないことです。もしパウロがこのような妥協を認めていたのであれば、ガラテヤ書もまったく違った書き方をしたことでしょう。
 
 このような事後の妥協をエルサレム会議の決議として描いたのは、ルカの筆です。その結果、割礼の問題を協議するために始まったエルサレム会議が、食事の問題で終わるという不自然な展開になっています。一方ルカは、パウロが最後にエルサレムを訪問したときに、初めてヤコブがパウロにこの教令のことを伝えたような書き方もしています(使徒二一・二五)。この書き方から、ルカはパウロが「使徒教令」を知らなかったという事実を知っていた可能性も推察できますが、ルカにとっては、事実の正確な記述よりも、教会の一致の中で異邦人伝道が進展したことを描くことの方が大きな関心事であったのでしょう。

律法の支配を打ち破る力

 ガラテヤ書二章で、エルサレム会議(一〜一〇節)とアンティオキアでの衝突事件(一一〜一四節)という、パウロの生涯で重要な二つの出来事を見てきました。この二つの段落のそれぞれで、パウロは「福音の真理」という表現を用いています(五節と一四節)。この二つの出来事は、パウロにとって「福音の真理」を守り抜くための捨て身の戦いであったわけです。
 
 「真理」《アレーセイア》という語を広く理解すれば、「福音の真理」というのは福音に関して真実なことすべて、あるいは福音がもたらす現実(リアリティー)全体を指すのでしょうが、ガラテヤ書のこの箇所ではパウロはこの語をかなり限られた意味で用いているようです。すなわち、主イエス・キリストを信じ、キリストに結ばれている者は、ユダヤ教律法を守っているかいないかに関係なく、従ってユダヤ人であるか異邦人であるかに関係なく、キリストにおいて啓示された神の義によって救われるという事実を指しています。さらに簡単に言えば、人が救われるのはユダヤ教律法と関係がないという主張です。
 
 福音の本体はキリストです。キリストと、キリストを信じることによって救われる現実が「福音の真理」の基本的な内容です。ところが、この「真理」は、律法を行うことによって救われるとするユダヤ教との論争においては、人が救われるのはユダヤ教律法と関係がない、という主張となります。エルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件で、パウロはまさにユダヤ教の主張と対決し論争しているのですから、ここで言われる「福音の真理」は、救いはユダヤ教律法と関係がないのだという主張が前面に出てくるのです。もし、救いのためにはユダヤ教律法の遵守が必要とされるのであれば、ユダヤ人も異邦人も区別なく「キリスト信仰」によって救われるとする「福音の真理」は崩れてしまいます。
 
 この「福音の真理」を貫くために、パウロはエルサレム教会の有力者を相手に、かたときも妥協することなく、自分が復活者キリストから受けた啓示を主張します。エルサレム教会はヤコブをはじめ律法に熱心なユダヤ教徒によって構成される教会であり、パウロはエルサレム教会を神によって立てられた母教会と認め、エルサレム教会とのつながりを切ることはでないと考えていただけに、この論争はパウロにとってきわめて困難なものであったはずです。さらにアンティオキアの衝突事件では、この「福音の真理」を貫くために、使徒たちの筆頭者であるペトロと集会の面前で論争し、長年の同労者であるバルナバとも対立し、その結果、十数年指導的な立場で働いてきたアンティオキア教会から去らざるをえなくなります。
 
 その後、パウロは「割礼抜きの福音」、すなわちユダヤ教律法とは無関係の救いの福音をたずさえて、地中海世界の異邦人にキリストを宣べ伝える独立の活動を進めていきます。このパウロの宣教活動に対して、一部のユダヤ人キリスト教徒が対抗運動を組織し、異邦人もキリスト信徒たる者はすべて割礼を受けてユダヤ教律法を守るように要求します。このような妨害運動に直面して、パウロの活動は困難をきわめます(ガラテヤ書もこのような妨害運動に対処するために書かれたものです)。それだけでなく、聖なる神の律法を汚し否定する背教者として、パウロを殺すことを誓うユダヤ人の陰謀団が組織され、行く先々でパウロの命を狙います。
 
 このように対抗する力が強大であるだけに、それを突き破って「福音の真理」を貫こうとする力、パウロの内に働く福音の力の強烈さに圧倒されます。パウロの福音宣教の場で二つの力が激突しています。一つはパウロの内に働くキリストの力、すなわち信仰による救いと恩恵の支配を告白し宣べ伝えようとする力です。他の一つはユダヤ人の中に働く律法の力、すなわち律法の支配を確立維持しようとする力です。律法の支配を目指す力は、パウロの宣教を妨害し、ついにパウロを殺すことに成功しました。しかし、パウロの内に働くキリストの力は、世界の各地に律法から自由な救いの福音によって立つ教会を確立し、キリストが律法の支配を打ち破る力であることを示しました。
 
 先年イスラエルを旅行したとき、ユダヤ人社会における律法(=ユダヤ教)の支配力の強さを実感しました。一旅行者として僅かの期間滞在しただけですが、それでもこの社会でユダヤ教律法の他に神の救いがあると主張したり、律法の支配以外の原理を宣べ伝えることがどれほど大変なことか、それは命がけのことなのだということが実感されました。パウロの時代はユダヤ戦争勃発前の緊張した時代であり、ユダヤ人が外国の支配に対抗して父祖伝来の宗教の確立に燃えていた時代でした。それだけに、パウロがユダヤ教律法の外で異邦人が異邦人のままで神の民となるという福音を宣べ伝えたことは、どれだけユダヤ人の憎しみを買ったことか、想像を超えるものがあります。
 
 キリストの福音がユダヤ教という民族宗教の枠を超えて宣べ伝えられ、キリスト教という世界宗教として成立するのに、最大の貢献をしたのはパウロです。律法から自由な福音を命がけで宣べ伝えたパウロの働きがなければ、今日キリストの福音と聖書が世界の諸民族にまで行き渡るという事態はなかったのです。今回見ましたエルサレム会議とアンティオキアでの衝突事件は、パウロの生涯の転機となっただけでなく、キリストの福音がユダヤ教の枠を突き破る力をもっとも劇的に現した出来事であり、世界史的な意義を担うものであります。


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