パウロによるキリストの福音 I

第三章 ほかに福音はない

第一節 ガラテヤ書の執筆事情
第二節 信仰による救い




第一節 ガラテヤ書の執筆事情



 パウロのガラテヤ伝道

 アンティオキアでの衝突事件でバルナバと対立するにいたり、アンティオキア教会から去ったパウロは、独立の異邦人宣教活動を開始します。そのさい、シラスを同行します。シラスは衝突のとき、パウロの側にとどまった例外的なユダヤ人キリスト者でした。

 ルカによると、シラスはエルサレム教会の有力なメンバーであり、「使徒教令」をアンティオキア教会に届けるために、バルサバと呼ばれるユダと一緒に派遣された使者の一人です(使徒一五・二二)。しかし、先に見ましたように、「使徒教令」そのものがアンティオキアでの衝突事件の後に成立したものと考えられますので、シラス派遣の記事も問題です。むしろ、シラスはもともとはエルサレム教会の有力信徒であるとしても、すでにアンティオキア教会で相当の期間パウロと一緒に働き、パウロの律法から自由な福音を最もよく理解していた、アンティオキア教会のユダヤ人キリスト者と見るほうが自然です。シラスはパウロと同じく、あるいはパウロ以上にギリシャ語に堪能なギリシャ語系ユダヤ人で、後にはペトロの名による手紙を自分の手で書いています(ペトロT五・一二)。彼はパウロの手紙の発信者に名を連ね(テサロニケT一・一)、彼がパウロの口述を筆記した可能性もあります(パウロは書簡の中ではラテン語名を用いて「シルワノ」と呼んでいます)。

 パウロはシラスを伴い、先に伝道したデルベやリストラなどのガラテヤ州南部の諸都市の集会を訪れ励まします。そのときリストラでは、その地で評判のよい若い信徒テモテをチームに加えます(使徒一六・一〜三)。テモテは、先に見たパウロのガラテヤ州南部の諸都市での伝道(第一次伝道旅行)のさい信仰に入ったと考えられます。

 テモテは信者のユダヤ女性の子ですが、父親がギリシャ人でした。ラビの原則によれば、ユダヤ人女性の子はユダヤ人として扱われるのですが、父親の反対のためか、テモテは割礼を受けていませんでした。ところで、「パウロはテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方のユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた」と、ルカは報告しています。この報告の歴史性については、研究者の意見は分かれています。

 ある人たちは、テモテの場合は特別なケースであって、必ずしも割礼に反対するパウロの原則と矛盾しないとして、この報告の歴史性を擁護しています(NTD)。この理解では、パウロは(異邦人への割礼は厳しく拒否していますが)テモテをユダヤ人として扱い、これからのユダヤ人伝道にさいしてユダヤ人社会に制限なく入って行くために伝道の方策として(コリントT九・二〇)、テモテに割礼を施したことになります。

 一方、パウロの割礼に対する原則(ガラテヤ二・三〜五、五・一一〜一二、コリントT七・一八)からすれば、すでにバプテスマを受けて信仰を告白している無割礼の信徒に、改めて割礼を受けるように求めることはありえないとして、ルカの報告の歴史性を否定する学者も多くいます。この場合ルカの報告は、「今なお割礼を宣べ伝えている」(ガラテヤ五・一一)とするパウロの批判者たちから出た誤った噂(伝承)を、パウロを忠実なファリサイ派ユダヤ人として描こうとするルカが利用したということになります(新共同訳注解)。 歴史的事実の判断は資料が乏しくてできません。テモテの割礼の問題については、「割礼の有無は問題ではない」(ガラテヤ六・一五)というパウロの宣言に従って、判断を保留したまま進んで行ってよいと思います。

 パウロたちの一行は、ガラテヤ州南部のルカオニア地方の諸都市から西に向かい、アジア州を目指します。アジア州はエフェソを中心とする地域で、古くからのギリシャ植民都市が多くあり、ユダヤ人も多数住んでいたので、パウロの伝道地としては適切な候補地でした。事実、パウロは後に第三次伝道旅行のさいエフェソに二年ほど滞在して伝道し、アジア州の諸都市に有力な教会を設立しています。しかし、この時は何らかの事情に妨げられて予定を変更し、北に向かって旅を続け、ガラテヤ州北部のガラテヤ地方を通ります。

 「ガラテヤ地方」というのはアンキュラ(現在のトルコの首都アンカラ)を中心とする小アジア中央部の内陸地域で、前三世紀以来ヨーロッパから渡ってきたケルト諸族が定住していました。「ガラテヤ人」というのは本来このケルト系の人々を指す言葉であり、彼らの居住地域が「ガラテヤ」と呼ばれたのでした。ケルト系の人々は勇猛で傭兵として活躍することが多かったようです。ケルト系の人々の居住地域として、ガラテヤ地方は人種的にも文化的にも周囲の地域とは異質の色彩が強く、ヘレニズム化も遅れていたようです。しかし、ガラテヤ王国は前二五年に滅び、ローマの支配下に入りました。ローマはガラテヤ地方と南のルカオニア地方や近隣の地域を加えて「ガラテヤ州」としました(ガラテヤ書の宛先を考えるさい「ガラテヤ州」と「ガラテヤ地方」を混同しないことが必要です)。

 パウロがなぜアジア州に向かう予定を変えて、伝道地としてはあまり適切でないと見られるガラテヤ地方に向かったのかは謎です。ルカはそれを「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」(使徒一六・六)と表現しています。おそらく、パウロと一行の祈りの中で何らかの強い聖霊の迫りがあって、アジア州に向かう自分たちの計画を断念することが主の御心であると悟ったのでしょう。

 ルカはガラテヤ地方を通ったことを報告するだけですが、この時パウロは何かの事情でこの地方にしばらく滞在することを余儀なくされ、その間に福音を語り、同労者たちの働きもあって、この地方に信じる者の群れが形成されたようです。パウロがある期間滞在することを余儀なくされた事情については、後にパウロがガラテヤの人々に手紙を書いたときにこう言っています。

 「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」。 (ガラテヤ四・一三)

   パウロは決して身体頑健な偉丈夫ではなかったようです。むしろ外見は弱々しく(コリントU一〇・一〇)、何か発作を伴うような持病をかかえていたようです(コリントU一二・一七)。山岳地帯の長旅で体が弱り、ガラテヤ地方ではしばらく滞在して(おそらく越冬して)休養し、体力の回復を待たなければならない状況であったと推察されます。ガラテヤ四・一五から、この時のパウロの病気は眼病であったという見方もあります。

 ガラテヤの人々はパウロが語る福音に熱心に耳を傾けただけでなく、病むパウロを温かい心で受け入れ、パウロと一行に尽くしたのです。後日パウロはこの時のことをこう表現しています。

 「わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」。 (ガラテヤ四・一五〜一六)

 反パウロ派の活動


 ガラテヤ地方にしばらく滞在して宣教活動を続けた一行は、その地に成立した集会を後に残して出発し西に向かいます。小アジア西端のミシア地方の近くまで来て北に向かい、ビティニア州に入ろうとします。おそらくその州の大都市ニコメディアを目指したのでしょう。ところが、再び「イエスの霊がそれを許さなかった」ので、そのまま西進し、ミシア地方を通って小アジア西端の港町トロアスに到着します(使徒一六・六〜八)。

 トロアスでパウロは夜の祈りの中で幻を見ます。その幻の中に一人のマケドニア人が現れ、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに願ったので、マケドニア人に福音を宣べ伝えるように神から召されているのだと確信し、ただちにマケドニアへ向けて出発した、とルカは伝えています(使徒一六・九〜一〇)。

 パウロの行程についてはすでに「聖霊から禁じられた」とか「イエスの霊がそれを許さなかった」と語られ、またここで幻によって目的地が与えられたとされています。このような霊的体験については現代の学者は懐疑的ですが、聖霊に導かれた歩み、聖霊に満たされた祈りにおいては実際に起こることなのです。パウロ自身「第三の天にまで引き上げられた」体験を証言し(コリントU一二・二)、初期の信徒が聖霊による預言や異言を体験していたことはよく知られている事実でしたし、パウロ自身他の誰よりもこうした霊の賜物に豊かに恵まれていたのでした(コリントT一二章)。パウロは実際何らかの形の幻を見たと考えられます。

ここ(使徒一六・九〜一〇)で突然初めて「わたしたち」を用いた文体が出現します。すなわち、著者はトロアスからマケドニアに向けて出発した一行に自分を含めているのです。この「わたしたち」を用いた部分(いわゆる「われら章句」)は、フィリピでの活動を伝える一六章一七節まで続くだけで、それ以後は途絶え、ずっと後にパウロが第三次旅行からの帰途にフィリピを訪れるときに再び現れ(使徒二〇・五)、それ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(使徒二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(使徒二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、著者のルカはトロアスでパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後も滞在し、パウロが第三次旅行から帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます(著者が他人の旅行記を資料として用いた可能性や、著者の文学的虚構であるとする説もありますが、著者自身がこれらの旅行の同行者であるとする古代教会以来の見解を決定的に否定する根拠は乏しいようです)。

 このことからさらに、ルカはマケドニアの人で、ルカがトロアスでパウロに出会ってマケドニアの状況を語ったことが、パウロが「マケドニア人」の幻を見るきっかけとなったという推察もありえます。

 トロアスでの幻体験がどのような性質のものであれ、パウロは生涯大きなビジョン(幻)を見つづけて、福音の展開にとって決定的な時代を駆け抜けた人物であることは間違いありません。パウロは自分が「異邦人への使徒」として召されていること、すなわち世界の諸民族に福音を宣べ伝える使命を主から与えられていると自覚していました。とくにアンティオキア教会から離れて独立の宣教活動を開始してからは、パウロの眼差しは世界の中心ローマとその先にある西の果てにまで達していたのです(ローマ一五・二二〜二四)。

 パウロがアンティオキアを出発し、ガラテヤ州を経てビティニア州に入ろうとしたのも、おそらくニコメディア、ビザンティウムを経てエグネティア街道沿いに伝道し、真っ直ぐローマに至ろうとしたのでしょう。ところが、御霊によって経路変更を余儀なくされトロアスに至りますが、そこから海路ネアポリスに渡り、フィリピ、テサロニケとマケドニアの主要都市に伝道することになります。これらの諸都市もみなエグネティア街道沿いにあり、パウロはこの街道をローマに向かって西へと急ぎます。このようなパウロの姿に、パウロが内に抱いていたビジョン(幻)が見えるようです。その後もパウロは何度も経路変更を余儀なくされてローマに到達することはできませんでしが、パウロはそれを「妨げられたので」と語っています(ローマ一・一三、一五・二二)。パウロは偉大なビジョンの人であったと言えます。

 ところが、パウロが西に向かって働きを進めている間に、ガラテヤの集会に重大な変化が起こります。ある人たちがガラテヤにやって来て、「あなたがも割礼を受けなければ救われない」と主張し、ガラテヤ集会の多くの信徒たちが彼らに説得されて割礼を受け、あるいは受けようとしているという報告がパウロの耳に届いたのです。

 先に見たように、ガラテヤ地方は人種的にも周囲のヘレニズム世界とは異質の地域で、大都市も少なく、ユダヤ人住民も少なかったようです。それでガラテヤの集会はほとんど異邦人から成る集会であったと見られます。その異邦人信徒に割礼を要求したのは、外からやって来たユダヤ人キリスト者であったのです。

 この構図はアンティオキア教会での出来事を思い起こさせます。そこでも、ある人々(当然ユダヤ人)がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と、異邦人信徒を説得したのでした。それは福音の真理を否定することであるとパウロは激しく反対し、バルナバと共にエルサレムに上り、エルサレム教会のおもだった人々に談判し、異邦人に割礼なしの福音を宣べ伝えることに対して了解を得たのでした。しかし、このエルサレム会議の了解を決して認めようとしない強硬派もいたのです。彼らもイエスをメシア・キリストと信じているのです。ただ、律法に熱心なユダヤ人として、神から与えられたモーセ律法の外で神の民がありうるとは考えられなかったのです。それで、異邦人でイエスを信じる人々にも、真に神の民となるためには割礼を受けてユダヤ教律法を遵守しなければならないと説得しようとしたのです。

 彼らは割礼抜きでイエス・キリストを宣べ伝えるパウロの活動を黙認することはできませんでした。パウロがイエスをキリストとして宣べ伝えることは結構だが、無割礼の異邦人が自分たちと同じキリストに属する神の民であることはとうてい認められないとしたのです。それで、パウロが伝道して形成した集会にはどこまでも出向いて行って、異邦人信徒に割礼を受けるように説得したのでした。彼らの活動は執拗で、パウロは生涯彼らの妨害活動に悩まなければなりませんでした。書簡の中でも後期のものと見られるフィリピ書でも、割礼を誇る者たちを「犬ども」と呼んで、警戒するように注意しています(フィリピ三・二以下)。パウロは使徒として受けた苦難の中に、このような「偽の兄弟」から受けた苦労を数えています(コリントU一一・二六)。

 パウロの反駁

 ガラテヤの集会にも異邦人信徒に割礼を要求する「ユダヤ主義者」の活動が及び、集会が動揺しているとの知らせを聞いたパウロは、ただちに彼らの主張を論駁するための激しい論争の手紙を書きます。それがガラテヤ書です。

 この手紙がいつどこで書かれたのかは特定できません。しかし、この手紙でパウロが「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」(一・六)と書いているところから、この手紙が書かれたのはパウロがガラテヤ地方を去ってからあまり時が立っていないと見ることができます。「こんなにも早く」を数カ月の単位で見るか、数年の単位で見るかによって違ってきますし、この句を「こんなにも簡単に」と理解して時間的推定の根拠にすることを否定する見方もあります。一般には第三次伝道旅行のときエフェソ滞在中(五二年から五四年)に書かれたとされています。すると、ガラテヤ地方の伝道活動が四九年から五〇年にかけての頃とされていますので、三年は経っていることになります。しかし、ガラテヤ書の執筆をもっと早く見ることも十分可能です。 

 ガラテヤ書の宛先については「北ガラテヤ説」と「南ガラテヤ説」が対立し、長年の論争が続いています。「北ガラテヤ説」というのは、この書簡の宛先をガラテヤ州北部の古来「ガラテヤ地方」と呼ばれてきた地域の集会であると見る説です。それに対して、宛先をガラテヤ州南部の諸集会、すなわちパウロが第一次伝道旅行で設立したルカオニア地方のイコニオム、ルステラ、デルベなどの諸集会であるとするのが「南ガラテヤ説」です。「北ガラテヤ説」は、使徒言行録がそこにパウロが行ったことは報告していますが、その地方でパウロが宣教活動をしたことを伝えていないことが難点です。しかし、パウロ自身の証言からすると、「北ガラテヤ説」が妥当だと考えられます。

 その根拠はまず、パウロが宛先の人々を「ガラテヤ人」と呼んでいることです。先にも見ましたように、古来の「ガラテヤ地方」は人種的にも周囲の地域とは異なっていて、そこの住民が「ガラテヤ人」と呼ばれるのが普通でした。すこし前にローマの行政上の区分として「ガラテヤ州」に入れられた南部のルカオニアなどの地方の人を「ガラテヤ人」と呼ぶことはまずなかったと見られます。さらに、パウロがこの手紙の中で「体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と言っている点です。このような状況は、第一次伝道旅行のさいのガラテヤ州南部での活動より、今回の「ガラテヤ地方」への旅行に適合します。このような理由などから、現在では「北ガラテヤ説」が有力になっています。この講解も「北ガラテヤ説」の見方で書かれています。

 「北ガラテヤ説」を裏付ける根拠として、どの注解書にもほとんど触れられていないのですが、献金の問題があるとわたしは考えます。パウロは他の手紙の中で、「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」(コリントT一六・一)と書いています。パウロはエルサレム会議での取り決めに従い、エルサレム教会に届けるために自分が設立した異邦人の諸教会から献金を集めました。「ガラテヤ地方」の諸集会も当然その中に含まれます。ところが、「ガラテヤ州」南部の諸集会は、エルサレム会議前にアンティオキア教会の活動の一環としてバルナバ主導の下に行われた伝道活動によって設立されたもので、アンティオキア教会との交わりに留まっていたと見られます。そのような諸集会に、アンティオキア教会については一言も触れなくなったパウロが、献金の指示を出したとは考えられません。

 ガラテヤ書はパウロの手紙の中では論争の書としての性格がもっとも激しいものです。パウロの手紙は普通、挨拶の後、あて先集会のための感謝の祈りが続きますが、ガラテヤ書ではこのような感謝はなく、挨拶の後ただちに激烈な論争の宣言が続きます。

 「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。しかし、たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。わたしたちが前にも言っておいたように、今また、わたしは繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」。(ガラテヤ一・六〜九)

 ガラテヤの異邦人信徒に割礼を受けるように要求したユダヤ主義者たちは、パウロが宣べ伝えた十字架され復活されたキリストを否定したのではありません。ただ、その信仰に割礼とユダヤ教律法の遵守を付け加えるように求めたのです。彼らはそうすることが真の福音であると主張したのです。彼らの説得によって割礼を受けた、あるいは受けようとしたガラテヤの信徒たちは、決してそれを福音から離れることだとは考えていなかったのです。さらに深く福音に進むことだと考えていたのです。より多くの要求に応えるほど、自分は進歩しているのだ、と人間は考えるものです。

 このような姿勢をパウロは、「キリストの恵みへ招いてくださった方から離れ」ることだと断定します。この文の重点は「恵み」にあります(「キリストの」という句を欠く有力な写本が多くあります)。割礼を受けることは恵みから落ちることです(五・二〜四口語訳参照)。福音によって「恩恵の支配」に招き入れてくださった方(神またはキリスト)から離れることです。

 パウロは続けてこの事態を「ほかの福音に乗り換えようとしている」と表現しましたが、ほかの福音があるかのような言い方を直ちに訂正します。「ほかの福音と言っても、(わたしたたちが宣べ伝えた福音のほかに)もう一つ別の福音があるわけではなく」、それは「キリストの福音を覆す」ものにすぎないと断言します。それは「別の福音」ではなく福音の否定だというのです。キリストの福音はただ一つだというのです。「わたしたちがあなたがたに宣べ伝えた福音」のほかに、いかなる福音もないというのです。これ以外の福音を告げ知らせる者は「呪われるがよい」と、パウロ書簡では他に見られない激しい口調で《アナテマ》(呪われよ)が投げつけられます。

 ここで「呪われるがよい」という対象に「天使」が含まれていることが注目されます。当時の黙示文学にはしばしば、特別の啓示が天使によって与えられたことが語られています。もし「別の福音」が天使から与えられた啓示によると主張されても、「わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音」を告げ知らせるのであれば、その天使が《アナテマ》だというのです。これはパウロが、自分がイエス・キリストから受けた啓示(一・一二)は天使たちよりもはるかに勝る御子ご自身からのものであることを確信していたことを示しています。天上にもこの福音のほかに福音はないのです。

 さらに、「呪われるがよい」の対象に「わたしたち自身」があげられていることに留意しなければなりません。聖霊の啓示にあずかり恩恵の支配の福音を宣べ伝えた者であっても、時の経過と共に変質し、どこか自分の知恵や善行を拠り所にするようになり、その教えが純粋な恩恵だけに立つものでなくなる場合があります。これは人間の本性とか弱さから生じるもので避けがたい面があります。それだけに、自分自身に寄り頼むところがいささかもないように、つねに厳しく自分を吟味しなければなりません。

 このことは教会についても言えます。教会はキリストの福音を保持し、それを世界に告げ知らせる機関であると称しています。しかし、その教会がパウロの告知したこの福音からずれているならば、教会自身が「呪われるがよい」となるのです。ルターの目には当時のカトリック教会はそのような状態であったのです。ルターはこのガラテヤ書によって教会自身が「恵みから落ちている」と判断せざるをえなかったのです。彼はこのガラテヤ書によって教会と闘ったのです。

 教会の歴史を見ますと、教義や礼典の違う教会が互いに「アナテマ」を投げつけ合ってきました。同じ福音に生きながらも、教義や礼典の違いは歴史的状況や時代思想、さらに個人的体験や経歴の違いから生じうることです。その時、自分を絶対化して他者に「アナテマ」を投げつけることは、福音そのものを危うくする行為です。パウロが「アナテマ」を用いているからといって、この言葉で自分と異なる立場をすべて抹殺しようとするようなことはしてはならないことです。これはあくまでも、「非福音」に対抗して自己の責任で福音を告白するさいの標識であるべきです。

 《アナテマ》というギリシャ語は、七十人訳聖書では《ヘーレム》というヘブライ語の訳語です(申命記七・二六、ヨシュア七・一一以下など)。《ヘーレム》というのは神が「滅ぼし尽くすべきもの」(新共同訳)と定められたものです。この《アナテマ》を用いるとするならば、それはここでパウロがしているように、もし自分の主張が福音の真理に反するならば、自分も神から「滅ぼし尽くすべきもの」とされてもよい、という自己の存在のすべてをかけた告白でなければなりません。

 涙の書としてのガラテヤ書

 ガラテヤ書はたしかに激しい論争の書です。しかし、その論争は宛先のガラテヤの信徒たちとの論争ではありません。彼らを惑わすユダヤ主義者に対する論駁の書です。ガラテヤの集会に対しては、パウロは「わたしの子供たちよ」と呼びかけ(四・一九)、子を思う親の情愛をもって心配し、苦しみ、途方に暮れています。自分が生んだ子が、せっかく与えられた自由を放棄して、再び奴隷の境遇に陥ろうとしていることを心配し(四・八〜一一)、自分とガラテヤの信徒の間にある深いきずなに訴え(四・一三〜一五)、後からやって来た者たちではなく、生みの親である自分の声に耳を傾けてくれるように懇願するのです(四・一二)。今は遠くに離れていて直接語りかけることができないもどかしさの中で、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい」(四・二〇)と願うのです。四章の八節から二〇節までの段落を読みますと、そのようなパウロの切々たる心情が伝わってきます。ガラテヤ書の論争の激しさは、このようなパウロの心情の深さの裏側であると言えます。これはパウロの「涙の書」です。


第二節 信仰による救い


 使徒としてのパウロ

 ガラテヤにやって来たユダヤ主義者たちは、パウロが宣べ伝えた割礼なしの福音を否定するために、パウロの使徒としての立場を問題にしました。パウロの書簡から推定すると、彼らはこのように主張したと見られます。

 「パウロは主イエスの直弟子ではないのだから使徒ではない。あるいは、福音を宣べ伝える伝道者であるとしても、直弟子たちである『使徒』をいただくエルサレム教会に従属するものである。そのパウロがエルサレム教会の教えに反して、割礼なしの福音を宣べ伝えていることは黙認できない。われわれこそエルサレム教会の『使徒』の教えを忠実にあなたがたに伝える者である。あなたがたはパウロの宣教によってイエス・キリストを信じたのは結構だ。しかし、それだけでは真に神の民に加えられない。異邦人であるあなたがたは割礼を受け、ユダヤ教律法を遵守することによって初めて、古くからの神の民であるイスラエルに加えられ、救済の約束にあずかるものとなるのである」。
 このような主張に対してパウロは書簡の冒頭から猛然と反論します。

 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」。 (ガラテヤ一・一)

 この文を原文の語順通りに直訳しますとこうなります。

 「パウロ、使徒、人々からではなく、人によるのでもなく、イエス・キリストと彼を死者の中から復活させた父なる神による」。

 「使徒」《アポストロス》という語は本来「(遣わされた)使者」という意味ですから、誰から遣わされ、誰を代表するかが使者のもっとも重要な問題です。パウロはまず人々「から《アポ》」遣わされた使者ではないと断言します。パウロが複数形で「人々」と言うとき、エルサレム教会の使徒たちのことを考えていたのかもしれません。あるいはさらに一般的な意味で、いかなる人間的な制度からも派遣された使者でない、と言おうとしているのかもしれません。

 さらに、自分が「使徒」、すなわち福音を告げ知らせる全権を委ねられた使者とされたのは誰「による《ディア》」のかを語ります。それはいかなる人間的な力とか権威によるものではなく、イエス・キリスト(パウロにおけるキリストはつねに復活者です)とキリストを死者の中から復活させた父なる神による、というのです。ここでの「と」は二人の別の存在を指すのではありません。パウロにおいてはキリストと神は復活者の栄光の中で重なっています。自分はこの復活者によって直接使徒としての資格を与えられたのだというのです。ここでの「人」が単数形であるのは、対照されている「キリストと神」が一体の方として単数と意識されているのに呼応しているのでしょう。こうして、パウロは書簡の冒頭で、自分が直接復活者イエス・キリストによって立てられた、復活者キリストを代表する使者であることを宣言します。

 この表現は直ちにパウロのダマスコ体験を思い起こさせます。事実、パウロはすぐ後に、自分の使徒としての資格と告げ知らせた福音の内容が、ダマスコ途上での復活者キリストとの遭遇の体験から出ているものであること力をこめてを語ります。

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」。 (ガラテヤ一・一一〜一二)

 こう宣言した後、その具体的な出来事の経過を語ります(一・一三〜一七)。この箇所がダマスコ体験について語っていることは明かです。その内容については先に詳しく見ましたので繰り返しませんが、ただここでは、この段落が「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもない」ということを示すために語られている、という文脈を改めて指摘しなければなりません。ダマスコ途上で啓示を受けた後、「エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず」(一・一七)と続くのは、自分の福音がエルサレムの先輩使徒たちから受けたものでも教えられたものでもないことを言おうとしているのです。

 続いてパウロは「三年後にエルサレムに上った」ことに触れます(一・一八〜二四)。ここでもパウロは、エルサレムでは短期間ペトロと接触しただけで、「ほかの使徒たちとはだれにも会わなかった」ことを強調しています。しかもそれを「神の前で断言しますが、うそをついているのではありません」と誓っています。これは、パウロに反対するユダヤ主義者たちが、「パウロはエルサレムで使徒たちから教えを受けた弟子である」というような噂を流していたからでしょう。この段落も、「わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもない」ということを明確にするためです。

 さらに、それから一四年後に再びエルサレムに上って教会の「おもだった人々」と会談したことを語ります。そのエルサレム会議のことを語る段落(二・一〜一〇)も、エルサレム教会がパウロに割礼なしの福音が神から委ねられていることを認めたことと、パウロにいかなる義務も負わせなかったことを語るためでした。

 こうしてパウロが一章と二章前半で書いている自伝的な箇所はすべて、自分が宣べ伝えた福音が神からの直接の啓示によるものであること、使徒としての権威がエルサレム教会の承認に基づくものでないことを明らかにして、パウロを批判するユダヤ主義者たちを反駁するためのでした。

 それから、異邦人信徒がユダヤ教の食事規定を守る必要があるかどうかで起こったアンティオキア教会での衝突事件で、パウロはエルサレムの使徒たちの第一人者と認められているペトロに向かって、福音の真理を守るために厳しい批判の言葉を発します(二・一一〜一四)。この記事にも、自分の使徒としての資格がエルサレム教会に依存していないことを示そうとするパウロの姿勢が見られます。

 ここに来てパウロの筆は、ペトロに対する非難から、今ガラテヤの信徒に割礼とユダヤ教律法遵守を要求している「ユダヤ主義者」に対する非難論駁に、重なりながら移行します。二章一五〜二一節の段落が、アンティオキアにおけるペトロへの非難の言葉の続きであるか、執筆の時の論敵である「ユダヤ主義者」に対する反駁の言葉であるか、どちらか一方に決める必要はないでしょう。どちらにしても、パウロが「福音の真理」として命がけで擁護しようとした事柄のもっとも明白な宣言として、きわめて重要な箇所であることは変わりません。



 信仰による義

 「わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。 (ガラテヤ二・一五〜一六)

 パウロは「わたしたち」という語を用いることで、自分を論敵であるペトロないしガラテヤに来た「ユダヤ主義者」と同じ立場に置きます(ここでは普通は必要でない「わたしたち」という人称代名詞が主語として用いられており、特別に強調されています)。アンティオキアで異邦人信徒との食卓の交わりから身を引くことで、間接的に異邦人信徒にユダヤ教の食事規定を守ることを要求したペトロも、ガラテヤ教会の異邦人信徒に割礼を受けることを要求した「ユダヤ主義者」たちも、神の救いの約束にあずかるのはユダヤ教律法の枠の中にいるユダヤ人だけであり、ユダヤ教律法の外にいる異邦人は神と関わりのない罪人であるというユダヤ人優越思想が身に染み込んでいるのです。パウロは自分を彼らと同じユダヤ人の立場におくことで、彼らを自分と一緒にひっくり返して、ユダヤ教律法を救いの根拠とするユダヤ人に染み着いた思いを粉砕しようとするのです。

 パウロはこう言おうとしているのです。「たしかに、あなた(がた)もわたしも生まれながらのユダヤ人であって、律法を持たない異邦人のように神と無縁の罪人ではありません。けれども、わたしもあなたがたもイエス・キリストを信じたではありませんか。それは何のためだったのですか。もし律法を与えられて実行しているユダヤ人がそれで義とされる(救われる)のであれば、イエス・キリストを信じる必要はなかったはずです。キリストを信じることなしでは律法を実行しても救われないことを知ったから、ユダヤ人であるわたしたちもまた、神が与えてくださった別の道、すなわちキリストを信じるという道を受け入れたのではありませんか。キリストを信じて義とされる道を受け入れたということは、律法によって義とされる道を放棄したことです。そもそも律法を実行することによっては、人間は誰ひとり義とされることはできないのです。それは聖書にも書いてあるではありませんか。『御前に正しいと認められる者は命あるものの中にはいません』(詩編一四三・二)」。

 ここでパウロが、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたち(ユダヤ人)もキリストを信じた」と言っていることは、多少問題があります。ユダヤ人がイエス・キリストを信じたのは、人が義とされるのは律法の実行ではなくキリストへの信仰によることを理解したからである、と言うことは無理があります。もしユダヤ人がそのことを十分「知って」キリストを信じたのであれば、パウロに対する批判は起こらなかったでしょう。ペトロのような弟子ですら、この点の理解は十分ではなかったのです。パウロは自分の理解をユダヤ人一般に及ぼして、同胞ユダヤ人にキリストを信じたという事実が何を意味するのかを教えているのです。動機が何であれ、キリストを信じるとは、律法の実行によっては義とされないことを認めることである、とパウロは主張しているのです。パウロほど、救いの道としての「律法の実行」と「キリストの信仰」が両立しないことを深く認識したユダヤ人はいません。

キリスト信仰

 ここに「律法の実行」と「キリストの信仰」という二つの表現が、正確に対応して用いられています。後者は協会訳(口語訳)では「キリストを信じる信仰」、新共同訳では「キリストへの信仰」と訳されています。しかし、原文では「律法の実行」と同じ属格を用いた句ですので、直訳して「キリストの信仰」と同じ形にする方が対比がいっそう明らかになると思われます。この「キリストの信仰」という句は、ここだけでなくローマ書の核心部(三章二一〜二二節)にも用いられています。二二節を直訳しますと、「(それは)イエス・キリストの信仰による神の義であって、誰でも信じる者に与えられるものです。そこには何の差別もありません」となります。

 ここに用いられている「キリストの《ピスティス》」という表現は、ギリシャ語の《ピスティス》が本来「忠実、誠実、真実」という意味の語であることから、「キリストの真実」と理解することも可能です。すなわち、「キリストの」という属格を主格的属格と理解して、キリストが持っておられる(または現しておられる)真実と理解するのです。バルトがこの箇所を「キリストの真実」、すなわち「イエス・キリストにおいて現された神の真実」と読んだとき、《ピスティス》を人間の側の態度としてしか理解してこなかったキリスト教世界は衝撃を受けたのでした。

 わたしも以前から、「信仰」とは神とかキリストを対象とする自分の側の誠実とか真実ではなく、神の《ピスティス》(信実)に自己の全存在を委ねる人間の在り方であることを唱えてきました。すなわち、自分の価値や功績だけでなく、自分の信仰にも絶して、あるいは自分の信仰さえも放棄して、神の側の信実だけに委ねて生きることであるとし、これを「絶信の信」と呼んできました(詳しくはマルコ福音書一一章二二節の講解を参照のこと)。この「絶信の信」の世界では、「キリストの《ピスティス》」とは、キリストを外にある対象として「信じて仰ぐ」ことではありません。それは神の信実だけを拠り所として、キリストの現実に自己を投げ入れ、キリストとの結びつきに生きる事態です。それはほとんど、パウロが《エン・クリストー》(キリストにあって、キリストに結ばれて)と言っているのと同じ現実です。

 パウロにおいては「信仰によって」と「キリストにあって《エン・クリストー》」とが同じ意味で用いられていることは、「信仰によって」与えられて生きる現実と、「キリストにあって」与えられて生きる現実が、しばしば同じ用語で描かれている事実からもうかがわれます。一例だけ挙げますと、この段落で「イエス・キリストの信仰によって義とされる」(一六節)と同じことが、「キリストにあって《エン・クリストー》義とされる」(一七節)と表現されています。

 パウロはしばしば「信仰によって」という表現を用いています。そのさい「信仰」はもちろん「キリストの信仰」を指しています。このようにキリストとの関わりで成立し、キリストとの交わりを内容とする信仰を表現するには、日本語では「キリスト信仰」と言うことができると思います。名詞を二つ並べるだけの表現は曖昧さを残しますが、それだけに広範囲の意味を含みえますから、この場合かえって適切ではないかと思われます。さらに正確には「キリスト信交」と言うべきかもしれません。伝統的な宗教用語として「信仰」を用いるにしても、また「キリストへの信仰」という訳を用いるにしても、それは外にある対象を「信じて仰ぐ」のではなく、《エン・クリストー》(キリストに結ばれている事態)であることを銘記して用いるべきでしょう。

 この用語を用いて表現しますと、この段落でパウロが掲げているテーゼは、「人は律法遵守ではなくキリスト信仰によって義とされる」となります。なおこの場合、「律法遵守」というのは道徳律の遵守ではなく、割礼や食事規定や安息日規定に代表されるユダヤ教戒律の遵守が問題になっていることを改めて留意しなければなりません。道徳と信仰の関係の問題は別の問題です。

 「もしわたしたちが、キリストによって義とされることを求めることによって、自分自身が罪人と認められるようになるのであれば、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります」。 (ガラテヤ二・一七〜一八節 私訳)

 ここではパウロは、アンティオキアで異邦人信徒にユダヤ教食事規定を守るように求めたペトロの行為と、ガラテヤの異邦人信徒に割礼を求める「ユダヤ主義者」の要求を重ねています。どちらも神の民として救いの約束に与るにはユダヤ教律法の遵守が必要であるとしているのです。それに対してパウロは、ユダヤ人でキリストを信じた者が異邦人信徒にそのような要求をすることが何を意味するのかを明らかにして、その矛盾をつきます。

 「わたしたち」ユダヤ人がキリストを信じたのは、先に見たように、律法遵守によってではなくキリスト信仰によって義とされることを求めているのです。そのユダヤ人が異邦人にユダヤ教律法の遵守を求めるとすれば、それはみずから放棄した律法遵守を再び自分の手で救いの規準に据えていることになります。そして、みずから据えたその規準によって、キリストによって義とされることを求める自分自身が、律法遵守を否定する罪人と認められる結果になります。それは自分で自分を「違反者」であると証明する行為です。そうすると、キリストはユダヤ人に律法遵守の道から引き離して罪に導く者になるわけです。

 「決してそうではない」と、パウロは激しくこのような帰結を否定します。すなわち、キリストを信じたユダヤ人が異邦人信徒にユダヤ教律法の遵守を求めることの矛盾を暴いて激しく論難するのです。しかし、パウロの議論は、義とされる(救われる)ことにおいて律法遵守とキリスト信仰は両立しない、すなわち一方を選べば他方は放棄されるという前提に立って進められています。ところが、多くのユダヤ人信徒はこのような前提を認めません。キリストを信じることとユダヤ教律法を遵守することは、義とされるために両方とも必要であるとするのです。そこでパウロは、救いにおいて律法遵守の道とキリスト信仰の道がいかに両立しえない関係にあるかを、自分自身の体験をもって語りだします。



 キリストがわが内に

 「わたしは神に生きるために、律法によって律法に死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。 (ガラテヤ二・一九節〜二〇節b 私訳)

 この文では強調の人称代名詞「わたし《エゴー》」が文頭に来ています。この「わたし」は、これまで用いられてきたユダヤ人を指す「わたしたち」の中の一人、典型的なユダヤ人としてのパウロ自身を指していると見られます。ユダヤ人の中でもとくに律法遵守に熱心であったパウロ(一・一四)が、キリストに遭遇して以来、「律法に死んだ」のです。それまでのパウロは「律法に生きる」者でした。律法こそ彼の生の拠り所であり、律法を実行することこそ彼の生きる意義であったのです。ところが、キリストに遭遇し、キリストにあって生きるようになったパウロにとって、律法はもはや生の根拠でもなく意義でもなくなりました。パウロは律法とはまったく別の根拠によって生き、律法とは無縁のところに生きる意義を見い出したのです。そのことを、パウロは「律法に死んだ」と表現するのです。

 ここで「律法に生きる」と「神に生きる」が二者択一の関係に置かれています。すなわち、律法に生きるとき人は神に生きることはできず、神に生きるためには律法に生きることは否定されなければならないのです。それは、「律法に生きる」ときには自己が生きているからです。「律法に生きる」者は、これだけの律法を実行したという自己の誇りをもって神に向かうのです。律法を足場にして神と対立するのです。そこでは、神との交わりの中で、神の命に生きるという場は成り立ちません。「神に生きる」ためには、神と対立する自己主張が死に、神の恩恵だけが支配する場に来なければなりません。すなわち、「律法に死ぬ」必要があるのです。

 ここでパウロが、「律法によって」律法に死んだと言っていることが問題です。「律法によって律法に死ぬ」とはどのような事態でしょうか。律法を実行しようと努力すればするほど、その不可能なことを実感して、律法に生きることを断念するにいたるということでしょうか。このような理解は、パウロがキリストに遭遇するまでは、律法遵守に自信をもっており、律法を実行できない苦悩を示唆することはありませんし、また、律法を軽視するキリスト教徒を確信をもって迫害しているという事実からしても困難です。この句は、パウロがこの句の直後に一息に、「わたしはキリストと共に十字架につけられています」と続けている事実から理解するべきでしょう。

 キリストは「律法によって」殺されました。たしかに、イエスを十字架刑に処したのはローマの権力者です。しかし、イエスの処刑を求めてローマの権力に引き渡したのは、ユダヤ教律法を代表する最高法院でした。ユダヤ教律法がキリストであるイエスに死刑を言い渡したのです。この一事が何よりも雄弁に、律法による義の道とキリストによる義の道が相いれないものであることを示しています。パウロが「律法に死んだ」というのは、キリストに遭遇し、キリストに合わせられて生きるようになった結果でした。律法に生きていた「わたし」は、キリストと一緒に十字架につけられて死んだのです。律法によって殺されたキリストと一緒に、わたしも「律法によって」死んだのです。

 パウロがここで用いている「共に十字架につけられる」という動詞は現在完了形です。すなわち、過去に起こった出来事の結果が現在にも及んでいる事態です。わたしは現在キリストと一緒に十字架につけられているのです。「わたし」は死んでいるのです。では、生きているのは誰でしょうか。キリストです。「生きているのは、もはや『わたし』ではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。

 この一文は「キリスト信仰」の内容をもっともよく示しています。キリストを信じること、すなわち「キリスト信仰」とは、キリストに自分を投げ入れ、キリストに結ばれることによって、キリストの十字架の死に合わせられて「わたし」が死に、復活されたキリストがわたしの内に生きておられる事態です。これは《エン・クリストー》の現実です。

 「わたしが死ぬ」というのは、自己の価値や資格を押し立てて神に要求する自己がなくなるということです。「キリストがわたしの内に生きておられる」というのは、神との関わりにおいて、わたしの現実のすべてでキリストが主語になっておられるということです。キリストがわたしを義としてくださるのです。キリストがわたしのために執りなしてくださるのです。キリストが愛の力として働いておられるのです。

 「わたしが死ぬ」のも、「キリストがわたしの内に生きておられる」というのも、実感とか神秘体験の問題ではありません。それは神と関わる人間の立場の問題です。ユダヤ教律法を拠り所としていたパウロの場合は、「わたしが死ぬ」ことは「律法に死ぬ」と表現されました。はじめからユダヤ教律法とは関係のないわたしたち異邦人の場合は、何であれ自己を主張する拠り所を放棄することです。そして、キリストだけを根拠とする場に生きることが、「キリストがわたしの内に生きておられる」ことになるのです。

 「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。 (ガラテヤ二・二〇c)

 わたしはキリストと一緒に十字架につけられて死んだのに、今もなお生まれながらの人間の生を生きているのは、どういうことでしょうか。今わたしが生きているこの生は、もはや自分が自らの存在と価値を根拠に生きている生ではなく、わたしを愛し、生きる資格のないわたしのためにご自身を捧げてくださった神の子キリストとの交わりの中で生かされているのだと、パウロは現在の自分の生の姿を告白します。

 ここでも「神の子に対する信仰による」と訳されている部分は、直訳すると「神の子の信仰にあって」となります。神の子であるキリストがわたしのために死んでくださったという、圧倒的なキリストの愛に迫られて、このキリストの現実に自分を投げ入れて生かされていることを、パウロは「神の子の信仰にあって」と言うのです。ここでも、この表現は「キリストにあって」とほぼ同じことです。

 キリストの十字架上の死が「わたしたちのため」であることは、ごく初期から信仰告白の定式文が唱えてきました。そのキリストの十字架を「わたしのため」の死と受け取るのは、聖霊による復活者キリストとの個人的出会いの場においてです。パウロは聖霊によって復活者キリストに出会い、キリストとの交わりに生きました。そのキリストはいつも十字架の死を負ったキリストでした。パウロはそのキリストの十字架の死を、キリストと一対一で対する場で、ほかならぬ自分のための死と受け取らざるをえなかったのです。「わたしたちのために」が「わたしのために」にならなければ、キリストの死がわたしの救いになることはありません。親鸞も、弥陀の本願を「親鸞ただ一人のため」と受け取ってはじめて、本願に生きる道を歩むことができたのでした。

 わたしの場合も、聖霊によって復活者キリストに出会ったとき、そのキリストは「わたしはあなたのために死んだ」という言葉として迫る愛でした。神の子キリストがわたしのために死なれたのですから、もはや「わたし」は生きることはできません。わたしはキリストと一緒に死んだのです。今生きる生は、復活されたキリストに合わせられ、恩恵によって与えられている生です。このように、キリストに合わせられることによって、すなわち「キリストにあって」、生まれながらの自分が死に、復活の新しい質の生命に生きるようになることが「キリスト信仰」の核心です。パウロはこの箇所(一九〜二〇節)で、自分の体験として福音の核心を語っているのです。

 「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。 (ガラテヤ二・二一)

 律法遵守とは別に、キリスト信仰が救いの道として与えられていることは、神の恩恵によることです。信仰によって救われるというのは、恩恵によって救われることです。信仰と恩恵は表裏一体です。信仰というのは、恩恵を恩恵として無条件に受ける人間の在り方のことだからです。資格のない者を無条件に受け入れる神の恩恵が、人間に受け取られている姿が信仰です。ですから、キリスト信仰による救いから離れて律法遵守の道に戻ることは、神の恩恵を無用のものとすることに他なりません。人が律法遵守によって義とされるのであれば、キリスト信仰は不要になり、キリストは無駄に死なれたことになります。ここでもパウロは、義の道においてキリスト信仰と律法遵守が両立しないことを、きわめて印象深い表現で語っています。


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