パウロによるキリストの福音 I

第四章 律法ではなく御霊によって

第一節 聖霊体験
第二節 信仰による救い
第三節 神の子


第一節 聖霊体験



 十字架につけられたキリストの宣教

 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。(ガラテヤ三・一)

 ガラテヤの信徒にあてた手紙の前半(一〜二章)で、パウロは異邦人信徒に割礼を受けることを要求するユダヤ主義者に対抗して、自分が復活者キリストから直接遣わされた使徒であること、自分が宣べ伝えた割礼なしの福音こそ真正の福音であることを弁証してきましたが、ここに来てガラテヤの信徒たちに直接語りかけます。この語りかけには、先に見ましたように(四・一二〜二〇参照)、「できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」という、使徒パウロの深い憂慮と涙がこめられています。

 今になって割礼を受けるということは、全く「物分かりの悪い(理解力のない)」ことであり、何か悪霊的な力に「惑わされた」としか言いようのない愚かな行為であると、パウロは嘆き、非難し、思いとどまらせようとします。すでに手紙の冒頭で、割礼を受けることは福音を否定することに他ならないと告げていましたが(一・六〜九)、ここでその愚かさを具体的に指摘します。

 まず、パウロが宣べ伝え、ガラテヤの人々が聴いて受け入れた救済者「キリスト」がどのような「キリスト」であったかを思い出させます。パウロが宣べ伝えたキリストは「十字架につけられたキリスト」でした。パウロはここで、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と語っていますが、これはパウロの宣教内容についてのパウロ自身の証言として重要です。
 
 この一文を語順通りに直訳しますと、「(その)あなたがたには、目の前に、イエス・キリストが、公然と示されたではないか、十字架につけられた方として」となります。これはどういうことを言っているのでしょうか。パウロがガラテヤの人々に、福音書の受難物語がしているように、十字架刑に至るイエスの受難の出来事を、まるで目の前に見るように描写して、詳しく語り聞かせたということでしょうか。そうではないと思います。パウロは、イエスの受難の出来事の現場に居合わせた目撃証人ではありませんが、ペトロたちから伝え聞いて事の成り行きは知っていたはずです。同行しているシラス(シルワノ)もエルサレム原始教団の一員であったのですから、受難の出来事はよく知っていたはずです。それで、もちろんパウロたちはその宣教にさいして、イエスの十字架刑の出来事について少なくとも概略は語ったはずです。しかし、ここでパウロが「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」と言うとき、それは歴史的出来事としてのイエスの受難ではなく、現在の霊的現実としての「十字架につけられた姿のキリスト」のことを指していると理解すべきです。その理解はパウロ自身の次のような証言からも支持されるでしょう。
 
 このガラテヤでの伝道からおそらく一年以内になされたコリントでの宣教について、パウロは次のように書いています。

 「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、御霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」。 (コリントT二・一〜五)

 パウロの福音とは「十字架につけられたキリスト」を告知するものでした。この「十字架につけられたキリスト」《クリストス・エスタウローメノス》こそ、パウロが宣べ伝えた福音の核心です。「キリスト」につけられた《エスタウローメノス》という分詞形は(ガラテヤ三・一、コリントT一・二三、コリントT二・二の三箇所とも同形です)、完了分詞が用いられています。すなわち、この形は「十字架につけられた」ことが、過去の歴史的出来事だけを指すのではなく、その結果が現在に現れている相であることを示しているのです。この意味で、「キリストが十字架につけられた姿で示された」という新共同訳の訳文は、この理解を指し示す良い訳と思います。

 だいたい、パウロが「キリスト」と言うとき、地上の歴史的人物ではなく、復活して現在働いておられる霊なるキリストを指しています。もちろん、そのキリストは地上で十字架刑によって殺されたイエスと別の人格ではありません。パウロはそのイエスを、神が終わりの時に遣わすと約束されていた「メシア」《クリストス》であり、復活して天に上げられた「主」《キュリオス》であると宣べ伝えているのです。パウロはそのキリスト、すなわち《キュリオス》として天に上げられ、霊として働かれるキリストを、現在「十字架につけられている」という相(姿)をもつ方として宣べ伝えるのです。このようなキリストの相を、後にヨハネ黙示録は「神の玉座の前に立つ、屠られたような小羊」(黙示録五・六)という象徴的なイメージで語るのです。
 
 イエスの十字架刑の物語は歴史家も語ることができます。しかし、「十字架につけられて殺されているという相をもった復活者キリスト」という矛盾した霊の現実は、人の知恵の言葉や論理で説得できるものではありません。それは「御霊と力の迫り」(新共同訳で「証明」と訳されている語は「迫り」と訳した方が適切ではないかと思います)によって、聴く者の魂に直接示されなければなりません。パウロがコリントでの宣教について述べているこのような表現は、一年ほど前に同じように人間的な弱さの中で行われたガラテヤでの伝道(四・一三)にも、そのまま当てはまるはずです。パウロはガラテヤでも、ひたすら御霊の働きに頼って、「十字架につけられたキリスト」を公然と宣べ伝えたのです。そしてその結果、その福音を信じたガラテヤの人々に聖霊が注がれて、彼らも聖霊が直接魂に示してくださる「十字架の相をもつ復活者キリスト」の霊的現実にひれ伏したのでした。これが、「目の前に、はっきりと示された」という表現の意味であると思います。すなわち、「目の前にはっきりと見るように、十字架につけられたキリストという霊的現実があなたがたの魂に直接示された」というのです。
 
 このように「十字架につけられたキリスト」を信じることは、割礼を受けてユダヤ教律法を遵守しようとすることと相いれないものであることが、どうしてあたながたには分からないのかとパウロは迫るのです(一節)。すでに直前の段落で自分の体験として両者が相いれないものであることを語っていましたが(二・一五〜二一)、ここからの段落(三・一〜一四)で、パウロは「十字架につけられたキリスト」を信じるとはどういうことなのか、それがいかに律法遵守の立場と両立しえないものであるかを説いていきます。

 聖霊を受けた体験

 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。(ガラテヤ三・二)

 「十字架につけられたキリスト」を信じることと、割礼を受けてユダヤ教律法を遵守することが、救いの道としては両立しえないことを示すのに、パウロはまず第一にガラテヤの人たち自身の体験に訴えます。ガラテヤの人たちは、パウロが宣べ伝えたキリストの福音を信じて受け入れたとき、「御霊を受けた」のでした。それは明確な体験であって、しばらく経ってパウロがこの手紙を書いたときにも、その体験を根拠にして議論を進めることができたのです。

 では、「御霊を受けた」というのはどのような体験だったのでしょうか。ここでは「御霊を授ける」ことと「奇跡を行う」ことが並行して語られている(五節)以外に示唆はありません。この表現は、ガラテヤの人たちが「御霊を受けた」とき、何らかの神の「力ある業」(「奇跡」と訳されている語《デュナメイス》は本来は「力ある業」)が体験されたことを示唆しています。これは、授けられた神の霊が彼らの中に働いて、人目を驚かす不思議な現象があったことを意味しています。それがどのような現象であったのか、ここでは具体的には触れられていません。この時期に書かれたパウロの手紙の中で、「御霊の働き」または「御霊の現れ」として、「奇跡を行う力」と並んで、病気をいやす力や預言する力、異言を語る力などがあげられていますが(コリントT一二・四〜一一)、おそらく、このような「御霊の現れ」がガラテヤの人たちの間に見られたのでしょう。ずっと後に成立した使徒言行録では、福音を受け入れたときに与えられる聖霊の現れとしては、異言で語ることが中心的な位置を占めるようになります。また、パウロのこの時期の伝道から二〇年近く後のマルコ福音書では、「御霊を受ける」ことが「聖霊によるバプテスマ」という表現で語られるようになります(マルコ一・八)。
 
 「御霊を受ける」体験においては、外に現れる現象よりも、内に体験される霊的内容が重要です。それは何らかの意味と程度においてキリストが体験されることに他なりなりません。しかし、その内容は「キリストの福音」全体に関わることで、ここで扱うことはできません。ここでは、パウロの福音宣教には「御霊を受ける」という体験が伴っていたという重要な事実を指摘するに止めます。
 
 パウロは「あなたがたに一つだけ確かめたい」と言って、ガラテヤの人々が「御霊を受けた」体験を思い起こさせます。この体験が何よりも雄弁に、そして、それだけで十分に、割礼を受けることの愚かさを証明しているからです。
 
 パウロはガラテヤの人々に尋ねます、「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか」。もちろん、答は「否」です。さらに畳み掛けて尋ねます、「それとも、福音を聞いて信じたからですか」。もちろん、答は「しかり」です。異邦人であるガラテヤの人々は、まだユダヤ教律法のことは何も知らず、割礼を受けてユダヤ教に改宗するようなことは思い浮かびもしない時に、パウロたちからキリストの福音を聞いて信じ、その結果御霊を受けるという体験をしたのでした。ユダヤ教律法とまったく無関係に、「十字架につけられたキリスト」を通して聖霊を受けるということは、彼ら自身が体験している最も確かな事実でした。
 
 ここでも原文は、御霊を受けたのは「律法の実行」によるのか、それとも「信仰の聴聞(聞くこと)」によるのか、という正確に対応する二つの名詞表現が用いられています。たいていの翻訳はこれを「律法を実行した」と「(福音を)聞いて信じた」と訳しています。しかし、「実行」対応しているのは「聞くこと」ですから、対応関係を正確に訳すと、「御霊を受けたのは、律法を実行したからか、それとも信仰の場で聞いたからか」となります(福音という語は原文にはありません)。パウロの表現には、御霊を受けるのは「聞いたことを、人が信じる」ことによるというよりは、聞くことが直ちに聖霊を受ける出来事になるという勢いがあります。聞いた告知の内容を、人が判断して受け入れるかどうかを決めるのではなく、宣べ伝えられた福音を素直に、全存在をかけて聞くことが直ちに御霊を受ける体験となるのです。この出来事は使徒言行録一〇章のコルネリオの体験に典型的に物語られています。ペトロがイエス・キリストのことを話し続けているとき、「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」のでした(四四節)。
 
 パウロはこう言っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ一〇・一七)。パウロにとって、信仰とは聞いたことに向かい合い、判断し、決断する人間の側の主体性ではありません。信仰とはキリストの言葉(福音)を聞くことによって、その言葉が聞く者の中に生み出す神との新しい関わり方です。一切は福音によって語りかける神の側のイニシャティヴによります。このような信仰理解からしますと、「聞くこと」についている「信仰の」という属格も、何か聞くこととは別にある「信仰によって」という意味ではなく、「信仰をもたらす」ような質の聞き方でという意味になります。これは全存在を語りかける方に投げ入れた聞き方、自己を無としてひれ伏して聞く聞き方ということになります。人がこのように「信仰の場で」福音を聞くとき、聞くことが直ちに聖霊が注がれる場となるのです。

 肉で仕上げる愚かさ

 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、御霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・。 (ガラテヤ三・三〜四)

 このようにガラテヤの人たちの信仰生活、すなわちキリストと共に生きること、救いの道を歩むことは、御霊を受けることで始まりました。パウロはその事実を思い起こさせ、今割礼を受けてユダヤ教律法を遵守することで救いを完成しようとするのは、「御霊で始めたことを、御霊に敵対する肉によって仕上げしようする」筋違いの愚かな試みであると諭すのです。

 パウロが「肉」《サルクス》というとき、それは生まれながらの人間の本性を指しています。その人間本性は自我の高ぶりによって神と対立し、神の本性とは敵対するのです。そのため人間の方からなす業によっては、それが聖なる神の律法を対象とする行為であっても、神と人の交わりを形成することができないのです。それで、神はご自身の御霊を与えることによって、人間の本性(肉)から出る業がなしえないこと、すなわち神と人との交わりを実現してくださったのです。このように、肉がなしえないことを実現するために御霊が与えられたのです。その御霊で始めたものを肉で仕上げようとすることが、いかに愚かなことか、あなたがたには分からないのですかとパウロは迫ります。
 
 しかし、「肉によって仕上げようとする」ことの愚かさを認識できるのは、徹底的に律法の道を追求して、その中で人間本性の神への敵対性と弱さを体験したパウロにして初めて持てる認識ではないかと思います。神の律法の圧力の下で人間本性の弱さを深刻に体験してこなかった異邦人のガラテヤの信徒たちには、そのような認識は無理なことだったのでしょう。ガラテヤの人々でなくても、わたしたち人間にはみなこの愚かさがつきまといます。この時ガラテヤの人々が愚かさを見せてくれたおかげで、パウロがこの涙の書簡を書き、その結果このガラテヤ書簡が、福音の歴史において繰り返し(宗教改革はその代表的な事例です)、「御霊で始めたものを肉で仕上げようとする」人間の愚かさを暴きチェックすることになりました。ここにも神の摂理の導きが感じられます。
 
 パウロは、繰り返しガラテヤの人々が御霊を受けた体験に戻り、「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」と迫ります。「あれほどのこと」というのは、御霊の働きとして神の「力ある業」を体験したことだけでなく、十字架につけられた姿の復活者キリストを啓示されるという内なる体験も指していると見られます。内と外に大きな体験を伴う御霊の体験は、あなたがたに救いはまったく一方的に神が与えてくださる事態であって、人間の働きが入り込む余地はないのだということを示したはずではないか。それだのに、いま割礼を受けることで、救いを人間の働きによって仕上げようとすることは、「あれほどの」体験をしたことが無駄であったことになる、とパウロは嘆きます。そして、「無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・・」と、もう一度その原体験に立ち戻るように期待します。

 あなたがたに御霊を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。(ガラテヤ三・五) 

 パウロは最初の問(二節)を繰り返します。二節では「あなたがた」が主語で、「あなたがたの体験」が問題になっていましたが、ここでは神が主語で、神がなされる働きが問題になっています。また、「御霊を授ける」ことの具体的な現れとして、「奇跡を行う」という神の働きが加えられています。そのような違いはありますが、実質的には二節の質問の繰り返しです。パウロが執拗なまでこの問を繰り返すのは、十字架につけられたキリストの福音を「聞くことによって」聖霊を受けることを、信仰の原体験としてパウロがいかに重視しているかを示しています。パウロのキリストの福音の宣教は、それを聞く者が聖霊を受けるという現実の上に成り立っているのです。


第二節 信仰による義と聖霊


 アブラハムの子

 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。(ガラテヤ三・六〜七)

 パウロはここで述べてきたこと、すなわち、神の御霊を受けることは律法の実行によるのではなく、福音を信仰の場で聞くことによるという主張を、聖書(旧約聖書)の引用によって根拠づけます。パウロは創世記一五章六節の「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」という聖句を引用します。この聖句は、パウロがユダヤ教に対抗して「信仰によって義とされる(救われる)」という彼の福音を根拠づけるときの最も根本的な聖句です。パウロがその聖句をここで、「信仰によって聖霊を受ける」ことの根拠づけに用いていることが重要な意味を持ちます。

 「信仰によって聖霊を受ける」ことを根拠づけるのに、「信仰によって義とされる」という聖句を用いていることは、パウロが「聖霊を受ける」ことと「義とされる」ことを同じ内容の事態として扱っていることを示しています。この点は、「パウロによるキリストの福音」の理解にとってきわめて重要な意味を持つのですが、それについてはこの段落全体を見た後でまとめることにして、ここではパウロの議論の流れを追っていきましょう。
 
 パウロに反対するユダヤ主義者たちは、異邦人であるガラテヤの信徒たちにこう言っていたのでしょう。「あなたがたはイエス・キリストを信じたとしても、異邦人のままではアブラハムの子孫に約束された救いと栄光の祝福にあずかることはできない。割礼を受けてユダヤ教徒になることで、神の民イスラエルに属する者、アブラハムの子孫となり、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ者となることができるのだ」。
 
 このような主張に対して、パウロはこう言います。「聖書に書かれているように、アブラハムはその信仰が義と認められたのである。だから、アブラハムが神を信じたように、いま神の言葉である福音を信じる者は、その信仰が義と認められるのであるから、割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても異邦人のままで、同じ信仰の人アブラハムの子孫と認められ、アブラハムの子孫に約束された祝福を受け継ぐのだ。あなたがたはこのことをよく理解して、割礼を受けさせようとする者たちに惑わされてはならない」。
 
 パウロは、このような主張がすでに聖書に予告されているとして、さらに創世記から引用します。

 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。(ガラテヤ三・八〜九)

 パウロは、アブラハムが召された時の主の約束の言葉(創世記一二・三)を引用します。新共同訳では、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」となっています。パウロはこの言葉を、「異邦人」が信仰によって義とされるという彼の福音の予告として引用します。パウロは、いま自分が宣べ伝えている割礼なしの福音、すなわち異邦人が異邦人のままで信仰によって義とされるという福音は、信仰によって義とされたアブラハムに「前もって告げられていた福音」であると言っているのです。これはユダヤ教のラビたちには思い浮かびもしなかった聖書解釈です。パウロは自分の聖霊によるキリスト体験から聖書を読んでいるのです。

 ここに述べてきたこと(六〜八節)の結論として、パウロは「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と断言します。アブラハムはユダヤ人にとって祝福の源泉でした。すべての祝福の約束はアブラハムとその子孫に与えられていました。いま、福音によってその祝福が、アブラハムの肉による子孫であるユダヤ人だけでなく異邦人にも、信仰によって生きるすべての者に及ぶのです。

 律法の呪い

 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ三・一〇)

 「信仰によって生きる人々は祝福されています」という信仰の祝福の反対側として、パウロは「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」という、律法の呪いを語ります。この宣言はユダヤ教に対する正面からの対決です。もちろん、異邦人信徒に割礼を受けることを要求し、福音をユダヤ教の枠の中に閉じ込めようとするユダヤ主義者に対する対決でもあります。ユダヤ教はまさに律法の実行に頼って神の前に生きようとするからです。ユダヤ教の立場は、「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ記一八・五)という標語に要約することができます。

 モーセ律法(とくに申命記)は、律法を守り行う者には祝福を、律法を守り行わない者には呪いを宣言します(申命記二八章)。それが律法の立場です。ユダヤ教は、モーセ律法を守り行うことによって神の祝福を得ようとするのです。ところが、パウロは律法の実行に頼る者はみな呪われていると決めつけます。そして、そのような断定の根拠として、「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」(申命記二七・二六)という律法の一節を引用します。
 
 聖書を根拠として議論するさい、パウロは「律法を守り行う者は祝福される」(申命記二八・一〜二)という祝福の宣言を無視して、呪いの宣言だけを引用します。さらに、その呪いの宣言も、「この律法のすべての言葉」という七十人訳ギリシャ語聖書と比べますと、「律法の書に書かれているすべての事」という表現に変えられています。すなわち、申命記法典ではこの呪いの宣言は、直前のいわゆる「性的十戒」を守らない者に対するものですが、パウロはそれをモーセ五書のすべての律法に拡大しています。このように聖句を文脈から切り離して自分の主張の根拠として自由に用いることは、律法学者たちの聖書解釈において普通に行われていたことでした。パウロは自分の深刻な律法体験と革命的な律法理解を表現するのに、律法学者の通例に従って聖書を引用していると見られます。
 
 パウロの議論は、人間は誰ひとり「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守る」ことはできないという事実を前提にしています。この認識は、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」(一・一四)ユダヤ教に熱心であった時期においても、自分の体験からある程度はあったことでしょう。熱心に努力したという事実自体が、律法をすべて行うことがいかに難しいかを自覚していたことを語っています。しかし、ユダヤ教時代のパウロは、律法を守ることが命にいたる道であることを信じて疑いませんでした。ところが、ダマスコ体験とそれ以後の時期において、律法の実行によって義に到達しようとする熱意がキリストを殺す結果になったことを知って、律法の実行に頼る人間がいかに深く呪いの下にあるかを認識したのでした。

 律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 (ガラテヤ三・一一〜一二)

 このように、律法の実行によっては人間は誰ひとり神の御前に義とされないことを、パウロは徹底的に体験して、その体験からそう断言しているのですが、それを再び聖書によって根拠づけます。今度は「正しい者は信仰によって生きる」という預言者ハバクク(二・四)の言葉を引用します。

 ハバクク書二章四節は、ヘブライ語テキストは「正しい者は彼の《エムナー》(忠誠、誠実)によって生きる」となっており、そのギリシャ語訳(七十人訳)は「正しい者はわたしの《ピスティス》(真実、信実)によって生きる」となっています。それをパウロは、「彼の」も「わたしの」も落として、「正しい者は《ピスティス》(信仰)によって生きる」という形で引用しています。ここでもパウロは聖句をかなり自由に(文脈から切り離し、用語や意味合いを少し変更して)、自分の主張の標語として用いていることが見られます。
 
 この預言者の言葉が示しているように、神は人間が律法の実行によって生きることを期待せず、信仰によって生きるように定めておられる、とパウロは言うのです。信仰こそ命にいたる道として神から定められた道である、とパウロは宣言するのです。これは、預言者の一句をもって、律法を実行する者は生きるというモーセ五書全体の立場を覆す実に大胆な主張です。創世記一五章六節の場合も同じですが、パウロがこのように大胆な聖書の引用ができるのも、聖霊による「十字架につけられたキリスト」の体験と、そこから出る革命的な律法理解があるからです。
 
 この聖句を根拠にして、パウロはユダヤ教の根本原理を覆します。パウロは、まさにユダヤ教が根本原理としている「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」(七十人訳レビ一八・五の要旨)を引用して、そこに明白に示されているように、ユダヤ教は「その定め(またはその定めの実行)によって生きる」ことを原理としているのだから、「信仰によって生きる」という神が定められた原理から出たものでないというのです。それが「律法は信仰をよりどころとしていない(直訳すれば、信仰から出ていない)」ということの意味です。

 十字架と聖霊

 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるためでした。 (ガラテヤ三・一三〜一四)

 こうして、律法の実行に頼る者はみな律法の呪いの下にある、ということを明らかにしたパウロは、キリストの十字架はその呪いからの解放であることを示します。

 福音(ケリュグマ)の核心は、「キリストはわたしたちのために死なれた」という宣言です。そのキリストの十字架上の死を、パウロはここで「わたしたちのために呪いとなった」出来事とします。そして、そのような理解を根拠づけるために、ここでも聖書を引用します。
 
 パウロが引用している聖書は申命記二一章二三節で、そこにはこう書かれています。「死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない」。これは十字架刑に処せられた者についてではなく(イスラエルには十字架刑はありませんでした)、石打ちなどで死刑にされた者の死体を、処刑後木にかけてさらす時の規定です。パウロは、キリストが十字架の木にかけられた事実を、この聖句によって「呪いとなった」と表現するのです。
 
 この段落でパウロが繰り返し聖書を引用するのは、おそらくガラテヤの異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ主義者が、聖書を引用して信徒を説得しようとしていたので、それに対抗してパウロも、彼らが根拠にする聖書自身がこう言っているではないかと反論したものと思われます。
 
 キリストは「わたしたちのために」、すなわち、わたしたちに代わって、わたしたちを代表して、律法の呪いをご自身の身に受けてくださることによって、このキリストを信じ、キリストと結ばれている「わたしたち」を、律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、「十字架につけられたキリスト」を信じることと、律法の実行に頼ることとは絶対に両立しないのです。パウロはこのことを言いたいのです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、救いを律法の実行に頼ることは、自らを律法の呪いの下に置くことであって、キリストの十字架を無用無効とすることに他なりません。
 
 キリストの十字架の出来事は「わたしたちのために」神が成し遂げてくださった御業です。では、その御業はどのような目的でなされたのか、パウロは二つの並行する目的文で示します。一つは、「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶため」であり、もう一つは、「わたしたちが、約束された御霊を信仰によって受けるため」です。この二つの並行する目的文は同じ内容を語っています。キリストの十字架は、「わたしたち」が、すなわちユダヤ人も「異邦人」も区別なく、「信仰によって」、すなわち「キリスト・イエスにあって」(「信仰によって」と「エン・クリストー」が同じ意味で用いられることについては先の段落の講解で触れました)、「アブラハムに与えられた祝福」、具体的には「約束された聖霊」によって神との命の交わりの現実に入るという祝福、を受けるようになるためです。
 
 この段落(三・一〜一四)は、パウロの「十字架につけられた姿の復活者キリスト」の宣教の確認と、その福音を「聞くこと」によって聖霊が授けられたというガラテヤの人々の体験の確認で始まりました。続いて、アブラハムに与えられた祝福を受け継ぐのは、ユダヤ主義者が主張するように割礼を受けてユダヤ教律法を実行する者ではなく、異邦人のままで信仰によって義とされる者であることが、聖書に基づいて論じられました。そして、最後にもう一度キリストの十字架に戻り、十字架こそ異邦人がキリストにあって異邦人のままでアブラハムの祝福を受け継ぐことができるためであり、約束された聖霊を受けるための神の御業であることが宣言されて、締めくくられます。

 「義」と聖霊

 この段落(三・一〜一四)で注目すべきことは、「信仰によって聖霊を受けた」というガラテヤの人たちの体験(一〜五節)を、「信仰によって義とされた」という聖書の表現で説明し根拠づけていることです(六〜九節)。この事実から、パウロが「義とされる」というとき、それは聖霊を受けて、聖霊の現実に生きることを指している、少なくともそれを含んでいることが分かります。

 宗教改革は、パウロの「信仰によって義とされる」という宣言を福音の中心に据えました。ところが、「義とされる」ということが、本来なら有罪の人間が神の赦しの恵みにより無罪を宣告されるという法廷的な意味だけで理解されたため、プロテスタント諸教会の「信仰義認」の教理はパウロの福音から離れて、大切な面を見失ってしまいました。信仰者は自分の心身に何の変化も起こっていないのに、神は自分を無罪と宣告してくださっていると頭で考えなければならないのです。聖霊の賜物を受けて、御霊の力による変化が起こるとしても、それは「義とされる」こととは別の次の段階の恵みとして理解されます。「義認」と「聖化」の二段構えの教理が形成されることになります。
 
 パウロが「義とされる」と言うとき、そのような二段構えの教理を考えていません。たとえば、パウロは少し後にコリントの信徒に書き送った手紙の中でこう言っています。

 「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、あなたがは主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされたのです」。 (コリントT六・一一 一部私訳)

 「そのような者」というのは前節(六・一〇)に列挙した不義や汚れたことを行う者のことです。パウロはここでコリントの信徒たちに、信仰に入ったときに起こった変化を思い起こさせているのです。主イエス・キリストの御名を信じて告白するようになったとき、恵みとして受けた聖霊によって身に起こった変化を、「洗われた」、「聖とされた」、「義とされた」という三つの動詞を重ねて表現しています。これは三つの別の出来事ではありません。同じ出来事の描写です。動詞は三つとも、過去の出来事を示すアオリスト形です。信仰に入ったときに体験する変革を、パウロは「神の御霊によって義とされた」という表現で語っているのです。
 
 「御霊による義」という考え方を受け入れることができない立場から、ローマ書一四章一七節は「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊による喜びとである」(協会訳)と訳されたきました。原文で「義、平和、喜び」の後についている「聖霊による」という修飾句を、義に関係づけることを避け、最後の喜びだけにつけて訳したのです。しかし、この修飾句は「義、平和、喜び」の全体にかかるはずです。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」という新共同訳の方が正しいと言わなければなりません。
 
 このように「義とされる」ことが聖霊によるものである以上、パウロが福音の中心に据えている「義」《ディカイオシュネー》の概念も聖霊と切り離して理解することはできません。序章で述べましたように、パウロは「福音は神の力である」と宣言します。主イエス・キリストの十字架と復活を告知する言葉である福音は、ただ事実を報告する情報の言葉ではなく、それを信じる者を救いに到らせる神の力だというのです(ローマ一・一六)。パウロが「神の力」というとき、それは聖霊の具体的な働きを念頭においているのです。福音の言葉は、聖霊によって信じる者の中に具体的に働く力となるのです。
 
 そして、福音がすべて信じる者にとって救いへ到らせる神の力となるのは、その福音の中にすべて信じる者に与えられる「神の義」、すなわち人を義とする神の働きが啓示されいるからだと、パウロは続けます(ローマ一・一七)。「神の義」とは、人間が自らの力で律法を守り行うことで達成する義ではなく、キリストにおける神の働きによって神から賜る義です。それが神の働きにより、人間の内に起こる現実である以上、その義は「聖霊によって与えられる義」ということができるのです。
 
 聖霊によって賜る義は、それが地上の人間の内に起こる現実である以上、完成したものではなく、途上にある義です。神の御心に敵対する生まれながらの人間本性(パウロはそれを「肉」と呼んでいます)の中で、その本性と戦いながら貫徹されなければならない義です。それゆえ、それは達成するために恐れおののきつつ努めなければならない義であり(フィリピ二・一二〜一三)、終わりの日に完成することを切に待ち望む義であるわけです(ガラテヤ五・五)。

 ガラテヤ五・五の原文にある「義の希望」を、新共同訳は「義とされた者の希望」と訳していますが、この訳には問題があります。文脈からすると協会訳のように「義とされる希望」と理解すべきでしょう。

 パウロは神と人との関わりのすべての問題を「義」《ディカイオーシュネー》という概念で考えていますので、パウロの言う「義」には実に多彩な局面があります。この「パウロによるキリストの福音」シリーズの全体を通して、その理解に努めたいと願っています。今回ここに取り上げた「聖霊による義」は、義の局面のすべてではなく、多様な局面の中の一つです。しかし、義のこの一面はしばしば見落とされ、故意に無視されてきましたので、改めて義と聖霊の不可分の関わりを語っているガラテヤ書のこの段落の重要性を指摘しておかなければなりません。

 御霊の約束

 パウロは先の段落(三・一〜一四)を十字架で始め、十字架で終わりました。ガラテヤの人たちが割礼を受けることの愚かさを示すのに、まず、十字架につけられたキリストの福音を信じることによって聖霊を受けたというガラテヤの人たちの原体験に訴えました(一〜五節)。次に、聖霊によってもたらされた救いが信仰によるものであることが、アブラハムについて書かれている聖書の引用によって根拠づけられ、「信仰による義」と表現されます(六〜九節)。最後に、律法の実行に頼る者は呪われているのであって、まさにその律法の呪いから解放するためにキリストは十字架につけられたのであるから、十字架につけられたキリストを信じることと、割礼を受けて救いを律法の実行に頼ることは絶対に両立しないことが語られました(一〇〜一四節)。

 この段落の最後(一四節)で、キリストの十字架が何のためのものであったかが語られています。この一文はパウロの福音を理解する上できわめて重要です。先に見たように、キリストの十字架の目的は二つの目的文によって表現されていますが、その二つは並行表現であって実質的には同じことを言っています。すなわち、ユダヤ人も異邦人も区別なく、アブラハムに約束されていた祝福である聖霊を、信仰によって(言い換えれば、キリスト・イエスに結ばれることによって)受けるためである、というのです。端的に言えば、キリストが十字架につけられたのは、わたしたち誰でもが信仰によって聖霊を受けることができるようになるためです。ですから、もしわたしたちが聖霊を受けることがなければ、キリストの十字架は無駄になってしまうのです。
 
 ここで「アブラハムの祝福」と「御霊の約束」が並行しています(原文の表現の直訳)。すなわち、パウロは、アブラハムに約束された祝福とは聖霊がもたらす現実であると理解していることが分かります。神はアブラハムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記一二・三)。パウロは、今キリストにあって異邦人が聖霊を受けている現実こそ、その約束の成就であると理解しているのです。
 
 パウロがそのように理解していることは、ガラテヤの人々が信仰によって聖霊を受けた体験を、アブラハムが信仰によって義とされたという聖句で根拠づけ、さらにそれをアブラハムのゆえに異邦人が祝福されるという約束の成就であるとしている論理の運び(三・六〜九)からも明かです。字句の解釈とか神学的理論によってではなく、パウロは現に福音宣教の実際において体験している現実から、イスラエル存立の基礎である「アブラハムの祝福」を「聖霊の約束」と理解したのです。パウロは続く段落(三・一五〜二二)で、約束と律法の関係を論じていますが、そのさい「約束」とは「御霊の約束」であることを忘れてはなりません。「約束を受ける」(一四節)とか「約束が与えられる」(二二節)、あるいは「相続(する)」(一八節)とは聖霊を受けることを指しているのです。
 
 終わりの日には神の民に神の霊が注がれて神の救済の業が成就するとの預言ないし約束は、預言書に見られます。エゼキエル書三六〜三七章、ヨエル書二章(二八〜二九節)などは代表的な箇所です。ここでパウロは個々の預言を引用するのではなく、神の民としてのイスラエルの存立にとって最も基本的な「アブラハムの祝福」を「御霊の約束」と理解している点が重要です。このことによってイスラエルの歴史全体(すなわち旧約全体)が、キリストにおける御霊の注ぎによって神の救いが完成されるという目標を目指す約束となります。パウロからかなり後のルカが、聖霊の約束を「父の約束」と呼ぶとき(ルカ二四・四九、使徒一・四)、パウロのこのような「約束」理解の流れを受け継いでいると見ることができます。


 

 約束としての遺言と契約

 兄弟たち、分かりやすく説明しましよう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。(ガラテヤ三・一五)

 先の段落は「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち」(三・一)という激しい叱責の呼びかけで始まりましたが、ここでは調子を変えて、「兄弟たちよ」と親しみをこめて呼びかけます。どうにかして説得したいというパウロの熱意が伝わります。「分かりやすく説明しましょう」とあるところは、直訳しますと「人間にしたがって語ります」となります。すなわち、人間社会一般にみられる習慣に従って説明しようということです。そして、人間社会の習慣として「遺言」が取り上げられます。

 人間社会の約束ごとである「遺言」でさえ、必要な条件と形式を満たして作成されて法律的に有効となりますと、その後だれも無効にしたり、追加したり、変更したりすることはできません。これは手紙の読者がよく知っている事実です。パウロが「人が作った」遺言「でさえ」と言うのは、「人が作った遺言《ディアセーケー》でさえそうであるならば、まして神が定められた契約《ディアセーケー》は後で無効にされたり変えられたりすることはありえないではないか」(一七節)と言うためです。
 
 ここで《ディアセーケー》というギリシャ語が二つの意味で使われています。一つは世俗的な「遺言」という意味です。もう一つは、イスラエル宗教の核心である《ベリース》(普通「契約」と訳されているヘブライ語)のギリシャ語訳として、神と人との関係を規定する「契約」という意味です。パウロは人間社会の《ディアセーケー》(遺言)を比喩として、神の《ディアセーケー》(契約)の決定性・優位性を印象深く語るのです。
 
 このような比喩が成り立つのは、遺言も契約も共に「約束」という性格を持っているからです。厳密に見ますと、人間の遺言と神の契約は違いがあります。「契約」には、たとえばアブラハムに土地と子孫を与えるという契約の場合のように、約束という面がたしかにあります。しかし同時に、モーセの十戒が「契約」と言われるように、人間が果たさなければならない義務という一面があります。ここでパウロは「契約」を約束としての面だけに限って見ています。たしかに遺言と契約はともに、与える者の一方的な意志に基づく約束であるという点では共通しています。

 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。(ガラテヤ三・一六)

 人間の遺言の比喩から本題の神の契約に入る前に、パウロは神の約束としての契約の構造に注意を促します。ヤハウェはアブラハムに「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(創世記一三・一五)と約束し、「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる」(創世記一七・七)と契約されました。この契約の相手方、約束の受け取り人は「あなたとあなたの子孫」となっています。「子孫」というのはヘブライ語でも単数形ですが、本来の文脈では集合的にイスラエルの民を指す語です。パウロはこの本来の集合的な意味を知らないわけではありません(三・二九、ローマ四・一三以下など)。しかし、ギリシャ語訳聖書で複数形ではなく《スペルマ》という単数形が用いられていることを理由に、パウロはここではあえて「子孫」がキリストを指すと解釈します。このような一見強引な解釈は、自分の革命的な律法理解を聖書によって根拠づけるために、パウロが律法学者としての知識と技術をフルに活用している結果であると見ることができます。

 パウロが神の約束の受け手をアブラハムとキリストとするのは、アブラハムに約束されたことがキリストにおいて成就するという「約束」の基本構造を明らかにして、その間に入ってきたモーセ律法は約束を変更する資格のないこと(一七節)や、モーセ律法に有効期限があること(一九節)など、律法に関する重要な発言をあらかじめ根拠づけるためです。

 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。(ガラテヤ三・一七)

 先に述べた(一五節)人間社会の《ディアセーケー》(遺言)を比喩にして、パウロはここで本題である神の《ディアセーケー》(契約)の問題に入ります。人間の遺言ですら一旦有効になったら、その後だれも変更したり無効にしたりすることはできのであれば、まして一度立てられた神の契約は、後からできた「モーセ律法」によって無効にされて、その契約が約束していた内容が反故にされることはありえないではないか、とパウロは言うのです。「あらかじめ有効なものと定められた契約」というのは、モーセ律法より先にアブラハムに与えられた契約が、(創世記一五章や一七章のように)繰り返し正式の契約締結の手続きを経て有効にされた事実を指しているのでしょう。その契約締結から「四百三十年後にできた律法」というのは、モーセ律法の授与はアブラハムの時代から見て、四百三十年にわたるカナンとエジプト滞在(七十訳出エジプト記一二・四〇)の後であるからです。

 この節のヘブライ語テキストは、「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった」となっていますが、七十人訳ギリシャ語聖書では「エジプトとカナンに住んでいた期間」となっています。パウロはギリシャ語聖書に従って、アブラハムからモーセまでを四百三十年としたのでしょう。


 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。(ガラテヤ三・一八)

 「相続」《クレロノーミア》というのは、もともとイスラエルの各部族が約束の地パレスチナで受け継いだ土地を指す語でした。しかし、パウロの時代のユダヤ人の間では、神がその民に終わりの時に与えると約束しておられた祝福を指す終末論的な用語になっていました。先に見ましたように、パウロはこの語で、今キリストを信じる者が聖霊を受けて、神との新しい交わりに入っている現実を指しています。

 もし「相続」、すなわち終末的な祝福の中身である聖霊を受けることが、モーセ律法の遵守から来るのであれば、もはや相続は約束から来るものではなくなります。約束は無効になったことになります。そういうことはありえません。神は約束によってアブラハムに相続の恵みをお与えになったのです。神の約束は反故になることはありえません。ですから、相続が律法の遵守から来ることはありえないのです。パウロは、約束に対する神の信実を根拠に、律法遵守によって聖霊を受け、終末的祝福を受け継ぐとするユダヤ主義者を論駁するのです。

 律法の役割と位置

 では、律法とはいったい何か。律法は違犯を明らかにするために付け加えられたもので、約束を与えられたあの子孫が来られるときまでのものであり、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。(ガラテヤ三・一九〜二〇 一部私訳)

 「では、律法とはいったい何か」。この問いが、とくにユダヤ人から起こるのは当然です。終末的な救いの祝福が約束に基づくものであり、ただ信仰によってそれを受けるのであれば、いったい律法は何のために与えられたのか。律法も神から来たのではないか。それを守ることは、神ご自身が求めておられることではないか。律法を遵守することが祝福を得る唯一の道ではないか。この問いはユダヤ人には当然です。その問いに答える形で、パウロはユダヤ人にとっては全く革命的な律法理解を明らかにします。
 
 まず第一に、律法の役割について、パウロはユダヤ人が卒倒しそうなことを語ります。モーセ律法は民の「違反のゆえに」または「違反のために」付け加えられたものだというのです(ここの「違反」は複数形)。この「違反のために」という句には様々な理解があり、それに応じて様々な翻訳があります。「違反を促すため」(協会訳)から、「違犯を明らかにするため」(新共同訳)、「違反を抑えるため」まで、解釈は多様です。どの解釈をとるにしても、民の側に違反があったから律法が付け加えられたのだという主意はかわりません。違反がなければ律法が付け加えられることはなかったのです。
 
 このような律法の見方は、「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」ことを原理とするユダヤ教からすれば、とんでもないことです。神はモーセを通して律法を与え、それを守る者を自分と民とされるのです。ユダヤ教ではまず律法があって、遵守する者は命を得、違反する者は裁かれるのです。律法があるから違反もあるのです。
 
 それに対して、パウロは違反があるから律法が付け加えられたと言います。ということは、パウロは違反を律法違反の行為とは考えていないことを示しています。パウロが違反というのは、律法以前の問題、すなわち約束に対する民の不信、契約に対する民の背信を意味しているのです。民の背信を明らかにする、すなわち、民が約束の受け手としての本来の信の場にいないことを示すために、律法が与えられたのです。ですから、キリストによってまことの信が出現したとき、律法はその役割を終えるのです。
 
 第二に、パウロは律法には有効期限があるとします。律法は「約束を与えられたあの子孫が来られるときまで」、ある特定の役割を果たすために「付け加えられた」ものである、とパウロは言います。律法の役割は「あの子孫」キリストが到来される時までであるというのです。パウロはこのことを「キリストは律法の終わりとなられた」とも表現しています(ローマ一〇・四)。これはユダヤ人にとって衝撃的な宣言です。ユダヤ人にとってモーセ律法は永遠に有効な神の定めです。その律法がある期限をもってその役割を終えて廃止されるということは、神の律法への冒涜、赦しがたい涜神です。
 
 しかも、律法は神の救済の基本的な枠組みを形成する要素ではなく、約束と成就という救済の基本的構造に臨時に後から「付け加えられた」ものに過ぎないというのです。この言い方も、律法とその遵守を救済の基本的枠組みとするユダヤ教徒には耐えがたいものであるはずです。
 
 第三に、律法の制定と約束の授与との間の手続きの違いに触れて、約束の方が根源的なものであることを説きます。パウロは、律法が「天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたもの」であると言います。これは、「この人(モーセ)が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです」というステファノの告白に見られるように(使徒七・三八、なおヘブル二・二も参照)、当時のユダヤ教では、律法が天使たちを通し、モーセを仲介者として民に与えられたとされていたことを反映しています。
 
 律法は仲介者を通して制定され、約束は仲介者なしに与えられたという違いから、パウロは、救済の枠組みにおいて約束が律法の上位にある秩序(オーダー)にあることを説きます。「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません」が、「約束の場合、神はひとりで事を運ばれた」からです。仲介者というのは、対立する当事者双方の事情を考慮して、両方の立場が成り立つように配慮して、両者を結びつけます。それで、仲介者を立てた場合は、当事者の一方が相手を無視して自分だけで行動することはできません。相手の事情に制約されることになります。モーセという仲介者の手を経て制定された律法は、弱さとか違反というような人間の側の事情に制約され、神の本来の意志の表現ではないというのです。それに対して、アブラハムに与えられた約束は、仲介者なしに直接神からアブラハムに与えられたもので、神は「ひとりで事を運ばれ」、相手方の事情に制約されないので、本来の意志を純粋に表現していることになります。こうして、約束の方が律法より上位の、より本源的な神の秩序であるというのです。

 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。(ガラテヤ三・二一〜二二)

 新共同訳はこの二節を次の段落に入れていますが、内容が約束と律法の関係を扱う重要なものですから、ここではこの段落が二二節まで続くとして扱います。

 これまでの議論からすると、律法は神の約束に反するものになるではないか、という批判者の問を先取りして、パウロは自らその問を提起し、それに対して「決してそうではない」と答えます。このような問は、約束と律法を対等のレベルに置いて、「あれか・これか」の関係で見る立場から出たものであって、問自身が誤っているのです。約束と律法は対等のものではありません。律法は、約束とキリストにおける成就という救済の基本的枠組みの中に、ある特定の役割をもって限られた期限つきで後から「付け加えられた」ものに過ぎないのです。従って、約束による救いの枠組みの中で、ある期間ある役割を果たすものであって、決して約束に反するものではありません。しかし、約束に取って代わる資格のある救いの道ではありえないのです。
 
 これが神の救済史の事実なのですが、もし仮に、「人を生かすことができる律法が与えられたとするなら」、すなわち、約束と対等の立場で、別の救済の道として律法が与えられていたら、人は律法によって義とされ、約束による救済の道は棚上げにされ、不要になっていたことでしょう。しかし、事実はそうでないのです。 そのような仮定に対して、「しかし」事実はそうでないことを、「聖書」が明らかに語っているではないか、とパウロは反論します。ここで「聖書」がどの箇所を指しているのか特定されていませんが、おそらく、次のような、すべての人間の背反を語る詩編一四編(一〜三節)のような箇所が念頭にあるものと考えられます。

神を知らぬ者は心に言う、
「神などいない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される、
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。

 このように「聖書」がすべての人間を罪の支配下にあるものと断罪するのは、「万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう」という仮定が成り立たないことを確認し、律法が救済の道として約束と「あれか・これか」の対等の立場にあることを否定するためです。こうして救済の道として残るのは約束の道だけです。

 約束のものを受けるのに必要なものは信仰です。アブラハムは神の約束の言葉を信じました。その信仰が彼に義と認められたのです。時が満ちてキリストにおいて神の約束が成就したいま、イエス・キリストを信じて、すなわち「キリストにあって」、神の約束を信じる者に、神の約束である聖霊が与えられるのです。聖霊によって終末的な救済の現実に入るという「相続」が与えられるのです。
 
 こうして見てくると、パウロにおいては、福音《エウアンゲリオン》は約束《エパンゲリア》であると言えます。福音とは、神が一方的に無資格の者に、義、救い、聖霊というよいものを与えようと語りかけておられる約束の言葉です。それは恩恵の言葉です。それを受けるのは信仰だけです。すなわち、自分の誠意とか信念ではなく、そういうものは放棄して、約束された方の信実だけに自分の全存在を委ね、すでに約束されたものを受けたと感謝し、恩恵を賛美することです。

 パウロにおける「救済史」

 この段落(三・一五〜二二)は、前の段落(三・一〜一四)と後続する段落(三・二三〜四・七)と合わせて、使徒パウロの「救済史」理解をもっとも明確に示す重要な箇所です。

 パウロはキリストにおける救済を「救済史」の枠組みの中で理解し、かつ提示しています。パウロは熱烈なユダヤ教徒として、世界の創造者である唯一の神を信じ、その神がアブラハムの子孫であるイスラエルを御自身の民として選び、イスラエルの歴史の中で救いの働きを進めてこられたことを確信していました。このように、地上の人間の歴史の中に神の救いの働きを見る信仰の立場から見られた歴史を「救済史」と言います。旧約聖書はイスラエルにおける「救済史」を証言する書であり、旧約聖書から生まれたユダヤ教は「救済史」を枠組みとする宗教です。ユダヤ教はこの点で、神話に基づく祭儀や個人の内面的な悟りを救済の根拠とする諸宗教と決定的に異なる性格をもつ宗教となっています。パウロはユダヤ人として当然、このような「救済史」的な救済理解を一般のユダヤ人と共有しているのです。
 
 このような救済史的な性格のユダヤ教の基盤に成立した福音は、キリストの出来事を「救済史」の中の出来事、しかも特別の、最終的な出来事として宣べ伝えます。イエス・キリストの十字架と復活の出来事は、イスラエルの歴史の中で進められた来た神の救いの働きの完成であり、律法と預言(旧約聖書)の成就であると宣べ伝えます。パウロも最初期の教団の福音宣教の定式を引用することによって、このような一般の救済史理解を共有していることを示しています(ローマ一・二〜四、コリントT一五・三〜五参照)。
 
 ところが、パウロの救済史理解にはパウロ独自の大きな特色があります。パウロが語る救済史は、この段落で見たように、アブラハムに与えられた約束とキリストにおけるその成就という枠組みに集中しているのが特色です。旧約聖書には、モーセによる出エジプトと律法授与とか、ダビデによる王国の建設とその永続の約束、預言者たちによるバビロン捕囚の警告と再建の約束というような、救済史上きわめて重要な出来事が他にもあります。ところが、パウロはそのような出来事に触れること少なく、キリストにおける救済をもっぱらアブラハムへの約束の成就として示しています。

 パウロ七書簡に出てくる人名の回数を単純に比較しますと、アブラハム二一回、モーセ九回、ダビデ三回となります。

 パウロは、この段落で見たように、ユダヤ教において神とイスラエルの契約そのものであり救済の土台として神聖視されているモーセ律法を、アブラハムに与えられた約束による救済の枠組みの中で過渡的な役割を果たすものに過ぎないとしています。パウロがモーセについて語る他の箇所(コリントT一〇・一〜六、コリントU三・七〜一八)でも、予型とか教訓として扱われているだけで、キリストにおいて成就されるべき約束の担い手とは見られていません。
 
 また、パウロは、一般のユダヤ人が救済の希望の根拠としているダビデ契約についても全然触れません。ダビデ契約というのは、預言者ナタンによってダビデに与えられた、ダビデの王座がその子孫によって永遠に確立されるという約束です(サムエル記下七・一二〜一三)。ユダヤ人は異教徒の支配の下で苦難の歴史を歩んだとき、この約束に基づいて「ダビデの子」によって神の民の支配が回復され、救済の時が来ると期待したのです。それで、ユダヤ人に福音が宣べ伝えられたとき、ナザレのイエスこそ約束された「ダビデの子」であると強調されたのです(たとえばマタイ福音書)。ところがパウロは、一般の福音宣教の言葉を引用している箇所(ローマ一・二〜四)以外で、イエス・キリストを「ダビデの子」と呼ぶことはありません。ということは、パウロは救済史をダビデに与えられた約束とその子による成就という枠組みで見ていないことを示しています。ローマ書四章のダビデは、働きはなくても義と認められる者の例証として出てくるだけで、救済史の土台となる約束の受領者ではありません。
 
 このように、パウロがモーセ律法でもダビデ契約でもなく、もっぱらアブラハムへの約束を救済史の土台としているのは、パウロのキリスト体験に基づく救済理解から出ていると見ることができます。
 
 パウロはダマスコ途上でキリストに遭遇したとき、律法は救いの道ではないことを徹底的に知りました。彼は律法に対する熱心のゆえに、イエスを信じる者を迫害し、イエス・キリストに敵対する者になっていたのです。十字架・復活のキリストにひれ伏し、キリストの圧倒的な恩恵によって生きるようになったとき、パウロは律法遵守の道ではなく、キリストにおいて与えられている神の救いの恩恵を、恩恵として無条件に受け取る信仰だけが救いの道であることを身をもって悟ったのでした。神の義(救い)は律法の外に現されたのでした。
 
 救いが律法と関係なく与えられるという体験が、パウロを異邦人の使徒としたのです。律法の枠の外にいる異邦人が、律法の枠の外にいるままで、信仰によって義とされる(救われる)ことを宣べ伝える使徒としたのです。このパウロにとって、モーセ律法はもはや救済史の土台ではありません。神の約束を信じることによって義とされたアブラハム、異邦人に無条件で祝福を約束するアブラハムの出来事こそ、律法と関わりなくキリストにあって義とされる異邦人への福音の土台となる救済史的出来事です。
 
 また、パウロが体験したキリストは、ユダヤ人と異邦人との区別なく、すべて信じる個人に内住し、救いに到らせてくださる霊なるキリストですから、ユダヤ人が「ダビデの子」として期待していたように、ユダヤ人を異教徒の支配から解放してくださる民族主義的なメシアではありません。従って、パウロが引用でない自分の文章の中で、キリストを「ダビデの子」と呼ぶことはありません(テモテU二・八はパウロからかなり後の成立と見られます)。こうしてパウロにおいては、救済史はアブラハムへの約束とキリストにおける成就という枠組みに集中していくことになります。

 なお、パウロにはこれ以上に大きな救済史の枠組みとして、アダムとキリストの対応がありますが、それについては後に詳しく取り扱うことになりますので、今回はガラテヤ書に見られるイスラエル史の範囲内での救済史に限定します。



第三節 神の子



 養育係としての律法


 「信仰が到来する前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が到来したので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」。(ガラテヤ三・二三〜二五 一部私訳)

 先の段落(三・一五〜二二)でパウロは約束と律法を比べ、アブラハムへの約束とキリストにおける成就こそが救いの出来事であって、約束と成就との間に入ってきた律法は救いの道ではないことを示しました。「では、律法とは何か」という問に対して、パウロはここでもう一つの比喩を用いて答えます。それが「養育係」の比喩です。「律法とはわたしたちをキリストのもとへ導く養育係である」という答です。

 「養育係」《パイダゴーゴス》というのは、当時のヘレニズム社会の裕福な家庭で子供の教育としつけを担当した家庭教師のことです。これはおもに教養のある奴隷の仕事でした。貴族の跡取り息子でも、成年に達するまでは奴隷である《パイダゴーゴス》によって、読み書きの教育を受けるだけでなく、生活の隅々まで監視され、厳しいしつけを受けたのです。
 
 パウロは律法の意義と働きを「養育係」にたとえます。養育係はその家の息子をしつけ教育して、跡取りにふさわしい者にしますが、その教育やしつけによって跡取り息子を造るわけではありません。父親から生まれたという事実が男の子を跡取り息子とするのです。養育係はその息子を未成年の期間しつけるだけです。そのように、律法もわたしたち人間が未だ目的に到達していない未成年の間は、わたしたちを取り囲み、監視し、生き方を外から強制したのです。
 
 ここで、わたしたち人間が成年に達して到達する目標が、「信仰」と呼ばれています。養育係がその役割を終えて、わたしたちが成年に達する時のことが、「信仰が到来する」とか「信仰が啓示される」時と表現されています。この「信仰」は、人間の宗教的な心構えとか態度一般を指すものではないことは明かです。そのような意味での「信仰」はいつの時代にもありました。ここでパウロがいう「信仰」とは、「律法はわたしたちをキリストへ導く養育係となった」という言葉が示しているように、「キリスト信仰」のことです。すなわち、キリストに結ばれて、キリストと共に生きる現実です。パウロはこのような現実を普通「キリストの信仰」《ピスティス・クリストウ》と表現していますが、内容を特定する「キリストの」を略して、たんに「信仰」という語でこの現実を指すことがよくあります。ここはその典型的な例です。
 
 このような意味での「信仰」は、キリストの出現により歴史の中の特定の時に「到来する」ものであり、神の働きにより上から「啓示される」ものです。けっして人間の心構えによっていつでもありうるというものではありません。人間はこのような「信仰」によって、すなわちキリストに結ばれ、キリストと共に生きる現実によって「義とされる」のです。子として神との命の交わりに生きることができるのです。養育係である律法はけっしてわたしたちを義とすること、すなわち同じ命に生きる子として神との交わりに入れることはできません。こうして、養育係の比喩は、わたしたちが神の子、跡取り息子であることを思い起こさせ、以下の議論へ自然に続いていきます。

 キリストにあって神の子

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。キリストの中へバプテスマされたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。 (ガラテヤ三・二六〜二九 一部私訳)

 「信仰が到来したので、もはや、わたしたちは養育係の下にはいません」という前節を受けて、その到来した「信仰」によって、あなたがたはみな成人した神の子であるという事実を、パウロはガラテヤの信徒たちに思い起こさせます。そして、「信仰によって」という句に、その中身を示す「キリスト・イエスに結ばれて」《エン・クリストー・イエスー》という句を直ちに続けます。パウロにおいては、「信仰」とは《エン・クリストー》の現実、すなわち、キリストに結ばれ、キリストと共に生きる現実に他ならないのです。「信仰によって」と《エン・クリストー》は同格で並んでいるのです。

 二六節は「キリスト・イエスにある信仰によって神の子である」(協会訳、岩波版の青野訳もほぼ同じ)と訳されることがあります。ここの原文の順序は「神の子である、信仰によって、キリスト・イエスにあって」となっています。この訳は、「キリスト・イエスにあって」という句を「神の子である」に関連づけないで、「信仰」を説明する句として理解しています。この解釈は、「信仰」が《エン》という前置詞を伴う用例がないという文法的な困難だけでなく、パウロの信仰理解からも採ることはできません。パウロにおいては、信仰とは「キリストの信仰」、すなわち、キリストを内容とする信仰、キリストに結ばれキリストと共に生きる現実に他ならないからです。それで「信仰によって」と「エン・クリストー」とは、交換可能な句として、どちらか一つが使われています。この節のように同格で並んで使われるのは珍しいケースですが、これは先行する箇所で律法に対立する信仰を強調した流れの継続として、まず「信仰によって」を挙げ、その後に中身を示す句を続けた結果だと説明することができます。

 パウロは続いて、この「キリストにある」《エン・クリストー》という現実がどのようにして始まったのかを語ります。それは「キリストの中へバプテスマされ、キリストを着た」からです。ここに用いられている《バプティゾー》という動詞は、「洗礼を授ける」というような儀礼的な意味ではなく、語本来の「(〜の中に)浸す」という意味で理解しなければなりません。たしかにパウロはこの語を「洗礼を授ける」という意味でも用いていますが(コリントT一・一三〜一七)、霊の事態を語るときにも用います(ローマ六・三)。とくにこの動詞が《エイス》(の中へ)という前置詞を伴って用いられているときは、「〜の中へ浸し入れる、組み入れる」という霊的な意味に理解すべきです。たとえば、「キリストの死の中へ《バプティゾー》された」(ローマ六・三)とか、「一つの霊によって一つの体の中へ《バプティゾー》された」(コリントT一二・一三)という用例では、この意味で用いられていることは明かです。ガラテヤ書のこの箇所でも、「キリストの中へ《バプティゾー》された」はこの意味に理解すべきです。
 
 イエス・キリストの御名を信じる者を「キリストの中へバプテスマする」のは、聖霊の働きです。「洗礼を受ける」行為が、イエス・キリストの御名を信じ告白し、その結果、約束の聖霊を受ける場となる限り、「洗礼を受けてキリストと結ばれた」という事態が起こります。このように理解する限り、「キリストの中へバプテスマされる」ということは、聖霊による霊的出来事です。福音における「バプテスマ」は、本質的にはみな「聖霊によるバプテスマ」なのです。
 
 「エン・クリストー」の現実に入ることを水の中に浸すという比喩で語ったパウロは、その結果を「(衣服を)着る」というもう一つの比喩で語ります。あるものの中に浸された者は、そのものに包み込まれるのですから、キリストという霊的現実の中に浸し入れられた者は、「キリストを着て、キリストに包み込まれた」者となります。神の前に現れるわたしはもはや裸のわたしではなく、キリストを着て、キリストに包み込まれたわたしになります。このわたしが神と共に生きる神の子なのです。
 
 キリストを着た者は、中に包まれている人間がユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが区別はなくなります。神との関わりにおいては同じです。これは、どの民族の者でも区別はないと言っているだけではありません。ユダヤ人とギリシャ人というのは宗教的な区別です。多くのユダヤ人は、異教徒は割礼を受けてユダヤ教に改宗しなければ、神の民、神の子となることはできないと考えていました。それに対してパウロは、ユダヤ教徒であろうと異教徒であろうと、キリストを着ている限り、区別なく神の子であると宣言します。これは重大な宣言です。どの民族、どの宗教の人間も、固有の伝統の中にいるままで、キリストを着ることによって神の民となることができるというのです。
 
 また、奴隷も自由な身分の者の違いもありません。奴隷と自由人の区別は、パウロの時代の社会では、もっとも深刻な社会的身分の違いでした。キリストを着ることによって、神の子の交わりにおいては、この社会的身分の壁もなくなるのです。
 
 さらに、男と女の差別もありません。宗教によっては、女性を救済から締め出すものもあります。締め出すところまで行かなくても、男性中心の父権社会(ユダヤ人社会もそうでした)では、様々な制限をつけたり、一段低く見る傾向があります。その中で福音は、神の子としての立場においては、男性と女性の差別をいっさいしません。
 
 このように、民族、宗教、身分、性の差別がいっさいなくなったのは、「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて《エン・クリストー・イエスー》一つだからです」。キリストに結ばれて生きる場では、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女も、みな同じ神の子として扱われるのです。ここの「一つ」は、もはや対立する二つのグループではなく、同じ扱いを受ける同一のグループに属する者という意味に理解すべきでしょう。
 
 この段落(三・二六〜二九)では、パウロ以前に伝承されていた洗礼定式が用いられていると、多くの研究者が見ています。パウロは伝承された洗礼定式に、「信仰によって」とか「キリスト・イエスにあって」というようなパウロ的な主張を強調する句を挿入し、二九節を加えたと見られます。学者の分析によると、元の洗礼定式は次のような文章であったとされます。
 
 「あなたがたはみな神の子である。
 キリストの中へバプテスマされた者は
  みなキリストを着たのであるから。
 ユダヤ人もギリシャ人もない。
 奴隷も自由人もない。
 男と女もない。
 あなたがたはみな一つだからである」。
 
 この洗礼定式は、初期の福音宣教が社会的な制約を乗り越えて一つの共同体を形成しようとする激しいエートスをもっていたことが感じられ、それが当時のあらゆる階層(とくに低い階層)の人々を引きつけていったのでしょう。
 
 ここに挙げられている三種類の差別について、第一のユダヤ人とギリシャ人の区別については、救いに関わるかぎりキリストにあってそれが廃されていることを、パウロは命がけで主張し、反対者と闘いました。しかし、ユダヤ人であることやギリシャ人であることを止めるようにとは求めていません(コリントT七・一八)。また、第二の自由人と奴隷の身分の違いと、第三の男女の社会的立場の差別については、具体的な生活の問題としては、パウロは当時の社会通念に従っており、直ちに差別を無視するように主張はしていません。むしろ、奴隷は召された時の奴隷の身分にとどまるように勧め(コリントT七・二〇〜二四、 なお二一節の意味については議論があります)、祈りの場でも女性は女性としての社会的な枠内にとどまるよう勧めています(コリントT一一・二〜一六、 同一四・三三〜三六)。

 なお、この箇所の男と女の問題については、E・S・フィオレンツァが『彼女を記念して』(山口里子訳)の第六章「男と女もない」で、フェミニスト神学の立場から詳しく論じています。

 しかし、「キリストにあって」はこのような差別がなくなっているとの理解は、後世の歴史において、福音が社会的差別の廃止のための秘かな原動力となり、ときには激しい起爆剤になりました。このような歴史を跡づけることは、聖書講解の範囲を超えますのでここで扱うことはできませんが、最近興味深く感じた問題に一つだけ触れておきます。
 
 女性新約聖書学者であるエレーヌ・ペイゲルスの『ナグ・ハマディ写本(原題はグノーシス諸福音書)』(荒井・湯本訳)によると、古代教会において正統派とグノーシス派が対立したとき、正統派が神を男性的用語で語る旧約聖書を継承して、教会組織も男性中心であったのに対し、グノーシス派の教会では女性を重んじ、女性の聖職者とその典礼執行を認め、神を語る用語にも女性語を多く用いました。パウロの「キリストにあっては男も女もない」という主張は、正統派よりもグノーシス派において実践されていたのです。この点で、古代のグノーシス派は現代のフェミニスト神学の先駆けをなしています。
 
 「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。ここでの「キリストのもの(キリストに属する)」という表現は、「キリストにある」《エン・クリストー》と同じ事態を指しています。キリストに属する者は、キリストと一緒に、約束を受け継ぐ「アブラハムの子孫」となります。先にパウロは、「アブラハムとその子孫に約束が告げられた」と言われる時の「子孫」はキリストを指すと言いましたが(三・一六)、わたしたちはキリストに結ばれ、キリストに属する者となることによって、キリストと一緒に約束を受け継ぐ者となるのです。
 
 その「約束」とは、三章(とくに一四節)の講解で詳しく触れてきましたように、聖霊を受けて神の子としての現実に入ることです。この「約束を受け継ぐ」ことについて、パウロは次の段落(四・一〜七)でさらに詳しく語ることになります。

 世を支配する諸霊

 「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても奴隷と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」。 (ガラテヤ四・一〜三 一部私訳)

 「つまり、こういうことです」と言って、パウロはこれまでに述べたことを要約しなおします。まず、先の「養育係」とよく似た比喩を用いて、キリストに達するまでの人間の状況が描かれます。全財産の相続人も、未成年の間は「後見人」とか「管理人」の監督の下に置かれていて、奴隷と何ら変わるところがないのと同様に、わたしたちも、未成年である間は、「世を支配する諸霊」に奴隷として仕えていたと描かれます。

 先の「養育係」の比喩(三・二三〜二五)では、「律法」が養育係にたとえられていました。「律法」というのはモーセ律法を指していますから、その比喩は直接にはモーセ律法の下にあるイスラエルがキリストに達することを語っていたことになります。それに対してここでは、「世を支配する諸霊」が後見人とか管理人にたとえられています。それは、モーセ律法の下にいない異邦人も同じように、キリストに到達するまでは、「世を支配する諸霊」に監視され拘束されて、奴隷と変わるところがないことを語るためです。
 
 では、「世を支配する諸霊」とは何でしょうか。原語では「コスモスの《ストイケイア》」となっています。《ストイケイア》とは本来物事の基本とか(基本的)要素という意味の語です。それで、宇宙の物質的構成要素(ペトロU三・一〇、一二)とか、宗教の初歩の(基本的な)教え(ヘブル五・一二)という意味にも用いられます。しかし、パウロはここと四章九節で、コスモスを構成する霊的諸力とそれが地上の諸宗教に現れた形を一体として《ストイケイア》と呼んでいると見ることができます。
 
 当時のヘレニズム世界では、コスモス(宇宙)は「支配」《アルケー》とか「権威」《エクスーシア》とか「勢力」《デュナミス》などと呼ばれる霊的諸力で構成される霊的空間とイメージされていました。パウロがこのような宇宙観を共有していたことは、パウロの手紙に散見する言葉遣いからも分かります(コリントT一五・二四など)。地上の諸宗教、とくに異教の諸宗教は、このようなコスモスの霊的諸力を神々として拝むものです。おそらくパウロは、このような霊的諸力とその異教的表現を、最高究極の霊的現実であるキリストと対比して、宗教の初歩的段階として《ストイケイア》と呼んだのでしょう。
 
 ここで注目すべきことは、パウロがモーセ律法を「世を支配する諸霊」《コスモスのストイケイア》と同列に扱っている事実です。先にパウロはイスラエルについて、キリストが到来されるまでは、モーセ律法という「養育係」の監視の下に閉じ込められていたと語りました。今ここでは、異教徒を念頭に置いて、「後見人」または「管理人」である「世を支配する諸霊」の監督の下におかれ、奴隷と変わるところがないと言います。そして、時が満ちて御子が現れたとき、それは「律法の支配下にある者」を贖い出して、神の子とためであるとされます(四・五)。すると、ここの「律法の下にある者」の中には、イスラエルだけでなく、異教諸宗教の異邦人も含まれることになります。モーセ律法の下にある者も《ストイケイア》の下にある者もひとしく、奴隷の状況から救い出されなければなりません。キリストの福音の前では、モーセ律法も異教諸宗教もひとしく、人間を奴隷の状態につなぎ止める「養育係」や「後見人」に過ぎないのです。

 子とする霊

 「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」。 (ガラテヤ四・四〜七)

 「時が満ちる」というのは、先に「後見人」のたとえで「父親が定めた期日までは」と言われていたように、神が定めた時が到来することを指しています。キリストの出現は神が定めた時が来たことを意味しています。それで、キリストの福音はいつも「時は満ちた」という告知で始まります。神が定めた時が到来して、「神が」御子を派遣されたのです。キリストの出現とキリストにおける救済の到来は、徹頭徹尾神の働きなのです。
 
 ここでキリストの出現が、「神が御子を遣わされた」と表現されています。この表現には、キリストはイエスとして地上に現れる前に、神の永遠の御子として神と共におられたことが含意されています。このような表現が用いられているのはパウロの場合は僅かですが(他にはフィリピ二・六〜八などもキリストの先在を前提としています)、先在されている御子が地上に派遣されたという思想は、後にヨハネ福音書において中心的な位置をしめることになります。この箇所はすでにパウロにおいて、先在・派遣のキリスト論が萌芽として存在することを示しています。
 
 「神は御子を遣わされた」という句の後に、「女から生まれ」と「律法の下に生まれ」という句が続きます。「女から生まれ」というのは、神が御子を世に派遣されるにさいして、黙示思想が期待したような栄光をまとって天から出現する超自然的な人格ではなく、わたしたち普通の人間とまったく同じように、女の胎に宿り、通常の出産の経過をへて生まれたということ、すなわち、わたしたちと同じ限界を担う人間として、誕生から死までの地上の生涯を生きられた方であることを意味しています。

 ここの「女」は普通の女を指す語であって、とくに「処女」という意味はありません。パウロには、イエスが「処女」から生まれたから神の子であるという思想はありません。イエスは復活によって神の子として立てられたのです(ローマ一・四)。

 「律法の下に生まれ」というのは、キリストはモーセ律法の支配下に生きる一ユダヤ人として生まれたことを意味しています。救済者キリストは「女から、しかも律法の下にある者として生まれた者」、すなわちナザレのイエスです。パウロは地上のイエスの働きや言葉に触れることはあまりありません。しかし、パウロが宣べ伝えるキリストは決して超自然の現象ではなく、人間の思想でもありません。あくまでも、一ユダヤ人としてパレスチナの地に生き、律法が支配するエルサレムで律法に裁かれて刑死したイエスという具体的な人物と切り離すことはできません。
 
 御子キリストが女から生まれた普通の一ユダヤ人として、律法の支配の下に生き、律法によって裁かれて死なれたのは、律法の支配下にある人間を「贖い出す」ためであったのです。「贖い出す」という語は本来「買い戻す」という意味ですが、ここでは金銭の支払とは関係なく、ある不幸な状況から「解放する」とか「救出する」という意味で使われています。
 
 わたしたちを奴隷の状態から救出して神の子とするために、御子がわたしたちと同じ人間となり、同じように律法の支配の下に服されたのは、(比喩を用いれば)牢獄につながれている者を救出しようとする解放者は、まずみずから牢獄に入ってこなければ、つながれている者たちを自分と一緒に連れ出すことはできないのと同じです。四節と五節の背後には、表現されてはいませんが、このような比喩が下敷きになっているのではないかと考えられます。
 
 こうして、御子であるキリストにあって(キリストに結ばれて)、共に神の子とされたのだから、神はわたしたちの心の中に「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を送ってくださったのです(六節)。

 六節冒頭の《ホティ》は、わたしたちが子である「こと」(新共同訳)ではなく、子である「から」(協会訳やRSVなど多くの英訳)と理解する方が適切でしょう。どちらの訳も内容的には大差はありません。新共同訳のように「こと」と理解すると、「事実から分かります」というテキストにない語句を無理に入れなくてはならなくなります。

 わたしたちキリストにある者は、祈りにおいて「アッバ、父よ」と呼びかけます。この呼びかけはもともとイエスの呼びかけでした。イエスはいつも神に「アッバ」と呼びかけて祈っておられました(「アッバ」は「父」のアラム語)。そして、弟子たちに、「祈るときは、『アッバ』と言いなさい」と教えておられました(ルカ一一・二)。ところが、イエスの在世中は、弟子たちはイエスのように「アッバ」と祈ることはできなかったのではないかと思われます。福音書に描かれている弟子たちの信仰は、イエスの境地からはほど遠いからです。弟子たちは、イエス復活後に聖霊を受けてはじめて、イエスが神の霊によって「アッバ」呼びかけ、父との深い交わりに生きておられた境地を理解し、自分たちも「アッバ」と祈ることができるようになったのではないかと思います。
 
 ですから、わたしたちが内から溢れるものに促されて、おのずから「アッバ、父よ」と祈るとき、子としてのイエスが父に祈っておられたのと同じ霊によって祈っているのです。この事実は、イエスが神の子であったように、わたしたちもキリストにあって、イエスと同じように神の子であることを示しているのです。
 
 ここでパウロは「彼(神)の子の霊を送ってくださった」と書いていますが、この「彼の子の霊」は、新共同訳のように「御子の霊」と理解することもできますし、また、「彼の子(神の子)という身分の者の霊」と理解することもできます。ここと同じことを語っているローマ書八章一五節では「神の子とする霊」となっています。そこでは明確に「《フィオテシア》(子とすること、子の身分を与えること)の霊」という表現が用いられています。ローマ書との並行関係から見ても、また、前節(五節)に用いられていた「子とすること」《フィオテシア》の結果を語る流れからしても、ガラテヤ書のこの箇所は一般的な「神の子たる者の霊」と理解する方が原意に近いのかもしれません。しかし、この場合、無理に一方に決めないで、両方の意味を含ませて理解する方が、一層含蓄深いと思われます。
 
 こうして、キリストにある者はもはや奴隷ではなく、子です。子であることは「相続人」であることを意味しています。パウロにおいては、「相続人」というのはアブラハムに与えられた約束を受け継ぐ者であり、キリストにある者は約束の聖霊を受けることで、すでに相続しているのです。しかし、キリストにある者も時間の中にいる限り、その相続にも将来の相があります。現在はキリストと共に苦難を受け継いでいるが、将来キリストと共に栄光を受け継ぐことになります。ローマ書八章ではこの相続の将来の面が詳しく語られるようになります。しかしここでは、キリストにある者は、律法の下にいる奴隷ではなく、子であり相続人であるということを論点としていますので、パウロは相続の将来の面にまで立ち入りません。

 なお、「神による相続人」という表現は珍しく、「キリストによる神の相続人」と読む写本も多くあります。どちらの読みを採るにせよ、この箇所の論点には影響ありません。


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