パウロによるキリストの福音 I

第五章 御霊による自由

第一節 神の子の自由
第二節 御霊による歩み
第三節 十字架の福音


第一節 神の子の自由



 ガラテヤ書の主要区分

 ガラテヤでの事態は深刻になっていました。異邦人信徒に割礼を受けることを求める「ユダヤ主義者」たちは、ガラテヤにかなりの期間留まって活動したようです。エルサレム教会の「使徒」の権威を背景に、聖書に熟達したユダヤ人伝道者の説得に、初心の異邦人信徒は抵抗することができず、多くの信徒が割礼を受け、または受けようとして、ユダヤ教の習慣に従って「いろいろな日、月、時節、年などを守る」ようになったのです。それは、パウロから見れば、「世を支配する諸霊」の奴隷の状態に逆戻りすることに他なりません。ガラテヤでの状況の報告を受けたパウロは、ガラテヤでの福音宣教の活動が無駄になってしまったのではないかと、本気で心配しなければなりませんでした(四・八〜一一)。

 ユダヤ主義者たちがパウロの「割礼なしの福音」を論駁するにさいして用いた論拠は、まとめますと次の二つになります。一つは、パウロはイエスの直弟子であった「使徒」の一人ではなく、パウロの使徒職はエルサレムの「使徒」たちに依存し従属しているのに、パウロは「使徒」たちとは異なった福音を宣べ伝えている、という非難です。この批判に対して、パウロはガラテヤ書の第一部とも言える一章と二章で激しく反論しています。すなわち、自分の福音はエルサレム教会から教えられたものでもなく、自分の使徒職はエルサレム教会から派遣されたものでもない、イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父なる神によって使徒とされたのであり、その福音は復活されたキリストから直接与えられた啓示によるのである、エルサレムの使徒たちもパウロの「割礼なしの福音」を承認している、と主張します。
 
 もう一つは、聖書に基づく議論です。おそらく、ユダヤ主義者たちはアブラハムの記事を引用したことでしょう。アブラハムは偶像を拝む異教から唯一の神を拝むようになった最初の改宗者であり、そのアブラハムに神との契約のしるしとして割礼が命じられたのである、だから異教からの改宗者であるあなたがたもアブラハムに従い割礼を受け、アブラハムの子孫であるイスラエルに与えられたモーセ律法を守り、現在ではイスラエルを代表するエルサレムの権威に従うべきである。このようなユダヤ主義者の主張に、聖書を知らない異邦人信徒は抗弁する術をもたなかったでしょう。
 
 このような聖書を論拠とするユダヤ主義者の主張に対して、パウロはガラテヤ書の第二部と言うべき部分(三章一節〜四章七節)で詳しく反論します。十字架につけられたキリストを信じることによって聖霊を受けたというガラテヤの信徒たちの体験を根拠に、アブラハムの記事をまったく違った視点から解釈し、モーセ律法の遵守ではなくキリスト信仰によって義とされるという福音を弁証し、キリストの到来によってモーセ律法の役割は終わったことを示します(この箇所はパウロの福音と律法観を理解するうえで極めて重要ですので、やや詳しく講解しました)。
 
 そして今や、パウロはこの書簡でガラテヤの信徒たちに訴えたい主題を正面から取り上げ語り出します。それがこの書簡の第三部(四章八節〜五章一二節)を構成します。パウロは、ガラテヤの諸集会が割礼を受けてユダヤ教の枠の中に取り込まれ、ユダヤ教イエス派になることを何としても阻止しなければならないのです。そうなればパウロが宣べ伝えたキリストの福音は崩壊し、ガラテヤでの働きは無駄になってしまいます。割礼とモーセ律法が救いと無関係であることは、第二部で十分示されました。いよいよ訴えの核心に入るに当たって、パウロはガラテヤの信徒たちに、彼らをキリストにあって生んだ親としての立場から、親子の絆と情に訴えます(四・一二〜二〇)。この箇所は、ガラテヤ書が間違った道に走ろうとする子を思いとどまらせようとする親の「涙の書」であることを雄弁に語っています。
 
 なお、五章一三節以下の第四部は、キリストにある者はモーセ律法に規制されない自由な者であり、モーセ律法はもはや信徒の生き方を規定する原理でないとすれば、キリストにある者の生き方はどのような原理によるのか、という問に答えます。それは聖霊に導かれる生き方です。聖霊による自由の実現の道が指し示されます。以上の四部がガラテヤ書の主要部分を構成すると見られます。

 二人の女のたとえ

 ユダヤ主義者たちはモーセ律法(聖書)を用いて異邦人信徒を説得しようとしました。それに対抗してパウロも、割礼を受けてモーセ律法の下に生きたいと思っている者たちに、そのモーセ律法を論拠にして思いとどまらせようとします。

 「わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした」。 (ガラテヤ四・二一〜二三)。

 モーセ五書の一つである創世記に、アブラハムと二人の息子の物語があります。一人は妻のサラから生まれたイサクであり、もう一人はサラの奴隷であったエジプト人の女ハガルから生まれたイシュマエルです。神はアブラハムに子孫を増し加えることを約束されましたが、妻のサラは不妊で子ができませんでした。待ちきれなかったアブラハムは、サラの奴隷であったハガルと寝て男の子を得ます。それがイシュマエルです。イシュマエルの誕生は、人間の計らいにより、通常の肉体関係によって生じたことですので、「肉によって生まれた」と言われます。それに対してイサクは、人間的には生まれる可能性のないところで、ただ神の「約束によって生まれた」のでした。パウロはここで、以下の主張の伏線として、二人の息子を生んだ母親の身分の違いを強調するために、サラを女奴隷ハガルとの対比で「自由な女」と呼んでいます。パウロは、奴隷の女から生まれた子は奴隷であり、自由な女から生まれた子だけが自由であることを言いたいのです(四・三一)。
 
 神はイサクとその子孫をご自分に属する民として契約を結ばれました。しかし、イシュマエルはその母親と一緒にアブラハムの家から追い出され、神との契約に与ることは許されませんでした。パウロの時代のユダヤ人は、自分たちこそイサクの子孫であって、イシュマエルの子孫である周辺のアラブ系諸民族とは違うことを誇りにしていました。ところが、パウロはこの二人の息子の物語をまったく違う意味に解釈して、ユダヤ人の誇りを粉砕します。

 「これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです」。 (ガラテヤ四・二四〜二五)。

 パウロは、この物語には「別の意味」が隠されていると言います。ユダヤ人と周辺アラブ系諸民族の起源を語る文字の上の意味とは別の意味が隠されているというのです。ここで「アレゴリー」(寓喩)という語の語源になっている動詞が、「別のことを意味する」という語の本来の意味で用いられています。
 
 物語の二人の女は二つの契約を指し示す比喩であり、「子を奴隷の身分に産む女」すなわち奴隷女ハガルは、「シナイ山に由来する契約」すなわちモーセ契約を表しているというのです。ユダヤ人が神の永遠の契約として尊んでいるモーセ契約が、こともあろうに子を奴隷の身分に産む奴隷女にたとえられているのです。さらにパウロは、奴隷女ハガルは今のエルサレムを指していると言います。「今のエルサレム」とは、エルサレムに代表され集約して表現されているその当時のユダヤ教です。モーセ律法の遵守をもって神に仕えようとするユダヤ教は、自由な相続人ではなく奴隷を生み出す宗教であると、パウロは断定するのです。先にパウロはモーセ律法を養育係にたとえ、「世を支配する諸霊」と同列に扱っていました。すなわち、子が未成年の間、子を奴隷と同じようにしつける教育係であるとしていました。しかし、ここでは奴隷を産む奴隷女という、ユダヤ人には一段と堪えがたい比喩が用いられることになります。

 この議論の流れの中に、「このハガルはアラビアではシナイ山のことである」という解釈の困難な文が入ってきます(この一文は後の時代の挿入であるとする学説が有力です)。「ハガル」という固有名詞に中性の定冠詞がついています。「シナイ山」という形で出てくる「山《オロス》」が中性名詞であることから、「ハガル」が山の名として扱われていると理解できます。するとこの文の意味は、「アラビヤでは『ハガル』と言えば、シナイ山を指している」ということになります。アラビヤ語で「岩」を指す単語の発音と「ハガル」が似ているところから出た語源物語の一種と見られます。この場合、「アラビヤ」がアラビヤという地域をさすのか、アラビヤ語を指すのかは大きな違いにはならないでしょう。イシュマエルの子孫の諸族は、シナイ半島を含むアラビヤと呼ばれる地域に広く分布していました。


 「他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。『喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから』」。 (ガラテヤ四・二六〜二七)

 二人の女は二つの契約を表しているのですから、ハガルに対して、子を自由な身分に産む自由な女サラは、アブラハムに与えられキリストによって成就される契約を指していることになります。比喩による議論の筋道からすれば、サラがこの契約を表していることを述べた上で、この契約こそがわたしたち自由な子を産む「上なるエルサレム」であることを語ることになるはずです。しかし、パウロはそのような順序を飛ばして、いきなり「天のエルサレム」について語ります。比喩の前半で、「今のエルサレム」を奴隷女ハガルにたとえた高揚が、このような飛躍を招いたのでしょう。パウロがいかに強く「エルサレム」にこだわっているかがうかがわれます。
 
 「今のエルサレム」が律法によって神に仕える奴隷であるのに対して、「わたしたち」キリストにある者を産む母は「上なるエルサレム」であり、二人の女の比喩において自由な女サラが表している契約である、と語られます。「エルサレム」という名は、ユダヤ人にとって神と民の関係が集約して現れる場所を指す神聖な名であり、パウロの論敵の「ユダヤ主義者」たちもこの名の権威を背景に活動したのでした。エルサレムはユダヤ人にとって母でした。その現実のエルサレムを奴隷を産む奴隷女にたとえたパウロは、もう一つ別のエルサレムがあることを見て語らざるをえませんでした。神が子としてのご自分の民に現れ、共に住みたもう聖なる場を「上なるエルサレム」と呼び、そこで神が人に与えた約束(契約)からわたしたちは産まれたのだと、パウロは語るのです。
 
 そのような主張の論拠として、パウロはイザヤ書五四章一節を引用します。これはバビロン捕囚後のエルサレムが、以前にまして栄えることを予言した句ですが、パウロはこれを不妊の女サラが、肉により産むハガルより多くの子を得ることを指している言葉とし、「今のエルサレム」よりも「上なるエルサレム」の栄光がまさることを語る預言とします。

 自由な子と奴隷

 「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。『女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである』と書いてあります」。(ガラテヤ四・二八〜三〇)

 創世記(二一・九)にはイシュマエルがイサクを「からかった」とあるだけですが、ユダヤ教にはイシュマエルがイサクを殺して跡取りになろうとして野に誘ったという伝承が語り伝えられていたそうで、パウロはこの伝承を念頭においているようです。その伝承の歴史性はともかく、何時の時代にも「肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害する」のは事実です。「肉によって生まれた者」は自分の価値を拠り所とする者ですから、自己の無なることを知る「霊によって生まれた者」の存在を許すことができないのです。その存在を認めることは自己の価値を否定することになるからです。迫害の歴史はいつも「肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害」した歴史でした。

 「女奴隷とその子を追い出せ。・・・・」という言葉は、サラがアブラハムにハガルを追い出すように頼んだ言葉ですが(創世記二一・一〇)、パウロはそれが聖書に書いてあるという理由で、神の断定の言葉のように引用しています。サラの頼みの言葉にアブラハムは大いに苦悩しますが、結局ハガルとその子は出されることになります。結果としてサラの言葉は後世を決めることになったので、パウロもサラの言葉を神の定めとして引用することになったのでしょう。
 
 このようにパウロが聖書を強引とも見える仕方で解釈したり引用したりするのは、人はキリスト信仰によって義とされるのであって、他には何も必要でないという福音の真理を弁証するための情熱から出ていることです。キリストの真理が聖書解釈の原理となるべきことを、パウロが教えてくれています。ユダヤ人にとって、そしてパウロにとって最も神聖なモーセ律法という啓示でさえ、キリスト信仰の他に必要なものとされる時、このような激しい言葉で退けられなければならないのです。その激しさは、モーセ律法をもって神に仕えるユダヤ教を奴隷女ハガルにたとえることで極点に達します。

 ローマ書を除く諸書簡は、パウロ自身が設立した異邦人集会に書き送ったもので、異邦人への使徒としてパウロの本音がよく出ています。そこではユダヤ教がキリスト信仰に対立する面が強調され、激しい言葉で拒否されています。それに対してローマ書は、自分が設立したのではない集会のユダヤ人信徒を意識して、しかもそのユダヤ人集会の協力を期待しなければならない状況で書かれたので、ユダヤ教に関する書き方にはかなりブレーキがかかっていると見られる節があります。モーセ律法に対するパウロの態度を理解する上で、ローマ書だけを主要な論拠にすることは不正確であって、ローマ書以外の諸書を十分考慮にいれて考察すべきであると思われます。


 「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。 (ガラテヤ四・三一〜五・一)

 要するにパウロはこう言いたいのです。わたしたちは女奴隷から生まれた奴隷の身分の子ではなく、自由な身の女から生まれた自由な身分の子です。すなわち、キリストを信じて聖霊を受け、神の御霊によって生まれた者は、モーセ律法によって奴隷として神に仕える者ではなく、アブラハムへの約束を土台としキリストにおいて成就した恩恵の契約によって生まれた者です。従って、キリストにある者はもはやモーセ律法の軛にはつながれていません。割礼を受けなければならないとか、決められた日にはこれこれの祭をすべきであるとか、安息日にはこれ以上の仕事をしてはいけないとか、これこれの食物は食べてはならないというような規定に縛られてはいません。
 
 わたしたちは今までは、ユダヤ人であればモーセ律法に、異邦人であれば世を支配する諸霊の諸々の規定に縛られ、それを行うことで神に仕える生き方をしていました。キリストが来られたのは、そういう奴隷の境遇からわたしたちを解放して、外からの規定に縛られることなく、内なる御霊の命に生きるようにしてくださった、すなわち自由の身にしてくださったのです。それだのに、モーセ律法の遵守を必要とするような境遇になることは、せっかく自由の身にされた者が再び奴隷の軛を負うことに他なりません。あなたがたはしっかりとキリストの真理に立って、再び奴隷の身分に陥ることがないようにしなさい、というのです。

 キリストか割礼か


 「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」。 (ガラテヤ五・二〜四)。

 ここでパウロは、「わたしパウロが言う」と特に断って、これから言うことが使徒としてのパウロが自分の全存在の重みをかけてする発言であることを強調します。この激しい手紙でパウロが言いたいのは、実にこの事に他ならないのです。すなわち、割礼を受けることはキリストから離れることである、ということです。この箇所ほど、割礼を受けてモーセ律法を守る立場とキリスト信仰が両立しない二者択一の関係であることを明確に語っているところはありません。割礼を受けるということは、モーセ律法全体を守る義務を引き受けることです。それは、モーセ律法を守ることで義とされることを追求することであり、律法を守ったという自分の価値と資格で神との関わりを築こうとする立場です。それはキリストを拒否することです。キリストとはまさに神が無条件に罪人を受け入れてくださる恩恵の支配の場に他ならないからです。割礼を受けてモーセ律法を守ろうとする者は、キリストの十字架を無意味なものとし、自分を恩恵の支配から追い出しているのです。パウロはこの段落でガラテヤの信徒たちに、キリストか割礼かどちらかを選ぶように迫っているのです。

 聖霊による信仰と希望と愛


 「わたしたちは、義とされる希望が実現することを、御霊により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼も無割礼も意味はなく、愛を通して働く信仰こそが大切です」。  (ガラテヤ五・五〜六 一部私訳)。

 先に(二〜四節で)割礼を受けようとする人々が「あなたがた」と呼びかけられていました。それに対して、キリストに留まる「わたしたち」は、自己の資格や価値を放棄して、恩恵を恩恵として受ける信仰から、賜っている御霊により、義が実現する日を待ち望む希望に生きているのです。

 ここで「義とされる希望」としたところは、新共同訳では「義とされた者の希望」となっています。原文は「義の希望」です。新共同訳は、義を恩恵の賜物であるという面から見て、すでに義とされているという面に即して訳したと考えられます。しかし、義が聖霊により人間に与えられる現実であるという面から見ると、義は完成したものではなく、途上にある現実であり、将来の完成を待っている面があります。ここは、「切に待ち望んでいる」という動詞の目的語であるという位置からして、「義とされる希望」(協会訳)と理解する方が自然でしょう。

 キリストに結ばれて生きる場《エン・クリストー》では、割礼を受けていることは何の益にもなりませんし、無割礼でいることこは何の不利益もありません。キリストにあって神の民であることにおいては、割礼を受けているユダヤ人であるか、無割礼の異邦人であるかは関係がないのです。これは割礼を神の民の標識とするユダヤ教の否定です。

 キリストに結ばれて生きる場において意味があるのは、「愛を通して働く信仰」に生きているかどうかだけです。信仰とは神と人との関わりです。その神との関わりが、孤立した個人の心の中の問題ではなく、隣人との関わりの中に具体的に現れてくるような質のものであるとき、その信仰は観念的な(頭の中の)信仰ではなく、具体的な信仰、愛の場に働く信仰となります。ここには「御霊」という語は使われていませんが、このような「愛を通して働く信仰」とは、御霊の働き、御霊の現れに他なりません。

 新共同訳の「愛の実践を伴う信仰」という表現は、信仰と愛の実践が別々にありうるような印象を与えますので、「愛を通して働く信仰」という直訳を用いるほうがよいでしょう。

 先の五節でパウロは、「御霊により、信仰を通して、義とされる(完成の)希望に生きる」ことが、わたしたちキリストに属する者の姿であることを示しました。ここ(六節)には「御霊により」という句は表に現れていませんが、パウロが愛というときそれはは聖霊の働きのことですから、「愛を通して働く信仰」とは御霊の働きの現れに他なりません。こうしてパウロはこの箇所(五〜六節)で、聖霊により一体として現れる信仰と愛と希望こそが、人がキリストに属することを示す標識であり、割礼の有無は意味がないと言っていることになります。
 
 ところで、人間は「聖霊による希望」とか「愛を通して働く信仰」というような目に見えないものを神に所属する者の標識とすることに耐えられないようです。割礼とか洗礼というような目に見える標識を身につけて安心したいという本能があります。それが宗教組織を形成し、霊の事態を外から規制する枠となっていきます。それは肉の願いであり、肉の働きです。パウロはここで肉の働きに対して戦い、霊の事態に生き抜くように求めているのです。霊で始めたことを肉によって仕上げようとする愚かさを暴いているのです。

 十字架のつまずき


 「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます」。(ガラテヤ五・七〜一〇)

 パウロは、自分が産んだ子に対する親の信頼の情によって、ガラテヤの信徒たちが外からの誘惑に打ち勝ち、真理に従って歩み続けるように呼びかけ、励まします。その中でパウロはパン種のたとえを用いています。僅かの量のパン種が粉の塊を大きく膨らます現象は当時の人々の注意を引き、僅かの原因が大きな結果をもたらすことのたとえとして広く用いられていたようです。イエスも「パリサイ派のパン種に気をつけなさい」と言っておられます。パウロはここでパン種の比喩を用いて、一見それほど重大には思われない割礼を受ける行為がキリスト信仰全体を駄目にしてしまうのだと警告しているのです。

 「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」。 (ガラテヤ五・一一〜一二)

 最後にパウロは、自分が受けている迫害に言及します。パウロが受けた迫害はおもにユダヤ人からのものでした。父祖の宗教(モーセ律法)に対するユダヤ人の熱心が高揚した時代において、神の民となるのに割礼も律法遵守も必要でないと唱えるだけでなく、異邦人と一つになってモーセ律法を侮辱するような言動を続けるパウロのような人物は、もっとも悪質な背教者として生かしておくことはできないと考えるユダヤ人がいたのも不思議ではありません。ルカは使徒言行録においてパウロを殺そうとするユダヤ人の陰謀が何回もあったことを報告しています(使徒言行録九・二三〜二四、二〇・三、二三・一二〜二二、二五・二〜三)。
  
 パウロがユダヤ人から迫害されたのは、イエスをメシア・キリストと宣べ伝えたからではありません。イエスをメシアと信じてもモーセ律法を忠実に守る限り、周囲のユダヤ人と対立することはあっても、命を狙われるほど迫害されることはありませんでした。使徒言行録六章の「ヘレニスト」(ギリシャ語系ユダヤ人)の場合が示しているように、イエスを信じたユダヤ人がモーセ律法と神殿礼拝に対する忠誠を疑われたとき、周囲の律法熱心なユダヤ人から迫害の標的とされたのです。
 
 パウロは回心前エルサレムで「割礼を宣べ伝えて」いました。ヘレニストの会堂(ギリシャ語を話すユダヤ人の会堂)で律法の教師として、聖地エルサレムに集ってくるディアスポラのユダヤ人や神を敬う異邦人に律法を教え、改宗者には割礼を受けるように指導していました。このようなモーセ律法に導く活動全体を「割礼を宣べ伝える」と表現していると見ることができます。もしパウロが回心後イエスをキリストと宣べ伝えるにさいして、ガラテヤの論敵であるユダヤ主義者たちがしているように、「今なお割礼を宣べ伝えている」ならば、すなわち割礼を受けてモーセ律法を遵守するように指導しているならば、ユダヤ人から命を狙われるような迫害は受けないですんだのです。
 
 パウロは自分が受けている迫害に言及することによって、自分が宣べ伝えている「割礼なしの福音」、「律法とは無関係の義」の真理は自分の命よりも大事なものであるとしていることを、ガラテヤの兄弟たちに理解してもらいたいのです。彼をキリストに導き、キリストにあって彼らを産んだパウロが命よりも大切にしている真理を守ってもらいたいのです。
 
 さらにパウロは、もし今なお割礼を宣べ伝えているならば、「十字架のつまずきもなくなっていたでしょう」と続けます。割礼を宣べ伝えているならば、すなわち律法を守ることによって救われると宣べ伝えているならば、十字架につけられたキリストを信じることだけが救いの道であるという「つまずき」は回避されます。ユダヤ人にとって「十字架につけられたキリスト」がつまずきであり(コリントT一・二三)、その福音がどうしても受け入れられないのは、栄光の中に現れるべきメシアが十字架の刑死という屈辱の中に死ぬという不条理が受け入れらないだけでなく、その死だけが罪人の救いのための神の業であるとされると律法を守ることは意味がなくなるからです。もし律法を守ることが救いの道とされ続けるのであれば、イエスの十字架の死も殉教者の死として位置づけられ、合理化され、イエスをキリストとして受け入れやすくなるでしょう。そのとき十字架はつまずきでなくなりますが、絶対恩恵の場、救いの根源でもなくなります。
 
 パウロは自分が命がけで宣べ伝えたキリストの福音によって産んだガラテヤの信徒たちが、後から入ってきたユダヤ主義者たちによって誘惑されることに耐えられず、激しい言葉で誘惑者を罵ります。パウロは「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」とまで言います。
 
 彼らは「割礼、割礼」と言って騒いでいるが、それほど割礼が大切であれば、いっそのこと自分を「去勢」してしまえばよいではないか、と言うのです。割礼は男性性器の包皮を切る儀礼です。改宗者の場合、成人してからこの儀礼を受けることはかなり激しい痛みに耐えなければならないのです。人の性器を傷つけることがそれほど大切なことであれば、それを要求する者はまず自分の性器を切り落として「去勢」し、模範を示せばよいのではないか、というのです。このような表現に見られる論理を越えた感情の激しさは、福音の真理を守りたいというパウロの熱心さの裏側でしょう。

 ここで割礼と去勢が関連して言及されています。これは割礼に対する異邦人社会の見方にパウロも立っていることを示しています。ローマ人たちはユダヤ人の割礼を、異教祭儀(たとえばフリギアのキュベレ崇拝)に見られる去勢と同列にみて、野蛮な習慣として軽蔑していました。割礼を神の民のしるしとする律法に忠実なユダヤ人であれば、割礼を去勢と並べて言及することはありえません。ここにもパウロが異邦人に対しては異邦人の立場になって、ユダヤ教が強要する割礼の愚かさを感情的に訴えている実例が見られます。


第二節 御霊による歩み


 自由と愛

 パウロは前の段落で、この手紙で言おうとしていることを要約して、こう書いていました。
 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(五・一)

 パウロが「自由」と言うとき、それは何よりもまず律法からの自由です。ガラテヤの異邦人信徒が割礼を受けることにパウロが激しく反対するのは、割礼がキリストの与えてくださった自由を放棄して、モーセ律法という「奴隷の軛」につながれることを意味するからです。
 
 律法というのは、わたしたちの行為と生活を外から規制する規則です。ユダヤ人にとってはモーセ律法が神から与えられた神聖な規則であるのです。いかに神聖な規則でも、その遵守を救いの条件として、外からわたしたちの行為を規制するものであるかぎり、それは人間を拘束する「奴隷の軛」なのです。キリストはその十字架のあがないと復活によって、わたしたちが信仰によって聖霊を受ける道を開き(三・一以下)、そのことによってわたしたちを律法の軛から解放し、自由にしてくださったのです。第一に、信仰によって聖霊を受ける以上、律法の遵守はもはや救いの条件ではありません。第二に、キリストにあって恩恵として賜る聖霊が、わたしたちの内にあって神との命の交わりに生きる力となるので、律法が外からわたしたちを拘束することはありません。この二つの面で、キリストはわたしたちを自由にしてくださったのです。
 
 ところが、このように自由が聖霊による現実であることを理解していないと、自分たちはもはや律法に拘束されていないのであるから、欲するままに何をしてもよいのだと放縦に走ったり、また、生活と行為の規範がないのであれば、何を基準にして生きたらよいのかが分からないと不安を感じたりすることがあります。それで、パウロは「キリストにある自由」を生きるとはどういうことかを具体的に教えます。それがガラテヤ書の第四部(五・一三〜六・一〇)を形成します。まず冒頭(五章一三節)で、自由と愛の関係が取り上げられ、主題が提示されます。

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を肉への機会とせずに、愛によって互いに奴隷となりなさい」。 (ガラテヤ五・一三 一部私訳)

 まず、キリストにあって自由を得ているという事実を再確認した上、ただちにその自由が愛に生きるためのものであることが示されます。愛は自由の場の外では成立しないからです。「自由の場に生きる」ことについて語るには、何よりも自由の中身である愛について語らなければならないのですが、その前に、「自由」が被っているもっとも一般的な誤解を避けるようにしなければなりません。その誤解というのは、自由なのであるから自分が欲することは何をしてもよいのだ、という誤解です。
 
 もし聖霊によってキリストにある自由をしっかりと受け止めているのであれば、このような誤解が出てくる余地はないのですが、パウロは、福音の自由の主張を放縦主義と批判する人たちの存在を意識して、「この自由を肉への機会としないで」(直訳)と念を入れたのかもしれません。パウロはこの言葉で、自由であることを、自己追求の人間本性(肉)を何の拘束もなく行使する機会とか口実にすることは福音に反することだと宣言します(「肉」の問題は一六節以下で改めて論じられます)。その上で、自由の中身である愛について語ります。

 新共同訳が「愛によって互いに仕えなさい」と訳している「仕える」という動詞は、「奴隷」という名詞の動詞形であって、「奴隷として仕える」という意味です。RSV(改正標準訳)はこの動詞を「奴隷となる」と訳しています。ここで単純な「仕える」という動詞でなく、自由と対照してあえてこの動詞が用いられていると考えられますので、「奴隷となりなさい」と訳しました。

 「あなたがたは自由なのである。だから奴隷となりなさい」というのは、一見矛盾しています。この逆説はただちにルターの有名な「キリスト者の自由」の命題を思い起こさせます。ルターはその著作の冒頭に二つの命題を掲げます。

 「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(奴隷)であって、何人にも従属する」。

 そして、この著作は、パウロの「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」(コリントT九・一九)という一句の解説であると断っています。パウロは、聖霊による自由がすべての人の奴隷となって仕える生き方と一体であることを身をもって体験していたので、このような逆説を自然に語ることができたのです。
 
 パウロが言う「自由」とは聖霊がもたらす律法の軛からの解放であることを理解しておれば、「自由なのだから奴隷となれ」は矛盾ではなく、聖霊の愛を仲介項として論理的に一貫した命題であることが理解できます。キリストにある者が聖霊によって自由にされるのは、聖霊の命の質である愛に生きることができるようになるためです。水の中でなければ魚は生きられないように、自由がなければ愛は生きられません。外から拘束された行為をいくら積み重ねても愛にはならないのです。愛は内なる命の発現です。聖霊の命の質である愛に生きるためには、外からの拘束である律法の軛から解放されていなければならないのです。そして、その愛がすべての人を無条件に受け入れ、仕えるように求めるのです。こうしてこの逆説的な命題は、「あなたがたは聖霊によって自由を与えられているのです。その聖霊がもたらす愛によってすべての人の奴隷となりなさい」と、一貫した命題となります。
 
 こうして愛によって互いに奴隷となるとき、律法が求めていたことがすべて成就するのです。そのことを、律法学者たちが、そしてイエスご自身が、律法の全体を要約する根本律とされた聖書の言葉を引用して確認します。

 「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。 (ガラテヤ五・一四)

 律法の軛から解放されて愛に生きるとき、律法が求めるところを全うすることになるのです。律法が外から行為を規制する必要はなくなるのです。

 その後に、「互いに奴隷となる」ことの反対のことをしていると、互いに滅ぼし合う結果になるぞと言う警告が加えられます。これはガラテヤの集会の実状に思いを馳せて加えた一句でしょう。

 「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」。 (ガラテヤ五・一五)



 御霊と肉の対立

 パウロはキリストにある者の実際の歩みについて勧めを始めるにあたり、自由を土台とし、その上に愛によって仕える生き方を築くように求めました(一三節)。そこでは、自由と愛を成立させる原動力としての聖霊は背後に隠されたままでした。一三節に掲げた主題に続いて、一六節以下でパウロは、聖霊が自由と愛の源泉であるという消息を明らかにします。

 「わたしが言いたいのは、こういうことです。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、御霊に反し、御霊の望むところは、肉に反するからです。肉と御霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。 (ガラテヤ五・一六〜一七 一部私訳)

 実際の歩みについてのパウロの勧めは、「律法を遵守せよ」ではなく、「御霊によって歩め」という一句に尽きます。そして、「御霊によって歩む」ことが、肉と霊の対立という枠組みの中で語られます。
 
 パウロが言う肉《サルクス》と霊《プニューマ》の対立は、身体《ソーマ》と霊魂《プシュケー》(あるいは肉体と精神、外面性と内面性など)の対立と混同してはなりません。ギリシャ人は人間を肉体《ソーマ》とその内にある生命の原理である霊魂《プシュケー》とから成り立っていると観て、死によって肉体は朽ち果てても、霊魂は死後も生き続ける(霊魂不滅)と信じていました。そして、肉体はその欲望によって霊魂を滅ぶべき物質界に閉じこめる牢獄であると感じていたのです。
 
 それに対してパウロにおいては、身体《ソーマ》と霊魂《プシュケー》を含む生まれながらの人間全体が「肉」《サルクス》と呼ばれるのです。パウロにおいては、「霊」《プニューマ》は生まれながらの人間に属するものではなく(人間に生まれながら備わっている一部ではなく)、神に属するもの、神から来るものなのです。神から来る「霊」がわたしたち人間の内に宿るとき、わたしたち人間存在にも霊の次元が生まれるのです。その霊の次元が、生まれながらの人間本性である「肉」と対立するのです。
 
 「霊」が神に属するものであることを表現するために、「神の霊」とか「聖なる霊、聖霊」(「聖なる」という形容詞は本来「神に属する」という意味です)という表現がよく用いられます。しかし、霊が神に属することを当然のこととして、ほとんどの場合「神の」とか「聖なる」を付けないで、たんに「霊」とだけ呼ばれます。そういう場合の「霊」が神に属する霊であることを示すのに、原文の「子」を「御子」と訳すように、「御霊」と訳してよいでしょう。パウロは、「御霊の導きに従いなさい」と言っているのです。

 わたしたちの内に始まった「霊の次元」のことを「わたしたちの霊」と呼んで、「御霊」そのものと区別している例が一つだけあります(ロマ八・一六)。また「わたしの霊」という表現で自分の内面を指している場合も僅かあります(コリントU二・一三)。しかし、パウロが「霊」《プニューマ》という語を用いるとき、そのほとんどは神の霊を指す術語であって、「御霊」と訳してよいと見られます。本節以下の箇所も、明らかに他の意味で用いられている場合以外は、とくに断りなく「御霊」と訳します。新共同訳は原則として「霊」と訳し、特に神の霊であることを示唆する必要がある場合に”霊”と表記しているようですが、どこで区別しているのか、原則は明確ではありません。

 パウロは神の霊を受けてはじめて、自分の人間本性がいかに深く神に反するものであるかを認識したのです。ファリサイ派の時代のパウロは、神の意志である律法を誠実に守っていることに自信を持っていました(フィリピ三・六)。自分の存在自体が神に敵対しているなどとは夢にも思いませんでした。ところが、聖霊を受けて神の愛が注がれたとき、律法を欠けるところなく行おうとしている自分の存在そのものが神に離反し敵対していることに気付くのです。こうして御霊によって照らし出される人間本性を、パウロは「肉」《サルクス》と呼びます。「肉」は「御霊」の相関概念です。御霊がなければ、人は「肉」の中に埋没していて、自分の本性を「肉」と自覚することはありません。

 パウロはガラテヤの信徒に、あなたがたは信仰によって御霊を受けたのだから(三・一〜五)、御霊によって歩みなさいと勧めるのです。御霊に従って歩むことによってはじめて、すぐ後(一九〜二一節)に描かれような肉の欲を満たす生き方を克服できるのです。御霊がなければ、人は肉の欲望を克服することはできません。いくら外から法律や宗教道徳の戒めで縛り付けても、人間の本性的な自己追求から出てくる「肉の業」を抑えることはできないのです。肉と対立する御霊が与えられ、人が御霊に従って生きるときにはじめて、人間本性がしたいと欲するところができなくなるのです。「罪を犯すことができない」という原理は御霊に属することです。パウロがこの節で御霊と肉の欲するところが反対であることを描いた後、その対立の結果「あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」と言うとき、御霊こそが人間本性が欲するところを「できない」ようにする力であることを示しているのだと理解できます。
 
 肉と御霊という対立する二つの場を描いた後、パウロは、わたしたちが生まれながらの本性(肉)の場に安住しているのではなく、御霊に導かれて生きているのであれば、律法の規制の下にはいないこと、すなわち自由であることを思い起こさせます。

 「ところで、あなたがたは御霊に導かれているなら、律法の下にはいません」。 (ガラテヤ五・一八 一部私訳)

 ここで改めて、自由であることは御霊によって与えられている現実であることが語られています。御霊によって歩むときは、律法が求めるところ、すなわち愛を生きる力が内にあるので、外から規則で縛る必要はなくなるのです。御霊こそ自由の源泉です。

 肉の働き

 このように御霊と肉の対立という人間存在の状況を原理的に述べた上、パウロは肉と御霊の現れを具体的に描きます。

 「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。 (ガラテヤ五・一九〜二一)

 ここに出てくる「肉の業」あるいは「肉の働き」のリストを見ますと、まず最初に「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術」と、ユダヤ人が異教社会の代表的な悪徳として嫌悪する性的な退廃と宗教的な暗黒が上げられています。パウロもユダヤ教の律法教師として働いていた時から、こうした異教徒の悪徳を攻撃して、唯一の神に立ち帰るように説いていたことでしょう。いま福音の宣教者として、生まれながらの人間本性が何の規制も受けないで現れたときの悪徳を攻撃するさい、律法を持たない異教徒の代表的悪徳をまず槍玉に上げます。
 
 最初に「姦淫、わいせつ、好色」と来ますので、パウロの言う「肉の業」を肉体的欲求の発現と誤解し、その結果、教会の歴史において、性的禁欲こそ霊的生活の条件であるとする傾向が生まれました。しかし、性は神の創造の秩序に属するものですし、性的欲求を満たすこと自体は罪ではありません。ただその欲求を満たす形が、自己追求の本性によって相手の立場や尊厳を無視することになりますと(カント風に言えば、相手を自己の欲望充足のためのたんなる手段として扱うと)「姦淫、わいせつ、好色」となるのです。その上、旧約聖書ではヤハウェとイスラエルの契約関係が夫婦のちぎりを比喩として語られていましたので、性的貞潔はとくに重視されていました。このようなイスラエルの伝統からすると、性的な放縦はとくに嫌悪されたわけです。
 
 「偶像礼拝、魔術」も自己中心の人間本性が現れたものとされます。人間が偶像を作るのは、人間を超える神々の力を自分の利益のために利用したいからです。「魔術」(霊能力による奇跡や占いなど)も霊的な能力を自分の都合のよいようにコントロールして利用したいからです。そういう偶像礼拝や魔術という宗教的行為が、「肉の働き」として退けられるのです。

 ところで、「姦淫してはならない」という戒めは十戒の中の一つです。偶像禁止はモーセの十戒の中の第二戒であり、ヤハウェ宗教のもっとも基本的な戒律です。「魔術」とは霊能者による奇跡や託宣(占い)で、イスラエルではヤハウェへの背信としてモーセ律法によって厳しく禁じられていました(出エジプト記二二・一七、申命記一八・二〇)。このように律法で禁止されている行為を、それが律法によって禁止されているからという理由からではなく、肉の働きとして、すなわち人間本性に巣くう悪として、御霊に従う歩みによって克服するように、パウロは異邦人にも求めるのです。こうして福音においては、モーセ律法というイスラエルの特殊な戒律は、御霊に従う歩みによって実現されるべき普遍的な価値となるのです。

 性的放縦と宗教的退廃の後に、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」という、きわめて一般的で内面的な心の在り方が取り上げられます。利己心とかねたみというような心の在り方は、生まれながらの人間の心には自然に備わっている姿であって、それが行動となって外に現れて具体的なトラブルを起こさない限り、道徳的に非難されたり、法律によって罰せられたりはしません。しかし、御霊に照らし出されると、そのような心の姿は神の命の質に反する卑しいもの、内に抱いていることが辛くて嫌なものであることが見えてきます。御霊に従って歩むことによって克服し、心の中から駆逐すべき性質のものとなります。このように、御霊によって克服すべき肉の働きの中に内面的な心の在り方が含まれることによって、パウロの「御霊によって歩みなさい」という勧めは、(マタイ福音書五章などにある)律法を内面から満たすことを求めるイエスのお言葉と同質のものとなっていることが分かります。
 
 さらに、肉の働きとして「泥酔、酒宴」が上げられます。これもアルコール類を口にすること自体が禁じられているのではなく、飲食の欲望に身を委ねる放縦が非難されていると理解すべきでしょう。その他自己中心を本性とする「肉」の現れはいちいち数え上げることはできませんので、パウロは「その他このたぐいのもの」と一括して、肉の働きのリストを締めくくります。
 
 こうして「肉の働き」を数え上げた上で、「こうしたことを行う者は、神の国を受け継ぐことはありません」と警告します。これは、ここに上げられた種類の個々の行為の責任を問われて裁かれ、「神の国」に入れなくなるというような法廷的な意味ではなく、このような肉の働きに身を委ねるような生活あるいは生涯を続ける者は、とうてい御霊の命を全うすることができないのであるから、その完成としての「神の国」の栄光を受け継ぐこともない、という生命的な関連で理解すべきでしょう。
 
 パウロが書簡の中で「神の国」という表現を用いることは比較的少ないのですが、「神の国」の性質について語る二カ所(コリントT四・二〇、ロマ一四・一七)以外は、この箇所のように「神の国を受け継ぐ」という形で、終末的な希望との関連で用いられています(コリントT六・九〜一〇、一五・二〇)。この表現に見られるように、パウロの福音は聖霊による現在の救済を核心としながらも、将来の完成も視野に入れていることを見逃してはならないでしょう。

 御霊の実


「これに対し御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません」。 (ガラテヤ五・二二〜二三)

 肉(生まれながらの人間本性)と御霊は対立します。「肉の働き」を上げた後、パウロは続いて肉と対立する「御霊の実」を数え上げます。りんごの木にりんごの実がなるように、御霊によって歩む人には「御霊の実」がなるのです。「木は実によって知られる」のです。では「御霊の実」とはどのようなものか、キリストにあって賜った御霊がその御霊に従って歩む者の生活と性格にもたらす結果がどのようなものかがここで語られます。
 
 ここに「御霊の実」として愛以下喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と計九つの項目が上げられています。しかし、よく見ると、その九つは何か具体的な善行ではなく、人柄とか心の姿であることに気付きます。御霊は人の根底の在り方を変えることによって、性格や生活、生涯を変えていくのです。そして、ここに数え上げられている九つの徳目は、個々ばらばらの九つではなく、一つの「実」の様々な面を数え上げたものです。肉の「働き」が複数形であるのに対して、御霊の「実」は単数形です。実に御霊の命の質は一つ、「愛」《アガペー》なのです。喜び以下の八つの徳目は、一つの光が虹の中に七つの色彩をみせるように、愛が異なる状況や関係の中で発する様々な光彩なのです。
 
 そのことは、同じパウロが御霊の働きとして上げているコリントの信徒への手紙十三章と比較すると分かります。この章は、聖霊の働きを語る部分(十二章〜十四章)の中にあって、聖霊の働きの「最高の道」として、愛《アガペー》が詩的とも言える言葉で謳い上げられる章であって、「愛の賛歌」と呼ばれています。愛の不可欠性(一〜三節)と永続性(八〜一三節)が謳われる中間に、愛の働きがきわめて簡潔に表現されています(四〜七節)。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「わたしが復活であり、生命である。わたし信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない」。

 ガラテヤ書の「御霊の実」がすべて名詞で羅列されているのに対して、コリント書では愛の働きがすべて愛《アガペー》を主語とする十四の動詞で語られています。愛の働きを述べるのにふさわしい形だと言えます。
 
 ガラテヤ書の「寛容」はコリント書では「愛は忍耐強い」となっています。「寛容」の原語は「忍耐強い」と訳されている動詞の名詞形です。「親切」は「情け深い」となっています。「親切」の原語は「情け深い」訳されている動詞の名詞形です。「善意」は「親切」と一緒に「情け深い」に含ませてよいでしょう。「誠実」は「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」という表現で語られています。「誠実」《ピスティス》は「すべてを信じる」というときの「信じる」の名詞形です。「柔和」は「自慢せず、高ぶらない」となり、「節制」は、正確に対応する語がコリント書にはありませんが、限度を超えないという意味で「礼を失せず」に相当すると見ることもできるでしょう。なお、ガラテヤ書で「肉の働き」として上げられていた「利己心」と「ねたみ」(これは人間本性のもっとも深いものです)が、コリント書では愛の働きとして「自分のものを求めない」とか「ねたまない」という形で否定されていることが注目されます。「肉」に対立するものは「愛」なのです。
 
 ガラテヤ書で「御霊の実」とされている「喜び」と「平和」はコリント書にはありません。しかし、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」愛の勝利の結果として、いかなる状況においても平安と喜びに生きることができるという意味で、喜びと平和は愛の姉妹であると言えるでしょう。 ガラテヤ書とコリント書が正確に対応しているとは言えませんが、内容からすると、ガラテヤ書で「御霊の実」として愛と併記されている人間の在り方は、コリント書では愛の働きとして記述されているものと同じであると見ることができるでしょう。実に、「御霊の実」とは愛《アガペー》のことなのです。
 
 こうして「御霊の実」を数え上げた後、パウロは「これらを禁じる掟はありません」と付け加えています。モーセ律法には多くの掟があり、その中の多くのものが「〜してはならない」という禁止律法です。律法の下にある者は、その禁止律法に違反しないように細心の注意を払って生活しなければなりません。しかし、このような御霊の実として上げられている生き方を禁じる掟はないのですから、御霊によって歩んでいる者は、律法に違反していないかどうかを気にする必要はないのです。これは、御霊によって歩むことが律法を満たすことであるという主張を裏側から見たものになります。

 御霊による歩み


 「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、御霊よって生きているなら、御霊によってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」。 (ガラテヤ五・二四〜二六 一部私訳)

 肉の働きと御霊の実を具体的な形で比べた後、改めてパウロは、肉に従って歩むのではなく御霊によって歩むように勧めて、この肉と御霊という対立する原理についての一段を締め括ります。
 
 「キリストのものとなった人たち」とはキリストに属する者たち、パウロがいつも「エン・クリストー」という句で表現しているように、キリストに合わせられた者のことです。キリストを信仰の対象として外に観ている者ではなく、キリストに合わせられ、キリストと一つに結ばれている者のことです。そういう人はキリストの十字架に合わせられて、キリストと共に死んだとされます(ガラテヤ二・一九〜二〇、ロマ六・三〜四)。そのさい「死んだ」のは、生まれながらの人間本性に生きるわたし、すなわち肉なるわたしです(ロマ六・六)。そう告白する者は、生まれながらの人間本性に含まれる「欲情や欲望」をも十字架につけてしまったのです。そうである以上、キリストに属する者はもはや、先に挙げたような「肉の働き」を、自然なもの、人間本性に属するものだからと言って、その欲情や欲望のままに生きることはできないはずです。
 
 肉なるわたしが死んだところに生きているのは、わたしの内にいます霊なるキリストです。御霊なるキリストがわたしの新しい生となってくださっているのです。こうしてキリストに属する者は御霊によって生きているのですから、実際の生活も「御霊によって」進めるのが当然となります。パウロはここで「わたしたちが、もし御霊によって生きるのであれば」と言っていますが、この「もし」は、学生に向かって「もし君が学生ならば」と言って学生生活について勧めをするように、「わたしたちが御霊によって生きている以上は」という意味に理解すべきでしょう。
 
 この箇所に見られるように、パウロが「十字架」という表現を用いるときは、たんなる歴史上の出来事ではなく、また、ユダヤ教の犠牲祭儀の成就という贖罪論的な象徴としてだけでもなく、キリストに属する者の実存的な変革、自己の存在の根底的な転換を語っていることが分かります。そして、十字架による実存の転換は、御霊による新しい生と一体です。御霊による生なくしては、十字架による自己存在の転換は観念的で空疎な思想に止まります。
 
 このように、肉によってではなく御霊によって歩むようにという勧めを終えるにあたって、パウロは伝え聞いているガラテヤの教会の現状に思いを馳せたのでしょうか、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」という具体的な勧告を付け加えます。そして、次の段落(六・一〜一〇)で、御霊による歩みを主にある兄弟たちとの交わりの中で生かすように、具体的な勧めに入っていきます。

 交わりにおける御霊

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊的な人であるあなたがたは、そういう人を柔和な霊で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。 (ガラテヤ六・一〜二 一部私訳)

 パウロはこの手紙で何度も、ガラテヤの集会に紛争があることを心配する気持ちを覗かせています(五・一五、六・二六)。紛争は、自分を立派な者として他者を蔑む肉の心から出るものです。「霊的な人間」であることを自称しながら肉の働きに陥っている未熟なガラテヤの人たちを、パウロは叱責するのではなく、本来「霊的な人間」が取るべき態度を指し示すことによって、事態をよい方向にもっていこうとするのです。お互いに「柔和の霊」をもって他者の過ちや問題や重荷を担うことで、御霊の実である愛を実践することになるのです。そうすることが、「キリストにあって」歩む道を全うすることになるのです。福音においては律法に代わってキリストが生活と行いの基準となっているのです。このことがここで、「キリストの律法」と呼ばれるのです。

 「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の荷を担うべきです」。 (ガラテヤ六・三〜五)

 自分の生活や行いを吟味すると、悔いるような点が多いことに気づきます。立派な点があるとしても、それは自分に与えられた責任とか使命を全うし、神の前で自分の良心に恥じることがないというだけで、他人に誇れる性質のことではありません。そういう意味で、人は各人が自分の責任を果たすことを考えるべきであって、他人と比べて、誇ったり軽蔑したりしてはならないのです(五節の「荷」は二節の「重荷」とは違う単語です)。

 「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」。 (ガラテヤ六・六〜九)

 ガラテヤの信徒の中には、自分の生活のことだけを考えて、御言葉を中心とする集会のためには冷淡な人がいたのでしょう。当時は新約聖書はまだありませんし、旧約聖書も個人が持てるような状況ではありません。集会で御言葉を教えることを仕事とする特別の人たちを必要としたのです。そのような人たちを物質的に支えることが、御言葉を大切にし、御霊の場に生きるために必要だったのです。その責任を軽視して、自分のことだけを考えて生活する人は、その生涯は人間から出てくるものしか獲得できませんので、結局は滅びです。それに対して、御言葉を大切にし、御霊の場を追い求める者は、御霊の命の質である永遠の命を身に受けることになるというのです。これは神の原理であって、必ずそういう結果になるのだと、パウロは厳しく警告し、切に勧めるのです。

 「ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」。 (ガラテヤ六・一〇)

 最終的な結果を刈り取るまでの期間、今与えられている地上の生活で、すべての人に対し(これは数ではなく、敵を含むどのような関わりの人でもという質的な「すべて」)善を行うように勧めて、この箇所を締めくくります。ここでキリストにある仲間が「家族」と呼ばれていることが注目されます。
 
 第二節で取り上げた箇所(五・一三〜六・一〇)は、キリストにある者が実際の生活でどのように歩むべきかを勧めているところです。その勧めが、以上に見てきたように、ただ「御霊によって歩め」という一句に尽きていることは、パウロの「倫理」のもっとも重要な特色です。パウロの倫理は、御霊がもたらす自由の場で、御霊のいのちの質である愛に生きること、これに尽きます。こういう勧めが成り立つのは、御霊の働きが現実に体験されている場だけです。御霊の働きがないところでは、キリスト者の倫理も、何らかの形で外からの律法による規制にならざるをえません。御霊によって生かされ、御霊によって歩むこと、これが信仰生活の生命線です。


第三節 十字架の福音



 ガラテヤ書の結び


 「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」。 (ガラテヤ六・一一)

 言うべきことをすべて言って、ここでパウロは手紙の結びに入ります。おそらくここまでは口述筆記で書かせてきたのでしょうが、書かせたことが自分の真意に間違いないことを保証するかのように、「自分の手で」以下の結びの部分を書きます。これは、この手紙につけられたパウロの署名です。しかも、その内容が重大であることを印象づけるために、「ご覧なさい、こんな大きな字で」書いていると言います。こう言って、後から入ってきて異邦人信徒に割礼を要求する者たちと自分の違いを、最後にいま一度鮮明にします。

 肉の誇りと十字架

 「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたのに肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます」。 (ガラテヤ六・一二〜一三)

 異邦人信徒に割礼を強要するユダヤ人伝道者たちの隠された動機を、パウロは暴きます。彼らはモーセ律法が永遠に効力があると信じているのですから、異邦人信徒も救いに至るためには割礼を受けてモーセ律法を遵守する必要があると主張するのは当然で、彼らも真面目なのです。しかしパウロの目から見ると、彼らがこの時期にわざわざパウロの宣教地に押しかけてきて割礼を強要するのは、自分たちが迫害されたくないからだというのです。

 ガラテヤ書の執筆の年代は正確に決めることはできませんが、五十年代の前半であることは間違いありません。この時期は、ユダヤ人がローマに対する独立運動の戦い(ユダヤ戦争)を始める直前で、パレスチナではユダヤ民族主義が高まってきていました。モーセ律法を遵守することによってユダヤ民族のアイデンティティーを確立し、ローマの異教支配に対抗しようとしたのです。その律法への熱意が、ユダヤ人でありながら律法を守ろうとしない者への敵意となり、暗殺事件まで引き起こすことになります。そのような民族主義の熱気の中で、イエスを信じるユダヤ人信徒の群は周囲のユダヤ人から圧力を受けることになります。ローマの権力によって十字架刑に処せられたイエスをメシアと信じることはユダヤ人にとって愚かさの極みですが、それにもまして許せないのは、イエスの信徒たちは律法をないがろにしているのではないかという疑いでした。ユダヤの諸教会、とくにエルサレムの教会はこの嫌疑を晴らすのに懸命で、厳格な律法遵守が評判で、周囲のユダヤ人から「義人」と呼ばれていた主の兄弟ヤコブを代表に立て、律法尊重の姿勢を示そうとしました。それでも、異邦人が信徒の群に加わるにしたがい、異邦人と接触を持ち、律法を汚しているのではないかという嫌疑を拭い去ることはできませんでした。
 
 アンティオキア事件もこのような状況から起こったのでした。指導者の一人であるペトロがアンティオキアで異邦人と食卓を共にしたという事実が伝わってきますと、エルサレム教会の立場はますます苦しいものになります。ペトロが「割礼の者たちを恐れて」共同の食卓の交わりから身を引いたのも、このようなエルサレム教会の状況を配慮したためという一面がありました。パウロはアンティオキアでこのような状況を身をもって体験したのでした。
 
 いまガラテヤで起こっていることも同じです。イエスを信じるユダヤ人は異邦人と交わり律法を破っているという嫌疑を晴らし、周囲のユダヤ人からの迫害を避けるためには、信仰に入った異邦人に割礼を施してユダヤ人にしてしまえばよいのです。いま彼らが異邦人信徒に割礼を強要するのは、このように自分たちが迫害を免れるためである、とパウロは断じるのです。
 
 パウロは自分がユダヤ人から受けている迫害を「キリストの十字架のゆえ」であるとしています。キリストの十字架は、すべての人を、すなわち割礼のない異邦人をも無条件に受け入れる神の恩恵の出来事なのです。キリストの十字架にひれ伏して恩恵の場に入った者にとっては、割礼と律法遵守とはもはや救いの必要条件ではありません。この信仰が律法熱心なユダヤ人を怒らせ、迫害に走らせるのです。パウロの後にガラテヤに入ってきたユダヤ人伝道者は、このように「キリストの十字架のゆえに」迫害されることを避けるために、異邦人信徒に割礼を強要するのです。
 
 彼らは「肉において人からよく思われたがっている者たち」です。ここで「肉」というのは、人間が自分の力で達成し形成するもの全般を指しています。ここでは神との関わりが問題になっていますので、宗教や道徳の面で立派な生活をしているこを見せびらかしたい人たちだということです。割礼を受けているユダヤ人自身が律法を守っていないのに(パウロはユダヤ人の宗教生活の実状をよく知っていましたーロマ二・一七〜二四参照)、異邦人が割礼を受けて律法を守る生活に入るように指導した(ユダヤ教に改宗させた)ことを誇りたいのです。彼らは「あなたがたのに肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいる」だけなのです。

 「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」。 (ガラテヤ六・一四)

 パウロは、「このわたしは」と言って、彼らに対して自分の違いを強調します。彼らは肉に誇ります。すなわち自分が成し遂げた業の立派さを誇ります。それに対して、パウロはキリストの十字架だけを誇ります。十字架を誇ることは、自分の側の誇り、自分の業の立派さ、自分の価値を徹底的に否定することです。十字架を誇るとは、キリストがわたしのために死んでくださったことだけを自分の存在の拠り所とすることです。自分の価値を誇る余地はありません。
 
 パウロはこの節の後半で、前半の「十字架」という名詞を動詞形で用いて、世はわたしに対して、わたしは世に対して「十字架につけられている」と告白します。これは、前半で言ったキリストの十字架だけを自分の存在の拠り所としていることを、世との関係でさらに詳しく言い換えたものに他なりません。

 前半の文と後半の文を繋ぐ(男性形を用いた)関係詞「それによって」は、「このキリストによって」とも「この十字架によって」とも読むことができます(「十字架」も男性名詞ですから)。事実、各国語の翻訳は二つに分かれています。「この十字架によって十字架につけられている」という言い方よりも、「このキリストによって十字架につけられている」という言い方のほうが自然に感じられますが、どちらを取ってもパウロが言おうとしていることは変わらないと思います。パウロが言う「キリスト」は十字架につけられているキリストですから。なお、口語訳は関係詞を「この十字架につけられて」と訳し、重複を避けるためでしょうか、「十字架につけられている」という動詞を「死んでしまった」と意訳しています。原文には「死ぬ」という動詞はありません。

 パウロはすでに「わたしはキリストと共に十字架につけられています」と語っています(二・一九)。そこでは十字架によって「律法に対して死んだ」のでした。ここでは「世に対して」十字架につけられたと語られています。パウロにおいては律法は世《コスモス》に属するものなのです。パウロの終末論的な意識では、世《コスモス》とは来るべきアイオーンと対立し、否定克服されるべきものなのです。律法はこの古いアイオーンである《コスモス》において神と人との関係を律する手段でした。しかし今や、キリストが到来され、来るべきアイオーン、新しいアイオーンが始まったのです。キリストは律法の終わりとなられたのです。わたしにとって世は十字架につけられて葬られたのです。キリストに合わせられた者はもはや古いアイオーンの規則である律法の下にはいません。キリストの十字架に合わせられて律法に対して死に、世に対して死んだのです。
 
 このように、パウロが「十字架」という語を用いるとき、それはイエスの十字架刑による死という歴史的な出来事を指すだけではなく、むしろ自分自身の存在の根底からの転換を指しているのです。新しい別の自分が生き始めるために、これまでの自分が死ぬことを指しているのです。その死は十字架につけられて死んで復活されたイエス・キリストに合わせられて起こることですから、パウロはその死を「十字架」と呼ぶのです。「十字架」はパウロの宗教体験を象徴する徴となるのです。この意味で、パウロの宗教は「十字架の宗教」、パウロの福音は「十字架の福音」と呼ぶことができます。

 十字架の二元論

 だいたい宗教には何らかの意味で二元論の相があります。すなわち、宗教はこの現実世界を否定して、それを超える別の世界に生きようとする人間の姿勢を含んでいます。そして、自分たちの信仰をもつ者とそれをもたない現実世界の対立を基本的な思考の枠組みとしています。ただ、何を基準にして対立を観るかによって、その宗教の質が決まります。ユダヤ教ではモーセ律法の内と外、黙示思想的ユダヤ教ではこの世と来るべき世、ギリシャの宗教では霊魂界と物質界、キリスト教では教会と世俗、グノーシス主義では知《グノーシス》に目覚めた世界と無知の世界、仏教では悟りと無明、こうした相容れない別々の原理で成り立つ二つの世界の対立を基本的な枠組みとする二元論が見られます。

 たしかに、パウロもこの現実世界と信仰の場との対立を語るさい、「この時代《アイオーン》」と「来るべき時代《アイオーン》」という黙示思想的二元論に特有の表現も使っています。しかし、パウロの場合は時間的・歴史的な対立軸を保持しながらも、より基本的な対立は現在の実存的対立に移っていると見ることができます。すなわち、パウロが「十字架」と呼ぶ自己の根底的な転換を経たこちら側と、その転換をしていない向こう側の対立です。パウロが十字架のあちら側にいた時には、パウロは「この時代」と「来るべき時代」という、当時の黙示思想的なユダヤ教の二元論の中で思考していました。しかし、十字架の転換を経たこちら側においては、現在と将来の対立はもはや二元論的な対立(全然別の原理に立つ世界の対立)ではなく、同じ生命の現れ方の違いになっております。黙示思想的二元論は克服されていると言ってよいでしょう。 こうして、パウロにおいては「世」と「わたし」は十字架によってあちら側とこちら側に分けられるのです。十字架を拒否してあくまでも自己の価値に固執する世界とキリストと共に十字架につけられたものとして自己が否定された世界との対立です。パウロの二元論は「十字架の二元論」と呼ぶことができるでしょう。

 個人の宗教

 「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」。 (ガラテヤ六・一五〜一六)

 十字架のこちら側、すなわち、わたしが十字架につけられて死んでいる場では、わたしが割礼を受けているか受けていないかの区別は意味がありません。割礼はあくまで十字架のあちら側、すなわち人間が自己の価値に立って神との関わりを形成しようとする場において、パウロの表現で言えば「肉によって」生きる場においてのみ、意味があるのです。十字架のこちら側では、すなわち、わたしが十字架につけられて死んでいる場では、死んだわたしの中に神が聖霊によって新しい命を吹き入れて、わたしを新しく創造してくださるという現実がすべてです。

 このように割礼の有無を問題にせず、すなわち肉の誇りを完全に捨て去って、御霊によって新しく創造される現実をすべてとして生きる人々に、神からの平和と憐れみがあるようにと、パウロは神の祝福を祈ります。そう祈ることによって、そのような原理に従って生きる道だけが神の祝福に値するのだと、パウロは強く勧めているのです。そして、その後に付け加えるように、「神のイスラエル」の上にも神の祝福を祈ります。

 一六節の語句の順序は、「このような原理に従って生きていく人たちに」、「平和と憐れみがあるように」、「そして神のイスラエルの上に」となっています(口語訳はこの語順に忠実に訳しています)。新共同訳は、最後の「神のイスラエルの上に」を「このような原理に従って生きていく人たち」と同格と見て、この句についている接続詞《カイ》を「つまり」と訳しています。多くの注解者がこの解釈をとっています。しかし、この《カイ》は普通の「そして」とか「また」という意味に理解して、「そして(また)神のイスラエルの上にも」と理解する可能性を否定できません。語句の順序からすると、そう理解する方が自然です。そう理解すると、「神のイスラエル」は「このような原理に従って生きていく人たち」とは別の人たちを指すことになります。この場合は、パウロはキリストの福音によって召された人々と並んで、先に選ばれた神の選民イスラエルにも神の祝福を祈っていることになります。パウロが神の救済のご計画として異邦人の救いと共にイスラエルの最終的な救いを確信していたこと(ロマ九〜一一章)を考えると、パウロが最後にイスラエルへの祝福を付け加えたとしても不思議ではありません。「このような原理に従って生きていく人々」、すなわちキリストの民をまことの「神のイスラエル」と表現することは、パウロの思想に適っていますし、決して間違った解釈ではありませんが、ここでパウロが書いていることは実際のイスラエルの民のことである可能性を捨て去ることはできません。

 ところで、キリストと共に十字架につけられるのは、あくまで一人ひとりの人間です。キリストに合わせられて共に十字架につけられ、十字架の場で聖霊を受けて新しく創造されることは、団体に起こる出来事ではなく、一人ひとりの内面に起こる霊的現実です。それに対して「割礼」は、第三者が外から確認できる儀礼ですから、それを受けた者の集団と受けていない者の集団を区別する原理になります。ですから、パウロが「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」と宣言するとき、パウロは、人類の長年の所産であった、外面的な儀礼によって形成される集団的・社会的な現象としての宗教を克服して、個人の内面的な霊的現実に立つ宗教の到来を宣言していることになります。
 
 その後、キリスト教が社会的勢力となるに従って、キリスト教は洗礼とか聖餐という儀礼を重視する教会制度として発達してきました。しかし、キリストの福音は本来、そういう儀礼の上に成り立つ制度的宗教を克服する霊的な力であることを見落としてはならないと思います。パウロが神の祝福を祈るのは「このような原理に従って生きていく人たち」、すなわち、割礼とか洗礼とかの外面的な儀礼の有無にこだわることなく、パウロが「十字架」という象徴で指し示している実存の根底からの転換を成し遂げ、御霊による新しい創造の場に生きていく人たちであることを忘れてはなりません。

 イエスの焼き印


 「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン」。 (ガラテヤ六・一七〜一八)

 筆を置くにあたってパウロは、これだけはっきりと書いたのだから、この問題についてこれ以上わたしを煩わすことのないようにとの願いを加えます。そして、「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです(から)」と言って、これを書き送った者が誰であるかを、ガラテヤの人々に、また、パウロを非難しているユダヤ主義者たちに思い起こさせます。

 「焼き印」《スティグマ》というのは、もともとは所有者を示すために家畜に焼き鏝でつけた印とか文字でした。オリエント世界では奴隷に「焼き印」が用いられましたが、ギリシャ・ローマ世界では一般的ではありませんでした。逃亡とか重大な犯罪を犯した奴隷だけに焼き鏝とか刺青(入れ墨)で印や文字がつけられたのでした。広く奴隷に所有者を示す《スティグマ》が用いられたことを示す文献は新約聖書時代以後になります。また、東方の諸宗教では、熱烈な信者がある神に属していること、また自分がその神に仕える者であることを示すために、自分の身体にその神の印をつけたと伝えられています。刺青でつけられた神の印は、その神の守護を保証する護符のような意味もあったようです。

 パウロの場合、「イエスの焼き印を身に受けている」とはどういうことでしょうか。パウロはその焼き印を「わたしの身体《ソーマ》につけている」と表現していることからして、また、その「焼き印」《スティグマタ》が複数形であることからして、イエスを宣べ伝えることによって受けた迫害で、石を投げつけられたり鞭打たれるなどして受けたた身体の傷跡であると考えられます。
 
 パウロはイエス・キリストを宣べ伝えることで受けた苦難を数え上げるとき、まずこう言っています。

 「(彼らは)キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、・・・・・」。 (コリントU一一・二三〜二五)

 パウロがガラテヤ書を書いているとき、背中の鞭打ちの傷がまだ腫れ上がり痛んでいたのかもしれません。パウロがそのような傷跡を「イエスの焼き印」と呼ぶとき、パウロは自分を「キリスト・イエスの奴隷」(ロマ一・一)として示すと同時に、自分が直接キリスト・イエスに所属する者であり、「人々からでもなく、人を通してでもなく」直接キリスト・イエスから派遣された使徒である(一・一)ことを、それらの傷跡を証人として示すのです。こうして、書簡の最後は最初の句と呼応して、この書簡を通してガラテヤの人々に語りかける者が誰であるかを指し示していることになります。

 パウロとイエス

 パウロが「イエスの焼き印を身に受けている」と言うのを聞くと、パウロが「イエス」とのつながりをいかに強く意識していたかを印象づけられます。この機会に、パウロが「イエス」とどう関わっていたのかを再考しておきたいと思います。
 
 パウロはイエスとほぼ同世代のユダヤ人でした。パウロが少なくとも青年期以後エルサレムで生活したことを考慮にいれますと、パウロはイエスのことを何らかの程度で知っていた可能性があります。イエスと会って言葉を交わすことはなくても、顔を見る機会はあったかもしれません。サンヘドリンでのイエスの裁判のときにパウロが議員として出席していたと推察する学者もあります。しかし、パウロがイエスの弟子でもなく、同調者でもなかったことは明らかです。
 
 パウロが実際に初めてイエスと関わるのは、パウロがエルサレムでイエスを信じるユダヤ人、それも「ヘレニスト」と呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人の信徒を迫害したときでした。パウロ自身もヘレニストの一人であり、当時エルサレムのギリシャ語系ユダヤ人の会堂で律法の教師として働いていたのですが、その中のイエスを信じるユダヤ人がモーセ律法と神殿祭儀について批判的な態度をとるのを見て、彼らと彼らをそのような背教へと導いた教師であるイエスを許すことができませんでした。律法(ユダヤ教)への熱心のゆえに、パウロはそのようなギリシャ語系ユダヤ人を迫害します。パウロは迫害者として初めてイエスの名と教えに接するのです。
 
 ダマスコの信徒を捕縛しようとして急いでいたとき、パウロは強い光に打たれて倒れます。それは、パウロにとって神的な存在の顕現でした。その出来事を伝えるルカの物語(使徒言行録九章)はかなり脚色されているかもしれませんが、その記事が伝える通り、神的栄光の中に現れた方がイエスであると分かったことがパウロの体験の核心です。この体験によって、パウロは今まで迫害していたイエスにひれ伏し、それ以後は生涯を通してイエスに仕える奴隷として働くことになります。

 ガラテヤ書(六・一七)の「スティグマ」を、この時に受けた身体の傷痕とか、この時パウロはイエスの奴隷であることを示すとか、イエスという神に所属する者であることを示す入れ墨をしたと推察する学者もいますが、この推察は根拠がなく、無理だと思われます。先に述べたように、イエスを宣べ伝えることによって受けた迫害による傷痕と理解するのが自然でしょう。

 このような劇的な転換を体験したパウロが、生涯イエスに対する熱い思いで献身を貫き、自分を「キリスト・イエスの奴隷」と自覚し、迫害によって受けた傷痕を「イエスの焼き印」と表現することは十分理解できます。ところが、パウロは福音を宣べ伝えるにあたって、イエスの言葉や働きを伝える「イエス伝承」をほとんど用いていません。すなわち、福音を語り、批判者と論争し、信徒を指導するにさいして、イエスの言葉を引用したり、イエスの奇跡や生涯の出来事に触れることはほとんどありません。もちろん、イエスが十字架につけられて死なれた事実は語られますが、福音書の受難物語のように、イエスの受難の経緯を語ることはありません。これはパウロの福音宣教における顕著な事実です。

 そこから、パウロは地上のイエスに無関心であり、パウロの福音はイエスの教えとは違うという見方が出てきます。パウロは、イエスの単純な神の愛の宣教を複雑なユダヤ教的義認論に変えてしまったとか、パウロはイエスとは別のヘレニズム的な宗教を造り上げたとか言われ、「パウロからイエスへ帰れ」というスローガンが叫ばれるようになります。
 
 はたしてパウロは地上のイエスには無関心だったのでしょうか。それとも、パウロは地上のイエスに深い関心を持っており、イエスの言葉や働きを伝えるイエス伝承を熟知していたが、何らかの理由で福音宣教においてそれを用いなかったのしょうか。その場合、パウロがイエス伝承を用いないという事実はどう説明されるのでしょうか。
 
 パウロの回心の性質、「イエスの奴隷」とか「イエスの焼き印」というような発言、何よりも同時代のイエスをメシア・キリストとして宣べ伝えるという宣教内容からして、パウロが地上のイエスに無関心であったと考えることはできません。イエスが何を教え、どのような行動をし、どのような生涯を送った方であるかは真剣な問題であったはずです。
 
 事実、パウロがイエス伝承を知っていたことを示唆する言葉遣いが書簡にかなりあります。パウロが「主の言葉」として直接引用ないし言及しているのはコリント書簡の三箇所(コリントT七・一〇〜一一、九・一四、一一・二三〜二五)とテサロニケ書簡の一箇所(テサロニケT四・一五以下)ですが、テサロニケ書簡の「主の言葉」は初期教会の霊感された預言者の言葉が「主の言葉」として受容されたケースと考えられるので、イエスの言葉の引用である可能性はコリント書簡の三箇所だけという僅かの数になります。しかし、パウロ書簡にはイエス伝承に用いられている用語がかなり認められるので、パウロはイエス伝承にかなり親しんでいたことが推定されます。

 「現代聖書講座」(日本基督教団出版局)第二巻所収の青野太潮『イエスとパウロ』に、パウロ書簡の用語と福音書に見られるイエス伝承の用語との並行事例が多く挙げられています。この青野論文は、「イエスとパウロ」の関わりについて問題の所在とその解決の方向を簡潔によくまとめていると思われます。本稿もこの論文に負うところが多くあります。ただ、聖霊の視点(後述)が落ちていることが残念です。

 パウロがエルサレムやアンティオキアで「受けた」(コリントT一五・三)のはケリュグマ伝承だけではなく、イエスの言葉や働きや生涯を語り伝えるイエス伝承も含まれていたはずです。パウロはアンティオキアで十年以上にわたって、バルナバやシラスなどエルサレム教会の中核にいたユダヤ人と一緒に働いてきました。その間にイエス伝承について何も伝えられなかったと想像することはできません。むしろパウロは、エルサレムからアンティオキアに来て教会を形成したギリシャ語系ユダヤ人を通して、エルサレム教団のイエス伝承を熟知するに至ったと見る方が自然です。
 
 パウロがイエス伝承をよく知っていたとすれば、パウロが書簡でイエス伝承に言及することがきわめて少ないという事実は、どう説明されるのでしょうか。まず第一に考えられることは、パウロが宣教した時期においてはまだ「福音書」という形での宣教は成立していなかったという事情です。パウロ書簡が書かれたのは五十年代ですが、最初の福音書であるマルコ福音書が書かれたのは七十年前後だと考えられます。マルコ福音書が書かれるまでは、イエス伝承は口頭で伝えられ(一部は文書になっていた可能性もあります)、広く信徒の間で共有財産のように保持されていました。それで、伝道者が教えたり勧めをしたりするとき、一々イエスの言葉を引用しなくても、それがイエスの教えであることはすぐに諒解されたと考えられます。たとえば、パウロが「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ一二・二一)と勧めるとき、それは「敵を愛しなさい」と言われたイエスの教えと同じであることは、イエスの名を挙げていなくても十分理解されたと思われます。
 
 ところが、マルコ福音書が成立し普及するにしたがって、事情が変わってきました。ペトロのようなイエスの言葉や働きの直接の証人たちが世を去る時期に、マルコは貴重なイエス伝承を福音の宣教の枠内にしっかりと組み込んだ文書を書くことによって、「福音書」というまったく新しい類型の文学を創造します。こうしてマルコ以後、マタイ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、トマス福音書など、イエス伝承を用いてキリストの福音を語るという「福音書」が多く生み出されることになります。イエス伝承が生きた資産であった時代のパウロには、まだ「福音書」という形で福音を語る発想はなかったのでしょう。
 
 「福音書」という類型が成立した後でも、教会内の問題について発言する書簡では、イエス伝承を用いないという傾向があったようです。典型的な例はヨハネ福音書とヨハネ書簡です。両者は同じ著者(少なくとも同じ共同体)の所産ですが、福音書においては当然イエス伝承が主体であるのに対して、書簡ではイエスの言葉や働きに言及することはほとんどありません。パウロ書簡にイエス伝承がない理由も、それが福音書でなく書簡であるという類型の違いから説明できます。
 
 第二に、パウロの場合、パウロが置かれていた特別の事情もその理由になっていたようです。ガラテヤ書に典型的に見られるように、パウロは生涯を通して、エルサレム教団の権威を背景とするユダヤ人キリスト教の伝道者と対立しなければなりませんでした。彼らがパウロを批判し、パウロの使徒としての権威を疑問視するときの攻撃の武器は、パウロがイエスの直弟子ではなく、イエスから直接教えを受けていないという事実でした。パウロに対抗して彼らは、イエスの直弟子たちによって形成され、実弟ヤコブの指導下にあるエルサレム教団こそイエスの教えを正しく保持する教団であり、イエス・キリストを信じるようになった異邦人はエルサレム教団の指導に従うべきだと主張したのでした。
 
 そのさい彼らが拠り所としたのは、エルサレム教団に保持されているイエス伝承であったと見られます。パウロが自分のキリスト宣教に比べて、彼らの宣教を「言葉の知恵」(コリントT一・一七)とか「優れた言葉や知恵」(コリントT二・一)による宣教だとするのは、彼らがイエス伝承にある「イエスの言葉」とその解釈の知恵を宣教の拠り所としていた(たとえば語録資料Qとかトマス福音書のように)ことを指している可能性があります。また、パウロがイエスの奇跡にいっさい触れないのは、彼らがイエス伝承に語られているイエスの奇跡物語を利用して、自分たちが行う奇跡を誇っていたからとも推察されます。
 
 このような批判者たちに対抗するために、イエスの言葉や働きを根拠にして論争することは、それは彼らが権威として誇るエルサレム教団からパウロも受けた伝承ですから、敵の土俵で戦うことになり、不利であることは明らかです。こうして、パウロはイエス伝承に触れることにはきわめて慎重にならざるをえなかったという事情があったようです。
 
 以上にあげた二つの事情の他に、パウロがイエス伝承を用いないもっとも基本的な理由は、パウロのキリスト宣教の質にあると思われます。パウロの宣教は、伝え聞いたイエスの言葉を教えて、イエスがこう言われたのだからその言葉に従いなさい、というような過去のイエスの言動に権威を求めるようなタイプの宣教ではありませんでした。パウロが宣べ伝えたキリストは「霊なるキリスト」でした。パウロは、自分が体験し、自分の内に生きておられる霊なるキリストを拠り所とし、十字架につけられたキリストを宣べ伝えたのでした。そして、そのキリストを信じる者が聖霊を受けて、聖霊により新しい命を生きるようになることが、パウロの福音宣教の本質でした(ガラテヤ三・一〜五)。
 
 ですから、パウロが書簡を書いて信徒たちに教えたり勧めをするとき、パウロは聖霊に教えられた言葉をもって語り、聴く方(書簡の読者)にも御霊の導きによる理解を期待しています(コリントT二・一二〜一三)。パウロ書簡は、語る者も聴く者も同じ御霊に生きているという場に成立しているのです。パウロはこの共通の御霊を拠り所として教えますので、過去のイエスの言葉を権威として引用する必要はないのです。これが、パウロがイエス伝承を引用しない基本的な理由であると思われます。
 
 パウロが御霊によって生きている者として語るとき、イエスの言葉を引用しなくても、その内容は自ずからイエスの教えと同じになってくるのです。パウロの内に働く御霊は、イエスの中にあって働いていた御霊と同じだからです。ここに、イエスの福音とパウロの福音の同質性の基盤があります。イエスとパウロでは、救済史上の立場の違い(復活前と後)、育ちと働きの場の違い(パレスチナのユダヤ人村落とヘレニズム世界の都市生活)から、用語や表現に違いがあり、福音の個々の内容についても違いがあります。しかし、「恩恵の支配」というような基本的な内容は同一であり、そこから出る教えも基本的には同質です。
 
 パウロが御霊により自由に語るとき、イエスの言葉を引用しなくても、ときにパウロが熟知しているイエス伝承の言葉遣いが出てくるのは自然なことですが、それは虫眼鏡で調べるようにしないと気がつかない程度です(前出青野論文参照)。それに対して、旧約聖書の言葉は、多数の直接引用を含めて、パウロ書簡の隅々にまで溢れていることは一読して明らかです。これは、パウロが敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、律法(聖書)の教師として働いてきた経歴からしますと当然です。しかし、イエス伝承の場合も旧約伝承の場合も、パウロが御霊によって恩恵の事態を表現するための用語を提供しているだけであって、権威として内容を規定しているわけではありません。

 旧約の律法を超える御霊の福音を宣べ伝えるパウロが、自分の主張の論拠として旧約聖書を引用するという、一見矛盾と見える態度については、別の機会に触れることにします。

 最後に、パウロが地上のイエスに無関心であったという主張の根拠として、しばしば引用される次のパウロ自身の言葉について触れておきます。

 「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」。 (コリントU五・一六)

 はたしてこの言葉は、パウロが地上のイエスのことを知ろうとはしないと言っているのでしょうか。そうではありません。この節をそのように解釈することは無理です。

 この節の動詞の主語はすべて「わたしたち」であり、強調する人称代名詞が文頭に置かれています。他の人たちはともかく、「わたしたち」は今後「だれをも」肉に従って知ろうとはしないと言っているのです。この「だれをも」の中にキリスをも含ませる後半の文が加えられ、前半の文の主張を強調しているのです。
 
 この一六節は先行する一一〜一五節を受けて「それで」という語で始まっています。それで、一六節の「わたしたち」は、前後の文の流れから見て、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになる」と考えている「わたしたち」であり(一四節)、「キリストにある者」として新しく創造された者たち(一七節)を指します。そういう「わたしたち」はもはやだれをも「肉に従って」知ることはないのです。

 「肉に従って」《カタ・サルカ》という句は「人間の観点から見ると」という一般的な意味で用いられる場合もありますが(ロマ一・三、四・一など)、パウロがいう「肉」とは普通「御霊」に対立するものであり、「肉に従って」は「御霊に従って」と対立する句として用いられています(ロマ八・四〜五など)。その場合の「肉に従って」とは、「人間の側の働きとか価値に基づいて」という意味となります。この節の「肉に従って知ろうとはしない」も、先行する段落の内容を受けて理解しますと、古い人は死んでいるのですから、人間の側の価値とか働きによって判断することは一切しないという意味になります。「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになる」場においては、一切の人間的な価値判断は無意味になっているのです。

 もし今までキリストを「肉に従って知っていた」としても、すなわち、自分の働きや価値を計る目標とか基準としてキリストを見ていたとしても、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」ようになった今は、もうそのように知ることはできません。自分を否定しながら自分の中に生きてくださる方として、自分の無価値の中に現れる命としてキリストを知る以外の知り方はできません。
 
 「肉に従ってキリストを知ろうとはしない」とは、こういう霊的な次元の問題であって、地上のイエスの歴史的事実を知ることと関係がありません。もしこれを地上のイエスの歴史的事実を知ることと理解しますと、前半の「だれをも肉に従って知ろうとはしません」も同じように理解しなければならず、そうするとわたしたちは現実の一切の社会的・歴史的関係から出て行かなければならなくなります。


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