パウロによるキリストの福音 II

 第一五章 使徒パウロ最後の日々

 


 第一節 最後のコリント滞在

エフェソからコリントへ

 パウロはエフェソに二年と数ヶ月滞在して、エフェソを中心とするアジア州の諸都市にキリストの福音を伝え、その地域に力強いキリストの民の交わりを形成します。その間、パウロがもっとも苦闘した問題の一つがコリント集会との確執でした。そのことはコリント集会と交わした諸書簡、とくにコリント第二書簡で詳しく見たとおりです。しかし、パウロの切なる祈りと涙をもって書いた書簡や、テトスら忠実な弟子たちの働きによって和解にこぎ着けます。
 
 コリントの集会との和解を達成し、念願のコリント再訪を果たしたパウロは、コリントで冬を越します。これは五五年から五六年にかけての冬のことであると見られています。この時のエフェソ出発とコリントまでの旅およびコリント滞在についてルカは、「この(アルテミス神殿での)騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方(マケドニア州)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシャ(コリント)に来て、そこで三か月を過ごした」(使徒二〇・一〜三)と簡単に触れるだけです。しかしここで、エフェソからコリントに至る旅の行程とその間のパウロの働きについて、もう少し詳しく見ておきましょう。
 
 エフェソを出たパウロは小アジアの西岸をエーゲ海沿いに北上してトロアスに至ります。パウロは、「キリストの福音を伝えるためにトロアスに行った」と言っています(コリントU二・一二)。途中に、スミルナやマグネシアやペルガモンなどの都市があります。この中のスミルナとペルガモンはヨハネ黙示録の「アジア州の七つの教会」に含まれています。この旅のときに、パウロが「キリストの福音を伝える」活動をして集会が形成されたことは十分考えられますが、確認はできません。
 
 しかし、トロアスではかなりの福音の進展があり、かなりの規模の集会も形成されたようで、これはパウロがこの時の旅について、「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていました」(コリントU二・一二)と言っているところから確認できます。それにもかかわらず、コリントの成り行きが心配なパウロは、一日も早く派遣したテトスからの報告を聞きたくて、トロアスで待っていた「兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま(トロアスの)人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」(コリントU二・一三)。
 
 トロアスからトラキア海(エーゲ海の北端部)を渡って対岸のマケドニア州に行きます。当然、港町ネアポリスに上陸してフィリピに向かったことでしょう。「この地方(マケドニア州)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら」旅を進めます。先の第二次伝道旅行のときのように、エグナティア街道を西に進みテサロニケに至り、そこの集会を励まし、さらにベレアにも行ったことでしょう。ベレアはエグナティア街道からすこし南に離れています。そのままエーゲ海沿いに南下してコリントに至った可能性もありますが、むしろエグナティア街道に戻ってそのまま西へ進み、アドリア海側のアポロニアに出て、そのままアドリア海沿いに南下して西からコリントに入った可能性が大きいと考えられます。
 
 パウロはイリリコン州まで行ったと語っていますが、それはこの時の旅以外には考えられません。テサロニケから西に向かい、少し北へ入るとイリリコン州です。そこは「キリストの名がまだ知られていない所」ですから、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと熱心に努めた」パウロが、この時にイリリコン州を通るコースを選んだことは十分考えられます(ローマ一五・一九)。
 
 パウロがこの時アドリア海側のコースをとったと考えるもう一つの理由は、少し後に成立した牧会書簡にニコポリスが言及されていることです(テトス三・一二)。ニコポリスはアポロニアからアドリア海沿いにコリントに至るちょうど中間にある大都市で、この時にパウロが集会を建てたのではないかと推察されます。

 マーフィー=オコゥナーの年表によると、パウロは54年の秋にエフェソを出発しマケドニア州に渡り、54年から55年にかけての冬をマケドニア州のどこかの都市で越冬、55年の夏イリリコン州で伝道、55年の冬の前にコリントに到着となります。この年表によると、イリリコン州での伝道活動にかなりの時間がとれます。 

 

コリントでのローマ書の執筆

 コリントに三か月滞在している間、もちろんパウロは集会をして福音を語り、人々を教え、共に祈り、コリントの人たちの信仰と集会の確立のために最善の努力をしたことでしょう。しかし、この期間にパウロは、後の福音の歴史にとってきわめて重要なことを成し遂げます。すなわち、「ローマの信徒への手紙」を執筆したことです。
 パウロは、念願のローマ訪問を果たしたいと願い、ローマの集会に向かってこう書いています。
 
 「こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています」。(ローマ一五・二二〜二四)
 
 「この地域」(ローマ帝国の東半分)での福音の働きを終えて、いよいよ帝国の西半分の地域に福音を満たし、異邦人への使徒としての使命を果たそうと決意します。そこで帝国の西の果てにあるイスパニア(現在のスペイン)に行こうと計画し、その途中に念願のローマ訪問を果たし、ローマ集会との信頼関係が確立されたならば、ローマ集会の支援のもとにイスパニア伝道を行いたいと考えます。前年の54年にはローマからのユダヤ人追放令も解除されていましたので、パウロはいよいよローマに入る機が熟したと判断したと考えられます。
 

 そこで、使徒はローマ集会あてに、自分が宣べ伝えている福音の全体を提示して、まだ直接会ったことのないローマの兄弟たちに自分を理解してもらうための手紙を書きます。それが使徒パウロの「ローマ書簡」です。このような状況で、またこのような意図で書かれた書簡ですから、特定の問題に対処するために自分が建てた集会に向かって書かれたこれまでの書簡とは違い、使徒パウロがこれまで宣べ伝えてきたキリストの福音の全体が、総合的にまた体系的に提示されることになります。その結果、この「ローマ書簡」は、書簡の形をとってはいますが、書簡の枠をはるかに超えた福音の提示のための文書、すなわち「福音書」としての性格を得ています。このローマ書簡はパウロが書いた最後の書簡になりますが、パウロはその福音のための働きの最後に、その働きの集大成として、将来世界の歴史にもっとも大きな影響を及ぼすことになる「福音書」を書き残すことになります。
 
 パウロはこの書簡をコリントで「執筆した」と言いましたが、直接ペンを取って書いたのではなく、口述筆記で仕上げます。パウロの書簡は大部分口述筆記で書かれたと見られますが、このローマ書簡では、「この手紙を筆記したわたしテルティオが、主にあって挨拶を送ります」(ローマ一六・二二)と、筆記した人物が自分の名を書き記しています。パウロはこのローマ書簡を、旅先のコリントで世話になっているガイオの家で(ローマ一六・二三)、四回に分けて口述筆記させた、とわたしは見ています。それは内容上の区分と分量の両方から判断しての推察です。
 
 ローマ書簡の前置きと結びを除く本体部分(一〜一五章)は、内容から見て四つの大きな部分に区分できます。第一部は一章から五章(一一節)までの「信仰による義」を論じる部分、第二部は五章(一二節)から八章までの「キリストにおける生」を語る部分、第三部は九章から一一章の「イスラエルの救い」を論じる部分、第四部は一二章から一五章の「実践的な歩み」を勧告する部分です。
 
 これらの四つの部分はそれぞれ、一つの主題によって緊密に統合されています。第一部と第二部を一つの区分として全体を三区分する見方が多いようですが、この見方はローマ書の理解を歪め、適切ではありません(その理由はローマ書講解で詳しく論じます)。そうすると、第四部は別として、各区分は沈痛な雰囲気で始まり、勝利の凱歌で終わるという共通のパターンを示し、福音の説教者としてのパウロの口述にふさわしい形となります。
 
 また、分量の点から見ても、四つの区分はほぼ同じ長さ(それぞれ九〇節から九七節)になり、口述筆記による文書の区分として適当な区分になります。当時の口述筆記による書簡執筆の速度がどの程度であったのか、正確に知ることは難しいですが、この程度の長さであれば、一つの区分を一気に書き上げることができたのではないかと推察します。現代の学者が多くの文献を参照したり引用したりしながら、何ヶ月も時間をかけて書く論文とは違い、パウロは説教者として普段語っている福音の現実を一気呵成にほとばしるように口述して、一つの区分を一日で仕上げたのではないか、とわたしは想像しています(途中で休憩をはさんだり、次の区分までに何日か間をおいたことは考えられますが)。聖書の引用も、聖書の写本を手許に持っているわけではありませんから、記憶の中からかなり自由に引用していることが見えてきます。このような引用は、律法学者として聖書を議論してきたパウロにとってはごく自然なことであったと考えられます。
 
   この手紙の内容と意義は、「ローマ書講解」で扱うことになりますが、ここではこのコリントで書かれた手紙の最後(ローマ一五・一四〜三三)に、コリント滞在中のパウロの状況と心境が語られていますので、それに基づいてこの時のパウロの姿を見たいと思います。
 
 

祭司の務め

 ここでパウロはまず、これまで自分が進めてきた異邦人伝道を総括しています(ローマ一五・一四〜二一)。パウロは初めから自分を「すべての異邦人を信仰の従順へと導くために恵みと使徒職を受けた」(ローマ一・五私訳)者と自覚し、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。パウロはここでその働きを「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」と表現しています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています。この表現に、パウロが自分の使命をどのように理解していたかがうかがわれます。
 
 パウロは預言者以来のユダヤ人の終末期待を共有していたように見受けられます。その終末待望はこのように要約できるでしょう。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むようになり、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。パウロはこのようなメシア・キリストの意義を先行する箇所(ローマ一五・八〜一三)で述べて、異邦人がイスラエルの神に帰することを多くの預言者からの引用で確証し、異邦人への使徒また祭司としての自分の務めの意義を語る準備をしています。
 
 パウロはまさに神の計画の後半部、すなわち異邦人がイスラエルの神に帰るための働きを委ねられたのです。いわゆる「エルサレムの使徒会議」で、割礼の者たち(ユダヤ人)への福音はペトロたちエルサレムの使徒に委ねられ、無割礼の者たち(異邦人)への福音はパウロたちに委ねられました(ガラテヤ二・九)。ところが、神の計画の前半部、「まずユダヤ人に」救い主であるイエス・キリストが宣べ伝えられましたが、ユダヤ人全体がイエスをキリストとして受け入れることは実現しませんでした。イエスを信じるユダヤ人集団はユダヤ人社会で孤立していきます。一方、パウロの異邦人伝道は豊かに実を結び、多くの異邦人がイエス・キリストを信じてイスラエルの神に帰すようになります。パウロはこの矛盾と格闘しなければなりませんでした(ローマ九〜一一章)。パウロは自分の異邦人伝道の成功がユダヤ人を刺激して、不信仰によって切り離されたユダヤ人が「再び接がれる」ことを切に祈っています。
 
 
 

イスパニア伝道の計画

 次にパウロはこれからの計画について語っています(ローマ一五・二二〜三三)。今や「エルサレムからイリリコン州までキリストの福音を満たしたので」、もう「この地方」、すなわちローマ帝国(それは当時の人たちにとって全世界でした)の東部には働く場所がないと感じたパウロは、いよいよ帝国の西端イスパニア(今のスペイン)にまで福音を携えていこうと計画します。その途中で、何年も前から願っていたローマ訪問を果たし、ローマの兄弟たちと交わりを深め、ローマ集会からイスパニア伝道に「送り出してもらいたい」、すなわちイスパニア伝道という新しい大プロジェクトの後援者、協力者になってほしいと頼んでいるのです。パウロはキリストの来臨《パルーシア》が近いことを、聖霊によって迫られています。それまでに全世界に福音を携えて行かなければならないのです。今コリントにあって、パウロの心ははるかな西の果てに向いています(ローマ一五・二二〜二四)。
 
 
 

エルサレム訪問の必要と不安

 しかし、西に向かう前にパウロにはどうしてももう一度東に向かわなければならない任務があります。すなわち、苦心して集めた「聖徒たちへの献金」を届けるために、エルサレムへ行かなければならないのです。「マケドニア州とアカイア州の諸集会はエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意し」、集めた献金を携えてエルサレムに届けようとして、その代表者たちがコリントに集合しているのです。春になって船便が再会するのをまって、パウロはその代表者たちと一緒にエルサレムに向かおうとしています。パウロは、神殿に初穂を捧げる祭司のように、異邦人集会の初穂として、その集会の代表者をエルサレム教団に引き合わせ、献金を届けようとしているのです(ローマ一五・二五〜二九)。
 
 パウロがエフェソにいるときには、まだこの献金を届けるためにパウロ自身がエルサレムへ行くことを決めていません(コリントI一六・四)。しかし、マケドニア州の諸集会から献金を集め、その代表者たちとコリントに来たときには、どうしても自分がエルサレムに行かなければならないと決心しています(ローマ一五・二五)。
 
 ローマ書の最後に、パウロの同行者からの挨拶が記されています。その中に、「わたしの同胞であるルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています」(ローマ一六・二一)という挨拶があります。この三名はとくに「わたしの同胞である」、すなわちユダヤ人であることがわざわざ付け加えられています。
 
 「ルカ」《ルカス》は「ルキオ」《ルキオス》の別称(略称)であるので、ここのルキオはコロサイ四・一四とテモテU四・一一の「ルカ」と同一人物を指す可能性があります。ヤソンはテサロニケでパウロを匿い、そのためにユダヤ人の襲撃を受けた人物であると見られます(使徒一七・五〜九)。ソシパトロは、パウロがコリントからマケドニアを通って旅行するときの同行者リストにある「ベレア出身のソパトロ」(使徒二〇・四)を指すと見られます。ルカはフィリピ出身である可能性が高いので(使徒二〇・六)、ここに上げられている三名のユダヤ人は、マケドニアの主要な集会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)を代表して、パウロと一緒に献金を届けるためにエルサレムに上ろうとして、コリントで待機している人たちであると考えられます。そうであれば、パウロはエルサレムでの状況に配慮して、エルサレムに連れて行く同行者にユダヤ人を含ませたと見なければなりません。
 
 アカイア州の諸集会の代表が誰であるかは分かりませんが、「アカイア州の諸集会はエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」のですから、アカイア州の諸集会を代表して、コリント集会の誰かが代表団に加わったことは確実です。
 
 ここにコリント第一書簡(一六・一)で言及されていた「ガラテヤの諸教会」の代表者の名があげられていないことが注意を引きます。ガラテヤの諸集会は、パウロの懸命の努力にもかかわらず、「ユダヤ主義者」の働きかけが奏功してパウロから離れたのか、あるいは何らかのパウロ批判によって募金活動から脱落した可能性があります。しかし、ここに言及されていないからといって、そう断定することはできません。アジア州の諸集会(エフェソやコロサイなど)も言及されていませんが、パウロ一行がエフェソで船を乗り換えるときに合流する予定であったと考えられます。パウロはマケドニア州の諸集会を回ってコリントに来たのですから、マケドニア州以外の諸集会の代表がコリントにいないのは当然で、ガラテヤの諸集会も途中のどこか(おそらくエフェソ)で合流する予定であった可能性は高いと考えられます。
 
 しかし、パウロの心は大きな不安がありました。それは、この献金がエルサレム教団に受け入れられず拒否されるのではないかという不安です。パウロは宛先のローマ集会に対して、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・・・・わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ一五・三一私訳)と頼んでいます。
 
 パウロは律法を汚す者としてユダヤ人から何度も命を脅かされていました(次の「パウロに対するユダヤ人の陰謀」の項を参照)。いまユダヤ教の聖地であるエルサレムに行こうとしているパウロは、そこで「ユダヤにいる不信の者たち」(イエスを信じないユダヤ人たち)から命に関わる迫害を覚悟しなければなりません。ここ数年のヘレニズム諸都市(テサロニケやコリントやエフェソなど)でのユダヤ人会堂との紛争を経験してきたパウロは、ディアスポラ・ユダヤ人からエルサレムにパウロの宣教活動が反律法的であると伝えられていることを予想しなければなりませんでした(ディアスポラのユダヤ人会堂とエルサレムとはつねに密接な交流がありました)。
 
 それだけでなく、苦心して集めた献金がエルサレム教団に拒否される可能性もあります。異邦人集会からの献金を受け入れることは、割礼を受けていない異邦人信徒たちも同じ主に属する民と認めることになりますから、エルサレム教団の保守的ユダヤ人に反対されて、献金の受け取りが拒否される可能性があります。ユダヤ人はこれまでも原則として異邦人からの献げ物や供犠を受け入れていました。しかし、この場合は違います。受け入れることはパウロの反律法的宣教を認めることになるとして、律法に厳格なヤコブの指導下で保守的傾向を強めているエルサレム教団が拒否する可能性は十分にあります。もし拒否されたら、パウロが命がけで追求してきたユダヤ人と異邦人の交わりの中に成立するキリストの民の構想は致命的な打撃を受けます。
 
 このような不安を抱えながらも、パウロはどうしてもエルサレムに行って献金を届けなければならないのです。春がきて船便が再開されるのを待って、パウロは献金を携えたマケドニアとアカイアの集会代表たちと一緒にエルサレムに向って旅立ちます。
 
   

 第二節 エルサレムへの最後の旅

パウロに対するユダヤ人の陰謀

 コリントでローマ書を執筆したとき、その時の状況と心境を語ったのを最後に、それ以後はパウロ自身から直接状況の進展を聞くことはできません。ローマ書がパウロの最後の書簡になるからです。コリントを出てから以後のことは、すべてルカの使徒言行録の報告に頼らざるをえません。ルカの使徒言行録は、彼の執筆意図を考慮に入れて批判的に読まなければなりませんが、歴史的な出来事の報告は基本的には信頼できると考えられます。以下、ルカの報告によって、使徒パウロの最後の日々を追ってゆきましょう。
 
 コリントで冬の三か月を過ごしたパウロは、航路が再開する春を待って、コリントから海路でエルサレムに直行しようとします。ところが「彼に対するユダヤ人の陰謀があったので」、コリントからの乗船を断念せざるをえなくなります(使徒二〇・三)。
 
 パウロに対するユダヤ人の陰謀は、すでに回心直後にダマスコで活動したときに始まっていました。
 
 サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、篭に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。(使徒九・二二〜二五)
 
 その後ユダヤ人の「陰謀」について聞くことはありませんが、律法を汚す者としてのパウロに対する敵意とか殺意は何らかの形で続いていたはずです。パウロはそれを「同胞からの難」と呼んでいます(コリントU一一・二五)。これまでに見てきたように、パウロはヘレニズム世界の大都市で福音を宣べ伝えるとき、その地のユダヤ人会堂に入って、「まずユダヤ人に」イエスをメシア・キリストであると宣べ伝えましたが、彼が義とされるのはキリスト信仰によるのであって、律法の行為ではないと主張し、割礼のない異邦人もそのままで信仰によって義とされる(神の民となる)とするのを知るにおよんで、パウロを聖なる律法(ユダヤ教)を汚す者として、ユダヤ人は激しく反対し、パウロの活動を潰そうとして騒乱を引き起こします。コリントのユダヤ人は、以前裁判によるパウロの逮捕投獄に失敗したので(使徒一八・一二〜一七)、今回過激な者たちは密かにパウロを殺すことを計画します。

 ダマスコの場合は、パウロ書簡(コリントU一一・三二)によって、パウロを迫害したのはナバテアのアレタ王の代官であることが分かっています。したがって、それをユダヤ人の陰謀としたのはルカの筆であることが明らかです。しかし、数年のユダヤ人会堂との紛争を経たこの時期では、実際にユダヤ人の陰謀があったことは十分可能です。なお、「律法への熱心」を標榜する原理主義的なユダヤ人にとって、律法を汚す者を殺すことが神に仕えることだとされていたことについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』55頁「熱心党の時代」の項を参照してください。 

 パウロが異邦人集会の代表者たちを引き連れて海路で聖都エルサレムに上ろうとしているのを知った過激なユダヤ人たちは、船中でパウロを殺すことを計画します。ここでもその陰謀を察知したパウロは、間一髪で危機を逃れます。乗船するのを止めて、陸路マケドニア州に行き、そこから別の便を利用することにします。

 ルカは「マケドニア州を通って帰ることにした」(使徒二〇・三)と、「帰る」という動詞を使っていますが、これは「エフェソに帰る」ことを指しているのかどうか確定困難です。しかし、その後のパウロの行程は、まずエフェソを目指していることをうかがわせます。ルカは、今回のマケドニア州とアカイア州への旅を、エフェソを拠点とする旅としているようです。 

 「パウロに対するユダヤ人の陰謀」は、その後もますます強くなり、「陰謀団」が組織されるほどになります(二三・一二)。このように、ユダヤ人のパウロに対する殺意と陰謀を詳しく語るルカの語り方は、イエスに対する「祭司長たちや律法学者たち」の殺意と謀議(ルカ二二・二)からイエスの受難物語を始める語り方と並行しているように見えます。
 
 
 

コリントからトロアスへ

 コリントから陸路でマケドニア州に戻ったパウロは、フィリピにしばらく滞在し、そこから(ネアポリス経由で)海路トロアスに渡ったと考えられます。使徒言行録(二〇・四)は、この時パウロに同行した七名の名前をあげていますが、彼らは献金を渡すためにエルサレムに向かうパウロに同行し、エルサレムまで行った人たちです。コリントでパウロに同行していたテモテ、ルキオ、ヤソン、ソシパトロ(ローマ一六・二一)の他に、テサロニケの二名、アジア州(おそらくエフェソ)の二名の名が加えられています(ルカは「わたしたち」の中に含まれるのか、名が出てきません。またヤソンがエルサレムまで行ったかどうかは不明です)。「この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待っていた」(使徒二〇・五)とあるように、彼らはコリントから直接船便でトロアスに行って、トロアスでパウロと落ち合うことにします。

 銀行による送金という制度のない当時では、多額の金額を遠い土地に送ることは危険な仕事でした。ディアスポラのユダヤ人会堂が年ごとにエルサレム神殿に税を送る制度はありましたが、この公認の送金とは違い、この場合の送金はユダヤ人の敵意と盗賊の難を心配しなければならない危険な事業でした。マーフィー=オコゥナーは、献金を金貨にして同行者数名の衣服に縫い込んで、一番安全な船便を用いたと見ています。ワンゲリンの「小説聖書」も、エルサレムに着いたパウロ一行がヤコブの前で衣服を脱ぎ、布を裂いて金貨を取り出す情景を劇的に描いています。 

 パウロは、陰謀をたくらむユダヤ人の目を避けておそらく単身で陸路マケドニア州に戻り、しばらくフィリピに滞在し、「除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来て彼ら(七名の同行者)と落ち合い」ます(使徒二〇・六)。ここで注目されるのは、この文の主語が「わたしたち」となっていることです。この書き方は、この文を書いた人物がパウロと一緒に行動していることを示しています。
 
 パウロ一行の行程を「わたしたちは」と語り、著者がパウロ一行に含まれることを示す文章は、使徒言行録一六章九〜一〇節に突然現れます。すなわち著者は、第二次伝道旅行でトロアスからマケドニアに向けて出発したパウロ一行に自分を含めているのです。この「わたしたち」を用いた部分(いわゆる「われら章句」)は、フィリピでの活動を伝える一六章一七節まで続くだけで、それ以後は途絶え、ここで再開することになります。このことから、ルカはフィリピの人ではないかという推察がなされることになります。
 
 「われら章句」は、これ以後最後まで、フィリピからミレトスへの旅(使徒二〇・五〜一五)、ミレトスからエルサレムへの旅(使徒二一・一〜一八)、カイザリアからローマへの旅(使徒二七・一〜二八・一六)という旅行記に現れます。そうすると、著者のルカはトロアスで第二次伝道旅行で西に向かうパウロ一行と出会い、ひとまずフィリピまで同行し、パウロがそこを去った後もフィリピに残り、パウロが第三次伝道旅行でコリントから帰ってきたときフィリピで再び一行に加わり、終わりまでずっとパウロに付き添ったと推定されます。この時以後のパウロの身に起こる出来事を伝える著者の記事は、たいへん詳しく、精彩豊かなものになります。

 先にも述べたように、この「われら章句」については、著者が他人の旅行記を資料として用いた可能性や、著者の文学的虚構であるとする説もありますが、著者自身がこれらの旅行の同行者であるとする古代教会以来の見解を決定的に否定する根拠は乏しいようです。ルカが五〇年代後半にパウロに同行して旅行したのが二〇歳前後とか三〇歳前後とすると、九〇年代後半(一世紀末)には六〇歳前後か七〇歳前後となり、ルカ自身がこの頃に使徒言行録を書いたことは年齢的に十分可能性があります。仮にルカが誰か同行者の旅行記を資料として用いたとしても、その同行者を著者の一部と見て、ここでは「著者」と記述していきます。 

 パウロ一行はトロアスに七日間滞在します(使徒二〇・七〜一二)。その「七日間」は月曜日から日曜日までです。それは「週の初めの日」に集会をして、その翌日出発していることから分かります。信徒が「週の初めの日」(日曜日)に集会をしたことを証言するのは、新約聖書ではここだけです。その集まりは「パンを裂くために」と説明されています。イエスの死を記念する「主の食卓」が集会の中心的な行事であり、それを巡ってイエス・キリストにおける神の救済の出来事が詳しく説かれたことでしょう。著者はこの夜の集会の模様を、階上の部屋であるとか、多くの灯火がついていたと具体的に描写しています。
 
 出発を翌日に控え、パウロはキリストにおける神の救済史のすべてを話しておこうとしたのでしょう、その話は長々と続きます。三階の窓際に腰をかけて聴いていた若者が眠りこけて下に落ちて死亡するという事故が起こります。パウロは降りて行き、若者を抱きかかえて、「騒ぐな。まだ生きている」と言い、若者を生き返らせます。この出来事は、会堂司ヤイロの娘が死んだとき「なぜ叫んだり泣いたりするのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」(マルコ五・三九)と言って、その娘を生き返らせたイエスの出来事を思い起こさせます。ルカはパウロがエフェソで「目覚ましい奇跡」を行ったことを報告していますが(使徒一九・一一以下)、トロアスでのこの出来事は、タビタを生き返らせたペトロの働き(使徒九・三六以下)と対応させるために、エウティコというその若者の名前まで記録してとくに具体的に伝えたのでしょう。
 
 このような出来事に驚いて神の言葉を伝える営みは中断されてはなりません。パウロの「説教」は夜明けまで続き、パウロは翌日トロアスを発ちます。

 一一節に用いられている動詞《ホミレオー》(新約聖書ではルカだけが使っています)は、後におもに聖書解説を指す「説教」( homilies )という語のもとになる動詞です。 

トロアスからミレトスへ

 「わたしたち」、すなわち「著者」を含む同行者一行は「先に船に乗り込み、アソスに向けて船出」します。アソスは、エーゲ海に突き出した小さい岬(レクトン岬)の南の付け根にある港町です。その岬の北側の付け根にあるトロアスからは陸路で30キロほどの道のりです。パウロは陸路(おそらく単身で)アソスまで歩き、アソスで同行者たちが乗った船に乗り込みます(使徒二〇・一三〜一四)。これはパウロの指示によるのですが、パウロはなお「ユダヤ人の陰謀」を警戒しなければならなかったのか、それとも、トロアスに一日でも長く滞在してキリストのことを語るために、同行者を先に船で行かせ、自分は陸路でアソスで追いつこうとしたからでしょう。
 
 アソスからレスボス島のミティレネに寄港し、キオス島沖を経て、サモス島に立ち寄り、ミレトスに到着します。著者はその航海を体験している「わたしたち」の一員として、航路を詳しく伝えています(使徒二〇・一四〜一五)。ミレトスはエフェソから南へ40キロほどの古くから栄えた港湾都市であり、長らくギリシア文明の担い手でした。パウロがエフェソではなくミレトスに寄港したのは、船便の都合によるものか、ユダヤ人の陰謀を警戒してか、またはエフェソから追放処分を受けていたからか分かりませんが、ルカは旅を急いでいたからだとしています(使徒二〇・一六)。
 
 「パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せ」、エフェソの集会に別れを告げます(使徒二〇・一七以下)。ルカが詳しく伝えるパウロの訣別訓話(使徒二〇・一八〜三五)は、ヨハネ福音書(一三〜一七章)のイエスの訣別遺訓ほど長くはありませんが、その内容と意義はそれに相当します。ルカはここでパウロの宣教活動を要約し、これから起こることをパウロの口を通して示唆しています。
 
 このパウロの訣別訓話は感動的であり、またその内容は重要ですが、その詳しい講解は使徒言行録の講解に譲り、ここでは先を急ぐために簡単に要約するに止めます。
 
 パウロは、まず自分がアジア州でいかに苦難の中で神の言葉である福音を残すところなく伝えたかを語ります(一八〜二一節)。そこでパウロの宣教が「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」と要約されていることが注意を引きます。続いてパウロは、これから自分の身に起こることが投獄と苦難であり、再びエフェソの兄弟たちに会うことはないであろうと告げます(二二〜二五節)。この書き方は、ルカがこの度のエルサレム行きがパウロの死という結果に至ったことを知っていることをうかがわせます。
 
 その上でパウロは、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神のエクレシア」に、「邪説を唱えて弟子たちを(自分に)従わせようとする者」が入り込んでくる危険を警告し、「聖霊によって群れの監督者として立てられた」長老たちに、目を覚ましているように勧告します(二六〜三二節)。このような危険な状況が自分の時代に起こっていることをルカは知っていて、そのようなエクレシアの分裂の危険をすでにパウロが警告していたとします。これは、ヨハネ福音書の著者が自分の時代の共同体の状況について、イエスが「訣別遺訓」で警告されたとしているのと同じです。なお、ここの「監督者」は複数形で、「長老たち」が果たすべき役割を指しています。まだ、単独の「監督」(後に「司教」と呼ばれる)という職制上の地位を示してはいません。
 
 そして、最後にパウロは、自分の生活のためには自分の手で働いたことを模範として、「働いて弱い者を助けるように」勧告します(三三〜二五節)。その時に、「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスの語録を引用しています。この語録は福音書には出てこないので、福音書に現れる以外のイエスの語録が伝承されていたことを示す興味深い実例です。
 
 この訓話の後、パウロが再び会うことはないであろうと語ったので、人々が皆激しく泣いて別れを惜しんだという情景が描かれます(三六〜三八節)。このような情景は、立ち寄ったマケドニア州の諸集会(テサロニケやフィリピ)やトロアスでも同じであったと考えられます。ルカは、コリントからマケドニア州を経てミレトスへ至る今回の旅を、パウロが自分が建てた諸集会に訣別を告げるための旅とし、その最後に代表的事例として、このミレトスでの訣別の訓話と情景を置いたと見られます。パウロが、コリントから陸路マケドニア州を通る行程を選んだのは、(安全のため同行者は先に船で行かせますが)自分はどうしてももう一度諸集会を堅くし、最後の勧告をする必要を感じたからではないかという可能性も考えられます。もしそうであれば、「ユダヤ人の陰謀があったので」は、ダマスコの場合のようにルカのフィクションになりますが、両方があったと見てもよいでしょう。
 
 
 

ミレトスからエルサレムへ

 ミレトスを船出したパウロ一行は、コス島とロドス島に寄港し、小アジア南岸の港町パラタに到着します(使徒二一・一)。ここまでは沿岸の島々を結ぶ小型船による航海ですが、ここで地中海を横断して直接フェニキアに向かう大型船(おそらく貨物船)に乗り換え、キプロス島を左に見て(すなわちキプロス島の南側を)航海し、シリア州フェニキア地方の中心都市ティルスに到着します(使徒二一・二〜三)。

 使徒言行録の別のテキストによると、一行はパラタからさらに東のミラまで航海し、そこでフェニキアに直行する船に乗り換えたとされています(ミラについては使徒二七・五〜六参照)。おそらく、この方が事実でしょう。 

 ティルスで貨物の陸揚げのために船が停泊している七日の間、パウロ一行は捜し出した「弟子」の家に滞在します。ティルスにも最初のヘレニストたちによるフェニキア伝道で信徒の群れが形成されていたと見られます(使徒一一・一九、一五・三参照)。集会の者たちは御霊に感じた預言によって、パウロにエルサレムでの危険を預言し、エルサレムには行かないように説得しようとします。パウロはその説得を振り切って乗船します。ここでも浜辺で、ミレトスの時のように別れを惜しむ光景が描かれます(使徒二一・三〜六)。
 
 ティルスを出た船は、少し南のプトレマイス(現在のハイファの北)に着きます。パウロはその地の「兄弟たち」との交わりに一日を過ごし、翌日カイサリアに向かいます。船で向かったのか、陸路をとったのかは分かりませんが、原文は陸路をとったような印象を与えます。さらに、貨物船の停泊が一日だけの可能性は少ないと考えられますので、陸路をとった可能性の方が大きいと見られます。カイサリアは南へ約50キロになります。カイサリアでは「例の七人」の一人であるフィリポの家に泊まります(使徒二一・七〜八)。
 
 「例の七人」とは、ルカが使徒言行録六章(一〜六節)で語っているヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を話すユダヤ人)の中から選ばれた代表者七名のことで、ステファノの次にフィリポの名があげられています。ステファノの石打事件から始まった信徒への迫害は、ヘレニスト・ユダヤ人の信徒に対するもので、アラム語を話すグループ(その代表がペトロら「十二人」です)はエルサレムに残ります。ヘレニスト信徒たちは迫害でエルサレムから散らされますが、フィリポは福音を宣べ伝えてサマリアから地中海沿岸地方に行き、カイサリアに至ります(使徒言行録八章)。その後、フィリポはカイサリアに住み、そこを拠点として伝道活動をしたようです。
 
   フィリポは結婚しており、四人の娘がありました。この娘たちは未婚で、預言の賜物を与えられていたと伝えられています(使徒二一・九)。フィリポ本人を含めカリスマ豊かな一家を中心に、カイサリアには霊的に活発な集会が活動していたことがうかがえます。パウロがフィリポの家に滞在しているときに、やはり預言のカリスマで著名なアガポという者がユダヤから下ってきて、パウロがエルサレムで逮捕されることを預言します。そこで、同行者たちはカイサリアの集会の人たちと一緒に、パウロにエルサレムには行かないように懇願しますが、「主イエスの名のためならば、わたしは死ぬことも覚悟しているのだ」と言って、パウロはエルサレムに向かいます。エルサレムに着いた一行は、ムナソンという人の家に泊まります(使徒二一・一〇〜一六)。パウロのエルサレム到着は、五六年の五旬節前(初夏の頃)になります。
 
 今回のコリントからエルサレムへの旅は、パウロにとって最後のエルサレムへの旅となります。この最後の旅では、エルサレムでのパウロの受難が繰り返し預言され、パウロも受難を覚悟して、立ち寄る先々の集会で再び会うことはないと訣別の挨拶をしています。このようなルカの書き方は、ルカがこの旅の最後にはパウロの死があることを知っていることを示唆しています。
 
 ルカはすでにその著作の第一部(ルカ福音書)で、三回の受難予告を含むきわめて長い形で、イエスのエルサレムに向かう受難の旅を詳しく書いています。いま第二部(使徒言行録)で、ルカは最大の使徒パウロの受難の旅を、主イエスの受難の旅と並行した形で、繰り返される受難予告を含めて詳しく物語っていくことになります。
 

     

 第三節 エルサレムでの逮捕とパウロの裁判

ヤコブとの会談

 エルサレムに着いたパウロは、すぐその翌日にエルサレム教団を代表するヤコブを訪ねます。先のエルサレム会議の時と違い、この時にはペトロもヨハネもいません。ヤコブだけがエルサレム教団を取り仕切っています。この時には、エルサレム教団の「長老たち」も同席します(使徒二一・一七〜一八)。パウロの同行者たちも同席したことでしょうから、この度のパウロのヤコブ訪問は、パウロが形成した異邦人諸集会とエルサレム母教団との歴史的な出会いとなります。ところが、この重要なパウロとエルサレム教団との会談で何が起こったのか、肝心の点が分からないのです。
 
 今回のエルサレム訪問の目的は、パウロが異邦人の諸集会から集めた献金をエルサレム教団に手渡すことであったはずです。そのためにイスパニアに向かう計画を実行する前に、危険を覚悟してエルサレムに上ったのでした。ところがこの会談を報告する使徒言行録の記事では、献金のことが全然触れられていないのです。今回のエルサレム訪問については、(パウロがガラテヤ書で語っている)先の二回の訪問とは違い、パウロの側からの報告はありません。

 今回だけでなく、ルカは使徒言行録でパウロの募金活動については全然触れません。もしルカがパウロ書簡集を知っていたらありえないことと考えられるので、この事実は(他の理由と並んで)ルカがパウロ書簡集を知らなかったことを示唆しています。ルカが著作した頃には、パウロ書簡集はまだ流布していなかったと見られます。 

著者」(ルカ自身、またはルカが資料として用いた「旅行記」を書いた人)は、この旅の同行者としてエルサレムに来ています。「われら章句」はエルサレムまで続いています。そうすると、「著者」は同行者の一人として、この旅がエルサレム教団に献金を届けるための旅であることも、その献金がエルサレム教団に受け入れられたかどうかその結果も知っているはずです。それにもかかわらず、ルカがこの献金の成り行きに全然触れようとしないのは、意図的であると考えざるをえません。ルカはなぜ献金問題に触れようとしないのでしょうか。

 ルカが献金問題に触れていると解釈することもできる箇所が一箇所だけあります。パウロは総督フェリクスの前での弁明で、「私は、同胞に救援金を渡すため、また、供え物を献げるために、何年ぶりかに戻って来ました」と言ったとされています(使徒二四・一七)。 新共同訳が「救援金」と訳しているのはこの解釈をとっているからですが、ここの「同胞に慈善を施す」(原文)は、「供え物を献げる」ことと並んで、外国からエルサレムに上ってくる巡礼者の普通のことだとする見方もあります。それがこの献金を指しているとするとなお、それを知っているルカがなぜ全体として献金問題に触れないのかが、いっそう問題になります。 

 ルカがパウロの募金活動に全然触れないのは、ルカがこの献金活動が不成功に終わったことを知っているからだと考えられます。ルカはエルサレム教団が素直に献金を受け取れない事情を知っており、それをヤコブの提案として描いています(後述)。そのヤコブの提案を受け入れた結果、パウロは神殿での騒乱に巻き込まれ、逮捕されることになります。パウロが逮捕された後、献金がどうなったのか、ルカは触れないままです。もともと献金には触れていないのですから、これは当然です。パウロが命がけで持参した献金はどうなったのか、どこへ行ったのか分かりません。
 
 パウロにとって、この献金問題は終末的な神の支配におけるイスラエルと異邦人の統合を象徴する救済史的な意義を担う重要な課題であり、生命の危険を冒してでも成し遂げなければならない使命でした。ところがルカにとっては、献金問題はそれに触れることなく使徒パウロの働きを叙述することができる程度の事柄になっていました。この落差は大きいものです。この問題は「使徒言行録」の理解の問題として探求しなければなりませんが、それは別の機会に譲らなければなりません。ここではその違いを見るための一つの視点だけを取り上げておきます。それは、パウロとルカの間にはエルサレム神殿の破壊という大事件があるという事実です。パウロはこのエルサレム神殿破壊の前に、間近なキリストのパルーシアにおけるイスラエルの救済と異邦人の参加を確信しています。それに対してルカは、すでに起こったエルサレム神殿の崩壊を不信のユダヤ人に対する神の審判と見て、今は「異邦人の時代」が始まっていると見ています。このルカにとって、エルサレム教団への献金はもはやイスラエルと異邦人の統合を象徴する重要問題ではありません。ルカは、不成功に終わったエルサレム教団への献金運動をいっさい省略して、パウロによる異邦人への福音の進展を語ります。
 
 この献金問題の成り行きを考える上で、一度ヤコブの立場から問題を見てみましょう。五、六年前のエルサレム会議でヤコブはペトロ、ヨハネと共にパウロと会い、パウロが異邦人に割礼を求めないで福音を宣べ伝えることを認めました。その代わり、異邦人集会がエルサレム教団の「貧しい者」を援助するように求め、パウロはそれを引き受けました。その時の合意に従えばヤコブが献金を受け取ることに問題はないはずです。
 
 ところが、その後状況が変わりました。パウロの異邦人伝道は大いに進展し、パウロが異邦人には割礼を求めないで、無割礼のままキリストの民として受け入れていることが、割礼とモーセ律法そのものを否定していると誤解されてエルサレムに伝わってきていたようです。パウロは決してユダヤ人にユダヤ教を捨てるように説いたのではありません。しかし、パウロの「無割礼の福音」はユダヤ教そのものの否定と誤解されて、エルサレムの律法に熱心な保守派のユダヤ人信徒を激怒させることになります。パウロは割礼とユダヤ教を相対化したのですが、それがユダヤ教の全面的否定と誤解されたのです。しかし、この誤解は宗教問題では避けられない誤解です。どの宗教にも自己絶対化の体質がありますから、自分の宗教の絶対性を否定する言動には拒否反応を起こすのです。

 「パウロによるユダヤ教の相対化」については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」の402頁以下を参照してください。 

 そのように誤解されてエルサレムに伝わっていたことは、ルカがヤコブの言葉として伝えている次の箇所によく表れています。
 
 「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えているとのことです」。(使徒二一・二〇〜二一)
 
 しかし、エルサレム教団のパウロの「無割礼の福音」に対する危惧の念は、誤解によるものだけではありません。当時の民族主義的傾向を強めつつあるユダヤ教の中に置かれたエルサレム教団の状況がそうさせるのです。この会談(56年)はユダヤ戦争が勃発する十年前です。ローマの支配に対する反発から、ユダヤ教律法をさらに厳格に順守することでユダヤ民族のアイデンティティーを確立しようとする「熱心」がますます高揚してきた時代です。その中でイエスをメシアと信じるユダヤ人の教団は、周囲のユダヤ人たちから、異邦人と交わって律法を汚し、神の怒りを招いているのではないかという猜疑の目で見られることになります。それで、エルサレム教団は、厳格な律法順守で有名な「義人」と呼ばれるヤコブを代表者にして、その疑いを晴らし、時代に生き残ろうとしたのです。
 
 このような周囲のユダヤ人からの圧力は、先のエルサレム会議の時からすでにありました。アンティオキアでの食卓の交わりをめぐるペトロとパウロの対立もこの圧力が背景にありました。しかし、その後の状況の進展により、今はその圧力はますます強くなっています。その中でパウロの反ユダヤ教的と見える異邦人伝道はますます放置できないものとなり、対抗宣教活動が組織され、パウロが建てた異邦人諸集会の信徒に割礼とモーセ律法の順守を求める活動が始まります。それは、たしかに「(周囲のユダヤ人から)迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています」(ガラテヤ六・一二)とパウロが言う通りです。それが直接ヤコブの指導によるものかどうかは分かりませんが、体質としてはヤコブが代表するエルサレム教団から出たものと見られます。
 
 パウロの異邦人伝道の進展が伝えられるごとに、エルサレムでは激しい議論が繰り返されたことでしょう。このような状況でヤコブは簡単にパウロが差し出す献金を受け取ることはできません。たしかにエルサレム教団は救援の資金を必要としています。しかし、献金を受け入れるためには、それが律法を汚すことにならないと、エルサレム教団の中の「律法に熱心な」ユダヤ人、とくに長老たちを納得させなければなりません。
 
 そこで、ヤコブはパウロに、彼らの前で律法を順守する者であることを具体的に示すために、一つの提案をします。それは、エルサレム教団のユダヤ人で誓願を立てている者が四人いるから、その人たちの「頭をそる費用」を負担すれば、エルサレム教団の律法に熱心な長老たちも、パウロが律法を守るユダヤ人であることを認めるであろうという提案です(使徒二一・二二〜二四)。そうすれば、献金を受け取ることに問題はなくなります。
 
 「頭をそる費用」というのは、ナジル人の誓願を立てた者が、誓願の期間中かみそりを当てずに伸ばしていた髪の毛をそって誓願期間を終えるときの儀式に必要な犠牲の動物(羊三頭)やその他の供え物を買う費用です(民数記六章参照)。これは貧しいユダヤ人にはかなりの負担になる金額です。それを負担するためには、おそらくパウロの私財ではなく、持参した献金の一部を使うことになったでしょう。
 
 この提案のすぐ後にヤコブは、以前異邦人信徒に書き送った「使徒教令」のことに言及します(使徒二一・二五)。それは、異邦人信徒が守るべき最小限度の規定を伝える手紙でした(使徒一五・二二〜二九)。ヤコブがここでこの「使徒教令」に言及したのは、たとえパウロがヤコブの提案を受け入れて律法を順守するユダヤ人として行動しても、異邦人信徒はすでにあの手紙で立場が確立されているのだから、それ以上にユダヤ教律法の順守を求められることはないと保証して、パウロが提案を受け入れやすくしたものと考えられます。
 
 
 

神殿における騒乱とパウロの逮捕

 パウロはこの提案を受け入れます。パウロにとってユダヤ人の教団を代表するエルサレム教団との結びつきはきわめて重要な事柄で(355頁の「祭司の務め」の項を参照)、決裂することはできません。「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになる」(コリントT九・二〇)という原則から、パウロはここではユダヤ人(ユダヤ教徒)として振舞います。パウロは最後までユダヤ教徒です。ユダヤ教の規定に従い、「その四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入ります」(使徒二一・二六)。この儀式は神殿の聖所で行われるので、その儀式にあずかるには(外国からの帰国者は汚れていると見なされるので)パウロはまず清めの儀式を受けなければならないのです。
 
 「七日の(誓願解除の儀式の)期間が終わろうとしていたとき、アジア州から来たユダヤ人たちが神殿の境内でパウロを見つけ、全群衆を扇動して彼を捕らえ」、「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった」と叫びます(使徒二一・二七〜二八)。
 
 ユダヤ教は清めのシステムであると言えるほど、聖性(清さ)を追求しまた。とくに神を礼拝する唯一の場所である神殿を清く保つことに神経質でした。異邦人は汚れた者とされていましたから、異邦人が神殿に入ることは神殿を汚す行為として死刑の警告をもって禁止されていました。

 神殿の外庭は異邦人も入ることが許されていて「異邦人の庭」と呼ばれていましたが、内庭を囲う柵を越えて「ユダヤ人の庭」に入ることは、死刑の威嚇をもって禁止されていました。この原則はローマ当局によって承認されており、この柵には次のような警告文が掲げられていました。「如何なる異邦人も神殿の周りの柵と囲いより内に入ることを禁じる。もし(この禁を犯して)逮捕された者は何人であっても、そのために生じる死罪の責めを自ら負わねばならない」。(蛭沼他『原典新約時代史』112頁) 

 「アジア州から来たユダヤ人たち」とは、五旬節の祭りのためにエフェソからエルサレムに来ていたユダヤ人たちで、自分たちの顔見知りの「(異邦人の)トロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思った」、すなわち誤解したのです。この禁令をよく知っているパウロが、同行者の異邦人兄弟の生命を危険にさらすようなことはするはずがありません。エフェソでパウロを掴まえることに失敗したユダヤ人たちは、エルサレムで意趣返しをします。誤解してか、あるいは意図的にありもしないことを叫んで、群衆を扇動し、パウロに襲いかかり、境内から引きずり出して、殴る蹴るの暴行を加え、パウロを殺さんばかりにします(使徒二一・二九〜三〇)。

 パウロに対する暴行が描かれる箇所に、「そして、門はどれもすぐに閉ざされた」という文があります。この具体的な記述は、この記事が目撃証人によって書かれたことを示唆しています。その「門」とは、おそらく神殿の内庭を囲む柵にある門を指すのでしょう。神殿当局は門を閉ざして、外での暴徒の行為を黙認したと見られます 

 この事件でエルサレム中が混乱状態に陥っているとの知らせを聞いたローマ軍守備大隊の千人隊長が、現場に駆けつけてパウロを逮捕します。祭りの時は、エルサレムの治安維持のために千人からなる大隊が神殿近くのアントニオ砦に駐留していました。その守備大隊が出動したのです。逮捕したパウロを尋問のために兵営(アントニオ砦)に連れて行く時にも、群衆が押し迫ってパウロに暴行を加えようとするので、兵士たちはパウロを担いで行くことになります(使徒二一・三一〜三六)。この情景は、当時のエルサレムが民族主義的な熱気にいかに激しく燃えていたか、またそれを背景として律法(ユダヤ教)をおとしめるような言動をする者に対する憤激がいかに強いものであったかを物語っています。このローマ軍によるパウロの逮捕は、結果としては群衆のリンチからパウロを保護する「保護拘束」となります(使徒二三・二七)。
 
 
 

兵営での尋問とカイサリアへの護送

 ローマ軍に逮捕されたパウロは、これ以後ローマ総督の裁判を受ける身となります。ルカはその裁判の経過やそこでのパウロの演説を詳しく物語っていますが、その記事を解説することは「使徒言行録」の注解に委ねざるをえません。ここでは出来事の大要とその意義について簡単に触れるに止めます。 
 
 パウロを逮捕した千人隊長は、取り調べのためにパウロを縛って鞭打ちを加えるように命じます。総督はカイサリアにいて不在ですから、エルサレムでは千人隊長が総督の代わりを務めます。その時パウロが、自分はローマ市民権を持つ者であるのに裁判もせず鞭打ってもよいのかと抗議したので、この千人隊長は大いに驚き、鞭打ちを止め、直ちに鎖を解きます(使徒二二・二二〜二九異本)。この「クラウディウス・リシア」(使徒二三・二六)という名の千人隊長は、多額の金を払ってローマ市民権を得たのでした。彼はローマ市民権の重さを知っています。法に反してローマ市民を扱ったことに怖れを感じます。

 パウロのローマ市民権については拙著『パウロによるキリストの福音T』の45頁と284頁の注記を参照してください。 

 ここでまた「ユダヤ人の陰謀」が発覚します。それはエルサレムに住むパウロの姉妹の子(パウロの甥)が聞き込んで、獄中のパウロに通報したのです。その陰謀とは、四十人ほどのユダヤ人がパウロを殺すまでは飲食しないと誓いを立てて機会をうかがっているというのです。彼らはエルサレムの祭司長や長老たちに、最高法院と組んでパウロを尋問のために議会に連れてくるように千人隊長に要求し、彼が議会に到着する前に暗殺する手はずを整えているというのです(使徒二三・一二〜一六)。
 
 このような暗殺計画は、当時エルサレムではシカリ派が活動していたことから、ありうることだと考えられます。シカリ派は「熱心党」の中の過激派で、隠し持った短刀(シカリ)でローマの異教支配に協力するユダヤ人を暗殺していました。パウロ暗殺計画は、ローマ兵に護衛されたパウロを襲うのですから、自分たちもローマ兵に殺されることを覚悟しなければなりません。失敗すれば処刑も覚悟しなければなりません。いわば自殺テロです。彼らが飲食を断つという誓いをしているのも自殺テロの決意を示しています。
 
 甥の通報を受けたパウロは、甥を千人隊長に会わせて暗殺計画を伝えます。そこで千人隊長は護衛の部隊をつけて、パウロをカイサリアにいる総督フェリクスのもとに送ります(使徒二三・一七〜三〇)。その時に千人隊長クラウディウス・リシアが護衛隊に持たせた総督フェリクスあての手紙では、パウロが宗教問題でユダヤ人から恨まれているだけで、ローマの支配に反抗するような性質のものでないことが強調されており、ルカの護教的意図がこめられているようです。
 
 カイサリアに護送されたパウロは、「ヘロデの官邸」(ヘロデが建てた宮廷を総督官邸にした建物)に留置されます。シリア州総督フェリクスは、囚人がキリキア州(自分の管轄州)出身であることを確認して、告発者の到着を待って裁判することを告げます(使徒二三・三一〜三五)。
 
 
 

総督フェリクスの裁判

 フェリクスは、クラウディウス帝の母アントニアの解放奴隷でした。自分や身近な者の解放奴隷を重用して秘書官のように用いたクラウディウス帝の愛顧によって、(本来元老院議員を務める貴族階級だけがなる)属州総督という高い地位にまで上りつめた人物です。
 
 パウロがカイサリアに護送されて五日後に、大祭司アナニア自身が、長老たちと弁護士テルティロを連れてカイサリアに来て、パウロを正式に総督に告発します(使徒二四・一〜九)。弁護士テルティロによってなされた告発はルカの筆で要約されていますが、その中で大祭司が(テルティロを通して)パウロを「この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」と告発していることが注目を引きます。
 
 イエスの場合もそうでしたが、ユダヤ教指導層は律法問題(宗教問題)で自分たちに反対する者を抹殺しようとしますが、ローマ総督に訴えるときには騒乱によってローマの秩序を破る者として訴えます。ここの訴えは、パウロが「疫病のような人間」として、いかに強く当時のユダヤ教徒から憎まれていたかを伝えています。
 
 それは、パウロはユダヤ人たちから「『ナザレ人の分派』の首謀者」と見られていたからです。「ナザレ人たちの分派」(新約聖書ではここだけ)という表現は、「ナザレのイエス」を信じるユダヤ人を指します。彼らはファリサイ派やエッセネ派のように、ユダヤ教の一つの分派と見られていましたが、その派は正統ユダヤ教と相容れないものとして、後には「異端」という烙印を押されます。パウロはその異端の首魁と見られていたのです。

 「ナザレ人たち」という呼称については様々な議論があります。その議論については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』74頁以下の「ナザレへの移住」の項、および日本聖書学研究所編『死海文書』57〜59頁を参照してください。なお、ここで「分派」と訳されている《ハイレシス》は「(選んだ)学説、党派」という意味の語ですが、後に「異端」(ヘレシー)という意味に用いられるようになります。 

 この告発に対してパウロがなした弁明は(これもルカの筆で要約されています)、騒乱の発生にパウロの行動は責任がないことを具体的に論証し(使徒二四・一〇〜一三)、続いてパウロがいかに聖書(律法と預言者)に忠実な信仰で行動をしているかを強調しています(使徒二四・一四〜二一)。
 
 大祭司は、「この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました」と、パウロ逮捕の正当性を訴えます(神殿を汚す者への警告文はローマ当局も認めていました)。異本(使徒二四・六b〜八a)では、その後に千人隊長ルシアが不当に介入してパウロを奪ったと訴えています。おそらくこれが本来の告発でしょう。それでフェリクスは千人隊長ルシアの証言を待って判決を下すとして、裁判を延期します(使徒二四・二二)。
 
 ところが、フェリクスはその後、自分の任期中は裁判をしないままで放置します。ある程度自由を与え友人たちとの接触を許すという緩やかな形ですが、パウロを二年間も拘留します。それは、ユダヤ人に気に入られようとしたのと、パウロから賄賂をもらう下心があったからだと、ルカはフェリクスという総督の人物と動機を批判的に描きます(使徒二四・二三〜二七)。裁判を行う者が被告から賄賂を期待するというようなことは現代の法治国家では考えられませんが、ローマの属州総督は役得としてそういうことも行い、蓄財に励んだと伝えられています。

 ルカは、フェリクスがユダヤ人の妻ドルシラと一緒にひそかにパウロの話を聞いたことを伝えています(使徒二四・二四〜二五)。このドルシラはアグリッパ一世の娘で、エメサの領主と結婚していたのですが、フェリクスが横恋慕して、この美貌の若妻を夫と離婚させて、自分の(三番目の)妻とした女性です。二人の前に立ったパウロは、アグリッパとヘロディアの前に立った洗礼者ヨハネと同じような立場にありました。それで、「パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり」ます。ドルシラはパウロを憎んだかもしれません。フェリクスがパウロを二年間も拘留したのは、ドルシラが夫に働きかけた可能性もあります。 

 

フェストゥスの裁判

 フェリクスの後任にユダヤ総督として着任したフェストゥスは、着任早々カイサリアからエルサレムに行って、ユダヤ人指導者たちと会います。これは、任地の地元指導層と友好的な関係を築くためです。その時、ユダヤ人指導者たちはパウロをエルサレムで裁判にかけるように要求します。これは途中でパウロを暗殺する「陰謀」を企てていたからだと、ルカは報告しています。しかし、フェストゥスはこの要求を拒否して、カイサリアで裁判をすることを通告します(使徒二五・一〜五)。
 
 新任のローマ総督は、たまっている裁判を片づけることを着任早々の仕事としていたようです。フェストゥスは十日ほどエルサレムに滞在した後、カイサリアに帰り、その翌日早々に法廷を開きます。前のフェリクスの裁判の時のように、エルサレムから来たユダヤ人たちが様々な罪状を訴えてパウロを告訴します。しかし、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」というパウロの弁明を、証拠を挙げて覆すことはできませんでした(使徒二五・六〜八)。
 
 ここでフェストゥスはパウロに、エルサレムで裁判を受けてはどうかと提案します。直接の動機は、争点の宗教問題で取り調べがしやすくなるということです(使徒二五・一九〜二〇参照)。もともとアグリッパを始めユダヤ人指導層との友好関係を重視するフェストゥスは、その方がユダヤ人たちとの友好関係を維持するのに好都合と判断したのかもしれません。しかし、先にエルサレムでの裁判を拒否したことからすると、方針を変えたことになります。先はユダヤ人の法廷での裁判を拒否したが、今回は場所がエルサレムに変わるだけで、自分の裁判である以上ローマ総督の責任を果たすことになるとした、という理解も可能です。この提案は、パウロにとってはユダヤ人からの圧力の下での裁判を意味するので、パウロはこれを拒否して、あくまでローマの法廷で裁判を受けることを主張し、皇帝に上訴します。フェストゥスはこの上訴を認めます(使徒二五・九〜一二)。

 フェストゥスのユダヤ総督着任が何年であったかは争われています。本書が用いている年表では、カイサリアでの拘禁を五六年から五八年としています。したがってフェストゥスの着任は五八年ということになります。しかし、最近の研究では五九年夏という日付が有力になっています(アンカー聖書事典)。そうだとすると、パウロが五六年初夏にエルサレム到着してから三年経っていることになります。この場合は、カイサリア拘禁の「二年」は概数で、その前の未決期間を入れると三年になると理解しなければなりません。フェストゥスの総督在任は、彼の任地での急死で六二年に終わります。後任の総督アルビヌスの着任までの空白期間を利用して、大祭司アンナスがエルサレム教団の代表者ヤコブを殺害します(ヨセフス『古代誌』二〇・九・一)。ヨセフスは、前任者フェリクスと後任者アルビヌスと対比して、フェストゥスをユダヤ人に好意的な総督として描いています。なお、皇帝への上訴とパウロのローマ市民権との関係については、拙著『パウロによるキリストの福音T』の284頁の注記を参照してください。 

 

アグリッパ王の前での弁明

 皇帝への上訴を認めたフェストゥスは、すぐにパウロをローマに護送することになるはずですが、ルカはその前に、アグリッパ王の前でパウロが行った弁明の演説を報告する長大な記事を入れています(使徒二五・一三〜二六・三二)。ルカはすでに二回、逮捕された後にパウロがした長い弁証の演説を入れています。すなわち、逮捕された直後、エルサレムのユダヤ人たちにした演説(使徒二二・一〜二一)と、総督フェリクスの前でした弁明(使徒二四・一〇〜二一)です。この三回目で最後の演説(二六章全体)は、最も長くて詳細です。ルカはここで文筆家としてあらゆる技巧を駆使して、王の前で証言する異邦人への使徒パウロの姿を描き出しています。ここのパウロの演説は実に感動的であり、その記事は「使徒言行録」の理解にとって重要ですが、ここではその講解は割愛せざるをえません。
 
 アグリッパは新任の総督への表敬訪問のために、妹のベルニケを伴ってカイサリアに来ていたのでした。このアグリッパ(二世)の父親のアグリッパ(一世、使徒一二・二〇〜二三のヘロデ)は、三人の領主に分割されていたヘロデ大王の領地をローマの支援で回復し、「ユダヤ人の王」となっていました。その急死(44年)により再びローマ属州となっていたその領土を、このアグリッパ(二世)はローマとの友好関係によりこの時にはほとんど回復していました。したがって、実質的にこのアグリッパがこの時の「ユダヤ人の王」という立場でした。
 
 ルカは、総督フェストゥスが表敬訪問したアグリッパにパウロの事件を持ち出して、パウロがアグリッパの前で弁明するようにした経緯を詳しく描いています(使徒二五・一三〜二七)。その記事にも、パウロがローマ帝国の秩序を乱す者ではないことをローマ総督のフェストゥスが認めているという、ルカの護教論的意図が出ています(使徒二五・一八、二五)。また、フェストゥスは上訴の理由を明らかにするためにアグリッパによる取り調べが必要だとしていますが、すでに上訴を認めておきながら、後でその理由を調べるというのは矛盾しています。しかし、ルカは「王と総督の前での証し」(ルカ二一・一二、マルコ一三・九)の場面を大使徒パウロの生涯の最後に置きたかったので、このように総督フェストゥスがアグリッパ王にパウロの事件を聞かせた経緯を詳しく物語ったと考えられます。そういえば、イエスの裁判でも総督ピラトがイエスをヘロデ王(当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス)のもとに送ったとしているのはルカ福音書(二三・六〜一二)だけでした。ルカには、イエスの裁判とパウロの裁判を並行関係で描こうとする意図が見られます。

 アグリッパが同伴したベルニケは、アグリッパ(一世)の娘で、このアグリッパの妹になります。彼女は二度目の結婚を解消して、兄アグリッパのもとに帰り、彼と同棲します。アグリッパはいつも彼女を伴い、二人の関係は近親相姦と噂されるようになります。ルカがパウロの裁判にドルシラとかベルニケのような女性の名をあげるのは、裁判をする側に問題があることを示唆するためかとも思われます。 

 第四節 ローマへの護送とパウロの殉教

ローマへの航海

 パウロを聴取する部屋から退場したアグリッパ王と総督フェストゥスは、パウロが死刑や投獄に当たるようなことはしていないと語り合い、アグリッパは「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言います(使徒二六・三〇〜三二)。ここでも、総督と王の両方からパウロの無罪が確認されます。その上で、パウロが皇帝へ上訴したのでパウロのローマ行きが実現したことが、神の御計画の実現として物語られます。パウロにとって、そしてルカにとっても、裁判の行く末よりも、福音が使徒パウロによってローマに到達することが重要なのです。
 
 ルカは、使徒言行録の最後の二章(二七〜二八章)でカイサリアからローマへの航海を詳しく物語っています。この部分も「われら章句」となっており、「著者」がこの航海を体験したこととして伝えています。その航海の記事は詳細で、航路、寄港地、船籍など航海の基本的な事項だけでなく、船首の飾り、風の名称、浅瀬の名称、乗員の人数に至るまで具体的に記録されています。その詳細な航海記を講解することは使徒言行録の注解に委ね、ここでも出来事の大略をたどるにとどめざるをえません。
 
 まず、パウロを含む数人の囚人を護送する「皇帝直属部隊の百人隊長」がユリウスという名の隊長であることが紹介されています。この百人隊長ユリウスはこの航海で重要な役割を果たすことになるからです。ユリウスは、指示を受けていたからか、またはパウロへの敬意からか、パウロを特別扱いして親切に扱います(使徒二七・一、三)。
 
 カイサリアを出港したパウロたちの船は、シドンに寄港し、その後キプロス島の北を西に航海し、ミラに着きます。ここでアレクサンドリアからイタリアに向かう船(おそらく大型の穀物運搬船)に乗り換え、西に向かいますが、風向きが悪くて航海は予定通りに進まず、ようやくクレタ島中央部南岸の港に着きます。この時すでに断食日(大贖罪日の前の五日間の断食日、十月始め)も過ぎていたので、パウロは航海の危険を警告しますが、さらに越冬に適した港を求めて、船はクレタ島西部に向かって出港します(使徒二七・一〜八)。
 
 ところが、突然この海域特有の暴風に襲われ、船はクレタ南方の小島の浅瀬に吹き寄せられ、そこで(難破を避けるために)積み荷や船具まで投げ捨て、その後十四日間アドリア海を漂流します(この場合のアドリア海とはシチリア島とギリシア南端のペロポネス半島の間の海域を指します)。「助かる望みが全く消え失せようとした」とき、パウロは神からの天使が全員助かると告げたと言って、神を信じるように励まします。十四日目には、漂流の間なにも食べなかった人々に食事を取るように励まします。この暴風による漂流と遭難のときの出来事(使徒二七・一三〜三六)は、とくに具体的に生き生きと描かれており、そのような極限的な状況にあっても、使徒が神への信頼にしっかりと立ち、人々を励まし、状況を乗り切る英雄として描かれます。このようなパウロを描くルカの念頭には、ガリラヤ湖での嵐の中で平然としておられたイエスの姿があったことでしょう。
 
 
 

マルタ島での出来事

 陸地が近いことを察知して、全員が食事を取った後穀物を投げ捨てて船を軽くし、陸地に乗り上げる作業に入ります。ところが、船は浅瀬に乗り上げ、船尾が壊れてしまいます。ローマの兵士たちは囚人が泳いで逃げることを恐れて殺そうと図ります(囚人を逃がした兵士は処刑されます)。百人隊長ユリウスはパウロを助けるために、その計画を制止します。もしユリウスが制止していなければ、パウロも殺され、ローマ入りの願いは目前で破れたことになります。ここではローマの百人隊長が神の器として用いられています。彼の指揮で全員が無事に上陸します。こうして、パウロが伝えた神の言葉が実現します(使徒二七・三九〜四四)。
 
 一同が上陸した陸地はマルタ島(シチリア島南方80キロほどの小島)でした。島の住民は遭難者たちを親切にもてなします。寒さをしのぐためにたき火をしたとき、パウロがくべようとした枯れ木の束から蝮が出てきてパウロの手にからみつきます(咬んだとは書かれていません)。それを見た住民は、「この人は人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」と言いますが、パウロが蝮を振り落として何の害も受けないのを見て、「この人は神様だ」と、パウロを見直します。島の長官の父親の熱病を祈りによって癒したことが機縁となり、多くの病人を癒し、この島で伝道の働きをします。こうして、パウロ一行はマルタ島で越冬し、三ヶ月を過ごすことになります(使徒二八・一〜一〇)。

 先に見たように、フェストゥスの着任が五九年夏であれば、この航海は同年秋に始まり、その年の冬をマルタ島で過ごし、翌六〇年にローマ入りしたことになります。 


パウロのローマ到着

 春が来て船便が再開されたとき、パウロの一行は越冬していたアレクサンドリアの船に乗り、マルタ島を出て、シチリア島のシラクサに寄港し、イタリア半島南端のレギオンに立ち寄り、さらに二日北へ航海してプテオリ港(現在のナポリの近く)に到着します。当時プテオリはローマの南港で、東と南から来る多くの船はここで積み荷を降ろしました。パウロはここで「兄弟たち」を見つけ、請われて七日間滞在します。ここでも百人隊長ユリウスの特別の配慮がうかがわれます。プテオリは、パウロがイタリアで最初にキリスト者の集会に出会った土地になります(使徒二八・一一〜一四)。
 
 パウロ一行はプテオリから(約一八〇キロ西北の)ローマへ徒歩で向かいます。まず少し北のカプアに出て、そこからアッピア街道を西北上します。ほぼ五日の道のりです。ローマの兄弟たちはパウロのイタリア到着を伝え聞き、二組になってパウロを出迎えに来ます。一組はまずローマから二日路ほどのフォルム・アッピイまで来ます。次の組は、少しローマ寄りのトレス・タベルネまで来ます。その中には、ローマ書一六章の挨拶に記されていた名前の友人たちが多くいたことでしょう。ローマの兄弟たちに会ったパウロの喜びはどれほど大きかったことでしょうか(使徒二八・一五)。
 
 パウロはついに帝国の首都ローマに入ります。「われら章句」はここまで続いています。「著者」はパウロと一緒にローマに入ります。パウロが長年祈ってきたローマ入りがついに実現します。自分が願っていた形ではなく、未決の囚人としローマに入ることになりますが、壮麗な都を見たときのパウロの感慨はどれほど深いものがあったことでしょうか。パウロは、番兵一人をつけられてはいますが、自分だけで住むことを許されます(使徒二八・一六)。
 
 
 

ローマでのパウロ

 ローマに到着して三日後に、パウロはローマのユダヤ人会堂の代表者たちを招いて、自分の立場を弁証します。裁判では、ユダヤ人側からの告発も受けなければなりません。パウロは彼らに自分の立場を理解してもらうための努力をします。パウロはまず自分が生粋のユダヤ教徒であることを訴えます。彼らに「兄弟たちよ」と呼びかけ、律法を順守する点で何の落ち度もないことを強調します。それにもかかわらずエルサレムのユダヤ人たちが自分を捕らえてローマ人に引き渡し、ローマ側は無実を認めて釈放しようとしたのに反対したので、ローマ皇帝に上訴せざるをえなくなった事情を訴え、それはユダヤ人を告発するためではないことを強調します。最後に、自分が囚人であるのはイスラエルが共有している希望(メシア時代到来の希望)のゆえであるとして、彼らを味方につけようとします(使徒二八・一七〜二〇)。
 
 このパウロの弁証にもルカの護教的動機が色濃く出ていて、(他のパウロの演説と同様)ルカの作品であることをうかがわせますが、この弁証に対するユダヤ人の返答も不自然の感じを否めません。ユダヤ人代表は、パウロについてはエルサレムから公式にも非公式にも何の連絡も受けていないと言っていますが、パウロの活動についてはすでに長年ユダヤ人の間で大問題になっていました。それに、ローマにはすでにイエスを信じる者たちの群れに多くのユダヤ人が含まれ、ユダヤ人会堂とは激しい紛争を引き起こしていました。そのために49年のローマからのユダヤ人追放令が出されたのでした。それにもかかわらず、自分たちは何も聞き及んでいないからとして、直接パウロから話を聞く日取りを決めて、ユダヤ人が大勢でパウロの宿舎にやって来たとするのは、帝都ローマで最後にパウロの宣教を締め括る場面を置こうとしたルカの構成ではないかと考えられます(使徒二八・二一〜二三)。
 
 集まった大勢のユダヤ人に向かって、パウロは朝から晩まで「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言の書を引用して、イエス(がメシア・キリストであること)について説得しようとした」と、ルカは書いています(使徒二八・二三)。これはパウロの福音宣教の要約です。パウロが宣べ伝えることを聴いたユダヤ人は二つに割れます。ある者はパウロの福音を受け入れますが、他の者たちは信じようとしませんでした。彼らが立ち去ろうとしたとき、パウロはイザヤ(六・九〜一〇)の預言を引用し、ユダヤ人全体が不信仰の民であるとして、神の救いが異邦人に向かうと宣言します(使徒二八・二四〜二八)。
 
 これはパウロの宣教活動に関するルカの典型的な要約です。ルカは使徒言行録で繰り返しパウロの福音宣教の働きを描いてきました。パウロは地域の代表的な大都市(特に州の首都)のユダヤ人会堂に入って、まずユダヤ人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えます。ところが、信じるユダヤ人は僅かで、大多数のユダヤ人たちはイエスを信じないで、パウロに敵対し、騒乱を起こしたりするので、パウロは異邦人に福音を語るようになるというパターンです。ルカは、パウロの活動の最後の場面で同じパターンを用います。最後は帝国の首都でこのことが起こります。同胞ユダヤ人に最後まで忠実にキリストの福音を伝えたパウロは、ユダヤ人の不信によって異邦人に向かうことになり、その結果「異邦人(諸国民)への使徒」としての召命を果たすことになります。今や諸国民の首都でこのことが起こった場面を描いて、ルカはパウロの福音活動の締めくくりとします。
 

パウロの最後についてのルカの記述

   ルカは使徒言行録を「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒二八・三〇〜三一)という文で終えています。この文がどれだけローマでのパウロの事実を伝えているかを確認することは、他に資料がないので困難です。重大事件で皇帝の裁判を受けるために護送された囚人が、このように「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝える活動が二年間も続けられるとは、想像するのが難しいことです。エフェソの獄中であれだけの手紙を書いたパウロが、この時期には手紙など活動の痕跡を全然残していない事実は、むしろ逆にパウロが厳しい状況に置かれていたのではないかと想像させます(パウロ書簡の中の「獄中書簡」や牧会書簡がローマで書かれたとは見られないことについては、それぞれの書簡を扱うときに触れます)。
 
 ローマでのパウロの様子がルカの報告からは確認できないこと以上に困難な問題は、ルカがなぜここで記述を打ち切ったのか、その理由が分からないことです。ルカは裁判の結果やパウロの最後の様子を知っているはずです。それを伝えないで、なぜここで彼の著作を打ち切ったのか、その理由や動機が様々に推測され、多くの議論がなされていますが、確かなことは分からないという他はありません。
 
 なぜ裁判が二年間も行われなかったのか、その間パウロはどのような処遇を受けたのか、裁判の結果は有罪となりパウロは処刑されたのか、または無罪釈放されて念願の通りにイスパニアまで伝道に赴いたのか、このような最も重要な結末が分からないのです。パウロの最後について触れる資料も僅かにありますが、確実な報告ではありません(後述)。やはりパウロの最後を知っているはずのルカの著作から推測するのが、もっとも確かな手がかりになります。
 
 ルカの記述を見ますと、とくにパウロの最後のエルサレムへの旅を描く部分を見ますと、ルカはパウロがローマで殉教の死を遂げたことを知っていると推察させます。先に「エルサレムへの最後の旅」の項で見たように、パウロは献金を届けるためにコリントを出発してエルサレムに向かう旅の途中で、マケドニア州(テサロニケやフィリピ)とアジア州(トロアスやエフェソ)の自分が建てた諸集会と会って別れを告げていますが、その情景は最後の別れを惜しむものとして描かれています。ミレトスでのエフェソ集会の代表者たちとの別れの場面が典型的です(使徒二〇・一七〜三八)。ルカは、パウロ自身がはっきりと「自分の顔をもう二度と見ることはあるまい」と言ったと書いています。その通りにならなかったことをこのように断定的に書くとは考えられませんので、ルカはこの旅がパウロの生涯の最後の旅となったことを知っていると推察せざるをえません。
 
 では、その最後を知っているのに、なぜそれを書かなかったのかという問題が残ります。それは、ルカの著作全体を貫く護教的動機から説明できます。ルカはいつも、この新しい信仰がローマの秩序に反するものではないことを強調しています。とくにローマの官憲との関わりを描くときには、彼らがパウロに好意的であった面を強調する傾向があります。ローマの総督たちはパウロが無罪であることを知っていたと書いています。それで、最高権力者である皇帝がパウロに有罪判決を下したことは書かずに、パウロが首都ローマでも「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝えることができたという記述で終わり、その後のことは読者がその線の延長上でパウロの生涯を思い描くようにしたのではないかと推察させます。ルカにとっては、キリストの福音が異邦人への使徒パウロによって、諸国民の帝国の首都ローマにまでに到達したことを描けば、著作の目的は達せられたのです。
 
 この推察は、ルカの著作の基本姿勢から見て根拠があると考えられますが、逆の場合を推察することは困難です。すなわち、パウロが無罪釈放されてイスパニアまで伝道したことを知っているのであれば、自分の主張を裏付けるのに最も有力な根拠となる皇帝からの無罪判決を報告するのを避けた動機を説明することはできません。ここまで書いてルカが急死したとか、第三の著作を書く予定であったというような偶然に頼る説明しかできないことになります。
 
 使徒言行録の他にパウロの最後について言及していると見られる文書に、97年頃にローマの集会からコリント集会にあてて書かれた「クレメンスの手紙」があります。その手紙(五・七)にパウロについて、「彼は全世界に義を示し、西の果てにまで達して為政者たちの前で証しを立てた。かくしてから世を去り、聖なる場所へ迎え上げられた」という記述があります。この「西の果て」がイスパニアを指すとして、この時の裁判では釈放されたとする解釈もありますが、それがローマを指すことも十分可能であり、「為政者たちの前で証しを立てた」という表現はむしろ殉教を示唆するともとれます。むしろ、この手紙の言及以外に、この時以後のパウロの活動について触れるものがほとんどないという事実が、この時の殉教を示唆しています。
 
 

ネロの裁判による殉教

   次に、パウロを裁いた側の事情を見てみましょう。パウロが上訴した皇帝はネロ帝でした。ネロは54年から68年まで在位していますから、パウロが上訴した60年(プラスマイナス一年を見越しても)には皇帝在位の中頃でした。ネロは後に暴君として有名になりますが、それは晩年の行動から出た評判で、在位の前半ではセネカらの優秀な補佐官に支えられた有能な統治者でした(セネカは62年に引退)。パウロが上訴した時期のネロが、怠慢とか無能とか無関心で裁判を放置したとは考えられません。むしろ、(ユダヤとローマとの距離などを考えると)告発する側の準備に時間がかかったと見るべきでしょう。

 パウロが上訴した時、セネカという有名なローマの哲学者がネロの補佐官であったことから、パウロとセネカの間に書簡のやりとりがあったとして、後にセネカがパウロを高く評価しているとする「パウロとセネカとの間の往復書簡」なる文書が流布するようになります。これは三〜四世紀にラテン語で書かれたもので、この時の裁判の資料にすることはできません。しかし、皇帝妃の介入(後述)などを示唆する箇所など、参考になる部分もあります。 

 ネロは熱烈なギリシア文化の賛美者で、ギリシア風の競技会を催し、ローマの貴族階級に詩作や竪琴演奏を競わせ、ついに64年のナポリでの競技会には自ら出演します。ところが、その直後にローマに大火があり、それは自分が計画した黄金宮殿を建設するためのネロの仕業だという民衆の噂が広がります。噂を消すために神々を祀る祭儀を行いますが、それも不成功に終わったので、当時民衆からローマの祭儀に参加せず「人類への憎悪」を抱く輩とされていたキリスト教徒の仕業だとして、ネロはローマのキリスト教徒を放火犯として逮捕し、十字架につけ、生きながら焼くという残酷な仕方で処刑します。この衝撃的な出来事はキリスト教徒の記憶に深く刻み込まれ、ネロは最初にキリスト教徒を迫害した皇帝として、またキリストに敵対する者(反キリスト)の原型として繰り返し言及され、史上もっとも「悪名高き皇帝」となります。
 
 この事件で注目されるのは、ネロがキリスト教徒をユダヤ教徒から正確に区別して扱っていることです。先にクラウディウス帝のとき、ローマのユダヤ人の間でキリスト信仰をめぐる紛争があったとき、クラウディウスはユダヤ教徒もキリスト教徒も区別しないで、ユダヤ人をすべてローマから追放しています(49年)。54年にクラウディウス帝が没しネロがその後を継いだとき、ネロは追放令を継続せず廃止しています。その結果ローマには再びユダヤ人が多くなりますが、ユダヤ人が追放されている間にキリスト教徒の群れがユダヤ教徒とは別の教団として歩むようになっていたことは事実です。しかし、その区別を皇帝が正確に知って、キリスト教徒を放火犯として告発し処刑するには、宮廷にその区別を教える者がいなければなりません。それを教えたのは、(パウロを告訴したユダヤ人ではなく)皇帝妃ポッピアではないかと見られます(ギボン)。
 
 ポッピアはネロの寵愛を受けた宮廷の女性で、ネロに大きな影響力をもっていました。ネロはついに62年に正妻オクタヴィア(クラウディウスの娘)と離婚し、ポッピアと結婚します。この皇帝妃ポッピアは、ヨセフスによると「神を敬う者」、すなわちユダヤ人ではないがユダヤ教に帰依している者であるとされています(『古代誌』二・一九五)。事実、ポッピアはヨセフスを保護し、ユダヤ人のためになるように影響力を行使しています。このポッピアからネロがユダヤ教徒とキリスト教徒の区別を教えられた可能性は高いと考えられます。

 ネロについては、塩野七生『ローマ人の物語Z・悪名高き皇帝たち』の「第四部 ネロ」を参照してください。ポッピアについては、『聖書外典偽典6』(教文館)449頁にある「セネカとパウロの往復書簡」につけられた注5を参照してください。なお、この書では「ポッパイア」と表記されています。 

 パウロやペトロのローマでの殉教は、64年のキリスト教徒迫害の時だとされることもありますが、パウロの処刑とこの大火によるキリスト教徒の処刑との間には直接の関連はないと見られます。パウロはローマに到着してから二年間拘留されていたとするルカの報告は、その二年後に何らかの決定があって状況が変わったことを示唆しています。先に見たように、その時に有罪となって処刑されたのであれば、パウロの死は64年大火の二年前の62年になります。この年にはポッピアがネロの妃になっていますから、ネロはユダヤ教徒とキリスト教徒との区別は知っていたでしょう。しかし、この時はまだキリスト教徒であることが有罪の理由とされることはありえません。パウロが告訴されたのは、これまでしばしばあったように、ユダヤ人に間に引き起こした騒乱の罪、皇帝に対する謀反の罪であったはずです。
 
 カイサリアにおける二人の総督へのユダヤ教側からの告発は成功しませんでした。しかし、ローマでの裁判ではユダヤ教側からの告発は効を奏し、パウロを有罪へと追い込んだと見られます。そのことについて、ユダヤ人に同情的な皇帝妃ポッピアのネロへの影響力が行使されたのかどうかは確認できませんが、ありうることと想像できます。
 
 パウロは、イエスの場合と同じく、ユダヤ教に対する冒涜者としてユダヤ人から憎まれ、ローマへの反逆者として訴えられて、ローマの権力によって処刑されるという死を遂げます。この死は、イエス・キリストの御名を告白すること自体が罪とされて処刑されるという意味の「殉教」ではありませんが、やはりキリスト信仰の故に死ぬという広い意味で「殉教」には違いありません。パウロは、主イエス・キリストの僕として、死に至るまでキリストに仕えます。世界の諸国民にキリストの福音をもたらした偉大な「異邦人への使徒」パウロは、殉教の死によってその使徒としての生涯に証印を刻み込みます。
 


前章に戻る    次章に進む

目次に戻る   総目次に戻る