パウロによるキリストの福音 II

 終章 諸国民への使徒パウロ



 はじめに ―― 「コンテキスト」について

 この「パウロによるキリストの福音」シリーズも、第3巻の本書で使徒パウロの生涯の最後、ローマでの殉教というところまで来ました。ここで、このシリーズの主題である「パウロによるキリストの福音」の内容をまとめなければなりませんが、幸いなことにその内容はパウロ自身がまとめています。すなわちローマ書です。ローマ書は、結果としてパウロの最後の著作となり、パウロの「遺言」となりました。ローマ書は、「パウロによるキリストの福音」を世界に提示する「福音書」となっています。それで、「パウロによるキリストの福音」の内容をまとめるという課題は、続いて刊行する予定の「ローマ書講解」という形で果たすことになります。
 
 ここでは、パウロの生涯を振り返って、その生涯と働きの全体がどのような意味内容をもっているのかをまとめて、このシリーズを締め括る「終章」とします。それをするためには、パウロの生涯とその働きを、このシリーズでしたよりももっと大きなコンテキストに置いて観察しなければなりません。そこで、この「もっと大きなコンテキストに置く」とはどういうことかを、始めに手短かに解説しておきます。
 

 

コンテキスト

 「キリストの福音」は神と人間との関わりという永遠の次元、霊的次元の現実です。しかし、それが「パウロによる」福音となるとき、その福音の担い手であるパウロによって歴史的コンテキストに置かれることになります。パウロは歴史的な存在、すなわち、ある特定の歴史的状況の中に生きた人間だからです。パウロの生涯とその働き、またパウロの手紙による発言は、それが置かれている歴史的コンテキストによって、その意味内容が決まります。
 
 「コンテキスト」とは、出来事や発言の起こった状況とか他の出来事との関連を指しています。「コンテキスト」という語は、文章を扱う場面では「文脈」と言われます。ある発言や文章が、どのような関連の中で言われているのか、どのような前後関係の中で言われているのかが「文脈」です。歴史的な出来事を扱う場合は適当な訳語が見当たりませんので、さしあたり「コンテキスト」という英語をそのまま用いることにします。「関連」とか「状況」が近いように思われますが、意味が限られる面もあります。
 
 「コンテキスト」とは、もともとラテン語の「一緒に織り込む」、「共に編み込む」または「編んで(織って)一つにする」というような意味の語から来た語で、言葉や出来事がその中に編み込まれている(織り込まれている)前後関係とか状況を指します(ラテン語でコンは一緒にという意味で、テキストとはもともと織物のことです)。ある出来事や発言の意義と内容はコンテキストによって決まるので、その出来事や発言を理解するためには、そのコンテキストを確認することが決定的に重要な作業になります。
 
 たとえば、「彼は眠っている」という発言を取り上げてみましょう。この発言が日常生活の場でなされたものであれば、「彼は眠っている」のだから、周囲の者に静かにするようにという命令の意味を持っていることでしょう。教室とか講演会での発言であれば、真面目に聞いていないという非難の意味を持つ言葉となります。肉親が死んだことを嘆いている場所でイエスが「彼は眠っているのだ」と言われるとき、それは「彼は死んだのではない。やがて目覚めるのだ」という復活の約束の言葉になります。このように、同じ発言でも、それが置かれたコンテキストによって意味が大きく違ってきます。
 
 今回、この「パウロによるキリストの福音」シリーズでは、パウロ書簡の内容を理解するために、その書簡やその中の特定の言葉が置かれているコンテキストを明らかにする努力をしてきました。まず書簡そのものが置かれているコンテキストを明らかにするために、パウロの生涯と働きをたどりながら、各書簡をそれが書かれた場所に置いて講解しました。もともと複数であった書簡が編集されて一つの書簡にまとめられている場合(コリント第二書簡やフィリピ書簡)には、それぞれの元の書簡に分けて講解したのも、それぞれの部分をより適切なコンテキストに置くためでした。ある方から「君の講解は伝記的講解だね」と評されましたが、それは各書簡のコンテキストを明らかにするための方法が「伝記的講解」の様相を取るようにさせたのです。
 
 また、各段落と個々との文章を理解するために、その段落なり文章が書かれた状況を明らかにするように努めました。その状況は、書き手と読み手の両方の状況、及び両者の関わり方の性質などを含み、そのコンテキストは複雑な様相をもつ場合が多いようです。したがって、そのコンテキストをいつも正確に知ることは困難です。時には、テキストからコンテキストを推察しなければならない場合もあります。
 
 今回の「パウロによるキリストの福音」シリーズでは、各書簡と個々の文章のコンテキストを明らかにすることによって、パウロ書簡のテキストをできるだけ正確に理解し、その作業を通してパウロが宣べ伝えた「キリストの福音」とはどういう内容であるのか、どういう事態であるのかを追求してきました。それがどれほど成功しているかは、読者諸氏の判断に委ねなければなりませんが、そのように努力はしてきたつもりです。
 
 このシリーズの各巻では、各書簡や個々のテキストを理解するために、その書簡や個々の文が書かれた状況を明らかにする努力をしましたが、それは「直接のコンテキスト」を確認する作業でした。最後にこのシリーズ全体をしめくくる「終章」では、パウロの生涯とその働きの全体を「もっと大きなコンテキスト」に置いて、その意義を見たいと思います。
 
 歴史的出来事のコンテキストは重層的です。一つの出来事の意味を決めるコンテキストは、その出来事が起こる直接の状況を示すごく狭い範囲のコンテキストもあれば、もっと大きな範囲で見なければならないコンテキストもあります。たとえば、日米開戦という出来事は、外交交渉の失敗という直接のコンテキスト、経済的利害の衝突という次元の(中間的な規模の)コンテキスト、欧米列強の植民地支配に対するアジアの解放運動の流れという大きな規模のコンテキストに置いて観察することができます。歴史的出来事には、規模(視野)の大小とか次元の浅深が異なる様々なコンテキストが層をなして重なっています。
 
 さらに、歴史的出来事のコンテキストは動的です。静止し固定したコンテキストではなく、時と共に変化する流動的な様相をもっています。たとえば、ある経済問題を日米関係というコンテキストで見る場合でも、日米関係は年々変わっていきますから、その変化の中で日米関係というコンテキストを問題にしなければなりません。今年の日米関係は去年とは違います。その変化がどの方向を向いているかも重要なコンテキストです。
 
 パウロの場合、「もっと大きなコンテキスト」とは何でしょうか。まず、パウロは初めから終わりまでユダヤ教徒として行動し、その生涯を終えています。ユダヤ教というコンテキストでパウロの生涯と働き全体を見る必要があります。まず第一節「ユダヤ教徒パウロ」でこれを見ます。
 
 そして、パウロは「異邦人への使徒」として働き、その生涯を燃焼したのですから、広くユダヤ人以外の諸民族との関連で見なければなりません。世界の諸民族の歴史との関連で見るとき、パウロがどのような意義をもつのかを見ることになります。大げさに言えば、世界史という大きなコンテキストに置いてパウロを見るということです。これを第二節「諸民族の中のパウロ」で見ます。



 第一節 ユダヤ教徒パウロ


   パウロとユダヤ教

死ぬまでユダヤ教徒

 パウロはユダヤ人の両親から生まれ、八日目に割礼を受けた「生まれながらのユダヤ人」です。成人してからユダヤ教に改宗してユダヤ人になったのではありません。彼の家族が属していたベニヤミン族から出た初代の王サウルにちなんで、サウロと名付けられていました。彼はタルソに住むディアスポラのユダヤ人家族の一員でしたが、若い時からエルサレムで高度な律法教育を受け、ファリサイ派に属する律法学者であり、ユダヤ教への熱心さでは他の同輩のユダヤ教徒よりも抜きん出ていました。パウロは晩年にも、このようなユダヤ教徒であることを誇りをもって自覚しています(フィリピ三・五〜六)。
 
 ダマスコ体験以前のユダヤ教徒パウロの姿は、このシリーズ第一巻『パウロによるキリストの福音T』の第一章「ユダヤ教徒パウロ」で見ました。しかし、ダマスコ途上で復活者イエスに遭遇するという体験をした後も、ユダヤ教から離れ、ユダヤ教徒であることを止めたわけではありません。あくまでユダヤ教徒として生き、最後までユダヤ教徒であり続けました。その死もユダヤ教徒であるがゆえの死です。パウロのユダヤ教の在り方が、生かしておくわけにはいかないユダヤ教徒として、周囲のユダヤ教徒から憎まれたからです。
 
 このように死に至るまでパウロはユダヤ教徒であったのですから、パウロの生涯とその働き、そしてパウロの信仰とか思想も、ユダヤ教というコンテキストで見なければなりません。すでにこのシリーズの各巻で、書簡を資料にして、パウロの福音がいかに深くユダヤ教の土壌に根ざしているか、また同時にパウロのユダヤ教がいかに当時のユダヤ教と激しく対立するものになっていたかを見てきましたが、ここでそれをパウロの生涯の全体についてまとめておきましょう。その前に、パウロの生涯のコンテキストを形成するユダヤ教がどのようなユダヤ教であったのか、その特質を一瞥しておきます。
 

 

ヘレニズム・ユダヤ教

 当時のユダヤ人(ユダヤ教徒)は、「イスラエルの地」と呼ばれるパレスチナに住むユダヤ人と、異邦諸国の大都市にユダヤ教共同体を作って住むディアスポラ(離散)のユダヤ人との二種類がありました。パレスチナに住むユダヤ人はアラム語を用いるユダヤ人ですが、ディアスポラのユダヤ人はヘレニズム世界の共通語であるギリシア語を用いていました。しかし、パレスチナか離散の地かという居住地の区別は必ずしも使用言語の区別と重なっていません。パレスチナに住むユダヤ人も、上層階級にはギリシア語を用いるユダヤ人が多かったからです。庶民はほとんどシリア地域の共通語であるアラム語を用いていました。
 
 パウロはディアスポラのユダヤ人家庭に生まれ育った者として、ギリシア語を母語として育ち、ギリシア語で初等教育を受けていました。当時のユダヤ人の通例として、サウロというヘブライ名だけでなく、パウロというギリシア名も持っていました。しかし、若い時からエルサレムで律法を学び、その言語であるヘブライ語と日常語であるアラム語にも十分通じていたはずです。このバイリンガル(二国語)の状況が、パウロの働きと思想の両面で重要なコンテキストになります。
 
 パウロの時代のユダヤ教は、ギリシア思想の影響を深く受けたユダヤ教、ヘレニズム・ユダヤ教になっていました。前四世紀のアレクサンドロスの東征と彼の融合政策によって、オリエント諸国にギリシア文化が浸透し、オリエントの宗教と文明がギリシア語とギリシア思想とによって深く影響され変容しつつありました。いわゆる「ヘレニズム時代」の到来です。ユダヤ人も例外ではなく、パレスチナにギリシア風の都市が建設され、ギリシア語による教育も行われるようになり、その生活にギリシア的な面が強くなります(たとえば、この時代のユダヤ人にはギリシア風の名前をもつ者が多くなります)。しかし、前二世紀中頃にパレスチナを支配していたヘレニズム王朝セレウコス家が、そのヘレニズム化政策をユダヤ人の宗教にまで及ぼし、神殿に異教の偶像を置いたり割礼を禁止するなど、ユダヤ教そのものを禁圧しようとしたとき、ユダヤ人は猛烈に反発して武力闘争に立ち上がり、ついに神殿を回復し、ユダヤ教の伝統を守ります。このマカベア戦争以後は、ユダヤ教の大祭司が同時に国を支配する王を兼ねる体制を形成し(ハスモン王朝)、ユダヤ教の伝統は護持されることになります。
 
 しかし、このヘレニズム化に反対するユダヤ教徒の抵抗も、ヘレニズムという時代の共通の場で行われたことから、ユダヤ教は戦う相手から深刻な影響を受け、以後のユダヤ教はギリシア思想の刻印をきわめて強く受けることになります。たとえば、このヘレニズム化に反対したユダヤ教伝統主義者たちは「ハシディーム」(敬虔な者たち)と呼ばれていましたが、この「ハシディーム」からエッセネ派とファリサイ派が起こります。ファリサイ派はユダヤ教の伝統を現実の生活の中で実行しようとする運動ですから、古来の律法規定(モーセ律法)を時代の状況で解釈します。その解釈が蓄積されて口伝伝承となり、成文律法と同じ権威をもつユダヤ教の内容となります。したがって、ファリサイ派のユダヤ教は時代の影響が強く見られ、ギリシア思想の諸原理が暗黙の前提となっている場合が多くなります。たとえば、律法を守るのも、イスラエルの救いと栄光のためだけでなく、個人が永遠の命を受けるためのものとなるのは、ギリシアの人間観とか死後観の原理に立っていると言えます。本来のヘブライの宗教は、イスラエルの民が地上で栄光を受けることを主題とするものです。
 
 パウロは、ディアスポラのユダヤ人としてユダヤ教とギリシア文化の両方を身につけていただけではなく、パウロが熱烈に追求したユダヤ教そのものが、ファリサイ派ユダヤ教としてきわめて強くヘレニズム化したユダヤ教であることを見落としてはなりません(このことの意義は後で触れることになります)。

 ユダヤ教とヘレニズムの関係は巨大な問題で、簡単に要約することはできません。この問題については、ヘンゲルの大著『ユダヤ教とヘレニズム』(長窪訳、日本基督教団出版局)、同じくヘンゲルの『ユダヤ人・ギリシア人・バルバロイ―聖書中間時代のユダヤ人』(大島訳、ヨルダン社)を参照してください。さらにディアスポラのユダヤ教だけでなく一世紀のパレスチナのユダヤ教もヘレニズム化していたことは、M.Hengel, The 'Helenization' of Judaism in the First Century after Christ を参照してください。ファリサイ派については、拙著『パウロによるキリストの福音T』46頁「先祖からの伝承」の項を参照してください。なお ファリサイ派が強くギリシア思想の影響を 受けていることについては、 Interpreter's Dictionary of the Bible, supplementary volume にある E. Rivkin, PHARISEES の項目、および J・ニューズナー『イエス時代のユダヤ教』(教文館)89頁の「ヘレニストとしてのパリサイ派」の項がよく要約しています。パウロがエッセネ派からも影響を受けていたと見られることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』53頁の「エッセネ派の影響」を参照してください。 

回心後のパウロとユダヤ教

 このようなファリサイ派ユダヤ教の熱烈な信奉者であり、その派の律法学者として指導的な立場にあったパウロが、ダマスコ途上で復活者イエスに遭遇して、イエスの敵対者から仕える者にひっくり返ります。この体験はパウロの「回心」と呼ばれますが、それは決してユダヤ教を捨てて他の宗教に改宗したのではありません。パウロは死ぬまでユダヤ教徒のままです。ユダヤ教の中にあって、イエスに対する関係が正反対になったのです。この体験の後では、パウロにおいてユダヤ教はどのようなものになったのでしょうか。この体験はパウロのユダヤ教との関係をどのように変えたのでしょうか。
 
 回心後もパウロはユダヤ教徒です。パウロはユダヤ教の基本信条である「神は唯一である」ことを、一瞬も疑ったことはなかったでしょう。その神が天地を創造し、アブラハムを選んでその子孫を自分の民とし、その民イスラエルに律法(モーセ律法)を与え、最終的にイスラエルを救うだけでなく、そのことによって世界をも救済完成してくださることを疑ったことはなかったでしょう。パウロはユダヤ教の基本的な信仰内容である唯一神信仰とイスラエルを中心とする救済史信仰をしっかりと継承しています。
 
 では、なぜパウロは彼の時代のユダヤ教徒から殺されるほど憎まれたのでしょうか。その理由を理解するために、まず当時のユダヤ教社会においてイエスをメシア・キリストと宣べ伝える運動がどのように扱われたかを見てみましょう。
 
 イエスの弟子であったペトロたち数人のガリラヤ人がエルサレムで、神は十字架につけられたイエスを復活させてメシア・キリストとしてお立てになったと宣べ伝えたとき、自分たちが有罪を宣告してローマ人に引き渡したイエスをメシアと公言する者たちを、ユダヤ教指導層が圧迫したのは当然です。しかし、彼らがユダヤ教徒として律法を守って生活している限り、逮捕して裁判にかけるというような弾圧はしませんでした。当時のユダヤ教社会では、誰か一人の人間をメシアとすることは死にあたる罪ではありませんでした。事実、そのような事例はしばしばあったようです。最高法院は彼らを放置する方針をとります。このような事情は、使徒言行録の最初の五章(とくに五・三三〜四〇)の記述から十分うかがえます。
 
 ところが、イエスをメシアと告白するエルサレムのユダヤ教徒の一部の者たちが、「聖なる場所」(神殿)と「律法」(モーセが伝えた慣習、モーセ律法)を批判している(汚している)とされて、周囲のユダヤ教徒から激しく非難されるにようになるに至って、状況が変わります。神殿やモーセ律法を汚すことは神を汚すこととして死罪に相当します。このグループの一人であるステファノが逮捕されて殺されます。裁判の判決があったのかどうかは確かではありませんが、激昂したユダヤ教徒たちによって石打にされて殺されたと伝えられています。そして、このグループのユダヤ教徒は激しく追及されてエルサレムから追い散らされます。このような新しい状況は使徒言行録の六〜七章に見られます。
 
 このように迫害されてエルサレムから追われたのはヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を用いるユダヤ人)のキリスト教徒でした。使用言語の違いから、エルサレムのユダヤ人会堂はヘブライ語を用いるユダヤ人の会堂とギリシア語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の会堂に別れていましたが、論争と迫害が起こったのはヘレニスト・ユダヤ人の会堂であって、ヘブライ語会堂では問題は起こっていません。ペトロたちアラム語を用いる者たちはヘブライ語会堂に属していて、迫害の圏外でした。パウロはこのヘレニスト・ユダヤ人の会堂で指導的な立場にあり、律法に熱心な律法学者として、ステファノらのグループを容赦することはできず、先頭に立って彼らを探索し逮捕するなど迫害します。
 
 このグループを探索するためにダマスコへ向かう途上で、パウロは復活者イエスの顕現に遭遇して回心するのです。したがって、パウロの回心には律法をめぐるユダヤ教徒の間での激しい対立が背景にあり、パウロの新しい信仰は初めから律法問題に直面せざるをえないのです。パウロは回心によってユダヤ教から他の宗教に改宗したのではなく、復活者イエスを主キリストとして体験することによって、律法順守を原理とするユダヤ教から「律法を超えたユダヤ教」(これがどういう意味かは後で詳しく扱うことになります)に回心したのです。パウロにとって「キリストは律法の終わりとなった」のです。
 
 パウロも自分が体験した復活者イエスをメシア・キリストと宣べ伝えるさい、このイエス・キリストの出来事においてイスラエルに与えられていた約束は成就したのだという確信を、ペトロや他の弟子たちと共有しています。このように十字架につけられたイエスをメシア・キリストとすることは、イエスを信じない周囲のユダヤ教徒からは、馬鹿げたこと、愚かなこと、気違い沙汰として、冷笑され、軽蔑されたかもしれませんが、死罪の判決を受けたり、殺されたりする事柄ではありません。パウロが周囲のユダヤ教徒から「生かしておけないユダヤ人」とされたのは、パウロの律法に関する言動が神を汚すものとされたからです。パウロは、まさに自分が迫害したのと同じ理由で迫害される側になるのです。それで、律法をめぐるパウロの言動を少し詳しく見ることにします。
 

 

「律法」という用語

 律法をめぐるパウロの言動を見る前に、「律法」という用語の意味内容を明らかにしておく必要があります。パウロは「律法」という用語を一義的には使っていません。この用語を様々な意味合いで使っていますが、ここでの議論のために必要なかぎりの最小限の区別として、次の二種類の用例を区別しておきます。
 
 日本語聖書で「律法」と訳されているパウロの用語(ギリシア語)は《ノモス》(法、法律、習慣、規範)です。そして、《ノモス》はヘブライ語《トーラー》のギリシア語訳です。ユダヤ教徒は、モーセによって与えられたとされる神の啓示と戒めを《トーラー》と呼んで、自分たちの信仰の最も基本的で重要な拠り所としていました。ユダヤ教徒が《トーラー》というときは、まず「モーセ五書」を指し、またその中に記されている「十戒」を中心とする神の戒めの体系、すなわちモーセ律法を指しています。それは、シナイで神との間に結ばれた契約の条項でした。それを守ることによって契約が有効とされる諸規定の体系です。その中には、生活上の行為だけでなく、祭儀の仕方についての規定も含まれ、それらの規定の根拠となるイスラエルの民の歴史物語も含まれていました。したがって、ユダヤ教徒が《トーラー》というときは、生活と祭儀を律する規定(個々の規定とその全体)だけでなく、神の民イスラエルとしての存在を基礎づける根拠の総体、「ユダヤ教」という宗教そのものを指すことになります。パウロが「ユダヤ教」という用語を用いるのは二箇所(ガラテヤ一・一三と一四)だけですが、そこで言っていることと同じことを「律法」という用語を用いて表現している(フィリピ三・五〜六)ことからも、「律法」がユダヤ教全体を指すことがあることは理解できます。
 
 このように《トーラー》が神の戒めという限定された意味と、ユダヤ教全体という広い意味で用いられていることに対応して、パウロが《ノモス》というときにもこの二面があります。日本語で「律法」というと、戒めという狭い意味に限定されがちですが、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教という宗教全体を指している場合も多く、「律法」という訳語を「ユダヤ教」と読みかえると文意が分かりやすくなる場合があります。さしあたりここでの議論には、この二つの意味の違いに留意して、パウロのテキストを読まなければなりません。
 
 一例をあげると、パウロはローマ書三章の「信仰による義」を論じる重要な箇所でこう言っています。「では、誇りはどこにあるのですか。誇りは排除されてしまっています。どのような律法によるのですか。行いの律法によるのですか。そうではありません。信仰の律法によるのです」(ローマ三・二七私訳)。《ノモス》を律法と訳すと、「信仰の律法」という句が理解できなくなるとして、この節の《ノモス》を「法則」と訳す場合が多いようです。たしかに、《ノモス》というギリシア語には「法則」という意味もありますから、こう訳すのは誤りではありません。しかし、ユダヤ教の律法と信仰の関係を議論している流れの中で、急にギリシア的な思想を援用して、ここだけを「法則」と訳すことには慎重でなければなりません。ここの「律法」をユダヤ教全体を指すと理解して読めば、「律法」という統一した訳語を用いても十分理解できます。「行いの律法」とは、すべての規定の実行を要求し、その実行に対して義を約束すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)を指しています。ファリサイ派だけでなく、当時のユダヤ人はすべて自分たちの宗教《トーラー》をこのように理解していました。このように理解された《トーラー》は明確に否定され、代わって「信仰の《トーラー》」が登場するのです。「信仰の律法(トーラー)」とは、信仰を要求し、信仰によってはじめて真意が開示され、信仰によって義が実現すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)です。パウロは《トーラー》(ユダヤ教)をこのように理解したのです。彼はキリストに出会うまでは「行いの《トーラー》」のチャンピオンでした。ところが、キリストに出会うことによって、このような《トーラー》の本質、すなわち「信仰の《トーラー》」を見出したのです。


 

   律法をめぐるユダヤ教徒パウロの言動

パウロの異邦人伝道と割礼

 律法をめぐるパウロの言動がユダヤ教徒の間だけでなく、イエスを信じるユダヤ教徒の間でも問題になったのは、パウロが異邦人にキリストの福音を宣べ伝えるさいに、信仰に入った異邦人に割礼を受けてモーセ律法を守ることを求めなかったことが原因です。初めに、パウロが異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかった事情を見ておきましょう。
 
 パウロは復活者イエスの顕現に遭遇して、キリストであるイエスに仕える僕になった時から、ユダヤ教徒以外の民、すなわち異邦人にこの復活者イエス・キリストを伝えることを自分の使命と自覚したようです。それは、パウロがこの回心体験の直後からアラビアに出て行ってキリストを伝える活動を始めている事実からもうかがえます。この自覚は当然のことではありません。ユダヤ教徒は、異邦人(すなわち異教徒)は汚れているからとして、できるだけ接触を避けるのが普通でした。イエスをキリストと信じるようになっても、ユダヤ教徒であるかぎりユダヤ教徒の中で伝道するのが当然です。ところが、パウロは初めから異教徒に自分が体験したキリスト・イエスを告げ知らせようと決意しているのです。
 
 これはなぜでしょうか。パウロがそのような決意をした背景としては、次のような事情が考えられます。まず第一は、パウロがディアスポラのユダヤ人であって、ずっと異邦人に囲まれて生きてきたので、異邦人の間で活動することが当然と感じられていたという事情があります。
 
 第二は、回心前も異邦人をユダヤ教に導くための教師としての活動をしていたという経験も背景にあると考えられます。パウロは回心前エルサレムのヘレニストの会堂で教師として働いていました。それは、エルサレムに来るディアスポラ・ユダヤ人に聖書を解き明らかして律法を教えると同時に、ユダヤ教に惹かれる異邦人をユダヤ教の信仰に導き、「神を敬う者」とし、さらに割礼を受けてユダヤ教徒になるために指導する働きでした。
 
 第三に、パウロが迫害したステファノらのヘレニスト・ユダヤ人が、自分たちの律法から自由な信仰を命がけで証言したことに強烈な印象を受けていたと推察されます。ステファノは、神殿祭儀と古来の慣習に固執する(すなわち律法に固執する)ユダヤ教徒の「かたくなさ」を痛烈に告発しています(使徒七章)。
 
 これらは背景であって、直ちに決意を形成するものではありません。しかし、このような背景があったので、パウロは復活者イエスに遭遇して回心し、この方を救い主として宣べ伝えることを使命として受け取ったとき、それを異邦人に宣べ伝える使命だと自覚したのだと考えられます。パウロ自身、このダマスコ体験を語るとき、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき」(ガラテヤ一・一五〜一六)と、復活者イエスの顕現に遭遇した体験と異邦人への使徒とされた召命を一息に語っています。おそらくパウロはこの体験と自覚を周囲の人たちに語ったことでしょう。その内容を用いてルカはパウロの召命物語を書いていますが、それはパウロの宣教の生涯を要約する内容になっており、復活者イエス御自身がパウロに顕現された時に、「ユダヤ人と異邦人に」福音を伝えるように語られたとされています(使徒二六・一二〜二三)。
 
 このような使命感に燃えて、パウロは回心以後異邦人にキリストの福音を宣べ伝える活動を熱心に進めますが、そのさいパウロは信仰に入った異邦人に割礼を受けることを求めていません。そのことは、アンティオキアの集会でユダヤ人信徒が無割礼の異邦人信徒と食卓を共にしていたことからも分かります。パウロはバルナバらと共にアンティオキア集会で異邦人への伝道に励みますが、信仰に入った異邦人には割礼を受けることを求めず、異邦人のままでキリストの民として受け入れていました。パウロはなぜ異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかったのでしょうか。
 

 

異邦人に割礼を求めなかった理由

 その理由を探ることはパウロの福音理解の根幹に触れることになります。パウロは、異邦人信徒に割礼を受けることを求めなかっただけでなく、他のユダヤ人の宣教者たちが異邦人信徒に割礼を受けるように要求したとき、割礼を受けることはキリストの恵みから脱落すること、福音を覆すことだとして、断固割礼を受けることに反対しています(ガラテヤ書)。この異邦人信徒に割礼を要求する勢力との戦いが、パウロの伝道生涯のもっとも顕著な様相となります。パウロはなぜこれほどまで強硬に割礼に反対したのでしょうか。
 
 割礼を受けることはユダヤ教に改宗すること、ユダヤ教徒になることを意味しています。割礼を受けた者はユダヤ教徒として、モーセ律法の規定を守ることが求められます。それに違反することは、場合によっては死をもって罰せられる厳しい規定を課せられます。当時のユダヤ教では、とくに安息日の規定を守ること、食物に関する規定を守ることが、異教徒と区別するユダヤ教徒の標識として重視されていました。異邦人信徒に割礼を要求することは、ユダヤ教徒にならなければキリストに属する者になれない、救われないとすることです。福音はユダヤ教徒への救いの告知となります。福音はもはや異邦人に与えられた救いの告知ではなくなります。異邦人が異邦人のままで救われることが、異邦人への福音です。
 
 ユダヤ教徒にならなければ救われないとすれば、福音はユダヤ教徒だけに与えられたものになります。キリストを宣べ伝える活動は、ユダヤ教への改宗活動になります。イエス・キリストを信じる民はユダヤ教の一派になります。福音はユダヤ教の枠の中に閉じこめられます。自分を「異邦人への使徒」と自覚するパウロは、このような意味をもつ割礼の要求に、文字通り命がけで反対するのです。先に第七章「使徒パウロの最後の日々」で見たように、このように強硬に割礼に反対したことが、パウロを死に追いやるのです。割礼を求めないということはユダヤ教を救いにとって絶対に必要なものとしないこと、ユダヤ教を不必要なものとすることです。ユダヤ教こそ唯一の神の啓示に基づく宗教であって、人が救われるためにはユダヤ教徒でなければならないとするユダヤ教徒には、ユダヤ教の否定であり、絶対に許すことができない冒涜です。
 
 

「福音と律法」の問題

 ここに見たように、パウロが割礼を求めなかったことは、ユダヤ教徒パウロ自身からは出てくるはずのない革命的な姿勢です。それは(後で見るように)上から与えられた回心による結果です。パウロは、ユダヤ教徒でありながら、割礼を伴わない福音、すなわち割礼がなくてもイスラエルの神に属する民、神の国に入ることができるとする福音を異邦人に宣べ伝えるのです。そして、割礼を必要とするユダヤ教徒の主張と生涯をかけて戦うのです。ここでパウロの割礼を必要としない福音、割礼を伴わない福音を、簡潔に「無割礼の福音」と呼ぶならば、「無割礼の福音」こそパウロの福音理解の根幹を示す呼び方になります。
 
 割礼を必要としないということはユダヤ教を必要としないということですから、当然これはユダヤ教徒の間で大問題にならざるをえません。保守的なユダヤ教徒からは命を狙われるほどの非難を受けることになりますが、それだけでなくキリスト・イエスを信じる同信のユダヤ人からも厳しい批判を受けることになります。当然パウロの側からも反論と弁証が行われます。パウロも、自分が宣べ伝えるキリストの福音においてユダヤ教がどのような意味をもつのか、どのような位置を占めるのかを明らかにする努力がなされます。それが、パウロ書簡の重要な主題の一つである「福音と律法《ノモス》」の問題です。
 
 パウロは、その書簡で繰り返し《ノモス》という用語を用いて、この福音とユダヤ教との関係を論じています。先に《ノモス》という用語の二重の意味を見ましたが、パウロはこの《ノモス》でユダヤ教という宗教全体を指して、それがキリストの福音においてどのような位置を占めるのかを語っています。ところが、この《ノモス》がいつも「律法」と訳されることによって、本来の「福音とユダヤ教」との関係という問題が、「福音と戒律」、あるいは「信仰と戒律」の関係にすり替えられ、とくに現代では「福音と道徳」の関係の問題になってしまっています。これは、《ノモス》を law, Gesetz, loi というような語で訳した欧米諸語の聖書でも事情は同じです。
 
 パウロが「福音と《ノモス》」で福音とユダヤ教との関係を論じていることが見失われた結果、それが福音と戒律の問題とされ、パウロは福音によって祭儀律法は廃棄されたとしたが倫理的律法は成就されるとしているとか、信仰は道徳の原動力であることを主張しているとか、的はずれの解釈が行われることになります。パウロは《ノモス》を祭儀律法と倫理律法に分けて議論をしているのではありません。パウロにとって《ノモス》、すなわち《トーラー》はユダヤ教の全体です。それは道徳とか倫理ではなく、ユダヤ教という宗教の全体です。パウロが《ノモス》と言っているところは、少なくとも《トーラー》という用語に戻して、この語に対して当時のユダヤ教徒がもつ理解に即して、パウロの言葉を理解するようにしなければなりません。
 
 たとえば、パウロが「しかし今や、律法とは無関係に神の義が現されています、しかも律法と預言者によって立証されて」(ローマ三・二一私訳)と言うとき、この「律法と無関係に」という箇所の原文は《コーリス・ノムゥ》です。「《ノモス》なしで」とか「《ノモス》と無関係に」とか「《ノモス》の外で」というような意味です。この時の《ノモス》はユダヤ教全体を指しており、福音においては神の義(それは救いを指します)が、ユダヤ教とは無関係に、ユダヤ教の外で現されていることを宣言しています。これは「無割礼の福音」の内容そのものです。しかし、同時にパウロは、その出来事が「律法と預言者によって立証されて」と付け加えています。「律法と預言者」という言い方も、当時ではユダヤ教の全体を指す表現でした。したがって、パウロはここでキリストにおいて与えられる神の義は、ユダヤ教の外で、ユダヤ教と無関係に与えられるものであるが、同時にそれはユダヤ教によって基礎づけられ立証されている出来事だとしているのです。ここに福音とユダヤ教との関係が要約されていると言ってよいでしょう。
 

 

ガラテヤ書とローマ書

 このように、パウロの福音提示において重要な主題をなす「福音とユダヤ教」との関係は、とくにガラテヤ書とローマ書において中心主題となり、徹底的に議論されています。そのことは、この両書において《ノモス》という用語の使用回数が圧倒的に多いことにも示されています。

 パウロ書簡における《ノモス》の使用回数は、テサロニケ第一書簡に0回、ガラテヤ書に32回、コリント第一書簡に9回、コリント第二書簡に0回、フィリピ書に3回、フィレモン書に0回、ローマ書に74回です。 ガラテヤ書とローマ書は長さに対する頻度ではほぼ同じになり、他の書簡に比べて圧倒的に使用頻度が高くなります。なお、「パウロの名による書簡」を見ますと、コロサイ書は0回、エフェソ書に1回、テモテTに2回出てくるだけで、もはや《ノモス》(ユダヤ教)が問題になっていないことがうかがわれます。 

 この両書簡で「福音とユダヤ教」の関係がどのように論じられているか、その内容はそれぞれの書簡の講解に委ねなければなりませんが、ここでは両書簡の関係について、少し考察しておきます。とくに《ノモス》に対する見方や扱い方が両書簡においてかなり違うことが研究者に注目されて、両書簡の関係が様々に議論されています。
 
 たしかに、ガラテヤ書では「律法」は限定的に、あるいは否定的に扱われています。信仰によって受け継がれるべきものとしてアブラハムに与えられた約束に比べて、モーセによって与えられた律法は、「後から付け加えられたもの、期限がある過渡的なもの、仲介者(天使たち)によって制定されたもの、罪のためのもの、養育係にすぎないもの」などと描かれ(三章)、「奴隷の子を産む契約」とさえ言われています(四章)。それに対してローマ書では、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によるのだという福音の原理は明確に主張されながらも、「律法」の肯定的、積極的意義が強調されるようになります。たとえば、この信仰による義は「律法によって立証されている」とか「信仰は律法を無効にするのではなく、律法を確立する」というような面が強調され、「律法は聖なるもの」とされます。
 
 この違いの大きさに注目して、パウロはガラテヤ書でした律法についての行き過ぎた発言を修正するためにローマ書を書いたのだとする見方も出てきます。たとえば、ガラテヤ書の内容がエルサレム教団に伝わっていること(それは十分ありうることです)を知ったパウロが、エルサレム訪問を前にしてガラテヤ書の発言を修正し、自分のユダヤ教に対する態度を弁証するためにローマ書を書いたのだと見る研究者(ヒュブナー)もいます。
 
 しかし、この違いはパウロの律法に対する見方が変わったのではなく、両書簡が書かれた動機とか意図から説明できます。先に見たようにローマ書は、自分が建てたのではないローマの集会との交わりを確立するために、パウロは自分の福音理解の全体を提示しようとして書いています。ローマ集会には指導的な立場のユダヤ人信徒も多く、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の交わりが問題になっていることを聞いているので、福音におけるユダヤ教の位置を明確にしておく必要があります。ローマ書において、パウロはこの福音におけるユダヤ教の位置づけを冷静に、体系的に行っています。それに対してガラテヤ書では、外からやって来た「ユダヤ主義者」が異邦人信徒に割礼を受けることを要求し、ガラテヤの異邦人信徒は割礼を受ける方向に傾いていることを伝え聞いて、パウロは自分の「無割礼の福音」が危機に瀕していると感じています。書簡という形でこの危機を乗り切るために書いていますから、パウロの発言は激烈になり、割礼要求の根拠である律法の意義を限界づける表現も、一面的になり、激しくならざるをえません。この状況の違いがローマ書とガラテヤ書における律法の扱い方の違いになっています。
 
 ガラテヤ書においても、パウロはユダヤ教を否定しているのではありません。たしかに、異邦人信徒に割礼を受けさせ、モーセ律法の諸規定を守るように要求することは福音からの脱落であるとして強硬に反対しています。それは、当時のユダヤ教の体質となっている「律法主義」を否定しているのです。すなわち、割礼を受けてモーセ律法を守らなければ救われないとするユダヤ教絶対化の体質を否定し、乗り越えているのです。しかし、先にガラテヤ書(とくに三章)を論じたときに見たように、キリスト信仰によってイスラエルに対する約束の真の継承者となり成就する者となるとし、ユダヤ教の根幹をなす聖書の救済史をしっかりと継承しています。

 パウロがガラテヤ書においても聖書の救済史をしっかりと継承していることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』200頁の「パウロにおける救済史」を参照してください。なお、パウロがユダヤ教の根幹を継承していることについては、同じ『パウロによるキリストの福音T』の第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。 

異邦人のように暮らす

 パウロはユダヤ教徒でありながら、異邦人のように生きて、モーセ律法の規定に拘束されていないように見える場面があります。その典型的な事例は、異邦人との食卓の交わりです。ユダヤ教とは神の前での清さを追求する祭儀と生活の体系であると言ってよいほど、ユダヤ教徒は「清さ」を重視しました。ユダヤ教徒から見れば、異邦人(異教徒)は律法が汚れたものとしているものを食べ、汚れたものに接触して暮らしているのですから、汚れた人間です。そのような異教徒と食卓を共にすることは自分を汚すことであり、ユダヤ教徒としてはあるまじき行為として禁止されていました。ところが、「無割礼の福音」に立つパウロは、アンティオキアの集会の交わりにおいて、進んで異邦人信徒と食卓を共にし、ユダヤ人信徒もそうするように指導したので、ユダヤ人と異邦人が一緒に食事をすることが実現していました。この食事は、単なる会食ではなく、主イエス・キリストを礼拝する行為でしたから、この共同の食事においてユダヤ人と異邦人との信仰における一致が具体的に実現していたのです。
 
 ところが、エルサレムから来たヤコブ一派のユダヤ人たちの追及によって、それまで異邦人と食卓を共にしていたペトロやバルナバはこの異邦人との共同の食事から身を引きます。パウロはその行為を、福音を否定する行為として激しく批判します。その時、パウロはペトロに向かって、「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と非難しています(ガラテヤ二・一四)。ペトロも、パウロの「無割礼の福音」の原理を受け入れるだけでなく、自らも異邦人と食卓を共にして「異邦人のように生活する」ようになっていたのです。ところが、ユダヤ人にはモーセ律法を厳格に守ることを要求する厳格派ユダヤ教徒からの圧力に屈することになります。
 
 パウロはこの圧力に屈したアンティオキア集会から離れて、福音宣教のための独立の活動を進めます。パウロは「無割礼の福音」の原理に立ち、異邦人には割礼とモーセ律法の順守を求めませんでしたが、ユダヤ教徒に律法順守を止めるように求めたわけではありません。パウロは「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになった」と言っています(コリントT九・一九〜二三の要旨)。パウロは、異邦人に福音を伝えるときは、律法を持たない者のように、食卓の交わりを共にしました。そして、ユダヤ教徒に福音を語るときは、律法に支配されている者の一人として(すなわちユダヤ教徒の立場で)語りかけました。パウロは、キリストにあって賜っている自由により、律法の中にいることも律法を超えて生きることも、両方ができたのです。
 
 パウロが設立した集会でユダヤ人と異邦人との交わりが問題になったとき、すなわち律法に支配されている人たちと律法に支配されていない人たちの交わりが問題になったとき(ユダヤ人の中にも両方がありました)、パウロ自身は律法の中にいることも律法を超えて生きることも両方ができる「強い人」であるのですが、それができない「弱い人たち」に愛の配慮をもって対するように、強い人たちに求めています(コリントT八章、ローマ一四章)。


   結び ― ユダヤ教の相対化


相対化

 以上に見たようなパウロのユダヤ教とのかかわり方は、一見矛盾しているように見える二面があります。パウロは、死ぬまでユダヤ教徒としてユダヤ教の中にいます。パウロはユダヤ教徒として、律法(ユダヤ教)の下にある者として生きています。ユダヤ教の聖典である聖書を神からの啓示として、すべての議論の論拠にしています。同時に、時にはユダヤ教を批判し、ユダヤ教を否定するような発言をし、もはや律法(ユダヤ教)には拘束されていない者として行動しています。このようなユダヤ教とのかかわり方は、どこから来るのでしょうか。それは何を意味しているのでしょうか。
 
 一言で言えば、パウロはユダヤ教を相対化したのだと言えます。ユダヤ教を「相対化」するとは、ユダヤ教自体の価値(神の啓示によって与えられた宗教としての価値)を認めながら、ユダヤ教を救済に必要な絶対的条件としないということです。人が救われて神との正しい関係(義)に至るためには、ユダヤ教が欠くことができない条件であるとすることを、ユダヤ教の「絶対化」と言うならば、パウロはこのユダヤ教の「絶対化」を否定したのです。どの宗教にも、その宗教を絶対化する体質があります。ユダヤ教の場合、その絶対化は「律法主義」(モーセ律法の順守が義とか救いの条件であるとする立場)や「ユダヤ主義」(異邦人も割礼を受けてユダヤ教徒にならなければ救われないとする立場)という形で現れています。パウロは、このユダヤ教の絶対化を否定するのです。
 
 パウロは、ユダヤ教そのものを否定したのではありません。ユダヤ教はそれ自体としては価値あるものとして否定されてはいません。ユダヤ教にはそれ自身の価値があるとしても、ユダヤ教はもはや救いに至る絶対的な条件ではないとしたのです。パウロはユダヤ教以外に救いの道があるとしたのです。それがユダヤ教の「相対化」です。
 

 

「回心」の意義

 パウロがユダヤ教を相対化するようになったのは、ユダヤ教の外に救いの原理があることを体験して知ったからです。それがパウロのダマスコ体験、回心体験です。パウロはダマスコ途上で復活者イエスの顕現に遭遇するという体験をして、それまでの神とのかかわり方が根本的に変わってしまいます。それが、パウロの「回心」体験の内容です。それまでパウロの神は、律法を与え、律法を守る者を義とし、律法に従わない者を裁く神でした。ところが、この回心体験によって、神はもはやそのような律法授与者の神ではなく、イエスを死者の中から復活させた神となります。「(復活者)キリストは律法の終わりとなった」のです。「イエスを死者の中から復活させた神」は、復活者イエスをキリストとして立て、このキリストにおいて成し遂げられた神御自身の業によって、このキリストに結びつく者に義を与える神です。パウロは、この回心体験によって、この復活者イエス・キリストにおいて成し遂げられた神の救いの働きを「福音」として世界に宣べ伝える者となります。
 
 「回心」という用語は、人が心を入れ替えて別の生き方をするようになるという意味に理解されがちです。しかし、パウロの場合はまったく違います。パウロが心を入れ替えたのではなく、神の側からの働きかけによって、パウロの全存在がひっくり返ったのです。パウロは上からの働きを受けるだけの立場です。そのパウロをひっくり返した神の働きとは聖霊の働きです。パウロのダマスコ体験は、聖霊体験の重要な典型です。
 
 聖霊、すなわち神の御霊が、いつどのように働かれるのか、その働き方は、わたしたち人間が決めたり、知ったりすることができません。その働きの結果は体験しますが、その働きの仕方を描くことはできません。「風(原語の《プニューマ》は霊という意味もあります)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ三・八)と言われています。パウロの場合、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに」(ガラテヤ一・一五)このような形で働いてくださったとしか言えません。
 

 

恩恵体験

 パウロがダマスコ体験を振り返って語るとき、ここで引用したガラテヤ書(一・一五)で「選び」と「恵み」という語を用いて語っていることが重要です。この二つの用語は、実は同じ事実を表現しようとしています。それは、イエスに敵対し、イエスを信じる者たちを迫害していたパウロには、このイエスをキリストとして宣べ伝える神の使徒となる資格とか根拠は何もないのに、自分が今そうなっているのは、神が選ばれたからと言う外はない、また、資格のない者に無条件に与える恵みによって神が自分に使徒の資格とか実質を与えてくださったからだとしか言いようがない、ということです。
 
 同じことを語っているので、どちらか一方でこの事実を語ることもよくあります。たとえば、復活者イエスの顕現に接して使徒とされた出来事を語るとき、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントT一五・一〇)と言っています。この文は直訳すると、「神の恩恵によって、わたしは今あるわたしです」となります。わたしがわたしであるのは神の恩恵による、というのです。これはダマスコ体験についてだけでなく、パウロが全生涯にわたって自己の存在そのものが神の恩恵によるものであることを自覚していたことの表現です。聖霊によるキリスト体験は恩恵体験です。このように自己の存在そのものが神の恩恵によるものであることを知る体験です。
 
 この恩恵体験がパウロの福音理解(それを神学というのであれば、パウロの神学)の基礎です。パウロは、「キリストにある」という場を恩恵が支配する場として描いています(ローマ五・一二〜二一)。キリストにあるという場で、聖霊の働きにより、「わたしがわたしであるのは神の恩恵による」という自覚で生きるのが、「パウロによるキリストの福音」の根幹です。わたしたちキリストにある者にとって、恩恵こそ絶対です。
 
 ここで「絶対」という表現には二つの意味を含ませています。一つは、神の恩恵が相手の価値とか資格に絶しているという意味で、恩恵は「絶対」です。すなわち、相手が善ければ善いものを与え、悪ければ悪を報いるという、相手の価値に対応して働くのではなく、相手の価値に絶して無条件に善いものを与えるという意味で「絶対」(相対する者に絶している)です。もう一つの意味は、恩恵がなければわたしがわたしでありえない、他の何がなくても恩恵だけは絶対に欠くことができないという意味で「絶対」です。

 

絶対恩恵による宗教の相対化

 このような意味で、神の恩恵を絶対的なものとして体験し、その恩恵の絶対性に生きるとき、他のすべてのものが相対化されます。このキリストにある神の恩恵以外のものは、それぞれに意味とか価値があるとしても、わたしがわたしであるために絶対必要なものではなく、あってもよいしなくてもよいという位置に置かれます。これが「相対化」です。
 
 パウロは、この絶対恩恵の場に生きることで、生きるもよし死ぬもよしとして生と死を相対化し、生と死という人間にとって最後の矛盾を乗り越えています(フィリピ一・二一〜二四)。そして、パウロにとって唯一の価値であったユダヤ教そのものをも相対化するのです(フィリピ三・四〜七)。キリストという価値、キリストにおける神の恩恵という絶対価値の前に、それまでは絶対としてきたユダヤ教徒としての自分の価値などは塵あくたとして捨ててもよいものになってしまいます。
 
 このように神の恩恵を絶対として律法(ユダヤ教)を相対化することにおいて、イエスとパウロは同じである、とわたしは理解しています。イエスは、父の無条件絶対の恩恵に生きることで、ユダヤ教律法を相対化されました。イエスはユダヤ教律法を順守して生活できない取税人や遊女などの階層の人たちと食卓の交わりを共にして、彼らがユダヤ教律法を守れないままで、父の恩恵によって子とされていることを宣べ伝え、子としての信頼に生きるように教えられたのでした。イエスは決してユダヤ教を否定されたのではありません。ユダヤ教律法を順守しなければ救われないとするユダヤ教の絶対化を否定されたのです。イエスは、義とされて神の民であるためには、ユダヤ教律法の順守が絶対に必要であるとするユダヤ教の絶対化に挑戦されました。イエスの死の直接の理由となった神殿崩壊の預言も、ユダヤ教の根幹である神殿祭儀を相対化されたことを意味します。神殿祭儀がなくても、父を礼拝し、神の子として生きることはできるとされたからです。このようなユダヤ教律法の相対化が、ユダヤ教を絶対とするユダヤ教指導層から、神聖な律法を汚し神を冒涜する者として告発されることになったのです。
 
 このようにパウロは、キリストにあって、聖霊の働きにより、父の絶対恩恵の現実を体験し、その場に生きることによって、ユダヤ教を相対化しました。その結果、パウロはユダヤ教徒でありながらユダヤ教を乗り越える者となりました。ユダヤ教の中にありながら、ユダヤ教の枠の外に出た者となりました。この事実が、パウロを「異邦人への使徒」とし、諸国民の間に福音を確立するための第一の使徒としました。パウロの他にも異邦人にキリストの福音を宣べ伝えた使徒はいます。しかし、パウロのように福音がユダヤ教を乗り越えており、ユダヤ教の外で成立するものであることを明確に自覚し、その原理に従って生き抜き、その原理を明確に告知した使徒は他にありません。こうして、パウロはユダヤ教の外で、諸民族からなる世界の中で活動する使徒となります。次節では、この世界との関連というコンテキストでパウロの意義を見てゆくことになります。

 「相対化」については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。 


 

 第二節 諸民族の中のパウロ


 

   初期の福音の展開史におけるパウロ

福音宣教の拡大

 パウロは福音宣教の歴史において最も早い時期に位置しています。ペトロたちイエスの弟子であった者たちがエルサレムでイエス復活の証言の声を上げてからほぼ三年後にパウロの回心があり、それ以後パウロは福音宣教の第一線に立っています。パウロが宣教の活動を終える60年前後までの約30年間に、イエス・キリストの福音はエルサレムから始まり、北のパレスチナ・シリアの各地へ、そこから東に向かった流れは両河地方に、西へ向かい小アジアとギリシア、イタリアの諸地域に、南は北アフリカのエジプトからキレネに至り、キリストの福音は東地中海世界に広く伝播しています。それは復活のイエスの顕現に接した者たちが、復活者イエスの証人として各地に旅をして福音を宣べ伝えたからですが、それがこのように短時日の間にヘレニズム世界に広く伝わったのは、各地にディアスポラのユダヤ人(離散のユダヤ人)の共同体があり、ユダヤ教会堂が活動していたからです。ペトロら有名な使徒たちだけでなく、イエスの復活顕現を体験した多くの無名のユダヤ人たちが世界の各地に散って、各地の会堂でユダヤ人や会堂に集う異邦人に復活者イエスを伝えたからです。
 
 古代教会の伝承によると、ペトロはアンティオキアで働いた後、西に向かいローマに達し、ローマで殉教したと伝えられています。トマスはシリア(エデッサ?)で活動した後、東に向かいインドに至り、そこで殉教したと伝えられています。パウロははじめ東に向かいアラビアで活動しましたが、(おそらく戦争などの事情に妨げられて)ダマスコに戻り、その後、タルソやアンティオキアなどシリア・キリキア地方で活動し、さらに御霊に導かれて西に向かい、エーゲ海を渡ってヨーロッパに入り、マケドニア州やアカイア州などギリシアの諸都市に伝道します。最後にアジア州に戻って、エフェソを中心とする諸都市に力強い共同体を形成します。
 
 

エルサレムからローマへ

 パウロの宣教活動が西に向かったことは、その後の福音の展開にとって、また将来のキリスト教の拡大にとって、そして世界の歴史にとって、きわめて重大な結果を生むことになります。使徒言行録は、パウロが西に向かったのは御霊の働きと導きによるものとしていますが、パウロ自身も書簡の中でローマを訪れることを長年の念願としていることを率直に語っています(ローマ一・一〇、一五・二二)。パウロが西に向かったのは、ローマが西にあるからです。ローマは帝国の首都として、世界の中心です。当時の人々にとって、ローマ帝国こそ世界であり、帝都ローマは世界の中心です。どこでも地域の中心都市(多くは州都)に拠点を作ることを方針としてきたパウロが、帝国の中心、世界の中心にキリストの福音を確立することを終生の念願として活動を進めてきたことは理解できます。
 
 前章「使徒パウロ最後の日々」で見たように、パウロはついにローマに達します。しかし、それはパウロが「神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」(ローマ一五・三二)と願っていたような形ではなく、囚われの身としてローマに入ります。ルカは、どのような形であれ福音がパウロによってローマに入り、パウロがローマで「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝えたことを述べれば、それでエルサレムからローマへ至る福音の進展を描く著作(使徒言行録)の目的は達せられたのです。使徒言行録は、エルサレムでのペトロの福音告知に始まり、パウロのローマでの宣教で終わります。ルカもペトロがローマまで来てローマで殉教したことは知っていたでしょうが、パウロによって福音がローマに達したという形で終えたのは象徴的です。エルサレムからローマに至る福音の進展にとって、それを可能にする原理を確立したのはパウロだからです。
 
 エルサレムはユダヤ教の本拠地であり、ユダヤ人の牙城です。ローマは多くの民族からなる帝国の首都です。もし福音宣教がユダヤ教内部の信仰運動であるならば、たとえローマにも信徒がいたとしても、福音はエルサレムに止まったままだと言えます。福音がエルサレムを出て諸国民の中に入って行くためには、「無割礼の福音」の原理、すなわちユダヤ教徒でなくてもキリストの民でありうるという原理が必要です。前節で見たように、その原理を命がけで確立したのはパウロでした。この原理によって、キリストの福音は世界のどの民族にも受け入れられるものとなったのです。この原理の体現者パウロが諸民族統合の象徴であるローマに達することで、福音はローマに達したと言えるのです。
 
 パウロは最後までユダヤ教徒としてエルサレムを神の働きの中心地として尊重しています。パウロにとってエルサレム教団が代表するユダヤ人キリスト教団はイスラエルの継承者として救済史の中核であり、異邦人教団はそれに接ぎ木される形で救済史に参加するのです。ですから、パウロはエルサレム教団との交わりを何よりも重視し、どのような困難や危険があっても、エルサレムを訪れ、エルサレム教団と交渉し、両者の一致を追求しています。この面を重視して、パウロを「エルサレムとローマの間に立つ使徒」と見ることもできます(佐竹)。しかし、パウロがパウロたる所以は、やはり「無割礼の福音」の原理の確立によって、キリストの福音を「エルサレムからローマへ」と進展させたこと、すなわち、キリストの福音をユダヤ教の枠から解放して、世界の諸民族のものにしたことにあると言えるでしょう。


   「キリスト教の源流」としてのパウロ


「キリストの福音」と「キリスト教」

 「キリストの福音」と「キリスト教」は同じものではありません。「キリストの福音」は、神が復活者イエス・キリストにおいて人間の救済のための業を成し遂げられたという告知であり、キリストにあってその救いにあずかって生きる者の証言です。それに対して「キリスト教」とは、そのようにキリストの福音によって生きる者たちがある程度の社会的広がりをもって共同体(教会)を形成するようになったとき、その信仰を表現し、共同体を統合するために形成された共通の教義とか祭儀のシステムが「キリスト教」です。キリスト教は、パウロがキリストの福音を宣べ伝えてから数百年かかって徐々にヘレニズム世界に形成された新しい宗教です。

 キリストの福音からキリスト教が成立する必然性とその過程については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してください。 

 パウロは「キリストの福音」を宣べ伝えましたが、「キリスト教」という宗教を創唱したわけではありません。しかし、パウロは「ユダヤ教の外で」《コーリス・ノムゥ》キリストに生きる原理を確立したので、ユダヤ教とは別に「キリスト教」が成立する道を開いたと言えます。その意味でパウロはキリスト教の創始者である、と言っても言い過ぎではありません。もし「無割礼の福音」の原理を命がけで唱えたパウロがいなかったら、キリストの福音はユダヤ教内部の運動に止まり、キリスト教という別の宗教は成立しなかったでしょう。
 
 キリスト教は世界の諸民族に広がり、すでに二〇〇〇年にわたる歴史をもっています。そのキリスト教の歴史を遡ってその源流を探ると、どこに行き着くのでしょうか。大陸を貫く大河も、その源流は山の中の木立に埋もれた小さい湧き水であることが多いようです。小さい湧き水が谷川となり、多くの支流を集めて平野を潤す大河となります。キリスト教という大河を遡ると、その源流はどこにあるのでしょうか。わたしはキリスト教の源流はパウロにあると見ています。
 
 こう言うと、いや、キリスト教の源流はイエス御自身ではないのか、という反論が出ると思います。たしかに、イエスはキリスト教の信仰対象です。キリスト教は、イエスをキリストと信じる信仰から出た宗教です。しかし、イエスは御自分をキリストと宣べ伝えた方ではありません。それをしたのは、イエス復活後の弟子たちです。彼らは復活されたイエスの顕現を体験し、復活者イエスをキリストとして宣べ伝えました。彼らは「使徒」と呼ばれました。この呼び方を使うと、キリスト教を始めたのは使徒たちであるということになります。その中で、先に見たように、パウロこそユダヤ教の外に新しい宗教を形成する原理を確立する使徒となったのですから、キリスト教の源流はパウロであると言うことになります。
 
 地上のイエスはまだユダヤ教の中におられました。ユダヤ教徒に父の恩恵を語るのを原則とされました(例外もありましたが)。そのイエスを復活された神の子として、そして世界の諸民族を救う救済者キリストとして宣べ伝えたのは使徒たち、とくに異邦人への使徒パウロでした。世界宗教、すなわちどの民族にも伝えられる普遍性のある宗教としてのキリスト教への突破口は、使徒パウロが切り開きました。その意味で、世界宗教としてのキリスト教の源流はパウロにあると言えます。
 
 

道備えとしてのファリサイ派ユダヤ教

 ところで、復活者イエスの顕現に遭遇し、この方を世界の諸民族の救済者キリストとして宣べ伝えたパウロは、熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒でした。この事実は、パウロが宣べ伝えた「キリストの福音」に、そしてその福音から生まれた「キリスト教」に深い刻印を刻み込んでいます。
 
 先に見たように、ファリサイ派ユダヤ教はヘレニズム化したユダヤ教でした。ファリサイ派は、アレクサンダー以後の滔々たるヘレニズム化の波に抵抗して、先祖伝来の宗教を護持しようとする熱烈なユダヤ教徒の信仰の戦いから生まれたものですが、その戦いの中で相手の思想を共通の土俵として戦わざるをえなかった結果、ユダヤ教自身がギリシア思想の諸前提を受け入れて変容することになったのでした。すでにヘレニズム文化自体が、ギリシア文化の中に東方諸宗教を取り込んでいたので、ファリサイ派ユダヤ教にはギリシア思想だけでなく、東方の諸宗教の思想が流れ込んでいました。ゾロアスター教から出ているペルシャ系の宗教からは体の復活の思想や善悪の二元論や終末論、ピュタゴラスやプラトンを生んだギリシアからは霊魂不滅の思想や諸霊の階層からなる宇宙論など、様々な宗教思想がユダヤ教の中に流れ込んでいます。ユダヤ教はモーセ律法という成文化された厳格な規定をもっていました。しかし、その規定を堤防(護岸壁)としながらも、その中に流れる水流にはギリシアや東方諸宗教の様々な思想が流れ込んでいました。一つの河が多くの支流の水を集めて大きな流れになるように、ユダヤ教という流れは様々な宗教や思想を含む流れになっていました。ユダヤ教の中でもファリサイ派はとくに、古来のモーセ律法を時代の要請に合わせて解釈し、その解釈をモーセ律法と同じ権威のある律法とした(すなわち堤防をどんどん広げた)ので、外からの流れを自身の中に受け入れる傾向が強く、ファリサイ派ユダヤ教はヘレニズム・ユダヤ教(ヘレニズム化したユダヤ教)であると言われることになります。
 
 キリストの福音はヘレニズム世界に入っていってはじめて「ヘレニズム化」して「キリスト教」になったのではなく、その源流であるファリサイ派ユダヤ教徒パウロ自身にヘレニズム化の端緒があります。パウロ自身の中にヘレニズム世界の諸宗教と諸思想が流入しているのです。そして、そのパウロからキリストの福音に包み込まれた形で、それらのヘレニズム諸思想が流れ出してキリスト教を形成するのです。キリスト教はヘレニズム世界の宗教です。ユダヤ教の中から出現したキリストの福音は、ヘレニズム世界に進出して、その中でさらにヘレニズム文化と思想を吸収してヘレニズム宗教としての姿を強くしてゆきます。すでに自分の中にヘレニズム的要素があるのですから、外からさらに同じものを受け入れるのは容易です。その過程の源流にパウロがいることになります。
 
 ここで少し本題から逸れますが、新約聖書に見られるファリサイ派ユダヤ教についての批判と非難について述べておきます。新約聖書、とくに福音書において、ファリサイ派は偽善者として厳しく批判され、また律法主義者として救いから締め出されています。それは、福音書が成立した時期(70年の神殿崩壊から一世紀末まで)においては、サドカイ派やエッセネ派は消滅し、ユダヤ教はファリサイ派の律法学者たちによって再建されて維持されていたからです。したがって、イエスを信じるユダヤ人たちが自分たちを迫害する不信のユダヤ教会堂と論争し戦うとき、相手はファリサイ派ユダヤ教ということになります。この歴史的事実が、福音書におけるファリサイ派や律法学者に対する激しい非難となって、イエスの口に置かれることになります。その結果、この福音書を聖典として信仰の拠り所としてきたキリスト教会には、ファリサイ派に対する激しい敵意と軽蔑が刻み込まれることになります。福音書成立期のユダヤ教とキリスト教の厳しい対立は、両者が(イエスの神性を認めるかどうかの一点以外は)あまりにも似ていることから来る近親憎悪の性格があると思われます。このように、福音書の反ファリサイ主義はユダヤ教のある時期のユダヤ教内の内輪争いであって、それをキリスト教とユダヤ教の時代を超えた敵意として固定してはなりません。むしろ、ファリサイ派ユダヤ教がキリスト教に豊かな養分を供給して、世界宗教としてのキリスト教の形成に大きく寄与している面を忘れてはなりません。ファリサイ派ユダヤ教徒のパウロがキリスト教の源流であることは、この面をわたしたちに思い起こさせます。

 福音書の反ファリサイ主義はマタイ福音書二三章に集約されていますが、その受け止め方については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』320頁の「マタイの反ユダヤ教論争」の項を参照してください。 

小アジアのキリスト教

 エルサレムから始まった福音の宣教活動は、はじめにパレスチナを含むシリアに広がり、シリアがキリスト教の揺籃の地となります。その中心都市はエルサレムとアンティオキアです。ところが、その後パウロが西に向かい、小アジアからギリシアの各地に集会を形成するに至り、とくにエフェソを中心とするパウロ系諸集会の交わりが形成されます。第一章「エフェソにおけるパウロ」で見たように、エフェソは伝道活動の最後の時期にもっとも長期間滞在して活動した拠点都市であり、その地理的位置からも、パウロがそれまでに設立した諸集会の交わりの核となる場所です。州都エフェソ周辺のアジア州諸都市だけでなく、背後の小アジア内部の諸州、さらにエーゲ海対岸のマケドニア州やアカイア州の諸都市(フィリピ、テサロニケ、コリントなど)を含む広範囲の地域のパウロ系諸集会の交わりが形成されます。これをパウロ系共同体というならば、この共同体が一世紀後半から二世紀にかけて、キリスト教が形成されるのに重要な意義をもつことになります。このギリシア各地を含むパウロ系共同体の地域を「小アジア」というのは適切ではありませんが(「エーゲ海域」と呼んだ方がよいかもしれません)、エフェソに代表させて「小アジア」と呼ぶならば、この「小アジア」はシリアと並んで重要なキリスト教の揺籃の地となります。第三の重要地域であるエジプト(その中心都市はアレクサンドリア)は少し遅れて舞台に登場します。
 
 パウロが地上での働きを終えてからほぼ一世代後の80年代とか90年代に、この小アジアの共同体の中でパウロの名による書簡コロサイ書とエフェソ書が書かれ、ヘレニズム世界での福音がどのような形をとっていたかを見させてくれます。そして、さらにそれより後に(おそらく一世紀終わりか二世紀初めに)、同じくパウロの名によって書かれた牧会書簡が成立し、パウロ系共同体の制度的側面が見えてきます。
 
 ヨハネ黙示録の著者が誰であるのか、またその成立事情がどうであったのかは、確定困難な問題ですが、それがエフェソを中心とする「アジア州の七つの教会」にあてられたものですから、この地域で成立した文書であることには間違いありません。それと、テサロニケ第二書簡とを合わせると、この地域のパウロ系共同体にも黙示思想的な終末待望がなお熱く燃えていた面があることを見させてくれます。この事実は、少し後の二世紀半ばに、小アジア中央部のフリギアにモンタノスに率いられた再臨運動(モンタノス主義)が起こったことにも、強い影響を及ぼしていると考えられます。
 
 小アジアでのキリスト教の進展にとってもう一つの重要な因子は、エフェソにおけるヨハネ共同体の活動です。ヨハネ福音書を生み出した共同体(それは複数の集会を含む開かれたゆるやかな交わりであると考えられます)は、その成立と初期の活動はシリアである可能性がありますが、少なくとも後期にはエフェソで活動し、ヨハネ福音書をその地にもたらしたことは、二世紀の教父たちの証言から見て事実であると考えられます。パウロ系共同体とヨハネ共同体が実際にどのようなかかわり方をしたのは困難な問題ですが、ヨハネ福音書の神学がパウロの福音理解の延長上にあることは広く認められている事実です。
 
 それに、ルカ福音書と使徒言行録のルカ文書も、この地域の成立である可能性が高いと見られます。ルカ文書の成立地域については諸説があって確定できませんが、マルキオンが自分の聖書にパウロ十書簡とルカ福音書を用いている事実から、ルカ文書は小アジアで成立したのではないか、とわたしは見ています。マルキオンは小アジアのポントス州シノペ(黒海に面した港町)出身の船主ですが、後にローマで出てきて活動し、144年に異端としてローマの教会から追放されたと見られています。この年代は最近問題視され、もっと早かったのではないかと見られています。いずれにせよ、マルキオンはローマに来る前、小アジア西部、とくにエフェソを中心に活動し、そこでパウロ書簡集に接し、過激なパウロ主義者になり、イエスの神は旧約聖書の神とは別であると唱えるに至ります(アンカー聖書事典)。そのマルキオンがパウロ書簡集に加えてルカ福音書を用いている事実は、ルカ福音書がこの地域に流布していたことを示しています。それが成立地を証明するわけではありませんが、ルカ福音書がこの地域で広く認められていた文書であったことは確実であり、成立地である可能性が高いと言えます。

 パウロの名によって書かれた書簡については、後に出す予定の拙著『パウロ以後のキリストの福音』において取り扱う予定です。エフェソにおけるヨハネ共同体の活動については、拙著『もう一人の弟子の物語―ヨハネ文書の成立について』を参照してください。ルカ文書ついて、ケスター『新しい新約聖書概説・下』はルカ文書をこの地域に位置づけています。 

 こうして見ると小アジアは、パウロ文書(パウロ書簡とパウロの名による書簡)、ヨハネ文書(ヨハネ福音書とヨハネ書簡、それに著者は福音書と別人としてもヨハネ黙示録も含む)、ルカ文書(福音書と使徒言行録)という新約聖書の主要文書の大部分を成立させ、また流布させていた地域であることが分かります。この一事からしても、小アジアが古代におけるキリスト教の成立にとっていかに重要な地域であるかがうかがわれます。新約聖書の主要文書でこの地域以外の成立がはっきりしているのは、マタイ福音書です。マタイ福音書は、パレスチナ・シリアで「語録資料Q」を生み出したユダヤ人信徒の運動の流れに属し、おそらくアンティオキアで成立したものと見られます。マルコ福音書もシリアで成立した可能性が高いですが、パウロの協力者であった経歴から、パウロの福音理解を継承していると推察できる面があります。

 マルコ福音書とマタイ福音書の成立事情については、拙著『マタイによる御国の福音』序章「イエスの語録と福音」を参照してください。 

 この地域において「使徒」と言えばパウロを指していました。それは、パウロの名による書簡において示されていますが、マルキオンにとってとくに重要な意味を持っていました。そのマルキオンを含むグノーシス主義者たちを反駁するために、二世紀末(180年頃)に大部の『異端反駁』を書いたエイレナイオスにおいても、「使徒」はパウロを指していました。エイレナイオスはローマからさらに西にあるガリアのルグドゥーヌム(現在のリヨン)の監督ですが、アジア州スミルナの出身で、若いときに殉教者として有名なスミルナのポリュカルポスに師事したと伝えられています。彼は小アジアの神学を十分身につけて、未開の地ガリアに赴任したわけです(ただしルグドゥーヌムはすでに200年にわたってガリアの中心地として開けていました)。エイレナイオスは小アジアの神学を集大成した教父として重要ですので、ここで少しだけエイレナイオスについて述べておきます。
 
 同じくパウロを「使徒」としてほとんど唯一の権威と仰ぎながら、マルキオンとエイレナイオスはまったく反対の立場に立つに至っています。マルキオンは、パウロがキリストの福音を律法(ユダヤ教)の外に置いたことに感銘を受け、その一面を徹底させました。マルキオンは、イエスが啓示された愛の神は、旧約聖書の義の神、律法の神とは別の神であるとして、旧約聖書と福音の連続性を否定しました。それに対してエイレナイオスは、パウロがキリストの出来事を旧約聖書の律法と預言の成就であるとしている面を見落とすことなく、旧約聖書と福音の連続性の面を保持しました。その結果、エイレナイオスの神学は救済史の神学となっています。すなわち、旧約聖書に語られている、天地創造からイスラエルの選びを経て、キリストにおいて成就する神の救済計画実現の歴史となっています。マルキオン派の教会は一時大いに勢力を増し加えますが、エイレナイオスらに代表される旧約聖書を正典として受け入れる正統派教会に論駁され、ついには異端として歴史の舞台から消えることになります。

 エイレナイオスの神学については、鳥巣義文『エイレナイオスの救済史神学』(新世社)を参照してください。なお、エイレナイオスの主著『異端反駁』全5巻の中、最近第3巻が小林稔氏の訳により日本語で読めるようになりました。「キリスト教教父著作集3」(教文館)の『エイレナイオス3―異端反駁V』です。さらに、最近発見されたアルメニア語写本からの重訳ですが、小林稔・小林玲子訳『エイレナイオス・使徒たちの使信の説明』が「中世思想原典集成1」(平凡社)に入れられています。詳しくは、これらの諸書の解説を参照してください。 

 このごく簡単なスケッチからも分かるように、小アジアのキリスト教はその後のキリスト教の成立に指導的な役割を果たすことになります。この後、有力な指導者が帝国の首都ローマに集まり(パウロもローマを目指した一人でした)、ローマがキリスト教の重要な中心地の一つとなります。キリスト教の展開の歴史は、エルサレムとアンティオキアが中心地であった時代から、エフェソとローマが中心地となる時代へと移って行きます。  このようにキリスト教の成立の歴史において重要な位置を占める小アジアは、実にパウロがキリストの福音の土台を据えた地域です。このことからも、パウロがキリスト教の源流であるということの意味が具体的に了解できます。

   

   「宗教改革」の源泉としてのパウロ

「宗教改革」の原理を据えたパウロ

 前節「ユダヤ教徒パウロ」で見たように、パウロはユダヤ教を「相対化」しました。ユダヤ教を否定してユダヤ教から飛び出したのではなく、ユダヤ教の内に留まりながら、キリストの絶対性、恩恵の絶対性のゆえにユダヤ教の絶対性を否定しました。この姿勢は、ユダヤ教を破壊するのではなく、ユダヤ教を別の原理によって内部から変革することを意味します。パウロ自身やパウロによってキリストの福音を受け入れたユダヤ教徒たちは、ユダヤ教の中に留まりながら、なおユダヤ教を絶対化し続ける周囲のユダヤ教徒とは質の違ったユダヤ教を生きることになります。このような「相対化」が、宗教を内部から改革する原理となります。自分の宗教を絶対化する限り、その宗教の内部から自己を変革する力は出てきません。パウロはユダヤ教を相対化することで、宗教を内部から改革する原理を据えたことになります。
 
 マルキオンは、パウロのユダヤ教の相対化をユダヤ教の否定と読み違えたことになります。マルキオンはパウロがガラテヤ書で律法(ユダヤ教)とは無関係の救済を宣言しているのを読んで感動し、他のユダヤ人使徒たちの教えを受けている周囲のキリスト教が十分このことを理解していないと批判し、パウロだけを使徒として、キリスト教の改革を進めます。マルキオンは、キリスト教史上最初のパウロ主義改革者となります。しかし、マルキオンはパウロのユダヤ教の相対化をユダヤ教の否定と誤解したため、旧約聖書を全面的に排除するに至り、パウロの福音が本質的な内容としてもっている救済史の視点を見失います。この致命的な誤りをエイレナイオスが批判して、旧約聖書からキリストの福音に続く救済史の構造を回復することになります。
 
 

ルターの宗教改革

 先にキリストの福音からキリスト教が成立するに至る過程について述べましたが、この過程は数百年を要しました。キリストの福音はイエス復活の直後から宣べ伝えられ始めましたが、キリスト教はいつ成立したのか、その年代を確定することはできません。どの段階でキリスト教が成立したと見るのかによって違ってきます。しかし、四世紀前半にはローマ帝国から公認され、四世紀後半には帝国の国教となったのですから、キリスト教は四世紀には十分巨大な勢力として確立していたことは確かです。
 
 その後ローマ帝国が東西に分割されたことに伴い、キリスト教も東ローマ帝国の国教として東方に勢力を拡大した東方キリスト教と、西ローマ帝国の崩壊後にローマを拠点として西方に拡大した西方キリスト教という二つの大きな流れに分かれます。東方キリスト教は、キリスト教成立当初からの言語であるギリシア語を用い、東地中海地域と北方のスラブ系諸民族に拡大していきました。西方キリスト教は、ローマ人の言語であるラテン語を用いるようになり、ヨーロッパのゲルマン系諸民族や北アフリカに拡大していきました。東方キリスト教は、東ローマ帝国(ビザンチン帝国、一五世紀半ばまで存続)の国教である東方正教会(ギリシア正教会)とその周辺の東方諸教会に担われ、ビザンチン帝国滅亡後にはロシア正教会に継承されることになります。西方キリスト教は、ヨーロッパの地にローマを中心とするキリスト教共同体を形成し、ローマ・カトリック教会となります。

 日本でキリスト教といえば西方キリスト教を指していることが多く、東方キリスト教については十分知られていません。キリスト教について考察するときには、東方キリスト教をもっと理解する必要があるでしょう。東方キリスト教については、「世界宗教史叢書3」(山川出版社)の森安達也『キリスト教史V』を参照してください。東方キリスト教の中心に位置するギリシア正教については、高橋保行『ギリシア正教』(講談社学術文庫)を参照してください。 

 キリスト教の長い歴史において、パウロは理解されないまま、キリスト教会の教理や祭儀や制度の固い堆積の下に埋もれてきました。すでに新約聖書の時代から、ヤコブ書に見られるようにパウロ主義を修正ないし制限する努力が行われてきました。とくにマルキオンが極端なパウロ主義者として正統派教会を脅かすようになったために、パウロの思想に対する警戒感が強くなったようです。パウロを使徒の中の使徒と認めるエイレナイオスも、四つの福音書をみな同等に信ずべきことを説いて、パウロを新約聖書全体のバランスの中に置こうとしています。その後、キリスト教の歴史において散発的にパウロを理解する神学や運動もあったようですが、やはり何といってもキリスト教史において、そして世界史的にも巨大な影響を及ぼすことになる最大のパウロ復興は、ルターの宗教改革です。
 
 ルターは、ローマ書によってパウロの「信仰による義」の福音を再発見します。千年を超えるローマ・カトリック教会の教義の中に埋もれていた「福音の真理」、すなわち人が義とされる(救われる)のは律法の行いによるのではなく信仰(キリスト信仰)によるのだという原理を再発見します。その真理を妥協することなく主張したためにローマ教会から破門され、その福音に立つ教会を別に(ローマ・カトリック教会の外に)形成せざるをえなくなります。当時のローマ教会は、ルターを破門することで自分がいかに深く人間の行為(戒律や祭儀の実行)に依り頼む宗教になっていたかを示したのです。ルターは、パウロがユダヤ教の律法主義と戦ったのと同じ戦いをローマ・カトリック教会のキリスト教に対して行ったのです。
 
 宗教改革はルターだけによるのではなく、カルビンをはじめ多くの改革者が出て、ヨーロッパにパウロの福音に立つ福音派・改革派の教会を形成しました。このプロテスタント諸教会がヨーロッパに近代を切り開いたことは周知の事実です。宗教改革によって、外から「宗教」に抑圧されていた人間の霊性が解き放たれ(パウロの福音は自由の福音です)、自由にされた精神が放つエネルギーによって進歩した文化(学芸や技術など)と変革された社会が、ヨーロッパを近代化し、繁栄に導きます。この近代化された西欧が世界をリードし、世界の各国は近代ヨーロッパをモデルとして近代化を図るようになります。中世までは世界の片隅、辺境の地であったヨーロッパが、宗教改革以後の近代では、近代化のモデルとなって世界をリードする立場に立つようになります。この事実を見るとき、改めてパウロの偉大さを思わないではおれません。
 
 

内村鑑三の「無教会主義」

 この近代化の波は、極東の島国日本にも押し寄せてきました。日本は欧米列強に対抗するために近代化を熱心に押し進めます。日本の開国にともない、それまで禁制であったキリスト教の活発な布教活動が始まります。北からは東方キリスト教の流れに属するロシア正教、西からは西方キリスト教の代表者ローマ・カトリック教会、そして東のアメリカからヨーロッパ近代の体現者プロテスタント・キリスト教が入ってきます。このように多様なキリスト教の流入が始まったごく初期に、日本でそのどれでもない特異な形態のキリスト教が始まります。すなわち、内村鑑三による「無教会主義」のキリスト教です。
 
 内村は、洗礼を受けたり聖餐にあずかったりして教会に所属しなくてもキリスト信仰はありうるとし、教会の外でのキリスト教を主張しました。内村は決してキリスト教会を否定したのではなく、教会と協力して伝道活動も行っています。内村は教会を相対化したと言えます。教会の存在価値を認めつつ、教会の外でもキリスト信仰がありうることを身をもって主張したのです。
 
 内村の無教会主義は、日本に入ってきた欧米のキリスト教には福音本来の真理に多くの歴史的付属物が付着していることを見抜いて、その歴史的付属物を除いて、福音本来の姿を回復し、それを日本にふさわしい形で根付かせようとした運動であったと言えます。それは、ルターの場合のように直接パウロの「信仰による義」による律法主義の批判から出たものではないかもしれませんが、やはり内村自身がキリスト信仰によって救われるという福音の真理をしっかり身につけていたから可能になった運動であったと言えます。それがあったからこそ、内村は欧米のキリスト教には福音にとって本質的でないものが付着していることを見抜くことができたのだと考えられます。その意味で内村の場合も、キリスト信仰だけを絶対としたパウロの福音理解によって、欧米のキリスト教を相対化した宗教改革の一種として見ることができます。


   結び ― 現代におけるパウロ

現代における宗教相対化の必要

 以上本節で見てきたように、パウロはキリスト教の源流であると同時に、キリスト教を内側から改革する原理を据えた者として、宗教改革の源泉となってきました。この事実は、現代においてパウロが占める位置、あるいは現代に対してパウロがもつ意義を再考するように迫ります。
 
 現代世界のもっとも大きな特徴は、交通通信手段の劇的な発達により世界が狭くなり、どの国も、またどの文明圏も、自分だけで孤立して存在することができなくなったことにあると見られます。この事実は、宗教の在り方にも変革を迫っています。今までは各宗教はそれぞれ固有の文明圏を構成し、その文明圏の中で自己を絶対化して存立していくことができました。他の文明と接触し交渉することがあっても、それは周辺的な事件に過ぎませんでした。その文明圏における宗教の絶対性が問題になるようなことはありませんでした。しかし、現代においては経済のグローバル化や情報の世界的共有の時代となって、世界は多くの文明や民族を一つのシステムに組込む方向に進みつつあります。もはやどの国も、どの文明も単独では生き残れない時代です。各民族や各文明の統合原理としての宗教も、その一つのシステムに組み込まれた世界の中では絶対性を主張することはできず、自分を多くの宗教の中の一つとして相対化せざるをえません。これはそれぞれの宗教に外からやってくる相対化の圧力です。
 
 この相対化を拒否して自己を絶対化する限り、「文明の衝突」や民族紛争は避けることができなくなります。そして、宗教は自己絶対化の体質を深く染み込ませていますから、自分で自分を相対化することはきわめて難しい問題です。もし宗教が自分自身の中に自分を相対化する原理をもっていなければ、外からの圧力で宗教を相対化することは至難の問題です。他の宗教の場合はそれぞれの宗教に委ねなければなりませんが、キリスト教の場合は、パウロこそ宗教が自己を相対化する原理を確立した使徒として、現代に対して重要な意義をもつことになります。
 
 

原理主義克服の必要

 先に見たように、パウロはユダヤ教の中にあってユダヤ教を相対化しました。それでユダヤ教を絶対化する周囲のユダヤ教徒から妨害されたり迫害されたりすることになります。当時のユダヤ教の絶対化は、武力をもって異教のローマ支配を排除する運動となり、その結果ユダヤ戦争と神殿の崩壊を招き、ユダヤ人を塗炭の苦しみに陥れました。このユダヤ教の歴史は、現代に対する範例として重要な意味をもっています。現代においても宗教における原理主義が深いところで世界の禍根となっているからです。
 
 宗教における原理主義は、その宗教の基本原理に厳格に忠実であろうとする姿勢であって、必ずしもその宗教の絶対化を意味するものではありませんが、しばしばその原理主義的熱心さがその宗教を絶対的価値として他者に押しつける態度になります。すなわち、宗教の原理主義はしばしばその宗教の絶対化を招いています。パウロの時代のユダヤ教原理主義者たちは「熱心党」と呼ばれていましたが、彼らがユダヤ教徒をユダヤ戦争に駆り立てることになります。現代では、イスラーム原理主義者の過激派がテロに走り、キリスト教原理主義の勢力がアメリカの武力による対抗を支持するという構図で、世界の不安定と紛争を招いています。もちろん、現実の世界に起こる問題は、このような単純な図式で割り切れるものではありません。経済上の利害や民族主義など様々な要因が重なって起こっています。しかし、その中で宗教原理主義が一つの要因、しかも深いところで事態を紛糾させる要因となっていることは事実でしょう。現代の宗教は、それぞれ自分の中に原理主義を克服する原理をもっていなければなりません。
 

原理主義克服の範例としてのパウロ

   本章で繰り返し見たように、パウロはユダヤ教を相対化することによってユダヤ教原理主義を克服していました。このパウロの姿は、現代における宗教原理主義を克服する努力の範例となります。現代のキリスト教徒は、パウロに従って、キリスト教を否定するのではなく、キリスト信仰の絶対性によってキリスト教という宗教を相対化し、キリスト教原理主義を克服していかなければなりません。キリスト信仰はキリスト教という宗教とは別です。それは、一人ひとりがキリストにあって御霊の働きにより霊なるキリストと共に生きる現実です。その御霊の現実があるとき、キリスト教という宗教形態は、それなりの価値があるとしても、それがなければ自分の救いとか御霊の命がないというような絶対的なものでなくなります。
 
 御霊は、自己に属するものを無にすることによって宗教を相対化します。自分の霊的体験を絶対化して、そこから出る宗教を絶対化するのは、御霊の働きではなく肉の働き、すなわち自己絶対化を本性とする生まれながらの人間本性の働きです。原理主義は肉の働きです。自分の霊的体験とそこから出る思想を絶対化することによって、他者の絶対化された宗教と対立し、党派心とか分派とか争いとなります。わたしたちは御霊によって肉の働きを克服し、御霊による愛の交わりを回復しなければなりません。それぞれの宗教が自己を相対化することによってはじめて宗教間の対話が成り立ち、宗教を超える人間の交わりが成立します。
 
 

宗教から解放された福音

 パウロのユダヤ教の相対化は、ユダヤ教原理主義を克服するという消極的な面だけでなく、それによってキリストの福音の絶対性を確立するという積極的な意味をもっていました。パウロは、絶対化されたユダヤ教の枠の中にキリストの福音が閉じこめられるのを防いで、福音をユダヤ教という宗教から解放しました。その結果、キリストの福音は諸国民の間に命の道として広がり、確立することができたのでした。現代においても、キリストの福音が人間にとって神から与えられた道であることには変わりはありません。少なくともわたしたちはそれを体験し、それを証言する者たちです。わたしたちは、その命の道であるキリストの福音を、キリスト教という宗教の枠から解放し、宗教の枠の外でキリストを世界に告げ知らせて行く課題を負っています。
 
 キリストの福音、あるいはキリスト信仰の中身であるキリスト御自身とわたしたちとのかかわりは絶対的なものです。すなわち、それがなければわたしがないという意味で絶対的です。そのキリストの絶対性を確立するためにも、その容器であるキリスト教という宗教は相対化しなければなりません。キリスト教が絶対化されている限り、キリストの絶対性はキリスト教の絶対化という肉の働きの中に埋もれてしまいます。その間の消息は、先に『キリストの絶対性とキリスト教の相対性』という論考に書きました(拙著『教会の外のキリスト』所収)。それは、わたしがパウロから学んだところを生涯の結論としてまとめたものに他なりません。今回、パウロの生涯とその働きの意義をまとめるこの終章の結びとして、繰り返しになりますが、同じ課題をかかげて結びとします。


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