パウロによるキリストの福音 II

 第二章 十字架の言葉

  ― コリントの信徒への手紙 I ―

第一節 ユダヤ人にもギリシャ人にも
第二節 十字架の言葉 

 (本章で書名のない引用箇所はコリント第一書簡の章・節です)


第一節 ユダヤ人にもギリシャ人にも


 アカイア州でのパウロの福音宣教


アテネ

 マケドニア州の州都テサロニケでかなりの期間活動してきたパウロの一行は、ユダヤ人による騒乱によってテサロニケに止まることができなくなり、ベレアに脱出し、そこから(おそらく船便で)南のアカイア州に向かい、ギリシャの古都アテネに到着します。

 ルカによりますと、パウロはアテネでベレアに残してきたシラスとテモテが到着するのを待ちます(使徒一七・一六)。しかし、パウロ自身の手紙によりますと、パウロが去ってから同国人からの迫害にさらされている、成立したばかりの若いテサロニケの集会を心配して、指導と激励のために派遣したテモテが帰ってくるのをアテネで待っていたようです(テサロニケT三・一〜五)。
 
 仲間の到着を待つ間、パウロはアテネの人々に福音を語り、哲学の諸派の人たちと論じ合います。ルカは使徒言行録一七章(一六〜三四節)に、パウロのアテネでの活動とその福音宣教の内容を詳しく書いております。しかし、パウロの手紙から確認できることは、、アテネでの伝道活動は何の成果もなかったという事実だけです。パウロは次の訪問地であるコリントのステファナ一家を「アカイア州の初穂」、すなわちアカイア州で最初に信仰に入った家族だとしています(コリントT一六・一五)。アテネもアカイア州の都市ですから、アテネでは一人も信徒を得なかったことになります。また、パウロはすべての手紙でアテネに触れることは、先に見たテモテを待っていた場所として触れる以外は、いっさいありません。アテネはパウロの宣教活動において何の痕跡をも残していません。

 ルカがパウロのこの時のアテネ伝道でアレオパゴスの議員ディオニシオスとダマリスという婦人が信仰に入ったとしている(使徒一七・三四)のは、おそらく、この伝道以後の時期に成立したアテネの教会を代表する人物を、この時に回心したものとして描いた結果だと考えられます。パウロは州都の大都市に長く滞在し、周辺の諸都市に仲間を派遣して伝道するという仕方で伝道活動を進めましたから、パウロのコリント滞在中にアテネに信徒の群が成立した可能性もあります。しかし、パウロはアテネについて全然触れていないので、アテネの教会の成立はパウロ以後の時期と見るほうが自然でしょう。エウセビウスの『教会史』は、アテネ教会の初代司教としてディオニシオスの名を上げています。

 ルカは、パウロがアテネのアレオパゴスでしたとする説教を詳しく報告しています(使徒一七・二二〜三一)。この「アレオパゴス説教」は、教養あるギリシャ人に福音を弁証する議論の典型として、新約聖書の中でも特異な位置を占めており、詳しく研究し講解する価値があります。しかし、この説教はパウロの説教の要約とか報告としての歴史的な資料ではなく、使徒言行録の中の他の重要説教と同じく、ルカの創作と認められます。ルカは、ギリシャ思想や文化の発祥の地として認められているアテネを、福音とギリシャ哲学との遭遇を描く舞台として選んだのでしょう。「アレオパゴス説教」は、異邦人への福音の告知として、偶像礼拝の祭儀から離れて天地の創造者である唯一の神に立ち帰るべきこととか、イエスとその復活を終末の救済の出来事として宣べ伝えていることなど、テサロニケ書簡で見たこの時期のパウロの異邦人伝道と一致している面もありますが、ガラテヤ書やコリント書から得られるこの時期のパウロの宣教内容から見ると違った面もあります。ここでは、書簡というパウロ自身の証言に基づいてパウロの福音を追求したいと願いますので、「アレオパゴス説教」の講解は別の機会に譲って先を急ぎたいと思います。

コリント

 アテネを去ったパウロは、当時アカイア州の州都であったコリントに向かいます。コリントは、ペロポネス半島をギリシャ本土とつなぐ僅か5キロメートル足らずの地峡に位置し、北にある外港レカイオンは西(イタリア方面)に向かって開けたコリント湾に面し、南にある外港ケンクレアイは東(小アジア方面)に開けたサロニコス湾に面しています。このような地理的な位置から、東西の物流の中継点として、コリントは交易によって栄え、パウロの時代にはヘレニズム世界で最も富裕な都市の一つとなっていました。成り上がり都市の生活は華美放縦に流れ、「コリント風に暮らす」というと、贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。

 コリントは前3世紀にアカイア同盟の盟主としてローマに対抗して戦いますが、前一四六年にローマ軍によって破壊されます。その後、前四四年のカエサルの指示でローマの植民都市として再建され、前二七年にはアウグストゥスによって新たに編成されたローマ属州アカイアの首都と定められます。そして、パウロの時代(一世紀半ば)までの百年足らずで当代随一の富裕な都市となります。急速に繁栄した植民都市として、コリントは様々な民族の移民が流入し、多くの宗教が行われ、多くの神々の神殿が建てられ、哲学諸派(とくにキュニコス学派)の遍歴教師が活動します。近年の発掘によって、コリントにはアポロン神殿の他にも様々な神々に捧げられた神殿があったことが明らかにされています。エジプトの神々の神殿や、神殿娼婦がいた神殿も語り伝えられています。ルカがアテネについて描いた宗教的状況(使徒言行録一七章)は、そのままコリントにあてはまります。
 コリントにはユダヤ人も多くいて、パウロが訪れたときには(おそらく複数の)ユダヤ人会堂がありました。パウロ以後になりますが、カリグラとネロがコリント地峡に運河を掘ることを計画したとき、ユダヤ戦争の捕虜が多数奴隷として連れてこられたと伝えられています。後になって解放されたユダヤ人も含め、コリントではある程度の自治を認められたユダヤ人の共同体「ポリテウマ」が成立しました。発掘でも、「ユダヤ人たちの会堂」と判読できる門標が発見されています。

 コリントに入ったパウロは、まず土地のユダヤ人信徒との接触を求めます。その中で、最近のクラウディウス帝のユダヤ人追放令(四九年)によってローマからコリントに来ていたアキラとプリスキラというユダヤ人夫妻と出会います。この夫妻はポントス州出身のユダヤ人で、パウロと同じテント造りを職業としていたので、パウロはこの夫妻の家に住み込んで一緒に仕事をし、自分の生活を支えます(使徒一八・一〜三)。アキラ夫妻はローマに住んでいたので、ローマの事情、とくにローマの信徒の状況に詳しかったので、パウロは目標としているローマについて、この夫妻から貴重な情報を得ることになります。アキラとプリスキラ夫妻は、最後までパウロの忠実な協力者となり、パウロの宣教活動において重要な役割を果たします。

 アキラとプリスキラ(プリスカと呼ばれている場合もあります)夫妻は、ローマでユダヤ人の会堂に所属し、その中でキリストの福音を力強く宣べ伝えたので、激しく反対するユダヤ人との間に騒乱が起こったのでしょう。ローマの歴史家スエトニウスがその著『皇帝列伝』で「ユダヤ人はクレストゥス(これはクリストスの不正確なラテン語表記だと見られます)の煽動で絶えず騒擾を起こしたから、クラディウスは彼らをローマから追放した」と書いていますが、アキラ夫妻はその騒乱の当事者の一人であったのでしょう。 
 アキラ夫妻は自分の作業場と職人たちを持つ富裕なテント製造業者であるという見方(ヘンゲル)もありますが、パウロと同じように律法研究に携わるための手仕事としてテント製造をしていたという見方もあります。彼ら自身が聖書に精通し、積極的な伝道活動を進める伝道者であったこと、また、シラスとテモテがマケドニア州からコリントに到着して、マケドニア州の教会からの献金をもたらしたとき初めて、「パウロは(手仕事を止めて)御言葉を語ることに専心した」(使徒一八・五)とされていることからも、後者の見方が自然であろうと考えられます。アキラ夫妻が富裕な業者であれば、初めからパウロを福音宣教に専心させることができたはずですから。
 パウロのコリント滞在は、四九年のクラウディウス帝のユダヤ人追放令の直後であることと、後に出てくる総督ガリオンの任期(五一年〜五二年)から確定することができます(ガリオンの任期は近年発見されたガリオ碑文によって確認されています)。すなわち、パウロは五〇年の秋にコリントに到着し、一年半滞在して、五二年の春にコリントを去ったことになります。パウロの生涯の年代は、この年代を起点にして推定されます。

コリントでのパウロの宣教

 コリントでのパウロの伝道は、自然にまず会堂でユダヤ人にイエスがメシアであることを宣べ伝える活動から始まります。しかし、大部分のユダヤ人から激しい反対を受けます。そこで会堂と決別し、神をあがめる異邦人ティティオ・ユストの家に活動の場を移し、そこで異邦人に福音を宣べ伝えます(使徒一八・五〜七)。彼の家はユダヤ人会堂の隣にあったというのですから、パウロの宣教活動はユダヤ人たちを強く刺激したことでしょう。
 
 異邦人ユストの家でのパウロの宣教活動によって「コリントの多くの人々」が信仰に入り、コリントに異邦人を主体とする信徒の群が成立します。コリントでのパウロの福音宣教はかなりの成功を収め、パウロはコリントに一年半(五〇年秋から五二年春まで)も滞在して活動を続けます。このような長期の滞在は、一つにはコリントでの成功に促されたものでしょう。パウロは多くの異邦人が御言葉を受け入れて信仰に入ってきた事実に主の導きと御心を感じたのでしょう。ルカはそれを、パウロが幻の中で主の言葉を聴いた結果であるとしています(使徒一八・九〜一〇)。もう一つにはおそらく、パウロはマケドニアから一路西に向かいローマを目指したのでしょうが、ユダヤ人からの迫害などの事情でやむなく南に向かい、コリントに来ます。そこでアキラ夫妻と出会い、ローマの事情を詳しく知るに至ります。直前のクラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令によって、いまはローマ入りを強行する時期ではないと判断し、コリントに腰を落ち着けて活動することにしたのでしょう。コリントはアカイア州の州都であり、まず州都に福音を確立するというパウロの世界宣教計画にも合致します。パウロはアキラ夫妻とテント造りの職業に携わり、長期滞在の態勢でコリント伝道に臨みます。

 宣教活動の場をユストの家に移しましたが、パウロはアキラ夫妻の家に住み続けたと考えられます。しかし、第三次伝道旅行のさいコリントに滞在して、そこからローマ書を書いたとき(五六年)、パウロとコリントの教会全体がガイオという人物の家に世話になっていると言っています(ロマ一六・二三)。その時にはアキラ夫妻はもはやコリントに住んでいないのですから、パウロの一行はコリントの集会が集まるガイオの家に滞在したのでしょう。また、ガイオはパウロ自身がバプテスマを授けた数少ない人たちの中に含まれています(コリントT一・一四)。そこで、使徒言行録のティティオ・ユストとこのガイオが同一人物であって、そのローマ風のフルネームは Gaius Titius Justus であったのではないかという推定がなされます(グッドスピード)。そうすると、この人物は(もし別人であれば両者は)かなり富裕で、その屋敷はコリントの全集会が集まることができる広さがあり、パウロの一行をかなり長期に世話する資力があったと考えられます。
 なお、コリントの集会からローマへの挨拶(ロマ一六・二三)の中に「市の経理係エラスト」という名がでてきます。最近の発掘で、エラストという名の市の経理担当職の人物がこれを寄進したという銘のある、一世紀半ばの街路舗装タイルが発見されて、このエラストはロマ書のエラストと同一人物ではないかと推定されています。この人物もユストの家に集まっていた信徒であったのでしょう。その他、パウロがコリント書簡やロマ書の挨拶(一六・二二〜二三)で上げている名を見ますと、ラテン語の名前が目立ちます。おそらく彼らはカエサルによって植民された解放奴隷の子孫だったのでしょう。コリントの集会は異邦人信徒が多かったことを印象づけます。コリントの遺跡の写真を見ながら、こういう人物たちの名を思い浮かべますと、当時のコリントの集会の様子が見えるように感じられます。

 コリントのユダヤ人は全体としてはパウロに激しく反対するのですが、他の都市と違ってコリントでは、有力なユダヤ人がかなり信仰に入ります。その代表が会堂長のクリスポ一家です。このクリスポは、パウロ自身がバプテスマを授けた数少ない信徒として、パウロの書簡の中に名が上げられています(コリントT一・一四)。土地のユダヤ人社会を代表する会堂長がイエスを告白するにいたったことは、ユダヤ人社会にとって衝撃であり、ユダヤ人や神を敬う異邦人たちの回心に大きな影響を及ぼしたことでしょう。シラスやアキラ夫妻のような有力なユダヤ人伝道者の協力もあって、キリストの福音はコリントのユダヤ人社会にある程度根を下ろしたものと見られます。
 
 こうしてアカイア州の州都である富裕な大都市コリントに、異邦人とユダヤ人を含む信徒の集会が形成されます。コリントでは、ユダヤ人信徒と異邦人信徒は別の集会を形成したのではなく、同じ家に集まり、共同の食卓の交わりを持ちます。そのことは、パウロの福音の質から言っても当然推定できますし(この点は後にコリント書簡で検証します)、後にパウロが、コリントの「教会全体」がガイオの家に世話になっていると言っている(ロマ一六・二三)ことからも裏書きされます。
 
 この事実は、コリントのユダヤ人社会を強く刺激したと考えられます。会堂の隣にある異邦人テティオ・ユスト(先に見たように、この人物はロマ書のガイオと同一人物と見られます)の家で、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事をして、自分たちこそ新しい神の民であり、正しい仕方で神を礼拝しているのだと主張したのですから、イエスを信じないユダヤ人にとってはとうてい見過ごすことのできない律法違反行為だったのです。異邦人と食卓を共にすることは、熱心なユダヤ教徒には許されない律法違反行為です(アンティオキア事件参照)。信じないユダヤ人にとって、パウロは十字架につけられたメシアというような馬鹿げた宣伝をするだけでなく、ユダヤ人に聖なるモーセ律法を破るように唆す、許しがたい背教者であったのです。
 
 それで、ガリオンがアカイア州の総督であったとき、ユダヤ人はパウロを襲い、法廷に引き立てて行って訴えます。その訴えは、これまでのようにローマの支配に反抗する者としてではなく、「律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しています」という内容であったと伝えられています(使徒一八・一二〜一三)。その訴えに対してガリオンは、「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」と言って、訴えを門前払いにし、ユダヤ人を法廷から追い出します(使徒一八・一四〜一六)。

 コリントでは、ユダヤ人がパウロをローマ支配への反逆者としてではなく、ユダヤ教と異なる宗教を宣伝する者として訴えたのは、成立して成長し始めた若いキリスト教会を、「レリギオ・リキタ(公認された宗教)」としてのユダヤ教から追い出して、ローマ政府の東方諸宗教の抑圧政策の対象としようとしたと考えられます。総督ガリオンはこれを正しくユダヤ教内部の教義争いと判断して、ローマの法廷にはなじまない訴えとして門前払いにします。

 「すると、群衆は会堂長のソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけ」ます。この「群集」は、この訴訟とは関係のない異邦人の群集とは考えられませんので、パウロに対する訴えに失敗したことに憤激したユダヤ人の群集が、リーダーである会堂長のソステネに憤懣をぶっつけたのだと見られます。ガリオンはそれを見ながら、制止するのでもなく、まったく無視します。この態度は、ローマ教養人から見れば野蛮なオリエント宗教に対する軽蔑を示すものでしょう(使徒一八・一七)。
 
 こういう事件があった後もなおしばらくパウロはコリントに滞在しますが、おそらく春の船便の再開を待って、コリントを去ります(使徒一八・一八)。

 このソステネがクリスポの後任の会堂長であったのか、他の会堂の会堂長であったのかは分かりません。おそらく騒乱のときにはパウロを訴える側にいたのでしょう。しかし、数年後にパウロがコリントの教会に手紙を書いたとき、共同の発信人として「ソステネ」という名を上げています(コリントT一・一)。このソステネは、状況から判断すると、使徒言行録のソステネと同一人物と見られますので、ソステネはある時期には信仰に入っていて、コリントの教会によく知られた人物であることが分かります。そうすると、会堂長であったユダヤ人の信徒がもう一人いたことになり、コリントでのユダヤ人社会への福音の浸透を裏付けます。

 ユダヤ人への宣教と異邦人への福音 


聖書の成就としてのキリスト 

 前回に見ましたように、パウロはマケドニア州で福音を宣べ伝えた後、アカイア州に入ります。古都アテネでの伝道は成果なく、新興経済都市のコリントで成功し、コリントにパウロの福音宣教活動において重要な位置を占めることになる教会が形成されます。日本で言えば、京都で失敗し大阪で成功したということになります。では、パウロはコリントで、どのような内容の福音を、どのように宣べ伝えたのでしょうか。それを、数年後(五三〜五四年)にパウロがコリントの教会に書き送った手紙を中心に、パウロ自身の証言によって見ていきましょう。
 
 パウロは、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです」(コリントT九・二〇)と言っています。ユダヤ人に福音を宣べ伝えるときには、ユダヤ人の立場に立って語ったということです。ユダヤ人に対して語るときには、神が唯一であることや、偶像を捨てて生ける神に立ち帰るようにという勧めは必要ではありません。ユダヤ人は聖書を信じているのですから、聖書に基づいてイエスが約束されたメシアであることを論証すればよいのです。パウロは専門の聖書学者として、聖書を駆使して力強くコリントのユダヤ人たちを説得したことでしょう(そのさいどのように聖書を引用したり解釈したかは、数年後(五六年)にこのコリントからローマの信徒に書き送った手紙に、その一端がうかがえます)。もちろん、聖書解釈だけでユダヤ人を説得しようとしたのではありません。パウロの宣教はいつも誰に対しても「御霊と力の証明による」ものでした(コリントT二・四)。パウロは自ら体験した「十字架につけられたままのキリスト」による救いを、御霊の力によって証言したのです。ただ、ユダヤ人に対してはそれを聖書の言葉を論拠として語ったということです。
 
 パウロはコリントで宣べ伝えた福音についてこのように語っています。

 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。 (コリントT一五・三〜五)

 この福音の言葉(《ケリュグマ》)は、用語や内容からして、ごく初期のユダヤ人教団(おそらくは原始エルサレム教団)において成立したものと見られます。そこでは救いの出来事としてのキリストの十字架と復活が、聖書を成就する出来事として起こったことが強調されています。パウロはユダヤ人に対しては、キリストの十字架と復活という救いの出来事を、聖書の成就として、聖書の言葉を論拠として語ったのです。
 
  ルカは、ベロアのユダヤ人について、「ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じた」(使徒言行録一七・一一〜一二)と言っています。コリントのユダヤ人も、少なくとも一部の者は、ベレアのユダヤ人のように、パウロの御霊の力に溢れた証言に打たれて、パウロが解釈する聖書の論証を受け入れたのです。コリントのユダヤ人が福音を受け入れるには、シラスやアキラ夫妻というような、聖書に精通したユダヤ人伝道者の働きも、大きく貢献したことでしょう。
 
 ところが、大部分のユダヤ人にとっては、「十字架につけられたメシア」というような使信は、とうてい受け入れられないものでした。ユダヤ人が待望していたメシア、すなわち、終わりの日に神から遣わされる神の民の救済者は、神の民を抑圧する異教権力者の支配を覆して、神御自身の支配をその民と全世界に打つ立てる人物です。それが、こともあろうにローマ人によって十字架刑に処せられたイエスをメシアだとすることなど、とうてい受け入れることはできません。「十字架につけられたメシア・キリスト」ということは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの」以外の何でもありません(コリントT一・二三)。
 

唯一の《キュリオス》 

 

 先に見たように、ユダヤ人に対するパウロの宣教は、一部の例外はあっても全体としてはユダヤ人社会に受け入れられず、パウロは会堂と訣別して、異邦人ティティオ・ユストの家を拠点として、異邦人にキリストの福音を宣べ伝えます。
 
 異邦人は、ユダヤ人と違って、多くの神々を信じて、その偶像を拝んでいたのですから、キリストによる救いを説く前提として、キリストが万物の創造者であり、唯一の見えざる神から遣わされた方であることを説かなければなりません。テサロニケ書簡のところで見たように、パウロはコリントでも同じように、異邦人に向かって「偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるように」(テサロニケT一・九)説いたことでしょう。 その唯一神の宣教は、書簡の中の次の言葉に痕跡を留めています。

「唯一の神、父である神がおられ、
万物はこの神から出、
わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、
万物はこの主によって存在し、
わたしたちもこの主によって存在しているのです」。 (コリントT 八・六)

 この一節はおそらく、コリントの集会で信徒たちが唱えた信仰告白の定型文か、集会で歌われた賛美歌をパウロが引用しているものと思われます。コリントの集会では、ユダヤ人信徒も異邦人信徒も一緒に、この信仰告白の文を唱えるか歌ったのでしょう。

 この文は、偶像に供えられた肉を食べてもよいかどうかという問題に答える箇所(コリントT八・一〜一三)に出てきます。コリントはヘレニズム世界の繁栄した代表的な都市として、ヘレニズム宗教のあらゆる神々が集まり、拝まれていました。コリントの集会は多くの偶像の宮に取り囲まれていました。その状況を、パウロは「現に多くの神々、多くの主《キュリオス》たちがいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(五節)と描き、それに続けて「しかしわたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、・・・・唯一の主、イエス・キリストがおられる」(六節)だけだと語るのです。それは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めて、キリストにある者は、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(四節)と言えるからです。
 
 ここでヘレニズム世界の宗教について語るさい、「神々」と並んで《キュリオス》たちという称号が出てくることが、「唯一の《キュリオス》、イエス・キリスト」という信仰告白との関連で注目されます。ヘレニズム世界の人々は、人間が存在する場である宇宙をコスモスと呼び、そのコスモスは支配する諸々の霊的な力で満ちていると考えていました。そのような支配力は、「支配」または「権力」《アルケー》、「権威」《エクスーシア》、「勢力」《デュナミス》などと呼ばれていました(コリントT二・六、一五・・二四、ロマ一三・三、コロサイ二・一〇、エフェソ一・二一など参照)。これらの「支配力」は、人間の宗教的崇拝を要求するとき、オリエント宗教の影響もあって、「主」《キュリオス》と呼ばれたのです。後に帝政時代のローマ皇帝も、コスモスの支配力として、《キュリオス》と呼ばれることになります。ヘレニズム世界の人々は、このようなコスモスの多くの支配霊を《キュリオス》として拝んでいたのです。
 
 このような多くの「神々」と多くの《キュリオス》たちを拝んでいるヘレニズム世界に向かって、キリストの福音は、天と地の創造者である唯一の神と、唯一の《キュリオス》であるイエス・キリストを宣べ伝えるのです。天と地の創造者である唯一の見えざる神を拝むことは、その神が死者の中から復活させたイエス・キリストを、万物の支配者コスモクラトールとしてその御前に膝をかがめ、主《キュリオス》と言い表すことによってなされます。パウロはその手紙の中で、神がイエスを高く上げて万物の主《キュリオス》とされたことについてこう書いています。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主《キュリオス》である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。 (フィリピ二・六〜一一)

 そしてさらに、このイエスを主《キュリオス》と言い表すことが救いであることを、次のように言っています。

「口でイエスは主《キュリオス》であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。 (ローマ一〇・九)

 復活によって神の右に上げられ、万物の支配者とされたイエス・キリストを信じ、このイエスを唯一の主《キュリオス》と言い表すことによって、コスモスに満ちている諸々の《キュリオス》たちの支配から解放され、イエスを復活させた神の命、永遠の命にあずかることになるというのです。
 
 ここに引用したフィリピ書とロマ書は、パウロのコリントでの宣教活動から後数年の範囲内で書かれたものです。それで、パウロがコリントでもこのような言葉で福音を宣べ伝えたことは間違いないと見ることができます。この二つの言葉は、ヘレニズム世界での宣教活動において広く用いられていた定式を、パウロが引用しているものと見られています。この二つの引用からも、ヘレニズム世界での異邦人への福音宣教では、イエスを《キュリオス》として宣べ伝えていること、また、「イエスは《キュリオス》である」と言い表すことが信仰告白の中心的な位置を占めていたことが分かります(コリントT一二・三)。
 
  ユダヤ人に対しては、イエスが聖書に約束されていたメシア(そのギリシャ語訳がキリスト)であることを示す「キリスト・イエス」とか「イエス・キリスト」という称号は十分意味を持っていましたが、聖書に馴染みのない異邦人にとっては、「キリスト」はイエスの身分を表す称号としては理解されず、「イエス・キリスト」が一つの人名のように受け取られていました(現代のわたしたちも事情は同じです)。それで、イエスの身分を表す称号として《キュリオス》が用いられるようになり、「主イエス・キリスト」《キュリオス・イエスース・クリストス》が信仰告白の最も凝縮された表現となりました(ロマ一・三〜四)。
 

しるしを求めるユダヤ人 

 

 このように、救い主としてのキリストを宣べ伝えるにあたって、ユダヤ人に対する場合と異邦人に対する場合とでは、宣べ伝え方に違いがありますが、どちらの場合もパウロが力をこめて語ったキリストは「十字架につけられたキリスト」です。パウロはこう言っています。

 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。 (コリントT一・二二〜二四)

 ここでは、異邦人、すなわちユダヤ人以外の人々を「ギリシャ人」と呼んでいます。コリントには様々な民族の人々が集まっていましたが、どの民族の出身であろうが、ギリシャ語を話し、ヘレニズム世界の宗教の中で、ギリシャ風の生活をしている人たちは「ギリシャ人」と呼ばれるのです。ユダヤ人もギリシャ語を話しましたが、ユダヤ教という唯一神宗教をもち、その律法の定めを守って、周囲の「ギリシャ人」とは違う生活習慣を貫くことで、「ユダヤ人」と呼ばれる独特の宗教共同体を形成していました。
 
 パウロは自分を異邦人に福音を伝えるために召された使徒であると強く自覚していましたが(ロマ一・五)、ユダヤ人に福音を宣べ伝える責任を放棄したわけではありません。むしろ、「ヘブライ人の中のヘブライ人」(フィリピ三・五)として、ユダヤ人が神に選ばれた神の民であり、福音はまずユダヤ人のところに来たことを疑わず、どの都市に入ってもまずユダヤ人の会堂に行って、キリストの福音を宣べ伝えたのでした。
 
 ユダヤ人がキリストの福音を受け入れることを、パウロは命がけで祈り(ロマ九・一〜五)、力を尽くして語りましたが、ユダヤ人は、少数の例外はあっても全体としては、イエスをキリストとして受け入れることを拒みました。パウロが宣べ伝える「十字架につけられたキリスト」は、「しるしを求める」ユダヤ人には「つまずき」以外の何ものでもなかったのです。
 
 一世紀のユダヤ人社会にはメシア待望の熱気が高揚していました。とくに「イスラエルの地」パレスチナでは、ローマの圧制から解放してくれる「神から油を注がれた者メシア」の到来が熱く待ち望まれていました。その待望に応えて、この時代には多くの自称「メシア」が現れました。それで、当時のユダヤ教の指導階級である律法学者たちは、真のメシアを判定する規準として、次の四項目を掲げるようになりました。
 
(一)ダビデの家系の出身であること
(二)メシアであることのしるしを公に現すこと
(三)先だってエリヤが到来していること
(四)生涯中にイスラエルの解放というメシアの使命が達成されていること

 この中で(二)の「しるし」は狭い意味の「しるし」であって、病気の癒やしなどのように普通の霊能者が行う奇跡以上の「天からのしるし」を指します。ファリサイ派の人々がイエスにこのようなしるしを見せるように求めたことが福音書に出ています(マルコ八・一一〜一二)。しかし、このような狭い意味のしるしだけでなく、広い意味ではここに上げられた四つの項目すべてがメシアであることの「しるし」だと言えます。ユダヤ人はメシアであるとされる人物には、このような「しるし」を求めたのです。

 ディアスポラのユダヤ人の間では、メシア待望がどのような形と程度で燃えていたのか、また、律法学者たちのメシアの規準がどの程度普及していたのか、不明な点もあります。しかし、パウロがディアスポラのユダヤ人会堂でイエスをメシアとして宣べ伝えるとき、いつもイエスがメシアである「しるし」を求めるユダヤ人の執拗な態度に直面して、福音に対するユダヤ人の態度を要約するさいに、「ユダヤ人はしるしを求める」と言わざるをえなかったのでしょう。
 
 メシアであることの四つの規準の中で、(一)については、教団はユダヤ人に福音を宣べ伝えるにさいして、イエスがダビデの家系であることを強調しました(マタイ一・一)。それが《ケリュグマ》の項目となり、異邦人への福音宣教においても用いられ、パウロもその伝統を受け入れて用いています(ロマ一・三)。(二)については、パウロはイエスの名によってなされる数々の奇跡を指し示すことができたでしょう(ロマ一五・一九)。(三)については、教団は洗礼者ヨハネをメシアに先立って現れたエリヤとして示してきました(マルコ九・一一〜一三)。このように、ある程度ユダヤ人を説得する議論もできました。しかし(四)については、どうしてもユダヤ人を納得させることができませんでした。メシアはその生涯中に使命を達成していなければならないのです。ところが、イエスはイスラエルの民をローマの支配から解放するどころか、逆にローマの権力によって十字架刑に処せられて死んだのです。「十字架につけられたメシア」というようなことは、ユダヤ人にとってはどうしても受け入れることのできない背理、「つまずき」そのものなのです。
 
 ユダヤ人が「十字架につけられたメシア」につまずいたという事実に、ユダヤ人が期待するメシアと福音が告知する救済者キリストとの間のギャップが見られます。ユダヤ人が期待するメシアは、神の民イスラエルを異教の支配者から解放して、地上に神の民イスラエルの支配を確立する政治的・民族主義的救済者でした。ですから、十字架の刑死は敗北であり挫折に他ならないのです。それに対して、パウロが宣べ伝える救済者キリストは、死者の中から復活することによって、死者の復活によって始まる新しいアイオーンを導入する終末的な救済者です。その復活者キリストが十字架上に死なれたのは、「わたしたちの罪のために死なれた」のであって、わたしたちを罪の支配から解放するためであったのです。十字架の死は敗北ではなく、まさに救済の業そのものであったのです。復活者キリストは十字架のゆえに人間の救済者であるのです。イエスの復活を信じることができないユダヤ人はつまずかざるをえないのです。

知恵を探求するギリシャ人

 このように「しるしを求める」ユダヤ人に対して、ギリシャ人は「知恵を探す」と言われています。ギリシャ人にとって「知恵」《ソフィア》とは、それによって人間が苦悩や悪から解放されて本来の在り方を完成することができる、コスモスと人間の根元的・全体的理解のことです。それは、世界についての知識の集積とか、それによって生を豊かにする技術ではなく、むしろ宗教的な「悟り」に近いものです。そのような「知恵」《ソフィア》を愛し《フィレオー》、慕い求め、探求する営みを、ギリシャ人は《フィロソフィア》と呼びました。この語は、日本語ではふつう「哲学」と訳されますが、ギリシャ人にとっては救済を求める宗教的求道を指すと見てよいでしょう。ギリシャ人にとって「哲学」諸派の教師は、宗教的な導師であったのです。

 そのように「知恵を探求するギリシャ人」に対しても、パウロは「十字架につけられたキリスト」による救済を語ります。ところが、このような救済の告知は、ギリシャ人にとっては「知恵」の対極である「愚かさ」に他なりません。まず、パウロがいう救済者「キリスト」とは、復活によって神の子とされた救済者であり、信じる者をその復活に与らせるというが、ギリシャ人にとって死者の復活による救済とはまことに馬鹿げた話なのです。ギリシャ人は霊魂と身体はまったく別のものであり、救済とは霊魂がこの朽ちるべき卑しい身体の拘束から解放されて永遠性を獲得することだと考えていましたから、救済された霊魂が再び身体を持つというようなことは不条理なことであったのです。
 
 その上、世界の終末とか審判を前提にして、イエスの十字架の刑死を「わたしたちの罪のための死」であるとするなど、ギリシャ人の循環的な自然観や個人的な宗教観・倫理観からすれば、理解しがたいことばかりです。「十字架につけられた救済者キリスト」の告知は、その全体がギリシャ人にとっては「愚かさ」の極みなのです。パウロがギリシャ人の態度を「知恵を探求する」と総括し、そのギリシャ人にとってキリストの福音は「愚かなもの」であるというような言い方をしたのは、ギリシャの精神と文化を代表するアテネで、パウロが語る福音がギリシャ人に嘲笑され、伝道が失敗した苦い経験が反映しているのかもしれません。


第二節 十字架の言葉


 十字架につけられたキリストの宣教 


福音の核心 

 このように、しるしを求めるユダヤ人がつまずき、知恵を求めるギリシャ人が愚かなものして拒もうとも、パウロはユダヤ人にもギリシャ人にも、ただ「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えます。パウロはそうせざるをえないのです。パウロはこう言っています。

 「兄弟たち、わたしもまた、そちらに行ったとき、神の奥義を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。 (コリントT二・一〜二 一部私訳)

 ここで「奥義」と訳した原語は《ミュステーリオン》です。この箇所は《マルテュリオーン》(証し)と読む有力な写本があり、どちらを採るかは釈義に委ねられています。口語訳は「あかし」を採っていますが、新共同訳は《ミュステーリオン》を採って、この語の通例の訳語を用いて「秘められた計画」としています。わたしは、ここは《ミュステーリオン》の方が適切だと考えますが、訳語としては「奥義」の方がよいと思います。黙示文学に出てくる場合は、「秘められた計画」は分かり易い訳語ですが、ここでは意味を狭く限定しすぎるようなので、二章七節での用例(そこでは新共同訳は「神秘」と訳しています)とも合わせて、「奥義」が適当ではないかと考えます。

 パウロはすでにガラテヤでの伝道において「十字架につけられたキリスト」を福音の中心に置いていました(ガラテヤ三・一)。それに続くフィリピやテサロニケでの伝道においても、その前のガラテヤでの場合と、その後のコリントでの働きと同じく、パウロの福音宣教の内容は変わらず、一貫していたと見るべきでしょう。テサロニケ書簡にキリストの十字架のことがほとんど触れられていないので、パウロは初期にはキリストの来臨パルーシアを中心とした宣教をし、コリント伝道以後の後期に「十字架につけられたキリスト」の宣教に変わったとする見方はとることができません。テサロニケ書簡に十字架が出てこないのは、テサロニケの集会がキリストのパルーシアの問題で動揺していたから、それに対応するために書かれた書簡であるという事情によります。
 
 この段落でパウロが「わたしがそちらに行ったとき」とか、「あなたがたの間では」と言っていることをとらえて、「十字架につけられたキリスト」の宣教が急にコリントから始まったとか、コリントでの特殊な強調であるという見方は、採ることができません。ガラテヤ書がそれに反証を与えています。だいたい、パウロの三十代四十代の二十年近くにわたる伝道者教師としての活動の後に始められた五十代の独立伝道において、二三年で福音の内容とか中心点が変わることは想像できません。アンティオキア教会から離れて独立の宣教活動を始めるまでに、パウロの福音は確立しており、この独立伝道の時期のパウロの宣教は一貫して「十字架につけられたキリスト」の福音の宣教であったと見るべきです。
 
 パウロにとってキリストの十字架こそ福音の核心であり本質です。十字架は、それがなければ福音が福音でなくなるのです。もちろん、それは「キリストの」十字架、すなわち復活された方の十字架です。復活者キリストの十字架の出来事こそ、神の永遠の救いの業であり、十字架につけられた復活者キリストこそ、すべての人間の救済者なのです。それがパウロの福音です。
 
 最初期のキリスト宣教、すなわち、イエスをキリストとして宣べ伝える宣教には、様々な流れがありました。その中には、ヤコブに代表される原始エルサレム教会のように厳格にユダヤ教律法の枠内にとどまるものや、「語録資料Q」とか「トマス福音書」などのように受難物語抜きでイエスの教えを強調するもの、また、当時のユダヤ教黙示思想を受け継いでひたすら終わりの日の切迫を強調するものなどがありました。その中で、パウロが「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」福音を宣べ伝えたことは、当時としては決して当たり前のことではなく、かなり特異な行き方でした。そして、このパウロの決意が、激しい批判や反対運動にもかかわらず、後の時代の「キリスト教」の流れを決定する力となるのです。現在わたしたちがキリスト教を「十字架教」(内村鑑三)として理解しているのは、パウロのおかげなのです。 

御霊の力

 では、なぜパウロはコリントの集会に宛ててことさらに、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と書かなければならなかったのでしょうか。その理由は、先行する「わたしもそちらに行ったとき、神の奥義を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」という句が示唆しています。パウロはこの書簡を書いたとき、自分の宣教が「優れた言葉や知恵」を用いたものでなかったことを強調しなければならなかったのです。パウロは続けてこう言っています。

 「わたしもまた、そちらに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、御霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によるものではなく、神の力によるものになるためでした」。 (コリントT二・三〜五 一部私訳)

 パウロはテサロニケでユダヤ人から迫害され、辛うじて脱出してアカイア州に入りました。アテネでは市民から嘲笑されて、失意の中にコリントに入りました。その間、迫害にさらされているテサロニケの集会のことが心配でなりませんでした。このような心身ともに労苦に満ちた旅をしてコリントに入ったとき、パウロは衰弱し、恐れとひどい不安の状態だったというのです。それでもパウロは福音を語らざるをえませんでした。パウロは内から衝き動かす力に逆らうことはできないのです。そのような状況での宣教は、説得するために知恵に適った言葉を選び抜いて語ることはできず、ひたすら御霊の力に頼って、人の知恵には愚かさそのものである「十字架につけられたキリスト」の《ケリュグマ》だけを語ったのです。
 
 パウロはその時の自分の宣教を「御霊と力の証明によるもの」としています。宣教の場における「力」とは御霊の働きのことですから、「御霊と力」というのは「御霊の力」とか「御霊の働き」という意味と理解してよいでしょう。では、御霊の力による「証明」というのは、御霊の働きによって奇跡が行われたことでしょうか。パウロは自分が行った奇跡は手紙の中で触れたり自慢したりしていませんが、パウロの宣教活動に奇跡が伴っていたことは、パウロ自身が認めていますし(ロマ一五・一八〜一九)、使徒言行録もそれを報告しています(使徒一九・一一〜一二)。この「証明」の中に病気の癒やしなどの奇跡が含まれていることは排除できません。しかし、パウロがこの語を用いた状況からすると、ここでの「御霊と力の証明」というのは、パウロが語る言葉の説得力が、人の知恵の論理によるものではなく、御霊が聴衆の心に直接働きかける結果であるという意味に理解するのが適当だと考えられます。「御霊の迫り」とでも言ってよいと思います。イエス・キリストの名が告白され、福音の言葉がひれ伏しの中で語られ聴かれるるとき、御霊が働かれる場が形成されます。その御霊が聴く者の心に働きかけて、福音のリアリティ、霊なるキリストの現実を悟らせてくださるのです。それは御霊による直接の「照明」です。

 「証明」と訳されている原語《アポデイキシス》は、新約聖書ではここだけに用いられている名詞です(動詞形は四回出てきます)。この語は広く一般的な意味では「証明」と訳してよいのですが、当時の修辞学上の用語として、「説得性」とか「説得力」に近い意味を持っていました。ここでは後者の意味で理解して、それが御霊の働きの結果ですから、スピーチの構造の論理性などから生じる説得力ではなく、聴衆の心に直接働きかけることで生じる論理を超えた説得力と考えます。

 パウロがここで福音を語ったときの自分の弱さに言及したのは、自分の宣教が人間的な知恵に頼ったものでなく、御霊の力によるものであることを強調するためでした。ここにも、人間の弱さの中に神の力が現れるという、パウロが体験し、そこに生きている逆説が貫かれています。パウロが「わたしもまた」(一節と三節)と言うのは、直接には直前の段落(一章二六〜三一節)で神は世の無力な者を選ばれたと言ったことを受けて、「あなたがたと同じく、わたしもまた」という意味でしょうが、その奥には、十字架という弱さの極限において神の救いの力を現されたキリストと同じように、わたしもまた自分の弱さの中に神の力を現すのであるという気持ちが響いています。
 
 そのように弱さの中で福音を語ったのは、パウロの言葉を聴いて信じた者の信仰が、「人の知恵によるのではなく、神の力による」ものとなるためだと、パウロは言います。「神の力」とは、ここでは先に出てきた心に直接働きかける「御霊の力」とか「御霊の働き」を指しています。パウロはここで、「人の知恵による信仰」と「御霊の働きによる信仰」を対立させて、自分の宣教の言葉を聴いて信仰に入ったコリントの人たちの信仰は「御霊の働きによる信仰」であることを思い起こさせているのです。
 
 「人の知恵」については次回以降で改めて扱うことにして、ここでは、福音がそれを聴く者にもたらす信仰とは「御霊の働きによる信仰」であることを強調しておきたいと思います。普通「信仰」というと、何らかの意味で人間の側の決意とか行動、あるいは理解とか態度を指しています。しかし、福音においては、それを含むとしても、それだけでは信仰は成り立ちません。たしかに、信仰は福音の言葉を聴く場において成立します。教会で説教を聴くとき、信仰者と対話するとき(著作を含めて)、ひとり聖書を読むとき、わたしたちはイエス・キリストに対しているのです。この方のことを思いめぐらし、敬愛し、その教えに従うことを決意し、教会に通う生活をするとしても、それはまだ「信仰」ではありません。
 
 新約聖書が言う「信仰」とは、「主イエス・キリストとの交わり」のことです(コリントT一・九、ヨハネT一・三)。御霊の働きによって、霊なるキリストと結ばれ、霊なるキリストとの交わりに生きることです。それは、福音の言葉が響く場で、自我が打ち砕かれて、自分が無になったとき、突如として始まります。そのような御霊の働きが、いつ、どこから来るのか、誰も知りません。誰も風がどこから来て、どこへ行くかを知らないのと同じです(ヨハネ三・八)。しかし、その時、わたしたちは自分の魂の奥底に変化が起こったことを知ります。磁性を帯びた鉄が北極をいつも指すように、御霊の働きによってキリストと結ばれた魂は、自分の現実がいかに惨めなものであっても、生涯キリストを慕い、キリストを目指して生きないではおれないようになるのです。「信仰」はもはや自分の決断とか努力ではなく、内なる御霊の力の発現となるのです。
 
 このように御霊の働きによって霊なるキリストと結ばれるようになることを、「聖霊のバプテスマ」と呼んでよいでしょう。



 人の知恵と神の力


福音の逆説

 前回に見たようなパウロがキリストにあって体験し生きている逆説、すなわち、人間の弱さの極限においてこそ神の力が現れるという逆説は、パウロ個人の特別の体験ではなく、福音そのものがもつ逆説です。パウロは、十字架の福音における逆説を次のように展開しています。

 「なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』」。 (コリントT一・一七〜一九)

 ここでパウロはまず、キリストから遣わされた者としての自分の使命を「洗礼(バプテスマ)を授けるため」ではなく、「福音を告げ知らせるため」であると対比しています。これは、コリントの集会に起こった分派が、おそらくそれぞれ自分たちにバプテスマを授けた伝道者の名を自派の旗印としたので、パウロはコリントでは僅かの人たちにしかバプテスマを授けなかった事実を思い起こさせて分派を戒めた(コリントT一・一〇〜一六)という文脈に出てくるものです。「バプテスマを授けるためではなく福音を告げ知らせるため」というパウロの言葉は、福音宣教におけるバプテスマの位置について重要な問題を提起していますが、この問題については後に改めて詳しく取り上げることにします。
 
 パウロはさらに、「福音を告げ知らせる」使命を、「言葉の知恵によらないで」福音を告げ知らせることと規定します。同じく「福音を告げ知らせる」といっても、「言葉の知恵によって」福音が告げ知らされるならば、「キリストの十字架がむなしいものになってしまう」というのです。では、「言葉の知恵によって」福音を告げ知らせるとは、どういうことでしょうか。
 
 パウロはここで自分の「十字架につけられたキリスト」の宣教を「十字架の言葉」と呼び、それを「言葉の知恵」による宣教と対比しています。「言葉の知恵」という表現がどのようなタイプの宣教を指しているのか特定することは困難ですが、それが何を指すにせよ、パウロはここで自分の「十字架の言葉」が「愚かなもの」であるのに対して、「知恵にあふれた言葉」とか「人の知恵」(二・四〜五)と同じ意味で用いていることは明かです。もし福音を、たとえそれがイエスの言葉であっても、言葉の霊的理解とか実践的知恵として告げ知らせたり、自分が語る言葉の論理性とか倫理性に訴えて相手を説得した場合、「キリストの十字架がむなしいものになる」、すなわち、キリストの十字架は人を変える力を持たない無内容なもの、なくてもよいものになるというのです。

 パウロがコリントを去ってから、アポロをはじめ様々なタイプの伝道者がコリントにやってきて活動したようです。その中に、イエスの言葉を集めた「語録」を拠り所とし、イエスの「言葉」の霊的解釈や、その「言葉」に従う新しい生活を信仰だとする一派の人々がいたので、そのようなタイプの宣教をパウロがここで「言葉の知恵」による宣教と呼んでいるのだとする学説があります。たしかに、最近の研究が明らかにしたところによると、パウロが活動した時代にはすでに、ガリラヤやシリアを中心に、イエスの語録を奉じる信仰運動が展開しており、その中から後に「語録資料Q」や「トマス福音書」が生み出されてきます。この両者には受難物語がないのが特色です。そのような流れのグループから来た伝道者がコリントで活動したとすれば、彼らの福音はパウロの「十字架につけられたキリスト」の福音《ケリュグマ》と対立するのは当然ですし、パウロがそのようなタイプの宣教を「言葉の知恵」と呼ぶこともうなずけます。このような推定は可能ですが、ここでは「言葉の知恵」をそのような狭い意味に限定する必要はないと思われます。以下の議論の展開からしても、パウロはここで、愚かさの極みである「十字架の言葉」が神の力であることを、広く人間の知恵と対比していると理解してよいでしょう。

 パウロにとって「福音」とは「十字架の言葉」、すなわち、十字架につけられたキリストを告知する言葉です。「わたしたちのために」死なれた復活者キリストを告げ知らせる言葉です。「復活」も「わたしたちのための死」も、人間の知恵にとってはまったく愚かなことであり、自分の知恵に固執して「愚かさ」の中に提供されている神の救いを受け取ろうとしない者、すなわち「滅んでいく者」には、愚かさの極みです。人間にとって愚かさの極みである「十字架の言葉」が、まさに人を救いに至らせる神の力なのです。その言葉を受け入れて救いに与る者には、まさにその愚かな「十字架の言葉」が救いに至らせる神の現実的な力となるのです。このように、福音は十字架の言葉として、人間には「愚かなもの」であると同時に「救いに至らせる神の力」であるという逆説の形で現れるのです。
 
 先に「滅んでいく者」と「救われる者」の二種類の人間がいて、その二種類の人間に「十字架の言葉」がそれぞれ「愚かなもの」と「神の力」として現れるというのではありません。世に告げ知らされた「十字架の言葉」が人間を二つに分けるのです。それを愚かなものとして拒む者が「滅んでいく者」であり、それに身を委ねて「神の力」として体験する者が「救われる者」なのです。一つの言葉が同時に「愚かさ」であり「神の力」であるというところに、「十字架の言葉」の逆説があるのです。
 
 パウロはここで「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」という預言者イザヤの言葉(イザヤ二九・一四のギリシャ語訳)を引用して、この逆説が神からのものであることを論証し、以下の展開の根拠とします。

「福音」の愚かさによって

 「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」。 (コリントT一・二〇〜二一)

 ギリシャ哲学諸派の知者にも、ユダヤ教各派の律法学者にも、また、総じてこの世の精神世界の指導者をもって任じている論客にも、パウロは「十字架の言葉」を突きつけて挑戦します。彼らは「十字架の言葉」を愚かなものとすることによって、神が彼らの知恵を愚かなものとされたことを示しているのです。「神は世の知恵を愚かなものにされたではないか」という断定を、パウロは続く一文(二一節)で説明します(二一節は理由づけの小辞ガルで前の文に結ばれています)。
 
 二一節は、新共同訳では三つの文に分けて訳されていますが、原文では一つの文章です。直訳しますと、「というのは、神の知恵において、世は知恵によって神を知ることがなかったので、神は、《ケリュグマ》の愚かさによって、信じる者を救うことをよしとされた(決心された)からである」となります(RSVなど大部分の英訳はこのように直訳しています)。
 
 「神の知恵において」という句の解釈は分かれています。協会訳や新共同訳は、「世は知恵によって神を知ることがなかった」ことが神の知恵の中での出来事であると理解して、「神の知恵にかなっている」と訳したのでしょう。そう理解すると、「人間は知恵によっては神を知ることができない」という認識が「神の知恵」であることになり、「知恵」のトータルな否定ともなります。しかし、パウロはキリストを「神の知恵」とし(一・二四)、さらに詳しく「神の知恵」を語ります(二・七)。パウロは「知恵」をトータルに否定するのではなく、その意義を認めています。それで、協会訳と新共同訳は原文にはない「自分の」という句をつけて、「世は自分の知恵によって神を知ることができなかった」として、この矛盾を避けたのでしょう。しかし、パウロの知恵の評価を考慮に入れるならば、「神の知恵において」という句は、むしろ「神の知恵の中にありながら」とか「神の知恵に囲まれていながら(または、包まれていながら)」と理解するべきでしょう。たとえば、NTD(ヴェントラント訳)は「じっさい、神の知恵(が啓示されている)にもかかわらず、この世はこの知恵によって神を認めなかったので」としています。この場合、コスモス(世)は神の知恵によって存在し、その知恵の中にいるにもかかわらず、コスモスはその知恵によって神を認識するにいたらなかった、という意味になります。いずれにせよ、コスモスは知恵によって神を知ることはできなかったのです。
 
 そこで、神は「《ケリュグマ》の愚かさによって、信じる者を救う」と決意されたのです。《ケリュグマ》は《ケリュッセイン》(告げ知らせる)という動詞の名詞形で、告げ知らせる行為そのものと告げ知らされた告知内容の両方を指します。ここでは両方の意味を含んでいるのでしょう。たしかに、ある出来事を告知するという行為は、知恵をもって教え導く働きと比べると、「愚かなもの」です。新共同訳はここを「宣教という愚かな手段で」と訳しています。しかし、ここでは「信じる」の対象になっていることからして、告知行為よりもむしろ告知内容が考えられていると見られます。ところで、パウロがキリストから遣わされた使徒として告げ知らせた救いの告知の内容は「福音」と呼ばれています(ロマ一・一〜四、コリントT一五・一〜五)。それで、「宣教」という語は告知行為の意味合いが強いので、この箇所の日本語訳としては、「宣教の愚かさによって」よりも、あえて「福音の愚かさによって」とする方が、かえって正確ではないかと考えます。
 
 「福音」とはパウロにとって、とくにここの文脈においては、十字架につけられたキリストを告げ知らせる言葉、「十字架の言葉」に他なりません。人間の知恵からすれば全く愚かさの極みである「十字架の言葉」が神の力だというのです。それは、この「十字架の言葉」が信じる者に御霊をもたらすからです。なぜそうなるのか説明はできません。「神は信じる者を救うことをよしとされた」と言うほかありません。神はこの「十字架の言葉」を信じる者に御霊を与えて、救いに至らせるのです。福音が信じる者にもたらす御霊こそ「救いに至らせる神の力」なのです。

神の愚かさと弱さ

 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。 (コリントT一・二二〜二五)

 先に見たように、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」。しかしパウロは、それが「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であることを十分承知の上で、ただひたすら「十字架につけられたキリスト」だけを宣べ伝えます。「つまずかせるもの」も「愚かなもの」も共に、人が認めることができない「不条理なもの」という意味で、広い意味の「愚かなもの」に含めることができるでしょう。人間の判断には不条理で愚かな「十字架につけられたキリスト」こそ、人を救う神の力であるとして、基本的にはパウロは「人の知恵」と「神の力」の対比を強調しています(一・一八、二・五)。しかしここでは、キリストを「神の力」であるだけでなく、「神の知恵」として「人の知恵」と対比しています。
 
 パウロの福音においては「十字架につけられたキリスト」は、神の力であるだけでなく、神の知恵でもあるのです。「神の知恵」は人の知恵とか世の知恵とは対立する別の知恵ですが、知恵であることには変わりありません。パウロは知恵そのものを否定しているのではなく、神の知恵に反抗する世の知恵とか人の知恵を否定しているのです。 知恵というのは神と世界の現実に対する人間の認識とか洞察のことですから、「神の知恵」というのは「神からの知恵」のことです。それは人間自身とかこの世から出てくる知恵とは別のところから来る知恵です。キリストが「神の知恵」であるというのは、キリストに結ばれて生きる者には、この世が与えるものとは別の知恵を御霊が与えてくださるからです。この御霊が与える「神の知恵」についてパウロは少し後(二章六節以下)で詳しく論じていますが、ここでは自分が宣べ伝えるキリストが「神の知恵」であることを示唆するだけにとどめています。
 
 そして最後に「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」という強烈な印象を与える言葉で、この「人の知恵」と「神の力」の逆説を説く一段を締め括ります。「神の愚かさ」というのは、神がなされる業が人間の目にはまったく愚かに見えることを指しています。人間にはまったく愚かに見える「十字架につけられたキリスト」の出来事は、いかなる人間の知恵よりも深い根元的な知恵の源泉なのです。また、「神の弱さ」というのは、神が遣わされた方が、敵対する者を力づくで抑えて勝利するのではなく、地上では追われ、放浪し、最後に十字架で処刑されるという、人の目には弱さの極限と見える出来事を指しています。ところが、その出来事こそが、いかなる人の力も及ばないことを成し遂げる強い力なのです。

神の選び

 「十字架の言葉」は愚かなものであるが、まさにその愚かなものが神の力であるという逆説は、この言葉の宣教の結果にも現れていることを、パウロは続く段落(一・二六〜三一)で語ります。パウロがコリントで初めてこの福音を宣べ伝えたとき、この福音によってキリストの交わりへと「召された」者はどのような種類の人たちであったかを思い起こさせます。「人間的に見て知恵のある者、能力のある者、家柄のよい者」は決して多くありませんでした(一・二六)。はじめパウロの伝道によってコリントの集会を形成したのは、比較的下層の人たちが多かったようです。それは、「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれた」結果だというのです(一・二七)。「また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」結果なのです(一・二八)。

 ここで、福音を聴いて信じた者がキリストの交わりに召されたのは、「神が選ばれた」結果であると理解していることが重要です。わたしたちが今キリストの交わりにあるのは、決してわたしたち自身の立派さとか熱意の結果ではないのです。自分の側には何の根拠もないのです。神が選ばれたからとしか言いようがないのです。「選び」の信仰は、自分の側に何の根拠もないことを告白する一つの表現です。そのことを、パウロは次のように表現します。

 「それは、いかなる肉も神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神からの知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。 (一・二九〜三〇 一部私訳)

 「肉」というのは生まれながらの人間のことであり、ここで人間の側の価値を根拠とする「誇り」が徹底的に否定されているのです。わたしたちが今「キリスト・イエスにある」(キリストとの交わりにある、キリストに結ばれている)のは、ただ「神から」出た事態なのです。それは、わたしたち自身の価値とか努力によるのではなく、神の恩恵と選びによるのです。そして、今わたしたちが結ばれているキリストこそ、わたしたちにとって「神から」与えられた知恵となり、義と聖と贖いとなってくださっているのです。わたしたちに知恵とか義とか聖とか贖いはないのです。

 他の箇所では「神の知恵」と言っていることが、ここでは「神からの知恵」(原文で前置詞アポが用いられている)と表現されていることが注目されます。先に「神の知恵」というのは「神からの知恵」と理解すべきであるとしたことの、一つの根拠となります。また、義などより先にまず、キリストが神からの「知恵」であると強調していることが注目されます。パウロは、コリントの集会で自分の知恵とか知識を誇るグループに対して、キリストを知恵とすることで対抗しようとしているからでしょう。なお、「義と聖と贖い」という名詞の組み合わせは、パウロには他に例がなく、パウロ以前の定型句を使用しているという可能性が議論されています。そうであるとしても、自分ではなくキリストを神からの「義と聖と贖い」とすることは、パウロの福音を凝縮した表現として貴重な一文でしょう。

 最後にパウロは、「誇る者は主を誇れ」という預言者エレミヤ(九・二三)の言葉で、この段落を締め括ります。わたしたちの場合、「主」はキリストを指します。わたしたちはキリストだけを「誇る」、すなわち自分の救いとか栄光の根拠にするべきなのです。キリスト以外の何ものも誇ってはならないのです。自分の側の知恵も知識も、義も聖も根拠としてはならないのです。キリストがすべてなのです。

十字架の言(ことば)

 パウロがここで「十字架の言葉」というとき、それは「十字架につけられたキリスト」を告げ知らせる言葉、すなわち福音の言葉を指していますが、その背後にはキリストを「十字架の言」として体験する霊的な体験があると考えられます。

 パウロは自分の霊的な体験をほとんど語りません。パウロの生涯を決定的に変えたあのダマスコ体験についてさえ、ガラテヤ書簡の一節(ガラテヤ一・一六)で、しかも副文の中でごく短く触れるだけです。パウロは聖霊の力により病人を癒やし悪霊を追い出すなどの奇跡を行いましたが、それらの奇跡について自ら語ることは、ロマ書の一箇所(ロマ一五・一九)以外ほとんどありません。また、パウロは預言や異言など霊の賜物に豊かに恵まれていましたが、自分の賜物について語るのはコリント書簡の一節(コリントT一四・一八)で控えめに触れる以外ありません。パウロは御霊によって「第三の天にまで引き上げられ」、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(コリントU一二・一〜四)。これはパウロ自身の体験であることは明かですが、パウロはそれを第三者のことのように書いています。
 
 このように、パウロは自らはほとんど語りませんが、ダマスコ体験以来長年にわたって様々な形の御霊の働きと啓示に与ってきました。その中でもっとも決定的で深い体験は「十字架体験」と呼んでよい体験であったとわたしは考えます。
 
 そう考える根拠の第一はパウロ自身の告白です。すでにガラテヤ書で見ましたように、パウロは福音の提示にさいし、その核心的な位置で自分の体験を一人称単数形で次のように告白しています。

  「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。 (ガラテヤ二・一九〜二〇)

  「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」。 (ガラテヤ六・一四)

  次の告白の「わたしたち」にもパウロの個人的な体験が響いていると見られます。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。 (コリントU五・一四〜一五)

 このような告白だけでなく、パウロの書簡の隅々まで十字架の逆説がしみ通っていることを見ますと、その背後には「十字架体験」が中心的な位置を占めていると推定せざるをえません。
 
 第二の根拠はわたしの体験です。わたしのような小さな者の体験から大使徒パウロの体験を推測するのは愚かなことですが、愚かさを承知であえて自分の体験を語り、わたしがこのような推定をする根拠を説明しておきたいと思います。
 
 わたしは若いときに福音を聴いて信仰に入りましたが、信仰とは自分の決心とか忠誠とか努力では不可能であることを思い知らされて、聖霊を切に祈り求めました。主はその祈りに応えて、わたしのような小さい者にも約束の聖霊を注いで、様々な霊的な体験を与えてくださいました。御霊に溢れて主を賛美するとき、祈りの言葉はおのずから異言となってほとばしりました。預言や霊歌が溢れる集会で主の臨在を身近に実感しました。また、手を置いて祈ることで病人が癒やされるという事実も僅かながら体験しました。そのような霊的体験は貴重なものでしたが、その中でわたしにとって最も決定的な体験は「十字架の言」に出会った体験です。
 
 その頃、わたしは御霊に導かれて祈っているとき、「わたしはあなたのために死んだ」という言葉を聴きました。わたしは自分の前に十字の形をして輝く光を見ました。その光の中に人格の臨在を感じ(というより、その光自体が人格であったと言うべきかもしれません)、その方から「わたしはあなたのために死んだ」という言葉を聴いたのです。その言葉は日本語でもなく英語でもなく、言葉そのもの、意味そのものとしか言いようのない言葉でした。その十字の形をして輝く光そのものが人格であり、わたしに語りかける言葉であるのです。そのような根源的な言葉を「言(コトバ)」と書いて、わたしたちが口で語る言語としの「言葉」から区別しますと、わたしはそのとき「十字架の言」を聴いたと言うことができます。
 
 この体験はわたしの生涯を決定しました。わたしはこの世に対して死に、この世に求めるものはなくなり、キリストにおいて生きることだけを求めるようになりました。キリストにあって、聖書に証言されている「神の国」の真理だけを追い求めるようになりました。わたしの実際の生涯は弱さと愚かさとに満ちて破れ果てたものですが、根底にはいつもこの「十字架の言」がわたしを支え、わたしをキリストの道一筋に生きざるをえないようにしているのです。
 
 このようなわたしの体験からしますと、パウロが「十字架の《ロゴス》」という時、その《ロゴス》は「十字架につけられたキリスト」を告げ知らせる言葉(福音の言葉、《ケリュグマ》)という意味だけではなく、「十字架につけられたキリスト」自身がわたしたちに語りかける神の根源的な「言」であるという意味に理解せざるをえないのです。「十字架につけられたキリスト」という「言《ロゴス》」、神の根源的な語りかけそのものなのです。「わたしはあなたのために死んだ」という復活者キリストの現実がわたしへの神の言なのです。
 
 その言は人間には愚かなもの、理解できないもの、不条理なものですが、実にわたしを砕き、新しい存在に作り変え、命を与える神の力なのです。「十字架の言」こそ、わたしを死なせると同時に生かし、砕くと同時に建てる力なのです。その愚かさは「人よりも賢い」のです。「十字架の言」は「隠されていた奥義としての神の知恵」(二・七)なのです(この知恵についてはパウロは二章六節以下で詳しく語っていますが、本稿では別の章で扱うことになります)。
 


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