パウロによるキリストの福音 II

 第四章 終わりの日に生きる

  ― コリントの信徒への手紙 I ―

第一節 聖霊の宮としての体
第二節 結婚生活についての勧告 

    (本章で書名のない引用箇所はコリント第一書簡の章・節です)


第一節 聖霊の宮としての体



はじめに

 一章(一〇節)から三章までで、集会内の分派の問題を取り扱ったパウロは、さらに他の問題を次々に取り上げていきます。その間に、パウロは使徒としての自分に対する批判があることにも触れ、弁明しながら、使徒としての使命感やコリントの人々に対する熱い思いを吐露しています(四章と九章)。パウロとコリント集会との関係は、決して平坦で幸福なものではなく、パウロの使徒としての資格を問題にし、パウロの福音と異なる理解を主張する勢力と対決し、福音の真理を確立しエクレシアの一致を維持するために、論争と労苦と涙を強いるものでした。そのことはコリント書簡全体の重要な主題になっていますが、第一書簡でその主題に関連する四章と九章は、第二書簡を扱うさいにまとめて取り上げることにして、ここでは五章以下のコリント集会内部の問題に集中して進めていきます。


 性的放縦の問題


みだらな者を除け

 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。(五・一)

 まず、パウロはコリント集会の中に「みだらな行い」があることを取り上げます(五章)。これは「クロエの者たち」からや他の経路で「伝え聞いていた」ことでしょう(五・一)。「みだなら行い」と訳されている原語《ポルネイア》(「ポルノ」の語源)は、広く社会の規範に背く性行為一般を指す語です。コリントは新興の商業都市として繁栄し、「コリント風に暮らす」という表現は贅沢と性的放縦の中に暮らすことを指すようになっていたと伝えられています。そのような大都会の気風に慣れていたコリントの人たちは、家庭の外での性行為にもあまり罪悪感を持たず、信仰に入ってからも「みだらな行い」がきっぱりと断ち切られずに残っていたのでしょう。パウロは、コリント集会のこのような状況を心配して、「みだらな者たち」と交際しないように警告する手紙を、この手紙の前にも書いています(五・九)。

 「社会の規範に背く性行為」と言っても、その社会を形成する文化と時代によって規範も違ってきます。遊郭での遊びをそれほど罪悪視しなかった一時期の日本のように、コリントでも神殿所属の娼婦《ポルネー》たちと関係を持つこと(それが《ポルネイア》です。六・一六参照)は、市民として許されている行為でした。しかし、それはユダヤ人パウロにとってとうてい認めることができない罪悪であったのです。ユダヤ人から見た異邦人の根本的な罪は偶像礼拝と性的放縦でした(ロマ一・一八〜二七)。異教世界では性的放縦は偶像礼拝と結びつくのです。この二つは一体となって、甚だしい神への背きを現しています。パウロはコリントの人たちとは違った規範で《ポルネイア》を見ています。
 
 ところが今回、パウロをさらに驚かせる事実が耳に入ってきました。集会の中の「ある人が父の妻をわがものにしている」というのです。「父の妻」というのは、母親ではなく、父が再婚した女性または父の妾であった女性のことであり、その女性を「わがものにする」というのは、父が死亡した後、または父と離別した後、その女性と結婚または同棲することを指しています。このような結婚関係はユダヤ教でも厳禁されていましたし(レビ記一八・八、二〇・一一)、ローマ法でも禁じられていました。そのような関係はユダヤ人パウロにとって嫌悪すべき大罪であり、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」であったわけです。

 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。(五・二〜五)

 「こんなことをする者」を自分たちの交わりに抱え込んだままで、自分たちは霊の知恵に豊かに満たされ、すべてを支配する王になっており(四・八)、「わたしにはすべてのことが許されている」(六・一二)と主張して高ぶっているのはどうしたことかと、パウロはコリント集会の思い違いを指摘します。自分たちの中に「こんなことをする者」がいることを恥じて、自分の身体の一部を切り捨てるような痛みと悲しみをもって、その人をエクレシアの交わりから除外するのが当然ではないか、とパウロは迫ります(二節)。その後に、現代の注釈者を困惑させる言葉が続きます(三〜五節)。それは、パウロが生きている霊の次元から遠いところにいることからくる困惑でしょう。

 パウロはエフェソでこの手紙を書いています。たしかに、身体はコリントの集会から遠く離れています。しかし、「このわたしは」(原文では強調)霊においてコリントの集会の中にいて、「こんなことをした者」をすでに裁いてしまっているというのです。そして、その意味を続く文で説明します。すなわち、「主イエス・キリストの名によって、あなたがたのとわたしの霊が共に集まり」、主イエス・キリストの臨在のもとで聖徒たちの会議(法廷)が形成され、パウロが議長として判決を下しているのです。その判決は、その者の霊が「主の日」に救われるために、その者の身体(パウロは《サルクス》という語を使っていますがここでは身体の意味)を「主イエスの力により」サタンに引き渡すというものです。「身体をサタンに引き渡す」というのは、エクレシアの交わりから除名して、その者を「主イエスの力による」保護の圏外に追放し、彼の身体をサタンの取り扱いに委ねるという意味であると考えられます。そうすることで、彼が悔い改め、魂が砕かれるならば、「主の日に彼の霊が救われる」可能性を残そうというのです。

 新共同訳は「主イエスの力をもって」を「共に集まる」という分詞にかけていますが、その位置から「引き渡す」を修飾する副詞と理解することも可能です。「主イエスの名により」と「主イエスの力により」の二つの句をどの動詞(裁いた、集まる、引き渡す)にかけるか、理解の仕方が分かれ、翻訳も様々です。
 なお、この一段が後に教会が異端者を処刑する根拠とされたのであれば、それはとんでもない間違いです。いかなる大罪に対しても、教会が取りうる処置は交わりから追放すること(破門)が限界です。教会が意見の異なる者や非行を犯した者を、彼の霊が救われるためと称して身体を滅ぼすことは、教会自身がサタンの役割を行うことになります。



古いパン種を除け

 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。(五・六〜八)

 異教時代の性的放縦を新しいエクレシアの交わりに持ち込まないで、それを厳しく取り除くべきことを、パウロはパン種のたとえを用いて勧告します。このパン種のたとえの背景には、イスラエルがエジプトから解放された出エジプトの出来事を記念する「過越の祭り」があります。昔イスラエルの民はエジプトから脱出するとき、種を入れないで焼いたパンを用意しました。それを記念して今もユダヤ人は過越祭の間は種を入れないパンを食べます。「わたしたち」キリストの民は、キリストによって「この世」の支配から解放され、約束の栄光の御国を目指す新しい旅に出発したのです。キリストが十字架につけられたのは、「わたしたちの過越の子羊として屠られた」ことを意味します。そのキリストに合わせられてこの世に対して死んだ(絶縁した)者は、イスラエルがエジプトのパン種を除いて旅に出たように、古い異教時代の悪い習慣を完全に取り除いて、キリストと共なる歩みを進めるべきです。少しでも残っていると、わずかのパン種が練り粉全体を膨らませるように、エクレシア全体を腐敗させる恐れがあると、パウロは警告します。
 
 ここでパウロは、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という事実を根拠にして、「だから、パン種の入っていない純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と勧めていることが注目されます。わたしたちがパン種のない者であるという事実は、恩恵によって与えられた現実、恩恵の現実です。キリストに合わせられている者は、十字架の上でキリストと一緒に古い自分は死んでいるので、古い自分に属するパン種はみな取り除かれているのです。それは、わたしが取り除いたのではなく、神がキリストにおいて成し遂げてくださった恵みの出来事なのです。その恩恵の現実は、それを受けた者に、その現実に生きる責任を負わせます。その現実をわたしたちが生きることで、古いパン種がない歩みを地上の生活の中にどれだけ実現できるかが問題になってきます。恩恵の現実を生きることによって、神の恩恵は確かなものになり、霊なる神との交わりは深められ、栄光の希望が輝くようになります。もし、わたしたちが恩恵の現実を生きることに失敗するならば、せっかく受けた恩恵は無駄になり、キリストの出来事はわたしたちの現実の人生に何の効果もないものになります。パウロは恩恵を受けた者に、恩恵に留まり、恩恵に生きるように、せつに勧めるのです。そこに恩恵の場の倫理が成立します。

内部の者の裁き

 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もしそうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」 (五・九〜一三)

 ここでパウロは、今回と同じく「みだらな者」との交際について、以前に書き送った手紙が誤解されていることに対して、真意を説明します。ここの文意は明白ですから、テキストをあげておくにとどめます。「一緒に食事をするな」という表現は、この時期では主の名によって「一緒に食事をする」ことがエクレシアとしての交わりの中心でしたから、「エクレシアの交わりから除名せよ」という意味になります。最後の引用文は、申命記一七章二〜七節の最後の部分です。申命記のこの一段は、イスラエルにおいて偶像を拝むことで主との契約に背いた者を、証人と民の全員が手を下して処刑し、イスラエルの中から除くべきことを定めた規定です。パウロはこの規定を念頭に置いて、コリントの集会が「こんなことをした者」を除名することを求めているのです。
 
 「みだらな者」との交わりの問題で、集会は外部の人を裁く立場にはないが、内部の人を裁く責任があるという点に言及したことから、話題は自然に兄弟の間での訴訟の問題に移ります。

 兄弟間の訴訟


世を裁く聖徒

 あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。(六・一〜六)

 集会がその交わりの中に抱え込んではならない「みだらな者」を除名しないでいること、すなわち内部の者を裁く能力がないことを非難したパウロは、続いて、兄弟の間の日常生活にかかわる紛争も自分たちの中で裁くことができないコリント集会の状況を批判します。先の《ポルネイア》の問題もこの訴訟の問題も、パウロが批判し非難するのは、このような行為をしないようにという勧告であるだけでなく、このような問題を自分たちの中で処理することができない集会を「恥じ入らせ」、自分たちは知恵に達しているという誇りを打ち砕くためです。この知恵の誇りが、分派の問題だけでなく、コリント集会のトラブルの源泉であるとパウロは見ているのです。その誇りを砕くために、「このようなことも知らないのですか」と畳みかけて問いかけるのです。
 
 コリント集会の一員が、集会に属する仲間の一人と日常生活にかかわる紛争(おそらく財産問題)を起こしたとき、その人が集会に紛争の仲裁とか調停を求めないで(または、求めたが解決しないので)、異教徒の裁判官が裁く法廷に訴訟を起こして権利を主張したことに対して、パウロは「そのようなことをなぜするのか」と、驚きと不審の思いを投げかけます。そのような訴訟は、訴訟を起こした本人もそれを見過ごしている集会も、自分たちが今どのような場にいるのかが分かっていないという基本的な無知をさらけ出しているのです。
 
 コリントの集会は「神のエクレシア」であり、「聖なる者たち」なのです。終わりの時に、この世から召し集められた神の民なのです。神に所属する「聖なる者たち」は、神が世界を裁かれるときに、神に直属する民として、神の裁きに参与して「世《コスモス》を裁く」のです。その時には、神に反逆して堕落した「天使たちさえ裁く」のです。

 「聖なる者たちが世を裁く」という思想は、ユダヤ教黙示思想の思想です。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。また、「そののち、・・・・大いなる、永遠の裁きが行われ、彼は天使たちに罰をくだされるであろう」(同九一・一五)という天使への裁きにも聖徒が参与すると理解されて、「天使たちさえ裁く」という思想が出てきたのでしょう。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。コリント書簡のこの箇所は、パウロが《エクレーシア》を黙示思想的な終末共同体と理解していたことを指し示すケースの一つです。

 この世を裁くはずの「聖なる者たち」が、自分たちの間の日常の生活に関する紛争一つ解決できず、この世の法廷に訴え出るのは、自分たちの知恵がこの世の知恵にも及ばないことを告白しているわけです。兄弟の間の争いを仲裁できる知恵のある者が一人もいないのに、自分たちは知恵に達していると誇るのはどうしたことか、とパウロは彼らの高ぶりを戒めるのです。

 パウロの時代の集会がどのような形で内部の紛争を裁いていたのかは分かりません。まだ集会の規模が大きくないので、それぞれの「家の集会」に集まるときに、集会の全員が問題を協議し、集会としての裁定をくだしていたと推察されます。そのさい、ステファナなど「家の集会」を世話している長老格の人物が、協議と裁定を主導したことでしょう。問題が集会全体の集まりで協議されたことは、パウロがアンティオキアでペトロと対立したとき、「皆(全員)の前で」(ガラテヤ二・一四)議論したことからもうかがえます。最初期の集会の指導体制については、正確なことは分かりませんが、エルサレム集会がエッセネ派の集会をモデルにした可能性があること、また、パウロもエルサレムでエッセネ派の影響を受けた可能性があることを考えますと、エッセネ派の文書と見られる「死海文書」の中の「宗規要覧」に、「多数者の集会に関する規律」という部分があり(日本聖書学研究所『死海文書』一〇三頁)、そこに描かれている協議の様子が参考になります。もちろん、キリストの民の集会においては、クムラン宗団のように祭司と長老というような厳格な位階秩序はなかったでしょうし、いろいろと違いもありますが、「多数者の集会」で決するという理念は共通していたのではないかと考えられます(死海文書では「多数者」は「会衆」と同じ。ヴァンダーカム『死海文書のすべて』青土社・二九〇頁、チャールズワース編『イエスと死海文書』三交社・三七二頁)。



聖徒と裁判

 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。(六・七〜八)

 民事裁判というのは、市民の間の紛争を力(公権力)によって解決しようとするものです。この世は力が支配する社会です。そこでは力のある者が弱い者から奪うことがあるので、弱い立場の者は公の権力(裁判)に訴えて自己の正当な権利(人権や資産)を守らなければならないという場合があります。裁判は「正義」(弱い者の権利を守ること)の実現のために、この世では無くてはならない制度です。
 
 ところが、「神のエクレシア」は別の原理で構成される社会ですから、力による紛争の解決はなじみません。「神のエクレシア」は、神の絶対無条件の恩恵が支配し、構成員はお互いに無条件の愛によって受け入れ仕え合うという終末的な現実(愛の支配の現実)が聖霊によって先取りされている共同体です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ一一・六)という終末預言が聖霊によって成就している社会です。そこでは力ある者が弱い者に仕えるのです。
 
 このような共同体では、力のある者が弱い者から力ずくで奪うというようなことはあり得ないことです。もし、力をもって奪う者があれば、そのようなことをする者はこの共同体には属していないのです。そのような者は「神の国を受け継ぐことはない」のです(一〇節)。しかし、奪われた者が裁判に訴えて、すなわち公権力という力によって取り戻そうとするならば、それも恩恵の場に生きる者にはふさわしくない、とパウロは諫めます。むしろ奪われるままにし、甘んじて不義を受けるように勧めます。パウロのこの勧めの言葉は、「山上の説教」の中のイエスの言葉を思い起こさせます。イエスは言っておられます。

 「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(マタイ五・三九〜四二)

 パウロはイエスの語録を引用することはほとんどありません。しかし、同じことを言っていることが分かります。それは、イエスもパウロも同じ御霊によって同じ「恩恵の支配」の現実に生きているからです。甘んじて不義を受けるだけであれば、不義を野放しにすることになるではないか、という反問に、おそらくパウロはこう答えるでしょう。

 「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる、と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ一二・一九〜二一)

 ここで注目すべきことは、裁判ざたになったことをパウロが「あなたがたの負け」と言っていることです。訴訟を起こした個人の信仰上の欠点というだけでなく、集会がこの世の勢力に負けたことを意味すると言っているのです。集会は、「兄弟」の間の紛争を仲裁することができず、この世の力を借りなければならなくなったことで、自らの弱さを暴露したというのです。兄弟の間で争いが起こったとき、集会は両者に自分たちが今どのような場に生きているのかを教え諭して、両者を恩恵の場にふさわしい和解に導くべきであったのです。裁判は力ずくで解決しますが、和解は両者の納得と同意の中で解決します。和解に導く知恵もなく、この世の裁判になったこと自体、終末共同体としてのコリント集会の敗北だというのです。この発言は、わたしたちに「エクレシア」の場に生きることの真剣さを改めて感じさせます。
 
 ただ、世俗の裁判所に訴えるなとか、不義を甘んじて受けよという勧告は、あくまで「兄弟の間の争い」について、すなわち恩恵の場に生きる終末共同体の中での紛争について、まず集会が仲裁の責任を負っていることを主張しているだけで、キリスト者は裁判に訴えてはならないという規則を定めたものではありません。一般社会に生きるキリスト者は、その社会における正義の実現のために法廷に訴えることが必要な場合もあります。 このように裁判に訴えた側を諭したパウロは、兄弟から力ずくで奪うようなことをする者を、「決して神の国を受け継ぐことはできません」と厳しく断罪します。

御霊による変革

 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。(六・九〜一一)

 「むしろ不義を甘んじて受ける」ように勧めたパウロは、不義を働く者には「神の国を受け継ぐことはない」と厳しい判決を下します。これは、兄弟から力ずくで奪うようなことをする者について語っている文脈で出てくる言葉ですが、このようなことをする「正しくない者」に、パウロは先に触れた「みだらな者」も含ませます。ここに出てくる「正しくない者」のリストは、まず「みだらな者」の種類が具体的にあげられ、それからこの文脈での主題である「泥棒、強欲な者、人の物を奪う者」があげられます。その間に「酒におぼれる者」と「人を悪く言う者」が入ってきます。とくに「人を悪く言う者」があげられていることが注目されます。陰で「人を悪く言う」ことは軽く見られがちですが、重大な罪なのです。人と人との交わりを破壊する行為であって、神の愛の霊が支配する場には入れないのです。
 
 キリスト信仰に入る以前には、あなたがたの間にそのような者がいたが、今は「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされている」ので、そのような者はいないはずだと、パウロはコリントの人々にキリストにある者としての自覚を促します。この言葉は、「洗われ」という表現が示唆しているように、コリントの人々が受けたバプテスマ(洗礼)を思い起こさせていると言われています。そうだとしても、「神の霊によって」という句が明言しているように、水による洗礼という加入儀礼ではなく、聖霊による人間存在の変革が語られていることは明かです。コリントにおいても、ガラテヤ(三・一〜五)の場合と同じく、パウロが聖霊の力によって語る福音を聴いて、「主イエス・キリストの名」を言い表し(イエスを主と告白し)、この御名に全存在を委ねた者は、約束の御霊を受けて、新しい次元の命に生きるようになったのです。その一つの出来事を、パウロは「洗われた」、「聖なる者とされた」、「義とされた」という三つの動詞で表現するのです。

 一一節を直訳すると、「そして、ある者たちはこのような者であった。しかしあなたがたは洗われた、しかしあなたがたは聖とされた、しかしあなたがたは義とされた、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊とによって」となります。この文章の勢いからしても、パウロは御名を信じる者に起こった御霊による変革という一つの現実を語るのに、多くの宗教的用語をもどかしげに重ねて駆使していることがうかがわれます。そこには、洗礼を受けて、義とされ、それから御霊によって清められていくというような段階的な神学はありません。ここでも「義とされる」ことは御霊によることが明言されています。



 聖霊の住まいとしての体


体は主のため

 「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(六・一二〜一四)

 パウロはもう一度「みだらな行い《ポルネイア》」の問題に帰ります。コリントの人たちの中に《ポルネイア》が行われたのは、霊の知識に到達した者は自由であり、身体の行為は霊の知識に影響することはないという考えが影響していたようです。彼らのスローガンが「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉でした。御霊によって生きる者は外からの律法の拘束からは解放されており自由であるという主張は、パウロの主張でもあり、パウロは頭から彼らの主張を否定することはしません。ただ、その福音的な主張が誤って用いられていることに抗議し、正しい方向に向けようとするのです。
 
 パウロは彼らの主張を引用し、「しかし」とその誤用を指摘します。「すべてのことが許されている」としても、すべてのことが主との交わりに、主の御名の栄光に、またエクレシアの形成に益となるわけではない。自由が与えられているのは、その自由を自分の欲望の充足のために用いるためではなく、このような意味での「益」のために用いるためであると諭します。たしかに「すべてのことが許されている」が、その自由を自分の欲望のために用いる者は、欲望という主人に支配される奴隷となるのであると警告します。主にある「わたしは」(原文では強調)何にも支配されてはならないのです。
 
 「食物は腹のため、腹は食物のため」という言葉も、霊の知識を誇る人たちの標語であったのでしょう。律法の食物規定はユダヤ人と異邦人の食卓の交わりにおいて大きな問題となっていましたが、彼らはこの標語によって一気に食物規定を無視する態度に出たのではないかと思われます。知識のある者は、食物は肉体に関わるだけで霊の次元には何の関わりもないことを知っているというわけです。パウロはこの主張そのものに対しては反対せず、その主張が身体の行為は霊に影響しないという彼らの考え方に結びつくことに反対するのです。
 
 「腹」は食物が養う肉体を代表しています。終末における栄光の完成の時には、たしかにこの肉体もそれを養う食物も無くなっているでしょう。しかし、「体《ソーマ》」は無くなりません。ここでパウロは、彼らが「腹」で代表している肉体と「体《ソーマ》」を微妙に区別して用いていることになります。「腹」は無くなりますが「体」は無くなりません。現在の「自然の命の体」そのままではありませんが、それが「霊の体」に変えられて、復活の栄光にあずかり、終末の完成に参与するのです(一五・四四)。ですから、「体は主のため、主は体のため」という標語が成り立ちます。主はわたしたちの体を救済の目標とされているのです。そのことは、ここに改めて死者の復活の信仰告白が引用されて確認されます(一四節)。そうであるならば、わたしたちは「体」を主のために用いなければなりません。決して《ポルネイア》のために用いてはならないのです。そこで、「体」を主のために用いることと、《ポルネイア》のために用いることは両立しないことが、続いて語られます。

キリストの体の肢体

 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。(六・一五〜一七)

 新共同訳がここで「一部」と訳している語は、全体に対して一部というだけでなく、目や足や手のように同じ命で体につながった部分、すなわち「肢体」という意味の語です。キリストに属する信徒ひとりひとりが「キリストの体」の「肢体」として、違った役割を担って補完的に働き、《エクレーシア》という一つの体を構成するということが一二章で詳しく論じられますが、ここでは各人の体がそれぞれキリストの体の肢体であること、したがって体でする行為がキリストの体の出来事になるという、各人の行為が問題とされます。
 
 性の交わりは体を含む人間の全体が交わり合一する体験であり、「二人は一体となる」という世界です。《ポルネイア》、すなわち《ポルネー》(娼婦)と交わることは、その女と一つの体となるので、キリストの体の肢体を娼婦の体に結びつけてしまうことになるというのです。そんなことは決してあってなならない、とパウロは厳しく戒めます。おそらく、コリントの人々は《ポルネイア》がそのような意味をもつ行為だとは知らないで、体でする行為は霊の次元に影響しないと考え、以前の習慣から娼婦との交わりを軽く見ていたのでしょう。
 
 それに対して、パウロは「知らないのか」という問いを重ねて、体でする行為が霊の事態にとって決定的であるということを知らない彼らの霊的無知を突きます。パウロの知恵は、「二人は一体となる」という創世記(二・二四)の引用が示しているようにユダヤ教的背景からのものであり、同時に霊なるキリストと一体とされた深い霊的体験から出たものです。
 
 ここで、「娼婦と交わる者はその女と一つの体になる」と「主と交わる者は主と一つの霊となる」が対照され(両方に同じ動詞「交わる」が用いられています)、両者は両立できないことが強調されています。わたしたちの体は一つですから、どちらかと一体となるほかないのです。同時に両方と一つになることはできません。この対照から、パウロは「主と交わる」ことを性の交わりとの類比で考えていることがうかがわれます(旧約の伝統では、主とイスラエルの関係は結婚の類比で語られてきました)。性の交わりが体を含む人間存在全体の合一であるように、主と交わるということ(それが信仰です)は体を含む人間存在全体が主と一つになる体験であるというのです。ただ、娼婦は地上の体をもった人間ですので、その一体化は「一つの体となる」と表現されますが、主は霊であるので、主との一体化は「一つの霊となる」と表現されます。

 コリント集会でパウロに対立した人たちの信仰はどのようなタイプのものであったのかについては議論があります。グノーシス主義ないしはその萌芽形態のものであったという見方があり、それを否定する見方もあります。しかし、いずれにせよ、霊魂と肉体を峻別して、肉体を霊魂の牢獄として蔑視するギリシャ思想の影響を受けていたことは十分うかがえます。その結果、体でする行為は霊の救いや知恵に関わりがないとして、《ポルネイア》を容認する姿勢になったと見られます。それに対して、パウロはあくまでユダヤ教の遺産を継承体現する者として、その信仰は「具体的」です。すなわち、救済の対象である人間はあくまで「体を具した(備えた)」全体です。ユダヤ教からの遺産とギリシャ思想との遭遇は、初期のキリスト教形成期のもっとも根本的な問題ですが、コリント書簡はこの遭遇の発端を証言する貴重な文献となります。



聖霊が宿る神殿

 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(六・一八〜二〇)

 このように、「みだらな行い」《ポルネイア》、すなわち《ポルネー》(娼婦)との交わりは、本来キリストの体の肢体である自分の体を、娼婦と一体となることで、背後にある偶像の支配に引き渡すという結果になり、「自分の体に対して罪を犯す」ことになります。それは自分の存在全体を主との交わりから引き離して罪(神の支配への反抗)に引き渡すことです。それに比べると、他の罪はすべて「体の外にあります」。すなわち、自分の存在全体を罪に引き渡すのではなく、キリストと一体となって生きている中で、主の御心に反する個々の失敗であることになります。このように、パウロは《ポルネイア》を他の罪とは性質の違う重大な罪であることを、コリントの人たちに明らかにして、「《ポルネイア》を避けよ」と強く迫ります。
 
 そもそもコリントの一部の人たちが体の行為とその結果を軽く見て《ポルネイア》を容認するのは、キリストに属する者の体は「聖霊が宿ってくださる神殿」であることを知らない(自覚しない)ことから来ています。パウロはこの事実を改めて自覚させることによって、彼らが《ポルネイア》を避けることができるようにしようとします。ここのパウロの言葉は、わたしたちキリストにある者に根本的な自覚を迫ります。
 
 神はわたしたちを御自身の霊を住まわせる神殿とするために、御子キリストの血という代価を払って買い取られたのです。わたしたちはもはやわたしたち自身のものではないのです。自分の願いや欲望を満たすために生きるのではなく、内に住みたもう聖霊によって、わたしたちの主であり所有者である神のために生きるように定められているのです。この体によってする行為と生き様によって、神の栄光を現すように求められているのです。
 
 この体が内に住みたもう聖霊と一つになって「わたし」の全体をなすという見方が、キリストにある者の自己理解であり、人間理解の基本です。「わたし」とは体なしの霊でもなく、また、神の霊なしの体でもありません。「わたし」は内なる神の霊によって生きている体をもった存在です。その「わたし」が救われて完成するのは、終末における神の霊の働きによって、現在の朽ちるべき卑しい体が、朽ちることのない栄光の体に変えられて復活するときです(一五章)。ここにキリスト信仰の「具体性」があります。
 
 三章では、コリントの集会全体が神の霊の住む一つの神殿であることが語られましたが、ここではキリストにある者ひとりひとりの体が神の霊の宿る神殿であることが語られています。パウロの福音においては、集会の本来の在り方も、個々のキリスト者の倫理も、すべて内なる聖霊の働きが源泉であり根拠になっていることが、ここでも改めて明らかに示されています。


第二節 結婚生活についての勧告


 結婚と独身


性的禁欲について

 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。(七・一〜四)

 ここまでは伝え聞いていたコリント集会の現状を心配して書いていたパウロは、ここから「そちらから書いてよこしたことについて」答えます。集会に起こった様々な問題について、コリントの集会はステファナたち代表を送って書簡を届け、パウロの助言を求めたのでした。

 「男は女に触れない方がよい」という文章は、パウロ自身の助言の言葉か、または、コリント集会の一部の人が主張していた言葉をパウロが引用しているのかが争われています。最新の英訳聖書(NRSV)はこの文に引用符をつけて、これがコリントの一部の人々の主張であると解釈しています。いずれにしてもパウロの回答全体(とくに七〜八節)から見ると、これがコリントの人々の主張であるとしても、パウロも原則として「男は女に触れない方がよい」と考えていることが分かります。しかし、実際には「みだらな行い《ポルネイア》を避けるために」、それぞれ妻または夫をもって通常の性生活を営むように勧めます。
 
 ここでパウロは、夫も妻も自分の体を自分の体を意のままにする権利をもたず、それを持つのは相手の方であると言っています(パウロが両性を対等に扱っていることが注目されます。夫が一方的に妻の体を自由にする権利をもっているのではありません)。したがって夫婦は性生活において「互いに相手を拒んではならない」のです。結婚に身を委ねた以上、相手の求めに応じる義務があるというのです。これは、信仰上の理由で「男は女に触れない方がよい」として、結婚していても性行為を拒む人々をたしなめているのです。

 このような助言をパウロがするのは、やはりコリント集会の一部に、信仰上の理由で「男は女に触れない方がよい」と主張して、性行為を避けるか禁止する傾向があったので、この問題についてパウロの助言を求めてきたと見ることができます。この傾向は、コリントの異教的習慣の延長で遊女との関係《ポルネイア》を罪悪視しないことに対する反動として、信仰者の聖潔を強調するあまり、一切の性行為を汚れとして避けるようになったという動機も考えられます。しかし、さらに可能性が高いのは、時代の宗教的傾向であるグノーシス主義の思想なり傾向が萌芽としてコリントの集会にも入ってきていたという理由です。グノーシス主義は世界《コスモス》を至高の霊なる神に敵対する卑しい存在として敵視します。自分たちは霊知《グノーシス》を与えられてこの世界から脱出して霊の救済にあずかっているから、この世界に属する体が何をしようと霊の救済に関係しない(「すべてのことが許されている」という主張)として、遊女との関係も認める傾向が出てきます。それと同時に、結婚はこの卑しい世界の存続を図る《デーミウールゴス》(創造神)の計略であるから、子孫を作る性行為はその低い神の策略に陥ることになり避けるべきであるという禁欲主義が出てきます。同じ根からまったく反対の傾向が出てくるのです(後の発達したグノーシス主義では禁欲主義の傾向が強くなり、結婚を禁止するグノーシス主義諸派が多くなります)。パウロはまったく別の理由(二五〜三五節)で独身生活を評価しますが、このようなグノーシス主義的な傾向に対しては、《ポルネイア》を避けるというきわめて実際的な視点から反対していることが分かります。


 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。(七・五〜七)

 「互いに相手を拒んではいけません」という勧告に但し書きがつきます。性関係を避けることが、祈りに専心するために合意の上でしばらく別れるだけであるならばよいというのです。そうでないと(すなわち相手を拒んだ状態が長く続くと)、自制心がないのに乗じてサタンが誘惑し、《ポルネイア》に陥る危険があるからです。パウロが結婚生活を勧め、お互いに相手を拒まないように勧告する(二〜五節)のは、ここでは《ポルネイア》を避けるためという消極的な動機が前面に出ていますが、そこには人間性に対するパウロの深くて現実的な理解が見られます。パウロは決して信仰生活を原則論だけで規制することはしていません。
 
 パウロはめいめい妻または夫をもつように勧めましたが(二節)、それは「神のエクレシア」において結婚生活は信仰に差し支えるものではないと言っているだけで、結婚するように命じているのではないと、真意を説明します(六節)。

 ユダヤ教では結婚は成人したユダヤ人の義務でした。ユダヤ教の存続はユダヤ人人口の維持にかかっていたからです。キリストの民はもはやその存続を自然の子孫の増加に依存していないので、結婚を子孫維持の観点から見る必要はありません。パウロはここで結婚を性関係の純潔という観点から見て勧告しています。

 パウロは独身で福音の宣教活動に従事していました。パウロは、他の信徒も自分のように独身で主に仕えることに専心してほしい(三三〜三四節)のですが、それを規則として集会に押しつけることはしません。独身で主に仕えるか、結婚して信仰の歩みをするかは、それぞれ神からの賜物であって、各人はそれぞれが受けている賜物に従って違った生き方をするのが自然であるとします(七節)。イエスの語録にも、独身を神の恵みによって限られた者に与えられた生き方であるとする言葉があります(マタイ一九・一一〜一二)。
 
 ここでは独身のことについて言われているのですが、人の生き方全般について、神の賜物によって異なるのが当然であるという見方は重要です。共同体はともすれば成員に画一的な生き方を求めがちですが、自分と違う生き方を批判したり排斥するのではなく、違った生き方を認めて受け入れ合うことが、成熟した人間共同体の条件であると思います。

 ペトロや他の使徒たちが妻を連れて活動していたのに対して、パウロは独身で活動をしていたことについては問題ありません(九・五)。しかし、パウロが初めから独身であった(大部分の教父)のか、結婚していたが死別または別れていた(ルターなど)かは争われています。独身の律法学者はきわめて稀な例外でしたので、パウロが結婚していた可能性は大きいと考えられます。しかし、どちらの主張にも確証も反証もありませんし、また、ここでの議論に直接関係がありませんので、この問題には立ち入りません。



結婚の維持について

 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。(七・八〜九)

 コリント集会に見られる性的禁欲を求める傾向に対して勧告した後、パウロは「神のエクレシア」における結婚生活について、個々のケースごとに具体的に命令と勧告を与えます。まず、「未婚者とやもめ」について勧告します。
 
 「未婚者」は男性形で、「やもめ」は女性形です。しかし、一〇節以下の既婚者への勧告との対比で、ここは男女の性別にかかわらず、結婚していない独身者と、すでに配偶者をなくした人たちへの勧告と見ることができます。パウロは、その人たちが自分のように独身に留まることを勧めますが、ここでも先に述べた(二、五節)のと同じ動機で、性的欲求を自分で抑制できず、つねに誘惑にさらされて苦しむくらいなら、結婚して平静な信仰生活を送るように勧めます。独身に留まることを勧めるのは、結婚を神聖な義務と見るユダヤ教からすれば、根本的な変革です。これは神の民が存立する基盤が変わったことを示しています。

 当時のユダヤ教内でもエッセネ派は独身を実行する人々がいたと伝えられていますが(ヨセフス)、これはユダヤ教では非正統派セクトにおける例外でした。

 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。・・・・既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。・・・・また、夫は妻を離縁してはいけない。(七・一〇〜一一)

 次に「既婚者」に命じます。夫婦は離婚してはならないという命令です。他の場合ではパウロの勧告ですが、それと区別して、これは主の命令として命じられています。ここは、パウロがイエスの言葉伝承(マルコ一〇・五〜一二とその並行記事)を知っていたことを示す実例の一つです。

 パウロがイエス伝承をどのくらい知っていたのかについては、第1部5章「御霊による自由」の最後にある「パウロとイエス」の項を参照してください。

 パウロは最初に妻に向かって「夫と別れてはいけない」と命じ、その後で夫に向かって「妻を離縁してはいけない」と命じています。これは、ローマ法では夫にも妻にも離婚を請求する権利が認められていたことの反映です。現代日本の世相と似て、当時のローマ社会でも、妻の側からの離婚の方が多かった(あるいは目立った)のでしょうか、パウロは妻の側からの離婚を先にあげています。信仰に入る前に離婚してしまっている女性については、再婚せずにいるか、夫と和解して帰るように命じます(男性の場合も原則は同じでしょう)。

 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。(七・一二〜一四)

 新しい土地に福音が宣べ伝えられ、キリストを信じる民が形成される時期には、新しく信仰に入った人の配偶者が信者でないという場合が出てきます。そのような場合、信者の夫または妻は、信者でない配偶者と生活を共にすることが、信仰生活と両立するのかが心配になります。バプテスマを受けて信仰共同体に入った者は、以前の人間関係をきっぱり断ち切ったはずです。信者でない配偶者との生活はどうしたらよいのかが問題になります。
 
 その問題については、パウロは主の命令としてではなく、パウロの勧告として意見を述べます。どうすべきか具体的に語っているので、解説は必要でないと思われますが、要するに、結婚生活を続けるか解消するかは、信者でない配偶者の意志に委ねられているというのです。
 
 まず、信者でない配偶者が信者である相手と一緒に生活することを望んでいる場合は、信者は信者でない配偶者を離縁しないように勧告されます。その理由は、夫婦関係というものは性的関係までも含む二人の全存在的な結びつきですから、信者でない配偶者は(神に所属する)信者への全面的な信頼によって一体となり、神に所属する者(聖なる者)となっているからです。このように信頼に基づく全存在的な人間の結びつきは、一方が神に属する時には、他方をも神に所属する者にする(聖化する)力があると、パウロは信じているわけです。
 
 このような場合、二人の間に生まれた子は、「聖なる者」(神の民に属する者)と認められているのだから、信者でない配偶者も信者と一緒に神に属する者とされているではないかと、パウロは論じます。このような議論は、片方の親がユダヤ人である子はユダヤ人と認められるというラビの原則をキリストの民にも適用しているのでしょう。

 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。(七・一五〜一六)

 それに対して、信者でない配偶者が離れていく場合は、去るにまかせるように勧めます。このような場合には、離婚を禁じた主の言葉にもかかわらず、信者は結婚の誓いに縛られていないというのです。こういうところにも、パウロは主の言葉伝承を「文字によらず、霊によって」理解していることが分かります。
 
 もし結婚の誓いに縛られて、もはや信頼も愛情もなくなって去ろうとする配偶者を無理に引き止めて一緒に暮らせば、夫婦間の争いは避けられません。互いに批判し罵り合いながら顔を合わせて暮らすのは、人格の損傷と摩耗以外のなにものでもありません。神はわたしたちを《エイレネー》(平和、平安、和、幸福)の中に生きるように召されたのですから、このような生き方は神の召しに反することです。
 
 もし去ろうとする配偶者に人間的な未練から引き止めようとして、相手を信仰に導くことを口実にしようとする者に対して、パウロは相手を信仰に導いて救うことができるかどうか分からないではないかと、その人間的な思い上がりをたしなめます。相手が去っていくということは、信者の配偶者の中に生き始めたキリストを拒否していることを意味するのですから、そういう相手を信仰に導くことは至難のことです。
 
 ここでパウロが結婚の解消を認めているのは、信者でない配偶者との離婚の場合です。しかし、ここでパウロが離婚禁止の「主の言葉」をきわめて現実的に柔軟に扱っていることが注目されます。たとえキリスト信者同士の間でも、夫婦間の愛情が冷め、信頼が失われた状態で、互いに傷つけ合うような共同生活が、「文字によって」解釈された聖書の言葉と結婚の誓約のゆえに強制されるようでは、祝福であるべき結婚が二人を不幸に縛り付ける結果になります。もし二人が真にキリスト者として無条件に受け入れ合う愛に生きているのであれば、このような事態にならないはずです。離婚しないで結婚を全うできるのは恩恵の賜物です(「マタイ福音書講解 11」を参照)。このような事態は、どちらかが(または両方が)もはや恩恵に生きる「信者」ではないのですから、ここのパウロの言葉が適用されるのではないかと、「教会」は真剣に考えてみるべきではないでしょうか。

 召された場で


割礼と無割礼

 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。(七・一七〜一九)

 結婚と独身の問題について命じたり勧告したりしたパウロは、ここでその勧告が出てくる原則を明らかにし、その原則によって、割礼と奴隷の身分について勧告します。ここで男と女、割礼と無割礼、自由人と奴隷という三つの主題が取り上げられるのは、当時の福音宣教にさいして用いられていた「バプテスマ定式」(バプテスマを受けるときに唱えられた信仰告白の定式文)から来ていると見られます。
 
 研究者はガラテヤ書三章二六〜二八節で、パウロは当時の「バプテスマ定式」を引用していると見ています。そして、「バプテスマ定式」はほぼ次のような文であったとしています。

 「あなたがたはみな神の子である。キリストの中へとバプテスマされた人はみなキリストを着たからである。ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない。あなたがたはみな一人だからである」。

 これまで着ていた古い衣服を脱いで、白い衣を着て水の中に浸され、水から上がってこの告白文を唱えるとき(または唱えられるのを聞くとき)、受洗者は自分が今までとまったく違う世界に生まれ出たことを実感したことでしょう。受洗者は実は御霊によりキリストの中に浸され、そこからキリストという義の衣を着て出てきたのです。キリストを着ることで、中の人間の区別はなくなり、みな神の子とされているのです。そこにはもはや割礼を受けているユダヤ人であるか無割礼の異邦人であるかの宗教上の区別はなく、自由人か奴隷かという社会的身分の差もなく、男か女かという父権制社会での重い性差別もなく、みな一人のように差別なく結び合わされ、一つの共同体を形成しているのです。実際、ヘレニズム世界の小さい「家のエクレシア」では、割礼のない異邦人はもちろん、奴隷の身分の者でも、女性でも集会で積極的に活躍し、指導的な立場につく者もあったことが知られています。
 
 このような共同体に対してパウロは、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩む」ことを原則として命じます。「ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男と女はない」と言っても、それは神の子としての交わりにおいて差別はないということであって、社会的な身分とか立場がなくなったのではないことを思い起こさせます。そして、職業とか身分は各人に「主から分け与えられた分」であり、その分にふさわしく歩むこと、あるいは、「神から召されたときの身分のままで歩む」ことが命じられます。
 
 パウロは本章において、質問に答えて社会における男と女の生き方、すなわち結婚とか独身について勧告しました。その勧告はこの原則に基づいてなされたのです。召されたとき妻である女性は妻として、召されたとき夫である男性は夫として生きることが原則です。その原則に、《ポルネイア》に陥らないためにとか、配偶者が信者でない場合とか、未婚の場合とか、すでに離婚している場合とか、特別の理由とか状況が加味されて、ここでの勧告となったのです。
 
 パウロはこの原則を他の二つの宗教的社会的身分、すなわち割礼と奴隷の身分について適用して勧告します。まず割礼について、召されたとき割礼を受けているユダヤ人は、ヘレニズム世界で差別と軽蔑のしるしとなっている割礼の痕を手術で取り去って、ユダヤ人であることを止めようとしてはいけないし、召されたとき異邦人である者は、割礼を受けてユダヤ人の宗教的特権を得ようとしてもいけないと言います。割礼を受けているか受けていないかは、神の子としての歩みにとって問題ではないからです。大切なのは「神の掟を守ること」です。これはユダヤ教の諸規定を遵守することではなく、神がキリストにあって人間に求めておられること、すなわち愛の戒めを守ることです。

奴隷の身分について

 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。(七・二〇〜二四)

 もう一度「おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい」という原則を述べた後、その原則を奴隷の身分について適用して語ります。召されたとき奴隷であった者は、奴隷であることを悩んだり嘆いたりすることなく、奴隷という身分の中でキリストに属する者として忠実に歩みなさいと、パウロは勧めます。

 ただ、二一節後半を新共同訳は「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」と訳していますが(NRSVもほぼ同じ)、この訳には問題があります。ここの文は「もし自由の身になることができるのであれば、その機会を利用しなさい」(RSV、協会訳もほぼ同じ)とも訳せます。現代語訳は二つに分かれています。「機会を利用しなさい(生かしなさい)」という動詞を、前者(新共同訳)は「むしろ奴隷という立場を生かして、僕として歩まれた主イエスの謙りくだりを学びなさい」という意味に理解しているのでしょう(この場合も解放を拒否するように命じているのではありません)。後者(協会訳)は「その機会を生かして自由の身になり、もはや主人の意向に拘束されずに主に仕えることができる身になりなさい」と理解していることになります。この段落の最初と最後に置かれて枠を形成している「召された時の身分に留まっていなさい」という原則からすると、前者が適切であるように見えます。しかし、(結婚の場合もそうでしたが)特別の場合について具体的な勧めをしていると理解すれば後者も十分成り立ちます。むしろ、二三節で「人の奴隷となってはいけません」と言っていることからすると、この方がいっそう適切かもしれません。いずれににても、理由を示す次の二二節の文は、奴隷の身分のままに留まることを悩んだり、奴隷制という制度を嘆いたりしないように勧める二一節前半の根拠を示していると見られます。

 パウロは社会制度としての奴隷制を正面から否定したり変革しようとはしていません。奴隷制という社会の枠の中で、「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者(主の解放奴隷)であり、同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストを主人とする奴隷である。あなたがたはみな身代金を払って買い取られたキリストの奴隷である」、すなわち「奴隷も自由人もない、同じ立場である」(ガラテヤ三・二八)という、まったく新しい共同体形成の場を提供します。「主によって召された」場には、あらゆる人間的な区別を超えて、人と人を結びつける力があります。この力がやがて奴隷制という人間の尊厳に反する社会制度を変革していくのです。

 終末の切迫と結婚


未婚の人たちへの勧告

 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。(七・二五〜二八)

 パウロはすでに「未婚者とやもめ」について勧告を与えています(八節)。そこでは「未婚者」《アガモス》は「寡婦」《ケーラ》と一組に並べられて、結婚生活をしていない男女を広く指していました(離婚したままの男女も含まれます)。ここでは違う用語《パルテノス》の複数形が用いられています。この語は「処女マリア」を指すときにも用いられる語ですが、ここでは何らかの理由で初めから性関係をもたないで歩んでいる独身の男女を指していると考えられます。婚約中の男女が典型的な実例となるでしょう。
 
 このような独身男女に対して、パウロは「現状にとどまる」ように勧めます。それは「今は危機が迫っている状態にある」からです。「危機が迫っている」というのは、すぐ後で「定められた時《カイロス》が迫っている」と言い換えられています(二九節)。パウロも、パウロの宣教によって形成されたエクレシアも、主の来臨《パルーシア》が迫っていることを信じ、来臨の直前には世界に大きな患難の時代が到来することを予想していました。主の来臨の待望はテサロニケの集会もコリントの集会も同じであったはずです。
 
 そのような独身男女が結婚するとしても罪を犯すわけではないが、このような危機が迫っている状況で結婚生活に入るのは苦労を背負い込むことになるからという理由で、独身に留まるように勧めます。結婚生活は、ただでも苦労の多いものであるのに(とくに女性にとって)、終末の危機の時代にはいっそう苦労の多いものになると、パウロは感じていたのでしょう。このような危機の時代には、キリストの来臨を待ち望む者は、過ぎ去り行く「この世」とは関わりのない者のように生きることを勧めます。

 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。(七・二九〜三一)

 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです。(七・三二〜三五)

 終末的な待望に生きる状況のゆえに独身にとどまるように勧める勧告の中に、結婚すれば相手を喜ばすことが先になって主に仕えることに専心できなくなるからという理由(これは人間的な現実をパウロがよく見ていると言えます)が入ってくるのは、やや不自然な印象を与えます。とくにパウロはアキラとプリスキラ夫妻というような優れた伝道者の働きを身近に知っているのですから、やや意外の感じが否めません。しかし、パウロ自身がここで言っていますように、この勧告は束縛するものではなく、結婚してもしないでいても、要するに「品位のある生活をし、ひたすら主に仕える」ことができればよいわけです。「ひたすら主に仕える」ことを願う者に、独身を要求する言葉ではありません。そのために独身を選び取るかどうかは、それぞれにいただいている賜物の問題であること(七節)を思い起こす必要があります。

純潔を誓ったカップルへの勧告

 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。(七・三六〜三八)

 ここで「娘」と訳されている語は、二五節と同じ《パルテノス》の単数形です。未婚女性というよりは、何らかの理由で性関係をもたない男または女を指す語です。さらに「自分の相手」とか「(誓いに)ふさわしくない」(「誓い」は原文にはありません)という語が用いられているところから、ここでパウロは純潔を誓ったカップルについて、たとえば「宣教パートナー」の関係にある男女のことを扱っていると見ると分かり易くなります(婚約関係の男女のことは二五〜三五節ですでに扱っていますから)。「宣教パートナー」というのは、御霊に燃えた初期の宣教活動において、性関係をもつことなしに福音宣教に従事した男女のカップルを指します。このようなカップルの間で、情熱を自制できなければ結婚しなさいと勧告していると理解することが、いちばん無理がないと思われます。

 「宣教パートナー」については、E・S・フィオレンツァ『彼女を記念して』(山口里子訳)二五二頁以下を参照。



妻への勧告

 妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。(七・三九〜四〇)

 最後に妻の再婚について勧告して、結婚と独身に関する勧告を終わります。この勧告全体を通じて、パウロは主に召されたときの現状にとどまることを原則としていますが、パウロは人間の現実をよく見て、この原則や「主の言葉」をかなり柔軟に適用していることが目立ちます。
 
 全般に、パウロは結婚生活よりも自分のように独身で生きることを勧める傾向があります。独身の勧めは、先に触れたようにユダヤ教と大きな違いであるだけでなく、ローマ社会の常識とも衝突し、(とくに女性にとって)困難な生き方でした。アウグストゥス帝はローマ社会の健全な発展を願って、結婚に関する法令をいくつも出して、離婚や独身を防ぎ、結婚や再婚を勧めて、子供を多く産むように法令や税制を改めていました。そういう社会で独身を貫くことは、とくに父権の強い社会で女性が独身を貫くことは、たいへん困難なことでした。それにもかかわらず、パウロが独身を勧めるのは、キリストの民は主の来臨を目前にして、この世とはまったく異なる原理の上に生きているという強い終末意識があったからです。そのことは、結婚のことを語るのに、子供を産んで子孫を増やすという視点がなく、もっぱら性的関係の健全さと、主に仕えるという視点からだけ見られていることからもわかります。

 アウグストゥス帝の「婚姻法」については、塩野七生『ローマ人の物語Y』(新潮社)一四一頁以下を参照。


 


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