パウロによるキリストの福音 II

 第五章 キリストの交わり

  ― コリントの信徒への手紙 I ―

第一節 偶像について
第二節 主の晩餐


第一節 偶像について



 偶像に供えられた肉


知識か愛か

 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(八・一〜三)

 パウロはコリントからの使者たちが持ってきた質問の手紙にある次の問題に移ります。それは「偶像に供えられた肉を食べてもよいのか」(一節と四節)という問題です。この問題は、コリントの信徒たちにとって実際の信仰生活の上で切実な問題でした。というのは、当時市販されている肉はほとんどみな、何らかの形で「偶像に供えられた肉」であったからです。異教の神殿で捧げられた犠牲の動物の一部は神々への献げものとして焼かれ、一部は神殿祭司の所得となり、残りが市場で売られたのです。家族や友人たちとの会食、また公の行事や祭りの会食で出される肉は、ほとんどがこういう形で提供された肉ですから、「偶像に供えられた肉」は食べてはいけないとなると、信徒は実際の社会生活から閉め出される結果になります。さらに、当時肉は高価な食材でしたから、貧しい人たちにとっては、公の祭りで提供される「偶像に供えられた肉」だけが、肉を食べることができる機会でした。

 この問題でコリントの集会には対立があったようです。一部の人たちは「我々は皆、知識《グノーシス》を持っている」のだから、「わたしにはすべてのことが許されている」(六・一二、一〇・二三)とし、偶像に供えた肉を食べるのも自由であると考えました。他の人たちは、偶像に関わるものに触れること(ここでは肉を食べること)によって自分が汚されると考え、肉を食べることを避けました。パウロはこのような人たちを「弱い人々」と呼んでいます。ここでは自由に肉を食べる人たちを「強い人々」とは呼んでいませんが(ロマ一五・一でそう呼んでいます)、パウロは「知識を持っている」人たちに、知識《グノーシス》に基づく強さを誇るのではなく、「弱い人々」の信仰をつまずかせないように愛の配慮を求めるのです(ロマ書一四章でも同じ問題を詳しく扱っています)。

 コリント集会の《グノーシス》を誇る人たちと後の「グノーシス主義」との関係は議論されていますが、この問題は別の機会に扱うことにします。

 パウロはコリントの人たちの「我々は皆、知識を持っている」という主張を認めた上で、この問題に対処する原理は知識ではなく愛であるという、福音理解にとってきわめて重要な発言を直ちに続けます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」という言葉は、パウロの福音理解の核心が知識《グノーシス》ではなく愛《アガペー》であることを端的に語っています。

 パウロは「知識《グノーシス》は高ぶる」と表現していますが、知識を持つ人は自分が獲得した知識を救いの根拠として誇り、神の恩恵を必要としなくなるという意味で、「知識は人を高ぶらせる」と理解できます。ここで言う「知識《グノーシス》」とは、宗教的知識、霊的知識のことです。そのような知識について、「自分は何かを知っていると思う人」は、そう思うこと自体が自分を主体として立てているわけで、神との関わりの次元では神だけが主体であって、自分は無の場にいなければならないという最も基本的なことも理解できていない、すなわち「知らなければならないことをまだ知らない」のです。

 「神を愛する人」、すなわち自分を無にして神だけを一切の根拠として慕い委ねている人は、自分は神と霊界の秘密を知ることがなくても(神は知識の対象ではありません)、神によって知られているのです。真の知識は神だけにあるのです。神が知っていてくださることに自分の存在を委ねることが信仰です。

 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。(八・四〜六)

 問題に対処する原理を掲げた上で、パウロは「偶像に供えられた肉を食べることについて」の質問を改めて取り上げ、具体的に答えます。まず、パウロは「我々は皆、知識を持っている」という人たちの「我々」に自分も含め、彼らの「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という「知識」を、「わたしたちは知っています」と言って、共通の知識と認めます。この知識は異教世界に福音がもたらす大きな貢献です。パウロはこの機会に改めて、多くの神々や多くの主《キュリオス》たちが拝まれている異教世界の中で、「唯一の神である父」と「唯一の主《キュリオス》、イエス・キリスト」を信じる福音の信仰告白を掲げます。この知識と信仰によって、異邦人は多くの神々への奴隷的な奉仕と束縛(ガラテヤ四・八)から解放されるのです。

 異教世界は多神教の世界です。「現に多くの神々、多くの主がいると思われている」世界であり、「天や地に神々と呼ばれるものがいる」世界です。当時のローマ世界も現在の日本社会も多神教世界ですから、わたしたちには当時のコリントの状況は分かりやすいと思います。しかし、当時のローマ社会の人々は、古代社会ではたいていそうですが、現在のわたしたちよりもずっと宗教熱心でした。町には神々の神殿や祠がいたるところにあり、人々は事ある毎に神殿や祠に詣で、犠牲を捧げ、願い事を祈っていました。宗教は社会生活の隅々まで浸透しており、何事をするにも神々の名が唱えられました。

 パウロは多神教の世界を描くのに、「神々」と並んで「主《キュリオス》たち」という呼び方を用いています。《キュリオス》(主、主人)というギリシャ語は、もともと事物とか人々に対して権能を持つ人とかその所有者を意味する語でしたが、東方宗教の影響で新約時代のヘレニズム世界では神々が《キュリオス》と呼ばれるようになっていました。もっとも神《テオス》と主《キュリオス》には多少の格付けの違いがあったようですが、ここではその厳密な違いは問題ではなく、パウロは両方の呼び方を上げて、「唯一の神《テオス》である父」と「唯一の《キュリオス》であるイエス・キリスト」を異教の神々と対比します。パウロが「神々」と並んで「主《キュリオス》たち」という呼び名を上げるのは、福音において《キュリオス》と呼ばれているイエス・キリスト(フィリピ二・九〜一一など)と対比するためであると考えられます。神の唯一性と並行して、わたしたちには多くの《キュリオス》ではなく唯一の《キュリオス》がいますだけだと、《キュリオス》の唯一性が強調されます。

 ここで「唯一の神である父」は、「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」と述べられています。これはユダヤ教の唯一神信仰から出る当然の告白です。注目すべきは、「唯一の主、イエス・キリスト」について、「万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在している」と語られている点です。「万物はこの《キュリオス》によって存在し」ているのですから、この《キュリオス》は万物に先立って存在し、万物が存在するのに役割を果たしていることになります。このような《キュリオス》はもはや被造物ではなく、万物の創造に参与する者でなければなりません。後にヨハネ福音書の序文に現れるロゴス・キリスト論のような、キリストを万物の創造に参与する先在者と見るキリスト論が、すでにパウロに(あるいはパウロ以前に)見られるのです。

 さらに、この万物だけでなく、終末の時に創造された民である「わたしたち」も、この《キュリオス》によって存在しているのです。すなわち、《キュリオス》イエス・キリストは死者の中から復活することによって、終末時の神の民の頭となり、この方によって復活の命に生きる民が存在するようになったのです。キリストをこのような《キュリオス》と見るキリスト論は、パウロの後に書かれたと見られるコロサイ書(一・一五〜二〇)に詳しく展開されることになります。

弱い人たちへの愛

 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。(八・七〜九)

 ここでパウロは質問に具体的に回答します。「この知識」とは、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識です。偶像の神などは存在しないのですから、「偶像に供えた肉」という問題も存在しません。どの肉もみな同じ普通の肉です。「この知識」を持つ者は、どの肉を食べることもまったく自由です。ところが、最近異教から回心して信仰に入った人たちの中には、「神は唯一である」と告白しながらも、まだ「偶像の神などは存在せず、従って偶像に供えた肉の問題も存在しない」という確固たる知識に至っていない人たちもいるという事実も認めるように、パウロは求めます。このような人たちは、「今までの偶像への習慣から、偶像に供えられた肉として食べるので」(直訳)、彼らの良心は(それが弱いので)汚されるのです。「良心が汚される」というのは、意識(「良心」と訳されているギリシャ語は本来「意識」を意味する語です)が矛盾に陥って分裂し、神に対して確固たる意識(確信)が持てない状況に陥ることです。そうなるのは「良心が弱い」からだとパウロは言います。彼らは偶像を拝んではならないと知りながら、 自分の確信を貫く強さを持たず(それが「意識が弱いので」と表現される)、状況に押し流されて偶像に供えられた肉を食べ、意識が分裂して苦悩に陥るのです。

 ここの「弱い人たち」は、最近異教から信仰に入った異邦人信徒を指すと普通理解されています(新共同訳など大多数の翻訳)。しかし、ユダヤ人信徒を指すという理解もありえます。「偶像に供えられた肉」に対する激しい忌避は、異邦人ではなくユダヤ人の特徴だからです。「偶像に供えられた肉」は汚れており、それを食べることは自分を汚し、聖なる民から断たれることを意味するので、ユダヤ人には絶対できないことでした。周囲のヘレニズム世界から強制されたときには、命がけで抵抗してきました。また、その汚れを免れるために、偶像の宮と関係のないユダヤ人専用の屠殺場を持つ許可をローマ政府から得ていました。それで、初期の集会でユダヤ人と異邦人の共同の食卓が問題になったとき(ガラテヤ書二章)、食卓の交わりを可能にするため、異邦人信徒に最小限の要求として「偶像に供えられた肉」を避けることが求められたのでした(使徒一五・二九、いわゆる「使徒教令」とパウロの関係については「パウロによるキリストの福音T−2」第四節の中の「使徒教令の問題」の項を参照)。このようなユダヤ人の態度からすると、集会の中で「偶像に供えられた肉」を食べることに良心のこだわりを感じた人たちとはユダヤ人信徒であるという見方も可能になります。「今までの」という句も、厳密に理解するとユダヤ人説を支持します。「現在まで続く偶像への習慣から」と厳密に解釈すると、キリスト者はすでに偶像礼拝は行っていないのですから、これを異邦人信徒の偶像礼拝の習慣と理解するより、ユダヤ人信徒の「偶像に供えられた肉」への忌避の習慣と理解する方が適切になります。異邦人信徒の偶像礼拝の習慣と理解するためには、「今までの」という句を「最近までの」という大雑把な意味に解釈しなければなりません。どちらに解釈するにしても、知識によるのではなく愛によって問題に対処するように、というこの段落の主意には変わりはありません。

 「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません」という文は、コリントの「知識を持っている」人たちの標語かもしれません(最新の標準的な英訳NRSVはこの文に引用符をつけています)。そうであるにしても、パウロもこの標語を認めて同意していますので、パウロの主張でもあります。「偶像に供えられた肉」であろうと、モーセ律法で禁じられている豚など「汚れた」動物の肉であろうと、総じて口から入るものが人を汚したり、神との交わりに役立つということはないと、パウロは理解しています。「食べないからといって、何かを(得たり)失うわけではなく、食べたからといって、何かを(失ったり)得るわけではない」のです。この理解は、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」(マルコ七・一五)と言われたイエスのお言葉と同じ線上にあります。  このような食物についての自由を認めた上で、パウロは「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と言って、「弱い人々」への愛の配慮を求めるのです。

 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(八・一〇〜一三)

 「弱い人々」への愛の配慮とはどういうことか、パウロは実例を挙げて説きます。ここでパウロが「その良心が強められて」と言っているのは、相手の主張を逆手にとる皮肉でると考えられます。ここで用いられている「強める」という動詞は、信仰やエクレシア(集会)を「建て上げる」というときに用いられる動詞と同じです。おそらくコリントの「知識を持っている」人たちは、自分の自由な行動(偶像の神殿で食事をするというような行動)で実例を示し、弱い人たちが強くなるように彼らを「建てる」のだと考えていたのでしょう。そのような行動に触発され、弱い人が「意識が励まされて」偶像に供えられた肉を食べるようなことになれば、その人とってしてはならないことをしてしまった結果になり、意識は矛盾に陥り分裂し、「弱い良心は傷つけ」られます。このような弱い兄弟のためにもキリストが死んでくださったのですから、一人の弱い兄弟をつまずかせることは、その弱い兄弟に対するキリストの命をかけた愛を無効にすることになり、「キリストに対して罪を犯すことになる」のです。この一段は、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい」(マルコ九・四二)と言われたイエスの言葉を、実例で解説したものになっています。

 最後にパウロは、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言って、自分を模範として示します。

 パウロは続く九章で、使徒として持っている権利や自由を自ら制限して、「弱い人に対しては弱い人のようになりました」(九・二二)と言って、自分を模範として示しています。九章は使徒としてのパウロを理解する上で重要な箇所ですが、ここでは偶像の問題に集中するために、九章はパウロとコリント集会の関係を扱うコリント第二書簡の講解に回します。



 偶像礼拝に対する警告


先祖の前例

 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ、皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。(一〇・一〜四)

 質問に答えて「偶像に供えられた肉」の問題を扱った回答(八章と一〇章二三節以下)の中に、パウロは偶像礼拝に対する警告(一〇・一〜二二)を挿入します。この勧告ないし警告は、「知識を持っている」から「すべてのことが許されている」と考える人たちをとくに念頭に置いた警告と考えられます。パウロはこの警告を、まずイスラエルの民の荒野の旅を「前例」として語り(一〜一三節)、続いて集会で行われている「主の晩餐」を根拠にして警告します(一四〜二二節)。

 ユダヤ人だけでなく異邦人も、キリストに結ばれている者はみなアブラハムの子孫ですから、聖書に記されているイスラエルの歴史は「わたしたちの先祖」の物語となります。パウロはまず聖書にあるイスラエルの出エジプトと荒野の旅の出来事を前例または予型《テュポス》 として、キリストの民に偶像礼拝を避けるように警告します。

 イスラエルの民の出エジプトと荒野の旅を予型として現在への勧告とか警告を語ることは、すでに預言者たちから始まり、その後のユダヤ教文献にも多く現れています(ホセア二・一六〜一七、詩篇七八、一〇六、ネヘミヤ記九・九〜二一、ソロモンの知恵一一〜一九、多くの黙示文書など)。新約聖書でもすでにステファノが最高法院でしたとされる演説にこの型の警告が用いられています。

 パウロはイスラエルの出エジプトと荒野の旅の物語の中に、バプテスマと主の晩餐というエクレシア二つの信仰告白行為の予型を見ています。イスラエルの民が「雲の柱」に導かれ、海の中を通ってエジプトを脱出したことは、「水と聖霊によって」キリストの中へとバプテスマされたエクレシアの予型でした(雲は聖霊による神の臨在を象徴しています)。その時のイスラエルの体験は、バプテスマにおいてキリストと一つにされて罪と死の支配から解放されたキリスト者の体験を原型として、奴隷の家から解放されるために「モーセの中へとバプテスマされた」と表現されています。「バプテスマ」という語は、「浸す」という動詞からきた名詞で、「浸し入れられること」を意味します。

 さらにパウロは、昔イスラエルが天からのマナを食べ岩から湧き出た水を飲んだのは、今キリストの民が霊なるキリストという天からの糧を食べ、御霊という命の水を飲んで、約束された栄光に向かって歩んでいることを、型《テュポス》として予表する出来事であったとします。パウロはここで、イスラエルが食べた「食物」、飲んだ「飲み物」、水が出てきた「岩」のそれぞれに繰り返し「霊的な」《プニュマティコス》という形容詞をつけています。この形容詞はたんに「象徴的な」という意味にも用いられますが(黙示録一一・八)、パウロにおいては復活の体を指すのにも用いられる重要な形容詞です(コリントT一五・四四、四六)。パウロが「主の晩餐」の食事を念頭に置いてイスラエルが荒野で体験した食べ物、飲み物、岩について語るとき、それぞれを「霊的な」と規定するのは、「主の晩餐」が復活して「命を与える霊」となられたキリストとの交わりを告白する行為であること、すなわち「霊的な」次元の行為であることを思い起こさせようとしているのです。

 岩がイスラエルの民の旅に「ついてきた」という物語は聖書にはありません。ラビの解釈の伝承をパウロは利用していると見られます。ラビたちは、民数記二〇・七〜一三と二一・一六〜一八の二つの記事を、同じ岩が旅に「ついてきた」と解釈したのです。また、岩を象徴的に解釈することは、すでにアレクサンドリアのフィロが行っていました。彼は岩を神の知恵と解釈しましたが、パウロは「この岩はキリストだった」とします。パウロにおいては、聖書の予型はすべてキリストに集中します。

 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。(一〇・五〜六)

 このようにイスラエルの民は神の力強い御手に導かれ、必要を備えられて救いの道を歩み始めたにもかかわらず、その世代の民の大部分は「悪をむさぼった」ために荒野で滅びました。パウロはその悪を列挙します。

 一 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。(七節)(出エジプト記三二・一〜六より)
 二 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。(八節)(民数記二五・一〜九より)
 三 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。(九節)(民数記二一・四〜六より)
 四 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。(一〇節)(民数記一六章など多数 「滅ぼす者」は出エジプト記一二・二三の「死の使い」)

 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。(一〇・一一〜一二)

 聖書に記されているこれらの出来事は《テュポス》(型、前例)であることが再び強調されます。その出来事が語り伝えられ、聖書に記されて現在の「わたしたち」に伝えられたのは、いよいよ差し迫った時の終わりに直面している「わたしたち」神の民が、同じような「悪をむさぼって」滅びることのないように与えられた警告だというのです。ここの文脈では偶像礼拝に対する警告が主眼点でしょうが、パウロはこの機会にみだらな行いや主を試みることやつぶやきなど、信仰生活にともなう試練や誘惑一般に対する警告を聖書の記事から取り出します。

 ここでもパウロがエクレシアを終末の時代の神の民であると見ていることが明瞭に出ています。イスラエルの民の物語は、終末時の「真のイスラエル」であるエクレシアにおいてその意味が成就実現するのです。

 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(一〇・一三)

 イスラエルは約束に地に入るために困難に満ちた荒野の旅をしなければならなかったように、エクレシアも約束された栄光に至るまではこの世で多くの試練を通らなければなりません。しかし、わたしたちを福音の約束によって召し出された神は信実な《ピストス》方ですから、その約束を成就するために、試練と共に耐える力、逃れる道を備えてくださいます。わたしたちが試練を克服して信仰の歩みを続けることができるのは、わたしたちの決意の固さ、意志の強さ、知恵の豊かさなどによるのではなく、御自身の約束を成就される神の信実だけによるのです。パウロはこの書簡の初めで、わたしたちの信仰が成立する根拠として「神の信実」に触れましたが(一・九)、ここでもう一度そのことを思い起こさせます。

キリストと違う霊との交わり

 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。(一〇・一四〜一五)

 イスラエルの前例をあげて偶像礼拝を警告したパウロは、コリントの人たち(とくに強いと自認している人たち)に、これからパウロが語ることをよく考えて、自分のしていることの意味を自分で判断するように促します。こう言って、パウロは身近な宗教的祭儀三つ(エクレシアにおける「主の晩餐」、ユダヤ教の神殿祭儀、異教神殿での祭儀)を取り上げて、祭儀に参加することの意味を語ります。その意味を理解する鍵になる言葉は、ここで繰り返し用いられている《コイノーニア》です。この語は交わり、あずかること(参加)、かかわり(関与)などを意味する語です。

 一 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかること(キリストの血のコイノーニア)ではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかること(キリストの体のコイノーニア)ではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。(一〇・一六〜一七)

 二 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者(コイノーニアをもつ者)になるのではありませんか。(一〇・一八)

 三 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間(コイノーニアをもつ者)になってほしくありません。(一〇・一九〜二〇)

 三つに共通していることは、宗教的祭儀に参加することはその祭儀でまつられている霊的存在とコイノーニアをもつことを意味するという点です。ここで「悪霊」と訳されている《ダイモニオン》というギリシャ語は、かならずしも病気や異常など不幸をもたらす悪い霊だけを意味するのではなく、ソクラテスの中に働いた霊もそう呼ばれるように、神と人間の中間にいる諸霊を広く指します。異教の神殿祭儀は、人間を超える霊力を神として拝む宗教であり、その祭儀に参加することはそこで拝まれている《ダイモニオン》とのコイノーニアをもつことを意味するのです。それはキリスト以外の霊の仲間になることであり、キリストに背くことであると、次のような表現でパウロは指摘するのです。

 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。(一〇・二一〜二二)

 「主の晩餐」にあずかることは、霊なるキリストとのコイノーニアに生きることであり(この重要な点については次節で詳しく扱います)、異教の祭儀にあずかることは《ダイモニオン》の仲間になることです。この二つは両立しません。この警告は、「わたしたちは知識を持っている」ので「すべてのことが許されている」とし、あえて異教の神殿祭儀に参加する「強い人たち」に向けられた警告であると考えられます。パウロは、あえて偶像の宮の食事に参加する「強い人たち」に、「主にねたみを起こさせるつもりか」と詰め寄り、彼らの思い上がりを警告します。パウロは市場で売られている「偶像に供えられた肉」を日常生活で食べること(八・四、一〇・二五)と、偶像の宮での祭儀に参加する「偶像礼拝」を区別して勧告し、また警告しているのです。

 再び偶像に供えられた肉について


他人の利益のために

 パウロはコリントの一部の人たちの「すべてのことが許されている」という標語を繰り返し引用して、それに対して「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と、その限界を指摘し、その自由を行使する原理として、「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」と諭します(一〇・二三〜二四)。その上で、「偶像に供えられた肉」について、さらに具体的に勧告します。

 市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。(一〇・二五〜二七)(引用文は詩編二四編一節から)  パウロは、「偶像に供えられた肉」を食べるかどうかは「良心の問題」だとしています。そして、「良心の問題」とはどういうことかを説明します。

 しかし、もしだれかがあなたがたに、「これは偶像に供えられた肉です」と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましよう。わたしが感謝して食べているのに、そのわたしが感謝しているものについて、なぜ悪口を言われるわけがあるのです。(一〇・二八〜三〇)

 ここで「良心の問題」というのは、「これは偶像に供えられた肉です」と言う人の良心のことです。そのように言うのは、偶像に供えられた肉を食べることは自分を汚すことだという「良心(意識)」を持っている「弱い人たち」でしょう(前述のようにユダヤ人信徒である可能性が高い)。そのような人たちの「良心」をつまずかせないために、その肉を食べないように勧告します。それは「弱い人たち」への愛の配慮です。それに対して、何も言われないときは、そのような他人の「良心の問題」はありません。主にあって与えられている自由をもって、出されるものは出所を問わず食べればよいのです。この場合、そのような「わたしの自由」が一緒に食事をする他人の良心によって制約されることはありません。

すべて神の栄光のために

 だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。(一〇・三一〜一一・一)

 最後に、何を食べるにせよ、何を飲むにせよ、総じて何をするにせよ、すべて神の栄光のためにするように、また、人を惑わす(つまずかせる)原因とならないようにしなさい、という大原則を述べて「偶像に供えられた肉」を食べることについての勧告を締め括ります。そして、(九章で述べた)「自分の益ではなく多くの人の益を求めて」働く自分に倣う者となるように求めます。パウロは自分を「キリストに倣う者」として、わたしたちに模範を示しているのです。

 ここでパウロがつまずかせる相手を「ユダヤ人、ギリシャ人、神のエクレシア」と三区分していることが注目されます。今まで宗教的な区分としてはユダヤ人と(非ユダヤ人の総称としての)ギリシャ人だけが考えられていましたが、今やキリストの属する民である「神のエクレシア」がユダヤ人とは別の第三の民(宗教的種族)として登場しているのです。外部の人たち(とくにローマ帝国)からは、なおユダヤ教の一派として扱われていますが、内部の自覚としてはユダヤ教教団とは別の民であることが自覚されて始めていることがうかがわれます。

 ユダヤ教徒、異教諸宗教の人たち、キリストの民の三種類の民は、信条や儀礼はもちろん、食事などに関する具体的な生活習慣だけでもずいぶんと違っていて、どのグループの人をもつまずかせないことはかなり難しいことです。パウロは、どのグループの人たちも神が救いの対象として慈しんでおられるのであるから、その神の栄光のために、この難しい課題を愛の配慮をもって成し遂げるように励まします。


第二節 主の晩餐


 集会の中の女性


女性のかぶり物

 集会の在り方について勧告するにあたり、パウロはまず第一に集会における女性の在り方について語ります。パウロがまず女性の在り方、しかもかぶり物や髪型というような問題を取り上げるのは、現代のわたしたちにはやや奇異に感じられます。パウロの言うところを理解するためには、その背景を見なければなりません。

 このブロックの最後(一四・三三〜三六)も同じ女性の問題を扱っていることが注目されます。この二つの部分が矛盾しているのではないかという問題は後で扱います。

 先にも見ましたように、バプテスマを受けて主キリストに連なるようになった者たちの交わり(共同体)においては、「ユダヤ人もギリシャ人もない。奴隷も自由人もない。男も女もない」と、当時の社会における基本的な差別が乗り越えられていることが、高らかに宣言されていました(ガラテヤ三・二六〜二八)。事実、初期の集会においては、宗教的に差別された異邦人も、社会的に差別されいた奴隷身分の人や女性も積極的に参加し、発言し、ときには指導的立場に立つ者もありました。キリストの民の集会では、女性も男性と同じく「祈ったり、預言したり」していたのです。この「祈ったり、預言したりする」のは、たんに「礼拝に出席している」ということではなく、一二章や一四章が示しているように、御霊によって異言で祈ったり、権威のある預言の言葉を語ったりする、霊能者としての活動を指しています。

 他の共同体では見られない自由と霊的な高揚の中で、「祈ったり、預言したりする」女性の中には、かぶり物を取り、結んだ髪をほどいて集会に参加する人が出てきたようです。そのような女性の在り方に問題を感じている人たちから、集会の状況がパウロに伝えられたのではないかと考えられます。それに対してパウロは、創造の秩序を根拠にして、次のように指示を与えます。

 ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。(一一・三〜六)

 パウロは、ここでは女性が「祈ったり、預言したりする」ことを禁じていません。ただ、「祈ったり、預言したりする」さいに、頭にかぶり物をするように求めているのです。なぜこのようなことが問題になるのかについて、当時の風習についての正確な情報がないので議論がありますが、おそらく、女性のかぶり物は長い髪を結い上げてまとめるときに用いられたので、かぶり物をしないのは髪をほどいている状態を意味したのではないかと考えられます。女性が髪をほどいているのは、ユダヤ教社会では恥ずべきことでしたし、当時のヘレニズム社会では熱狂とか狂乱のしるしとされていました。

 ユダヤ教社会ではパウロの時代に至るまで、ほどかれた髪は不浄のしるしでした。姦通の疑いをかけられた女性は髪をほどかれて裁判にかけられ(民数記五・一八)、らい病の不浄のしるしの一つがほどいた髪でした(レビ記一三・四五)。
 ヘレニズム世界においては、ディオニソスなどの熱狂的祭儀の巫女たちは束ねない乱れた髪が特徴でした。当時コリントで盛んであったイシス礼拝においても、女性献身者は長い髪を垂らしていました。コリント集会の女性霊能者(カリスマの担い手)たちも、束ねない髪を忘我の預言者的活動のしるしとしていたのかもしれません。

 パウロはこの大きなブロック(一二章〜一四章)で、コリント集会の盛んなカリスマ的活動(預言や異言などに現れる御霊の働き)を、抑えつけるのではなく、異教の熱狂的祭儀と間違われるような状態に陥らないように、何とかして正しい秩序の中に置こうと腐心しています。その動機から見ると、パウロがまず女性霊能者の振る舞いを取り上げ、異教の熱狂的祭儀と区別がつかないような状態に陥らないように注意を喚起したことも理解できます。パウロは決してコリント集会のカリスマ的活動を抑えようとしているのではありませんし、女性霊能者の活動を否定しているのではありません。女性も男性と同じように「祈ったり、預言したする」ことが当然とされています。ただその御霊の働きと現れが秩序正しく行われることを目指しているのです(一四・三七〜四〇)。

創造の秩序における男と女

 ところで、女性がかぶり物をすべきことを説得するのに、パウロは、「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」という「創造の秩序」を論拠として持ち出します。パウロは創世記二章一八〜二三節のミドラシュ(注解)にキリストという項を挿入して、神・キリスト・男・女という上下の階層秩序を見ます。上位の者は下位の者の頭としてその存在の根源であり、下位の者は上位の者の栄光を現す者であるという秩序です。この存在論的な「頭」という概念が、同時に身体の頭と重ねられて、女性は頭(上位者である男性)をいただく者であることを示す印として、頭にかぶり物をすることを求められるのです。かぶり物をしないことは上位者の権威を認めないことであり、頭(上位者)である男性を侮辱することであり、それは同時に自分の頭(身体の頭)を辱めることになるというのです。

 男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。(一一・七〜一二)

 男と女の上下の秩序が、創世記二章の男と女の創造物語によって改めて確認され、結論として「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです」と言われます。この言葉の解釈は混乱を極めています。おそらく、集会には天使たちも参加しているのであるから、「女性は頭に《エクスーシア》(権威)をかぶるべきである」(直訳)、すなわち、自分の上に上位者(男性)をもつ者であることを示すべきである、という意味であろうと考えられます。「天使たちのために」というのは、黙示的秘教においては啓示とか預言は天使から与えられるとされていたので、集会に臨在する天使たちへの畏敬から、上下の秩序を守れという意味ではないかと考えられます。いずれにせよ、この言葉に対する確かな解釈はきわめて困難です。

 これまでにパウロが強調した男性と女性の上下の秩序についての発言は、「主にあっては男も女もない」という救済の場での男女の平等を否定するような印象を与えますので、パウロは「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はない」と言って、救済の場における平等を確認します。それは、「女は男から出た」という創世記二章の創造物語を、「男は女から生まれる」という事実によってバランスを取り、「すべてのものが神から出ている」という結論を導くことでなされます。

 自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。(一一・一三〜一六)

 最後にパウロは、「自分で判断しなさい」と、判断を問題の女性(たち)自身に差し戻します。その際、パウロは判断の基準として「自然」に訴えます。これまでに述べてきた聖書に基づく神学的な議論を、ストア哲学的な「自然」に基づく議論で補強するのです。しかし、それでもなおこの議論には異論が出ることを予期して、その異論を神の民における「習慣」を持ち出して封じます。ここの「わたしたち」というのは現在の異邦人を含むキリストの民の諸集会を指し、「神の教会(複数形)」というのはユダヤにある原始キリスト教の諸集会を指す(テサロニケT二・一四)のでしょう。

 この段落(一一・二〜一六)の錯綜した議論や最後の締めくくり方を見ますと、パウロは集会における女性霊能者の活動を重視しつつ、その健全な展開にかなり神経を使っていることがうかがえます。現在のわたしたちにとっては、ここでパウロが直接に問題としている女性のかぶり物や髪型ではなく、女性も御霊によって預言などの活動をすることができるという事実の方が重要な意味を持っていると思います。


 主の晩餐について


主の晩餐の無秩序

 次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。(一一・一七〜一九)

 霊的な集会における女性の振る舞いについて指示を与えたパウロは、「次のこと」、すなわち、集会の営みの中心に位置する「主の晩餐」の問題に入ります。コリントの人々が基本的にはパウロが伝えた伝承《パラドシス》を守っていることをほめたパウロも(二節)、この問題についてはほめることはできないと厳しく誤ちを指摘します(二節、一七節、二二節はみな同じ「ほめる」という動詞が用いられています)。

 その誤ちの根本は、集会が愛による一致を欠き仲間割れをしているという事実です。そのために、信仰の仲間が集まって集会をもつことが、「良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」ことになるのです。パウロはこのような現状を、「だれが適格者かはっきりするためには」やむをえないこととしながらも、克服しなければならない集会の致命的な弱点であると指摘します。

 「仲間割れ」と訳されている《スキスマ》は「裂け目」とか「分裂」という意味の語で、後に schism (シズム)という英語になります。ここではまだ schism (分派)というような教会制度上の意味はありません。「仲間争い」と訳されている《ハイレシス》は「分派」とか「意見」という意味の語で、後に heresy (異端)という意味で用いられるようになります。

 それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。(一一・二〇〜二二)

 ここで、パウロがコリントの使者たちから聞き、「ある程度そういうことがあろうかと信じている」集会の現状が述べられています。ここで重要な点は、「主の晩餐」と呼ばれている集会の行事が一つの儀式ではなく、実際の食事であることです。聖餐式というような「儀式にあずかる」ことではなく、「主の晩餐を食べる」ことが問題とされているのです。

 コリント集会の共同の食事「主の晩餐」は、パウロが伝え聞いたところによると、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」でした。自宅を所有し、比較的ゆとりのある生活ができる階層の人たちは、早くからご馳走を造って持ち寄り、ワインを傾け、仲間だけで食事をすませていたのでしょう。遅くまで労働し、疲れた体を引きずってやっと集会に来た貧しい階層の人々は、食べるものを用意することもできず、空腹のまま集会場所の一隅に小さくなっていたのでしょう。パウロは、「勝手に自分の分を食べてしまい、酔っている」ような富裕な階層の人々に向かって、愛の配慮のない振る舞いを批判して問いかけます。

 「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか」。仲間で楽しむのであれば、自分の家でしなさい。集会の食事は共同の信仰告白行為であり、愛の現れる場であるから、それにふさわしい仕方で、全員一緒に食事をしなさい、という意味でしょう。さらに、「それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と問いかけます。空腹のまま隅に小さくなっている貧しい人々を無視することは、そのような人々をこそ招いて神が形成された《エクレーシア》を無視することになると、パウロは警告するのです。

 「主の晩餐」については、福音講話「わたしの記念としてー主の晩餐についてー」という論考に詳しく書きましたので、それを参考にしてください。



主の晩餐の伝承

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一一・二三〜二六)

 パウロはコリント集会の「主の晩餐」にさいしての無秩序を戒め、「主の晩餐」がその本来の内容にふさわしい形で行われるように、改めてキリストの民に共通する貴重な伝承を引用して、「主の晩餐」の本質と意義をよく理解するように求めます。パウロがここに書きとどめた言葉が、「主の晩餐」伝承の最初の文書資料となるわけです。

 この伝承についてパウロは、「わたし自身主から受けて、それをあなたがたにも伝えた」(二三節直訳)と言っていますが、「主から受けた」という句の意味については議論があります。パウロは地上のイエスの弟子ではなかったのですし、ダマスコ体験のような霊的啓示でこのような「主の晩餐」伝承の言葉が直接与えられたとも考えられませんので、これはパウロがエルサレムとかアンティオキアの集会から受けた伝承であったと見られます。パウロは初期にエルサレムに滞在していますから、エルサレム原始教団から受けた伝承である可能性もありますが、内容から見ておそらくアンティオキア教団の伝承であると見てよいでしょう。パウロが原始教団の伝承を引き継いでいることは、彼の手紙の中にもよく出ています(コリントT一五・二〜七、ロマ一・二〜四、ガラテヤ一・三〜四、フィリピ二・六〜一一など)。「主から受けた」というのは、その伝承の由来が主ご自身にまで遡るものであることを意味していると理解してもよいでしょう。しかし、「わたし自身が主から受けた」という「わたし」の強調からすると、文言は伝承から受けたものであっても、それをあなたがたに伝えることは、パウロが使徒として仕える復活の主ご自身から直接委ねられたものである、と言おうとしているのかもしれません。
 パウロが引用する伝承はルカ福音書(二二・一四〜二〇)と同じ系列に属し、マルコ(一四・二二〜二五)・マタイ(二六・二六〜二九)系列の伝承と対照されます(詳しくはマルコ福音書講解81「最後の晩餐」を見てください)。伝承の言葉は二五節までで、二六節はパウロが加えた意義づけであると考えられます。

 伝承された「最後の晩餐」のときのイエスのお言葉がここに引用されているのですが、この言葉は「主の晩餐」と呼ばれる集会の共同の食事にさいして、その始まりと終わりにパンを裂き杯を回して唱えられたと見られます。この「最後の晩餐」伝承では、パンを裂くことにも、杯を回して飲むことにも、「わたしの記念としてこれを行いなさい」という意義付けの言葉がついています。パンを裂き杯を回す行為は、わたしたちのために死なれたイエス・キリストの死を「記念する」行為であるのです。この言葉によって、「主の晩餐」という共同の食事がイエス・キリストに対する信仰告白の行為となるのです。

 パウロは伝承の言葉に「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(二六節)という言葉を加えて、繰り返して行われるその行為が、イエスの死という過去の出来事を想起して「記念する」だけでなく、将来のキリストの来臨を待ち望みながら、周囲の世界に「主の死を告げ知らせる」行為であることを、コリントの人々に思い起こさせます。すなわち、パンを裂き杯を飲むことは、終末的な光で照明された(意義づけられた)キリストの十字架の本質を身をもって確認し、それを世界に告知する告白的行為であるというのです。

 パウロはすでに「主の晩餐」についてこう言っています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」(コリントT一〇・一六)。パンを裂き杯を飲むことは、キリストの血と体にあずかること、すなわち、キリストの死にあずかり、復活のキリストにあずかることだというのです。パウロは、バプテスマについても同じように、それがキリストの死と復活に合わせられるという霊の現実を象徴する告白行為であると論じています(ロマ六・三〜四)。

 こうして「主の晩餐」は、過去のキリストの十字架の死を想起し、将来の来臨を待ち望みながら、現在復活者キリストの死といのちにあずかっていることを告白するという意味で、主を「記念する」集会の行為なのです。そのような性質の行為として、「主の晩餐」はキリストの民の集会において中心に位置する重要な営みになるのです。

 「主の晩餐」伝承の中に、「これは新しい契約である」というイエスのお言葉があります。この言葉によって、初期のキリストの民《エクレーシア》は、自分たちがキリストの血によって立てられた神との契約にあずかっていることを自覚したのです。その契約は、モーセによって神とイスラエルとの間に結ばれた旧い契約に取って代わる「新しい契約」なのです。キリストの民は、もはやモーセ契約にあずかるイスラエルの一部ではなく、全く新しい別の契約による、イスラエルとは別の神の民となったのです。この「新しい契約」の民であるという自覚は、「主の晩餐」のもう一つの重要な内容ですが、この面は別の機会に(コリント第二書簡で)扱うことにして、今回は「主の晩餐」をふさわしい形で守るというこの書簡の文脈に限定して取り扱います。



主の晩餐にあずかる心構え

 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。(一一・二七〜三〇)

 「主の晩餐」がこのような性質のものである以上、「主の晩餐」にあずかる者はそれにふさわしい者でなければなりません。パウロはコリントの人たちに、ふさわしいかどうか「自分をよく確かめたうえで」パンを食べ杯から飲むことを求めます。自分を「確かめる」とか「吟味する」というのは、神の戒めに違反していないかどうか、祭儀的な汚れを負っていないかどうか、道徳的に間違った行為をしなかったかどうか、言葉や態度で人の心を傷つけるような、愛に反する行為がなかったかどうかなど、自分の内面(良心)に照らして吟味するということではありません。もしそういう意味で「吟味する」ならば、良心的な人はだれも「主の晩餐」にあずかることはできなくなるでしょう。

 ここで「ふさわしくないままで」と「主の体をわきまえないで」という句が平行して用いられていることから分かるように、「自分を吟味して」というのは、自分がこれからあずかる「主の晩餐」が「主の体にあずかる」ことであるという意味を十分理解しているかどうかを吟味し確かにすることです。「ふさわしくない」人というのは、「主の晩餐」の真義を理解しないままで、「主の晩餐」を仲間との楽しい会食の場くらいに心得て、貧しい人たちを無視して勝手に食事をしたり酔ったりしている人たちのことです。また、ペトロとかパウロとかアポロというような自分が属する指導者を誇ったり、自分の知識《グノーシス》を誇って分派を作り、集会の一致を破壊しているような人たちです。このような人たちは、「パンが一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体である」(一〇・一七)、すなわちキリストの体が一つであることをわきまえていないのです。

 ふさわしくないままで、すなわち、主の体をわきまえないでパンを食べ杯から飲む者は、「自分自身に対する裁きを飲み食いしている」と言われます。これは、飲み食いしたパンや葡萄酒が体内で裁きや呪いの食物に変質して病気や死をもたらすとい意味ではなく、ふさわしくない姿で「主の晩餐」を飲み食いすることで、終末的な主の裁き(コリントU五・一〇)を現在すでに自分の身に引き寄せていると理解すべきでしょう。パウロは、飲み食いするパンや葡萄酒という物質に、永遠の命をもたらしたり、逆に裁きをもたらしたりする魔術的な力があるとは考えていません(この点については後述)。

 弱い者や病人が多いことだけでなく、「多くの者が死んだ」ことまでが、主の体をわきまえないで飲み食いしたことへの裁きであるとされていることは、現在のわたしたちに意外な感を与えます。どのように立派な信仰の共同体であっても、それが生身の人間の群である以上、病人も出れば、年が経てば必ず死んでいきます。ここでそれが裁きであると言われるのは、当時の《エクレーシア》が主の来臨を間近に待ち望んで歩んでいたからです。パウロを含め当時の集会は、現在生きている者が主の来臨を体験することになると信じていました(コリントT一五・五一〜五二)。ですから、それまでに死ぬことは決して当然のことではなかったのです。主の来臨までに死ぬ者がコリントの集会にとくに多いことをパウロは問題にしているのです。しかし、「主の来臨」《パルーシア》信仰の意義を考え直さざるをえない現在においては、パウロのこの言葉の意味も変わらざるをえません。

 わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。裁かれるとすれば、それは、わたしたちが世と共に罪に定められることがないようにするための、主の懲らしめなのです。(一一・三一〜三二)

 「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだ」ことが裁き《クリマ》であるということの意義を、パウロ自身が説明しています。それは、わたしたちが最終的に断罪《カタクリマ》されることがないように、主から与えられる「懲らしめ」であるというのです。原文では「主から教育されている(しつけられている)」となっています。このように、たとえパウロの時代のような《パルーシア》待望ではなくても、わたしたちは死も含めて病気やその他のもろもろの地上の試練を、最終的な栄光にあずかるための主の教育として受け止めることができます。

 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。その他のことについては、わたしがそちらに行ったときに決めましょう。(一一・三三〜三四)

 「主の晩餐」の無秩序について、パウロは「主の晩餐」の本質を思い起こさせた後、実際上の問題としては、「食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」と「空腹の人は、家で食事を済ませなさい」という二つの指示で締めくくります。この指示は、「主の晩餐」が実際の食事であることから生じる弊害を避けて、純粋に主のあがないの死を記念し、かつ愛の一致を実現するための集会行事にすることを目指した指示です。パウロがこの指示を与えたことは、「主の晩餐」が実際の食事と「聖餐」と呼ばれる儀式とに分かれていく傾向が、すでにこの時代からあったことを示唆しています。

食事と「聖餐」の分離

 「主の晩餐」に関するパウロの最後の指示は、すでに使徒の時代に、「主の晩餐」が集会の共同の食事から分離して、パンと杯により復活者キリストのあがないの死を記念する祭儀的な行事になる傾向があったことを示唆しています。事実、その後の歴史を見ますと、この分離は急速に進み、日曜日の集会の礼拝ではパンと杯で主の死を記念する儀礼だけとなり、共同の食事は《アガペー》(愛餐)と呼ばれて別の機会に行われるようになります。

 パンと杯による主の記念の儀礼は《エウカリスティア》(感謝)と呼ばれ、集会の主要な行事となります。その前に準備として聖書朗読や説教や祈りが行われます(この部分はユダヤ教会堂の習慣を踏襲したもので、後にプロテスタン教会の礼拝の主要部になります)。  食事から分離した儀礼としての《エウカリスティア》(聖餐)は、おそらくヘレニズム世界の密儀宗教の影響もあって、バプテスマというイニシエィション(加入儀礼)を受けた者だけに与えられる救済の「サクラメント」(聖礼典)とされ、そのパンとぶどう酒は神の救済とか生命を現実に伝達する神聖な物質と理解されるようになります。この傾向は長い教会の歴史の中で続き、ついにカトリック教会の「化体説」で完成します。「化体説」というのは、パンとぶどう酒は司教の聖別の祈りによってその全実体がキリストの体と血に変化するという教理です。司教の組織体としてのカトリック教会は、有効なサクラメントを与える唯一の機関として、救済手段を独占することになります。

 これに対して、宗教改革は「化体説」を否定して、聖餐を「見えない神の言葉の見える形」として回復しようとしました。しかし、聖餐の聖礼典(サクラメント)としての性格は保持しました。わたしたちはさらに進んで、教会の聖礼典にあずかることはなくても、キリストとの交わり(それが救いであり永遠の命です)はありうると確信し、そう主張しています(福音講話「教会の外のキリスト」参照)。それは、キリストとの交わりは儀礼にあずかることによってではなく、信仰によって与えられる聖霊の働きによることを体験しているからです。

 しかし、「主の晩餐」がそれにあずかることが救いを保証する聖礼典(サクラメント)であることを否定することは、「主から受けた」伝承である主を記念する食事そのものを否定するものではありません。わたしたちの信仰が儀礼化したり観念化することを防ぐためにも、集会の共同の食事という場に復活されたキリストの臨在を迎え、わたしたちのために死なれたキリストを記念し、お互いの愛の交わりを確認することは、御霊によるキリストとの交わりに生きる民にとってふさわしいことです。そのような形で、復活者キリストの十字架を終末的な救いの出来事として世界に告知することはふさわしいことです。しかし、集会の規模や状況によっては共同の食事は困難である場合があるでしょう。その場合も、キリストに属する者が二人三人集まるところには主がそこにおられるのですから、日常の食事の場を主を記念する「主の晩餐」とすることはできるのです。形はどうであれ(パンとぶどう酒でなくてもよいのです)、御霊のキリストとの交わりに生きることによって、食事にいたる日常の具体的な生活で主を記念し、主を告白し、また相互の愛の交わりを深めていくことが望まれます。

 この段落で見ました「主の晩餐」に関するパウロの心配から、食事と「聖餐」儀式の分離へと向かう方向ではなく、食事を「主の晩餐」の本来の意義にふさわしい御霊の場とする方向に、わたしたちは進むべきでしょう。


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