パウロによるキリストの福音 II

 第六章 聖霊の賜物

  ― コリントの信徒への手紙 I ―

第一節 エクレシアの形成
第二節 聖霊の愛
第三節 預言と異言


第一節 エクレシアの形成



はじめに

 一一章(二節)から、パウロはコリントの信徒が集まるときの集会の在り方について心配して、勧告を始めました。最初に、伝え聞いていた女性のかぶり物の問題や主の晩餐の問題を取り上げましたが、一二章からはコリントの人たちが質問してきた問題に答えます。すなわち、「霊的な賜物について」回答します。パウロの回答から、コリントの人たちが主の晩餐と祈りを共にする集会の場には、実に豊かな御霊の賜物が注がれ、集会は御霊の多様な働きと現れに満たされ、霊の熱気に高揚していた様子がうかがわれます。この箇所(一二章〜一四章)は、ヘレニズム世界における最初期のキリストの民の集会がどのような様子であったのかをうかがい見る貴重な窓です。
 
 このような霊的熱狂には問題も伴いました。御霊の働きという未知の現実に直面して、コリントの人々には大きな喜びと共に戸惑いもあったのでしょう。彼らの質問に対して、パウロは御霊の働きを抑えつけることなく、彼らが受けている霊の賜物が「《エクレーシア》を建て上げる」ようになるために、細心の注意を払って勧告します。その勧告の中に、福音における聖霊の意義と働き、《エクレーシア》の本質とわたしたち個々の信徒との関わりというような福音の基本的内容が示されており、「パウロによるキリストの福音」の理解のためにきわめて重要な箇所となっています。
 
 
 

 御霊の働き


聖霊による「キュリオス」告白

 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(一二・一〜三)

 霊の事態について語るにあたって、パウロはまず最初に、「霊の事態については、あなたがたに無知でいてもらいたくない」(一節直訳)と言って、神の霊と他の霊の区別という基本的な問題を取り上げます。

 「霊的な賜物」と訳されているギリシャ語は、《プニューマティコス》(霊的な)という形容詞の男性複数形または中性複数形で、「霊の人たち」、または「霊の事柄」を意味します。四節以下で「賜物」と訳されている《カリスマタ》(《カリスマ》という中性名詞の複数形)とは違う用語です。新共同訳をはじめ大多数の近代語訳は「霊の事柄」と理解していますが、「霊の人たち」という理解も可能です(NRSVは本文で「霊の賜物」と訳し、欄外の注で「霊の人たち」という訳をあげています)。一節が一二章から一四章までの全体の主題を提示しているとすると、「霊の事柄」とか「霊の賜物」という訳がふさわしいのですが、一節を一二・一〜三の段落だけの主題提示とすれば、「霊の人たち」とか「霊的な人たち」という訳も十分可能です。その場合は、霊の知識を持っていることを誇る「霊の人たち」について、その霊の質を見分けるように求めていることになります。

 集会の中で、おそらく霊に感じた高揚の中で、「イエスは《アナテマ》だ」と発言する者があって、コリント集会の人たちはこれをどう受け取りればよいのか分からず、戸惑っていたのでしょう。《アナテマ》とは、神から見捨てられたもの(新共同訳)、のろわれたもの(協会訳)を意味する激しい言葉です(一六・二二、ガラテヤ一・八〜九)。集会の中でこのような発言が出てくることは、現在のわたしたちには理解が困難で、様々な解釈が行われています。おそらくこの発言は、コリント集会の中のグノーシス的な傾向の人たちが、「霊のキリスト」だけを信仰の対象として、「肉のイエス」を拒否したものではないかと考えられます。

 霊魂と物質の二元論的な傾向の強いギリシャ宗教思想の中で、この頃すでに地上の物質的な世界を絶対的な悪と見て、ただ霊の世界だけに価値を見いだす傾向が始まっていました(この傾向は後にグノーシス主義という体系的な宗教形態をとることになります)。パウロは福音を宣べ伝えるさい、霊なるキリストを強調し、イエス伝承に依存することが少なかったので、もともと霊的世界の知識や体験だけを重視する傾向のギリシャ人信徒の中に、地上のイエスの出来事を軽視したり無視したりする傾向が生まれ、それが霊感された発言の中で肉のイエスを拒否する言葉になったのではないかと考えられます。

 このような発言が実際にあったという理解は、パウロがコリントの人たちに異教徒であったときの体験を思い起こさせている(二節)ことからも支持されるでしょう。「もの言わぬ偶像」を拝む異教にも霊感はあり、そこでも実に多様な言葉が霊感された言葉として通用していました。だから、ただ霊感された状況で語られた言葉だからという理由だけで、その言葉を無条件で信じてはならない。その内容から、それが神の霊によるものであるかどうかを吟味しなければならないと警告しているのです。

 そこでパウロは、発言させる霊が神の霊であるか他の霊であるかを判断する基準を示します。「イエスは《アナテマ》だ」と語る霊は神の霊ではありえず、「イエスは《キュリオス》である」と告白する霊だけが「聖霊」、すなわち神の霊であるとします。この「イエスは《キュリオス》である」という告白こそ、福音信仰の基本中の基本になる信仰告白です。

 《キュリオス》とはどういう方であるのかについては、今までに繰り返し述べてきました(「用語解説」の「主」の項を参照)。《キュリオス》とは、死者の中から復活し、神の右に上げられ、天上、地上、地下の万物がその前にひれ伏す方です(フィリピ二・六〜一一)。ここでは、あのナザレのイエス、十字架につけられた殺された現実の地上の人イエスこそが、その《キュリオス》であることが強調されています。このイエスこそが《キュリオス》であることを否定する霊は、いかに深い霊的知識を誇っていても、神からの霊ではありえないのです。

 十字架につけられて殺されたイエスが《キュリオス》であるという告白は、人間の目には不条理の極みであり、受け入れることができないものです。その告白を可能にするのが聖霊です。イエスが《キュリオス》であることを認識させ、それを告白しないではおれないようにする力が聖霊です。この告白こそ聖霊のもっとも基本的な働きです。

様々な賜物

 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ御霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に御霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には御霊によって知恵の言葉、ある人には同じ御霊によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ御霊によって信仰、ある人にはこの唯一の御霊によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の御霊の働きであって、御霊は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。(一二・四〜一一)

 イエスを《キュリオス》と告白させる御霊の基本的な働きを明らかにしたパウロは、次に集会における御霊のさまざまな働きについて述べます。ここ(八〜一〇節)に上げられているさまざまな御霊の働きは、コリント集会の人たちにとっては日頃目にしている身近な体験でしたが、現代の教会にとっては理解しがたい不思議な現象も多いので、最初にそれぞれの内容について簡単に触れておきます。

 最初に「知恵《ソフィア》の言葉」と「知識《グノーシス》の言葉」が来ます。この二つを厳密に区別することは困難です。パウロはすでに二章(六〜一六節)において「この世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもなく、隠されていた、奥義としての神の知恵」について語っています。この「神の知恵」は、世の霊ではなく、神からの霊によって与えられ、その御霊によって「神から恵みとして与えられているもの」を理解するのです。ここに語られている「知恵」は「隠されていた神の奥義《ミュステーリオン》」と「神から賜っている恩恵の事態」の両方を理解する能力です。前者はイスラエルの歴史の中に隠されていた「神の秘密の(救済)計画」の理解であり、具体的には聖書(旧約聖書)を解釈するという形で現れる知恵です。後者は、神がイエス・キリストの地上の働きと言葉によって、また十字架と復活という出来事によって最終的に与えてくださった恩恵による救済の事態を的確に理解する能力です。そして、このように御霊によって与えられた「知恵」の内容を語るには、「人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、御霊に教えられた言葉によって」語らなければなりません。この言葉が「知恵の言葉」、「知識の言葉」であり、《エクレーシア》の信仰内容を指導する重要な賜物です。パウロは、優れた聖書知識だけでなく、第三の天にまで引き上げられるという霊的啓示体験も含めて、このような「知恵の言葉」に満たされた典型的な人物でした。

 次にあげられている「信仰」と「病気をいやす力」と「奇跡を行う力」の三つは、ほぼ同じ内容の《カリスマ》を指しています。ここで「信仰」と言われているのは、イエスを復活者キリストと信じ、主と告白するという意味の信仰、すなわち「信仰によって義とされる」というときの信仰とは違い、「山を移す信仰」(一三・二、マルコ一一・二三、ルカ一七・六)と呼ばれている力ある業を行う特別の霊的能力としての信仰です。それは「奇跡を行う力」とも呼ばれます。そして、その奇跡は大部分「病気をいやす力」として現れます。パウロ自身、このような「しるしや奇跡の力」に豊かに恵まれていました(ロマ一五・一九)。御霊に溢れた集会では、主イエス・キリストの名によって按手して祈りますと病気が奇跡的にいやされるという現象がしばしば見られます。コリントの集会はこのような性質の霊的賜物に豊かに恵まれていたようです。

 次のグループ「預言」と「異言」は、霊感された祈りの中で、祈る本人の意識を超えて御霊によって直接語り出される言葉であって、それが集会の者が理解できる日常の言語である場合が「預言」であり、それが本人の母語でない全然知らない言語である場合が「異言」です。その「預言」がどのような霊から出たものであるかを見分ける「霊を見分ける力」、また「異言」の意味内容を理解して母語で語り出す「異言を解釈する力」を含めて、パウロは「預言」と「異言」という特異な《カリスマ》については、一四章で詳しく扱っていますので、ここではそのような御霊の働きがあるという事実だけにとどめておきます。

 このような御霊の諸々の働きは、「賜物」(四節)、「務め」(五節)、「働き」(六節)、「現れ」(七節)などと、多様な言葉で表現されます。そして、それぞれの表現にふさわしい内容で、その多様な働きが同じ源泉から出ていることが繰り返されます。

 「賜物《カリスマ》はさまざまですが、同じ御霊です」(四節直訳)。ここにあげられている様々な霊的能力が《カリスマ》(賜物)と呼ばれています。それは受ける人の資格とか能力と無関係に、恩恵《カリス》によって与えられている能力であるからです。ここにあげられている霊的能力の一つを与えられている人が、その霊的能力を何か自分の身に備わった能力であると勘違いして誇るならば、それは大きな間違いです。《カリスマ》として賜っている能力は様々であっても、同じ御霊が賜る能力なのです。

 「務めはさまざまですが、同じ主です」(五節直訳)。ここに上げられているさまざまな霊的能力は、その人の利益のためではなく、人に仕える能力として与えられています。仕え方はさまざまですが、仕える主人は同じ方、すなわち主キリストに他なりません。

 「働きはさまざまですが、すべてのことにおいてすべてをなされる神は同じです」(六節直訳)。ここにあげられたさまざまな御霊の働きをなしておられるのは同じ神です。ここで神が、「すべてのことにおいてすべてをなされる神」と表現されています。神は「天地万物の創造者にして保持者」であるだけでなく、目の前の《エクレーシア》の中で働いておられるのです。こうして、《エクレーシア》は神、主キリスト、御霊が一体として具体的にその働きを現される場となっているのです。「三位一体」は理論の問題ではなく、《エクレーシア》の具体的な体験なのです。

 「一人一人に御霊の現れが与えられているのは益となるためです」(七節直訳)。誰の益かは述べられていませんが、一二章〜一四章全体の論旨からすれば、「《エクレーシア》形成の益になるために」と理解すべきでしょう。こう前置きして八節以下で、「知恵の言葉」から「異言」にいたる様々な《カリスマ》が「御霊の現れ」としてあげられます。主は御心の欲するままに、《エクレーシア》を構成する一人一人に「御霊の現れ」を与えて、《エクレーシア》の形成に奉仕させられるのです。御霊は目に見えません。風(《プニューマ》は風という意味もあります)のように、どこから来てどこへ行くのか誰も知りません。しかし、御霊が働かれるときには「御霊の現れ」があります。コリントの集会はこの「御霊の現れ」が豊かな集会でした。



 キリストの体


一つの体へバプテスマされる

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの御霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの御霊をのませてもらったのです。(一二・一二〜一三)

 その現れがどのように多様であっても、それは同じ御霊の《カリスマ》(賜物)であり、同じ主に仕える務めであり、同じ神の働きであることを、コリント集会の人たちにしっかりと理解させたいパウロは、さらに体とその部分との関係をたとえとして集会の一体性を強調します。一二節は「体は〜であるように、キリストの場合も同様である」と、比喩であることを明言していますが、一三節を見ますと、パウロは集会を実際にキリストの体と理解していることが分かります。それは二七節で「あなたがたはキリストの体である」という形で断言されていることからも確認されます。

 ここで一三節を少し詳しく見ておきましょう。新共同訳を初め各種の日本語訳には問題がありますので、直訳を掲げます。

 「わたしたちはみな、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由人であろうと、一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされ(浸し入れられ)、みな一つの御霊を飲んだのです」。

 日本語訳の問題点は、《バプティゾー》という動詞の受動態を「洗礼(バプテスマ)を受ける」と訳し、洗礼儀式を受けることと理解している点です。《バプティゾー》という動詞は本来(水などの中に)「沈める」とか「浸す」という意味の動詞です。たしかに新約聖書では「バプテスマを授ける」という意味にも用いられますが、ここではこの動詞は、「一つの体の中へ」という前置詞句と一緒に用いられていますので、「沈める」とか「浸す」という意味に理解しなければなりません。しかし、《バプティゾー》という動詞は、パウロ自身を含め初期の福音宣教においては、「バプテスマを授ける」という意味でも広く用いられていたのですから、この動詞を使うときには「バプテスマ」という水に浸される信仰告白行為が連想さるるのは当然です。それでこの動詞は、二つの意味を兼ねて「バプテスマする」と訳すのがよいのではないかと考えます。「バプテスマを授ける(受ける)」では儀式的な意味に限定されてしまいます。

 この二つの意味の微妙な組み合わせは、ロマ書六章三節の重要なテキストに見られます。それを「バプテスマする」という訳語を用いて直訳しますとこうなります。

 「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中へとバプテスマされた者は誰でも、キリストの死の中へとバプテスマされたのです」。

 最初の「キリスト・イエスの中へとバプテスマされた」という表現においては、水の中に沈められるという形でキリスト信仰が告白されるバプテスマ(洗礼)の出来事が語られていますが、後の「キリストの死の中へバプテスマされた」では、同じ動詞が「沈められる、浸される」という本来の意味合いで用いられ、霊的に「合わせられる」という意味になっています。

 コリント書簡のこの箇所でも二つの意味が重なっていますが、「御霊によって」という句が加わることで、「洗礼を受ける」という儀式的な意味は背後に退き、キリストの体という霊的現実に組み入れられるという霊的出来事が前面に出てきています。パウロはここで、ユダヤ人とギリシャ人(異邦人)という宗教的な区別もなく、奴隷と自由人という社会的な身分の差別もなく、みな同じ一つの御霊によって、一つの「キリストの体」の中に組み入れられたことを語っているのです。この一つの体に所属するという事実が、賜物がいかに多様であっても、《エクレーシア》の統一を保証するのです。

 「ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと」という表現は、ガラテヤ書三章二七〜二節のバプテスマのさいの告白定式を思い起こさせます。しかし、ここでは「男も女もない」という一組が欠けていることが注目されます。

 「御霊によってバプテスマされた」という表現は、パウロがすでに「水のバプテスマ」に対して「聖霊のバプテスマ」を標語としていたことを意味するものではありません。この二つのバプテスマの対比はマルコ福音書に至って初めて現れます。しかし、本書簡(コリントT一・一七以下)に見られるように、パウロは自分の使命を(水で)バプテスマを授けることではなく、十字架されたキリストの福音を告げ知らせることであるとし、その福音とは信じる者が聖霊を受けるようになる(ガラテヤ三・一〜一四)ことであるとしています(この点については「パウロによるキリストの福音」第二部第三章第二節の「福音とバプテスマ」の項を参照)。このように見ますと、「水のバプテスマ」と「聖霊のバプテスマ」の対比は、パウロに源流があると見ることができます。なお、「聖霊のバプテスマ」については、福音講話「聖霊のバプテスマ」を参照してください。

一つの体、多くの部分

 パウロは、多様な賜物をもつ多くの人たちが一つの体に属することを、人体をたとえとして語ります。この人体のたとえは分かりやすいので、説明なしでテキストを掲げるだけにしておきます。なお、新共同訳で「部分」と訳されている語は、人体の部分のことですから、「肢体」(協会訳)の方が適当かもしれません。英語では「メンバー」という語が用いられますが、この語は人体の部分(肢体)を指すと同時に、共同体の構成員をも意味しますので、この場合の訳語としては都合のよい用語です。以下のテキストの「部分」を「メンバー」と読み変えるとさらに分かりやすくなると思います。

 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。(一二・一四〜一九)

 多様な働きをする肢体が同じ一つの体に属するだけでなく、肢体もお互いに他の肢体を必要としていることが、さらに人体のたとえを続けることで説かれます。この箇所は、自分に賜っている霊的能力だけが本物であって、他の賜物を受けている人たちを見下している高慢な人たちを戒めるためでしょう。

 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。(一二・二〇〜二六)

 肢体は互いに他の肢体を必要とするだけでなく、パウロは「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言って、賜物に恵まれている強いメンバーが弱いメンバーに愛の配慮をもって対し、集会に分裂が起こらないように求めます。指一本を怪我しても、体全体が痛みを感じるように、小さな肢体(メンバー)が苦しめば、同じ体に属する他のメンバーすべてが苦しむのです。指先が誉れを受ければ(たとえば珠算競技で一位になって)体全体が喜ぶように、一人のメンバーが誉れを受けると、共同体全体が喜ぶのです。このように、人体はその肢体の苦痛や喜びを全体として体験するという事実をたとえとして、パウロは《エクレーシア》という同じ生命が通っているキリスト者共同体の有機的一体性を説くのです。

《エクレーシア》の構成

 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。(一二・二七〜三一a)

 人体をたとえとして語ってきたパウロは、ここで「あなたがたはキリストの体である」と明言します。キリストを信じる者たち、キリストにあって生きている者たちが構成する共同体《エクレーシア》は「キリストの体」なのです。目に見えない霊なるキリストが地上で取りたもう体、歴史の中に歩まれるときの具体相なのです。

 パウロはここで、これまで(一二〜二六節)に人体のたとえを用いて述べてきたことを具体的に《エクレーシア》に適用します。神は《エクレーシア》にさまざまな賜物《カリスマ》を与えられた人物を起こして、《エクレーシア》形成に奉仕させられました。そのさまざまな奉仕の務めがここで順位をつけて上げられます。なお、ここでは《エクレーシア》が単数形であるのに対して「使徒」が複数形であることから、パウロはここで《エクレーシア》を個々の集会ではなく、包括的なキリストの民の共同体全体を念頭において語っていると見ることができます。

 最初に「使徒」、「預言者」、「教師」という三つの奉仕の務めがあげられています。この三つの務めは「神の言葉」に奉仕することで《エクレーシア》を指導するという点で共通しています。その中で「第一に使徒」がきます。「使徒」は、キリストを証言するために(すなわち、福音を告げ知らせるために)復活のキリストご自身から遣わされた使者として、《エクレーシア》の土台を形成するもっとも重要な奉仕の務めです(「使徒」の定義とか範囲についての議論、とくにパウロの使徒性をめぐる議論については別の機会に扱います)。

 「第二に預言者」が来ますが、ここで言う「預言者」は、(一四章で扱われるような)「預言」の賜物《カリスマ》によって散発的に預言するだけの者ではなく、霊感された言葉によって福音を伝え、信仰を教える指導者を指します。パレスチナやシリヤのユダヤ人キリスト教運動は、定住せず各地を巡回する預言者たちによって担われていたことが「語録資料Q」やマタイ福音書や『ディダケー』などからうかがえます。パウロが形成した異邦人諸集会では、(アポロのように)諸集会を巡回して教える預言者もいたでしょうし、(アキラとプリスキラ夫妻のように)定住して特定の集会で活動する預言者もいたようです。後に「預言者」は「使徒」と並んで《エクレーシア》の土台をなす指導者階級と見られるようになります(エフェソ二・二〇、三・五、使徒言行録一三・一など)。

 「第三に教師」が来ます。「教師」は、聖書や伝承の知識と忠実で熟達した信仰生活から来る知恵で、信仰を求める求道者や信徒の信仰生活を指導した人たちを指すと考えられます。このような働きも聖霊の賜物と理解されています。

 御言葉に仕える三つの奉仕の務めの次に、「奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者」が来ます。病気をいやすこと以外のどのような奇跡が行われたのか、パウロの書簡からは確認できませんが、人の力を超える不思議な業が御霊によってなされることで、復活の主が生きて働いておられることが証され、《エクレーシア》の信仰を励ましました。

 次に「援助する者、管理する者」という務めが来ます。貧しい人たちや困窮者を援助する愛の奉仕活動をする者、また集会の運営を管理する者が、御霊の賜物による務めと理解されていることが注目されます。集会の営みはすべて御霊の働きであって、すべて主に奉仕する業であるとされるのです。

 最後に「異言を語る者」が来ます。異言は一四章で詳しく扱われますが、その扱いから、コリントの集会では異言という不思議な現象が特別視されて、異常に重視されていたことがうかがわれます。そのような傾向に対して、パウロは異言を最後に置くことで、それが多く中の一つの賜物にすぎないことを認識させようとしたのかもしれません。

 ここにあげられた奉仕の務めは御霊の賜物《カリスマ》として扱われていますが、先に(八〜一〇節)であげられた「御霊の賜物」と正確に重なっているわけではありません。パウロは、《エクレーシア》の中に見られるさまざまな務めを御霊の賜物とすることで、さまざまに異なる務めを(先に御霊の賜物について述べた)「一つの体」の比喩の中に組み込むのです。「皆が・・・・であろうか」と問いかけて、一人一人が異なる賜物を与えられていること、従ってお互いに他を必要としていることを認めさせて、皆が一つの体に属していること(二七節)を自覚させようとするのです。

 なお、この段落で《エクレーシア》における各種の奉仕の務めをあげるさい、「監督」と「奉仕者(執事)」(フィリピ一・一)という名称が用いられていないことが注目されます。この二つの務めは「管理する者」に含まれているのでしょう。「監督」とか「執事」は個別集会でやや制度化され固定した地位であるのに対し、パウロはここで《エクレーシア》全体を念頭に置いて、御霊が賜る奉仕の務めの性格づけとして「管理する者」という表現を用いていると考えられます。

 このような《エクレーシア》を構成する奉仕の務めは固定したものではありません。パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言って、集会の一人一人が、さらによく主に仕えることができるようになるために、「もっと大きな賜物」を受けるよう、祈りと奉仕に努めるように励まします。主は忠実な僕にさらに大きな「タレント」(能力)を与え、さらに多くのものを委ねられます(マタイ二五・一四〜三〇)。

キリストの体としての《エクレーシア》

 パウロはキリストを信じる者たちの共同体をいつも《エクレーシア》と呼んでいます。この呼び方はパウロから始まったものではなく、ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト教徒が用い始めたものと考えられます。この呼び方は、ヘブライ語聖書の《カーハール》(神の民、イスラエルの会衆)を七十人訳ギリシャ語聖書が《エクレーシア》と訳していることから出ています(ギリシャ語の《エクレーシア》はもともと召集された市民たちの集会を意味する語です)。《カーハール》の訳語として、《エクレーシア》は本来キリストにあって新しく召集された神の民全体を指す語ですが、新約聖書はこの語を特定の地域にある個々の集会にも、個人の家に集まる集会にも、広く用いています。このような様々な用法を一つの訳語で表現することは困難であり、伝統的に用いられている「教会」という訳語にも(あまりにも多くの違ったイメージが付着しているという)問題がありますので、ここでは《エクレーシア》という原語をそのまま用い、必要に応じて「民」とか「集会」とか「共同体」という説明的な訳語を用いることにします。

 新しい神の民《エクレーシア》は、キリストの福音によって召集され、主なるキリストと結ばれ、キリストの霊によって生きる者たちの共同体です。この共同体は、初めイスラエルという古い神の民の中で呱々の声を上げ、その中で成長しましたが、やがてユダヤ人以外の民も含むようになり、ついにイスラエルと呼ばれるユダヤ人共同体とは別の新しい民であると自覚されるようになりました。この分離を決定的にしたのがパウロです。パウロはあらゆる困難と戦って、キリストの民は割礼を受けてユダヤ教律法を守ることは必要でないと主張しました(ガラテヤ書)。このパウロの命がけの戦いによって《エクレーシア》はユダヤ教団とは別の共同体となったのです。いわばパウロは《エクレーシア》の生みの親なのです。

 パウロはこの新しい共同体《エクレーシア》の形成とその原理の確立のために、命をかけて最大限の努力をします。もはやユダヤ教律法は、新しい共同体形成の原理とはなりえません。では、何が《エクレーシア》を形成する原理となるのでしょうか。それは聖霊です。パウロはキリストの霊だけを、キリスト者個人の歩みについても(ガラテヤ五章参照)、キリスト共同体《エクレーシア》の形成についても、その原動力とし、原理とするのです。コリント書簡全体、とくにこの十二章から十四章のブロックが、聖霊こそ《エクレーシア》形成の原理であることを、何よりも雄弁に物語っています。

 《エクレーシア》はキリストの霊によって形成される共同体です。《エクレーシア》は御霊が働かれる場であり、神の霊の働きだけを結合原理とするまったく新しい種類の人間共同体です。これまで人間は、血縁や地縁を結合原理として、家族、部族、民族など、また共通の利益を結合原理として会社や組合など、さらに権力による支配を原理として国家や帝国など、さまざまな種類の共同体を形成してきました。その中にまったく別の原理で形成される人間共同体が出現したのです。《エクレーシア》においては、「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない」のであり、あらゆる人間的な違いは意味がなくなって、ただ御霊の働きによって同じ主キリストに帰属する一つの共同体が形成されるのです。

 こうして、ただ御霊によって形成された人間共同体《エクレーシア》は、霊なるキリストがご自身を地上に具体的に現される現実態となります。霊は体を取ることで現実態となります。このことをパウロは「あなたがたはキリストの体です」と言うのです。「あなたがた」、すなわち(今語りかけられているコリントの信徒たちに代表される)すべてキリストに属する者たちの集まりは、霊なるキリストが地上に体を具えて(そなえて)ご自身を現される姿だというのです。《エクレーシア》は霊なるキリストの具体相なのです。

 キリスト者の共同体をどう理解するか、新約聖書の中にもさまざまな呼び名や表現が見られます。その中で、《エクレーシア》を「キリストの体」であると理解するのは、パウロ独自のものであり、さまざまな《エクレーシア》理解の中でもっとも深いものの一つです。その理解が、聖霊の働きを語るブロックの中に出てくるのは偶然ではありません。聖霊の働きを語るとき、必然的に聖霊の働きの具体相である「キリストの体」《エクレーシア》に触れざるをえないのです。パウロの聖霊論は《エクレーシア》論と一体です。

 パウロは、コリントの集会が豊かな御霊の賜物《カリスマ》に恵まれているために、各自が自分の霊的能力を誇り、集会の交わりが損なわれることを心配して、同じ一つの体に属することを強調しました。そのために人体とその肢体をたとえとして用いたのですが、多くの肢体からなる一つの人体の姿は、霊なるキリストの体としての《エクレーシア》に重なり、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその肢体です」という宣言に結果しました。この一文ほど、《エクレーシア》の本質を簡明にかつ深く喝破した文はありません。現在の複雑な教会問題を考えるときはいつも、キリストの体としてのキリスト共同体の形成は聖霊によるという、このパウロの原点に立ち帰って、そこから考えなければなりません。


第二節 聖霊の愛



愛がなければ

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(一三・一〜三)

 御霊の賜物について詳しく論じた後、最後に使徒は御霊によって生きる「最高の道」を指し示します。

 「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」(一二・三一)

 こう言って、使徒パウロは愛の道を描きます。最初に、人の生を生きるに値するものにするのは愛であることが、美しい詩的な表現で謳われます。一二章であげられた御霊の賜物が列挙されて、それがどれほど豊かに与えられていようと、愛がなければすべては空しいと断定されます。愛こそ神の霊の本質であり、それがなければ、いかなる霊の現れも神とは関わりのないもの、すなわち空しく、それを持つ人に何の益ももたらさないのです。

 最初に異言が取り上げられているのは、コリント集会の人たちがこの特異な御霊の現れをとくに誇っていたからでしょう。彼らが語る異言は、異国の人たちの言葉だけでなく、天使たちの言葉であるとされていたことがうかがわれます。たしかに、御霊が語らせる異言には、地上のいかなる言語でもなく、天上の響きを感じさせる霊歌が出る場合があります。

 続いて、預言と知識が取り上げられます。知識《グノーシス》についてはすでに愛に対立するものとして警告されていました(八・一)。コリントの集会には自分の霊知《グノーシス》を誇る人たちがいたので、パウロはとくにこの傾向を戒めなければなりませんでした。  また、御霊の力によって病気をいやし奇跡を行う人は、そのような力ある信仰を誇り、他の人たちの信仰を見下げる風潮が出てきます。そのような人たちに対して、山を移すほどの信仰(この表現にはイエス伝承の影響が見られます)も、愛がなければ何もないのと同じだと警告します。

 最後に、「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」とか「わが身を死に引き渡す」という最高の宗教的行為も、愛に生きる中で行われるのでなければ、人には誇ることができても、神の前では何の益にもならないとされます。施しとか喜捨は、たんなる道徳的行為とか慈善行為ではなく、自己否定の表現であり、高い宗教的境地に至るための道として、どの宗教でも高く評価されていました。また、信仰告白のために「わが身を死に引き渡す」ことは最高の敬虔の表現です。ユダヤ教もすでにこのことを知っていました(たとえばマカバイU)。原始キリスト教団も体験し、パウロ自身も福音のために「わが身を死に引き渡す」ような体験をしてきました。そのような最高の宗教的行為も、愛がなければ何の益もないとされます。

 こうして、愛だけがすべての霊的な能力と宗教的行為を意味あるものとする源泉であることが、「愛がなければ」という形を用いて詩的な表現で歌い上げられます。では、その愛とはどういうものでしょうか。愛はいのちですから、言葉で定義したり説明したりできません。愛が実際に働く姿を描くことで示されます。

愛の働き

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(一三・四〜七)

 ここで愛《アガペー》の働きが一四の動詞を用いて描かれます。愛は御霊という神のいのちの本質です。それが人の中に宿り、働き、現れるときの姿が、これ以上簡潔にできない形で見事に表現されます。

 初めの二つ、「忍耐強い」と「情け深い」は、愛の積極的な働きを描きます。「忍耐強い」という動詞の名詞形はガラテヤ書(五・二二)では「寛容」と訳されています。違いや対立、敵意までも耐えて、相手を寛い心で受け入れる姿です。「情け深い」という動詞は、父が「情け深い」と言われるときの形容詞(ルカ六・三五)を動詞にしたものです。父がそうされるように、受ける価値のない者にも無条件で与える姿勢です。この初めの二つの動詞の背後に、イエスが言われた「敵を愛しなさい」とか「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者になりなさい」(ルカ六・三六)というお言葉が響いています。

 次の「ねたまない」から「不義を喜ばない」まで、八つの否定形の動詞が続きます。否定されている動詞は、ねたむ、自慢する、高ぶる、非礼を行う、自分の利益を求める、いらだつ、恨む、不義を喜ぶ、の八つです。この八つの動詞は、人間の本性(パウロはそれを肉と呼んでいます)に巣くう生来の悪を見事に列挙しています。わたしたちはこれらの本性的な悪(パウロはそれを肉の働きと呼びます)を努力や修行で抑えきることはできないのです。これは自我心とか自己主張という人間本性に根ざしているからです。そのような本性的な悪を駆逐して、そのようなことを「しない」ようにさせるのは、御霊の愛の力だけです。御霊は肉と相反する質のいのちだからです(ガラテヤ五・一六〜一七)。

 ところで、ここに列挙されている行為をすべてしたから愛が実現するという性質のものではないことに留意しなければなりません。愛はそういう人間の倫理的・道徳的行為の総計とか結果ではないのです。愛はいのちの質であり、御霊の賜物、御霊の働き、その現れなのです。御霊がないところには《アガペー》の愛はありません。

 最後に、愛の働きを一文で要約して締めくくります。この最後の文は、わたしは次のように訳しています。

  「愛はすべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」

 この訳について、また、《アガペー》については福音講話「愛はすべてに勝つ」を参照してください。ここでは繰り返しを避けますが、その中から一カ所だけ引用しておきます。

 わたしは、パウロが「すべてを」と言っているところを、勝手に次のような比喩で表現して愛唱しています。

 「愛は、海のように包み、太陽のように信じ、星空のように望み、大地のように担う」。 海はどのようなものでも大きな懐に包み込んでいます。そのような形のものは包み込めないと拒否しません。太陽は、よい実が生じることを信じて万物に命の光を注いでいます。星は闇夜に輝いて、行くべき方向を指し示しています。大地は万物をその上に担い、どのようなものを載せても重くて嫌だと苦情は言いません。そのように、破れ果てた人間世界で、《アガペー》は包み、信じ、望み、担うのです。

愛は滅びない

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一三・八〜一三)

 愛《アガペー》は聖霊の賜物《カリスマ》の一つです。しかし、《アガペー》というカリスマは、預言や異言、知識《グノーシス》や力ある業などの他の賜物とは違いがあります。その違いがここで語られます。すなわち、預言や異言や知識などの賜物は「部分的なもの」、「一時的なもの」であるのに対して、愛《アガペー》は「完全なもの」、「永続するもの」である点が決定的な違いです。

 預言や異言や知識が「部分的」と言われるのは、その賜物がすべての人ではなく、特定の役割を担う一部の人だけに与えられる賜物であるという意味もあるでしょうが、ここでは、その内容が真理の全体ではなく、一部にしか参与していないという意味で「部分的」と言われています。それに対して愛は、御霊によって生きるすべての神の子に与えられる賜物であるだけでなく、それは人を真理の全体にあずからせるという意味で「完全なもの」と言われています。愛《アガペー》は神のいのちの質そのものであるからです。そして、「完全なもの(愛)が来たときには、部分的なものは廃れる」ことが、幼子と成人のたとえを用いて語られます。部分的な賜物で満足し誇っている者は幼子にたとえられ、愛という完全な賜物に生きる者が、人生の全体を理解している成人にたとえられます。大人となった今は、幼児の生き方は卒業したのです(「なった」も「棄てた」も現在完了形)。

 次に鏡のたとえが来ます。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、今の鏡のようにはっきりと写して見ることができませんでした。鏡のたとえでは、「今は」と「その時には」が対照されています。今は鏡を通して「おぼろに」(原意は「謎において」)見ている(現在形)が、その時にはもはや鏡を通してではなく、顔と顔を合わせて見るようになるというのです。そのことをパウロは一人称単数形を用いて、自分の確信として述べます。今わたしは部分的に知っている(現在形)だけであるが、その時には、神がわたしを知っておられるようにはっきりとわたしは神を知るようになる(未来形)というのです。ここで用いられている「はっきりと知る」と動詞の名詞形が《エピグノーシス》です。地上の《グノーシス》(知識)は部分的で不完全です。しかし、完全なものが来る「その時には」、《エピグノーシス》(完全な霊知)が実現するのです。先の幼子のたとえでは、愛の賜物が他の賜物を完成するという地上の体験が語られていましたが、この鏡のたとえでは、完全なものが来るのは終末のこととされ、現在体験されている預言や異言や知識などのカリスマは、部分的であり一時的なもの(過ぎ去っていくもの)に過ぎないことが強調されるのです。その上で、愛の賜物は「その時にも」存続する永続的な賜物であることが指し示されているのです。

 預言や異言や知識というようなカリスマ(御霊による能力)が、《エクレーシア》形成のために、必要に応じて、一部の人に一時的に与えられる性質のものであるのに対して、同じ御霊が生み出してくださるものでも、「信仰と希望と愛、この三つ」はすべて主に属する者たちに与えられ、完全なものが来る「その時には」廃れるものではなく、「いつまでも残る」もの、その時にも存続するものなのです。その中でも愛は、直接神のいのちの質を表現するものとして、「最も大いなるもの」と呼ばれます。

 「信仰と希望と愛、この三つ」については、今までに何回も論じましたので(たとえば福音講話集「キリスト信仰の諸相」)、今回は触れないでおきます。また、聖霊の賜物として愛については、福音講話「十字架の愛・聖霊の愛」を参照してください。  なお、カール・バルトが「第一コリント書一五章についての大学の講義」を著書として出した『死人の復活』(一九二四年)において、第一五章こそこの手紙の本来の主題が現れた箇所であり、この手紙のクライマックスであるとしたのに対して、ブルトマンが批判の論文を発表し(一九二六年)、この手紙全体のクライマックスは第一二章から第一四章の説明であるとし、実際のクライマックスはその中心にある第一三章であるとしました(新教出版社『ブルトマン著作集』第一一巻所収)。今世紀を代表する二人の神学者が、この手紙の峰を別の章に認めたことは、それぞれの神学的立場の表現として興味を惹きますが、一三章と一五章がこの手紙の二つの高峰をなしていることは間違いありません。そして、一五章が終末的であることはもちろんですが、一三章も、ブルトマン自身が言っているように「アガペーは道徳的理念ではなく、終末論的出来事である」のです。近代主義神学は福音の終末論的地平を見失っていましたが、二十世紀に入ってそれが回復されてきていることが、両者のコリント書簡理解にも見られます。




第三節 預言と異言


 預言と異言


異言と預言の比較

 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。(一四・一〜五)

 諸々の御霊の賜物(カリスマ)の中の「最高の道」である愛を指し示した後、カリスマの中でもコリントの人たちがとくに重視し、それが豊かに与えられていることを誇っている二つの賜物、すなわち預言と異言について、その恵みの賜物を「エクレーシアを造り上げるために」適切に用いるようにパウロは勧告します。この句が一四章全体を貫く標語となります。

 預言と異言は、普通祈りにおいて(例外もあります)、聖霊に霊感されて直接語り出される言葉である点では共通していますが、それが祈る者の母語(または修得した外国語)である場合が預言であり、母語とか修得した外国語などでなく、その人が普段語ることができない言語である場合が異言です。異言は、実際に他の民族によって話されている言語である場合(日本語しか話せない人がフランス語や中国語で祈りだすような場合)と、そうでない場合(このような場合にコリントの人たちは「天使の言葉」と考えたのかもしれません)があります。また、祈る人にとっては異言であっても、それを聴く人には預言となる場合(たとえば日本語しか話せない人が英語を話す人たちがいるところで英語で祈り出したような場合ー使徒言行録二章にはこの現象が多くの言語で起こったことが伝えられています)もあります。パウロの福音宣教によって形成された諸集会には、このような預言や異言のカリスマが与えられていましたが、コリントの集会はとくにこのカリスマが豊かで、それだけに混乱や危険も大きかったようです。

 使徒時代の集会はこのような御霊の現れは盛んであり、それはモンタノス運動にも見られるように二世紀後半にも続いていました。しかし、聖職制度が確立し、教義が厳密になって「正統教会」が形成されるに従って、御霊の現れは抑えられるようになります。この傾向はキリスト教会がコンスタンティヌス以来ローマ帝国と結びついてからは、ますます強くなり、御霊の現れ(カリスマ)は「異端」とされた運動の中で僅かに伏流として見られるにすぎなくなりました。しかし、今世紀初頭にアメリカで起こったペンテコステ運動以来、カリスマは再びカトリック教会をも含む世界の諸教会で復興し、危機的な時代の福音の進展に重要な地位を占めるようになりました(最近のカリスマの復興については、キリスト新聞社刊行の手束正昭『キリスト教の第三の波ーカリスマ運動とは何かー』を参照してください)。

 わたしは若いときにペンテコステ派に属するフィンランド宣教師の教会で福音に接し、そこで育ち、いやしや預言・異言のある集会を体験してきました。その後、この運動の体質に問題もあることを感じ、神学的な探求に励んできましたが、そうすればするほど、パウロが「御霊の事態を熱心に求めなさい」(一四・一)と言っていることの重要性を痛感します。それで、それぞれの御霊の賜物について、とくにここで重視されている預言の賜物についてさらに詳しく探求する必要がありますが、それは別の機会に譲り、ここでは「エクレーシアを形成するために」というここでの主題に関連する限度内で、簡単に触れるにとどめます。

 預言と異言は、ともに御霊が直接語らせる言葉として貴重ですが、異言がそれを語る本人だけにとって有益であるのに対して、預言は他の人に理解できる言葉で語るので、集会にとって有益であるという観点から、異言よりも「預言する者の方がまさっている」とされます。  この章でパウロは繰り返し《オイコドメオー》(建てる)という動詞(およびその名詞形)を用いています(三、四、五、一二、一七、二六節)。この「建てる」という言葉がこの章のキーワードとなります。この章の結論は「すべてのことを建てるためにしなさい」です(二六節)。

 この動詞はもともと「(家屋などの建造物を)建てる」という意味の動詞ですが、比喩的に交わりや共同体を「形成する」という意味にも、さらに広く「益する、強める、確立する」という意味にも用いられます。「愛は建てる」のです(コリントT八・一)。ただ、「建てる」という訳語(岩波版青野訳)は、「教会を建てる」という場合に、教会堂という建物を建てるという意味に誤解されかねません(文脈はそういう誤解を許しませんが、訳文が一人歩きをしたとき誤解を招きます)。おそらく協会訳はそのような誤解を避けるために、(文語訳の「徳を建つ」に従って)「教会の徳を高める」と訳したのでしょうが、この訳では、教会の道徳レベルの向上という狭い意味に限定されかねません。新共同訳は、おそらくこの両方の誤解を避けるために、目的語が教会の場合も個人の場合も、「造り上げる」と訳しています。しかし、「エクレーシアを建てる」であれば、上記の誤解の余地はありませんから、「建てる」という原意を生かす訳語を、集会にも個人にも使うことができると思います。

 先の段落(一〜五節)では、「エクレーシアを建てる」のに有益かどうかという観点から、異言と預言が比較されました。それに続いて、異言はこの点では有益でないことが説明されます。この説明は、パウロの手紙の本文自体が懇切な説明になっていますから、ここでは本文を掲げるだけにします。

 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているのか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。(一四・六〜一一)

異言の性質

 では、異言をどう扱えばよいのかが、異言という現象の性質を説明しながら進められます。ここでも基本原則は「エクレーシアを建てるために」です。異言もその性質をよく理解して、「エクレシーアを建てるために」賢明に用いるように勧告されます。

 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。(一四・一二〜一九)

 異言で祈る場合、霊は祈っているが理性は実を結ばないと言われます。異言で祈るとき、御霊がわたしたちの舌(言語器官)に直接働いて(「異言」の原語は「舌語り」という意味のギリシャ語。「用語解説」の「異言」の項を参照)、わたしたちが理解できない言葉で祈らせるので、わたしたちの祈りは、いわば理性を素通りしていることになります。その祈りは、理解できる言葉によってわたしたちの考えや生き方を形成する力をもちません。

 異言がこのような性質のものであれば、どうしたらよいのでしょうか。パウロは、「霊で祈り、理性でも祈る」ように、「霊で賛美し、理性でも賛美する」ように勧めます。「霊で祈る」とは、ここでは異言の祈りであり、「理性で祈る」とは目覚めた意識をもって、自分が理解できる言葉で祈ることです。パウロはこれを同時にするように求めているわけではありません。異言で祈るだけでなく、理性で祈る時間も持つように勧めているのです。とくに集会では、他の人たちを「建てる」ことを考えて、異言で祈ることを控え、理性によって祈り、賛美し、語ることを勧めるのです。これは、異言のカリスマを与えられている人たちが、ともすれば自分の賜物を誇り、集会においても異言でばかり祈るのを戒めていると考えられます。

 異言を語る者は、その異言を「解釈する」賜物をも求めるように勧められています(五節、一三節)。「異言を解釈する」ことも御霊の賜物の一つであって(一二・一〇)、修得する外国語能力ではありません。異言を語らせる同じ御霊が、本人なり他の人にその意味を示して母語で語ることができるようにするとき、「異言を解釈する」と言われます。異言が解釈されると、それは預言と同じになります。なお、ここでパウロは「わたしはだれよりも多くの異言を語れる」と述べていますが、これは「第三の天にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」体験(コリントU一二・一〜四)に見られるように、「天使の言葉」をも含む多くの種類の異言で祈る賜物を与えられていたことを指しているのでしょう。

しるしとしての預言と異言

 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、異国の人々の唇でわたしはこの民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』と主は言われる。」このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。(一四・二〇〜二五)

 異言の賜物を誇り、異言の性質をわきまえないで、子供が玩具を喜ぶように見せびらかすコリントの人々に対して、パウロは賜物の使用については大人の判断を持つように求めます。そのために律法(聖書)を引用して諭します。引用はイザヤ書二八章一一〜一二節で、本来の状況とか文脈とは無関係に、それが「異国の言葉を語る」ことを扱っているので、異言の性質を教える根拠として引用されます。イザヤの預言で、異国の言葉で語りかけられてもこの民は耳を傾けない(信じない)であろうと言われていたことを引用して、異言は信じていない者、信じようとしない者に向かって与えられたしるしであるとします。異言は人々を信仰に導くのに有効なしるしとはならない、かえってかたくなにするだけのしるし、不信仰へのしるしであると言っているのです。信じていない人が、異言だけで祈りが行われている集会に入ってきたら、気が変になった人たちの集会と思い、つまづくだけです。たしかに、全員が異言だけで祈る集会は、一種の狂騒状態に陥っていると見られても仕方がない場合があります。

 それに対して、預言は信じている者、信じようとしている者のために与えられているしるし、信仰へのしるしであるとされます。このような人たちは、預言が語られている場では、魂の奥底に働きかける言葉を聴き、信仰に導き入れられ、神の臨在にひれ伏すことになります。こうして、ここでは預言と異言が宣教の視点から、すなわち周囲の人たちを信仰に導くのに有益かどうかという視点から較べられているのです。ここでも、他の人たちの益なるかどうかという視点からする「大人の判断」が求められているのです。


 集会の秩序


異言と預言の秩序

 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。(一四・二六〜三三a)

 ここで締め括りとして、今までに述べられた御霊の賜物によって実際に集会を進めるにあたっての具体的な勧告がなされます。ここでまず注目すべきことは、集会に集う人たちがみな「それぞれ」発言して、集会を形成していることです。「一人一人が皆、預言できるように」なることが集会の本来の姿とされています。これは、現代の制度的な教会において、資格のある特定の聖職者だけが発言して、会衆は聴いているだけという「礼拝」とまったく違った姿です。

 二六節に列挙されている発言については、新共同訳は「詩編の歌をうたい」と訳していますが、必ずしも旧約の詩編を指すのではなく、「賛歌をうたい」と訳す方が適切でしょう。初期の集会では御霊による賛歌(霊歌)がよく出たようです(エフェソ五・一九)。「教えをなし、啓示を語り」というのは、御霊による預言をその内容から分けて列挙したものであり、二九節で両者は「預言する者の場合は」とまとめられていると見られます。

 このような各自の発言は「すべてはあなたがた《エクレーシア》を建てるために」するようにと、勧告の中心点が明示され、続いて、どうすればよいのか具体的に説明されます。異言の場合は「二人かせいぜい三人が順番に」語るように求めらます。多くの人が同時に異言で祈ると、集会は一種の狂騒状態に陥る危険があるからです。忘我狂騒(エクスタシー)は《エクレーシア》の形成にとって害があっても益はないからです。さらに、異言は解釈されてはじめて預言と同じく「他の人を建てる」のですから、異言を解釈する賜物を与えられている者がいなければ、集会では語らないで、一人でいるときに神と自分だけの交わりの中で異言の祈りを用いるように勧告されます。

 預言の場合も、二人か三人にとどめ、他の者たちがその預言を吟味するように求められます。霊感された言葉だからといって手放しで受け入れるのでなく、その預言が伝えられた福音の伝承(たとえば一五章一〜五節など)や使徒の教えから逸脱しないかどうかを吟味するように求められます。預言する者は二人か三人にとどめ、「座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい」と勧められるのは、教えや啓示を語ることが特定の人に偏ることなく、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるように」なるためです。

 霊感による忘我恍惚(エクスタシー)の状態にある者は、霊に引き回されて自己をコントロールすることはできませんが、キリストの御霊による預言や異言の場合は、「預言者の霊は預言者に服する」ので、集会の状況を配慮して、預言や異言を語り始めたり中止したりすることができるのです。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だから」、神の霊によって語る者は、忘我狂騒の中ではなく、秩序ある平和の中にカリスマを用いるのです。

 この段落に描かれている集会の様子は、最初期の集会が預言者集団のような性格をもっていたことを示唆しています。パウロがヘレニズム世界に形成した異邦人集会は、「主の晩餐」を中心にする祭儀集団として、当時の人々の密儀宗教に対する近親感に助けられて発展したとする見方がありますが、一種の預言者運動としての性格も見逃すことはできません。この性格は二世紀のモンタノス運動に典型的に現れることになります。

集会における婦人

 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。(一四・三三b〜三六)

 この段落は、女性が集会で祈ったり預言したりすることを認めた一一章二〜一六節の段落と矛盾するのではないかという問題を提起します。この問題に対してさまざまな解決が提案されてきました。一つの解決は、この段落は本来の書簡にはなく、テモテへの手紙T二章一一〜一二節に従って後で挿入されたと見る説です。たしかに、この段落を集会での婦人の発言を全面的に禁止するものとするならば、一一章と矛盾し、女性の伝道活動をパウロが評価している事実とも反するので、このような説明に至らざるをえません。しかし、内容が理解困難であるからといって本文から取り除くことには慎重でなければなりません。

 本文を尊重して理解するのであれば、婦人に対する沈黙の命令は全面的なものではなく、特別の場合に対するものであると理解せざるをえません。それがどういう場合であるのか、この簡単な本文からは決めることはできません。おそらく、集会での議論のさいに質問して討論を妨げることを指しているのではないかと考えられます。沈黙が「集会では」と強調されていること、「家で自分の夫に聞きなさい」と言われていることなどから、おもに既婚婦人が公の議論の場でしきりに質問を発して、御霊による預言や討論の流れを妨げることを戒めていると理解してよいでしょう。

 ここで用いられている「婦人」という語は、一一章の「女」と同じ用語ですから、女性の中の特別な立場の人だけを指していると理解することはできません。この段落での「婦人」についての発言は、パウロよりも牧会書簡の思想に近いのは事実のようです。集会における女性の地位については、古代教会において大きな問題となりました。グノーシス主義諸教会では女性が教えたり礼典を執行することを認めていましたが、正統派では認めず、女性が教会を指導することを異端のしるしとして攻撃しました。この問題については、牧会書簡を扱うときに取り上げることにします。なお付言すれば、このような女性差別はフェミニスト神学からは攻撃の的になるのですが、コリント書簡のこの箇所については、現代のフェミニスト神学の代表的女性神学者であるE・S・フィオレンツァは、後代の挿入とはせず、ここにあげた理解とほぼ同じ線で注解し、既婚女性が公の場で発言することを嫌うローマ社会の傾向の現れとしています(ハーパー聖書注解)。

結びの勧告

 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。(一四・三七〜四〇)

 一二章から一四章にかけてパウロが書いた御霊のカリスマとその取り扱いについての勧告は、自分たちこそ「霊の人」であると誇っているコリントの人たちに素直に受け入れられることは難しいと、パウロは予感していたのでしょう。パウロは主から直接遣わされた使徒としての立場で、自分の書いた勧告を「主の命令」として認めることを求めます。そして、最後にもう一度、勧告の要点をまとめて全体を締め括ります。預言は熱心に求めるように積極的に勧められていますが、異言は「禁じてはならない」という消極的な扱いをされています。そして最後に、何よりもパウロがコリントのカリスマ的な集会に求めている「すべてを適切に、秩序正しく」行うようにとの言葉で終わります。  

霊と理性

 御霊の現れ、とくに預言と異言というカリスマを扱った一四章で、パウロはしばしば「理性」という言葉を使っています。「わたしの霊が祈る」ことと、「理性で祈る」ことが対比されています(一四〜一五節)。また、預言を「吟味する」(二九節)のも、秩序正しくカリスマを用いるように「判断する」(二〇節)のも理性の仕事です。預言者の霊は預言者(の理性的判断)に服するのです(三二節)。この章は、信仰における霊《プニューマ》と理性《ヌース》の関係を考えさせます。

 人間存在における霊と理性は、単純に無意識の領域と意識の領域の対立と同一視することはできませんが、霊は無意識の領域を働きの場とし、理性は意識の領域で働くとは言えるでしょう。無意識の領域の科学的探求は現代心理学の大きな貢献ですが、人間は古来、意識の奥に理性では理解したりコントロールすることができない領域があることを知り、その領域での出来事やその現象を「霊」という言葉で表現してきました。それを言葉で物語るのが神話であり、その領域を人間の幸福のためにコントロールしようとする営みが宗教であるとも言えます。

 これまで繰り返し強調してきたことですが、キリストの福音は霊の次元の出来事です。キリストは霊であり、霊なるキリストが信じる者の中に働いて引き起こしてくださる霊の次元での変化が救いであり、新しいいのちであるのです。現代のキリスト教が無力であるのは、この霊の次元を理解することができず、理性の働きだけで理解しようとして、キリスト教を教理と道徳の問題にしてしまっているからだと考えられます。

 しかし他方、その霊の次元における出来事や変化は、意識の領域に実を結び、それを通して、身体を含む人間の全存在を変えていくのでなければ、具体的な人間全体を変えていくことはできません。霊の働きやその現れだけに終始して、それを意識の領域で理性をもって認識し、他の領域と正しく関連づけて保持しなければ、霊の力は軌道のない機関車かハンドルのない自動車のように、どこに向かってわたしたちを引っ張っていくのか、コントロールできない危険に陥ります。理性も人間を人間とするために神から与えられた能力であって、この理性によってわたしたちは霊の現実を人間存在の全領域に結びつけるのです。霊の現実は理性を通して人間の全体に実を結ぶのです。

 自分たちこそ「霊の人」であると誇るコリントの人たちに、パウロはこの一四章で理性に実を結ぶことの重要性を説きました。これによって、パウロはその後のキリスト教二千年の歴史に方向づけを与えたのです。キリストの霊の現実から発して、理性によって、それが人間の生活、道徳、思想、芸術、あるいは政治にいたるまで、文化の全領域に発現して形成される全体が「キリスト教」なのです。キリスト教二千年の歴史は、自分たちの中にあるキリストの霊の現実を理性によって文化と歴史の中に実現しようとしたキリスト教徒の苦闘の歴史なのです。


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