パウロによるキリストの福音 III

 第一一章 御霊によるいのちと希望

     ― ローマ書翻訳と講解 11 ―


はじめに

  七章で律法の下にある人間の分裂を描き、肉に売り渡され、罪の支配の下にある人間の悲痛な呻きを自分の呻きとして発したパウロは、その苦悩のどん底から一転して、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と感謝と賛美の声をあげます。この劇的な転換を経て、パウロは切れ目なく「キリスト・イエスにあるいのちの御霊」の世界を告白していきます。それが八章です。七章(七〜二四節)に描かれた「アダムにある」人間の現実と対比して、八章(一〜三〇節)で「キリストにあって」いのちの御霊に生かされている人間の姿が、溢れるような筆致で描かれます。そして、パウロは最後に(八・三一〜三九)、キリストにあってそのような救いと勝利を与えてくださった神の愛を讃える勝利の凱歌を謳い、第二部を締めくくります。

 このようにローマ書八章は、第一部と第二部を通してここまで語られてきたキリストにおける神の救いの御業の頂点です。八章はローマ書の頂点をなすだけではなく、実に「キリストの福音」の内実がどのようなものであるかを、最も詳細にかつ正確に語っている章として、全新約聖書の白眉です。もっとも頂点は裾野があってはじめてその意味をもつのですが、この頂点から見るとき、「パウロによるキリストの福音」の全容が美しく見渡せるようになります。その意味で、ローマ書八章は全パウロ文書理解の鍵であるとも言えます。


  18 御霊によるいのち (8章 1〜11節)

 1 このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません。2 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3 肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを、神はなしとげてくださったのです。すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されたのです。4 それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです。
 5 肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向します。6 肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です。7 肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです。8 肉にある者たちは神を喜ばすことはできないのです。9 ところで、あなたがたは、神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり、肉の次元にいるのではなく御霊の次元にいるのです。キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません。10 キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです。11 イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるのです。

御霊による解放

  現在わたしたちに伝えられているテキストでは、八章は「このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません」(一節)という文で始まっています。しかし、章分けは後世の学者の仕事ですから、原典を理解する上でこだわる必要はありません。前回の講解で述べたように、この八章一節は(七章二五節後半の文と共に)括弧に入れて、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と、七章二五節前半と八章二節は続けて読むべきであり、この文が八章を開始するのです。七章で描かれてきた「アダムにある」人間の悲惨は二四節の「わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」という悲痛な叫びで締めくくられます。こうして一切の光が消え失せた暗黒の舞台に、突如「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します」とキリストを賛美する声が響き渡り、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と、いのちの御霊の光が差し込んで来て、舞台は一転します。こうして七章の暗闇の舞台は、この言葉を軸として回転し、八章の御霊の光が満ちあふれる舞台となるのです。この転換こそが「キリストの福音」の核心なのです。

 このように、八章一節の「このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません」の「このゆえに」は、先行するどこかを受けているのではなく、二節の「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放した」という出来事の結果を指しており、一節は二節へのコメントとして(おそらくもともと欄外に)添えられた文として自然に理解できます。この場合の「断罪」は、終末の審判において永遠に神から切り離されることが確定することを指しています。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放した」のであるから、「このゆえに」キリスト・イエスにある者には永遠の断罪はないと言えます。
 
 ところで、この二節につけられたコメントとしての一節の文言は、はからずもパウロの救済論の特色をよく浮かび上がらせてくれています。初期の福音宣教においては、終末の審判が迫っていることが強調され、救いとはその終末の裁きで無罪判決を得て、来るべき栄光の国に入れられることだと一般に理解されていました。それは、パウロ自身も宣べ伝えていた救いの一面です(テサロニケT一・一〇を参照)。それで、二節のパウロの言葉を読んだ初期の信徒は、そこに終末審判における無罪判決の根拠を見いだし、大いに喜んで「だから、キリストに属する者には断罪はないのだ」と叫んだのではないかと想像できます。そのような理解自体は間違いではありません。その通りです。
 
 ところが、ここでのパウロの本文では、終末審判の無罪判決は視野に入っていません。あくまで、「この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」という叫びに応えて、キリストが、正確にはキリストにあって神が、あるいはキリストにあるいのちの御霊の律法が、人間を「罪と死の律法から解放してくださった」ことが、救いとして賛美されているのです。「解放した」は過去形です。ここでは、「救い」はキリストにあってすでに起こった「解放」の出来事です。パウロは七章と八章を対比し、その転換をなす八章二節が描く「解放」を救いとして提示するのです。たしかに八章には、この救いに含まれる将来への希望が熱く語られています。しかし、「救い」そのものは、ここで示されているように、罪と死の支配からの「解放」です。そして、その解放はキリストにおいてすでに起こった事実であり、キリストにある者の現在の体験なのです。
 
 キリストの福音が告知する「救い」とは何かと問われるならば、わたしは躊躇なくこのローマ書八章二節の言葉で答えます。ただその際、わたしたちは律法(ユダヤ教)の下にいるのではなく律法の外にいるのですから、「律法」という用語を使う必要はありません。八章二節でパウロが言っていることは、わたしたちはこう表現することができます。すなわち、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の働きが、わたしたちを罪と死の支配から解放した」、この解放が救いだと言えます。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の力またはその働きが、罪と死が支配している現実からわたしたちを救い出してくださったのです。
 
 福音はキリスト・イエスを救い主とし、キリスト・イエスがわたしたちを救ってくださったと告知します。その通りです。しかし、そのキリストはどのようにしてわたしたちを救ってくださったのかというと、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊が、わたしたちを罪と死の支配から解放した」と言わなければなりません。この御霊の働きがなければ、「キリストが救ってくださる」という福音の告知はたんなる言葉だけのスローガンになってしまいます。「キリストにあって」、すなわち、わたしたちがキリストに結ばれることによって、「キリストにある」場に働く神の御霊の力を受けてはじめて、救いは現実の体験となるのです。
 
 キリスト・イエスにあって働く神の御霊は、わたしたちを罪と死の支配から解放して「いのち」《ゾーエー》を与える力ですから、「いのちの御霊」と呼ばれます、そして、パウロは八章全体で、この「いのちの御霊」がどのように働くのか、また、この「いのちの御霊」よって与えられる「いのち」《ゾーエー》がどのような姿をもってわたしたちの人生に現れるのかを描きます。八章は「いのちの御霊」の章となります。

 

 「命の霊」という句はエチオピア語エノク書六一・七に出てきており、その内容はエゼキエル三七・五にある「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」という時の「霊」を指しています。しかし、パウロはこのような箇所を出典として用いているのではなく、自分が体験した御霊の働きを語り出すとき、自然にこのような表現を用いないではおれなかったのだと見られます。  

 

神の非常手段

 この「いのちの御霊」の働きとして、パウロは最初に、「御霊に従って歩む」ことによって律法の本来の目的が実現することをあげます(三〜四節)。パウロはあくまで、律法の下にあり、すべてを律法の観点から考えるユダヤ人(ユダヤ教徒)に御霊の働きと意義を説くのです。

 パウロはすでに七章で、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いもの」であると言明し、さらに一般のユダヤ教の律法観を超えて「律法が霊的なもの」であるとさえ述べていました。そして、本来「いのちに導くはずの戒めがかえって死に導く」という現実は、人間が「肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されている」結果であると見抜いていました。その事実をここで、「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったこと」(三節前半)と要約するのです。

 

 三〜四節は、原文では複雑で長い一文で、しかも文章として不完全ですので、そのままでは理解困難です。「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを」(三節前半)とあるだけで、それを(三〜四節の主語である)神がどうされたのか記述がありません。それで、(ほとんどの現代語訳がしているように)「神はなしとげてくださった」という原文にはない句を補った上で、全体を三つの文に分けて訳しています。  

 律法は本来人間を「いのち」に導くはずでした。ところが、わたしたち人間はみな生まれながら自我心の塊で、神に背く高ぶりに陥っています。パウロはこの生まれながらの人間の本性を「肉」と呼びます。この人間本性のために、いのちに導こうとして神が与えられた律法は、その本来の目的を達することができなくなっていたのです。かえって律法は人間の高ぶりと背神を推し進める結果になっていました。こうして、肉のために律法が果たしえなかった本来の目的を、神は別の方法で、いわば非常手段を用いて成し遂げてくださったのです(ただし、この非常手段は、世の始めから予定され、終わりの時に至って世に現れたものです)。その非常手段とは、「すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪された」ことです(三節後半)。
 
 すでに初期のケーリュグマ(福音告知の定式)は、パウロも引用している通り(コリントT一五・三〜五)、イエスの十字架の死を「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」出来事だと宣べ伝えていました。パウロはこのケーリュグマの内容を、彼自身の言葉で、さらに正確な表現でここに提示します。
 
 まず、地上のイエスは、神が御自身の御子を地上に「遣わされた」姿であることが語られています。女から生まれたイエスが神から遣わされた御子であることは、パウロはすでにガラテヤ書(四・四)でも言及しています。ところで、「遣わされた」方は、遣わされる前に神と共にいました方であることが前提されています。この「派遣キリスト論」は必然的に、神と共にいます以上、世界が造られる前からいます方であるという「先在のキリスト論」へと展開します。このようにイエスをすべてに先だっていました神の御子が人間の姿をとって現れた方であるとする信仰告白は、すでにパウロが手紙を書く頃までにヘレニズム世界の共同体で成立し(フィリピ二・六〜一一)、後にヨハネ福音書の中心主題となりますが、パウロはその信仰をここで自分の言葉で表現するのです。
 
 イエスは先在の神の御子が「人間と同じ者になられ、人間の姿で現れ」た方であるというキリスト賛歌の部分(フィリピ二・七)を、パウロは「罪の肉と同じ姿で」と表現します。人間本性(肉)を罪と見るパウロにとって、「人間と同じ者になられた」とか「人間の姿で現れた」というのは、イエスがわたしたちと同じく罪を本性とする人間性をもって地上の生を生きられたことを意味します。イエスが罪を本性とする人間であるという結論を避けるために、「同じ姿」《ホモイオーマ》を「似ている形」と理解して、外見は似ているが本質は罪とは関係のない神性をもつ方とする解釈がありますが、このような無理な解釈は必要ありません。それはパウロの贖罪論(救済論)の真剣さを壊すだけです。イエスがわたしたちと同じ本性をもつ人間であるからこそ、「罪の肉」にあるわたしたちと一つになって、わたしたちを罪の支配から救い出すことができるのです。神の子としてのイエスの独一性は、「罪の肉」の中にありながら、完全に御霊に従うことにより、罪を克服されたところにあります。
 
 この神が御自身の子を「罪の肉と同じ姿で遣わされた」事実に、「かつ罪のために」と派遣の目的が付け加えられます。ここに用いられている前置詞は「〜について、〜に関連して」の意味であり、ここでは「罪に関連して」とか「罪の問題を解決するために」という意味に理解してよいでしょう。神が御自身の御子を「罪の肉と同じ姿で」人間の世界に遣わされたのは、まさにそのことによって人間の本性となっている罪の問題を解決するためであったのです。ここ(三節)の「罪」はみな単数形です。ケーリュグマが「諸々の罪科(複数形)のために」と個々の律法違反の行為を指し、かつ「〜に代わって」という意味をもつ前置詞を用いて、ユダヤ教の贖罪祭儀を背景に語っているのと比べると、パウロは罪(単数形)を人間本性の問題としてさらに深く見ていることが分かります。

 

 この「罪のために」という箇所を、「罪の供え物として」とする読み方もあります(RSV欄外)。これは旧約聖書および当時のユダヤ教で、「罪」《ハマルティア》という語が「罪のための供え物」という意味にも用いられていたからです(レビ記一六章、イザヤ五三・一〇、詩篇四〇・七、ヘブライ一〇・六、八、一八など)。しかし、人間本性を問題にしているこの箇所で、この語の特殊な用法である祭儀的な意味を読み取る必要はないでしょう。

 このように、十字架上に死なれたイエスは神からこの世に遣わされた神の御子であることを述べた上で、そのイエスの十字架の死は「神が肉にある罪を断罪された」出来事であると宣言します。この「神は肉にある罪を断罪された」という文が、複雑で長い三〜四節の主文です。イエスの十字架がたんなる政治犯の刑死とか宗教的な殉教死ではなく、「神が肉にある罪を断罪された」出来事、すなわち神が人間の本性的な「罪」を断罪された終末審判の出来事であるのは、十字架上に死なれたイエスが「神が(終末時に)世に遣わされた神の御子」であり、しかもわたしたちと同じ「罪の肉の姿」を取られた御子であるからです。
 
 イエスが「神が世に遣わされた神の御子」であるという信仰は、イエスは復活者キリストであるという信仰の一つの表現形式です。「遣わされた御子」という信仰は、逆方向に表現された復活信仰に他なりません。パウロは、「キリストはわたしたちの罪のために死に」というケーリュグマの「(復活者)キリスト」を、「神が世に遣わされた神の御子」と言い換えていることになります。
 
 しかし、三節の要点は罪と肉の結びつきにあります。イエスが「罪の肉と同じ姿」を取られた御子であるからこそ、イエスの死が「肉にある罪の断罪」となるのです。パウロはすでに七章で、アダムにある人間(生まれながらの人間)の本性を「肉」と呼び、その「肉」は自我心であり、高ぶりによる神からの離反を本性としていること、その結果「肉」に属する人間は罪と死の支配下にあることを描き、そこからの解放を呻き求めていました。今、その人間本性がイエスの十字架において「罪」と断罪されたのです。イエスはアダムにある人間を代表して、十字架の上に神の断罪を受けておられるのです。それは肉(人間本性)にある罪に対する神の決定的な「否」です。

 

 三節の「肉にある」という句は、「(神は)断罪された」という動詞を修飾する副詞句と理解して、「神は肉において罪を断罪された」という訳も可能です(協会訳、新共同訳、岩波版青野訳)。しかし、「肉において罪を断罪する」という表現は、イエスの受難を身体的な領域に局限するおそれがあります。ここでは、パウロが七章で描いたように、肉に巣くう罪を指していると理解して、直前の「罪」という名詞を修飾する形容詞句として訳します。  

 「罪の肉」とか「肉にある罪」という表現が語っているように、パウロは「罪」を個々の規範への違反行為としてではなく、人間本性の問題としていることが分かります。これまでに繰り返し指摘したように、ユダヤ教が個々の律法違反の行為を罪として、罪をいつも複数形で語ってきたのに対し、パウロは罪を一つの支配力として、しかも人間本性に巣くう支配力として単数形で語ります。ここでも、初期のケーリュグマが「キリストはわたしたちの罪(複数形)のために(身代わりの犠牲として)死に」と、キリストの死をユダヤ教の贖罪祭儀の用語で語っているのに対して、パウロはキリストの死を「肉にある罪の断罪」と受け取ります。すなわち、人間本性の中に巣くっている、神に背かせる支配力としての罪が処断され、無効とされ、取り除かれたのです。

 

御霊による律法の成就

 このように「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったこと」を成し遂げるために、「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪された」という非常手段を取られましたが(三節)、最後にその非常手段を取られた目的が明示されます。「それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです」(四節)。このように、御霊の働きの第一に律法が満たされることが上げられるのは、この書簡がおもにユダヤ人信徒(とくにユダヤ主義的な立場の論敵)を念頭において書かれていることを思い起こさせます。

 律法は本来人を「命に導く」ために、すなわちその要求が満たされるならば命を与えるものとして、神から人間に与えられました。律法は聖なるものであり、正しいものです。その要求は「正しい要求」《ディカイオーマ》です。ところが、人間は肉に属する者として本性的に律法の要求を満たすことができません。それで、人間が律法の正しい要求を満たして命を得ることができるように、神は別の道を備えてくださいました。それがキリストであり、そのキリストを告知するのが福音です。「キリストにある」という場では、律法は「いのちの御霊の律法」となって、(肉のために律法を満たすことができず、そのためわたしたちを閉じこめる牢獄となっている)「罪と死の律法」からわたしたちを解放しました(二節)。その解放がどのようにして起こったのかが、この三節と四節で説明されるのです(三節は先行する文を説明する小辞《ガル》で始まっています)。
 
 わたしたちが「肉に従って歩む」かぎり、律法の要求を満たすことはできません。「御霊に従って歩む」者だけが、律法の要求を満たすことができるのです。なぜそうであるのかは、すぐに続く五節以下で詳しく説明されることになります。ここ(三〜四節)では、わたしたちが律法の要求を満たすことができるようになるために、神が取られた非常手段が語られるのです。すなわち、「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、(その御子の十字架の死において)肉にある罪を断罪し」、この御子キリストに合わせられて生きる者が、もはや肉に従って歩むことができないようにされたのです。そして、まさにその御子の十字架を受け入れ、その前にひれ伏す者に、恩恵により神の命そのものである御自身の霊を与え、「御霊に従って歩む」ことができるようにされたのです。この神の御子であるキリストに合わせられて人間が生きる場、すなわち「キリストにある」場において、律法は「いのちの御霊の律法」となり、わたしたちを「罪と死の律法」から解放し、人間がもはやその本性である肉に従って歩むのではなく、賜った御霊に従って歩み、それによって律法の正しい要求を満たすことができるようにしてくださったのです。
 
 この律法の成就は、預言者たちが終わりの日に実現すると予言していたことです。預言者エレミヤは、イスラエルの民の中で続けてきた長年の預言活動の体験から、人間は本性的に神との契約の中で求められていることを守れないのだと痛感し、現在のモーセ契約とはまったく別の契約が与えられる時が来るのを待ち望みました。それがエレミヤの「新しい契約」預言(エレミヤ三一・三一〜三四)です。その「新しい契約」では、律法(神が求められること)がもはや石の板にではなく人の心に記され、その結果、人は外から教えられるのではなく、自分の内に主を知る知識を持ち、内から主の求められるところを行うようになる。また、罪は赦され、神との妨げられることのない交わりが実現する、と預言しました。
 
 律法が心の中に記されるようになることを、預言者エゼキエルは「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と言い、またさらに、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と語りました(エゼキエル三六・二六〜二七)。このように、預言者たちも人間は自分の力で神の律法を行うことはできず、神からいただく神の霊によってはじめて律法を満たすことができることを語っていました。

 

 このような預言者の精神をクムラン宗団も継承していたことが、死海文書に見ることができます。たとえば、彼らの代表的な文書である『宗規要覧』には、「私は罪の肉の群れに属し」という表現があり(一一・九)、「神の恵みによって私の義しさは来たり」(一一・一四)、「神の真実の中にある共同体に下された聖霊によってそのすべての罪から潔められ、・・・・・」(三・六〜八)、「(神は)聖霊によってあらゆる悪行から潔め給うのである」(四・二一)という文言があります(訳は日本聖書学研究所『死海文書』から)。パウロがどの程度クムラン宗団から影響を受けていたかは確定困難ですが、興味深い課題です。パウロとクムラン宗団との関係については、「序章」第一節「ユダヤ教時代のパウロ」の中の「エッセネ派の影響」の項を参照してください。  

 キリストの十字架・復活が宣べ伝えられ、その福音を信じる者に聖霊が与えられるに及んで、預言者たちが語っていた神の霊による「新しい契約」が実現したのです。パウロは、このキリストの福音を宣べ伝える自分を「新しい契約に仕える」者とし、その働きを「御霊に仕える務め」としています(コリントU三章)。わたしたちは、このキリストの福音を聞いて信じることで、聖霊を受け、その聖霊によって神との「新しい契約」関係に入るのです。そこでは、御霊に従って歩む者たちの中に、神の正しい律法の要求が満たされることになります。

肉の志向と御霊の志向

 パウロは「御霊に従って歩むわたしたち」と言って、「わたしたち」に御霊が与えられていることを前提にしています。この「わたしたち」は、イエスを復活者キリストと信じる者たちを指します。この「わたしたち」は、キリスト・イエスに結ばれ、その「キリストにあって」恩恵により賜る神の御霊によって生きています。キリストに属する者の本質は「御霊に従って歩む」者であることです。

 

 福音の宣教は、信じる者に聖霊の賜物を与えることを含んでいます。ここでも「信仰に入ったとき聖霊を受けた」ことが前提されています。このことはパウロの手紙のいたるところに見られますが、とくにガラテヤ三章一〜五節の講解を参照してください。  

 わたしたちが「肉に従って歩む」とき、すなわち生まれながらの人間本性をそのままにして、自分の力とか努力で神の律法(神の求められるところ)を行おうとすると、七章で描かれたように分裂に陥り、律法は「罪と死の律法」となり、わたしたちを閉じこめる牢獄となります。それに対して、賜った御霊に従って歩むときに初めて、わたしたちは神が求めておられるところを満たすことができるのです。どうしてそうであるのか、その間の消息が五節以下で詳しく説明されます。
 
 「御霊」《ト・プニューマ》(定冠詞つき単数形の「霊」)は、五章五節で体験的に、そして七章六節で標題的に、他の主題を語る文脈の中で僅かに言及されていました。しかし、ここ八章にきて初めて、キリストにおける神の救いの働きの主役として表舞台に登場します。
 
 四節の「律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされる」という主張の理由を説明する五節以下の文が、「それは〜だからである」という意味の小辞《ガル》で始まります。まず、「肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向します」(五節)と、肉と御霊の志向が対比されます。

 

 五節の「志向する」と訳した動詞《フロネオー》は、新約聖書の26回中、パウロが22回使用しており、圧倒的多数を占めています。また六〜七節の「志向」と訳した名詞形《フロネーマ》は、新約聖書ではここ(六〜七節)と八章二七節に4回出てくるだけです。この語は、人間がその全存在をある対象に傾けて生きる姿勢を意味するので、「思う」とか「思い」という訳では十分その意味を伝えることはできません。適切な日本語を見出すことは難しいですが、「志向」という語が近いと考えます。岩波国語辞典は「志向」を「心がその物事を目指し、それに向かうこと」と説明しています。最近はあまり使われない日本語ですが、《フロネーマ》の原意に近いでしょう。「追い求める」と「追求」でもよいかもしれません。  

 ここで「肉のことを志向する」と「御霊のことを志向する」は、身体的なことを追求することと精神的なことを追求することとの対比ではありません。食欲や性欲というような身体的な欲望の充足を追求することと、芸術や学問などで精神的・内面的な価値を追求することを対立させて比べているのではありません。「肉のこと」とは、身体的・外面的なことも精神的・内面的なことも含め、生まれながらの人間本性に属するすべてのことです。御霊の次元を知らず、ただ生まれながらの人間本性に基づいて歩む人は、その人生で追求するものが身体的なものであれ精神的なものであれ、結局は人からの誉れとか人間社会での支配力(富や地位など)とか、人間に属するもの、地上のものを目的にしているのです。それに対して、御霊に従って歩む者は、その生涯を通して「御霊のこと」、すなわち御霊がわたしたちに指し示す価値(それは信仰と愛と希望です)を追い求めないではおれません。
 
 このように肉に従い肉のことを追求する「肉の志向」と、御霊に従い御霊のことを追求する「御霊の志向」が、それぞれどのような結末に至るのかという観点から比較されます。すなわち、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)。「死」が「命《ゾーエー》、すなわち平和」と対照されていることから、この「死」は身体的な死ではなく、《ゾーエー》(永遠のいのち)の反対であり、かつ神との「平和」《エイレーネー》(五・一)の反対であることが分かります。肉の志向に歩む者も、御霊の志向に歩む者も、その身体は同じように死にます。しかし、その人生に現れる霊的質が違ってくるのです。肉の志向が至る先は、神の栄光からの断絶(それがここで「死」と呼ばれています)です。それに対して、御霊の志向が到達するところは、平和(神との絶えることのない交わり)であり、永遠のいのち《ゾーエー》です。六節は、この書簡全体で展開して見せているキリストにある救いと、それを失う滅びを要約して、標語として提示していることになります。
 
 続いて、なぜ肉の志向は死に至り、どのようにして御霊の志向がいのち《ゾーエー》に至るのかが解き明かされます(七〜一一節)。「肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです。肉にある者たちは神を喜ばすことはできないのです」(七〜八節)。パウロは、肉(人間本性)は神が求めておられることと反対の方向を向いていると見抜いています。そのことはすでにガラテヤ書でこう言っていました。「肉は御霊に反して欲求し、御霊は肉に反して欲求する」(ガラテヤ五・一七私訳)。ですから、肉(人間本性)は神が求めておられることを告げる神の律法、あるいは神の定めに従おうとしないし、そもそもその本性からして従うことはできないのです。従って、御霊なくして、人間本性から発する能力とか意欲だけで生きようとする「肉にある者」は、神の御心にかない、神を喜ばすことはできません。この「肉にある者」が神の聖なる律法に直面したときの苦悩が七章で詳しく描かれたのでした。ここで改めて、人間がその本性によって自己を完成する(真の命を得る)ことができないことが確認され、その上で以下に続く箇所(九〜一一節)で、御霊によってはじめて真実の命《ゾーエー》に至るのであることが説かれます。

「御霊にある」場

 ここでパウロは、ローマのキリスト者に「あなたがた」と呼びかけます。これはローマのキリスト者だけでなく、この書を読むすべてのキリスト者に呼びかけているのです。「ところで、あなたがたは肉の次元にいるのではなく、御霊の次元にいるのです」(原文で九節の初めの部分)。直前の七〜八節で、「肉にある者」は律法を満たして神を喜ばすことはできない、と人間一般の現実を明らかにしましたが、ここでパウロは向きを変えて、キリストに属する「あなたがた」(この語は強調されています)は違う、あなたがたは「肉にあるのではなく、御霊にある」(直訳)のだと、キリストに属する者たちが置かれている特別な場に注目させます。その特別な場とは「御霊にある」という場です。この訳では「御霊の次元にいる」と訳していますが、「御霊の場にいる」と訳してもよいかもしれません。

 パウロは「キリストにある」《エン・クリストー》という表現をよく使います。これはパウロがキリストの福音を語るときの鍵語(キーワード)です。これはキリストに属する者が生きる特別の場を指しています。人間がその本性に従って生きる場は、「アダムにある」と表現されてもよいのですが(アダムとキリストの対応については五・一二〜二一の講解を参照)、この句は実際には用いられません。むしろ、パウロはそれを「肉にある」《エン・サルキ》という句で表現しています。
 
 この「肉にある」世界のただ中に、神は「キリストにある」という特別の場を備えてくださったのです。復活者キリストは、その十字架の死によって贖罪の業を成し遂げ、世界のただ中に「贖罪の場」として神に立てられたのです(三・二五)。この場こそ、神の御霊、聖霊が働く場です。この「キリストにある」という場に入る者には、聖霊という神の力が及ぶのです。ちょうど、磁場に入ると磁力が及ぶのと同じです。こうして、「キリストにある」という場は、その中に働く力の質で表現すれば、「御霊にある」場となります。「肉にある」場と「御霊にある」場では、その場に働く力の質が違い、その方向が逆方向になります。「肉にある」という場では、律法は「罪と死の律法」になりますが、「キリストにある」という場では、律法も「いのちの御霊の律法」となるのです。
 
 わたしたちがこのような「御霊にある」という場にいるのは、もちろん、わたしたちがキリストを信じて告白し、キリストに属する者となって聖霊を受けたからです。このことをパウロは、「神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり」(九節の一部)という句で確認します。だいたい、「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません」(九節後半)。キリスト教会に所属していても、キリスト教神学に通じていても、もしキリストの御霊を持っていないならば、その人は「キリストに属する者」(直訳は「キリストのもの」)ではないというのです。

 

 パウロはここで「神の御霊」を、何の説明もなしに当然のこととして「キリストの御霊」と言い換えています。神の御霊はキリストを通してのみ受けることができる霊であり、キリストを啓示する霊であるので、「キリストの御霊」と呼ばれます。「聖霊」(聖なる霊)と呼ばれることも多くあります。たんに「御霊」(定冠詞つきの単数形)と呼ばれることも多くあります。《プニューマ》は、「神の」とか「キリストの」とか「聖なる(神に属する)という限定句がつくときは「霊」と訳してもよいのですが、パウロ書簡では単独で用いられるときでも神の霊を指すことがほとんどですので、(明らかに他の霊を指す特別の場合以外は)原則として「御霊」と訳します。  

 「キリストに属する者」を短縮して、「キリスト者」と呼んでもよいでしょう。「キリスト者」とは、パウロによれば、「キリストの御霊」を持っている者、「神の御霊」を内に宿している者です。この御霊を持たない者は「キリスト者」ではありません。こう言うのは、何らかの霊的体験を基準にして、そのような霊的体験がある者だけを「キリスト者」とし、それのない者を除外するためではありません。パウロも「持つ」とか「宿す」という動詞を使っていますが、それは人間の表現の限界から来るやむを得ない表現です。御霊は、人間が獲得したり所有したり保管したりすることができる方ではありません(ヨハネ三・八参照)。人間は御霊の働きを受けることができるだけです。そして、誰でも「キリストにある」場に入るならば、その御霊の働きを受けるのです。このように御霊がわたしたちの内に働いてくださっている現実を、パウロは「御霊を持つ」とか「御霊を宿す」と表現しているのです。パウロはその現実を指し示して、キリストにある者たちに自分が「肉にあるのではなく、御霊にある」ことを自覚させようとしているのです。たとえば、学生に向かって、「学ぶ意志のある者が学生である。学ぶ意志のない者は学生ではない。君たちが学生であるかぎり、学ぶ意志に従うのが当然だ」と励ますように、パウロはキリスト者に御霊の場にある者であることを自覚させ、御霊に従って歩むように励ますのです。

 

内にいますキリスト

 パウロは「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません」(九節後半)と言って、キリスト者はキリストの御霊によってキリスト者であることを確認しました。その「キリストの御霊を持たない者」と対照して(一〇節は対照を示す小辞《デ》で始まっています)、「キリストがあなたがたの内にいますならば」と、キリストの御霊を内に宿す者の在り方を描きます。すなわち、「キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです」(一〇節)。

 ここでキリスト者の姿を描くのに、九節では「神の御霊が内に宿っている」とか「キリストの御霊を持っている」と言われていたのが、ここでは「キリストが内にいます」という表現で語られていることが注目されます。パウロにとって、神の御霊は当然キリストの御霊ですが、そのキリストの御霊を持つことが、さらに「キリスト」御自身を内に宿すことと言い換えられています。それは、パウロにとって「キリスト」とは霊なるキリストであるからです。パウロにおいては「主はすなわち御霊なり」(文語訳コリントU三・一七)です。したがって、九節の「キリストの御霊」というときの、「キリストの」は同格の二格として、「キリストという霊」と理解してもよいでしょう。

 

 パウロが「キリスト」と言うとき、御霊として働いておられる復活者キリストを指していることについては、拙著『キリスト信仰の諸相』の第一部「キリストの諸相」第二講「霊なるキリスト――パウロのキリスト告白」を参照してください。  

 このように、キリスト者とはキリストの御霊、あるいいは霊なるキリストを内に宿す者ですが、この現実に生きるキリスト者は、「体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命である」のです。霊なるキリストが内にいてくださるキリスト者も、その体はキリストの外にいる人たちと同じように死にます。また、その肢体の中には「欲する善を行わないで、欲しない悪を行う」という「罪の律法」が巣くっていて、わたしを死に追いやる「死のからだ」であることを嘆かないではおれません(七章)。このように、わたしたちが生物学的な死を超える命の希望を持ち得ないで、この身体的存在を「死のからだ」として嘆かざるをえないのは、わたしたちがいのちの根源である神に背いている「罪のゆえに」です。
 
 しかし、感謝すべきことに、キリストに属する者にはもう一つの別の現実があるのです。すなわち、「御霊が義のゆえに命である」という現実です。神から恩恵として賜った義によって、御霊が命《ゾーエー》としてわたしたちの内に宿ってくださっているのです。義とされなければ、聖なる御霊がわたしたちの内に宿ることはできません。キリストにあって恩恵により義とされたので、御霊がわたしたちの内に、わたしたちの新しい命《ゾーエー》となって宿ってくださるのです。

 

 一〇節後半は、「〜である」という繋辞なしで、「体は死、《ト・プニューマ》は命」と並べられているだけです。ここでも《ト・プニューマ》(定冠詞付きの霊)は神から賜っている霊、「御霊」と理解すべきであると考えます。すなわち、「(あなたがたの)罪によって体は死んでいるが、(神からの)義によって御霊こそが(あなたがたの内にあって、あなたがたの)命である」という意味に理解します。これを「霊」と訳しますと、「体は死、霊は命」となって、「肉体は死ぬが、(人間に固有な生来の)霊魂は(死なないで)生きる」という、霊魂不滅を唱えているという誤解に導く危険があります。
 たしかに、《プニューマ》には霊一般や人の霊を指す場合があり、パウロも八章一六節で御霊とは別の「わたしたちの《プニューマ》」という表現を用いています。しかし、パウロ書簡では定冠詞付きの《プニューマ》は、ほとんどの場合「御霊」を指しています。英語では霊一般を指すときは spirit、御霊を指すときは the Spirit と訳し分けることができます。たとえば、この四〜一一節でRSV(英語の改正標準訳)は、明らかに神の霊とかキリストの霊、聖霊を指すときは the Spirit を用い、その他の場合は本文に the Spirit を用いた上で、欄外の注に spirit を添えています。ということは、RSVもこの箇所の《プニューマ》を御霊と理解して本文を決めていることになります。新共同訳の”霊”という表現方法は日本語の表記として問題があります。  

 

復活にいたる命

 次いで、わたしたちの内にあって命である御霊と、わたしたちの死すべき体の関係が次節で展開されることになります。「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるのです」(一一節)。
 
 ここで御霊は「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊」と呼ばれています。福音が世界に宣べ伝える神は、「イエスを死者たちの中から復活させた方」です。世界を創造されただけでなく、イエスを死者たちの中から復活させて、終末的な完成の業を開始された神です。御霊が「神の」御霊であるのは、その霊が死者を復活させる質をもつ「いのちの御霊」であるからです。
 
 神はイエスを死者たちの中から復活させて、キリストとしてお立てになりました。キリストは復活者として「終わりのアダム」であり、終末時に現れる新しい人類を代表する存在です(五・一二〜二一の講解およびコリントT一五章の講解を参照)。ですから、パウロが「キリストを死者たちの中から復活させた方」と言うときは、そのキリストを初穂として、あるいはそのキリストに含ませて、キリストに属する者たちを死者の中から復活させる神を指し示しているのです。はじめに「イエスを死者たちの中から復活させた方」と言った後で、「キリストを死者たちの中から復活させた方」と言い直しているのは無意味ではありません。それは、わたしたちをも死者の中からの復活に含ませるためであることを見落としてはなりません。
 
 パウロは「キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」と言います(原文では「あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって」という句は、この文の後に続きます)。初穂であり頭であるキリストを死者の中から復活させた方は、キリストに属する者たちをも死者の中から復活させようとしておられるのです。そのさい、キリストに属するわたしたちは「死に定められた体」あるいは「死のからだ」の中で呻いているのですから、わたしたちの復活は「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」と表現されることになります。
 
 ここでパウロは「復活させる」ではなく「生かす」という動詞を用いています。ここに用いられている「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、《ゾーエー》(いのち)と《ポイエイン》(造る、為す)という語で出来ています。すなわち、《ゾーエー》を創り出す働きです。この意味は、パウロが復活者キリストを「《ゾーオポイエイン》する霊」(コリントT一五・四五)と呼んでいるところに典型的に現れています。

 

 ここで用いられている「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、人を主語とする自動詞の「生きる」《ゼイン》と違って、神を主語とする他動詞であって、神(またはその霊)が死の状態から《ゾーエー》を創り出して、人を生かすという終末的な意味で用いられる動詞であり、「復活させる」《エゲイレイン》と同じ意味です(ペトロT三・一八)。神は「死者を生かす神」とも呼ばれ(ローマ四・一七)、「死者を復活させる神」とも呼ばれます(コリントII一・九)。この「生かす」と「復活させる」という二つの動詞は同意語として、組み合わせて用いられることもあります。ローマ書のここもそうですが、「父が死者を復活させて命をお与えになる(《エゲイレイン》して《ゾーオポイエイン》される)ように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(ヨハネ五・二一)と用いられています。コリントT一五章でも、二一節で「人によって死者の復活が来る」と言われたのと同じことが、二二節では「キリストにあって生かされる」と表現されています。この動詞は新約聖書に一一回(その中パウロ書簡に七回)出てきますが、そのほとんどが「復活させる」と同じ終末的な意味で用いられています。例外と見てもよいのは僅かで、コリントU三・六の「文字は殺し、霊は生かす」と、ヨハネ六・六三の「生かすのは霊であって」は、やや広い意味で用いられていると見られます。  

 神が「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」のは、「あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって」です。復活によって「《ゾーオポイエイン》する霊」となられたキリストがわたしたちの中に住んでくださり、わたしたちの中で働いてくださって、わたしたちの「死に定められた体を生かしてくださる」のです。この「生かしてくださる」という動詞は未来形です。「生かす」が復活を含む終末的な出来事である以上、それは未来に待ち望まれる出来事としての性格を保っています。しかし、それがすでにわたしたちの中に住んでくださっている御霊の働きである以上、わたしたちの地上の生の中で現実に始まっています。この段落の初めに出てきた律法を成就する働きも、それによって「死のからだ」の中で呻いている苦しみを克服してくださる働きですし、ときには祈りに応えて、わたしたちの身体の病を癒して死を免れるようにしてくださるのも事実です。
 
 しかし、パウロが「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるであろう」と言うとき、やはり終末における死者の中からの復活が念頭にあると考えられます。このローマ書を書いた頃のパウロは、直前のコリント書簡やフィリピ書簡が示しているように、死者の中からの復活に到達することに心が満たされ、熱く燃えています。コリントTの一五章やフィリピ書の三章を書いたパウロは、このローマ書を書いたときも同じ希望に燃えていることは、この八章の内容自体が示しています。ここの「死に定められた体をも生かしてくださる」という句も、死者たちの復活を指していると理解してよいはずです。
 
 ところで、この九〜一一節には、わたしたちの中に御霊(あるいはキリスト)がいますことが、「もしいますならば」という形で三回も繰り返されています。この「もしいますならば」は、います場合といまさない場合を分けて、います場合はこうだと言っているのではありません。内に御霊がいまさない場合は初めから問題にされていません。「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではない」のです。キリスト者とはその内に御霊を持つ者であるとして語りかけられているのです。すでに大学に入った者たちに、「諸君が学生であるならば」と語りかけるのと同じです。学生に向かって、「もし諸君が学生であるならば、学問をする志しに従うべきである」と言うように、キリストに属することによって御霊の働きに場にいる者たちに、御霊によって生かされているとはどういう現実であるかを自覚させようとしているのです。
 
 この段落では(三節以下)ずっと御霊と肉の対立が問題にされてきました。最後にこの一〇〜一一節で「体」が問題にされます。「体」《ソーマ》は「肉」《サルクス》と混同されてはなりません。パウロにおいては、「肉」は神に敵対する生まれながらの人間本性として全面的に否定されています。それに対して、「体」は神の創造の要素として肯定され、神の救いの働きの対象です。パウロの救済論は「具体的」です。すなわち、神は体を具えた人間全体の救済を備えてくださっているのです。「体」《ソーマ》は現在罪によって「死に定められた」ものになっていますが、最後には「体の贖い」(ローマ八・二三)によって「霊の体」、「栄光の体」に変えられることが待ち望まれるのです(コリントT一五・四四)。肉とは正反対の質のいのちである御霊がわたしたちの内に働くことによって、この体を具えた人間全体が救われるのです。それが、福音において「死者の復活」の希望という形で表現されるのです。この段落(八・一〜一一)で、御霊は罪と死の支配から解放する力、肉を克服して律法を成就する働き、体を具えた人間全体の救済という終末的希望の源泉として登場します。そして、最後の御霊による終末的希望が、以下に続く段落(八・一二〜三〇)の主要な内容になります。

 

   

  19 子とする御霊 (8章12〜17節)

 12 それで、兄弟たちよ、わたしたちは肉に従って生きる責任を肉に対して負っている者ではありません。13 もし肉に従って生きるならば、あなたがたは死にます。しかし、御霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるようになります。14 神の御霊に導かれている者はみな、神の子なのです。15 あなたがたは、再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ」と叫ぶのです。16 この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証してくださるのです。17 子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、キリストと共同の相続人です。

御霊に従って生きる責任

 前段(とくに九〜一一節)で、命を与えるのは御霊であることを強調した後を承けて、「それで」、恵みによって御霊を受けたわたしたちは、実際の歩みにおいて、御霊に従って生きる責任を、御霊に対して(または、御霊を与えてくださる神に対して)負っている、という責任を語ろうとします。しかし、使徒はまずそれが「肉に従って生きる」責任ではないことを明らかにした上で(一二節〜一三節前半)、「しかし」という語で対照しながら、一三節後半以下で「御霊に従って」生きる責任を具体的に語ることになります。そして、責任を語ると同時に、「肉に従って生きる」ことと、「御霊に従って生きる」ことの結果を対比します。

 パウロは「兄弟たちよ」と、ローマの信徒に呼びかけます。これは、使徒が代々のキリスト者に呼びかけているのです。使徒は「わたしたちは負債を負う者である」(直訳)と切り出します。人はみな、自分を存在させている方(創造者)の「お前はどう生きたか」という問いに答える責任を負う者です。この答えなければならない立場を「責任」と言います(英語やドイツ語で「責任」という語は答えなければならない立場を意味する語です)。使徒は、この「責任を負う者」を「負債を負う者」という語で表現します。イエスも、人は神に答える責任があることを明言し(マタイ一二・三六〜三七)、また、それを決算のたとえで語っておられます(マタイ一八・二三、ルカ一六・二)。
 
 このように人はみな神の前に責任を負う者ですが、とくにキリスト者は御霊を賜った恩恵に対して責任を負う者です。キリスト者は恩恵によって御霊を賜っているのですから、御霊に従って生きる責任を、御霊を恩恵によって与えてくださった神に対して負っているのです。キリスト者の責任は「御霊に従って生きる」ことです。「肉に従って生きる責任を肉に対して負っている者ではありません」。「肉」というパウロの用語の内容からすると、ここで使徒が言っているのは、わたしたちは人間性を完成するために、生まれながらの人間本性に従って、その欲求を満たすために努力する責任を負う者ではない、ということになります。もし生涯そのように「肉に従って生きる」ならば、その結末は「あなたがたは死にます」、すなわち神からの永遠の断絶です。そのことはすでに五〜八節で詳しく語っていました。ここで、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)という対比が、形を変えて繰り返されます。
 
 ここでは、「肉に従って生きる」と対比される「御霊に従って生きる」が、「御霊によって体の働きを殺すなら」と具体的に(体との関連で)描かれ、「あなたがたは死にます」という結果に対して、「あなたがたは生きるようになります」という結果が対比されます(一三節後半)。
 
 ここで注意しなければならないのは、「体の働きを殺す」という表現です。ここの「体」は、わたしたちをとりこにしている罪の容器、「罪と死の律法」の場としての体、「死の体」のことです(七・二三〜二四)。「御霊によって体の働きを殺す」というのは、御霊に従って生きることにより、体(肢体)の中に巣くう「罪」の支配を克服して生きることです。使徒は、人間の体に生来備わっている欲求(食欲や性欲など)を否定したり制限する禁欲的な生き方を求めているのではありません。そのような欲求を否定し尽くすことはできませんし、かなり抑えたとしても、それで御霊を受けたり、御霊に従う歩みができるわけではありません。
 
 御霊に従って歩むならば、体に巣くっている肉の欲求を満たすことはありません。この消息は、すでにガラテヤ書(五・一六〜二六)で詳しく語られていました。そこで「肉の働き」としてあげられていた「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」は、実際には「体の働き」として人生に現れてきます。このような「体の働き」を、御霊に従って歩むことにより克服していくことが求められているのです。このような生き方が、ここで「生きるようになる」と表現されます。このように「生きるようになる」とき、その人生には「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という質が現れてきます。これらは「御霊の実」なのです。

子とする御霊

 このように「御霊によって体の働きを殺して、生きるようになる」ことが、「神の御霊に導かれている」とまとめられて、「神の御霊に導かれている者はみな、神の子なのです」と言い直されます(一四節)。「生きるようになる」とは、「神の子として生きるようになる」ことです。そして続く箇所(一五〜三九節)で、「神の子として生きる」ことの苦難と栄光が語られることになります。

 「神の御霊に導かれている者はみな」の「みな」は、「〜するかぎりの者はだれでも」の意味です。御霊に導かれて生きるかぎり、民族や宗教・教会の所属を問わず、誰でも神の子であるのです。どの人種・民族の者でも、どの宗教の者でも、どの教会に所属していても、また、いかなる教会にも所属していなくても、そういう状況とはいっさい無関係に、人間は神の御霊に導かれ、御霊によって生きている限り、だれでも神の子なのです。
 
 「誰それの子」という表現は、命の同質性を現しています。「神の子」は、神と同質の命に生きる人間です。「サタンの子」とか「悪魔の子」は、悪魔と同じ質の命に生きる者です。神の命そのものである御霊を受け、その御霊を自分の命として生きる者が「神の子」なのです。どのような立派な宗教(それがキリスト教であっても)を奉じていても、どのような正統を誇る教会に所属していても、神の御霊によって生きているという実質がなければ、その人は神の子ではありません。
 
 ここでもキリスト者は、「キリストにある」ことによって御霊を受けていることが前提されています。正確に言うと、「キリストにある」場において、キリスト者は神の御霊の働きを受けて生きているのです。それが「神の御霊に導かれている」という現実です。その「キリストにある」場において、わたしたちは「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、「子とする御霊」を受けたのです(一五節前半)。奴隷は恐れによって主人に服従しています。従わなければ処罰されるからです。この「恐れに陥れる奴隷の霊」という表現を用いるとき、パウロは律法に下にいるユダヤ教徒を考えていると思われます。律法は、その条項に従うことを要求し、従わない者を断罪して死を課すからです。ユダヤ教徒は、断罪への恐れから律法の要求に従うことを必死に追求することになります。このようなユダヤ教の在り方を、パウロはすでに「奴隷」の身分の女にたとえて語っていました(ガラテヤ三・二一〜三一)。律法(ユダヤ教)とキリストの福音は、その実質を構成する霊の質が違うのです。

 

 ところでパウロは、「恐れに陥れる奴隷の霊を受けたのではなく」という文に「再び」という語を入れています。語の位置から、この翻訳では(他の邦訳と同じく)「再び恐れに陥れる奴隷の霊を受けた」と訳していますが、「恐れに陥れる奴隷の霊を再び受けた」と訳すことも可能です。「奴隷の霊を再び受けた」というのは、以前ユダヤ教徒として奴隷の霊を受けていたが、キリストを信じて受けた霊も「また」奴隷の霊であった、ということになります。「再び恐れに陥れる奴隷の霊」というのは、せっかくキリストを信じて律法の恐れから解放されたのに、再び処罰を恐れさせるような奴隷に逆戻りさせる霊という意味になります。両者とも結局、あなたたちが受けた霊は「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、子としての全面的な信頼で生きる者にする霊、すなわち「子とする霊」であることを強調しています。そのことがすぐ次節で表現されます。  

 

「アッバ、父よ」

 キリストの福音が与える霊は、このような「恐れに陥れる奴隷の霊」ではなく、「子とする御霊」です。そして、「この御霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」(一五節後半)。わたしたちがキリストにあって受けた霊は「子とする霊」、あるいは「子たる身分を授ける霊」(協会訳)ですから、この霊に導かれるているキリスト者は、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈ることができるのです。

 ここで「叫ぶ」という動詞が用いられています。初期のキリスト者の集会で、「アッバ!」は祈りの時の呼びかけの言葉としてだけでなく、御霊に感動して叫ぶ歓呼の叫びでもあったようです。「アーメン」、「ハレルヤ」、「マラナタ」などように、聖霊に満たされた集会で叫ばれるヘブライ語またはアラム語の歓呼の一つであったと見られます(コリントT一二・三参照)。なお、「叫ぶ」の主語は、ここでは御霊によって「わたしたちが」叫ぶのに対して、ガラテヤ書四・六では「御子の霊」がそう叫ぶとされています。内なる御霊が「御子の霊」として「アッバ、父よ」と叫ばれるので、その御霊によって子とされた「わたしたち」も「アッバ、父よ」と叫ぶことになります。
 
 ここで「アッバ、父よ」と、アラム語の「アッバ」とギリシア語の「父よ」が並べられていることが注目されます。これは初期のギリシア語を用いる共同体で、「アッバ」というアラム語が用いられていたことを示しています。その「アッバ」というアラム語の意味を解説するために、「父よ」というギリシア語が添えられていることになります。これは、イエスが常に祈りのときに用いておられた神への呼びかけの言葉が、重要な伝承として伝えられ、ギリシア語を用いる共同体でも、アラム語のまま用いられるようになっていたからです。主イエス御自身が命がけで用いられた尊い語を、どうして他の語に変えることができるでしょうか。この事実は、福音書伝承の中にも見られます(マルコ一四・三六)。
 
 イエスは弟子たちに祈りを教えるとき、「アッバ!」と祈れと教えられました。このことを伝えるルカ一一・二は、ギリシア語で「父よ」になっていますが、アラム語で弟子たちに語っておられたイエスは、「アッバ」というアラム語を用いられたはずです。イエスは、御自分が子として父への完全な交わりと信頼に生きておられる境地に入るように、弟子たちを招いておられるのです。しかし、この境地は地上のイエスに従っていた時期の弟子たちは入っていくことができませんでした。イエスの言葉は伝えることができました。それが「主の祈り」の伝承です。しかし、イエスが神を「アッバ!」と呼んで、親しい交わりに生きておられた境地は、弟子たちはイエスの復活後、聖霊を受けて初めて入ることができたのです。わたしたちは、「子とする御霊」によって初めて、現実に神の子となり、「アッバ、父よ」と全身全霊を父に投入して生きるようになるのです。
 
 神は、キリストにあって御霊を与え、その御霊によりわたしたちを子とすることによって、わたしたちの父となっておられるのです。わたしたちが「子とする御霊」によって「アッバ、父よ」と叫び祈る現実に入っていなければ、神は父であるというイエスの福音の使信は空しい言葉になってしまいます。「この子とする御霊によって、わたしたちは『アッバ、父よ』と叫ぶのです」というパウロの言葉は、パウロ個人の体験ではなく、神を父と宣べ伝えられたイエスの使信を、御霊によって全存在をもって受け止め、その現実に生きていたキリスト者共同体の告白です。

 

御霊の証

  わたしたちが「アッバ、父よ」と叫び、そう呼びかけて父に祈っている姿は、わたしたちの内に「子とする御霊」が働いておられることの現れですが、このように外に現れた現象だけでなく、わたしたちが神の子であることを、この御霊ご自身が、わたしたちの奥底深く「わたしたちの霊に」直接に証言してくださるのです。パウロは、「この御霊ご自身が、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊に証してくださるのです」(一六節)と語ります。

 

 ここに用いられている「証する」という動詞は、《シュン》(共に)という接頭辞を伴っているので、「わたしたちの霊と共に証してくださる」という訳がしばしば見られます(すべての邦訳がこの意味に理解しています)。しかし、《シュン》はこの場合強調の接頭辞であり(バウアー)、この動詞が「〜と一緒に証する」という場合は、「わたしたちの霊」の前に改めて《シュン》(一緒に)という前置詞が普通は用いられるので、この動詞の直後にくる与格の「わたしたちの霊」は、「わたしたちの霊に(対して)」証すると理解しなければならないと考えます(ヴルガータやルター訳、さらに現代ではケーゼマンやウィルケンスはこう理解しています)。この動詞が新約聖書に用いられているのは、こことローマ二・一五、九・一の三カ所だけですが、九・一も「わたしと共に証する」ではなく、「わたしに証する」と理解されます(協会訳)。さらに、ここでの「わたしたちの霊」は、ガラテヤ四章六節の並行箇所からすると、「わたしたちの心《カルディア》」とほぼ同じ意味で用いられていると見られるので、ここの「わたしたちの霊」を証をする主体と見ることは適切ではありません。  

 ここは、《プニュウマ》という語が、同一の節で神の御霊とわたしたちの霊の両方を指して用いられている数少ない例の一つです。ただし、ここでの「わたしたちの霊」は、ガラテヤ四章六節の並行箇所からすると、「わたしたちの心《カルディア》」とほぼ同じ意味で用いられていると見られます。パウロは、御霊の働きを語る流れの中で、神の御霊を指すのに《ホ・プニューマ》を強調して「御霊ご自身」という形で用いていますが、それと対比して、ほぼ「わたしたちの心」とか「わたしたちの内面」というぐらいの意味で、「わたしたちの霊《プニューマ》」を用いたと見られます。このような《プニューマ》の用法は、当時のギリシア語としては普通です。
 
 このように、御霊は外に現れる姿においても、内なる確信においても、わたしたちが神の子である実質を形成してくださるのです。わたしたちは、キリストにおいて賜る御霊によって神の子としての生涯を歩むことができるのです。わたしは、イエスの「山上の説教」は神の子としてのイエスが父への完全な信頼と交わりを告白された大文章だと理解していますが、わたしたちがそのような境地に生きることができるのは、ここでパウロが言っているように、「子とする御霊」によるのです。すなわち、イエスの「山上の説教」の世界に入っていくための鍵は、「子とする霊」を受けることであると言えます。

 

 「山上の説教」の受け止め方については、拙著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』を参照してください。  

キリストと共同の相続人

 子という身分は、親の資産を相続する資格を意味します。神の子であることは、神の資産、すなわち神の栄光を相続する立場にあることを意味します。「子とする御霊」によって神の子とされたことを語ったパウロは、自然に、キリスト者は神の栄光を受け継ぐ者であるという主題に入っていきます。「子であるなら相続人でもあります。神の相続人であり、キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり、キリストと共同の相続人です」(一七節)。

 ここで用いられている「相続」という用語は、世間で子が親の資産を受け継ぐことを指すのにも用いられている普通の語ですが、新約聖書では旧約聖書の伝統を受け継いで、終わりの日に神の民が約束されていた栄光を受け継ぐことを指すのに用いられています。旧約聖書では、イスラエルの民が約束の地カナンに入ったとき、各部族がそれぞれ定住する土地を得ましたが、その土地が「相続分」と呼ばれました。各部族は神が約束された土地を「相続した」のです。このイスラエルの各部族が土地を得たことを予型として、新約聖書は神が約束された栄光を受け継ぐことを「地を受け継ぐ(相続する)」と表現しました(この表現については拙著『マタイによる御国の福音』79頁マタイ五・五の「幸いの言葉」講解を参照してください)。
 
 パウロも、このイスラエルの土地相続を予型として、神の子が神の栄光を受け継ぐことを相続」という用語で語ります。キリスト者は神の子である以上「神の相続人」であると言うとき、「神の相続人」とは神の栄光を受け継ぐことを指しています。そのことは、すぐ後で「(キリストと共に)栄光にあずかる」ことが「(キリストと共同の)相続人」と表現されていることからも明らかです。終わりの日に神の栄光にあずかる者となることは、福音において救済の重要な一面です。パウロも、現実の人間について「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており」(三・二三)と語り、キリストによる救いについて、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、・・・・神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」(五・一〜二)と語っています。
 
 「神の栄光にあずかる」ことが救いの完成です。それは終わりの日の出来事ですから、必然的に将来に待ち望む「希望」となります。キリストにあって救われることは現在の出来事ですが、それは必然的に希望という一面を含むことになります。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、・・・・神の栄光にあずかる希望をもって歓んでいます」ということになります。「神の栄光にあずかる希望」とは、何という壮大な希望でしょうか。人間にとってこれ以上の希望はありません。この希望に生きるわたしたちの姿は次の段落(一八〜二五節)で詳しく語られることになりますが、ここでは、「キリストと共同の相続人」として神の栄光にあずかるのであることが強調されます。
 
 キリストはすでに神の栄光にあずかっておられます。キリストは死者の中から復活して、もはや朽ちることのない霊体をもって、神との完全な交わりの中に生きておられます。わたしたちはキリストに合わせられている者として、キリストの栄光が現れる終わりの日に、死者の中からの復活にあずかり、朽ちることのない霊体を与えられて、キリストと一緒に神の栄光の中に生きるようになるのです。これが「キリストと共同の相続人として、神の栄光にあずかる」ことです。これは、パウロがコリント書簡(T一五章)で「初穂」という用語を用いて語っていたことと同じです。パウロが「神の栄光にあずかる」と言うとき、死者の中からの復活にあずかることを指しているのです。そのことは次の段落からも明らかです。
 
 しかし、ここで重要な限定がつきます。わたしたちは、「キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり」、キリストと共同の相続人なのです。「栄光にあずかる」のは将来のことですが、「キリストと共に苦しむ」は現在のことです。動詞「苦しむ」は現在形です。この世では、十字架につけられたキリストに合わせられて生きる者は、キリストが世から受けた苦難を身に受けて生きなければなりません。キリストの苦しみを共にしている姿に、キリストに合わせられている実質があります。キリストと共に苦しむとき、キリストと栄光を共にするようになるという希望が確かなものになります。パウロは、自分の体験を語っているのです。たしかに、苦難は栄光にあずかることの根拠とか条件ではありません。しかし、キリストと共にする苦難こそ、キリストと共に受け継ぐ栄光の希望を身に付いた確かなものにするのです。この「現在の苦しみと将来の栄光」の対照が、次の段落(一八〜二五節)の主題となります。

 

 パウロが自分の体験から、苦難の中でこそ復活の希望が確かなものになるという消息を語っていることについては、第9章「復活信仰の具体相」を参照してください。  



   20 やがて現される栄光 (8章18〜25節)

 18 今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています。 19 被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいるのです。 20 被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。 21 すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です。
 22 すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます。 24 わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。 25 わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです。

やがて現される栄光

 八章に入って、パウロは溢れる筆致で、キリストにあって働く「いのちの御霊」の豊かさを描き(八・一〜一一)、続いてその御霊に導かれて生きる者はみな「神の子」であることを語り、そして「子であるならば相続人でもある」として、キリストに属する者は、キリストと共に、キリストが受けておられる栄光を受け継ぐ共同の相続人であることを語るに至りました(八・一二〜一七)。

 しかし、ここに来て、将来栄光を受け継ぐはずの神の子は、現実の世界では苦難を受けざるをえないという定めに触れないではおれなくなります。「キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり」、わたしたちはキリストとの共同の相続人であるのです(八・一七)。続くこの段落(八・一八〜二五)で、現在の苦しみと将来の栄光が対比され、この二つの現実に生きる神の子の「希望」が語られることになります。
 
 まず、「今の時の苦しみ」と「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」が比べられ、パウロは「今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています」と断言します(一八節)。
 
 パウロは基本的に、黙示思想の「二つのアイオーン」の枠組みで思考しています。黙示思想では、神は二つのアイオーン(世、時代)を創造されたとし、悪しき者が支配する「この(古い)アイオーン」では、神に属する敬虔な義人は苦しめられるが、世界の終末に到来する「来るべき(新しい)アイオーン」では、神の力によって救われ、栄光に輝くようになると信じられていました。
 
 これまでに見てきたように、キリストの福音は救いがすでに到来したことを告知しています。キリストにあって神は救いの業を成し遂げられたのです。わたしたちはキリストにあっていのちの御霊の働きにあずかり、現在すでに「永遠のいのち」、すなわち来るべき世のいのちを与えられています。しかし、世界はまだ「この(古い)アイオーン」の中にあります。すなわち、世は神とキリストに敵対する勢力の支配下にあります。キリストに属する民は、「現在のアイオーン」においては苦しまなければなりませんが、それは神の民であることのしるしです。しかし、キリストの《パルーシア》(来臨)で始まる「来るべきアイオーン」においては、神の栄光にあずかることになるのです。
 
 パウロは「今の時《カイロス》の苦しみ」と言っていますが、これは「今のアイオーン」にいながら、キリストの来臨《パルーシア》が迫っているこの時点《カイロス》での状況を意識して語っているのだと考えられます。
 
 この「今の時の苦しみ」を取るに足りないものとさせるのは、「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」があまりにも素晴らしいからです。パウロは救いを、人間が罪(神への背き)によって失っている神の栄光(三・二三)にあずかるようになること(五・二)と考えています。救済をそのような終末的な栄光への参与と見ることは、原始キリスト教の共通の救済理解ですが、パウロの場合は、それが現在すでに聖霊によって始まっていることが強調されます。ただ、聖霊によって始まっている栄光は、地上においては「肉」と呼ばれる卑しい人間本性の中に隠され、また歴史の中では神の民の苦難の中に隠されているので、終わりの時になってはじめて「現れる」ことになります。栄光は終わりの時に突如与えられるのではなく、すでに与えられているのですが、今は隠されています。その隠されているものが「現れる」出来事が終末です。それで、パウロは、キリストの来臨についても(コリントT一・七)、神の民の完成についても(次節)、終末の出来事に「現れる」とか「顕現」《アポカリュプシス》という表現を用いることが多くなります。

 

被造物の切望

 一八節の主題宣言に続いて、この段落(一八〜二五節)において、「今の時の苦しみ」の中で「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」を待ち望む切望が、「切に待ち望む」という動詞を三回(一九、二三、二五節)繰り返して語られます。しかも、その切望は個人の心の姿だけではなく、「すべての被造物」と「御霊の初穂をいただいている者たち」の両者を貫く呻きとして、壮大な宇宙論的規模と全救済史的視野で語られます。  パウロは最初に「被造物」の切望を取り上げます(一九〜二一節)。「被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいるのです」(一九節)。ここの「被造物」の原語は《クティシス》(造られたもの)ですが、この「被造物」《クティシス》が人間を含まない自然界の全体か、人間を含む被造物全体か、その場合キリスト者を含むのか否かが、古来論争されてきました。しかし、続く二〇〜二一節で「被造物」について語られている内容からすると、人間以外の被造物(自然界)全体を指すと理解するのが順当と考えられます。あるいは、人間世界(歴史)を問題にしないで見た宇宙存在と理解してよいかもしれません。

 

 一九節の原文は、「被造物の切望は…を待ち望んでいる」という構造になっています。主語の「切望」という名詞が語源的に「首をのばして待望すること」という意味であるので、この翻訳では、これを副詞的に「首をのばして」と訳出して、原文の切迫した雰囲気を表現しています。「身を乗り出して」という訳にしてもよいかもしれません。  

 自然は将来への待望の中で呻いているというような感覚は、日本人の自然観からは出てきません。日本人だけでなくギリシア人なども含め、ほとんどの民族は自然を不変のもの、あるいは循環するものと捉えていますから、自然がある目標とか完成とか、将来の何かに向かって「首をのばして待ち望んでいる」というように感じることは困難です。パウロが自然をこのように感じるのは、やはり創造者なる神が全存在を完成する計画をもって支配しておられるとする救済史的な宇宙観(とくに黙示思想)をもつユダヤ人であるからでしょう。
 
 では、被造物は何を「首をのばして待ち望んでいる」のでしょうか。パウロは、それを「神の子たちの顕現《アポカリュプシス》」と表現しています。パウロの理解によれば、(一八節の講解で説明したように)キリストに属する民は地上ですでに神の子たちである(八・一四)のですが、神の子としての栄光はこのアイオーンにおいては肉の弱さと苦難の下に隠されています。キリストの来臨によって到来する「来るべきアイオーン」において、復活によって神の子である実質が実現し、その栄光が現れるのです。そのように神の子たちが神の子として本来の栄光をもって現れる終末の事態を「神の子たちの顕現」と呼んでいます。その時に、今は「虚無に服している」被造物も栄光の中に完成するのです。
 
 「被造物が首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいる」理由を、パウロは続く一文で説明します(二〇〜二一節は、理由を示す小辞《ガル》で始まる長い一つの文です)。「被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です」(二〇〜二一節)。
 
 「虚無」というのは、実質のない姿、恒常的なものがない無常の姿、目的がない無意味さ、はかなさを指しています。自然の中にこのような「虚無」を見るのは、やはり当時のユダヤ教黙示思想の特色です。パウロはここで「虚無に服させられていますが」と受動態を用いています。すなわち、被造物(自然界)が虚無の姿を呈しているのは、「自然」の本性からではなく、「虚無に服させた者による」のであるというのです。

 

 「服させた者による」の原文は《ディア》と目的格の形です。この前置詞句はふつう理由とか原因を示しますが、(所有格を伴う場合と同様)行為者を示す用法もあります(バウアー)。「服させた者」がアダムを指すのか、神を指すのかが論争されてきました。「服させた方」という訳は、神を指すと限定するので、翻訳上はどちらをも指す可能性を残して、「服させた者」と訳すことにします。アダムを指すとすると、「服させた者のゆえに」という原因を示す句になります。神を指すとすると、「服させた者によって」という行為者を示す句になります。解釈は二つに分かれています。どちらの解釈にも根拠と困難があります。ここでは、アダムは原因となったにしても、被造物を虚無に服させる権限はないのですから、やはり神を指すと理解します。  

 創造者に対するアダムの背反によって、すなわち人間が存在と生命の源である神から離反したことで、人間と運命共同体として創造された自然界も、神の意志(計画)によって本来の目的ある存在から虚無へと転落させられたのです。人間と被造物の連帯性は、旧約聖書の「お前のゆえに土は呪われたものとなった」(創世記三・一七)以来、黙示思想に至るまで、ユダヤ教の伝統となっています。

 

 「黙示思想に至るまで」と書きましたが、参考のために実例を一つだけあげておきます。「わたしは彼らのために世を造った。アダムがわたしの戒めを破ったとき、被造物が裁かれた。そして、この世の出入り口は、狭く、悲しみと苦労に満ちたものとなり、またその数も少なく、状態も悪く、危険をはらみ、大きな困難を強いるものとなった」(旧約続編ラテン語エズラ記七・一一〜一二)。  

 しかし、それが将来の解放という希望の相の下のある虚無である点に、それが神の計画によるものであることが示されています。「希望の中に」の原文は「希望の上に」です。被造物は虚無の中にあるが、その虚無は「希望の上に」置かれている虚無です。すなわち、将来克服されるべき虚無です。その希望とは、「すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です」(二一節)。
 
 ここで被造物世界の希望が奴隷の解放の比喩(メタファー)で語られています。被造物世界は現在「虚無に服させられ」、「滅びへの隷属」の状態、すなわち最後は滅びに至らざるをえない奴隷の状態にあると見られています。このような見方は、当時のユダヤ教黙示文学のあまりにもペスミスティックな特異な世界観の表現とされてきましたが、現代では共感できるようになりました。人間の限りない欲望と傲慢さのゆえに、自然は破壊され、地球環境は生物が生きていけないようになるまで悪化するのではないかということを真剣に心配しなければならなくなりました。「滅びへの隷属」という言葉が実感されます。
 
 しかし、そのように現在は虚無に服し、滅びへと隷属させられている被造物世界にも、その奴隷状態から解放される希望があります。その解放は「神の子たちの栄光への解放にあずかる」ことによって実現します。虚無と滅びに隷属させられたのも人間の罪の故でしたが、解放も人間の解放と一体です。人間が罪と死から解放されて、神の子として神の栄光にあずかるようになるとき、被造物世界も一緒に「神の子たちの栄光への解放にあずかる」のです。

 

 「解放」と訳したギリシャ語の名詞は、解放される出来事を指す場合と、解放された状態を指す場合があります。後者の場合「自由」と訳されることが多いのですが、同根の動詞が直前で「解放される」という意味で用いられているので、その動詞との関連を示すために、解放の出来事として「解放」と訳します。「解放」という思想は、23節の「体の贖い」という用語にまで続いていて(当該箇所の注を参照)、終末的完成を語るこの段落のキーワードになっています。なお原文では「栄光の解放」ですが、「栄光の」という所有格をヘブライ的形容詞と理解して、「栄光ある解放」と訳すことも可能ですが、ここでは栄光にあずからせるための解放と理解して「栄光への解放」と訳しています。  

被造物とキリストの民のうめき

 この希望があるゆえに、「被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいるのです」(一九節)。被造物は、はやく神の子が現れてくれないかと首をのばして待ち望んでいるのです。しかし、栄光の世界が生み出される前には、女が新しい命を生み出す前に陣痛が避けられないように、被造物世界は今に至るまでそのシステム全体が深い呻きの中で「産みの苦しみ」(陣痛)を味わっているのです。パウロは、「すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(二二節)と続けます。

 

 二二節の二つの動詞に付いている「共に」という接頭辞は、全体が一緒になってという意味に理解されます。この接頭辞の意味と用例については八章一六節についての注を参照してください。  

 この「産みの苦しみ」という表現もユダヤ教黙示思想からのものです。黙示思想家は新しい栄光の世界が現れる前にこの世界に臨む苦しみを、出産前の陣痛にたとえて語りました(たとえばエチオピア語エノク書六二・四、ラテン語エズラ記四・四二)。キリスト来臨《パルーシア》の希望を黙示思想的用語で語った「マルコの小黙示録」も、《パルーシア》前に世界に臨む大いなる患難を「産みの苦しみ」という用語で語っています(マルコ一三・八)。パウロは、地上で神の民が体験する患難だけでなく、宇宙全体が新しい栄光の世界を生み出すために苦しんでいる呻きを聴きとるのです。パウロの魂は、なんと壮大で深いのでしょうか。
 
 ところで、このように「すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と言うときの「わたしたち」とは誰でしょうか。ユダヤ教黙示思想に深く沈潜している人たちのことでしょうか。そうではありません。それは、すぐ次の節(二三節)に出てくる「御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身」のことです。わたしたちキリストにある者は、御霊という「初穂」をいただいているので、「自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます」(二三節)。この自分の内にあるうめきが、被造物世界のうめきと共鳴して、被造物世界が産みの苦しみを味わっていることを「わたしたちは知っています」と言わせるのです。
 
 わたしたちキリストに属する者は、「御霊の初穂」をいただいている者たちです。「御霊の」という二格は同格の二格、すなわち、御霊という初穂、あるいは、初穂としての御霊という意味です。わたしたちの内に与えられている御霊は「初穂」です。「初穂」というのは、やがて取り入れられる全収穫を代表する一束の穂です。そのように、御霊はわたしたちが将来受け継ぐことになる栄光の前味、前払い、手付け金、保証です。御霊は来るべき終末的栄光の現臨です。それはなお隠された形ですが、終末が現在に臨んでいるのです。
 
 パウロはすでにコリント書簡で「初穂」という語を、復活されたキリストを指す語として用いていました(コリントT一五・二〇、二三)。そこでは、すでに復活されたキリストが、終わりの日に復活するキリストの民を代表し、彼らの復活を保証する「初穂」でした。ここでは、「わたしたちの心に注がれている御霊」が、わたしたちの将来の栄光(それは復活です)の先取り、また保証として「初穂」と表現されるのです(八・一一参照)。
 
 御霊という初穂をいただいているわたしたちは、「子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます」(二三節後半)。「子とされること」という名詞は、すでに一六節で「子とする御霊」という形で用いられていました。わたしたちは御霊によってすでに神の子としての身分と実質を与えられています。しかし、その「子とされること」は、現在は死に定められた卑しい体の中に隠されているので、わたしたちは子であることの完全な顕現を「自分の(死に定められた体の)内でうめきながら、切に待ち望む」ことになるのです。

 

 なお、この「子とされること」という名詞を欠く有力な写本もあります。この単語を飛ばして読んでも、希望の内容を語るこの節の本筋は変わりません。本筋は「御霊という初穂をいただいているわたしたちは、体の贖いを切に待ち望んでいます」ということです。  

体の贖い

 この神の子であることの完全な顕現――パウロはすでにそれを「神の子たちの顕現」(一九節)という表現で語っていました――は、「体の贖い」が成し遂げられるときに実現します。それで、「子とされること」が「すなわち、体の贖い」という同格名詞で説明されることになります。「贖い」《アポリュトローシス》とは、本来身代金の支払いなどによって奴隷や捕虜の状態から解放されることを意味します。ここでも救済を解放という用語で語るパウロの救済論が貫かれています。しかもパウロにおいては、ギリシャ思想の場合のように霊魂が身体から解放されるのではなく、「体」《ソーマ》自体が「滅びへの隷属」から解放されることが救いなのです。

 旧約聖書以来のユダヤ教の伝統においては、人間は体を具えた全体的な存在(具体的存在)として理解されているので、人間の救済は体の救済(解放)なくしてはありえません。この「体の贖い(解放)」の内容について、パウロはすでにコリント書簡(T一五章)で次のように語っています。すなわち、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」(コリントT一五・四二〜四四)。「体の贖い」とは死者の復活を指しています。ローマ書においてはパウロは「死者の復活」という主題を強調していませんが、八章一一節や本節にコリントTの一五章全体が凝縮されています。
 
 このように、パウロはローマ書においては、この段落(八・一八〜二五)で「体の贖い(解放)」、「神の子たちの顕現」、「栄光への解放」というような用語で、キリストに属する者の希望を語ります。そしてこの希望は、この世における苦難の中で、また死に定められた体の中で、さらに自分の肉の弱さの中で、「うめき」とならざるをえません。このうめきが、先に見たように、被造物世界のうめきと共鳴して、キリスト者をして宇宙全体の完成を「首をのばして待ち望む」希望に生きる者にならせるのです。この短い箇所(八・一八〜二三)に、パウロの壮大な終末的希望の内容が凝縮しています。

 

救いの標識としての希望

  ところで、パウロはこの希望についてこう要約します。「わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです」(二四節前半)。すでに繰り返し見てきたように、パウロにおいては救いはキリストにあってすでに起こった罪と死の支配からの解放の事実です。御霊による解放の事実を、パウロは八章の冒頭で力強く宣言しました(二節)。そして続けて、キリストにあって御霊に生きる者が持つ希望を語ってきました。今、それを一文にまとめるのです。わたしたちは救われた結果、このような希望に生きる者となったのです。希望は、救われた者の最初の標識です。

 

 二四節前半は、原文では「希望」という名詞が前置詞なしの三格で文頭に用いられています。直訳すれば、「希望に、わたしたちは救われたのです」となります。ギリシャ語の三格(与格)には「〜によって」という手段を示す用法もあるので、ここは「希望によって救われている」と訳されることが多いようです(新共同訳、協会訳、岩波版青野訳など)。しかし、パウロの福音では「信仰によって救われる」のであって、「希望によって救われる」のではありません。この三格は与格本来の用法で「〜に(向かって)」と理解するか、様態の与格として「〜(の状況)において」と理解するのが順当でしょう。最近の英訳では in hope 、独訳では auf Hoffnung 、仏訳では en esperance が普通です。なお、この文の動詞「わたしたちは救われた」は過去の出来事を示すアオリスト形であり、また、この文が置かれている文脈は、希望に生きるわたしたちの現在の姿を主題としていることを考慮すると、わたしたちは救われた結果、現在このような希望に生きるようになっていると理解すべきです。「わたしたちはこの希望へと救われた」のです。それで、ここでは日本語としての分かりやすさを考慮して、「わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたった」と訳しています。  

 この段落で「切に待ち望む」という動詞を三回繰り返して語られるキリスト者の生き方、将来の栄光に向かって身を乗り出して生きる姿勢が「希望」ですが、最後にその希望とはどのような種類の希望であるかが明らかにされます。
 
 「ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです」(二四節後半と二五節)。
 
 「見える希望」と訳した句は、直訳すると「見られている希望」となります。希望する対象が現に見られている希望という意味です。このような意味の「見える希望」というのは形容矛盾であることが、すぐに続く「現に見ているものを、誰が希望するでしょうか」という疑問文で確認されます。ここで「見る」とは、人間が自分の体験と理性で理解できることを広く指しています。すでに見ているもの、すなわち、すでに体験し理解しているものは、もはや希望の対象ではありません。
 
 わたしたちは「見ていないものを希望する」希望に生きているのです。この段落で扱っているわたしたちの切望の対象は、「神の子たちの栄光の顕現」、具体的には「わたしたちの体の贖い」、すなわち死者の復活であり、また、それにあずかることによって全被造物が栄光の中に完成されることでした。ところが、現実のわれわれの体験と被造物の実状はこれと矛盾し、そのような希望が実現する根拠はわたしたちと被造物の側には何もありません。わたしたちの側で理解したり根拠づけたりすることができない事態を待ち望む姿勢、これが「見ていないもの」を希望すると表現されます。そして、この「見ていないものを希望する」ことを可能にする原動力こそ御霊であることが、次の段落(八・二六〜三〇)で展開されることになるのです。
 
 このように「見ていないものを希望する」のであれば、「忍耐」をもって待ち望む必要があります。自分の側に理解も根拠もありませんから、ひたすら神の約束の言葉だけを根拠にして、栄光の将来を待ち望みます。この世における現実は栄光と反対の苦難であり、わたしたちの理解は肉の弱さのために神のご計画を理解する知恵に達しません。自分の現実と理解がいかに神の約束と反していようが、神の言葉だけを真実として、すなわち神を信実とし、神の信実だけを根拠にして現実を担って生きることが求められます。それが「忍耐」です。福音において希望が語られるときはいつも忍耐が求められることになります(マルコ一三・一三など)。
 
 この段落(八・一八〜二五)は、キリストの福音がもたらす壮大な宇宙完成の希望を僅か八節に凝縮した、実に重い箇所です。この段落で、希望が「解放」と「解放される」、「顕現」と「現される」という二つの系統の用語で語られていることが注目されます。この二つは(それぞれの箇所で説明したように)パウロの救済論の鍵をなす用語であることを、最後に重ねて指摘しておきます。

 

   

  21 御霊の執り成し (8章26〜30節)

  26 同様に、御霊もわたしたちの弱さに寄り添って助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです。 27 心を見通す方は、御霊が志向されるところを知っておられます。御霊は聖徒たちのために、神の御心に従って祈り求めてくださるからです。  28 ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです。 29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の像と同じ形になるようにあらかじめ定めてくださいました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるためです。 30 さらに、あらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義とし、義とした者たちを栄光ある者とされたのです。

 

御霊のうめきと執り成し

 「同様に」という語で新しい段落が始まります。この「同様に」は、被造物がうめき(二二節)、キリスト者がうめく(二三節)のと同様に、「御霊も・・・・・うめきをもって執り成してくださるのです」と続いて、三重のうめきを構成します。たしかに「御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら」栄光の顕現を待ち望んでいますが、わたしたちのうめきと御霊のうめきは重なりながらも異なるものです。その違いが二六〜二七節で語られることになります。
 
 御霊は「わたしたちの弱さ」に寄り添って助けてくださるのです。「わたしたちはどう祈るべきか知りません」(原文は「何を祈り求めるべきかを知らない」)。ここに「わたしたちの弱さ」があります。前の段落(八・一八〜二五)で語られた希望は、「見えないもの」への希望でした。初穂としての御霊は、「やがて現される栄光」とか「体の贖い」を切望させる原動力でしたが、その切望の対象は「見えないもの」、すなわちわたしたちの体験や理性では記述できないものです。従って、放置すれば(自然の欲求に任せると)、わたしたちの魂は祈りの方向を見失うか、内容空疎なお題目に堕する危険があります。祈りが将来の栄光の方向に向かっていても、わたしたちはその内容を把握しているわけではありません。そこに「わたしたちの弱さ」があります。終末における栄光の完成は、神だけがその内容を知っておられるのです。
 
 御霊はこのようなわたしたちの弱さに「寄り添って助けてくださる」のです。「寄り添って助けてくださる」と訳した部分は一つの動詞で、もともと「寄り添う」とか「参与する」という意味の動詞です。それが「助ける」という意味でも用いられるようになっているのです。ここでは原意を生かして、「寄り添って助ける」と訳しています。この表現は、ヨハネ福音書で聖霊が《パラクレートス》(同伴者、助け主)と呼ばれていることを思い起こさせます。パウロは《パラクレートス》という用語は用いていませんが、ここでまさに聖霊を《パラクレートス》としていることになります。
 
 どう祈るべきか知らないわたしたちに寄り添って、「御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです」。聖霊の働きの重要な一面が執り成しです。共観福音書では、イエスが聖霊について教えられたことは多くはありませんが、その一つに弟子を宣教に派遣されるときの次の語録があります。
 
 「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ一〇・一八〜二〇)。
 
 このように、聖霊は法廷における弁護人の役割をして助けてくださると語られています。これが、法廷用語として弁護人を指す《パラクレートス》という語が聖霊の呼称として用いられるようになるきっかけとなったのでしょう。ヨハネ福音書の「訣別遺訓」(一三〜一七章)における《パラクレートス》についての訓話は、この語録を自分たちの聖霊体験によって敷衍展開したものと見ることもできます。
 
 この「寄り添って」弁護してくださる聖霊の働きを、パウロは迫害時の法廷の場面ではなく(パウロはこのような聖霊の助けによる法廷での弁証を何回も体験してきましたが)、ここでは栄光への希望という人の思いを超えた生き方を助けてくださる働きとして語っています。聖霊の弁護、執り成しがいっそう内面化され、霊的な祈りのための助けとされていることになります。
 
 パウロはすぐこの後(三四節)で、復活して神の右にいますキリスト・イエスがわたしたちのために執り成してくださっていることを語っています。「復活して神の右にいますキリスト」の執り成しと「わたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる」御霊の執り成しが貫き重なって、栄光への道を歩むことができるようにわたしたちを励ましてくださるのです。「復活して神の右にいますキリスト」が、わたしたちに寄り添って助けてくださっている姿が御霊の執り成しです。ヨハネ(一四・一六)は後にこの関係を「別の同伴者」という表現を用いて語ることになります。ヨハネ福音書では、この「別の同伴者」とは、御霊として弟子たちのところに戻ってきて内にとどまる復活者イエスを指します。
 
 「やがて現される栄光」、「神の子たちの顕現」、「神の子たちの栄光への解放」、「体の贖い」など、このような「見えないもの」への切望に生きるようにさせる原動力は御霊の執り成しですが、それは「言葉にならないうめきをもって」なされる執り成しです。「わたしたちの弱さ」に寄り添って助けてくださる御霊の執り成しは、言葉で教え諭す意識の次元ではなく、それよりも奥の、もはや言葉では表現できない次元で、わたしたちの祈りを正しい方向に向かわせる力として働いてくださいます。そのように意識の世界よりも奥で、わたしたちの本性に逆らって祈りを駆り立てる力が「うめき」と表現されるのです。

 

 「言葉にならないうめき」を集会における異言の祈りと理解する見方(ケーゼマン)もありますが、異言の祈りは自ずから溢れ出る祈りの言葉であって、「うめき」という表現には適合しないと考えられます。異言にも様々な種類とか段階があるようですが、基本的に異言は言葉です。ただ、祈りの言葉が、聖霊によって語らされる結果、祈る人の母国語でなくなっているとか、地上の言語ではなく「天使の言葉」と感じられるような言葉になっているのです。このように異言は内から溢れる言葉であるので、「言葉にならないうめき」とは違います。もちろん、異言の祈りの内容が執り成しである場合があります。「言葉にならないうめきをもって執り成してくださる」御霊の執り成しは、異言の祈りも含みますが、もっと範囲の広い御霊の働きと理解すべきであると考えます。  

 このような御霊の執り成しが、そして御霊の執り成しだけが、神の前に有効であることが続く節で説明されます。
 
 「心を見通す方は、御霊が志向されるところを知っておられます。御霊は聖徒たちのために、神の御心に従って祈り求めてくださるからです」(二七節)。
 
 「心を見通す方」は神を指しています。「見通す」という動詞をパウロはコリントT二・一〇で用いていますが、そこでは御霊が「一切のことを、神の深みさえも究める」方とされていました。ここでは、神が隠された心(複数形)の次元を「吟味し、見極める」方とされます。御霊の執り成しは、わたしたちには「言葉にならない」ものであっても、神はその内容を知り、その執り成しを受け入れてくださるのです。
 
 ここで御霊の執り成しの内容が「御霊の志向」(直訳)という句で表現されています。「御霊の志向《フロネーマ》」という句は、先に「肉の志向」と対立するものとして、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)という形で用いられていました。わたしたちは肉の弱さの中にあって、何を祈り求めるべきかを知らないのです。わたしたちが懸命に祈り求めているものは、魂を破滅させるようなものであるかもしれません。それに対して、御霊はつねに聖徒たちのために、すなわち神に属する民のために、神の御心に従って祈り求めてくださるので、肉の弱さの中にいるわたしたちも、命と平和を追い求める道を歩むことができるようになるのです。
 
 御霊の執り成しは、わたしたちには「言葉にならないうめき」ですが、神は御霊が志向されるところを知っておられ、その執り成しに従って、わたしたちを助けてくださいます。この御霊の執り成しと、その執り成しに基づく神の助けが、先の段落で見たような「見えないものへの希望」に生きることを可能にしてくださるのです。先の段落で宇宙の完成という壮大な希望を語ったパウロは、すぐに続けてわたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる御霊の執り成しを語らないではおれないのです。  

 

神の救済計画

 「神の子たちの顕現」とか「神の子の栄光への解放」というような「見えないものへの希望」に生きる原動力が、わたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる御霊の執り成しにあることを明らかにしたパウロは、再びその希望の根拠を神の「御計画」という黙示思想的な用語で語ります。
 
 「ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです」(二八節)。
 
 先に「聖徒たち」と言われていた人たちが、ここでは「神を愛する者たち」と言い換えられ、さらに「御計画に従って召された者たち」と説明されます。パウロが神の愛に触れる場合は、神がわたしたちを愛してくださったという方向が基調をなしていますが(ロマ五・八など)、ここで神に属する民が「神を愛する者たち」と言い換えられているのは、パウロが敬虔な人間を指すユダヤ教の伝統的な表現を踏襲したものと見られます。
 
 しかし、一切が神の恩恵から発するという場に生きるパウロは、ただちに次の句で、わたしたちが神を愛するのも神の召しによると言い直します。わたしたちが「聖徒たち」として神の民に所属し、「神を愛する者たち」と呼ばれるのは、わたしたちの願いや価値のゆえではなく、神がその救済計画を実現するために、恩恵によって召された結果だとするのです。
 
 「御計画」と訳した《プロテシス》という語は、ここでは予め前もって立てられた目標とか計画という意味で用いられています。この用語が出てくるのは僅かですが(パウロ七書簡ではここと九・一一くらい、エフェソ書では一・一一と三・一一)、思想は典型的な黙示思想のものです。黙示思想では、神は天地が造られる前に世界の救済の計画を立てられ、その御計画に従って歴史を導き、神の民を栄光へと救われるとします。ただその御計画は人間には隠されていて誰も知ることはできないのですが、神が選ばれた聖徒(たとえばエノクとかダニエル)に啓示されたとされます。その啓示を書き記したものがエノク書やダニエル書などの黙示文書です。その隠された神の救済計画は黙示文書では普通《ミュステーリオン》(奥義)という語で呼ばれており、パウロもよく用いています(一一・二五、コリントT二・一、四・一、一五・五一など)。ここでは「隠された」という意味を含まないで、それが「前もって」立てられた計画であることを強調する《プロテシス》が用いられていますが、思想内容は黙示思想に典型的なものです。
 
 このように「御計画に従って召された者たち」には、「すべてのことが共に働いて善にいたる」ことを、「わたしたちは知っています」とパウロは言います。「すべてのことが共に働いて善にいたる」という時の「善」《アガトス》とは、究極的な意味での善、すなわちここでは神の救済を指すと理解すべきです。
 
 当時のユダヤ教では、「人は常に次のように言う習慣をつけるべきである。すなわち憐れに満ちる神は為すところすべてを善(益)のために為すのである」(ラビ・アキバ)と教えられていました。この格言が、敬虔な者には万事が好都合に運ぶという、処世訓的な意味で使われていたことも事実です。現在もそういう意味でよく用いられます。しかし、パウロはこの格言を、二九〜三〇節で語ろうとする救済の終末的完成を意味する文として用いるのです。わたしたちが地上で体験する苦難を含め、すべてのことが最終的な救済の完成に役立つように働くとします。ここに、一切の苦難を耐えさせる、信仰による至上の楽観主義(最近流行の用語ではプラス思考)が表明されています。
 
 パウロは、キリストの民を代表して、このことを「わたしたちは知っています」と言います。「知っています」の内容は、二八節だけでなく、二九節冒頭の接続詞《ホティ》で始まり三〇節まで続く、一連の定型的な文で構成される部分全体であると考えられます。五つの動詞(あらかじめ知る、あらかじめ定める、召す、義とする、栄光とする)が同じ形の文で繰り返されて鎖のように連なる部分は、パウロが何らかの定型的な信仰告白文を利用している可能性があります。わたしたちが日頃唱え告白しているように、神は確かに以下のことを成し遂げて、「御計画」《プロテシス》を完成してくださることを、わたしたちは知っていると言うのです。
 
 この「御計画」の根底は、「神はあらかじめ定めてくださった」という「予定」にあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の像と同じ形になるようにあらかじめ定めてくださいました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるためです」(二九節)。
 
 「前もって知っておられた者たち」とありますが、何よりも前なのか、パウロは語っていません。しかし、天地創造は救済史の最初の段階であると見る見方からすれば、天地創造の前に神は救済史を担う者たちをあらかじめ知っておられたことになります。エフェソ書一章四節はそのような理解で書かれています。また、エフェソ書のその箇所が示唆するように、この「知る」は「愛する」を含んでいることになります。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分のものとなるように選ばれたのです。
 
 神は前もって知っておられた者たちを、「御子の像と同じ形になるように」あらかじめ定めてくださいました。人間は神の像に創造されている(創世記一・二七)という人間観が、聖書の人間観の基本です。ここではその像という語を用いて人間の救済が語られます。人は創造者なる神に背くことによって神の像の実質を失いました。そこで神は、御自身の像である御子キリスト(コリントU四・四、フィリピ二・六、コロサイ一・一五)によって、御子キリストを信じる者たちが御子の像に合わせられて同じ形になるという仕方で、失われた神の像が回復されるように計画されたのです(本節)。これが神の救済計画の内容です。ここの「あらかじめ定めた」は、上記の「御計画」の内容をあらかじめ定められたという意味であって、救われる者と滅びる者をあらかじめ決定されたという「二重予定」の意味ではありません。
 
 この御計画は、その実現が地上で始まっています。御子キリストを信じる者たちは、「主の御霊の働きにより、栄光から栄光へと主と同じ像に造りかえられていく」のです(コリントU三・一八)。そしてこの救済の過程は、神の子の栄光が現される終わりの日に完成することになります。
 
 この「御計画」によってキリストに属する神の民が「御子の像と同じ形になる」とき、「御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるため」という神の目的が達成されます。あるいは、この文(不定詞構文)を、神の民が御子の像と同じ形になる結果、「御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となられるのです」と、結果を示す文と読むこともできます。どちらの読み方も、御子キリストとキリストに属する民の一体関係、先に「初穂」という語で表現されていたあの一体関係を指し示している点は変わりません。

 

 「最初に生まれた者」という語はよく「長子」と訳されますが、原語は《プロトトコス》(最初に生まれた者)という語です。ごく初期から、イエスの復活は詩編二編(とくに七節)の成就と解釈され、イエスは復活により神の子キリストとして生まれたと理解されて(ロマ一・四)、そう宣べ伝えられていました(使徒言行録一三・三三)。キリストは最初に死者の中から復活した方として、やがて死者の復活によって現れる神の子たちの長子(最初に生まれた者)となられたのです。パウロはこの意味で用いていますが、後のパウロ系文書では、この意味も保持しつつ(コロサイ一・一八)、「すべての被造物のプロトトコス」、すなわち、天地創造よりも前に神から生まれ、創造を仲介する方と理解されるようにもなっていきます(コロサイ一・一五)。  

 神があらかじめ定められたこの救済計画はすでに進行しつつあります。そのことが、「(神は)さらに、あらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義とし、義とした者たちを栄光ある者とされたのです」(三〇節)という文で簡潔に提示されます。
 
 「さらに」というのは、「御子の像と同じ形になるようにあらかじめ定めて」くださっただけでなく、その予定の御計画を現に今この地上で進めてくださっているのだという気持ちを表しています。この「さらに」あるいは「その上に」という語は、「義とし」と「栄光ある者とされた」という動詞にもついていますので、この節は丁寧に訳すと、「あらかじめ定めた者たちをさらに召し、召した者たちをさらに義とし、義とした者たちをさらに栄光ある者とされたのです」(協会訳参照)となります。
 
 今福音が宣べ伝えられ、その福音によって御子キリストを信じる民が諸民族の中から呼び集められていますが、この出来事は神が「あらかじめ定めた者たちを召し」ておられることに他なりません。わたしたちは、自分の決断とか霊的体験によって信仰に入ったと考えていますが、実はそうではなく、神があらかじめ定めておられた者を、時満ちてご自分のもとに召された出来事であるというのです。これは、信仰さえも自分の側に根拠があるのではなく、神の予定とそれに基づく神の召しにある、すなわち神の側にだけあるという絶対恩恵の告白に他なりません。
 
 神はさらに「召した者を義とし」てくださっています。神は福音によって召した者を、キリストにある贖いによって義としてくださいました(三・二四)。この信じる者はキリストにあって神の恵みにより無償で義とされることは、ローマ書の主題であり、パウロはこの書簡(とくに第一部)で力を尽くして論じてきました。キリストにある者を義とされる神の恩恵の働きが、この「召した者を義とし」という一句に凝縮されているのです。
 
 そして、さらに「義とした者たちを栄光ある者とされた」のです。ここの動詞は「輝かす」とか「栄光を与える」とか「栄光を現す」という意味の動詞です。普通これは終末に起こることとして未来形で語られるのですが、パウロは先行する四つの動詞(あらかじめ知る、あらかじめ定める、召す、義とする)と同じく、すでに起こったことを示す形(アオリスト形)で語っています。たしかに、神の子としての栄光をもって現れる完成は将来の出来事ですが(八・一八〜二三)、神が子とされた者に栄光を与える過程はすでに始まっています。先に引用したように、「主の御霊の働きにより、栄光から栄光へと主と同じ像に造りかえられていく」(コリントU三・一八)過程は、御霊の働きによりすでに地上で始まっています。この事実に目を注いで、パウロは未来の完成を含む「栄光を与える」という神の働きを、先行する四つの動詞と同じ過去時制で語ることができるのです。
 
 「義とする」ことは神の働きのすべてではありません。義として受け入れた者を、神はさらに復活のいのちの現実に生かして、栄光へと導いてくださるのです。この救済の構造は、すでに五章一〇節で示唆されていました(その箇所の講解を参照)。すなわち、「敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいた(義とされた)のですから、和解させていただいている(義とされている)今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」。この「御子のいのちによって救われること」は未来形で語られていますが、それは義とされた結果、現在において始まり、将来の完成に向かって進む過程です。したがって、そこには将来の完成への熱い希望が含まれることになります。この構造に従って、このローマ書講解は、第一部で「義とされる」ことを扱い、第二部で「御子のいのちによって救われる」過程を扱ってきました。この構造が、ここで「義とした者に栄光を与えた」という一文に凝縮されているのです。



  22 神の愛による勝利 (8章31〜39節)

 31 それでは、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか。 32 御自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に引き渡された方は、御子と共に万物をわたしたちに賜らないことがあるでしょうか。 33 誰が神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょうか。彼らを義とする者は神なのです。 34 断罪する者は誰か。わたしたちのために死んだ方、いやむしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、執り成してくださっているのです。
 35 誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか。患難か、それとも困窮か、それとも迫害か、それとも飢えか、それとも裸か、それとも危険か、それとも剣か。36 次のように書かれているとおりです。
   「あなたのために、わたしたちは一日中死にさらされ、
    屠られる羊のように見られている」。
 37 しかし、わたしたちはこれらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって勝ちえて余りがあります。 38 わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、 39 高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。

神が味方

 パウロはここまで、人間の罪と死の現実から出発して、キリスト・イエスにおける神の救いの働きとその完成の希望にいたるまで、溢れる神の恩恵の世界を論証してきました。信仰による義から御子のいのちによる救いまで、キリストにおける救いのすべてを語り尽くして、聖霊による高揚した思いで、これまでの論述を締めくくります。ここまで語ってきたことすべてを指して、「それでは、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」と、溢れる思いをどう表現したらよいのかと自ら問いかけ、「神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか」という叫びで答えます(三一節)。この「誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか」と、すぐ後の「勝ちえて余りがあります」(三七節)という叫びが示しているように、第二部をまとめる最後の段落(八・三一〜三九)は、第一部の最後(五・一〜一一)が勝利の賛美であったのと同様、勝利の凱歌となります。
 
 「わたしたちの味方である」と訳した部分は、「わたしたちのために」《ヒュペル・ヘーモーン》という前置詞句(英語の for us に相当)で、この短い箇所(三一〜三四節)で三回繰り返されています。神はそのすべての働きを「わたしたちのために」なしてくださっているのです。すなわち、わたしたちの側にいてくださる味方として、わたしたちに敵対する諸力と戦ってくださり、わたしたちを助けてくださっているのです。そのように、神がわたしたちの味方である以上、キリストにある者は、「誰が、どのような霊的勢力が、わたしたちに敵対することができるか」と、勝利の凱歌を挙げることができます。
 
 神が「わたしたちの味方」として、すべてを「わたしたちのために」なしてくださっていることが、続いて御子の死を確かな根拠として語られ、その根拠に基づいて、神が万物をわたしたちに賜ることが保証されます。パウロはこう語ります。「御自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に引き渡された方は、御子と共に万物をわたしたちに賜らないことがあるでしょうか」(三二節)。
 
 ここでキリストの十字架上の死が「わたしたちすべての者のため」の死であることが明言されます。キリストは「わたしたちのために」死なれたとするのは、福音の基本的な使信です(五・八、 コリントT一五・三、 ガラテヤ三・一三、 マルコ一四・二四)が、パウロは「すべての者」という語を加えて、この「わたしたち」が「すべての人」を指すことを強調します(五・一八)。
 
 「御自身の御子をさえ惜しまないで」という表現には、アブラハムが神に従って自分の息子イサクを捧げようとしたしたことについて語られた「自分の息子すら惜しまなかった」(創世記二二・一六)という言葉が反響しています。初期の教団においてイエスの死は、アブラハムのイサク奉献をモデルにして、父なる神が御自身の子を惜しまないで、罪の贖いのために死に引き渡された出来事と理解されていました。

 

 「死に引き渡された」という部分の原文は「引き渡した」(能動態)という動詞だけです(ここでの「引き渡された」は受動態ではなく、敬語の「された」)。「引き渡す」という動詞は、イエスについて用いられるときは、ユダがイエスを権力者の手に引き渡したことを指すのに多く用いられ、行為者なしの受動態はイエスの死を指すことになります(四・二五、コリントT一一・二三)。また、イエスの死は神の御計画によるものとして、神がイエスを死に「引き渡した」とも語られます(本節)。  

 そしてパウロはさらに進んで、神がご自分の御子をさえ惜しまないで死に引き渡されたことを、神が御子と共に万物をわたしたちに賜ることの保証とします。「御子と共に万物をわたしたちに賜る」というのは、先(八・一七)に語られたように、御子キリストと共同の相続人として、万物を支配する栄光の地位に引き上げてくださることを指していると理解することもできますが、この「万物」《タ・パンタ》を「どのようなものでも」と理解して、「御子をさえ惜しまないで与えてくださった方は、苦難の中にいるわたしたちにどのようなものでも与えて、勝利に導いてくださらないことがあろうか」と受け取ることもできます。いずれにしても、神がわたしたちの味方として、わたしたちのために働き、わたしたちに勝利を賜るのだという確信が溢れています。

 

 「御子と共に」という句は二つの意味に理解されます。すなわち、万物を受け嗣ぐ御子と一緒に、御子との共同相続人として万物を受け嗣ぐ(八・一七)という意味に理解するか、または、神はすでに御子をさえ惜しまないでわたしたちの救いのために与えてくださったのであるから、御子にそえて、万物をも与えてくださるはずだという意味に理解することも可能です。日本語訳は文語訳、協会訳(口語訳)とも後者の意味に理解しています。新共同訳はどちらともとれますが、おそらく先行する日本語訳と同じ理解でしょう。しかし、前者の理解も十分可能(ウィルケンス)で、欧米諸語の訳はみなどちらにもとれる訳になっています。本私訳では両方の理解が可能な訳にしてあります。  

 さらにこの勝利の確信が、法廷の場面を比喩として用いて繰り返されます。「誰が神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょうか。彼らを義とする者は神なのです。断罪する者は誰か。わたしたちのために死んだ方、いやむしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、執り成してくださっているのです」(三三〜三四節)。
 
 「訴える」と「執り成す(弁護する)」は検事と弁護士、「義とする」と「断罪する」は裁判官の働きを示す動詞です。キリストに属する者は、人を滅びに定めようとするいかなる霊的な支配力にたいしても勝利する者であることが、法廷での勝利の判決を比喩として、法廷の用語を用いて語られます。
 
 「誰がわたしを訴えるのか」とか「誰がわたしを罪に定めることができるのか」というような法廷的な表現は、「主の僕」の歌の中の一部(イザヤ書五〇章八〜九節)から取られていると見られます。イザヤ書の中の「主の僕」は主イエス・キリストを指す予言として初期の信徒たちに親しまれていましたが、パウロはその一節を用いて、キリストにある者の勝利を歌うのです。
 
 この「主の僕」の歌の中に、「わたしの正しさを認める方は近くにいます」という一節があります。「わたしを義とする方」(七十人訳ギリシア語聖書での表現)がわたしの側にいてくださる、すなわち判決を下す神がわたしの側にいてくださると歌っています。これは、神がわたしの味方であるということです。パウロはここで、神がわたしの味方であることを、イザヤ書の「主の僕」の歌を用いて歌い上げるのです。
 
 「神に選ばれた者たち」、すなわち神に選ばれて今キリストに属する者となっている民を訴え、断罪する者は誰か、それができる者は誰もないのです。判官である神が彼らを義としておられる以上、もはや誰もキリストに属する者を断罪することはできません。その上、「わたしたちのために死んだ、いやむしろわたしたちのために復させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、わたしたちのために執り成して(弁護して)くださっている」のですから、この方の弁護に打ち勝って判決を覆すことができる者は誰もありません。

 

 三四節の最後に置かれている「わたしたちのために」は、直前の「執り成してくださる」という動詞だけではなく、「死んで」、「復活して」、「神の右にいまして」、「執り成してくださる」という本節全体を修飾すると理解すべきです。そのことを示すために、翻訳ではこの句を文頭に置き、講解の中では三四節の動詞にこの句を繰り返して用いました。  

 初期には、復活はキリストが高く挙げられて神の右に座す方になる出来事であると理解され、そう表現されていました。最初期の教団は、復活を詩編二編や一一〇編を成就する出来事と理解し、復活されたイエスはキリストとして神の右の王座に座す方となられたと告白しました。詩篇では「神の右に座す」は万物の支配者としての地位を意味しており、初期の信仰告白もその意味で用いていますが、パウロはここで「神の右に座す」を弁護者としての立場を示す表現に転用しています。
 
 この三一〜三四節には、初期の教団が告白した定型的な信仰告白文が多く用いられていることが、注解者によって指摘されています。たしかにそうですが、パウロはそのような定型的な告白文を用いて、実に力強い勝利の凱歌を歌い上げています。さらにこの箇所は、「誰が…するのか」という修辞的な問いかけが三回繰り返されて、読む者を引き込む力を高めています。
 
 先の段落では、聖霊がわたしたちの内にあって執り成してくださることが語られていました(八・二六〜二七)。ここでは、高挙されたキリストが神の右で「わたしたちのために」、すなわち「わたしたちの味方として」執り成しをしてくだっていることが語られます。両方とも現在の事実であって、弱いわたしたちが終末の栄光にあずかることを保証する、神の恵みの備えです。こうして、「神がわたしたちの味方である」ことが、御子と御霊の働きによって実質を与えられることになります。

 

キリストにおける神の愛

 「わたしたちのために死んだ方、いやむしろわたしたちのために復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、わたしたちのために執り成してくださっています」。わたしたちの救いと栄光の希望の根拠は、このキリストにあります。キリストがわたしたちを愛して、わたしたちのために死に、わたしたちを代表して復活し、神の右に座してわたしたちのために執り成してくださっています。先に法廷の比喩で語られたわたしたちに対するキリストの働きの源泉にはキリストの愛があります。ここで源泉にあるキリストの愛が正面に出てきます。
 
 「誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか。患難か、それとも困窮か、それとも迫害か、それとも飢えか、それとも裸か、それとも危険か、それとも剣か」(三五節)。
 
 パウロはここで自身が体験した苦難を要約して列挙しています(コリントT四・九〜一三、 コリントU六・四〜一〇、 コリントU一一・二三〜二九参照)。「患難」は外からの圧迫、「困窮」は内的な苦悩を指すのでしょう。「迫害」は会堂での鞭打ちや総督の法廷での裁判など実際の出来事を指しているのでしょう。「飢え」は食べ物を買うことができないほどの伝道生活の逼迫や獄中での飢えをパウロは体験してきました。「裸」は寒さの中で十分な衣服がないことだけでなく、むち打ちなどの処罰のさい、公衆の面前で裸にするというような社会的な恥辱をも指しています(使徒一六・二二)。「危険」は川の難、荒野の難、海上の難など伝道旅行の危険を含むのでしょう。この一連の苦難のクライマックスは「剣」、すなわち処刑です。パウロは獄に入れられた経験もあり、処刑をも覚悟しなければなりませんでした。
 
 このような苦難の中でパウロを支えたものは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」キリストの愛でした(ガラテヤ二・二〇)。このキリストの愛がパウロを捉えて(コリントU五・一四)、キリストを告白させ続けたのです。パウロは自分の体験から、「誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか」と、勝利の凱歌をあげます。パウロに対してだけではなく誰に対しても、キリストの愛はあらゆる苦難に打ち勝つ力です。
 
 このように、パウロはキリストのために自分が体験した苦難を列挙した上で、その苦難が神の御心から出たものであることを、聖書を引用することで示します。
 
 「次のように書かれているとおりです。
 『あなたのために、
 わたしたちは一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている』」(三六節)。

 

 これは詩編四四編二三節の引用です。文章は七十人訳ギリシャ語聖書(詩編四三・二三)と一致しています。  

 聖書に書かれている通り、わたしたちが地上で苦難に遭うことは必然であるが、それでもなお、これらすべての苦難の中でわたしたちは「勝ちえて余りがある」と、パウロは勝利の凱歌をあげます。
 
 「しかし、わたしたちはこれらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって勝ちえて余りがあります」(三七節)。
 
 「わたしたちを愛してくださった方」は、(アオリストの分詞形が用いられていることから)わたしたちを愛して、わたしたちのために死なれたキリストを指していると理解することができます(ガラテヤ二・二〇、 コリントU五・一四)。しかし、同時にこのキリストにおいて神の愛が啓示されているのですから(五・八)、この句において、キリストの愛(三五節)と神の愛(三九節)が重なっていることになります。パウロにおいては、そして福音においては、「キリストの愛」と「キリストにおける神の愛」は重なっていて区別することはできません。
 
 ご自分の命を与えるまでに愛してくださったキリストは、すでに復活して死の力に勝利しておられるのですから、この方に結ばれて復活のいのちに生きるわたしたちは、あらゆる敵対的な力に勝利することができます。
 
 この勝利の確信が、最後に「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」を根拠にして歌い上げられます。
 「わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」(三八〜三九節)。
 
 この勝利がいかに力強いものかを示すために、パウロはわたしたちに敵対する諸々の霊的支配力を列挙します。
 「死も生も」とは、「死の恐れや脅しも、生の苦悩や苦闘も」ということでしょう。ここでは「生」も死と並んで、信仰を脅かす現実と見られています。「生も死も」という組み合わせはコリントT三・二二にも見られます。
 
 「御使いたちも支配者たちも」とは、当時の宇宙観では、天界は層に分かれ、各層にはその層を支配する《アンゲロス》(御使い)たちや《アルコーン》(支配者)たちがいると考えられていました。当時の人たちは、そのような霊的支配者が災禍をもたらすことを恐れて宗教的な礼拝を捧げたりしていました。
 
 「現在のものも将来のものも」とは、現在の地上世界および将来の天上の世界を支配しようとする敵対的な力を指すのでしょう(エフェソ一・二一参照)。なお、この組み合わせもコリントT三・二二に見られます。
 
 「いかなる力も」の《デュナミス》(力)も、天界の支配力を指す用語です(コリントT一五・二四)。ここまですべて二項一組で列挙されてきたのに、ここだけがその形になっていません。おそらく、次の「高いところのものであれ深いところのものであれ」という二項一組と一体で、「高いところの力も、深いところの力も」と言おうとしたと見られます。そうすると、「天上の力も、陰府の力も」を意味することになります。
 
 「他のどんな被造物も」とは、天上、地上、地下のいかなる力も、それが被造物であるかぎり、創造者なる神の働きを妨げることはできないという気持ちで、以上に列挙された項目から漏れるものがあっても、それらをすべて含ませるために加えられた表現であると見られます。
 
 これらの諸力は「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」。その愛は、万物の創造者であり支配者である神の愛だからです。その愛をキリストにあって、十字架の下で、聖霊の圧倒的な働きによって、わたしたちは知っています。それゆえ、キリストにあるわたしたちの勝利は確かであり、わたしたちはこのような苦難の現実や霊的諸力の脅威にあっても、「勝ちえて余りがある」と凱歌をあげることができるのです。

 

 ここでパウロはキリストを指すのに、「わたしたちの主キリスト・イエス」という荘重な形を用いています。この句は、キリスト者の信仰告白を凝縮した形であって、パウロは一連の論述を締め括る文の最後に、この荘重な形の告白句を置く傾向があります。第一部もこの句で終わっていましたが(五・一一)、この第二部を締め括る本節の最後にもこの句が置かれることになります。  

 こうして、「今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています」(八・一八)という宣言で始まった、現在の苦難と将来の栄光を対比する論述は、この勝利の凱歌で締めくくられることになります。同時に、この凱歌はここまでのローマ書の全論述を締めくくる凱歌となります。
 
 そもそも存在の根底が愛であることを体験することが人間にとって宗教的体験の究極の境地ですが、わたしたちは、パウロと同じく、その愛を現実の苦難の中で、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」として体験するのです。すなわち、キリストの十字架と復活の出来事により啓示され、聖霊によって注がれる神の愛として体験するのです。このキリストにおける神の愛こそ、信仰の勝利の原動力であり、キリスト者の存在そのものの根源です。
 



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