パウロによるキリストの福音 III

 第一二章 神の恩恵の選び

     ― ローマ書翻訳と講解 12 ―



 第三部 イスラエルの救い


第三部への序言

 第一部(一・一八〜五・一一)で、律法とは無関係にキリスト信仰によって義とされる「信仰の義」を論証し、続く第二部(五・一二〜八・三九)で、キリストにあって罪の支配と律法の拘束から解放されて生きる御霊のいのちの豊かさを描いたパウロは、最後にキリストにおける神の愛の勝利を高らかに歌い上げました。
 
 このようにキリストにおける救いの原理と現実は余すところなく語られたのですが、そのパウロになお深い悲しみと絶え間ない心の痛みがあることを、パウロはここから語り始めます。それは、彼の同胞であるユダヤ人が全体としてはイエス・キリストを受け入れず拒否しているという事実です。ユダヤ人の中にも、十字架につけられたイエスをキリストと信じて告白する者もいますが、大多数はイエスをキリストと認めず、ユダヤ教を代表する指導者層はそう信じて告白するユダヤ人を異端者として追放し迫害しています。パウロも同胞ユダヤ人から激しい迫害を受け、いのちを狙われるまでになっています。
 
 ユダヤ人は神から選ばれた契約の民イスラエルです。この民が救われなければ、神の世界救済の御計画は達成されません。パウロは預言者以来のイスラエルの終末期待を継承しています。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むように招かれ、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。
 
 その御計画の中で、ペトロたちは割礼の者たち(ユダヤ人)にメシア・イエスを宣べ伝え、パウロは無割礼の異邦諸民族をこのメシアの信仰に呼び集める使命を与えられたことを、あのエルサレム会議で確認しました(ガラテヤ二・七〜九)。パウロは自分の使命を「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務める」ことだとしています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています(一五・一六)。パウロはこの使命に応えて、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく(異邦諸民族に)宣べ伝えました」。
 
 ところが、ペトロたちのユダヤ人に対する宣教は受け入れられず、ユダヤ人は全体としてはメシア・イエスに敵対したままです。むしろペトロはアンティオキアから西へ活動を進め、異邦人に福音を宣べ伝えるようになり、ローマまで達したと伝えられています。その過程で、イエスを信じた異邦人に割礼を施してユダヤ教に改宗させなければならないと主張し、パウロの無割礼の福音を批判した「ユダヤ主義者」たちの背後に、その影が見え隠れするようになります。
 
 このようにユダヤ人からは迫害され、ユダヤ人キリスト教徒からも批判されるという状況の中で、パウロは異邦人諸集会から集めた献金をもってエルサレムに行こうとしています。パウロは何としても、自分が異邦人世界で進めている働きの意義をユダヤ人信徒に理解してもらわなければなりません。パウロは、自分が異邦人のために祭司の役を果たしているのは、異邦人が救われることによってイスラエルも救われるようになるためであることを、「神の奥義」として語ります。この奥義としての「イスラエルの救い」が第三部(九〜一一章)を構成します。
 
 第三部は、不信のイスラエルに対する心の痛みを吐露する前置き(九・一〜五)と、神の奥義の大きさを賛美する結び(一一・三三〜三六)に囲まれています。その本体部分は、1神の恩恵の選び(九・六〜二九)、2イスラエルのつまずき(九・三〇〜一〇・二一)、3神の恩恵によるイスラエルの最終的な救い(一一・一〜三二)の三つの部分から構成されていると見ることができます。


神の恩恵の選び (9章1〜29節)


  23  パウロの痛み  (9章1〜5節)

 1 わたしはキリストにあって真実を語り、偽りは言っていません。わたしの良心も聖霊によってわたしに証をしています。 2 すなわち、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶えざる痛みがあります。 3 わたしの兄弟、すなわち肉による同胞のためであるなら、わたし自身は神に呪われた者となり,キリストから離されてもよいとさえ願っているのです。 4 彼らはイスラエルの民であり、子としての身分も、栄光も、諸々の契約も、律法授与も、礼拝も、諸々の約束もみな彼らのものです。 5 父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです。すべてのものの上にいます神は、永遠に誉むべき方である。アーメン。

同胞ユダヤ人のための執り成し

 第二部の最後に高らかに歌い上げた勝利の凱歌とは打って変わった沈痛な調子で、第三部が始まります。おそらくパウロは日を変えて口述を始めているものと思われます。

 パウロは、モーセ律法を冒涜しユダヤ民族を裏切る者として、ユダヤ人から非難され、迫害され、命を狙われてきました。そのような同胞ユダヤ人に対してパウロは、彼らへの愛の真情を吐露します。愛するゆえに、神が遣わされたメシアを拒み、かたくなに神の御計画に背を向ける同胞の将来を、パウロは悲痛な思いで心配します。この同胞ユダヤ人に対するパウロの悲痛な思いが、「深い悲しみ、絶えざる痛み」と語られます(二節)。
 
 自分の心に「深い悲しみと絶えざる痛み」があることを語る自分の言葉は、真実であって偽りでないことを、「わたしの良心も聖霊によってわたしに証をしています」と言って保証します(一節)。人間のもっとも内面の声である「良心」だけでなく、聖霊によって保証された真実の言葉として、同胞に対する「深い悲しみ、絶えざる痛み」(二節)と自分のいのちをかけた執り成し(三節)を述べるのです。これが偽りであれば、自分の良心を裏切るだけでなく、神の霊を欺くことになるとして、その確かさを保証します。

 

 ここの「証をする」《シュンマルテュレオー》は、「良心がわたしと共に証しをする」ではなく、「良心がわたしに証をする」と理解すべきです。この場合、接頭辞《シュン》は「共に」ではなく、強調の接頭辞と理解すべきです。この動詞の用法については、8章16節の注を参照してください。なお、この文で「わたしに」という与格は、「わたしのために」という意味に理解してよいでしょう。 

 そして、自分を迫害する同胞ユダヤ人のために、自分の命を捧げるだけでなく、神からの祝福をも犠牲にして執り成しをします。その気持ちを吐露して、パウロはこう言います。「わたしの兄弟、すなわち肉による同胞のためであるなら、わたし自身は神に呪われた者となり,キリストから離されてもよいとさえ願っているのです」(三節)。
 
 「神に呪われた者」の原語は《アナテマ》です。「アナテマ」というのは、旧約聖書の《ヘーレム》(聖絶)のギリシア語訳で、神から完全に断ち滅ぼされることを意味します。これは、自分が「アナテマ」になっても、同胞が「アナテマ」にならないように祈る究極の執り成しの祈りです。
 
 パウロは「キリストから離されてもよいとさえ願っている」と言っています。パウロにとってキリストはいのちそのものです。キリストを失うことは全世界を失うことよりも深刻です。このような命がけの執り成しの先例としては、金の子牛を造って罪を犯したイスラエルの民のために祈ったモーセの場合(出エジプト記三二・三一〜三二)があります。モーセは、民の罪が赦されないのであれば、自分の名が神の書から消し去られることを求めました。パウロは、キリストを拒否して神の救済に背を向ける同胞に対する執り成しを、モーセと同じように命がけで祈るのです。

 パウロは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われたイエスの言葉を、そのままには伝えていません。しかし、パウロは自分がそのように迫害する者のために執り成しをすることで、身をもってイエスの心を世に伝えています。
 
 パウロはここで同胞ユダヤ人を「イスラエル」という名で呼び、「彼らはイスラエルの民であり、子としての身分も、栄光も、諸々の契約も、律法授与も、礼拝も、諸々の約束もみな彼らのものです。父祖たちも彼らのものであり、キリストも肉によれば彼らから出られたのです」と、イスラエルの民としての特権を列挙します(四〜五節)。
 
 八章までは「ユダヤ人」と呼ばれてきましたが、この第三部(九〜一一章)では、数カ所の例外を除いてすべて「イスラエル」という名で呼ばれています。「イスラエル」とは、神と特別な契約関係にある民であることを示す名であって、ここではユダヤ人は神と特別な契約関係にある民としての面から取り扱われます。ただ、異邦諸民族と対比される場合は、八章までと同じく「ユダヤ人」と呼ばれます(九・二四、一〇・一二 、一一・一一、二〇)。
 
 パウロは、神と特別な契約関係にある民イスラエルとしてユダヤ人に与えられている特権を列挙します。
 「子としての身分」とは、神がイスラエルをご自分の子として扱っておられることを指しています(出エジプト記四・二二、 イザヤ一・二、 ホセヤ一・二、 その他詩編などに多数)。
 「栄光」とは、神が民の中に臨在して顕わされる栄光を指しています(出エジプト記四〇・三四、 列王記T八・一〇〜一一など)。幕屋や神殿に神の栄光が現れただけでなく、歴史の中で驚くべき出来事(たとえば紅海の出来事)を体験し、その中に神の栄光を拝してきました。イスラエルは神の栄光を宿す民としての歴史を歩んできました。
 「諸々の契約」とは、アブラハム契約、モーセ契約(シナイ契約)、ダビデ契約など、イスラエルの歴史の中で神から与えられた様々な契約を指します。イエスの歴史は、神が立てられた多くの契約によって形成されてきました。なお、「契約」を単数形で伝える写本もありますが、その場合はモーセ契約で諸々の契約を代表していると見らます。
 「律法授与」は、モーセによって神がイスラエルに律法を授けられたことを指しています。ユダヤ人はモーセ律法に「知識と真理が具体化している」として、モーセ律法が与えられていることを、他の異邦諸民族にはない特権として誇っていました(ローマ三・一七〜二〇参照)。
 「礼拝」とは、神を礼拝するための祭儀制度の全体を指しています。モーセ律法に基づき形成された祭儀は、異邦諸宗教のように偶像によって汚されていない純粋な祭儀としてユダヤ人は誇っていました。
 「諸々の約束」とは、アブラハムに与えられた子孫と土地の約束、ダビデに与えられた王権の永続の約束、預言者たちに与えられた終わりの日の栄光の約束などを指し、イスラエルはこのような神の約束に基づいて歴史を形成してきました。
 「父祖たち」とは、イスラエルが自分たちの父祖として仰ぐアブラハム、イサク、ヤコブを指し、ユダヤ人はこの「父祖たち」の直系の子孫として、「父祖たち」に与えられた約束と特権を受け継ぐ民であることを誇りにしていました。
 
 このようにイスラエルが神に選ばれた民であるしるしを列挙してきて、最後に最高のしるしとして、キリストもイスラエルの民から出た事実があげられます。「キリストも肉によれば彼らから出られた」のです。神の子として全世界の救い主とされたキリストも、人としてはイスラエルの民の出身です(ローマ一・三参照)。
 
 このように神の民としての特権を列挙してきて、パウロはイスラエルの歴史に思いをいたし、そのような特権を与えてその歴史を導かれた神の栄光を賛美しないではおれなくなります。「すべてのものの上にいます神は、永遠に誉むべき方である。アーメン」(五節)。

 

 「すべてのものの上にいます神」という句は、直前の「キリスト」に続けて、「キリストはすべての上にいます神、永遠に誉むべき方である」と読む読み方と、直前のキリストと切り離して、この私訳のようにイスラエルに以上の栄光を与えた神を讃美すると読む読み方が対立し、議論が続いています。日本語訳では、文語訳と新共同訳が前者(頌栄をキリストにかける訳)、協会訳と岩波版青野訳が後者(キリストと切り離す訳)を採っています。英訳もKJVが前者、RSVが後者、NRSVが前者と揺れています。ここでは頌栄としての文体と、パウロのキリスト論の全体から判断して後者を採ります。 

   24  神の自由な選び (9章6〜18節)

 6 ところで、神の言葉が無効になったのではありません。イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです。 7 アブラハムの子孫がみなその子ではなく、「イサクがあなたの子孫と呼ばれるようになる」のです。 8 すなわち、肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められるのです。 9 約束の言葉とはこうです。「この時期にわたしは来るであろう。そして、サラに息子が生まれているであろう」。 10 それだけでなく、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもったリベカの場合も同じです。 11 というのは、子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、 12 すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために、リベカにこう告げられたのでした。「兄は弟に仕えるであろう」。 13 こう書かれています。「わたしはヤコブを愛した。しかし、エサウを憎んだ」。
 14 では、わたしたちは何と言おうか。神に不義があるのではないか。決してそうではない。 15 神はモーセに言っておられます。「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」。 16 従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです。 17 聖書はファラオにこう言っています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」。 18 こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです。

選びによる神のご計画

 パウロは先行する段落(九・一〜五)で、神に選ばれた民としてのイスラエルが、救済史の担い手としての特権を多く与えられてきたことを述べました。ところが、大祭司に率いられる最高法院は、イスラエルを代表して、イエスを拒否し、神を汚す異端者として処刑しました。このようにイスラエルが、約束によって遣わされたキリストであるイエスを公式に拒否しているのであれば、イスラエルに与えられた神の約束の言葉は無効になるのではないか、という疑問が生じます。

 この疑問は、イエスを約束のメシア・キリストと信じないユダヤ人からパウロ批判の理由にされただけでなく、イエスを信じるユダヤ人の間でも疑念として感じられていたのではないかと考えられます。パウロは、自分が宣べ伝える福音を確立するためには、ユダヤ人が抱くこの疑問に対して明確な解答を与えなければなりません。パウロはこのユダヤ人の疑問を念頭に置いて、「ところで」と切り出します。
 
 パウロは、イスラエルが公式にキリストとしてのイエスを退けたからといって、「神の言葉が無効になったのではありません」と断言します(六節前半)。「神の言葉が無効になる」? そんなことは断じてありません。ユダヤ人にとって、また信仰者にとって、「神の言葉が無効になる」というようなことは、一瞬も想像することはできません。そしてすぐ、その理由として「イスラエルから出た者がみなイスラエルではないからです」と続けます(六節後半)。
 
 たしかに、「イスラエルから出た者がみなイスラエルである」ならば、神の言葉は無効になったと言えるかもしれません。約束されたメシア・キリストであるイエスを公式に退けたイスラエルがイスラエルの全部であるならば、イスラエルに与えられた神の約束の言葉は無効になったと言えるでしょう。しかし、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」のです。すなわち、イスラエルと呼ばれる民の中に、イスラエルでない者がいるのです。むしろ大部分がイスラエルではないのです。しかし、イスラエルの中に神から選ばれて約束の担い手となる者、すなわち真のイスラエルがいて、その選ばれた者において神の言葉が成就するのです。
 
 このように主題を明示した上で、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」という主張を、創世記の父祖たちの物語から引用して論証します(七〜一三節)。
 
 まずアブラハムの場合が取り上げられます。アブラハムの子孫がみなその子ではなく、創世記二一章一二節にあるように、「イサクがあなたの子孫と呼ばれるようになる」のです(七節)。この聖書の言葉を説明して、パウロはこう続けます。「すなわち、肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められるのです」(八節)。アブラハムには何人もの子がありました。まず、エジプト人の女奴隷ハガルとの間に生まれたイシュマエル、次に正妻サラが産んだイサク、さらにサラが亡くなった後にめとった妻ケトラとの間に六人の子がありました(創世記二五・一〜二)。その中で、イサクだけが「神の子」、すなわち神が約束された資産を受け継ぐ嫡子(「子孫」《スペルマ》という語が用いられています)と認められたのです。「肉の子」、すなわち男女の通常の営みによって生まれた他の子たちは、アブラハムから出た子であっても、神の約束を受け継ぐ「神の子」とは認められませんでした。 

 

 イスラームでは、イシュマエルの方がアブラハムの長子であり、イシュマエルの子孫であるアラブの民がアブラハムの信仰の真の継承者であるとされます。

 イサクは「肉の子」ではありませんでした。サラは不妊の女であったので、アブラハムとサラの間では通常の男女の営みでは子が生まれませんでした。ところが、主がアブラハムを訪れて与えられた約束によって男の子が生まれたのです。そのことは創世記一八章に詳しく物語られていますが、パウロはその中で「この時期にわたしは来るであろう。そして、サラに息子が生まれているであろう」(創世記一八・一〇と一四)という、主がアブラハムに与えられた約束の言葉だけを引用して、イサクが「約束の子」、すなわち約束によって生まれた子であることを、ユダヤ人に思い起こさせます(九節)。
 
 「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」ことを、アブラハムの場合で示したパウロは、続いてイサクの場合を取り上げます。「それだけでなく、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもったリベカの場合も同じです」(一〇節)。リベカはイサクによって双子の男の子を産みました。イサクとリベカの場合も、通常の営みでは子ができなかったのですが、イサクの祈りに主が応えて、リベカが身ごもるようになりました。リベカが、胎内で押し合う子供を感じて、主に御心を尋ねると、主は言われました。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるであろう」。こうして、先に生まれたエサウが兄とされ、後に出てきたヤコブが弟となります(創世記二五・一九〜二六)。
 
 パウロはこの創世記の記事をこう解釈します。「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、選びによる神のご計画が貫かれるために、すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために、リベカにこう告げられたのでした。『兄は弟に仕えるであろう』」(一一〜一二節)。
 
 ギリシャ語訳旧約聖書のリベカに告げられたお言葉を直訳すると、「大きい方が小さい方に(奴隷として)仕えるであろう」となります。聖書では、神はいつも大きい者、強い者よりも、小さい者、弱い者を、また先の者よりも後の者を約束の継承者として選んでおられます。それは、神の前に人間が誇ることがないようになるためです(コリントT一・二六〜三一参照)。
 
 二人は同じ父、同じ母から生まれています。血統の上ではまったく区別はありません。さらに、兄のエサウが退けられて、弟のヤコブが約束の継承者として選ばれたのは、「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時」でした。すなわち、それは神がその御計画を成し遂げるために働かれる時、人間の血統や素性、行動や善悪の価値は何の関係もないことを示すためです。神は御自身の「選びによるご計画」を貫かれます。神は異教徒のクロス王を用いて、民の解放を成し遂げることもされます。エサウとヤコブの物語は、神の自由な選びによる御計画の実現を示す典型的な物語となります。
 
 さらに、聖書を引用して論証するさい、律法(モーセ五書)と預言者の両方からするラビの習慣に従い、パウロも創世記だけでなく、預言者マラキの「わたしはヤコブを愛した。しかし、エサウを憎んだ」(七十人訳マラキ一・二〜三)という言葉を引用します(一三節)。
 
 エサウはユダヤの南の地域に住むエドム人の名祖です(創世記二五・二五、三〇)。この預言者マラキの言葉は、ヤコブを名祖とするイスラエル(ユダヤ人)が約束を受け継ぐ者として神に選ばれ、エサウを名祖とするエドム人は神から退けられたと主張するユダヤ教イデオロギーの表現ですが、パウロはこの差別イデオロギーの標語にもなりかねない表現を、人間の側には何の根拠もない、神の自由な選びを示す言葉としてあえて用います。逆に言えば、このような聖書の言葉は、パウロがしているように、人間の側の条件を問わない神の恩恵の表現としてのみ受け取るべきであって、その文脈から切り離して神の名によって民族差別を正当化する言葉としてはならないことに留意すべきです。

神の絶対主権

 このエサウとヤコブに対する神の扱いを聞くと、多くの者が不審の思いを抱きます。人が何もしていないのに、ある者を愛し他の者を憎むというのは恣意であって、そのような恣意をもって人を扱う神に不義があるのではないかという疑問が生じます。この疑問をパウロは進んで取り上げ、「では、わたしたちは何と言おうか。神に不義があるのではないか」と自ら問いを出し、「決してそうではない」と断言します(一四節)。その上でその根拠を、やはり聖書を引用して説明します。

 「神はモーセに言っておられます。『わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう』」(一五節)。 引用は出エジプト記三三章一九節からです。「神に不義があるのではないか」という疑問は、人間の側の基準で神を判断しているから起こるのです。この人間の側の基準で神を見ることから起こる疑問に、人間的な正義の論理をもって答えるのではなく、パウロは神と人との関係の本質を示すことで答えます。「わたしは自分が憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を慈しむであろう」という言葉は、神と人間との関係における神の絶対的な主権を表現しています。神が行動されるとき、人間の側の状況に制約されることはいっさいありません。それが神が神であることの当然の姿です。人間は神の働きかけを受ける側であって、神の働きにあれこれ条件をつける立場ではありません。
 
 このことをパウロは次節の言葉でこう表現します。
 「従って、意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神によるのです」(一六節)。神が働かれるとき、そこに人間の意志や努力が関与することはありません。神が働いてある出来事が起こるとき、それは人間の側の意志や努力に応えて神が働かれるのではなく、神が憐れみによって、すなわち人間の側の意志や努力、条件や資格を問わないで、神が無条件に御自身の憐れみ(恩恵)を貫くために行動される結果です。
 
 一方、聖書はファラオにこう言っています。「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全地に告げ知らせるためである」(一七節)。引用の言葉は出エジプト記九章一五節からです。この言葉は主が直接ファラオに語られたのではなく、ファラオにこう語るようにモーセに命じられた言葉です。この言葉は、主の言葉に対するファラオの頑なな拒否も、主の御力と御名を世界に現すために、主が欲しられた結果であることを示しています。
 
 当時エジプトの王ファラオは全世界で最高の権力をもつことを誇っていました。その権力も主が与えられたものですが、主がそのような大きな力をファラオに与えられたのは、モーセを通して働かれる主の力がさらに大きいことを示して、主の名の栄光を全世界に知らせるためであるというのです。
 
 この旧約聖書の言葉が示しているように、すでにイスラエルの信仰も、エジプトで自分たちを苦しめたファラオの暴虐はイスラエルの神の力と栄光を全世界に示すためであるという理解に達していました。パウロはこの理解を継承していますが、さらに一歩進めて、ファラオが最後までモーセの要求を拒み続けた頑なさも、主の力を現すために、主がそうされた結果であるとします(次節)。
 
 以上、聖書から二つの事例(ヤコブの選びとファラオの頑なな拒否)を引用して、パウロが言おうとしていることの結論が提示されます。「こうして、神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです」(一八節)。双子の兄弟の中で弟のヤコブを約束を受け継ぐ者として選ばれたのは、神の憐れみ(恩恵)でした。そして、ファラオの心を頑なにしたのも、神がご計画を進めるためにファラオを選ばれた結果でした。
 
 パウロは、聖書に記録された救済の歴史の中に、神の絶対的な主権を見ています。ここで「絶対」というのは「相対」の反対、すなわち相手の状況(資格や条件)に絶しているという意味です。この神の絶対主権を示す本節の言葉によって、人間の側の基準で神を測ろうとする「神に不義があるのではないか」という問いそのものが退けられます。この神の絶対主権はすべての神・人間関係の本質です。
 
 イスラエルは苦難に満ちた歴史の中で、身をもってこの神の絶対主権の事実を学ぶことになります。パウロは次の段落で、このことを語る預言者の言葉を引用して、さらに彼の議論を補強します。


   25 憐れみの器と怒りの器 (9章19〜29節)

 19 すると、あなたはわたしに言うでしょう。「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」。 20 ああ、人よ。神に言い逆らっているあなたは、いったい何者なのか。形作られたものは、形作った者に対して、「なぜわたしをこのように形作ったのか」とは言わないであろう。 21 粘土を用いる陶器師は、同じ塊から一つを尊いことに用いる器に、一つを卑しいことに用いる器に造る権限を持たないでしょうか。 22 ところで、もし神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲しつつも、滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、 23 それも、栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば、どうでしょうか。24 この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召されたのです。 25 ホセアによって神が言われた通りです。
  「わたしは、わたしの民でない者を
   わたしの民と呼び、
   愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
26『お前たちはわたしの民ではない』と
  彼らに言われたその場所で、
  彼らは生ける神の子らと呼ばれる」。
27 ところで、イザヤはイスラエルについてこう叫んでいます。
  「イスラエルの子らの数が
  海辺の砂のようであっても、
  残りの者が救われることになる。
28 主は御言葉を完成しつつ、
  切りつめて地上に行われるからである」。
29 また、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。
  「もし万軍の主が子孫をわたしたちに
  残されなかったら、
  わたしたちはソドムのようになり、
  ゴモラのようにされたことであろう」。

形作られた者の立場

 パウロは先の段落(九・六〜一八)で、神のご計画が人の働きによるのではなく、神の主権的な選びよって貫かれることを示し、その結論として「神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです」(一八節)と述べました。「すると」人間の論理からして、当然次のような問いが生じるという抗議を、パウロは進んで取り上げ、それに答えるという形で議論を進めます(一九節以下)。

 「すると、あなたはわたしに言うでしょう」(一九節前半)というときの「あなた」は、このように神の絶対主権を述べるパウロの言葉に対して抗議する人間一般を代表する「あなた」です。人間の論理で考えるならば、誰でもそう反論せざるをえないという意味で使われている「あなた」です。
 
 「神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされるのです」というような宣言を聞くと、人間の論理は当然、「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」(一九節後半)と抗議の問いを提出せざるをえません。もし人間が神に対して責任を取るべきであるとするならば、それは神に対して人間がしたことや取った態度についてであって、何もしていないときに神が選び定めた役割によって「責められる」、すなわち責任を問われるのは不条理だという抗議です。これは人間の責任の倫理と論理からすれば当然のことです。神の独占的な権能と支配は人間の責任を無意味にするのではないかという抗議です。
 
 この当然の抗議に対して、パウロは人間の論理で答えません。それは答えることができないものです。パウロはその問いに正面から答えたり、その問いが間違いであり不条理であることを示して対抗するのではなく、その問いが出てくる立場そのものの間違いを指摘することで、このアポリア(矛盾、行き詰まり)を乗り越えます。実は、イエスと批判者との間の問答でも、イエスは批判する者たちの問いが出てくる立場そのものの誤りを指摘して答えておられる場合が多々あります。
 
 この抗議の問いにパウロは答えます、「ああ、人よ。神に言い逆らっているあなたは、いったい何者なのか。形作られたものは、形作った者に対して、『なぜわたしをこのように形作ったのか』とは言わないであろう」(二〇節)。
 
 この抗議の問いは人間としては当然であることをパウロは理解しています。それで、このように抗議せざるをえない人間そのものに答えるために、「ああ、人よ」と呼びかけます。人間としてその抗議は当然かもしれない。しかし、それは「神に言い逆らっている」ことになるのだ、とパウロは指摘するのです。もし人間が神と対等の立場に立つ者であるならば、この抗議は当然かもしれません。しかし、人間は神によって形作られた者、神の被造物です。形作られたものは、形作った者に対して、「なぜわたしをこのように形作ったのか」と言う立場にはありません。人間は神に対してその行動に注文をつける立場にない以上、「なぜわたしをこのように形作ったのか」と、神の行動に注文をつけたり、神に行動の釈明を求めている(責任を問う)この抗議の問いかけは、「神に言い逆らっている」ことになります。

 

 二〇節後半の「形作られたものは、形作った者に対して、言わないであろう」という言葉は、イザヤ二九・一六、四五・九、六四・八、 エレミヤ一八・六など、預言者によく出てくる表現です(パウロは七十人訳ギリシャ語のイザヤ二九・一六の文をそのまま用いています)。この思想は「ソロモンの知恵」(知恵の書一五・七)のような知恵文学やエッセネ派の死海文書(宗規要覧一一・二二)などにも引き継がれています。 

 

陶器師の比喩

 このことをパウロは陶器師の実例を用いて説明します。「粘土を用いる陶器師は、同じ塊から一つを尊いことに用いる器に、一つを卑しいことに用いる器に造る権限を持たないでしょうか」(二一節)。
 この言葉を聞けば、聖書に親しんでいるユダヤ人であれば、すぐに預言者エレミヤの体験を思い起こすはずです。それはエレミヤが主の命令で陶工の仕事場に行ったときの体験です。
 
 「わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。『イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある』」(エレミヤ一八・三〜六)。
 
 エレミヤの場合、陶器師の作業が見せられたのは、主が御自身の民として選び導かれたイスラエルの民も、主が御心を成し遂げるためには、壊し打ち捨てることもできる立場であることを示すためでした。それは、イスラエルに対する主の審判の比喩でした。
 
 しかし、この陶器師の比喩は、後の時代に形成されたイスラエルの知恵思想において、神と人間の関係に一般化されて、創造者である神と被造物である人間の関係を指し示す比喩となりました。たとえば、パウロの時代の少し前(前一世紀中頃)に成立したとされる「ソロモンの知恵」(新共同訳続編では「知恵の書」という名で収録されている)に次のような言葉があります。
 
 「焼き物師は労苦して粘土をこね、生活に役立つものを一つ一つこしらえる。同じ材料の土から、高尚な用途のための器と、そうでない器とが同じように造られる。それら一つ一つの用途を決めるのは、焼き物師自身だ」(知恵の書一五・七)。
 
 パウロはこの「知恵の書」の思想をほとんどそのまま受け継いで用いています。パウロは律法学者として当然「トーラー」(モーセ五書)と「預言者」に詳しかったのですが、それだけでなくヘレニズム期に形成された知恵文学にも深く通じていたようです。それは、すぐに見ることになる二二〜二三節にも表れています。
 

 

怒りの器に対する神の寛容

 こうして、陶器師の比喩を用いて、「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」という抗議が、被造物である人間の創造者なる神への不当な(自分の立場を忘れた)「言い逆らい」であることを示したパウロは、この陶器師の比喩をさらに展開して、ここで主題となっているユダヤ人と異邦人の救済史における関係に説き及びます。

 「ところで、もし神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲しつつも、滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、それも、栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば、どうでしょうか。この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召されたのです」(二二〜二四節)。
 
 二二〜二三節は「もし神が〜とすれば」という条件とか仮定を示す文だけで終わっています。この文は、先行する二一節の「(神は陶器師のように自分の欲するままに)器を造る権限を持たないでしょうか」という主張を受けて、それを不公平とか不義とする抗議を封じるためです。すなわち、怒りの器として定めた者に対しても寛容をもって対し、すべて恩恵をさらに豊かにするために意図されているとすれば、それでもなお抗議することはできるであろうか、と続きます。その意味の流れを、この訳では「どうでしょうか」という句を補うことで示しています。
 
 神が「滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれた」というのは、悔い改めの機会を与えるために審判の時を遅らせる神の態度を指します(二・四、三・二六参照)。この思想は、パウロの時代の黙示文学や知恵文学などのユダヤ教文書によく現れますが(たとえば知恵の書一一章二三〜二六節、一二章)、そこでは滅びに定められた異教徒の悔い改めを待つ神の寛容(忍耐)を指しています。その神の寛容を、パウロはイエス・キリストを拒否する不信のユダヤ人に適用するのです。
 
 「怒りの器」とは、アッシリヤ、バビロン、ローマのように、イスラエルに対する神の怒り(審判)を代行する道具という意味ではなく、先に出てきたファラオのように、「神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲し」、神の審判の実力を世界に示す役割を担わされた者を意味します(一七節)。パウロは福音を拒否する大部分のユダヤ人をそのような「怒りの器」と規定します。神が遣わされたメシアを拒否したユダヤ人は、やがて神の怒りを身に招き、厳しい審判を受けることにならざるをえません。公式にイエスを拒否した現在のユダヤ人は、この「怒りの器」の役割を担わされていることになります。しかし、今神はそのユダヤ人を「大いなる寛容をもって耐え忍び」、悔い改めに導こうとされているとすれば、どうして「なぜわたしをこのように形作ったのか」などと神に言い逆らうことができようか、と一九節の抗議への反論を前進させます(二二節)。

 

憐れみの器としての異邦人

 この「神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲して、滅びに定められた怒りの器」に対して、「栄光のために準備された憐れみの器」があります(二三節)。「憐れみの器」とは、神の憐れみによって選ばれ、神の憐れみによって生きることにより、神の憐れみの質を世界に示す役割を担う者です。ここで「憐れみ」は、資格のない者に無条件で注がれる神の好意を指し、「恩恵」と同じです。神は御自身の栄光を世界に示すために、特別の民を用意されますが、その民は神の憐れみ(恩恵)によって選ばれ、神の憐れみ(恩恵)によって生きる民です。地上の人間の中で、誰が神の栄光を現すにふさわしい資格がある者がいるでしょうか。もし「栄光のために準備された憐れみの器」が、神の栄光の豊かさを世界に現すことができるとすれば、それは自分自身の立派さによるのではなく、資格のない自分を憐れみ(恩恵)によって御自身の栄光にあずからせてくださっているという神の恩恵を賛美する他はありません。
 
 「それも、栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであった」(二三節)は、二二節の神の寛容が何のためであるのか、その意図を示す文(副詞節)になっています。滅びに定められた怒りの器に対する神の寛容の大きさ(二二節)は、彼らが悔い改めて憐れみの器となったときに、神の栄光(恩恵)の豊かさを示すためであった(二三節)という意味でつながっています。この思想は一一章二八〜三二節で詳しく展開されることになりますが、ここで先取りされて簡潔に述べられることになります。

 

 二三節は「そして」で始まり、全体が二二節の「神が耐え忍ばれた」ことの意図を示す副詞節になっていますが、そこでの「憐れみの器」を(将来に憐れみの器となることになるユダヤ人ではなく)現在憐れみの器として選ばれているキリストの民を指すと理解して、現在神が怒りの器であるユダヤ人を直ちに滅ぼすことをしないで耐えておられるのは、キリストの民に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであるとする解釈もありえます。その場合、二三節は二二節と並行するもう一つの条件文となり、「しかも、それが栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば」と訳すことになります。この場合、現在怒りの器とされているユダヤ人は、憐れみの器であるキリストの民にとって、神の栄光の豊かさを例示する教材となります。神が偶像礼拝の異邦人を直ちに滅ぼされないで忍耐しておられるのは、選ばれた民であるイスラエルに神の恵みの豊かさを示すためであるというユダヤ教の思想を、パウロは逆転して用いていることになります。二三節をどちらに理解しても、神の救済史が「恩恵の選び」の原理によることを示すことには変わりはありません。 

 「憐れみの器」のことを述べたパウロは、今「わたしたち」、すなわちキリストの民が「憐れみの器」とされている事実に思いをいたし、「この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召されたのです」(二四節)という奥義を述べます。
 
 ユダヤ教ではイスラエル(ユダヤ人)が憐れみの器であり、異邦諸民族は怒りの器とされていました。異邦人が憐れみの器の中に招き入れられたとするのは、ユダヤ教徒の常識をくつがえす思想です。パウロは異邦人への使徒として働き、異邦人をイエス・キリストによる新しい契約の民として招き入れてきました。このキリストの民こそ、神の救済の御計画を担う「憐れみの器」ですが、今やその民は本来の約束の受領者であるユダヤ人だけでなく、約束とは無縁であった異邦人をも含むことになったのです。このユダヤ教徒の常識をくつがえす奥義を(とくにユダヤ人に)納得させるために、パウロは聖書を引用します。聖書がこのことを予め語っているのです。

 

聖書による論証

 まず、「憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召された」ことを、聖書によって根拠づけるために、パウロはホセア書から二箇所引用します。

 「わたしは、わたしの民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」(二五節)は、七十人訳ギリシャ語聖書のホセア書二章二五節からの引用です。
 
 「『お前たちはわたしの民ではない』と彼らに言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(二六節)は、七十人訳ギリシャ語聖書のホセア書二章一節からの引用です(これはヘブライ語聖書とはかなり違っています)。
 
 二五節も二六節も、ホセア書本来の文脈では、主との契約に背いて主の民でなくなったイスラエルが、将来再び主の民と呼ばれるようになることを預言したものです。パウロはその預言を、主の民ではないとされていた異邦人が主の民になることの預言として引用します。聖書の言葉を、本来の歴史的文脈から切り離して、その文言だけを現在の理解の根拠として引用する仕方は、当時のラビたちの通例でした。
 
 歴史的文脈は違っていますが、霊的原理は同じです。ホセアにおいては、ヤハウェに背いて「わたしの民ではない」と言われたイスラエルが、再び「わたしの民」と呼ばれるようになるのは、主の憐れみによるのです(ホセア二・二五、一一・八、一四・四)。ホセアは、姦淫によって背き去った妻への愛情に重ねて、背くイスラエルに対する主の憐れみを語るように召された預言者でした。パウロは、主の民でなかった異邦人が主の民とされるところに、ホセアと同じように主の憐れみを見て、預言者ホセアを引用します。
 
 さらに、現在ユダヤ人の大部分が不信仰のために排除されて、憐れみの器として残るのはごく一部であることを、イザヤ書から二箇所引用して根拠づけます。
 
 「イスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われることになる。主は御言葉を完成しつつ、切りつめて地上に行われるからである」(二七〜二八節)は、イザヤ書一〇章二二〜二三節からの引用です。

 

 パウロはこのイザヤ書の文を七十人訳ギリシャ語聖書から引用するにさいして、かなりの語句を省略しています。省略された部分を補っている写本もあって、写本間の異同も大きいようです。さらに、パウロがこのような形で聖書を引用している意義についても解釈が分かれています。とくに「切りつめて」と訳した分詞形の意味が争われています。時間的に理解して、「速やかに」と解釈することもできますが(新共同訳)、「全員ではなく一部の者に」という意味にも理解することもできます(EKK)。ここでは残りの者だけが救われることを理由づける文の中で用いられているので、後者が適切であると考えられます。 

 「もし万軍の主が子孫をわたしたちに残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたことであろう」(二九節)は、イザヤ一章九節(七十人訳)からの引用です。
 
 このイザヤ書からの二箇所の引用は、「残りの者だけが救われる」というイザヤの預言によって、「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」(六節)という主張を根拠づけるところに眼目があります。「イスラエルから出た者がみなイスラエルではない」のだから、現在大部分のユダヤ人がイエスを拒み、「怒りの器」となっているとしても、その事実は「神の言葉が無効になった」ことを意味しないとパウロは主張してきましたが、その前提を預言者の言葉によって根拠づけることになります。
 
 イザヤの「残りの者」の預言には、「憐れみ」という語は出てきませんが、主に背いたために本来ならばすべて滅びるべきイスラエルに、なお「残りの者」が残されるのは、主の憐れみによるものです(一一・五参照)。イザヤは、「もし万軍の主が(憐れみにより)子孫をわたしたちに残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたことであろう」と言っているのです。パウロは、神がキリストとして遣わされたイエスに背くイスラエルの中に少数ながらイエスを信じるユダヤ人が残されていることに、イザヤと同じく神の憐れみを見ています。パウロがイザヤの預言を引用するとき、ここにも神の憐れみによるという動機を見落としてはなりません。

 

エルサレムに向かっての議論?

 このように、パウロは自分の主張を聖書の引用によって根拠づけていますが、この論法は読者が聖書の権威を認めている者でなければ通用しません。パウロがこのローマ書全体で自分の主張を聖書の言葉で論証していることはすでに見てきた通りですが、その事実はパウロが語りかけの対象としておもにユダヤ人を念頭において書いていることを示しています。
 
 その聖書で根拠づける論法は、この第三部(九〜一一章)でとくに目立ちます。パウロはこのイスラエルの救いを語る第三部で、異邦人の使徒としての自分の働きがイスラエルの救いにとって重要な意義をもっていることを、ユダヤ人に理解してもらいたいのです。ローマの集会はユダヤ人と異邦人の両方が含まれる集会であり、異邦人の使徒としての自覚をもって、パウロは異邦人信徒に語りかけています(一・五)。しかし、ローマ書の内容と議論の進め方は、ローマの集会で指導的な立場にあるユダヤ人に、自分が主張する「律法の外の神の義」を理解してもらいたいというパウロの切実な思いを示しています。とくにこの第三部にそのようなローマ書の性格が強く出ています。
 
 パウロはこの手紙をエルサレムに向かって船出する直前にコリントで書いています。パウロの心は、西の帝都ローマを望みながら、同時にはるか東のエルサレムにも向かっています。エルサレムの教団が自分を受け入れてくれるかどうかという不安の中で、受け入れられることを切に祈りながらこの手紙を書いています(一五・三〇〜三一)。パウロはどうしても、異邦人の使徒としての自分の働きがイスラエルの救いにとって重要な意義をもっていることを、とくにエルサレムのユダヤ人教団に理解してもらいたいのです。パウロはユダヤ人の共通の基盤である聖書を論拠にして、その意義を熱く語るのです。とくにこの第三部は、この視点から理解しなければならないと考えます。

 

 ローマ書の執筆事情については、序章の「福音書としてのローマ書」を参照してください。 

恩恵の表現としての選び

 この神の選びを語る二つの段落(九・六〜二九)は、ほとんどみな聖書からの物語と引用で埋められています。しかし、その中でパウロが聖書の物語や聖句につけている解説の言葉を抜き出して並べてみると、神の選びについてのパウロの理解が見えてきます。聖書物語にちりばめられたパウロ自身の言葉を抜き出して並べてみましょう。
 
 「肉の子が神の子であるのではなく、約束の子が子孫と認められる」(八節)。
 「子供がまだ生まれてもおらず、善も悪もまだ何もしていない時に、すなわち、人の働きによるのではなく、召された方によってご計画が貫かれるために」(一一〜一二節)。
 「意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神による」(一六節)。
 「神は御自身が欲する者を憐れみ、欲する者を頑なにされる」(一八節)。
 「ああ、人よ。神に言い逆らっているあなたは、いったい何者なのか」(二〇節)。
 「もし神が怒りを示し、御自身の力を知らせようと欲しつつも、滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍ばれたとすれば、それも、栄光のために準備された憐れみの器に御自身の栄光の豊かさを知らせるためであったとすれば、どうでしょうか」(二二〜二三節)。
 「この憐れみの器として、神はわたしたちをユダヤ人からだけではなく異邦人からも召されたのです」(二四節)。

 こうして並べてみると、選びに関するパウロの理解の基本線が見えてきます。パウロによると、神と人との関わりの形成は、人間の側の意志や努力によるのではなく、無条件の恩恵をもって人を扱われる神の働きによるだけである、ということになります。これは、「意志する者や努力する者ではなく、憐れまれる神による」(一六節)という言葉にもっともよく表現されています。さらに、パウロ自身が用いている表現によって標題をつけるとすれば、「恵みの選びによって」(協会訳一一・五)、すなわち「恩恵の選びによって」ということになります。神と人との関わりとか神の救済の働き(救済史)は、すべて「恩恵の選びによって」起こるのです。
 
 この二つの段落で、パウロは聖書の用語に従って「憐れみ」という語を多く用いていますが、それは人間の側の資格や条件を問わないで好意を注ぐ神の「恩恵」のことであることは、先に見たとおりです。したがって、ここでもパウロの福音の根底をなす「恩恵の支配」が宣言されていることになります。第一部の「信仰による義」もこの「恩恵の支配」の帰結であること(四・四〜五)、また第二部のキリストにあるいのちの世界も「恩恵の支配」の結果であること(五・二一)は先に見たとおりですが、この第三部でも、救済史における神の選びに「恩恵の支配」が貫かれていることになります。
 
 ところで、「選び」というと、ここでパウロがしているようにヤコブとエサウの場合が典型的な実例として取り上げられ、神の約束を受け継ぐ者と除外される者が、生まれる前から神によって決定されていることを意味すると受けとられることが多いようです。このような理解は「二重予定説」(救われる者と滅びる者が神によって予め定められているという教理)となって、キリスト教の歴史の中でずっと問題になってきました。このような理解の仕方については、つねに「では、なぜ神はなおも人を責めるのか。誰が神の意向に逆らうことができようか」という抗議とか疑念がつきまといました。ここで、「選び」とか「予定」とは何を意味するのかを、改めて考えておきたいと思います。
 
 パウロは、今キリストに属する者となっている者たちは神に選ばれてキリストの民となっているのだと語っています(テサロニケT一・四、コリントT一・二七、ローマ八・三三)。自分たちは神に選ばれた民であるという自覚は、神の選びはヤコブとエサウの場合のように生まれる前からであるという理解によって深められ、さらに天地創造の前から定められたことであるというまでになります。それは、後にパウロ系の共同体で成立したと見られるエフェソ書に典型的に表現されています。
 
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ一・四〜五)。
 
 ところで、この聖句はしばしば、今キリストにあるわたしたちが神の子であるのは天地創造の前から定められていた(予定されていた)ことであるとすると、イエス・キリストを受け入れずエクレシアの外にいる者たちは、同じ神の定めによって天地創造の前から滅びに定められていることになる、という意味に理解されて、二重予定説の根拠とされてきました。しかし、それは誤解です。大きな誤解です。それは、パウロが神の選びを語るとき、いつもそれを恩恵の働きとして語っていることを見落としている大きな誤解です。
 
 ここで見たように、パウロは「選び」という神の独占的権能を語るさい、つねに「憐れみ」という語を用いて、神の選びは恩恵の表現であることを語ってきました。「神は御自身が欲する者を頑なにされるのです」という、一見神が滅びに定められた者があると理解されるような言葉も、それは「滅びに定められた怒りの器を大いなる寛容をもって耐え忍」び、「神の栄光(恩恵)の豊かさを現すため」であると語られています。
 
 このようにキリストにある者が、神の選びを語るとき、つねにそれを恩恵の出来事として語らざるをえないのは、自分が救われて神の子とされるのに自分の側に何の資格も価値もないことを深く自覚しているからです。自分の側に何の理由もないのであれば、多くの人の中で今自分がこうして神の子であるのは、神が選ばれた結果であるとしか言えません。「選び」の信仰は、自分が恩恵によって救われていること、自分の側に何の根拠もないことを告白する一つの形です。
 
 ところで、救われる者は神によって予定されているという予定説と対立するものに「万人救済説」があります。これは、神は愛であるから、最終的にはすべての人間は救われるのだとする説です。この二つの説は相容れないものとして、ずっと論争されてきました。しかし、「万人救済説」も、恩恵の支配を告白する一つの形なのです。自分のような無価値な者が救われたのであるから、世界に救われない者があるはずがない、もしあるとすればそれはわたしである、という徹底的な無の場に自分を置くとき、自分を救った神の絶対的な恩恵はいかなる人間をも救うはずだという思想になります。
 
 選びとか予定の思想も、万人救済の思想も、根っこは同じです。それは恩恵によって救われているという一人ひとりの主体的・霊的体験から出るのです。それが思想として語られるとき、人間の言葉がもつ論理的制約から、このように矛盾する思想となって現れてきます。わたしたちは、思想とか論理の矛盾に気を取られて、その根底にある霊的現実を見逃すことがあってはなりません。この二つの段落で語られていることも、神が「恩恵の選びによって」行動されることを描いているのです。「神は御自身が欲する者を頑なにされる」ことも、結局は「すべての人を憐れむため」であるのです(一一・三二)。神の選びは恩恵による選びであり、神の恩恵を現すためであるのです。
 
 



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