パウロによるキリストの福音 III


 第四部 実践的勧告


第四部への序言

 パウロはこれまでの手紙においても、まずキリストにあってわたしたちが受けている救いの現実がどのようなものであるかを語った後で、その救いにあずかっている者としてどのように歩むべきかという実際的な勧めをするのが普通でした。まず福音の提示があり、その後に実践的な勧告が続くというパターンです。このローマ書も、その基本的なパターンに従っています。
 
 パウロは、第一部(一・一八〜五・一一)で信仰による義を主張し、第二部(五・一二〜八・三九)でキリストにあって御霊の命に生きる現実を語り、第三部(九〜一一章)でイスラエルと異邦人からなる救済史の奥義を示しました。そのすべてにおいて「恩恵の支配」という原理が貫徹していました。そのように福音の提示をすべて終えて、最後にこのキリストにあって生きる者たちが、「恩恵の支配」の下でどのように歩むことになるのか、その実践的な勧告に入ります。その勧告が第四部(一二・一〜一五・一三)を構成します。
 
 勧告は大きく二つの部分に分かれます。第一はキリストにある者の歩みについての一般的勧告(一二章と一三章)、第二はローマ集会の特殊な状況に向けられた勧告(一四章と一五章一三節まで)となります。




 第一五章 かたちを変えられて 



  32  霊的礼拝 (12章1〜2節)

 1 そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます。あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です。 2 あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられて、意識を新たにし、何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

霊的礼拝の実現

 使徒パウロは、キリストにおける神の救済の働きをすべて語り終えて、「そこで」という語でこれまでに述べたことを受けて話題を転換し、以上に述べたように恩恵によって救われ、御霊によって生かされているのであるから、このように歩みなさいという実際的な勧めを語り始めます。最初に、キリストに属する者としての歩みの基本原理が述べられます(一〜二節)。
 
 最初に「兄弟たちよ」と呼びかけ、次に「わたしはあなたがたに勧めます」という言葉が来ます。以下の「あなたがたは〜しなさい」は、命令ではなく勧告です。すなわち、それに従うことによって、聖霊による喜びと希望をますます堅くすることができるようになるのであるから、このように歩みなさいという勧めです。
 
 その後に「神の憐れみによって」という句が続きます。文法的には、(原文では)直前の「勧める」という動詞を修飾するか、直後の「献げる」という動詞を修飾するか、どちらの読み方も可能です。パウロの用例(たとえばコリントU一〇・一)と内容から、(ほとんどの現代語訳がしているように)「神の憐れみによって勧めます」と読みます。その場合、「神の憐れみを受けている者として」とか、「神の恵みによって使徒とされた者として」という意味に受け取ることもできますが、ここでは「(わたしたちに注がれた)神の憐れみ(恩恵)に基づいて」という意味に理解します。すなわち、これから述べる勧告はすべて、わたしたちが神の恩恵によって救われているという事実から出るものであるという意味です。

 

ここで「憐れみ」と訳している語は、ルカ福音書(六・三六)で父が「憐れみ深い」と言われているのと同系の語です。 

 その勧告の第一、すなわち恩恵によって救われている者としてなすべきことの根本は、わたしたちの「身体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」ことです。恩恵による救済から出てくるのは、何か新しい倫理思想というようなものではなく、この身体をもってする具体的な生き方、この身体の扱い方です。
 
 イスラエルの民はエルサレムの神殿で、異邦人は異教の宮で、それぞれ犠牲を献げて神を礼拝しましたが、キリストの民はもはやそのような犠牲を献げることはありません。自分の身体を神への犠牲として献げます、すなわち身体をもってする全生活を神に献げるのです。神殿や宮では死んだ動物が犠牲として献げられますが、キリスト者は自分の「生きた」身体をそのまま神に献げます。
 
 「聖なる」とはもともと神のために別に取っておかれたという意味ですが、キリスト者にとっては全生活が神のために取っておかれるものでなければなりません。また、その献げものが神に喜ばれるためには、神の御心に適うものでなければならないのですから、次節(二節)の勧告が続くことになります。
 
 その内容を示す前に、このように「身体を生きたいけにえとして献げる」ことが、キリストに属する者が行う「霊的な礼拝」であると言われます。

 

 「霊的な」という形容詞は、《ロゴス》の形容詞形であり、本来「理性的な」という意味の語です。しかし、この語は、ギリシャ語を用いる哲学や宗教の世界で、祭儀を霊的に解釈することを表現するのに用いられるようになっていました。ここはその典型的な用例の一つです。同じことがペトロT二・五では「霊的な」(《プニューマ》の形容詞形)という語を用いて表現されています。

 「礼拝」(worship)とか「神奉仕」(Gottesdienst)というのは、わたしたちが現在「宗教」と呼んでいる営みのことです。「宗教」には必ず祭儀があります。様々な供え物や犠牲を捧げる行為だけでなく、賛歌や祈祷や経典の朗誦などを捧げることも含めて、祭儀によって自分たちが依存する超越者(ふつう神と呼ばれる)に仕え、その超越者との関わりを確保しようとします。祭儀はほとんど礼拝とか宗教と同じです。
 
 わたしたちキリストに属す者たちは、神殿とか寺院というような特別の場所で祭儀を行うことによって神を礼拝するのではなく、この身体をもってする日常の生活を「神に喜ばれる聖なる生きたいきにえとして献げる」ことによって神を礼拝する(神に仕える)のです。このような礼拝が、霊的な礼拝であり、真理にかなった理性的な礼拝です。キリストは祭儀の終わりとなられました。神を礼拝するのに、もはや祭儀のための特定の場所とか施設は必要ありません。同じことを後にヨハネ福音書(四・二一〜二四)は、「この山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る。 ・・・・まことの礼拝をする者たちが霊と真理によって父を礼拝する時が来るであろう。いや今がその時である。実に父はこのように礼拝する者たちを求めておられるのである。神は霊である。神を礼拝する者は霊と真理によって礼拝しなければならない」と表現するようになります。

かたちを変えられて

 「霊的礼拝」とは「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生きたいきにえとして献げる」ことですが、それがどういうことか、続いてその具体的内容が説明されます(二節)。二節の初めにある《カイ》という接続詞は、別の勧めを並べるための「そして」ではなく、先の勧告を説明する「すなわち」という意味、または「その上に」とか「なお」という積み重ねの意味に理解すべきです。
 
 「自分の身体を神に喜ばれる聖なる生きたいきにえとして献げる」霊的礼拝をするために、「あなたがたは、この世と同じかたちになることなく、かたちを変えられなさい」という勧告が続きます。「かたちを変えられる」ことがなければ、霊的礼拝は不可能であるからです。

 

 「(この世と)同じかたちになる」と訳した動詞は《スケーマ》(かたち)から派生した動詞です。この動詞と対比される意味ですぐ後に用いられる「かたちを変えられ」という動詞は《モルフェー》(かたち)から派生した動詞です。《スケーマ》と《モルフェー》は厳密には意味と用法に違いがありますが、新約聖書のギリシャ語ではほとんど同意語として用いられています。たとえば、キリスト賛歌の一節(フィリピ二・七)で、キリストはしもべの《モルフェー》をとり、人の《スケーマ》で現れたと用いられています。それで本節の二つの動詞も、同じ「かたち」という語を用いて訳すことにします。 

 「この世」と訳した「この《アイオーン》」という表現は、黙示思想の概念であって、神の支配が顕現する「来るべき世《アイオーン》」に対して、神に敵対する力が支配する現在の時代を指します。キリストの民は「来るべき《アイオーン》」に属する民であり、聖霊によりその現実を先取りして与えられているのですから、その第一の勧告は、「来るべき《アイオーン》」と対立する「この《アイオーン》」のかたち(原理、姿、外観)に同化しないこととなります。
 
 「そうではなく、かたちを変えられなさい」という勧告が来ます。この受動態の命令法は現在形で、「かたちを変えられ続けよ」という意味合いを含んでいます。この《メタモルーン》という動詞は、パウロ書簡ではこことコリントU三・一八の二箇所だけに出てくる動詞ですが、パウロの福音理解を示す重要な語です。キリストに属する者は、(黙示思想のように)ただ未来の救済を待ち望むのではなく、現在すでに聖霊によって、キリストの栄光に向かってかたちを造り変えられつつあるのです(コリントU三・一八)。それは現在の事実です。パウロはここで、その事実に身を委ね続けよと勧告します。この命令法の内容を敷衍すると、「あなたがたのかたちを変える聖霊の働きに身を委ね続けよ」となります。二節の勧告は、「肉に従うのではなく、御霊に従って歩みなさい」(ガラテヤ五・一六)と内容は同じことを言っています。
 
 ところで、この「かたちを変えられよ」という命令法の動詞の直後に、「意識の新しさに」という与格(三格)の名詞が続いています。大多数の現代語訳は、この与格を手段の与格と理解して、「意識を新しくすることによって」と訳しています。しかし、パウロの福音理解においては、「かたちを変えられる」のは意識を新しくするというような人間の側の改革によるのではなく、聖霊の働きによるのですから、この与格を手段の与格と理解することは困難です。八・二四の「希望へと救われた」または「希望において救われた」の場合と同じく、ここも「意識の新しさへと」と理解し(様態を示す三格)、「かたちを変えられた」ことの結果として生じた事態とすべきです。そうするとこの勧告は、「かたちを変えられ、(その結果)意識を新たにされて、・・・・をわきまえるようになりなさい」と続きます。

 

 二節の解釈にさいしては、「この《アイオーン》に」同化せず、「意識の新しさに」変容されよ、という原文の正確な並行表現に注目する必要があります。二つの動詞に続く三格は両方とも同じ用法(「〜に」「〜へ」)と理解すべきです。  なお、「意識」と訳した《ヌース》は、「心」《カルディア》ほど広い意味ではなく、道徳的な面における思い、理解力、意志の方向を指し、八・六で用いた「志向」に近いと考えられます。 

 聖霊によって「かたちを変えられて」、新しくされた意識とか理解力《ヌース》をもって、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえるように」なることが求められます。この勧告は、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるか」は、律法のような基準があって、一律に外から教えられるものではなく、各自が御霊に導かれる実際の歩みの中で判断する感覚を訓練されなければならないことを教えています。
 
 人生の現実は複雑です。その中で、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」ことは、しばしば大変むつかしい問題です。そこには知恵が求められます。人生体験の豊かさからくる知恵も有益ですが、何よりも御霊による知恵が必要です。「御霊は一切のことを、神の深みさえも究める」方だからです(コリントT二・一〇)。今までの古い常識的な意識、ただこの世の人生体験から出る理解力だけでは、神の御心を悟る知恵は生まれてきません。聖霊によって新たに造り変えられた意識や理解力《ヌース》をもって、人生に対処していく中で鍛えられる知恵だけが、「何が神の御心であるのか、何が善いことであり、神が喜ばれる完全なことであるかをわきまえる」に至ることができます。これは困難な課題ですが、キリストにあって神の御霊の救いにあずかっている者の生涯に課せられた重い課題です。

  33  一つのからだの肢体として (12章3〜8節)

 3 わたしに与えられた恵みによって、あなたがたの中の一人一人に言います。分を超えて考えることなく、むしろ神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい。 4 というのは、わたしたちは一つの体に多くの肢体を持っていますが、その肢体すべては同じ働きをしていないように、 5 わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです。 6 わたしたちに与えられた恵みによって異なった賜物を持っているのですから、それが預言であるなら、信仰に正しく対応して、 7 それが奉仕であれば奉仕において、教える者であれば教えることにおいて、 8 勧めをする者であれば勧めのわざにおいて、その賜物を用いなさい。施しをする者は純粋に、援助する者は熱心に、慈善を施す者は喜びをもって、それを行いなさい。

キリストの体の一肢体として

 キリストにある者が実際にどのように歩むべきかを勧告するにあたって、冒頭(一〜二節)でその基本原理を提示したパウロは、ここから各論に入ります。各論の最初に、キリスト者の共同体(集会)における心構えと振る舞いについての勧告が来ます。キリストにある交わりと、それによって形成される実際の共同体は、キリスト信仰が生きる場として本質的な重要性をもつからです。
 
 わたしに与えられた恵みによって、あなたがたの中の一人一人に言います。(三節前半)

 パウロは使徒としての立場で未知のローマ集会にこの手紙を書いています(一・一)。迫害者である自分を使徒にしたのは神の無条件絶対の恩恵であることを深く自覚しているパウロは(コリントT一五・一〇)、「使徒として言う」をこのように「わたしに与えられた恵みによって言う」と表現します。同時に、「恵みによって」生きることを体得している者として、「恵みの下にある」者は以下のように歩むように勧める、という意味も含んでいます。

 分を超えて考えることなく、むしろ神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて、慎み深く考えなさい。(三節後半)

 

 原文は、「当然考えるべきことを超えて考えることなく、適切な限度で考えるように考えなさい」とあります。この短い文の中に、「考える《フロネイン》」という動詞とその派生形が4回繰り返されています。この《フロネイン》という動詞とその名詞形である《フロネーマ》は、八・五〜八でも繰り返し用いられており、パウロがよく用いる重要な用語です。その意味については八・五〜六の注を参照してください。 

 キリスト者の共同体の中で生きるにさいして、まず第一に避けなければならないこととして、思い上がりが戒められています。信仰者の中でもとくに御霊の賜物が豊かな信仰者は、ともすれば自分が他のメンバーよりも優れていると錯覚しがちです。しかし、どのように優れた能力や賜物も、その人の立派さに応じて与えられたものではなく、受ける者の資格とか価値とは無関係に、無条件の恩恵により、賜物として与えられたものですから、それを受けた人間が誇ることは滑稽なことです。もし恩恵の原理がしっかりと自覚されているならば、「分を超えて」思い上がることことはありえないのですが、パウロはここで実際的な形で思い上がりを戒めています。

 「慎み深く(適切な限度で)考えなさい」の後ろに、その「適切な限度」が、「神が各人に分け与えた信仰の度合いに応じて」と具体的に解説されています。ここで言う「信仰」は、イエスをキリストと告白する信仰ではありません。この意味の信仰には「度合い」とか「分量」はありません。「信仰」という語は様々なレベルで用いられていますので、意味の違いに注意しなければなりません。ここでの「信仰」は、御霊の働きによって各人に生じているキリストとの結びつきです。この意味の信仰には強い信仰とか弱い信仰という差があります(一四・一以下、一五・一)。また、信仰の不足(テサロニケT三・一〇)とか信仰の成長(コリントU一〇・一五)ということが言われます。この意味での信仰は「神が各人に分け与えた」もので、「御霊の賜物」《カリスマ》の一つです(コリントT一二・九)。
 
  このように、キリスト者の交わりである《エクレーシア》において自分の立場を自覚し、「分を超えて考えることなく、慎み深く考えなさい」というこの勧告が、続く節(四〜五節)で人体を比喩として理由づけられます。
 
  というのは、わたしたちは一つの体に多くの肢体を持っていますが、その肢体すべては同じ働きをしていないように、わたしたちは多くいても、キリストにあって一つの体であり、各自はお互いの肢体なのです。(四〜五節)
 
  原文では、「であるように」で始まる四節を受けて、五節は「そのように」という語で始まっています。明らかに四節の人体の姿が、五節の「わたしたち」、すなわちキリストに属する者たちの共同体の在り方の比喩として用いられています。この人体の比喩は、ローマ書の少し前に書かれたコリントの集会あての第一の手紙(一二章)において詳しく展開されていました。
 
  コリントの集会はパウロがその福音宣教の働きによって形成した集会であり、その健全な発展にパウロは直接の責任を負う立場でした。それで、コリントの集会に注がれた御霊の豊かな賜物《カリスマ》のゆえに様々な問題が起こっていることを聞いたパウロは、豊かな賜物を与えられた者が思い上がることなく、お互いにその分を果たして、正しい秩序の下に御霊の働きが進展するように、言葉を尽くして戒めたり勧告したりしています。そのさい、パウロは「からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように」(協会訳コリントT一二・一二)と、人体の比喩を用いています。そして、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前は要らない』と言えない」ように、集会の各員はそれぞれお互いに必要としているのであるから、思い上がることなく、同じ一つの体に属する肢体として自分の分を果たし、《エクレーシア》の形成のために尽くすべきことを説いています。

 

 人体の比喩について詳しくは、コリント書簡Tの講解「御霊の賜物」(天旅一九九九年3号)を参照してください。 

 それに対して、ローマの集会はパウロ自身の働きで建てられた集会ではなく、また、御霊の賜物について問題が起こっていることを具体的に相談されたのでもありませんから、パウロはここでは一般的な原則を述べるだけで、詳しい議論には入りません。しかし、この問題がキリスト者に対する実践的な勧告の最初に来ていることは、《エクレーシア》の健全な形成という課題がいかに重要であるかを示しています。
 
 ところで、わたしたちキリスト者の共同体が「キリストの体」であるということは、たんに各メンバーの相互依存関係を指し示すための比喩であるだけではなく、パウロにおいてはキリスト信仰にとって本質をなす霊的現実であることを見落としてはなりません。「わたしたちはみな一つの御霊によって一つの体の中にバプテスマされた(浸し入れられた、組み込まれた)のです」(コリントT一二・一三私訳)。そして、「主の晩餐」でパンを食べることは、「キリストの体にあずかる」ことに他ならないとされています(コリントT一〇・一六)。わたしたちは御霊により「キリストの体」と合わせられることによって、キリストの死に合わせられた者となり、キリストの復活の命にあずかる者となるのです(六・三〜五)。また、このようにキリストに合わせられた者たちの共同体が地上でキリストの命を生きるとき、その姿が見えない霊なるキリストを地上で具体的に(体を具えた形で)示すことになるのです。

 

 キリスト者の共同体《エクレーシア》がキリストの体であるという思想は、パウロ以後の文書と見られるコロサイ書やエフェソ書で重要な役割を果たすようになります。この思想の宗教史的源泉とかキリスト信仰における重要な意義については、それらの文書を扱うときに触れることにします。ローマ書では集会メンバーの相互依存関係を指し示すための比喩として用いられているだけですから、これだけに止めます。 

異なる賜物

 キリストに属する者が現す様々な霊的能力は、その人固有のものではなく、神が御心のままに恩恵によって無資格の者に分かち与えられる「賜物」《カリスマ》です。そのことはパウロがすでにコリント書簡(Tの一二章)で詳しく論じているところです。そのことをここでは、「わたしたちに与えられた恵みによって異なった賜物を持っているのですから」(六節前半)と要約して、それぞれの賜物を適切に用いるように勧告します。
 
 まず、「それが預言であるなら、信仰に正しく対応して」、その賜物を用いるように勧めます(六節後半)。原文では「信仰の《アナロギア》に従って」となっています。《アナロギア》は、《ロゴス》に対応した状態、すなわち「正しい対応関係」という意味の名詞で、「信仰の《アナロギア》に従って」というのは、信仰との正しい対応関係に従って」という意味になります。他の賜物と違い、預言の場合だけその賜物を用いるさいの基準が挙げられているのは、預言の重要性と特殊性からであると考えられます。預言は霊感による直接的な発言ですが、パウロはその発言内容が《エクレーシア》のキリスト信仰に正しく対応したものでなければならいと言っているのです。そのような基準がなければ、霊感による発言はしばしば人間的な要素が混入し、それが絶対的な啓示と誤解される危険があります。パウロはここでそのような危険や逸脱を防ごうとしていると考えられます。すでにコリント書簡でも預言を吟味するように勧告しています(コリントT一四・二九)。

 

 《アナロギア》という名詞は、新約聖書ではここだけに出てくる名詞です。これは《ロゴス》(計算)から派生した語で、比例、釣り合い、割合、調和というような意味があります。それで、この「信仰の《アナロギア》に従って」という句は、三節の「信仰の度合いに応じて」との並行関係から、「信仰の量に比例して」という理解も可能です。協会訳はこう理解して、「信仰の程度に応じて」と訳しています。「信仰に応じて」という訳(新共同訳、新改訳、岩波版)はどちらにもとれる訳です。 

 「それが奉仕であれば奉仕において、教える者であれば教えることにおいて、 勧めをする者であれば勧めのわざにおいて、その賜物を用いなさい」。(七節〜八節前半)
 
 「奉仕《ディアコニア》」という語は本来食卓の給仕の務めを指し、奉仕、世話、接待という意味に用いられる語です。この「奉仕」の務めとは、おそらく集会の運営について、とくに「主の晩餐」の準備や実行などの実際的な世話をする役目を指していたと考えられます。そのような奉仕の務めを果たし、そのことによって集会で指導的な働きをする人が「奉仕者《ディアコノス》」と呼ばれ、パウロの時代の諸集会にすでにそのような立場の人たちがいたことが示唆されています(一六・一、フィリピ一・一)。後の時代の教会では「執事」とか「助祭」または「補祭」などと訳されて、教会制度の中で一つの聖職階級を指すようになりますが、パウロの時代ではまだ特定の聖職階級ではなく、立場上自然にそのような世話をするようになる人たちが現れて、集会で指導的な働きをしたと見られます。
 
 「教える者」とは、御霊の賜物として「知恵の言葉、知識の言葉」を与えられていて(コリントT一二・八)、あるいは聖書(旧約聖書のこと)によく通じていて、集会の人々、とくに新しく信仰を求めて入ってきた人々に福音の事柄とか聖書の理解の仕方などを教える働きをした者を指すと見られます。コリント書では神によって立てられた務めの中で、使徒、預言者に次いで第三番目に「教師」が上げられています(コリントT一二・二八)。
 
 「勧めをする者」と訳した語には、《パラカレイン》という動詞が使われています。この動詞は「励ます、慰める、勧める」という広い意味があり、パウロがよく用いる動詞です。おそらく、様々な実際の状況に応じて、苦しんだり迷ったりしているメンバーを慰めたり、信仰へと励ましたりする人たちを指すのでしょう。これも制度となった聖職階級ではなく、自然に集会の中で先輩格のメンバーがそのような役割を果たしたのでしょう。ドイツ語に「ゼーレゾルゲ」(魂への配慮・世話)という言葉がありますが、それに相当する働きを指すことになります。現代の教会用語では「牧会的配慮」というところでしょうか。現代のプロテスタント教会の「牧師」は、ここでいう「教える者」と「勧めをする者」の両方の務めを果たす立場であることになります。
 
 この箇所(六〜八節)には「〜しなさい」という動詞がありません。預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善など、それぞれの働きをなすにあたっての留意点がごく簡潔に上げられているだけです。それで、最初にこれらの働きすべてが「異なった賜物」であるとされているところから、「その賜物を用いなさい」とか「それを行いなさい」という勧めの動詞を補って訳しています。
 
 ところが、奉仕と教えと勧めの三つの働きについては、「奉仕において、教えることにおいて、 勧めのわざにおいて」という、それぞれの働きの分野を示す語がついているだけで、どのようにそれをしなさいという表現がありません。これは、それぞれの働きをする者は、その分野に専心没頭すべきであって、他の分野に関わりすぎて、せっかく神から与えられた賜物を十分に発揮できない、というようなことにならないように戒めています。もちろん、これは制度として確定した分野ではありませんから流動的であり、状況によっては他の働きをすることが求められる場合があるかもしれません。しかし、自分に与えられた賜物をそれぞれの分野で十分に生かすように勧めているものと理解してよいでしょう。
 
 施しをする者は純粋に、援助する者は熱心に、慈善を施す者は喜びをもって、それを行いなさい。(八節後半)
 
 ここに用いられている三つの(分詞形の)動詞は、集会が行っていた困窮者に対する援助の働きを指していると見られます。二番目の動詞はもともと「前に立つ」という意味から来た動詞で、「指導する」という意味と「援助する」という意味で用いられます。大多数の訳は「指導する」という意味にとっていますが、ここでは三つとも困窮者に対する働きとして「援助する」と理解する方が適切です。ただ、ここに上げられた「施しをする」、「援助する」、「慈善を施す」がそれぞれどのような対象に対するものか(内部の人たちか外の人たちか)、また、どのような仕方での援助(自分の資産からか集会の基金からかなど)を指すのかを特定することはできません。それがどのような援助の働きにせよ、それをなすときは「純粋な動機から、熱心に、喜びをもって」なすように勧められます。
 
 社会保障制度が整っていなかった古代社会において、キリスト者の共同体が信仰のゆえに熱心に行った困窮者への援助の働きは、その時代には新鮮な刺激になり、社会的身分を超えた平等観(ガラテヤ三・二八)と共に、キリスト教の魅力の一つになります。また、それはその後の時代に慈善事業や社会福祉制度の発展を促す原動力ともなります。

集会での務めと《カリスマ》

 この段落であげられている「預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」という集会での務めとか働きは、「賜物」《カリスマ》であるとされています(六節前半)。ここには「御霊」とか「聖霊」という語は出てきませんが、《カリスマ》とは聖霊によって与えられる能力であり働きとか務めであることは、コリント書(T一二章)の場合と同じです。同じ《カリスマ》を扱いながら、コリント書とローマ書とでは《カリスマ》の内容がずいぶん違います。コリント書にも《カリスマ》として、教師、援助する者、管理する者というようなローマ書にも見られる務めとか働きもありますが、ローマ書には出てこない不思議な霊的現象、すなわち奇跡を行う者、病気を癒す者、預言をする者、異言を語る者、異言を解釈する者などが多くを占めています(コリントT一二・二八〜三〇)。とくに預言と異言の《カリスマ》が目立っています。その《カリスマ》の現れに伴う問題もあって、パウロはコリント書Tの一四章でこの二つの《カリスマ》を詳しく扱っています。

 このような《カリスマ》についてのコリント書とローマ書の扱いの違いは、二つの集会の事情の違いと、二つの書簡の性格の違いによるものと考えられます。使徒時代の集会には多かれ少なかれコリント書にあげられているような不思議な霊的現象があったようですが、コリントの集会はそのような現象が豊かで激しかったようです。それだけに問題も起こり、パウロは集会の指導と育成に直接責任を負う者として、それらの問題に懇切に対処しています。それに対して、ローマの集会にそのような不思議な霊的現象がなかったわけではないでしょうが、少なくともパウロは《カリスマ》の問題について相談を受けたのでもなく、また直接集会の指導をする立場でもなく、外からローマの集会を訪れようとしている者として、自分の福音理解を知ってもらいたいという動機でこの手紙を書いています。もちろん異邦人への使徒としての資格で勧告をしますが、それはどの集会にも適用できる一般論として、集会の通常の務めを論じるに止めざるをえません。このような違いがコリント書とローマ書における《カリスマ》の扱い方の違いになっていると考えられます。
 
 《カリスマ》を集会の日常的な通常の務めと奇跡的で不思議な霊的現象との二つに分けると(それは原理的な区分ではなく便宜的なものですが)、普通後者が「カリスマ的」という語で指し示されることが多いようです。預言は別ですが、ローマ書に上げられているような「奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」など集会の通常の務めは「カリスマ的」とは言われず、コリント書にある「奇跡を行う者、病気を癒す者、預言をする者、異言を語る者、異言を解釈する者」などが行う働きが「カリスマ的」と言われます。そして、集会や宣教の働きにこのような奇跡的現象が伴う場合に、その集会や活動が「カリスマ的」と称されます。しかし、使徒時代にはこのような区別はなく、キリスト者の共同体の営みはすべて《カリスマ》の現れであったのです。この事実は、奇跡的な霊的現象だけを「カリスマ的」と呼んで聖霊の働きとし、集会の通常の働きを《カリスマ》としないで、御霊の働きから除外するような現代の傾向を戒めています。
 
 このようにキリスト者とその集会の営みをすべて「御霊の賜物」《カリスマ》であるとするパウロの視点は、愛の扱い方にもっともよく表れています。コリント書では、一二章で様々な《カリスマ》が取り上げられた後、「最高の道を教えます」として、一三章で愛《アガペー》が取り上げられます。《アガペー》は聖霊の賜物であり、《カリスマ》の最高の現れなのです。それと同じことがローマ書でも行われています。《カリスマ》としての様々な務めを語った後、パウロは愛についての教えに入ります(九〜二一節)。御霊とか《カリスマ》という語は用いられていませんが、これは御霊の働きまたは現れとしての《アガペー》の姿を描いているのです。その視点を見失って、ただ倫理的勧告として読むと、このような言葉を受けとめることはできません。
 
 御霊の賜物《カリスマ》としての愛《アガペー》を勧告する次の段落に入る前に、この段落(三〜八節)に上げられている「賜物」《カリスマ》について、もう一つ重要な点を見ておきたいと思います。ここでキリスト者の共同体において行われる通常の務めとして「預言、奉仕、教え、勧め、施し、援助、慈善」の七つがあげられていますが、その中に祭儀を執行する務めがない事実が重要です。
 
 使徒時代にもバプテスマは行われ、集会の礼拝の中心的な営みとして「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事が行われていました。しかし、バプテスマも「主の晩餐」も祭儀ではありません。バプテスマは主イエス・キリストに対する信仰を告白する一回限りの行為であり、「主の晩餐」は主イエスの十字架の死と復活を記念する共同の食事であって、資格のある祭司によって神に捧げられる供え物ではありません。供え物とか捧げ物というのであれば、キリスト者各人が「自分の身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げる」(一二・一)ことがわたしたちが行う礼拝であり、各人が祭司の役目を果たしているのです(これが万人祭司です)。
 
 キリスト共同体には特定の資格のある祭司はいないのです。定められた資格のある祭司によって執り行われる祭儀がないという事実は、キリスト共同体は宗教団体とか宗教組織ではないということです。「宗教」とは祭儀による神との関わりを確立しようとする営みであるからです。キリスト共同体は、霊なるキリストを地上に体現するための霊的な交わり《コイノニア》に他なりません。


  34  愛の道 (12章9〜21節)

 9 愛は偽りのないように。悪を憎み、善に固着し、 10 兄弟愛をもって互いに慈しみ、尊敬を示すことにおいて互いに他に先んじ、 11 勤勉で怠けることなく、霊に燃えて、主に仕え、12 希望によって喜び、患難を耐え忍び、祈りにおいて絶え間なく、13 聖徒たちの窮乏を分かち合い、旅にある者をもてなしなさい。
 14 あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません。 15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。 16 互いに同じ思いを抱き、高ぶった思いを持つことなく、低い境遇の者たちと共に歩みなさい。自分で賢い者とならないようにしなさい。 17 誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい。 18 あなたがたから出ることでできるならば、すべての人たちと平和に過ごしなさい。 19 愛する人たちよ、自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい。書かれているように、「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と主が言われるからです。 20 むしろ、あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい。彼が渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです。 21 悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。

共同体の中での愛

 文頭に立つ「愛」《アガペー》の語は、この段落(九〜二一節)全体の標題としての位置を占めています。異なる賜物を与えられた者たちが一つの体を形成するという集会の一致を説いた後に、統合の最高原理である愛《アガペー》を説くのはコリント書Tの場合と同じです(コリントT一二・三一)。
 
 まず愛には「偽りのない」ことが求められます(九節前半)。「偽りのない」と訳した語は、「演技する」という動詞から出た語に否定語がついた形で、「演技していない」という意味です(この「演技する《ヒュポクリノマイ》」という語が「ヒュポクリシー(偽善)」の語源となります)。愛に生きるにさいして、演技で愛を演じるのではなく、内から溢れる命の発露として愛を生きることが、愛についての基本的な教えです。
 
 その後一三節まで、その内から溢れる命の発露としての愛がどのような姿で現れるのかが、すべて分詞形の動詞で列挙されます。コリント書(T一三章四〜七節)の場合は、「愛」を主語として「愛は〜する」とか「愛は〜しない」と、愛が働く姿が動詞で描かれていましたが、ここでも(分詞形ですが)動詞を用いて、あなたがたがこのように歩むところに愛が現れるのだと、愛の姿が描写されます。
 
 最初に来る「悪を憎み、善に固着し」という表現(九節後半)は、この段落最後(二一節)の「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」というまとめの言葉と呼応して、キリストにある愛《アガペー》の特質を指し示しています。段落の中程にも「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)という表現があります。この言葉がイエス伝承(マタイ五・三九)を強く反映していることから、また、一四節も「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」と言われたイエスの語録伝承(マタイ五・四四)に基づくものであることから、この段落に描かれる《アガペー》の特質は、イエス伝承を基調としていることが分かります。しかしパウロは、イエスがこう教えられたのだからとイエスの言葉を引用するのではなく、聖霊がもたらす愛の命の質から、その愛に生きている自分の言葉で、愛に生きるように勧めます。
 
 次に「《フィラデルフィア》をもって互いに慈しみ」と来ます。《フィラデルフィア》という語は後に「博愛」と訳されることが多くなりますが、原意は「《アデルフォス》(兄弟)への愛」です。ここ(九〜一三節)は、勧告の内容からして、集会内の交わりについて語っていると見られますので、この《フィラデルフィア》は「兄弟愛」のことを言っているのだと理解できます。キリストに属する者はみな同じ父から生まれた子として互いに兄弟姉妹であるのですから、肉親の兄弟姉妹としての情をもって互いに慈しみ合いなさい、という勧告です。
 
 次に「尊敬を示すことにおいて互いに他に先んじ」という勧めが来ます。この世界においては、尊敬とか名誉を受けるために互いに他に先んじようとして競争しています。しかし、キリストにあっては方向が逆になり、他者に尊敬を示すことにおいて他の人に先んじようとするようになります。それは、恩恵の場に生きる者として、自分をゼロの立場に置いているからです。自分が自分のために主張する価値がゼロであれば、周囲の人たちはみな何か優れたものをもっていて、自分を向上させてくれる師となります。恩恵の場では、人は互いに誰にでも敬意をもって対する関係になります。
 
 さらに続いて、愛に生きる者の姿が、きわめて簡潔で引き締まった文体で列挙されます。
 
 「勤勉で怠けることなく、霊に燃えて、主に仕え、希望によって喜び、患難を耐え忍び、祈りにおいて絶え間なく」(一一〜一二節)。

 

 実は一〇節から始まっているのですが、一〇〜一二節は三格の名詞に動詞の分詞形が続くだけの同じ構文で、多くの項目が羅列されています。その三格の名詞は、「〜をもって」とか「〜によって」(具格)、「〜において」(位格)、「〜に」(与格)など、ギリシア語名詞の三格の多彩な意味合いを示しています。 

 勤勉さによって、ともすれば陥りがちな怠惰とか無精を克服して、先にあげられたような務めを果たすことが求められています。しかし、その勤勉さは内に燃える熱心がなければ維持できません。その内に燃える熱心が「霊に燃え」と表現されています。ここの「霊」には定冠詞がついていないので、御霊を指すのではなく、人間の内面的な霊性とか精神を指すと理解するのが適切でしょう。しかし、この内的な熱心も含めて、この段落の全体が聖霊の働きの結果であることを見失ってはなりません。
 
 その熱心さですることは、「主に仕える」ことです。地上でなすべきこと、果たすべき義務は多々ありますが、わたしたちは何よりも主に仕えて、主が求めておられることを行うことに熱心でなければなりません。

 

 「主に仕え」の《キュリオス》(主)を《カイロス》(時)と読む写本もあります。その場合、「時に仕える」とは、今の時を自覚して(目を覚まして)、時(機会)を適切に用いることを意味することになります。この読み方は、前後の文脈によく適合し、捨てがたいものがあります。 

 「希望によって喜び、患難を耐え忍び(直訳は、患難において耐え忍び)」は、すでに五章(二〜五節)で、キリストにある者は聖霊により注がれた神の愛によって、苦難の中で希望をもち、勝ち誇って喜ぶことが語られていました。ここでそれが愛に生きる者の姿の中に改めて組み込まれています。
 
 「祈りにおいて絶え間なく」、すなわち「絶えず祈り続けなさい」という勧めは、霊における主との交わりという自分の霊性のためだけではなく、周囲の人たちのための執り成しの祈りを絶やすことがないようにという勧めです。この意味であることは、この祈りが愛の姿を描く文脈の中に出てくることと、次節の仲間の者たちへの配慮を勧める勧告に自然に続くことからも分かります。
 
 「聖徒たちの窮乏を分かち合い、旅にある者をもてなしなさい」(一三節)。
 
 「聖徒たち」というのは、キリストに属する信徒たちを指す用語です。兄弟である聖徒が困窮しているとき、乏しい中からでも持ち物を分かち合って助け合うことが勧められます。パウロは「聖徒たちへの献金」を命がけで集めることで、このことを身をもって実行してきました。パウロの場合は、エルサレムの「貧しい者たち」のための募金活動でしたが、そのような特別のものだけでなく、普段の交わりの中で実行するように求められます。この「聖徒」という用語が用いられていることから、また内容からしても、愛についての勧告の前半(一〇〜一三節)は、キリストの民の共同体内部での愛の交わりについて語られていると理解できます。
 
 最後の「旅にある者をもてなしなさい」は、直訳すると「ホスピタリティーを追求しなさい」となります。客人、とくに旅の人を受け入れてもてなすこと(ホスピタリティー)は、イスラエルを含む古代オリエント社会での基本的な徳目でした。ここでもおそらく、キリストに属する者同士のホスピタリティーが第一に考えられているのでしょうが(当時ではこのホスピタリティーがなければ、伝道者が各地に福音を伝える旅をすることは不可能でした)、共同体の内か外かは問わず、愛はホスピタリティーの実践を熱心に追求する原動力です。
 
 この「ホスピタリティー」という用語からでしょうか、使徒の目は外に向かい、共同体の外の人たちに対する愛の働きに説き及ぶことになります(一四〜二一節)。そのさい「追求しなさい」と言った言葉が、一三節と一四節の連結環の役割を果たします。

敵を愛する愛

 「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福するのであって、呪ってはなりません」(一四節)。
 
 直前で「ホスピタリティーを追求しなさい」(一三節後半)と言ったときの「追求する」という動詞は、もともと「追いかける」という意味の動詞で、何かよいものを「追求する」という意味にも使いますが、「追及する」とか「責める」、「迫害する」という意味にも用いられます(マタイ五・一〇、一一、一二、四四にこの動詞が「迫害する」という意味で使われています)。キリストにある者は外の人々に対しても「ホスピタリティーを追求しなさい」と勧告されますが、外の人たちはしばしばキリストに属する者を追及し迫害します。パウロは(原文で)一三節の最後にこの動詞を口にしたとき、同じ動詞を用いたイエスのお言葉を思い起こさざるをえなかったのでしょう。この一四節の言葉は明らかに、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスの語録(マタイ五・四四)を反映していますが、パウロはそれをイエスの言葉として引用するのではなく、自分の言葉で語っています。

 

 一四節以下は、すべて分詞形で表現した一三節までとは異なり、普通の命令文で勧告をしています。また内容でも、おもに外部の人たちとの関わりについて語っているという点で違ってきています。それ以上に、イエス伝承を初め、初期の教団が継承してきたユダヤ教伝承に依存することが多い点で、文体が違ってきています。このことから、この部分(一四〜二一節)は初期の教団に共通の教理問答のようなものが引用されているか、または色濃く反映していると見る説が多いようです。 

 パウロはイエス語録の「祈りなさい」を「祝福しなさい」に言い換え、さらに「祝福するのであって、呪ってはなりません」と付け加えています。「祝福する」とは、相手の人によいものが与えられるようにと神に祈り願う言葉です。それに対して「呪う」とは、相手に悪しきことが来るようにと神に祈り願う言葉です。この段落では「悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮する」ことが強調されていますが、最初にそれが心の中の願いとして、またそれを言い表す言葉としてなければならないことが、「祝福する」と「呪う」という宗教的な用語で語られます。


すべての人と平和に

 外の人たちに対するキリスト者の姿勢を説くこの箇所(一四〜二一節)では、自分たちに悪をもって対する外の人たちに対して、悪をもって対するのではなく、愛をもって対するように説く言葉が繰り返されています(一四節、一七節、一九〜二一節)。しかしそのような言葉の間に、外の人たちとも進んで平和なよい関わりを築くようにという積極的な勧告が織り交ぜられています(一五節、一六節、一八節)。外の人たちといっても迫害する者ばかりではないからです。外の人たちを初めから迫害する者と決めてかからないで、善意をもってよい交わりを形成するように務めることはキリスト者にふさわしいことです。
 
 そのような積極的な勧告の最初に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(一五節)が来ます(この言葉はユダヤ教知恵文学の一つであるシラ書の七章三四節から取られています)。共同体内部の兄弟姉妹に対しては当然ですが、それだけでなく外の人たちが普段の社会生活の中で体験する幸福や不幸も自分のことのように一緒になって喜んだり泣いたりして、彼らの体験を分かち合い、交わりを持ちなさいという勧めです。キリスト者はこの世の喜怒哀楽から超然としているのではなく、共同体の内と外とを問わず、周囲の人たちとこの世の喜怒哀楽を共にしながら、内に与えられている平安によって周囲の人たちを支えることがふさわしいことです。
 
 次の「互いに同じ思いを抱き、高ぶった思いを持つことなく、低い境遇の者たちと共に歩みなさい。自分で賢い者とならないようにしなさい」(一六節)という勧告の「互いに」という語も、(この箇所の前後関係から)共同体の内部だけでなく外の人たちも含めて、自分と関わりのある人たちとの間で「互いに」と言われていると理解すべきでしょう。
 
 キリスト者はともすると、外の人たちに比べて自分たちは賢い者であると考えがちです。自分たちには神に関わる特別の知識が与えられているので、人間に関する理解でも一段と深いものがあると考えることが多いようです。パウロはそのような「高ぶった思いを持つこと」を戒め、人間として願う幸福は同じなのですから、「互いに同じ思いを抱き」と説き、「高ぶった思いを持つことなく」の具体的な現れとして、むしろ「低い境遇の者たちと共に歩みなさい」と勧めます。

 

 原文の「低いもの」を中性名詞と見て、「低い事柄、卑しい事」と理解することも可能です。しかし、本節は対人関係を扱っているので、人物を指すと理解する方が順当と考えられます。なお、「自分で賢い者とならないように」という言葉は、箴言三・七からです。 

 「低い境遇の人たち」は、高遠な理想を語ることはなく、身近で卑近な幸福を求めるだけかもしれませんが、そのような人たちと喜怒哀楽を共にし、人生の体験を分かち合うことで、そのような人たちにも自分の内に与えられている永遠の命を分かち合うようにすることこそ、社会から疎外され、上層の教養ある「義人」たちから「罪人」と呼ばれていた人たちと食卓を共にして「神の国」を伝えていかれたイエスの弟子にふさわしいことでしょう。
 
 この世の人々との関わりに生きるとき、様々な悪が身に及ぶことがあります。そのように悪しき扱いを受けたときの心構えが続いて説かれます。
 
 「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)。
 
 イエスは「悪人に手向かうな」と説かれました(マタイ五・三八〜四二)。殴られたから殴り返したり、悪口を言われたから罵り返すのでは、「悪をもって悪に報いる」ことになります。悪に対して善をもって報いることこそ、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせてくださる父」の子にふさわしいことです。すなわち、相手の善悪に絶して(これが「絶対」です)、無条件に善いことをしてくださる神を父とする者にふさわしいことです(マタイ五・四三〜四八)。イエスはこれを「敵を愛しなさい」という一言葉で宣言されました。パウロは同じことを自分の言葉でキリストの民に勧告します。この勧告は、ほぼ同じ言葉でもっとも初期の書簡であるテサロニケ書(T五・一五)でもなされており、パウロがその伝道活動の全期間を通じて強調していたことがうかがえます。
 
 この段落(一二・九〜二一)と次の段落(一三・一〜七)で、善と悪という語が繰り返し用いられています。ここでの善と悪は、わたしたちが日常の生活の中で体験する善いことと悪いことと理解してよいでしょう。わたしたちが隣人との関係でしたりされたりすることで、辛くて苦しい思いをするようなこと、たとえば暴行を加えて身体を傷つけたり(最大のものは殺人です)、中傷して名誉を傷つけたり仲を裂いたり、騙して財貨を奪ったりすることは「悪」です。それに対して、親切にしたり、苦境にあるとき助けたり(看病や介護や援助)、励ましの言葉で支えたりすることは「善」です。このような実際的な内容を念頭において、パウロの勧告を具体的な形で読むべきであると思います。
 
 さて、この箇所の主要テーマである「善をもって悪に報いよ」の一つの形として、次に平和の道を歩むように勧められます。
 
 「あなたがたから出ることでできるならば、すべての人たちと平和に過ごしなさい」(一八節)。
 
 「あなたがたから出ること」とは何を指すのか、理解困難な句です。おそらく、「すべての人たちと平和に過ごす」ことはできない状況も多いことであろうが、「あなたがたの方からできることがあれば」、できる限り努力して平和に過ごしなさいという意味であると考えられます。この場合の「平和」は、たんに争いや対立がないだけでなく、和合とか融和というような積極的な意味で用いられていると見られます。わたしたちは、わたしたちの側からできることがあれば、周囲の「すべての人たち」、すなわちどのような種類の人たちとも、できるだけ積極的に融和し、交わりを形成し、友人となっていく方向で努力をするように求められています。この勧告の言葉とイエスの「平和を造り出す人は幸いである」という語録とは、(伝承史的な関連を追跡することは困難ですが)その意味内容において深いつながりがあることを見逃すことはできません。
 
 ともすれば、キリスト者の中には、この世から隔離された世界で、自分たちだけの孤高の道を歩むことが立派だと考える人もあるようですが、パウロはむしろ積極的にこの世の人たちと関わりを形成するように勧めます。わたしたちの側からできることがあれば、周囲の「すべての人たち」と和合を保つこと、これはキリスト者がこの世で活動するさいの重要な原理となります。

復讐するな

 最後にもう一度、自分たちに敵対し迫害する者たちへの対応が説かれます(一九〜二一節)。
 
 まず「愛する人たちよ、自ら復讐しないで、御怒りに場所を譲りなさい」と、復讐しないように説いて、それを「『復讐はわたしのもの。わたしが報復する』と主が言われるからです」と、聖書の言葉(申命記三二・三五)を引用して根拠づけます(一九節)。
 
 復讐とは、自分に対して行われた悪に対して、それに相当する悪を相手に報復して、自分の手で正義を実現しようとする行為です。人間は本性的に正義を欲求する者ですから、自分に対してなされた悪を一方的に自分だけが甘受することはできません。相手にも同じだけの悪を報復しないと気が済みません。そこで復讐は人間の本性的なものになります。世に多くの復讐劇があり、それが人々の共感を呼ぶことになります。
 
 しかし、正義の実現を個人の復讐に任せると、限度のない報復の連鎖が起こり収拾がつきません。それで、人間社会は法律を制定して、悪に対する報復を個人から取り上げ、社会を支配する権威だけが悪に報復して正義を実現するようにしました。イスラエルではヤハウェこそ民を支配する最終的な権威ですから、ヤハウェが「復讐はわたしのもの。わたしが報復する」と言われます。隣人に対する悪行はヤハウェの怒りを招き、ヤハウェがその悪に報復し、復讐を為して遂げて正義を実現されます。この原理を根拠にして、使徒は神の支配を信じるキリスト者に、自分で復讐しないで、自分に対してなされた悪に対する復讐を神の御怒りに委ねるように求めます。
 
 復讐というのは悪をもって悪に報いることの一つの表現ですが、キリスト者は復讐しないだけではなく、悪に対して善をもって報いることが求められます。イエスの言葉で言えば、敵を愛することが求められます。そのことが、やはり聖書の言葉を引用して語られます。
 
 「むしろ、あなたの敵が飢えているなら食べさせなさい。彼が渇いているなら飲ませなさい。そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです」(二〇節)。
 
 この二〇節の言葉は、ほぼ箴言二五章二一節〜二二節前半と同じです。ここでは敵を愛することが、「敵が飢えているなら食べさせ、彼が渇いているなら飲ませなさい」と具体的に語られています。ここで問題になるのは、「そうすることで、彼の頭に燃える炭を積み上げるのです」という部分の解釈です。
 
 この文の解釈は分かれています。ヘブライ語聖書を「彼の頭から火の炭を取り除くであろう」と訳すべきであるという説もありますが、パウロはここで「積み上げる」とする七十人訳ギリシャ語聖書をそのまま引用しています。アウグスティヌスなどラテン教父は、「燃える炭」を燃えるような恥の意識の象徴と解釈し、敵はその恥の意識から悔い改めに導かれるのだとしています。ギリシア教父には、それでも悔い改めない敵にさらに厳しい審判を積み重ねることになると解釈する人もいますが(たとえばクリュソストモス)、オリゲネスはやはり、そうすることが敵を悔い改めに導くとしています。最近、前3世紀のエジプトの祭儀文書に、罪を犯した者が悔い改めのしるしに、燃える炭を入れた皿を頭に載せたという記事が発見され、箴言はその象徴行為を使用しているとする説も出されいます。いずれにせよこの文は、悪に対して悪をもって報いる(復讐する)のではなく、善をもって報いる(敵を愛する)ことを勧める文脈で用いられているのですから、愛敵の行為が敵を心からの悔い改めに導くことを象徴的に表現していると理解するのが順当であると考えられます。
 
 「悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい」(二一節)。
 
 最後に締めくくりとして置かれたこの一文は、聖書の二つの箇所を引用して「報復しないで、敵を愛しなさい」と説いた部分(一九〜二〇節)の結論を述べるだけではなく、「悪を憎み、善に固着し」で始まるこの愛の段落全体(九〜二一節)、とくに外部の人たちに対する態度を説いた部分(一四節以下)のまとめにもなっています。
 
 すでに「誰に対しても悪をもって悪に報いることなく、すべての人のために善を配慮するようにしなさい」(一七節)と言われていましたが、最後に同じことが「征服する」という激しい動詞を用いて語られます。もしわたしたちが悪に対抗するのに悪を用いるならば、それはわたしたちが悪に征服されたことになります。そこでは悪が勝ち誇って支配しています。それに対して、もしわたしたちが悪に対して善をもって報い、無条件に善を行うならば、わたしたちは善をもって悪を征服したことになります。悪が悪を生み、悪だけが支配する循環を断ち切り、善が悪よりも強いことを身をもって示したからです。わたしたちイエスの弟子でありキリストに所属する民は、敵を愛する愛に生きることによって、「善をもって悪を征服する」という人類にとっての究極の課題を実現すべく召されているのです。神は絶対の善(マタイ五・四五、四八)にいますのですから、その神の子にふさわしい課題です。
 

段落へのむすび

 キリストの民に愛の歩みの実際を説くこの段落(九〜二一節、とくにその後半)は、それぞれの箇所で指摘したように、聖書(律法と預言書)の引用、さらにユダヤ教知恵文学の伝承、とくにイエスの語録伝承が多く用いられており、(ユダヤ人である)使徒たちが形成途上の若いキリスト共同体に与えた教えがどのようなものであったのか、その内容と様子(与え方)がよく出ています。
 
 この段落全体の印象としては、「悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって悪に報いる」という在り方が求められていることが強い印象を与えます。これは、イエスが「敵を愛しなさい」と言われた一言が詳しく展開された内容であることは、すぐに分かります。この段落は、イエスの「敵を愛しなさい」という言葉が、初期のキリスト者共同体で、実行すべき課題として真剣に受け止められていたことを示しています。
 
 「敵を愛しなさい」を頂点とする、いわゆる「山上の説教」の倫理は、人間には実行不可能なものであり、イエスの言葉は人間が神の意志に従いえない存在であることを示して、すなわち罪を示して、悔い改めに導くために語られたのだというような解釈がなされることがあります。しかし、このローマ書の箇所を読むと、そのような解釈が見当違いであることがよく分かります。使徒たちはキリスト者の一人ひとりに、「敵を愛する」愛に生きることを真剣に求めており、決してそれを罪の認識に至らせる機縁にしようとしたのではありません。
 
 ローマ書の一二章以下の部分は、キリストにある者は御霊の命に生きている(八章)ことを前提として与えられた実践的な勧告です。敵を愛する愛は、御霊によって始めて実現される質の愛であり、御霊の賜物です。この賜物は、パウロがコリントI一三章(八〜一三節)で論じたように、他の賜物《カリスマ》のように部分的で一時的であるのではなく、すべてのキリスト者に必然の永続的な賜物であり、キリスト者の標識となるべき質の賜物です。
 
 実際の歴史においても、初期のキリスト者共同体は、それまでの人間社会が知らなかった「敵を愛する愛」、「善をもって悪に報いる愛」を実際に示して、古代社会の人々に強烈な印象を与え、人々を信仰に引きつけたのでした。この愛に生きることは、現代においてますます切実な課題であり使命です。


  35   権威への服従 (13章1〜7節)

 1 すべての人間は上にある権威に服従しなさい。神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです。 2 それゆえ、権威に逆らう者は神の定めに反抗するのであり、反抗する者はその身に裁きを招くことになるのです。 3 支配者たちは善をなす者には怖れではなく、悪をなす者に怖れとなるのです。ところで、あなたは権威を怖れないことを願っているのですか。では、善を行いなさい。そうすれば権威から賞賛を得ることになります。 4 権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです。しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです。 5 それゆえ、怒りのためだけでなく良心のためにも服従しなさい。 6 そのためにあなたがたは税金も納めているのですから。彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです。 7 あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい。

上にある権威

 第四部(一二章以下)で、キリストにある者の実際の歩み方についての勧告に入った使徒は、基本的な心構えを説き(一二・一〜二)、キリストの体である集会での一員としての務めについて勧告し(一二・三〜八)、続いて個人の基本的倫理として、集会の交わりにおいても外の人に対しても採るべき愛の道を説き勧めました(一二・九〜二一)。その上で、現実の社会に生活する者として、その社会の秩序に対する心構えに説き及びます。それがこの一三章一〜七節の段落の内容になります。
 
 この段落は、後世のキリスト教会の歴史に及ぼした影響という点では、新約聖書の中でもっとも重大なテキストの一つとなりますが、その「影響史」を詳しく見ることはこの講解の範囲を超えますので、後でこのテキストを理解するのに必要な限度内でごく簡単にまとめることにして、まずテキストの言おうとするところをできるだけ正確に聴き取ることにしましょう。
 
 最初に、この問題に関するパウロの勧告が端的に語られます。
 
 「すべての人間は上にある権威に服従しなさい」(一節前半)。
 
 これがこの段落の基調です。この勧告の文章で、「すべての人間は」と言われている最初の句が目を引きます。原語は「すべての《プシューケー》は」となっています。この表現は、背後にあるヘブライ語の慣用からすれば、「すべての人間」を意味します。ところで、《プシューケー》は、新約聖書では普通《ゾーエー》(永遠のいのち)に対して、人間の生まれながらの命を指します。ここではその命に生きる人間、すなわち、生まれながらの命をもってこの世に生きている人間を指すことになります。それで、ギリシャ語で(《アントローポス》ではなく)《プシューケー》という語を使ったのは、「人間はすべて、この世に生きているかぎりは」という気持ちを含むと見てよいでしょう。人間はすべて、この生まれながらの命をもってこの世に生きているかぎりは、「上にある権威」に服従することが必要だと説いていることになります。
 
 「上にある権威」の「権威」は、四節の「剣を帯びている」という表現からも明らかなように、国家権力および国家権力を行使する官憲を指しています。「上にある」は「上位にあって支配する」という意味で、「上にある権威」は社会の秩序を維持するために民の上位にあって統治する権力者を指すことになります。

 

 「権威」と訳している原語《エクスーシア》というギリシア語は、パウロ書簡を含め新約聖書では、《アルコーン》(支配者)とか《デュナミス》(力)と並んで、霊界の支配力を指すのが普通であるので、地上の国家権力も背後にある天界の天使的「権威」と一体として理解しなければならないという指摘(クルマン)もあります。また、バルトがそう解釈して様々な議論を呼びました。しかし、そういう霊界の支配力としての《エクレーシア》は、キリストに属する者はその支配から解放されているとすることが福音の重要な告知ですから、ここの「権威」にそういう霊界の支配力を重ねることは適切でないと考えられます。 

 パウロは使徒としての立場で説き勧めます。すべての人間は、キリスト者であろうとなかろうと、この世に生きる限りは「上にある権威」、すなわちその社会を統治する立場の者たちに「服従する」ことが必要だと説きます。
 
 ここに用いられている「服従する」という動詞は、神とか福音(神の言葉)に「聴き従う」という時の動詞とは別の動詞で、強いて訳せば「下位の者として(秩序に)服する」という意味の動詞です。「聴き従う」(従順)と区別するため、「服従する」という訳語を用いています。「権威」は「上にある」ものであるのに対して、「すべての人間」は下位にある者として、神が立てられた上下の秩序に服しなさいという勧告です。

 

 この段落には、命令とか上下秩序を意味する語幹からの派生語(《タッソー》とか《タグマ》の系列の動詞や名詞)が多いのが目立ちます。パウロがここや他で「服従する」という動詞をよく用いるからといって、パウロをイエスの自由な愛の倫理を(上下の)服従の倫理に変えたとすることは、当たっていません。この問題については、パウロにおける「従順」と「服従」の違いを解説した、フィリピ書二章一二節への講解(『天旅』二〇〇一年3号24頁以下)を参照してください。 

 このように基本の原則を説いた後、権威に服従するように説き勧める理由を述べます。
 
 「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたものだからです」(一節後半)。
 
 「神によらない権威はなく」という文は、すべての権威は神によって立てられたものであることを、否定の否定という形式で強調して表現しています。パウロはさらに進んで、「現にある権威は神によって立てられた」と言います。「現にある権威」がどのような経緯で権威の座に着いたかは問わず、現に社会の秩序を維持する立場にある以上、その立場は「神によって立てられた(秩序づけられた)」のであるとします。「上にある権威」は神によって立てられた権威であるから、人はみな「上にある権威」に服従しなければならないのです。
 
 この言葉は、後年「王権神授説」の根拠として用いられ、政治思想上、また神学上大いに議論を呼ぶことになります。この聖句は、その経緯がどうであろうと現に王としての座にある者の権威は神によって授けられたものであるから、その統治下にある民は、王の命令は神の命令であるとして、その内容を問わず無条件に服従しなければならないという思想の根拠づけに用いられることになります。王に限らず現に権力の座にある者に無条件の服従を求める政治思想は、この聖書の言葉を根拠としてよく用いました。しかし、このような解釈は、一つの聖句をその文脈から切り離して、民の絶対服従を欲する権力の側からの方向で解釈した誤りです。
 
 逆の方向の解釈も成り立ちます。すなわち、権威が神によって立てられるものであれば、権威自体が神に背く場合は、神によって廃されるべきであるという思想の根拠にもなりえます。権威が神によって立てられているのであれば、その権威の正当性はその行使が神の御旨に合致しているかどうかという基準で計られることになります。もし、権力をもつ者が神の意志に背いているならば、その権力は正当性を失い、神によって廃されるべきものになります。神に従う民は、ペトロが「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒五・二九)と言ったように、神に背く権力に不服従を貫くか、その権力を倒すことが求められることになり、革命の根拠づけにもなります。
 
 現にパウロ以後の新約聖書文書の中に、当時の権力を神からではなくサタンから来たものとして、神の裁きによる崩壊を語る文書が出て来ます。すなわちヨハネ黙示録です。ドミティアヌス帝のキリスト教徒迫害の時代に書かれたと見られるヨハネ黙示録は、ローマ帝国の権力をサタンによるものと見ており(黙示録一三章)、このローマ書一三章の立場とは逆の思想を示しています。

 

 一般にヨハネ黙示録はヨハネ福音書を生み出したヨハネ共同体において成立したと見られていますが、最近ヨハネ黙示録の著者はヨハネ共同体伝承よりもパウロ共同体伝承に親しい人物であるとする説(E・S・フィオレンツァ)が出されています。もしそうだとすれば、ローマ書一三章とヨハネ黙示録一三章は、いっそう緊迫した関係に立つことになります。 

この勧告を正しく理解するためには、この段落のパウロの言葉を(当時の状況の中で)正確に理解した上で、この段落が置かれている文脈全体の中で理解しなけれなばなりません。まず、パウロがここで語るところを詳しく見ていきましょう。

権威への反抗

 「それゆえ、権威に逆らう者は神の定めに反抗するのであり、反抗する者はその身に裁きを招くことになるのです」。(二節)
 
 権威が神によって立てられたものであるならば、権威に逆らうことは神の定めに反抗することになります。ここで「神の定め」とは何を指すのかが問題になります。ここで王の命令とか国の法律などが直接神の命令と等置されて「神の定め」と言われているのではなく、神がこの世の秩序を地上の「権威」によって維持することをよしとされた事実を指しています。ここの「定め」は単数形であり、諸々の規定や命令を指す複数形ではありません。
 
 この世が「権威」によって秩序を与えられて存続することは、「神の定め」なのです。したがって、権威に反抗する者はこの「神の定め」に反抗することになり、神の裁きを身に招くことになります。ここで言われて「裁き」は裁判のことではなく、神の裁きを指しています。王の命令に背いたり、国の法律に違反すれば裁判にかけられることは、言うまでもない当然のことです。この当然の事実を比喩として用いて、権威に逆らうことによって神の定めに反抗する者は、その神の定めへの反抗のゆえに神の裁きを身に受けることになるであろう(未来形の動詞)と、使徒は警告するのです。
 
 このように使徒がローマのキリスト者たちに、世俗の権力(ローマ帝国の支配)に対する服従を、信仰的・宗教的な根拠をもって強く説き勧め、権力への反抗を厳しく戒めるのは、もちろん(後で見ることになりますが)恩恵の支配の下に生きるとか、終末の切迫の中で生きるというような福音の本質から出るものですが、当時の状況によるという一面もあると考えられます。それでこの書簡が宛てられた当時のローマにおけるキリスト者の諸集会の状況を一瞥しておきましょう。
 
 先にこの書簡の宛先であるローマの集会の状況を解説したときに見たように、この書簡が執筆された55年から56年にかけての冬には、直前の54年にクラウディウス帝のローマからのユダヤ人追放令(49年発令)が解除されて、ローマ集会で指導的な立場のユダヤ人が帰って来ていました。その追放令の原因となったユダヤ教会堂内の争乱の後、キリスト信徒の集会はもはや合法宗教(レリギオ・リキタ)として認められていたユダヤ教の会堂の中で活動することはできなくなっており、ユダヤ教とは別の非公認の宗教団体または結社として、個人の家に集まり、活動を続けていました。そのような非公認の団体に対しては、反乱の意図や危険がないかローマの官憲の監視が厳しかったようです。そのような状況において、使徒はローマの兄弟たちに、ローマの官憲に僅かの疑いももたれることのないように厳しく勧告しなければならなかったと考えられます。

 ネロ帝(在位54〜68年)治世の初期に、(ヨセフスが伝えているところによると)ユダヤおよびエルサレムで熱心党の反ローマ活動が盛んになったようですが、それが直ちにローマのユダヤ人に波及したとか、まして別個の歩みをしていたキリスト信徒の集会に影響したと見ることは困難です。しかし、ユダヤ戦争前の一般的な情勢から、ローマがユダヤ人とその一派のように見ていたキリスト信徒たちに対する監視を強めていたという状況は推察できます。

権威は善のため

   権威への服従を説き勧めるために、使徒はさらに直前の段落(一二・九〜二一)で繰り返し用いた「悪をなさず善をなせ」という原則を根拠づけに用います。キリスト者が、悪に対しても悪をもって対抗するのではなく、善を行うことで悪を征服するべきであるならば、善を確立するために神が立てられた制度である国家などの「上にある権威」に服従するのは当然であると続きます。
 
 「支配者たちは善をなす者には怖れではなく、悪をなす者に怖れとなるのです」。(三節前半)
 
 まず「支配者たち」《アルコーン》とは、ここでは(ヘレニズム世界で多く見られる用法の)霊界の支配力ではなく、国家権力を行使する役人たちを指します。「上にある権威」を具体的に行使する立場の人たちです。使徒はいきなり権力の本質を抽象的に論じるのではなく、具体的に「支配者たち」に対する実際の関わり方から説き起こします。
 
 ここでも議論が抽象的にならないように、「支配者たち」とか「善と悪」を具体的にイメージする必要があります。「善と悪」について先に「愛の道」を説いた段落で述べたように、ここでの善と悪は、哲学的・倫理学的に定義する必要はなく、わたしたちが日常の生活の中で体験する善いことと悪いことと理解してよいでしょう。わたしたちが隣人との関係でしたりされたりすることで、辛くて苦しい思いをするようなこと、たとえば暴行を加えて身体を傷つけたり(最大のものは殺人です)、中傷して名誉を傷つけたり、仲を裂いたり、脅したり騙したりして財貨を奪ったりすることは「悪」です。それに対して、親切にしたり、苦境にあるとき助けたり(看病や介護や援助)、励ましの言葉で支えたりすることは「善」です。「支配者たち」というのは、裁判所や警察の働きを考えると分かりやすいでしょう。権威や権力が悪を抑えて秩序を維持し、共同体の善を増進するためにする働きが一番身近に現れるところが裁判所であり警察であるからです。
 
 わたしたちは隣人に善をなそうとするとき、警察を恐れたり、裁判を心配することはありません。それに対して悪をなそうとするときは、警察による摘発や裁判による処罰を恐れます。これは、ごく素朴な庶民の日常の体験です。この素朴な日常体験から、パウロは後で述べることになる権威の本質、すなわち「権威はあなたにとって善のために神に仕える者である」という本質を示唆するのです。

 これは一般的な原理です。ところが、歴史上の個々の権力者の中には、善をなす者に怖れとなる場合があります。善をなそうとすると権力からの弾圧を恐れなければならないというケースが稀にあります。このような場合はどう考えればよいのか、後でまとめて取り扱いますが、ここでは通常の場合について使徒が説く原則論を聴いていきましょう。
 
 そうすると、支配者たちからの処罰を恐れることなく平安の中に生きようと願うならば、常に善を行うようにすればよいことになります。
 
 「ところで、あなたは権威を怖れないことを願っているのですか。では、善を行いなさい。そうすれば権威から賞賛を得ることになります」。(三節後半)
 
 権威は悪を処罰することで悪を抑制するだけでなく、善を推進するために、善をなす者を賞賛します。たとえば、どの国にもある褒賞制度などは、社会的に貢献した人たち、善の増進に寄与した人たちを権威が賞賛する制度です。
 
 このように、権威とか支配者に対する服従が具体的に説かれる中に、権威の本質を語る言葉が自然に組み込まれます。
 
 「権威はあなたにとって善のために神に仕える者なのです」。(四節前半)
 
 このように、悪を処罰し善を賞賛する権威の働きから見ても、権威が悪を抑え善を推進するために、善そのものにいます神に仕える者であることが分かります。
 
 神は善です。人間の善は相対的ですが、神は絶対の善です。すなわち、人間は自分に善をもって対してくれる相手には善をなしますが、悪をもって対する者には善をなすことができません。相手の善に応じて善を報いるのですから、その善は「相対的」です。それに対して神の善は「絶対」です。相手の善悪に絶して、常に善だけを行われます。このことをイエスは印象深い言葉で述べられました。
 
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ五・四五)。
 
 父が「完全」であると言われるのは、このような意味で絶対的な善であることを指しています。「完善」と訳してもよいでしょう。絶対的な善である神は、地上に善が実現することを願われ、地上での善の実現のために奉仕する制度をお立てになりました。それが国家などの「上にある権威」です。
 
 地上の人間、生まれながらの人間は、その自然本性に従っていつも善を行うという者ではなく、悪を行う者、むしろ悪に傾いている者ですから、地上で善を実現するためには、力をもって悪を抑え、善を行うことができる秩序を維持する必要があります。その目的のために神が立てられた制度が国家などの「上にある権威」です。このような意味で、「神によらない権威はなく、現にある権威は神によって立てられたもの」です。権威によって地上の秩序が保たれることは「神の定め」です。

 

 新共同訳はここを「あなたに善を行わせるために」と訳していますが、「あなたに」という三格は善を行う主格的な意味に理解することは困難です。権威は「あなたにとって善の(実現の)ために」神に仕える者である、という理解が順当です。その場合の「善」は社会全体の福祉であり、権力はそれを実現して個々の成員がその福祉にあずかるようになるために働く「神の奉仕者」である、という意味になります。この理解は現代の「公僕」の思想に近いと言えます。協会訳の「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである」は、この理解に立っていると見られます。 

 「しかし、悪を行うのであれば怖れなさい。権威は無意味に剣を帯びているのではないのですから。神に仕える者として、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのです」。(四節後半)
 
 このように権威は善の実現のために神に仕える者ですから、悪を抑えるために働きます。そのさい権威は力を用います。「上にある権威」が力を用いて悪を抑えることができるのは、その社会で「上にある権威」だけが武力をもっているからです。その権威を権威ならしめる武力の所有が「剣を帯びている」という象徴で語られます。「悪にたずさわる者」は普通何らかの力(不正な力、暴力)を用いて悪を行います。権威はその悪の力にまさる力をもって、悪を抑止し、処罰し、正義を回復し、秩序を維持します。

 

 「悪にたずさわる者」と訳したところは、本節の最初に出てきた「悪を行う」とは違う動詞(英語のpracticeに相当する動詞)が用いられており、個々の行為ではなく継続的な状態を示す現在分詞形であることから、「悪にたずさわる」と訳しています。 

 権威がその力を用いて悪を処罰するとき、権威は善を実現しようとされる神に仕えているのです。権威は神に仕える働きとして、「悪にたずさわる者に怒りをもって報いる」、すなわち悪を処罰するのです。この場合の「怒り」は権力による処罰を意味しますが、その背後には悪に対する神の怒りとか裁きを代行しているという含みがあります。
 
 「それゆえ、怒りのためだけでなく良心のためにも服従しなさい」。(五節)
 
 「それゆえ」、すなわち権威は「神に仕える者として」、悪にたずさわる者に怒りをもって報いるのですのですから、わたしたちキリストにある者は、たんに処罰を恐れて権威に服従するのではなく、神を怖れ、神の御旨に従おうとする内面的な動機から権威に服従することが求められます。この心の内からの自発的な動機が「良心のために」と表現されています。

 

 「良心」と訳したギリシア語は、本来意識とか自覚という意味の語ですが、それが哲学用語の影響から、善悪を見分ける生得的能力とか自分の行為の善悪を判断する意識という意味で用いられるようになり、われわれが「良心」と呼んでいる意味になります。ここでは外面的な処罰と対照されて、内面的な自発性が問題になっており、「(神に仕えているのだという)自覚をもって」という意味と理解してよいでしょう。 

 「そのためにあなたがたは税金も納めているのですから。彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです」。(六節)
 
 「そのために」、すなわち権威が悪を抑え善を実現するために神に仕える働きをすることができるように、「あなたがたは税金を納めているのです」と、税金の意義が再確認されます。そのさい、この権威とか支配者たちの働きが、改めて「彼らは神の奉仕者として、まさにこのことのために日夜励んでいるのです」と繰り返されています。

 

 「奉仕者」と訳した語は、「礼拝」と同系の語で、本来神殿で神に奉仕する聖職者を意味する語です。パウロは自分の福音宣教の活動を真の「礼拝」であるとして、この語を用いています(ローマ一五・一六、フィリピ二・一七、二・二五)。ここではさらに、世俗の支配者たちも神によって立てられ、神の目的に奉仕する者たちとして、聖職者と同じ用語が用いられています。英語で「ミニスター」は聖職者を指すと同時に、大臣という意味にも用いられます。 

 国家など「上にある権威」に税金を納めるのは、彼らがまさにこのこと(悪を抑え善を実現するために神に仕えること)を行っていることを認めて、その働きをしてもらうために納めているのです。ですから、税金を納めることは、権威の存在と働きによって悪の跳梁を免れ、善の恵沢にあずかっている者の当然の義務となります。使徒は、この当然の義務を「負債を返す」という表現で語ります。
 
 「あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい」。(七節)
 
 「負債を返す」ことは、人間が社会の中で(隣人との関わりの中で)生きるさいの基本的な原理(倫理)です。各人がこの基本的原理を守らなければ、人間社会は成り立ちません。使徒はこの人間としての基本原理を「税を納める」という問題に適用して、税を納めるのは権威に「負債を返す」ことであるから、その当否を問題にすることなく、税を納めるように説き勧めます。そのさい、「良心のために」とは明言されていませんが、ここでも納めなければ処罰されるからという怖れのためではなく、それが神の定めに従うことだという自覚をもって、進んで納めなさいと意味が含まれています。
 
 「税を納めよ」というパウロの勧告は、当然のことを言っているようですが、当時の状況、とくにユダヤ人が置かれていた状況からすると、重大な意味をもっています。当時のユダヤ教徒にとって、支配者であるローマ皇帝に税を納めることは、信仰上の重大問題であって、その当否が熱く議論されていました。異教のローマ皇帝に税を納めることは、唯一の主であるヤハウェの支配を否定することになるから、律法(十戒の第一戒)に違反し、イスラエルの民には許されないことだと、律法厳格派の熱心党は主張しました。イエスにも、「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(マタイ二二・一七)と、この問題が突きつけられています。
 
 この問題はパレスチナのユダヤ人にとって重大問題でしたが、パレスチナ以外のヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人にはそれほど差し迫った問題ではなかったのかもしれません。しかし、パウロがローマ書を書いた時から一〇年後にはユダヤ戦争が始まっています。パウロの時代にはローマ帝国とユダヤ人との関係は一触即発のきわめて微妙な段階に来ていました。律法学者として問題の所在を十分理解しているパウロが、このような律法とはまったく別の理由付けで税を納めるように説き勧めるのは、パウロが新しく成立した信仰共同体をユダヤ教とはまったく別の原理で指導していることを示しています。
 
 その「別の原理」とは、「負債を返す」という表現が示唆しているように、すでにイエスが「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いにお答えになったお言葉と姿勢を継承しています。イエスは、罠を仕掛けたこの問いに、皇帝の肖像と銘を刻んだ銀貨をもってこさせ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」とお答えになりました。パウロはここで、イエスのお言葉の中の「皇帝のものは皇帝に返せ」と同じことを言っているのです。

 

 パウロの勧告がイエスの語録に依拠しているのかどうかは分かりません。共観福音書の中ではルカが伝えている語録伝承が用語の点などからこの箇所との近親性があるので、またパウロは他のルカ伝承を知っていた可能性が書簡からうかがえるので、パウロはルカが伝えるイエスの語録を知っていた可能性があります。しかし、確証はありません。ただ、パウロが使徒として受けている「恩恵によって」、キリストにある者としての歩みについて勧告するところが、イエスの語録と同一線上にあり、イエスの言葉(とくにその前半)を詳しく解説する結果になっている、と言えるだけです。 

 パウロはそのことをさらに具体的に、しかしきわめて簡潔な表現で語ります。パウロはこう言います。「貢を(負っている)人には貢を(返し)、税を(負っている)人には税を(返し)、怖れを(負っている)人には怖れを(返し)、敬意を(負っている)人には敬意を(返しなさい)」(かっこ内は原文にはなく補った語です)。

 

 「貢」《フォロス》は、マルコとマタイではラテン語形の《ケーンソス》という語が用いられています。福音書ではローマの支配者が被支配民に課す人頭税や土地税を指します。ここでは役人が徴収する直接税一般を指すと見られます。「税」《テロス》は、通商される物品にかかる税や道路や橋の通行税などの間接税を指します。福音書ではこの《テロス》を請負制で徴収する者が「徴税人」《テローネース》と呼ばれています。 

 「貢を負っている人」とは、直接税を徴収する役人を指し、「税を負っている人」とは関税や通行税を徴収する係の役人を指すのでしょう。この場合、貢と税の違いは重要ではありません。ローマ帝国の制度としての税金を、当否を論じることなく「良心のために」納めなさいと説き勧めます。
 
 「怖るべき人」とは、ここでは神ではなく、剣を帯びて処罰を科す官憲を指します。このような立場の人たちには、その処罰する権限を無視したり軽視したりしないで、服従するように勧めます。また、「敬意を表すべき人」も、ここでは神ではなく、「権威」の中で地位の高い人物であり、社会的儀礼として敬意を表す対象を指します。そういう地位の人たちには、相応の敬意を表して、敬うようにと勧めます。

人に従うより神に従うべき場合

 さて、キリストに属する者としてこの世に生きるさい、国家というような「上にある権威」に対してどのような態度を取るべきかという問題について語る新約聖書の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というイエスの語録と並んで、ここが代表的な箇所です。正典中の書簡は、ほぼこの箇所の姿勢を継承しています。たとえばペトロT二・一三〜一七はこの箇所と同じ内容であり、この箇所の注解のような観を呈しています。テモテT二・一〜三、テトス三・一も同じ方向の勧告をしています。このように権威に対する服従を勧める姿勢は、当時のファリサイ派ユダヤ教の主流の姿勢を継承していると見られます。
 
 しかし、この問題について語る新約聖書の箇所はここだけではありません。すでにパウロ書簡内においても、コリントT六・一〜七のように「上にある権威」が行う通常の裁判を無視するような言説があります。パウロ書簡の外に目を向けると、ヨハネ黙示録のようにはっきりとローマの支配権力をサタンからのものとして(黙示録一三章)、神からの断罪を宣告する文書もあります。たしかに、国家権力は、自分だけが「剣を帯びている」、すなわち武力を独占しているところから、自分の欲するままに力ずくで服従を強要することが起こりえます。その服従の要求がキリスト者としての信仰告白と良心に正面から衝突する場合は、権力の要求に服従することはできません。このような場合には、ペトロと使徒たちが大祭司に言ったように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒五・二九)と言って、その要求に服従することを拒否しなくてはならない場合が出てきます。このような場合には、その拒否から生じる処罰や社会的不利益という実際上の苦しみだけでなく、権威を神によって立てられたものとして服従を求める使徒の教えに反して拒否する根拠をどこに求めるのかという信仰的な問題も伴います。それとの関連で、そもそも国家とは福音信仰の中でどういう位置を占めるのかという神学的・思想的問いが出てきます。この問題を詳しく論じることは講解の範囲を超える大問題となりますので、ここではこの問題を考えるにさいして留意すべき点を数点あげて要約するにとどめます。
 
 1 パウロがここで上にある権威に服従するように求めたのは、「皇帝のものは皇帝に返す」ことを求めているのであって、もし皇帝が神のものまでも自分に求めた場合は、それを拒否せざるをえません。これは、イエスが「神のものは神に返せ」と言われた言葉で表現されていますが、これはもともと信仰の本質に属することであって、神のものを神に返すことがなければ信仰は成り立たないのです。
 
 地上の権力は、たしかにここでパウロが言うように、放置すれば混沌に陥る人間社会に秩序を維持し、悪を抑え善を実現するために神によって立てられた制度です。原理的にはそうですが、個々の権力とか支配体制は、あくまで歴史の中の相対的な現象にすぎません。その相対的な権力が自己を絶対化するとき、すなわち自分を神とするとき、その権力はサタン的な様相を帯びることになります。サタンとはもともと自分を神としようとする高ぶりの霊なのです。国家などの権力機構が自分を絶対化して、その支配下にある人間に、本来神に帰すべき賛美と献身を求めて、絶対無条件の服従を要求するとき、国家は自分が神によって立てられた歴史内の相対的な制度にすぎないことを忘れ、神に返すべきものを自分に要求するというサタン的傲慢に陥っています。そのような傲慢は必然的に、善そのものにいます神に反抗して、その支配を悪の場にしていきます。自分を神とする絶対的な独裁政治が、どれほど人間の尊厳を破壊し、多くの民を殺戮してきたかは、歴史が語る通りです。
 
 権力は、自分だけが支配力(武力)を所有しているところから、自分を絶対化する傾向を内在させています。その傾向をチェックして、国家などの権力を相対的な場に位置づけるのは、神を絶対者として告白する信仰者だけです。天地の創造者にして歴史の支配者・完成者である唯一の神を信じる民は、キリストにあってそのような絶対的な神を告白することによって、すなわち「神のものを神に返す」ことによって、国家など地上の権力を相対化するのです。それは権力がサタン的な傲慢に陥って悪の支配を招かないようにするための信仰者の使命です。このように地上の権力を相対化する使命は、主ヤハウェの支配を根拠に王権を相対化して批判し、時には断罪したイスラエルの預言者の精神を継承するものです。

 2 わたしたち信仰者は、「神のものを神に返す」さいに、それを力づくで実現しようとする律法主義的原理主義に陥らないように注意しなければなりません。話を分かりやすくするために実例を挙げましょう。パウロとほぼ同じ時期に、ユダヤ教(おもにパレスチナのユダヤ教)の中に、ローマの支配は神の律法に従うことと矛盾するとして、神の律法を順守するためにはローマの支配を覆さなければならないとし、武力闘争に立ち上がった勢力がありました。「熱心党」《ゼーロータイ》と呼ばれるユダヤ教徒です。彼らも「神のものを神に返す」ために戦ったのです。しかし、彼らの拠って立つ唯一の基盤は律法ですから、彼らの戦いは律法を完全に実行するための地上の制度を確立するためのものであり、それに反する地上の政治体制は武力を用いても破棄しなければならないのです。彼らの反ローマ武力闘争はエルサレム神殿の崩壊とユダヤ国家の壊滅という悲惨な結末を迎えることになります。律法の完全順守を標榜するエッセネ派クムラン共同体も同じ精神から反ローマ戦争に参加して滅びました。
 
 現代においてもイスラームの中にこのような律法主義的原理主義の動きが見られます。イスラームはユダヤ教の律法主義的な体質を受け継いでいる面があり、イスラーム法の実施のための政治体制を地上に建てようとします。そのさい過激な一派は武力を用いてもよいとし、むしろジハード(聖戦)とか殉教という宗教的理念を用いて、命をかけた政治的武力闘争を励まします。
 
 イエスもパウロも、律法主義を克服したところに生きた人です。福音の場では、神の絶対無条件の恩恵とそれを無条件で受ける信仰だけが神と人との関わりを形成します。もはや律法順守は条件ではありません。したがって、(パウロが次の段落で言うように)神の無条件の愛の恩恵を受ける者として、同じ無条件の愛をもって隣人を愛することが、神に対してわたしたちが負っている負債を「神に返す」ことになるのです。このような場では、律法主義的原理主義は成り立ちません。
 
 恩恵の原理によって形成される共同体は、法律と力の支配によって正義を実現しようとする地上の権力と、同じ土俵で戦うことはありません。地上の生命と財産などは、善を実現するために神によって立てられた制度である「上にある権威」に委ねて服従します。もし信仰の証しのために服従できないときは、権威が要求する処罰に身を委ね、生命と財産を差し出します。暴力を用いて抵抗したり、権力を倒そうとはしません。信仰のゆえに迫害する権力のために祈ります。権力が正義に立ち、神から祝福を得るようになることを祈ります。それが権力を相対化し、本来の位置に戻すためのキリスト者の戦いです。
 
 3 上にある権威に服従しなさいというここのパウロの勧告は、信徒は下にあって支配される側の者であるという一方的な支配・服従関係を前提にしています。信徒が支配する側に立つとか、政治権力の形成や行使に携わることを予想していません。しかし、コンスタンティヌス帝以来、状況は変わりました。帝によってキリスト教が公認され、その後キリスト教がローマ帝国の国教としての地位を得るにともなって、キリスト教徒が国家権力の形成と行使に携わるようになり、国家権力とキリスト教信仰の関係が新しい視点から問題とされるようになりました。市民が政治に参加するようになった現代の民主主義社会でも同じです。それは新約聖書の諸文書が予想しなかった状況であり、キリスト信仰の本質と国家権力の本質から改めて神学的思考を深めて両者の関係を明確にしなければなりません。
 
 国家と宗教の問題、あるいは福音における国家の位置づけの問題においては、国家などの地上の権力の絶対化をチェックして、権力が悪に陥らないようにし、善の実現のために立てられた制度として維持することが主要な課題になります。そのためにキリスト教政治思想は、立憲政治とか政教分離とか三権分立というような思想や制度を生み出してきました。この問題についての議論や努力を跡づけることは、この講解の限度をはるかに超えますので、問題の指摘に止め、その分野の専門書に委ねます。

 

 国家と宗教の問題、とくにローマ書一三章をめぐる神学的議論の歴史的展開については、参考文献は山ほどありますが、簡明にして的確にまとめた著作として、日本における代表的な政治思想史の専門家であり、かつ神学にも造詣が深い著者による次の二書をお勧めします。
 宮田光雄集「聖書の信仰」W『国家と宗教』(岩波書店)
 宮田光雄『権威と服従―近代日本におけるローマ書一三章』(新教出版社) 


  37  愛は律法を満たす (13章8〜10節)

 8 誰にも負債がないようにしなさい。もっとも互いに愛し合うという負債は別ですが。人を愛する者は律法を満したのです。 9 姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな戒めがあっても、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10 愛は隣人に悪を行うことはありません。だから愛は律法を満すのです。

愛の負債

 「誰にも負債がないようにしなさい。もっとも互いに愛し合うという負債は別ですが」。(八節前半)
 
 七節で、キリストに属する者も社会の一員としては、社会の秩序と安寧を維持する権威に対して返すべき負債があるので、その負債はすべて返すように説き勧めた使徒は、続いて個人間でも負債がないようにしなさいと勧めます(八節前半)。この場合の「負債」は、借金とか、何か返さなければならないような具体的な負い目を指すのでしょう。そのような負債があれば、どうしても独立とか自由を失いがちであり、信仰の歩みを進める上で妨げになる場合があるからです。
 
 現代社会では、企業活動をするためには銀行から資金を借りなければなりません。また個人に対しても、住宅の購入などに公の金融機関や銀行などが融資してくれる制度が整い、それを利用して生活の計画を立てることが普通になっています。ローン利用は社会のシステムの一部になっており、わたしたちはその中に生きているので、ともすると借金することに慣れてしまって、負債があることの重荷とか拘束に無感覚になる危険があります。その安易に借金に頼る体質から、借金の蟻地獄に陥って破滅を招くケースが多いようです。
 
 そのような社会のシステムとしての融資制度がなかった時代では、負債(借金)は個人間のことで、金を借りた者(債務者)はどうしても貸した人(債権者)に対して卑屈になり、自由とか尊厳を失うことが多くなります。それで、昔の気骨のある人は、どんなに苦しくても借金だけはしないという生き方をしました。現代でも、このような気骨を失わないようにするために、とくに信仰生活での気骨を失わないように、使徒の勧めは傾聴しなければなりません。制度としてのローンの利用はやむを得ないとしても、人生の状況に安易に対処するために借金に頼ることは避けなければなりません。まして、自分の欲望の充足のために借金をするなどは論外です。
 
 使徒は、負債を負うなと説き勧めるさい、「互いに愛し合うことを除いては」(直訳)と例外を加えます。実は、この例外の方が主役で、それを引き立たせるために、「誰にも負債がないように」という一般原則が用いられています。キリスト者は「上にある権威」に対しても、また社会生活で関わりをもつどの個人に対しても、負債のないように生きなければなりませんが、「互いに愛し合うこと」だけはいつも負っていなければならない負債であって、この負債だけは払いきることができません。
 
 この負債は誰に対する負債でしょうか。直接には、関わりにある隣人です。わたしたちは自分自身を愛するように隣人を愛するように求められています。わたしたちと何らかの関わりをもつどの隣人に対しても、その人に返すべき負債はなく、何の責任を負う立場になくても、その人を愛するという負い目を負っているのです。
 
 しかしこの負い目は、神がわたしたちにそうすることを求めておられるところから来る負い目です。イエスがもっとも大切な掟としてまとめられたように、わたしたちが自分自身を愛するように隣人を愛することは、心を尽くして神を愛することの内容として、神がわたしたちに求めておられる唯一のことなのです(マルコ一二・二八〜三一)。だから、隣人を愛することは、神に対して果たさなければならないわたしたちの負い目なのです。
 
 そのことをパウロは、「人を愛する者は律法を満したのです」(八節後半)と表現します。律法とは神が人に求められる行いとか生き方ですから、隣人を愛する者は神が人に求めておられることを満たしている、すなわち律法を満たしていると言えます。隣人を愛する者は、神に負っている負債を果たしていると言えます。しかし、この負債はもうこれで返し切ったとは言えない負債です。もう負債はないとは言えません。わたしたちは人間として生きる限り、この負債を負っています。負債のない生涯の中で、「互いに愛し合うという負債は別です」ということになります。
 
 パウロは七節と八節で「負債」という用語を用いて、キリスト者の歩みに関する勧告を行っていますが、これは「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返しなさい」と言われたイエスの言葉の解説になっています。七節の「あなたがたはすべての人に負債を返しなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、怖るべき人は怖れ、敬意を表すべき人には敬意を表しなさい」という勧めは、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言われたイエスの言葉を説明しています。そして、この八節は「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉を解説することになります。隣人を愛することこそ、神がわたしたちに求めておられる唯一のことであり、わたしたちが神に対して負っている負い目です。わたしたちは隣人を愛することによって、神のものを神に返すことになるのです。隣人を自分自身のように愛することによって、わたしたちは神がわたしたちに求めておられることを果たす、すなわち律法を満たすのです。

律法を満たす愛

 この「人を愛する者は律法を満す」ということを、パウロはきわめて簡潔な論理で提示します。
 
 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな戒めがあっても、『隣人を自分自身のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行うことはありません。だから愛は律法を満すのです」。(九〜一〇節)
 
 使徒は、モーセの十戒の中から「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という四つの戒めを代表としてあげ、それに「その他どんな戒めがあっても」と加えることですべての戒めを指し、そのすべての戒めが「隣人を自分自身のように愛しなさい」という言葉に「要約される」と言います。

 

 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という順序は、七十人訳ギリシャ語聖書の申命記五・一七〜二一に従っています。この順序は、ルカ(一八・二〇)やフィロンなどにも見られ、ギリシャ語を用いるヘレニスト・ユダヤ人の間で親しまれていたことがうかがわれます。
 なお、「要約する」と訳した動詞は、パウロはここで一回使っているだけですが、「(ばらばらのものを)一つの頭に統合する」という意味の動詞で、後にエフェソ書の著者が神の救済の働きを語る重要な箇所(エフェソ一・一〇)で用い、それがエイレナイオスの救済史神学の中心概念になります。 

 先に見たように、イエスも律法全体を、申命記六・四〜五と一体にした形を用いて、この「隣人を自分自身のように愛しなさい」というレビ記(一九・一八)の言葉で要約しておられます(マルコ一二・二八〜三四)。ラビたちも六〇〇を超える戒めをレビ記一九・一八の展開と見ていました(ルカ一〇・二五〜二八)。この点ではラビたちもイエスもパウロも同じ線上にあります。ただ、パウロの場合は律法を要約するとき、申命記の「心を尽くし、力をつくして神を愛すべきである」という規定に触れることは少ないことが目立ちます。パウロが「神の愛」というときは、神がわたしたちを愛してくださったという面が圧倒的です。これは、パウロが恩恵に圧倒されて生きていることの結果であり、ヨハネがその手紙(T四・一〇)で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と言っていることと同じ線上にあります。

 だいたい律法というものは、その大部分は「なになにするな」という禁止規定です。すなわち、律法は人が悪を行うことを禁止するための規定です。ところが、もともと愛から出る行為には隣人への悪はないのですから、「だから」愛は律法を満すと続けることができます。相手を愛しているとき、その愛する相手を苦しめ悲しませるような悪を行うことはありません。愛しているならば、自然に相手に善だけを行うようになります。隣人を愛しているとき、わたしたちは自然に律法を満たしているのです。
 
 ここで注意しなければならないことは、「愛は律法を満たす」のですが、その逆の「律法を順守することは愛を満たす」とはなりません。律法は本来禁止規定ですから、その規定を全部守って、相手に悪をなさなかったからといって、それが愛になるわけではありません。道徳的に完璧な行いをする人がただちに愛の人であるとは限りません。愛は内から溢れ出る命の営みです。悪をしないという外面的行為あるいは不作為をいくら積み上げても愛にはなりません。愛は、愛という命の源泉である神から賜るものです。神の愛を受けてはじめて、わたしたちは神が求めておられるような質の愛で、互いに愛し合うことができるようになるのです。「父が慈愛深い方であるのだから、(その慈愛を受けて)あなたたちも慈愛深い者であれ」と言えるのです。
 
 律法を「要約する」ことと「満す」ことは別です。ユダヤ教においても律法は隣人愛に要約されていました。しかし、要約したことは律法を満したことにはなりません。イエスも、律法を見事に要約した律法学者に向かって、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言っておられます(ルカ一〇・二五〜三七参照)。律法を満す、すなわち人間が神の意志を実現するためには、人が神の愛を受けて、その愛によって愛し合う必要があります。律法を満す愛は、(悪を行わないというような)人の行為の集積ではなく、神から受ける愛、すなわち聖霊によって注がれる愛(五・五)によって可能になります。愛は聖霊による神の賜物であるという消息を、パウロはガラテヤ書(五章)やコリント書(T一三章)で詳しく展開していましたが、ローマ書ではあまり詳しくは語っていません。しかし、「愛は律法を満す」という場合の愛は、聖霊によって注がれる神の愛であることを見落としてはなりません。


  37   時をわきまえて(13章11〜14節)

 11 あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい。あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです。今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです。 12 夜は更け、日は近づいたのです。それゆえ、わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか。 13 わたしたちは、日中に歩く者としてふさわしく歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはないように。 14 むしろ、主イエス・キリストを身にまとい、欲望を満たすために肉に心を向けないようにしなさい。

眠りから覚める時

 「あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい」。(一一節前部)
 
 使徒は、ここまでに語ってきた実践的な勧告をこの言葉でまとめます。原文では「そして、(時をわきまえて)このことを」とあるだけですが、「このこと」というのは以上の勧告全体を指すのですから、「このことをしなさい」と補って訳します。
 
 「時をわきまえて」というときの「時」の原語は《カイロス》です。これは、新約聖書の用法では救済史的な意味をもつ用語で、救済史の中で神の決定的な働きが行われる時点を指します。「《カイロス》をわきまえる」とは、今が救済史の上でどのような時であるかを把握し自覚していることを意味します。
 
 キリスト者の生き方は、《カイロス》をわきまえることが重要な動機となります(テサロニケT五・六、コリントT七・二六、二九〜三一など)。この段落(一三・一一〜一四)は、キリストに属する者がどのような「時」に生きているのかを改めて自覚させようとしており、「今のアイオーン(時代)と同じかたちになることなく、かたちを変えられよ」という導入の段落(一二・一〜二)と対応して、キリスト者の生き方についての勧告(一二〜一三章)を囲い込み、その勧告全体の根拠を示していることになります。
 
 キリストに属する者は、今の時はキリストの十字架と復活という出来事において、新しいアイオーンがすでに到来していることを知っています。パウロはそのキリスト者の自覚を前提として、そのキリストの出来事の意味内容をさらに説明します。
 
 「あなたがたが眠りから覚めるべき時がすでに来ているからです」。(一一節中間部)
 
 ここの「時」は《ホーラ》という語が用いられています。これはあることが起こる「時点」を指す語で、ここでは《カイロス》とほぼ同じ意味で用いられているので、両方を同じ「時」で訳しています。

 

 ヨハネ福音書では、十字架・復活という決定的な出来事が起こる時を指すのに、《カイロス》ではなく、この《ホーラ》が用いられています。 

 「眠りから覚める」という比喩は、宗教上の様々な体験や出来事を象徴するのによく用いられる表現です。たとえば、福音書では死者が復活することを指し(マルコ五・三九、ヨハネ一一・一一など)、後のグノーシス主義では無知の状態(眠り)にある魂が天来の霊知に目覚めて救われることを指します。ここでパウロはこの比喩を、終末が近いことを自覚して祈り備えることを意味する黙示思想的な方向(マルコ一三・三二〜三七)で用いています。しかし、パウロの場合、正確に言うと、たんに未来の出来事を待ち望むのではなく、八章で示したように、現在すでにキリストにあって終末(来るべきアイオーン)の命である聖霊を宿すことによって、「このアイオーン」に埋没している(眠っている)者ではなく、終末に属する者であるという自覚をもって(目覚めて)生きるようになることを指しています。
 
 このような終末に属する者であるという自覚は、キリストにあって賜っている聖霊によって、「すでに来ている」のです。この意味でパウロの終末論は「実現された終末論」の一面を持っています。同時に次の文の「近づいている」という句が示すように、将来への待望の面も持っています。この「すでに来ている」と、まだ来ていないが間近に「近づいている」という二つの面の緊張が、パウロの終末論、ひいては新約聖書の終末論の特質をなします。
 
 「今やわたしたちの救いは、わたしたちが信仰に入った時よりも近づいているのです」。(一一節後部)
 
 パウロにおいて「救い」は、キリストの来臨《パルーシア》のときに死者からの復活にあずかることで完成するという、将来の事態を指す用例が多くあります。ここはその典型的な一例です。そのような意味の「救い」は、「わたしたちが信仰に入った時よりも近づいている」と言えます。
 
 キリストの来臨によって完成される救いまでの期間が、信仰に入った時からの数年、あるいは十数年分だけ短くなったという表現は、パウロがキリストの来臨をきわめて具体的に近い将来に期待していたことをうかがわせます。キリストの来臨まで数百年、あるいは数千年にわたる地上の歴史を予想しなければならないとすれば、このような表現はできません。パウロは自分の生涯の期間中に来臨を迎えると期待していた(コリントT一五・五二参照)ので、このような語り方になったと言えます。

 

 このような使徒時代の切迫した来臨待望を現代のわたしたちはどのように受け止めるべきかについては、拙著『マルコ福音書講解U』155頁の「現代におけるパルーシア待望」を見てください。 

日は近づいた

 この間近に迫っている主の来臨に備えて歩むようにという勧告を、パウロはこれまでの福音宣教においてしてきたように、きわめて黙示思想的色彩の濃い用語を用いて、ローマの兄弟たちにも説き勧めます。
 
 「夜は更け、日は近づいたのです。わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身につけようではありませんか」。(一二節)
 
 悪が支配する「このアイオーン」と、神が支配される「来るべきアイオーン」を、夜と昼の比喩で語り、夜が更けてその暗闇がますます深くなるのは、朝の到来が近いことの兆候であるとするのは、黙示思想の典型的な表現です。
 
 黙示思想の文書では、この昼と夜の比喩から、神に属する者(義人)たちを「光の子ら」、神に敵対する者(迫害者)たちを「暗闇の子ら」と呼び、彼らの働きをそれぞれ「光のわざ」、「暗闇のわざ」と表現します(たとえば死海文書の「宗規要覧」や「戦いの書」など)。ここでは、パウロもこの黙示文書の比喩を用いて語っています
 
 パウロはすでにこの黙示思想的な比喩をテサロニケ書(T五・五〜八)で用いて、主の来臨に備えるように説き勧めていました。パウロの切迫した来臨待望は、最初の書簡とされるテサロニケ書から最後の書簡とされるローマ書まで、すなわちパウロの福音宣教の働きの全期間を通して、一貫して変わらないことが分かります。

 

 パウロの福音宣教における黙示思想の影響とその意義については、拙著『パウロによるキリストの福音T』のテサロニケ書講解の部分を見てください。 

 パウロは、「わたしたちは暗闇のわざを脱ぎ捨てようではありませんか」と、自分を含めてキリストの民の在り方を一人称で勧告します。「暗闇のわざ」は、次節(一三節)で「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」と具体的に内容があげられ、それがさらに一四節で、「肉の願うところ」と表現されます。この「暗闇のわざ」のリストは、ガラテヤ書(五・一九〜二一)で「肉のわざ」としてあげられている内容とかなり重なっています。このような肉の働きは、衣服を脱ぐように、脱ぎ捨てることが求められます。
 
 そして、「わたしたちは光の武具を身につけようではありませんか」と勧告されます。「暗闇のわざ」がやや詳しくその内容が列挙されていたのに対し、「光の武具」の場合は、個々の内容は列挙されず、ただ「主イエス・キリストを身にまとう(着る)」と表現されています(一四節)。テサロニケ書(T五・八)では、「光の武具」は「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり」と表現されていました。また、後にエフェソ書の著者はこの「光の武具」の内容をさらに詳しく「神の諸々の武具」として列挙するようになります(エフェソ六・一〇〜一八)。しかし、ローマ書では「主イエス・キリストを身にまとう」という一句で語られます。
 
 こうして、わたしたちは「夜にも暗闇にも属せず、光の子、昼の子」なのですから、昼の光の中に歩むように求められます。
 
 「わたしたちは、日中に歩く者としてふさわしく歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはないように」。(一三節)
 
 「眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔う」のですから、昼に属するわたしたちは「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみに歩むことはない」はずです。昼に属する光の子として、わたしたちがなすべきことは「主イエス・キリストを着る」ことです。
 
 「むしろ、主イエス・キリストを身にまとい、欲望を満たすために肉に心を向けないようにしなさい」。(一四節)
 
 終末の待望を黙示思想の用語を用いて語りながら、ここでパウロは黙示思想と決定的な違いを示します。黙示思想では「光の子ら」の武具は律法順守の精神と献身ですが、福音においては「主イエス・キリスト」ご自身です。キリスト者は「キリストの中へバプテスマされる」ことによって「主イエス・キリストを着た」のです(ガラテヤ三・二六〜二七)。すでに着たキリストをしっかり身にまとって歩むことが、暗闇の力と戦うための「光の武具」であり、光の中を歩み、救いに達するための力なのです。
 
 キリストに属する者は光の子ですが、自分自身の中に光と力をもってはいません。上に着たキリストが光であり、光の子にふさわしく歩ませる力であるのです。このキリストを着て、キリストの中にしっかりとくるまれて生きる姿を、パウロは繰り返し「エン・クリストー」という句で語っています。わたしたちがキリストに結ばれ、キリストに合わせられて生きるとき、その「キリストにある」という場に働いてくださる聖霊の力により、わたしたちは「肉」に心を向けることなく、「肉の欲」に打ち勝つことができるのです。
 
 パウロがいう「肉」とは、生まれながらの人間の本性です。その本性の欲求は、「酒宴と酩酊、淫乱と好色」というような身体的な欲望だけでなく、支配欲や名誉欲など内面的な欲求を含み、「争いとねたみ」、怒りと利己心、傲慢と冷酷など、様々な人間の悪徳の源になっています。パウロはこのような悪徳を、ガラテヤ書(五・一九〜二〇)で「肉の働き」として詳しく語っていましたが、ここではその代表的なものをあげて、そのような欲望を満たすために肉に心を向けないように求めます。
 
 ガラテヤ書では、そのような肉の欲求に対立し、それを克服するのは聖霊の働きでした(ガラテヤ五・一六〜一七)。ローマ書では、御霊とか聖霊という用語は出てきませんが、御霊が働かれる場である主イエス・キリストに結びつくことを指し示すことによって、御霊に導かれ、肉の働きを克服することを求めているのです。主イエス・キリストに心を向けることと肉に心を向けることは、まったく逆の方向の志向であり、わたしたちはどちらか一方を選ばなければなりません。

 

 この箇所(一三・一一〜一四)は、アウグスティヌスの回心との関連で有名です。彼が三二歳のころ、それまでの生涯への悔悟と内面の矛盾に苦悩してある庭園で泣いていたとき、隣の家から子供たちが歌う「取れ、読め」という声を聞き、それを天からの声と感じて、聖書を取り、開いて読んだ箇所がこの箇所です。彼はその中の「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲望を満たすことに心を向けてはならない」という言葉に打たれて回心を体験します。 

 パウロはこの段落で、ローマのキリスト者だけではなく、世々のキリストの民に向かって、人間の生まれながらの本性が欲求することに心を向けることなく、主イエス・キリストにしっかりと結びついて歩むことによって、主の来臨に備えるように励ましています。
 
 このように、主の来臨が近いことを自覚し、「時をわきまえて」歩むようにという勧告は、最初の手紙であるテサロニケ書Tから最後の手紙であるローマ書まで一貫して変わらないことを見ました。テサロニケ書Tを扱ったとき詳しく触れたように、パウロの表現には当時のユダヤ教黙示思想の用語や枠組みが用いられていて、現代のわたしたちはそのような黙示思想の枠組みを受け入れることは困難かもしれません。むしろ、無理に受け入れることは危険であるかもしれません。現代では脱黙示思想化が必要でしょう。しかし、パウロが「キリストの来臨《パルーシア》」とか「死者の復活」という形で語っている将来への希望は、福音の本質に属する事柄です。御霊の現実に生きるとき、その御霊の命は時間の中では将来の完成・顕現の希望という形にならざるをえません。その希望を捨てることは、福音を破壊することになります。この段落は改めて、キリストの福音に生きる者にとって希望が本質的なものであること、それがなければ福音が福音でなくなる質のものであることを思い起こさせます。

恩恵と終末の場での勧告

 使徒パウロがキリスト者の地上の歩みについて与える実際的な勧告(一二〜一三章)は、「あなたがたの身体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝です」という一二章一〜二節の導入の段落で始まり、「あなたがたは時をわきまえて、以上のことをしなさい」という、終末の時に生きている自覚を促すこの段落(一三・一一〜一四)で締め括られています。ここで述べられる勧告はすべて、「そこで、兄弟たちよ、わたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(一二・一)という最初の言葉が指し示しているように、わたしたちが神の恩恵によって救われているという事実から出るものです(一二・一の講解を参照)。
 
 そもそもパウロが神から遣わされた使徒として世界に語りかけるさい、神がキリストにおいて成し遂げてくださった救いを受け取るように語るときも、救われてキリストに属する者となったとき実際の生活においてどのように歩むべきかを説くときも、同じ「わたしは勧める」《パラカレオー》という言い方で語りかけます。たとえば、恩恵による救い(和解)を告知する福音を受け取るように語るとき、使徒はキリストの使者として、また神の協力者として、聴く者たちに「勧めます」(コリントU五・一九〜六・二)。そして、同じ「わたしは勧めます」という語を用いて、このローマ書の実践的な勧告を語り始めます。使徒としてのパウロにおいては、福音の告知(preaching)も実践的な勧告(teaching)も、ともに「わたしは勧めます」《パラカレオー》という語り方に含まれます。このことはすでに最初の書簡であるテサロニケ書に顕著に見られます。

 

 テサロニケ書簡Tはよく「勧告《パレネーシス》の手紙」と呼ばれますが、パウロが信徒に実践的な面で勧めをするとき、《パレネーシス》系の用語を用いることはほとんどなく、《パラクレーシス》とその動詞形を用いることが圧倒的に多くあります。テサロニケTでも、名詞《パラクレーシス》は二・三の一回ですが、動詞形《パラカレオー》は、この短い手紙に八回(二・一二、三・二、三・七、四・一、四・一〇、四・一八、五・一一、五・一四)も繰り返されています。そして、この動詞こそ「励ます、慰める、勧める」という広い意味合いをもつ動詞であり、パウロの福音における働きを指し示すのに最適の用語です。その中で少なくとも二・一二は福音の招きについて語られていると見られます。パウロがこの語をよく用いたことが、ヨハネ福音書の《パラクレートス》という聖霊の呼び方と関連があるのかどうかは分かりませんが、興味深い問題です。 

 パウロの実践的な勧告には、たしかに当時のギリシア・ローマ世界の倫理的教訓やユダヤ教会堂の実践訓と用語や内容で似たところもありますが、パウロの場合は福音の告知、すなわち恩恵の支配の告知と一体として語られていることを見逃してはなりません。パウロが語る倫理的・実践的勧告はすべて、恩恵の場に生きることの具体化です。このことは、「悪をもって悪に報いるな」という勧告に典型的に見られました。それだけでなく、「上にある権威に服従しなさい」という勧告も、恩恵によって神の国の栄光の富にあずかる者として、地上の富はその富を支配する者に任せておけばよいという距離感が背景にあると見てよいでしょう。
 
 イエスが敵を愛する愛を説かれたとき、それは父の無条件絶対の恩恵を受けて恩恵の場に生きる者の生き方として説かれたのでした。そのことは、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という一言にまとめられています。「あなたがたは父の無条件絶対の愛を受けて生かされているのであるから、あなたがたも隣人に対して無条件絶対の愛をもって対しなさい」と言っておられるのです(ルカ六・二七〜三六)。パウロの実践的な勧告も同じ原理に立っています。
 
 もう一つ、パウロの勧告で見逃すことができない原理は、それが終末の場に生きる者の自覚から出ているという点です。すでに、実践的勧告を導入する序説(一二・一〜二)で、「この世と同じかたちになることなく」と言っていました。そこで指摘したように、「この世」と訳した「この《アイオーン》」という表現は、黙示思想の概念であって、神の支配が顕現する「来るべき世《アイオーン》」に対して、神に敵対する力が支配する現在の時代を指しています。キリストの民は「来るべき《アイオーン》」に属する民であり、聖霊によりその現実を先取りして与えられているのですから、その第一の勧告は、「来るべき《アイオーン》」と対立する「この《アイオーン》」のかたち(原理、姿、外観)に同化しないこととなります。以下に続く実践的な勧告は、「来るべき《アイオーン》」に属する民として、「この《アイオーン》」の原理に同化しないで生きる生き方を具体的に説いていることになります。
 
 上にある権威に服従しなさいという勧告も、権威の支配は「この《アイオーン》」での事柄であり、やがて過ぎ行くものであるから、「来るべき《アイオーン》」に属する民であるあなたがたは、地上に生きている間は地上のことは彼らに委ねおけばよいという姿勢から出ている一面があります。朽ちるべき地上の富ではなく、「来るべき《アイオーン》」が到来するときに受ける栄光の富を目指して歩むことが求められているのです。イエスも、「人は、たとえ全世界を手に入れも、自分の命(終末的な永遠の命)を失ったら、何の得があろうか」(マルコ八・三六)と言い、また「天に富を積みなさい」(マタイ五・一八〜二一)と勧めておられますが、これも終末の場に生きる者の姿勢から出ています。
 
 パウロは、一般的な実践的勧告を締め括る最後の段落(一三・一一〜一四)で、これまでの勧告が主の来臨が差し迫っている場でなされていることを明白に語っています。このことは、最初の書簡であるテサロニケ書Tの時から最後の書簡であるこのローマ書まで変わっていません。使徒パウロは、自分が地上にいる間に主の来臨があるという差し迫った意識で、地の果てまで福音を宣べ伝えようとし、また、主に属する民に歩み方を説き勧めるのです。

 

 キリストの民の終末的自覚については、巻頭言「未来から来た民」も参照してください。 



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