パウロによるキリストの福音 III


 第一六章 強い者と弱い者 



  38  互いに受け入れよ(14章1〜12節)

 1 確信の弱い人を受け入れなさい。意見の違いについての論争に陥らないように。 2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べます。 3 食べる人は食べない人を軽蔑してはなりません。食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はその人を受け入れておられるからです。 4 他人の召使いを裁くあなたは、いったい何者ですか。彼が立つのも倒れるのも、彼の主人によるのです。彼は立たせられるでしょう。主は彼を立たせることができるからです。
 5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もあれば、すべての日を同じであると判断する人もいます。それは、各自が自分の心に確信しているべきことです。 6 日を重んじる人は、主によって重んじるのです。食べる人は主によって食べるのです。その人は神に感謝しているからです。食べない人は主によって食べないで、神に感謝するのです。 7 わたしたちの中では、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はありません。 8 わたしたちは、生きるとすれば主によって生き、死ぬとすれば主によって死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。 9 キリストが死に、また生きておられるのは、まさに死せる者たちにも生きている者たちにも主となるためなのです。10 それなのに、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。また、なぜあなたは兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の座の前に立つことになるのです。 11 こう書かれています。
 主は言われる。「わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神に言い表すことになる」。
 12 このように、わたしたちは一人ひとり神に自分のことを申し述べることになります。

確信の弱い人と強い人

 一二章と一三章で、キリストに属する者としてこの世でどのように歩むべきかを説き勧める一般的な勧告をした使徒は、ここから宛先のローマ集会について聞き及んでいる特殊な問題についての勧告に入ります。その特殊な問題は、「確信の弱い人」と「強い人」との対立という表現で取り上げられます。

 確信の弱い人を受け入れなさい。意見の違いについての論争に陥らないように。(一節)
 最初に「確信の弱い人」と言われていますが、以降では「弱い人」とだけ言われます。反対の「強い人」という句は、一五章一節になってはじめて登場します。ここで「確信」とは、原語では《ピスティス》です。《ピスティス》は普通「信仰」と訳される語です。しかし、ここでは「信仰によって義とされる(救われる)」というときの信仰、すなわちイエスを主キリストと告白する信仰を指すのではなく(その意味での信仰には強いとか弱いはありません)、キリストに結ばれて生きるさいの、その生き方に対する確信を指します。ここで具体的には、キリストにある者は律法から解放されているという自由の確信を指しています。

 

 新共同訳は、ここでは《ピスティス》を「信仰」と訳し、他の箇所(一四・二二〜二三)では「確信」と訳しています。NRSVは、本文で faith と訳し、欄外に conviction という訳語をあげています(一四・一、二二、二三)。

 この「強い人」と「弱い人」の対立が具体的にはどのような種類の人たちを指すのかは、以下の本文の解釈に待たなければなりませんが、この対比が最後にはユダヤ人と異邦人の対比で終わっている(一五・七〜一三)ことを念頭に置いて理解しなければなりません(もちろん、後述するように、単純にユダヤ人信徒を「弱い人」、異邦人信徒を「強い人」と言っているのでありません)。
 
 キリストを信じる者たちの中で、モーセ律法を守らなければならないと信じている人たちと、守らなくてもよいと考えている人たちの融和は、パウロの異邦人伝道において最大の課題でしたが、本書簡ではこの問題が「弱い者と強い者」の問題として扱われることになります。
 
 使徒は「受け入れなさい」という勧告で、このローマ集会の特殊な問題についての勧告を始め、最後に「互いに相手を受け入れなさい」(一五・七)という段落で締め括っています。この最初と最後に出てきて全体を囲い込んでいる、「互いに相手を受け入れなさい」という勧告こそ、ローマ集会に対する使徒の勧告の鍵です。
 
 使徒はローマの集会の兄弟たちに、「意見の違いについての論争に陥らないように」説き勧めます。すなわち、ただ相手の考えを批判し、互いに非難して交わりを拒否するようなことはしないで、相手をあるがまま受け入れることを求めます。

食べ物の問題

 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べます。(二節)
 集会の中には、モーセ律法で「汚れたもの」として禁じられている肉(たとえば豚肉)であろうと、偶像に供えられた肉であろうと、市場で売っている肉は何を食べてもよいと確信している人がいます。このような人が、そのような肉は食べることができないとして、野菜だけを食べる「弱い人」との対比で、(その表現はまだ出てきませんが)「強い人」と見られていることになります。
 
 「何を食べてもよいと信じている人」がいる一方、市場で売っている肉は偶像に供えられた肉である可能性があるので、偶像に供えられた肉を食べることで汚れを受けるのを避けるために、肉を一切食べないで、野菜だけを食べている人たちがいました。これは宗教的な殺生禁止や栄養学上の菜食主義のことではありません。どの肉でも食べる人と肉をいっさい食べない人の対立の問題は、すでにコリント第一書簡(八章)でも取り上げられていて、食べない人が「弱い人々」と言われています。
 
 食べる人は食べない人を軽蔑してはなりません。食べない人は食べる人を裁いてはなりません。神はその人を受け入れておられるからです。(三節)
 軽蔑して相手をあるがままに受け入れないことは、裁くことと同じです。相手を軽蔑する者は、自分を裁く者の場(相手の価値を判断する立場)に置いていることになります。「軽蔑するな」は、続く「裁くな」と一対になって、「互いに裁き合わないように」(一三節)という勧告となります。そして、相手を軽蔑したり裁いたりしないで、互いに受け入れ合うようにという勧告の根拠が、「神はその人を受け入れておられるからです」と明確に述べられます。
 
 コリント書T(八・一〜一三)では、使徒は食べる人に対して、知識に誇って、食べない「弱い人々」をつまずかせるような行動をしないように、愛によって行動しなさいと勧めていましたが、ここでは別の原理で勧告されます。すなわち、神が(肉を)食べる人も食べない人も受け入れておられるのだから、あなたもその人を受け入れなさいと勧告されます。神が受け入れておられる者を拒むことは、自分の判断(相手に対する価値判断)を神の判断よりも上に置くことを意味します。これは、あってはならないことです。
 
 このように、「互いに受け入れなさい」という勧告の根拠を示すところで、神に受け入れられる(救われる、義とされる)のに人間の側の資格や条件や行為は何も関わりがないという、パウロの「恩恵の支配、信仰による義」の原理が具体的な形で現れていることになります。
 
 他人の召使いを裁くあなたは、いったい何者ですか。彼が立つのも倒れるのも、彼の主人によるのです。彼は立たせられるでしょう。主は彼を立たせることができるからです。(四節)
 「互いに裁き合わないように」という勧告が、主人と召使いの関係を比喩として、繰り返されます。キリスト者はそれぞれ主キリストに仕えるキリストの僕であって、あなたの僕ないし召使いではない。それゆえ、あなたが他のキリスト者を裁く(その価値を定める)ならば、それはあなたが勝手に自分をその人の主人としているのであり、「他人の召使いを裁く」ことになります。そのような僭越行為は許されません。
 
 後半の文の「彼」は「召使い」を指しています。ここでパウロは、批判され裁かれている兄弟を指しています。あなたが批判しているその兄弟が立つのも倒れるのも、彼の主人である主キリストによるのです。あなたは駄目だと断定しても(裁いても)、主は彼を立たせられます。主はいかなる人をも恩恵の力で立たせることができるからです。この宣言の背後には、主は迫害者であり敵であったパウロをも、御自分の僕とし、福音の器として立てられたという体験があるのでしょう。

日を守る問題

 弱い者と強い者の対立の問題について、使徒は食べ物の問題に続いて、ある特定の日を重んじるかどうかというもう一つの問題を取り上げます。

 ある日を他の日よりも尊ぶ人もあれば、すべての日を同じであると判断する人もいます。それは、各自が自分の心に確信しているべきことです。(五節)
 「ある日を他の日より尊ぶ人」というのは、安息日や断食日や祝祭の日など、ユダヤ教律法に規定されている日に、特別の宗教的行事をしなければならないと考えている人を指していると見られます。異教の祝祭の日を守ることは、もはや問題にはなっていないでしょう(後で述べるように、ガラテヤ四・一〇の場合とは状況が違うと考えられます)。そのような人に対して、「すべての日を同じであると判断する人」とは、キリストに属する者はモーセ律法から解放されているのだから、ユダヤ教律法に定められた特定の日に特別の行事をする必要はないと考えている人を指すのでしょう。
 
 「ある日」を、他の日とは違う特別の意味のある日とするか、特別の意味を認めず他の日と同じとするかという問題は、おもに安息日のことではないかと考えられます。少なくとも、それを安息日の問題として見ますと、ここで問題になっていることが具体的に理解できます。
 
 ユダヤ人にとっては、安息日の定めは命をかけても守らなければならない聖なる定めであり、長年守ってきた民族の宗教的習慣でした。それはイエス・キリストを信じるようになったからといって、すぐに止めることができるような習慣ではありません。一方、異邦人信徒にはこのような習慣はなかったのですから、安息日も他の日と変わらない一日にすぎません。ユダヤ人信徒が異邦人信徒に一緒に安息日を守るように求めたのか、あるいは(ローマの知識人がユダヤ教徒の安息日習慣を怠慢として嘲笑したのと一緒に)異邦人信徒がユダヤ人信徒の安息日習慣を嘲笑したのか、実際に何があったのかは分かりませんが、安息日についてユダヤ人信徒と異邦人信徒の間にトラブルがあることを、パウロは伝え聞いたのではないかと考えられます。
 
 この問題に対するパウロの態度は、きわめて慎重です。「それは、各自が自分の心に確信しているべきことです」と言っています。すなわち、どちらかを正しいとするのではなく、どちらの態度も認めて、両者が互いに受け入れ合うように促します。
 
 使徒は、安息日を順守すべきかどうかは各人の確信の問題だとします。ユダヤ人信徒が、安息日の定めは神の定めであって、それは生涯順守すべき定めであると確信して、安息日規定を守るのであれば、それは彼のキリスト信仰を妨げるものではないとします。一方、異邦人信徒がモーセ律法から自由であるという確信をもって、モーセ律法によって安息日には禁じられている労働をしたとしても、それは彼のキリスト信仰を妨げることはないとします。ユダヤ人にとって絶対的であった安息日律法は相対化されています。パウロは安息日律法を相対化することによって、それを守るユダヤ人信徒も、それを守らない異邦人信徒も、互いに受け入れ合うことができる場を造ったのです。
 
 特定の日についての宗教的規定を守ることに関しては、パウロはガラテヤの信徒たちが「いろいろな日、月、時節、年などを守っている」ことを伝え聞いたとき、それを「あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りする」ことだとし、「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではないか」と心配しています(ガラテヤ四・八〜一一)。これはローマ書の勧告とはずいぶん違っています。この違いは状況の違いから理解されます。
 
 ガラテヤでは、もともとモーセ律法と関係なく、信仰によって聖霊を受けて歩んでいた異邦人信徒が、後から来たユダヤ主義者たちの要求によって、割礼を受け、モーセ律法の日や時節に関する律法とか、宇宙の諸霊の礼拝のために日、月、時節、年などの宗教規定を守るようになったのでした。これは、律法と無関係にキリスト信仰によって与えられる神の義という福音からの脱落であり、異邦人信徒のユダヤ教改宗は福音の真理の否定として、パウロにとってどうしても阻止しなければならないことでした。
 
 それに対してローマでの問題は、すでにユダヤ教徒として「日を守る」ことを続けようとする信徒たちと、ユダヤ教徒であっても「確信の強い人」で、そのような律法の規定から解放されている人および彼らの同調者である異邦人信徒たちという二つのグループの間の対立であって、問題の性格が違います。この違いを理解するために、ここでもう一度当時のローマの状況を見ておきたいと思います。

ローマ集会の状況

 帝国の首都ローマに誰がどのようにして福音を伝えたのか、またどのような形でローマにキリストの民が成立したのか、その事情は正確には分かりません。ローマのユダヤ人共同体がエルサレムとの間に保っている密接な交流からすると、おそらく30年代初頭にエルサレムで始まったイエスをメシア・キリストと信じる新しい信仰が、無名のユダヤ人信徒によってローマにも伝えられて、ユダヤ教会堂の内部に、ユダヤ人の信徒と「神を敬う」異邦人の信徒からなるキリストの民が生まれていたと推察されます。

 

 ローマにおけるキリストの民の成立とその状況について詳しくは、本講解の最初に執筆事情を解説した箇所の「ローマの信徒たちへ」という項(天旅二〇〇一年6号18頁)で述べましたので、そこを参照してください。なお、そこでも述べましたが、当時のローマの信徒たちの状況を推定するさい、ローマ書一六章をローマに宛てられた手紙本体の一部と見て、参考にしています。

 当時ユダヤ教はローマの公認宗教(レリギオ・リキタ)でしたので、キリストを信じる者たちは、ユダヤ教会堂の中でユダヤ教徒の一部として、公認宗教の保護の下に活動することができました。ところが、おそらく律法順守の問題をめぐって会堂指導層とイエスの信徒の間に紛争が生じ、それが騒乱となります。この「ユダヤ人の間の騒乱」が原因となって、クラウディウス帝は49年にすべてのユダヤ人をローマから追放します。

 ユダヤ人信徒がローマから追放された後、異邦人信徒はユダヤ教という公認宗教の保護を失い、いわば非合法集会として信徒個人の家で小さい集会を続けることになります。ところが、クラウディウス帝の死と共に、54年にユダヤ人追放令は解除され、ユダヤ人は続々とローマに帰ってきます。キリストの信徒たちは、もはやユダヤ教会堂の中ではなく、会堂とは別に「家の集会」を続けますが、そこにユダヤ人信徒を迎え入れることになります。
 
 ユダヤ人信徒が追放されている五年間に状況は大きく変わっていました。残された異邦人信徒たちは力強く福音を証して多くの異邦人信徒を獲得し、帝国の首都のキリスト信仰が「全世界に言い伝えられる」ようになっていました(一・八)。そこへユダヤ人信徒が戻ってきて問題が生じることになります。
 
 パウロはここで、肉を避け野菜だけを食べる人、また特定の日を守る人を「確信の弱い者」と呼び、そのような区別を超えている人を「強い人」と呼んでいますが、これは単純にモーセ律法を守るユダヤ人と、そのような律法による区別を知らない異邦人を指しているのではありません。むしろ、ユダヤ人信徒の間で野菜だけを食べ日を守る人たちと、その区別を超えている人たちの対立を指していると見られます。
 
 何と言っても、この時期では聖書の民であるユダヤ人信徒が集会で中核的な立場を保っていたのではないかと考えられます。そのユダヤ人の間の対立に異邦人信徒も加わって、「弱い人」と「強い人」の対立が生まれていたと見るべきでしょう。おそらく「弱い」ユダヤ人信徒に説得されて肉を避け日を守る異邦人信徒は僅かで、本来モーセ律法とは関係のない異邦人信徒の大部分は、そのような区別を認めない「強い人」の側についたと見られます。ユダヤ人の中で、たとえばプリスキラ・アキラ夫妻のようにパウロのよき理解者であり協力者であったユダヤ人は「強い人」の代表であったでしょう。
 
 肉を避け日を守る人を「確信の弱い者」と呼ぶ呼び方自体に、パウロがそのような食べ物や日の区別を乗り越えて信仰に生きることを求めている姿勢がうかがえます。しかし、パウロはまず「強い人」に「確信の弱い人を受け入れる」ことを求めます。おそらく、モーセ律法の規定を守ることにこだわるユダヤ人信徒は、ローマでは少数派となり孤立していたのではないかと想像されます。お互いに受け入れることができるように、パウロは続いて両者とも「主によって」生きているのだという原理を掲げます(六〜九節)。

主によって生きる

 日を重んじる人は、主によって重んじるのです。食べる人は主によって食べるのです。その人は神に感謝しているからです。食べない人は主によって食べないで、神に感謝するのです。 (六節)
 特定の日を重んじる人は、そうすることで主に仕えるのだと、「主によって」、すなわち、主に仕えることを理由として特定の日を重んじているのです。

 

 六節に二回繰り返されている「重んじる」と訳した動詞は、八・五〜七で「志向する」と訳した動詞と同じです(この語の意味についてはその箇所の注を参照してください)。

 偶像に供えられた肉でもよいとして肉を食べる人は、主が与えてくださった自由によってそうする確信を得ているのですから、彼は「主によって」肉を食べると言えます。このような主からの自由によって食べる人にとっては、「すべての食べ物は清い」(一四・二〇)ものであって、その人はすべての食べ物を神から賜っているものとして感謝しているから食べるのです。
 
 また、「食べない人」も「主によって食べない」と言われます。この場合の「主によって」は、主を信じる者は律法のより徹底した順守を必要とすると確信しているから食べないという意味でしょう。そして、食べないことを主に感謝するのです。おそらくこれは、そのような律法が神から与えられていることと、律法が禁止しているものを食べない力を与えてくださった神に感謝するという意味でしょう。

 

 「神に感謝するのです」という文は《カイ》で始まっていますが、「食べないで、そして感謝する」という単純な結果を示すのか、または、「食べる人」が神に感謝するように、「食べない人もまた」神に感謝すると言っているのか、決定することは困難です。いずれにしても、食べる人も食べない人も神に感謝することは共通で、それが大切なのであるから、お互いに非難することはないと言おうとしています。

 わたしたちの中では、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はありません。わたしたちは、生きるとすれば主によって生き、死ぬとすれば主によって死ぬのです。(七節〜八節前半)
 使徒はローマのキリスト者たちに呼びかけます。「わたしたち」キリストに属する者は、復活者キリストが自分のために死なれた事実に自分の全存在を委ねることでキリストに属する者となっている者たちです。七節から九節までの「わたしたち」は、コリントU五・一四〜一五で「わたしたちはこう考えます」と告白する「わたしたち」と同じです。この「わたしたちの中では」、だれ一人自分で生きる者はなく、だれ一人自分で死ぬ者はないのです。

 

 七節から八節前半では、三格の形の「自分自身に」と「主に」という名詞の後に「生きる」と「死ぬ」という動詞が続いて、二つの生き方・死に方が(正確に対応する構文で)対比されています。直訳すれば、「わたしたちの中では、だれ一人、自分に生きるものはなく、自分に死ぬ者はいません。わたしたちは、生きるとすれば、主に生きるのであり、死ぬとすれば、主に死ぬのです」となります。「主に生きる」という日本語表現は、ガラテヤ三・一九の「神に生きる」の並行表現として理解できますが、「主に死ぬ」は理解困難です。「自分に死ぬ」は、「神に生きるために自分に死ぬ」という場合は理解できますが、ここではそのことが「自分に死ぬ者はない」と否定されているのですから、この訳は不適切となります。それで、意味を狭く限定する嫌いはありますが、何かの語(欧米諸語では前置詞)を補って訳さざるをえなくなります。問題はここで用いられている三格の意味です。三格の本来の意味は「誰それに」(与格)ですが、ギリシャ語の三格には「〜によって」という手段や道具の意味(具格)や「どこそこに」(位格)など、他の意味もあって、用例は複雑です。日本語訳(協会訳、新共同訳、岩波版とも)は「のために」と訳しています。フランス語訳もほとんど pour を用いています。ところが、英語訳はほとんどみな (forではなく) to を用いています。ラテン語訳(ウルガタ)やドイツ語訳は三格だけで訳しています。日本語では、六〜八節の三格をみな同じ語を補って訳そうとすると、内容から「のために」よりも、手段を示す三格(具格)として「によって」と理解する方が適切と考えます。四節の三格は明らかに「主によって」の意味です。「自分によって」の場合は、日本語の自然さを考慮して「自分で」と訳しています。

 わたしたちキリストに属する者は、自分で、すなわち自分自身によって生きる者はいません。わたしたちは、生きるとすれば主によって生きるのです。自分自身の中に生きる根拠とか意味とか力があるのではありません。それは主から賜るのです。わたしたちは主によって生かされているのです。

 わたしたちキリストに属する者は、自分で、すなわち自分自身によって死ぬ者はいません。自分の死を決めたり、自分で死を実行する者はいません。死ぬ時も主から賜るのです。わたしたちの死は主が決められることであるという意味で、わたしたちは「主によって」死ぬのです。
 
 このように、わたしたちは、生きるにしても死ぬにしても、自分自身のもの(自分自身に所属する者)ではなく、主のもの(主に所属する者、主が所有される者)なのです。
 
 従って、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのです。キリストが死に、また生きておられるのは、まさに死せる者たちにも生きている者たちにも主となるためなのです。(八節後半〜九節)
 この、わたしたちが生きるにも死ぬにも、主に属する者であることが、キリストの十字架の死と復活という救済の根源的な出来事によって根拠づけられます。わたしたちの救済者であるキリストが、たんに生きて働いておられるというのではなく、ひとたび死んで、その後復活して生きておられるのだと福音が告知するのは、この方が生きている者たちだけでなく、死せる者たちの主となるためであったのです。ここに、キリストの十字架の死の意義が、贖罪のためというだけでなく、キリストを死者の世界の主であることを告知するものとされていることに注目しなければなりません。
 
 このことはすでに、パウロは最初の手紙であるテサロニケ書Tで語っていました。キリストの来臨の前に世を去った兄弟たちのことで動揺していたテサロニケの信徒たちに、使徒はこう言っています。
 
 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても(生きていても)眠っていても(死んだ後も)、主と共に生きるようになるためです」。(テサロニケT五・一〇)
 
 死後の世界においても、主はわたしたちの主であり、わたしたちは主と共に生きるのです。このことがローマ書では、わたしたちが生きるのも死ぬのも主によるのであり、生きていても死んでいても主のものであるということを根拠づけるために用いられています。

 

 テサロニケ書Tの引用聖句については、『天旅』二〇〇四年2号の巻頭言を参照してください。

 それなのに、なぜあなたは兄弟を裁くのですか。また、なぜあなたは兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の座の前に立つことになるのです。(一〇節)
 このように、わたしたちは生きていても死んでいても主に所属する者であるのに、なぜ主人でもないあなたが主に所属する兄弟を裁いたり侮ったりするのかと、使徒は互いに兄弟を裁くことの非理を諭します。わたしたちを裁く方は神だけであることを思い起こさせ、それを聖書の言葉で確認します。
 
 こう書かれています。主は言われる。「わたしは生きている。すべての膝はわたしの前にかがみ、すべての舌は神に言い表すことになる」。(一一節)
 これは七十人訳ギリシャ語聖書のイザヤ四九・一八とイザヤ四五・二三の一部を合成した引用です。後者はフィリピ二・一一にも引用されています。
 
 後者のギリシャ語動詞「言い表す」は、フィリピ書二・一一の引用ではイエスを主と「言い表す」という意味で用いられていますが、ここでは自分のありのままの姿を裁き主である神の前に言い表すという意味で用いられ、次節で解説されます。この動詞は新約聖書では「罪を言い表す」という形で用いられるようになります(マルコ一・五、マタイ三・六、使徒一九・一八)。
 
 このように、わたしたちは一人ひとり神に自分のことを申し述べることになります。(一二節)
 「申し述べる」と訳した箇所は、「決算書《ロゴス》を提出する」という表現が用いられています。この表現は、マタイ一二・三六やルカ一六・二にも用いられています。終わりの日に神がすべての人を裁かれるとき、各人は神の御前に出て、自分の生涯の「決算書を出し」、自分の行為や言葉について「申し開きをする」ことが求められるという初期の共通の確信を引用して、使徒は、裁くのは神であって、わたしたちは互いに裁く立場ではないことを重ねて確認します。


  39  兄弟をつまずかせるな (14章13〜23節)

 13 それゆえに、これからはわたしたちは互いに裁かないようにしよう。むしろ、兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように決心しなさい。決心しなさい。 14 わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています。何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになるのです。 15 食べ物のことであなたの兄弟が傷つけられるならば、あなたはもはや愛によって歩んでいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死なれたのです。 16 ですから、あなたがたにとって善いことがそしられないようにしなさい。 17 神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです。 18 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々から認められるのです。
 19 だから、わたしたちは平和に関わることやお互いを建て上げることを追求しようではありませんか。 20 食べ物のことで神のわざを壊してはなりません。たしかにすべてのものは清いのです。しかし、つまずきを感じながら食べる人には悪いものになります。 21 肉を食べず、酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことを何もしないことが良いのです。 22 あなたは、自分が抱いている確信を、自分で神の前に持ち続けなさい。自分が承認することで自分を裁かない人は幸いです。 23 食べるときに疑っている人は裁かれているのです。確信から出ていないからです。確信から出ていないことはすべて罪です。

浄不浄の区別を超える道

 それゆえに、これからはわたしたちは互いに裁かないようにしよう。むしろ、兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように決心しなさい。(一三節)
 前の段落で、「主に属する者は主の僕であるから、他人の召使いを裁くことはできない。裁く方は主である」という原則を述べたことを受けて、使徒は「それゆえに」と言って以下の勧告を展開します。
 
 イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようになるためである」(マタイ七・一)と言っておられますが、これは広く恩恵の場に生きる者の原則を述べています。パウロがこのイエスの語録を知っていたかどうかは確認できませんが、パウロは同じように恩恵の場に生きる者として、「裁くな」という原則をここでローマ集会の状況に適用します。すなわち、集会内でユダヤ教律法を順守して、肉を避け、特定の日を重んじなければならないと考えている人たち(弱い人)と、そのような規定は守らなくてもよいと考えている人たち(強い人)が、これまでは「互いに」相手を批判し、裁きあうことがあったとしても、「これからは」お互いに裁かないようにしようと呼びかけます。
 
 一三節の最初の部分は直訳すると、「それゆえ、わたしたちはもはや互いに《クリセーナイ》するのではなく、むしろあなたたちは(以下のことをするように)《クリセーナイ》しなさい」となります。同じ動詞《クリセーナイ》が、前の文では「(他者の)価値を決める」という意味で用いられており、後の文では「(自分の)判断を決める」という意味で用いられています。使徒は同じ動詞を用いて、相反する行為の対照を際だたせます。
 
  ここで「決心しなさい」と求められている行為は、「兄弟の前に妨げやつまずきを置かないように」することです。その具体的な実例としてこの段落で、(とくに肉を)食べる行為が取り上げられていることから見ますと、パウロはここで「強い者」に対して、弱い人たちにとってつまずきになるような振舞いをしないように戒めていることになります。
 
 わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています。何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになるのです。(一四節)
 使徒は、「わたしは主イエスにあって、それ自体で汚れたものは何もないことを知っており、またそう確信しています」と言っています。「主イエスにあって」というのは、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚すのである」というイエスの語録(マルコ七・一五)を知っているという意味ではなく(パウロがその語録を知っている可能性を排除するものではありませんが)、主イエスにあって賜っている御霊の自由(律法からの解放)と知恵によって、それ自体で汚れたものは何もないと言う知識をもっているという意味であろうと見られます。パウロはここで「強い者たち」を代表して自分の確信を語っています。
 
 清いものと汚れたものの区別はユダヤ教の基本原理です(レビ記一〇・一〇〜一一)。汚れたものとの接触を避けて、自分を清く保つことがユダヤ教徒の宗教生活の目標です。この区別は日常生活のあらゆる面に及んでいます。ここで問題になっている食べ物については、清い肉(牛や羊)と汚れた肉(猪や豚)が区別されます。また、清い肉でも、偶像の供えられた肉は汚れているとされます。そのような肉を食べる者は自分を「汚れたもの」とすることになります。また、そのような肉を日常食べている異邦人は汚れているとされるので、異邦人との接触も人を汚すとされます。
 
 神は万物を創造して、それをことごとく「良い」とされました(創世記一・三一)。神が造られたものはすべて「良いもの」であって、「汚れたもの」(神に嫌われ拒否されるもの)は何もないのです。「主イエスにあって」、すなわち復活者イエス・キリストに結ばれることで与えられる御霊の場で受けているこの知識と確信は、ユダヤ教の清浄規定を克服しています(無効にしています)。ペトロにはこの知識と確信が、三回も繰り返された幻という非常手段によって与えられたとされていますが(使徒言行録一〇・九〜一六)、この物語は、この知識と確信を持つことがユダヤ教徒にとっていかに困難なことかを示しています。
 
 それ自体で汚れたものはないのですから、汚れとは人の意識の問題になります。「何かを汚れていると考えるならば、それはそう考える人にとって汚れたものになる」のです。一四節全体は、「主イエスにあって」生きる者には、ユダヤ教の浄不浄の規定は実体的な効力を持つものではなくなっており、各人の意識の問題になっていることを主張しています。パウロは、(ユダヤ教律法が有効か無効かを議論することによってではなく)愛によって各人の意識を尊重するように求めることで、ユダヤ教律法がエクレシア内の交わりにもたらしている「隔ての垣根」を乗り越えようとするのです。

 

 この「意識」(新共同訳では「良心」と訳されています)の問題は、コリントT八・七〜一三で詳しく扱われています。詳しくは、『天旅』一九九九年1号のコリントT八章七〜一三節の講解を参照してください。

 食べ物のことであなたの兄弟が傷つけられるならば、あなたはもはや愛によって歩んでいません。あなたの食べ物で兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死なれたのです。(一五節)
「食べ物のことであなたの兄弟を傷つける」とは、一般論としては「食べ物のことで互いに裁く」ことを意味していますが、この段落全体の内容からすると、「それ自体で汚れているものは何もない」と確信している「強い人」が、ユダヤ教律法で禁じられている肉とか偶像に供えられた肉を食べるなどして、「確信の弱い人」をつまずかせることを指していると見られます。ここでもコリントT八・七〜一三と同じような問題が扱われています。

もし何を食べてもよいと信じている「強い人」であるあなたが、「弱い人」の前でユダヤ教律法で禁じられている肉とか偶像に供えられた肉を食べるようなことをすれば、それを見た「弱い人」の意識は、戸惑い、傷つけられ、苦悩に陥り、信仰を失って滅びるということにもなりかねません。このような結果については、すぐ後の二〇〜二三節で繰り返していますので、そこで詳しく取り上げることにします。

 

 「傷つけられる」と訳した動詞は普通「悲しむ」と訳される動詞です。しかしここでは、後に出てくる「滅ぼす」という動詞と並行して用いられていることから見ても、「悲しむ」とか「心を痛める」というよりはさらに激しい意味であると考えられます。

 もし、「それ自体で汚れているものは何もない」ことを知っている「強い人」が、その知識に誇って弱い兄弟を傷つけるようなことをするならば、その人は兄弟の信仰を建てるのではなく壊す行為をしていることになり、もはや兄弟に仕えるという愛の原理から落ちており、キリストにある者としてふさわしくない歩みをしていることになります。キリストはその兄弟のために死なれたのですから、その行為はキリストの救いを業を壊す行為となります。イエスも、「わたしを信じるこれらの小さい者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれる方がはるかによい」とさえ言っておられます(マルコ九・四二)。

 ですから、あなたがたにとって善いことがそしられないようにしなさい。(一六節)
 本来知識に基づいて自由に生きることは「善いこと」です。しかし、その「善いこと」が兄弟をつまずかせるならば、それはエクレシアの交わりを妨げ、キリストの業を壊す行為として、「そしり」を受けることになります。そうならないように、知識に誇ることなく、愛によって歩むように、使徒は説き勧めます。それは、コリントの集会に説き勧めた(コリントI八・七〜一三)のと同じです。
 
 神の国は食べることや飲むことではなく、聖霊による義と平和と喜びです。(一七節)
 パウロは「神の国」という表現を、こことコリントT四・二〇などの数箇所でしか使っていません。それらの箇所の多くで、「神の国」は、福音書の場合のように終末的な栄光に満ちた神の支配を指すのではなく、現在神との交わりの中に生きるリアリティーを指しています。そして、そのような意味での「神の国」あるいは「神の支配」に生きることは、特定の食べ物を食べること、あるいは食べないこと、また、特定の飲み物を飲むこと、あるいは飲まないことによってもたらされたり、妨げられたりするものではありません。そのような食べることや飲むこととは関係なく、キリストにあって賜る聖霊によってもたらされる義と平和と喜びが、神の国のリアリティーそのものなのです。

 

 原文では、「義と平和と喜び」という三つの名詞の後ろに、「聖霊による」という修飾句がついています。欧米諸語ではギリシャ語原文と同じ語順で訳せますが、修飾句を前に置く日本語では、「聖霊による」という修飾句を三つの名詞すべてを修飾するのか、または直前の名詞「喜び」だけを修飾するのか、解釈を決めて訳さなければなりません。文語訳、協会訳、岩波版青野訳はみな「喜び」だけを修飾すると理解して、「義と平和と聖霊による喜び」と訳しており、新共同訳だけが三つの名詞すべてを修飾するとして、この私訳と同じ訳をしています。協会訳などの訳は、「聖霊による義」という思想を避けるためではないかと考えられます。すなわち、義は聖霊の働きと関係なく、キリストに対する信仰によって義と認められる(無罪判決を与えられる)という法廷的な義認論に立ち、義とされた者に聖霊が与えられて、愛とか平和とか喜びという実を結ぶようになるという二段構えの救済論が、このような訳を生みだしていると考えられます。しかし、ガラテヤ書3章の講解で詳しく論じたように、パウロにおいて義は聖霊の働きと一体であり、パウロ自身「主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、聖とされ、義とされた」と言っています(コリントT六・一一)。「義と平和と喜び」は一体であり、その全体が聖霊によってわたしたちの中に現実となるのです。そのような聖霊の現実こそが、パウロの言う「神の国」であると言えます

 このような原理を掲げることによって、使徒は弱い人には、酒を飲まないことや特定の肉を食べないことにこだわることのないように諭し、強い者には、あえて酒を飲み肉を食べることで自分が神の国の現実に生きていることを誇示するのではなく、弱い兄弟への愛のゆえに、酒を飲まず、肉を食べないように求めていることになります。食べる者も食べない者も両者ともに、聖霊による義と平和と喜びの中に一致を見いだすように、使徒は切に願います。
 
 このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々から認められるのです。(一八節)
 前節までに述べたように、知識に基づくのではなく愛の原理に従って兄弟に仕える者、また、飲食の区別ではなく聖霊による義と平和と喜びを増進するように働く者は、神に喜ばれ、人からも真のキリストの僕として認められるようになります。

自分の確信に従って

 だから、わたしたちは平和に関わることやお互いを建て上げることを追求しようではありませんか。(一九節)。
 だから、論争と対立に導くようなことは一切避けて、エクレシアの交わりと一致に役立つことだけを追求しようと、使徒は呼びかけます。また、「お互いを建て上げることを追求しよう」と呼びかけます。ここで用いられている《オイコドメー》(建てること)という語は、もともと家などを建てることを意味する語ですが、パウロはその名詞形と動詞形を、エクレシアの「形成」という意味でよく用いています(コリントT一四章など)。ここでは交わりにある兄弟を、「お互いに」つまずかせたり滅ぼしたりすることなく、キリストにある者として信仰を確立するように助けることを指しています。
 
 食べ物のことで神のわざを壊してはなりません。たしかにすべてのものは清いのです。しかし、つまずきを感じながら食べる人には悪いものになります。(二〇節)
 一人ひとりの信仰は、神が恩恵によってその人の内に働いて形成された「神のわざ」ですから、兄弟をつまずかせてその信仰を傷つけ滅ぼすこと(一五節)は、「神のわざ」を壊すことになります。また、エクレシアの交わりは、神がキリストにあって聖霊により働き形成された「神のわざ」ですから、エクレシアの交わりを妨げることも「神のわざ」を壊すことになります。食べ物のことでお互いを批判し裁くこと、とくに強い人が弱い人をつまずかせることは、神の業を壊すことであり、厳に慎まなければなりません。
 
 使徒はここで強い人への勧告として、彼らの「すべてのものは清い」という主張を認めて、その上で、その知識に基づいてする行為が弱い人をつまずかせる消息を説明します。もし、弱い人が強い人の食べる行為に励まされて、「つまずきを感じながら」、すなわち、食べてはいけないと感じているものを食べるような行為をすれば、本来清いものであるその食べ物が悪いもの、その人をつまずかせる悪いものになるのです。

 

 「つまずきを感じながら食べる人」と訳した箇所の直訳は、「つまずきによって(つまずきを伴って)食べる人」です。この場合の「つまずき」は、意識と行動の分裂を指すと考えられます。すなわち、食べてはならないと意識しながら食べる人を意味します。二三節の「食べるときに疑っている人」と同じ意味と見てよいでしょう。しかし、「(他の人に)つまずきをもたらすような仕方で食べる人」という意味も可能です(RSV、NRSV、新共同訳はこう解釈しています)。直前の文(二〇節前半)と直後の文(二一節)に挟まれた文脈からすると、この解釈が適切であるようにも見えますが、原語の意味からすると無理があります。この一段の結論としている二二節と二三節の内容からすると、この私訳の解釈の方が整合性があると思われます。二〇節から二三節までの箇所は解釈困難なところがありますが、主題はコリントT八・七〜一三と同じなのですから、その箇所との整合性を考慮して理解しなければなりません。

 肉を食べず、酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことを何もしないことが良いのです。(二一節)。
 パウロ自身も、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、わたしは今後決して肉を口にしません」と言っています(コリントI八・一三)。パウロはこの決意を内に秘めて、ローマ集会の「強い人」に同じ愛の配慮を求めます。
 
 あなたは、自分が抱いている確信を、自分で神の前に持ち続けなさい。自分が承認することで自分を裁かない人は幸いです。(二二節)
 肉を食べるか食べないか、あるいは特定の日を重んじるか重んじないかは、各自の確信の問題であるとしたパウロは、その確信が強いか弱いかは問題ではなく、各自が自分の確信を神の前に持ち続け、その確信に従った歩み方をすることが大切であると説きます。各自が自分の確信に従った歩み方をするとき、その人は「自分が承認することで自分を裁かない人」となることができます。すなわち、良いとした意識(良心)に反した行動をすることがなく、自分の確信を傷つけられず維持することができます。そのような人は幸いであると、各人が自分の確信に従って歩むように(そして、その上でお互いに他者の確信を尊重するように)、パウロは勧めます。
 
 食べるときに疑っている人は裁かれているのです。確信から出ていないからです。確信から出ていないことはすべて罪です。(二三節)
 逆に、「食べるときに疑っている人」、すなわち本当は食べてはならないと意識しながら食べる人は、確信に従って行動していないのであり、意識と行動が分裂しているのです。そのような人は「裁かれている」のです。この動詞は完了形です。すなわち、終末の裁きの時に責任を問われるのでなく、意識と分裂した行為は、今すでに神から拒否されていて、神の祝福を受けることができないのです。
 
 確信から出ていない行為は、意識と行為の分裂を含んでいるので、「すべて罪です」と否定されます。良しとする意識(良心)から出ていない行為は、それ自体すでに存在の分裂を含んでいて、全存在を捧げることを求められる神に喜ばれることができません。すなわち、御心にかなわない行為という意味で「罪」であると言われます。
 
 なお、ここの《ピスティス》を「信仰」と訳すと、キリスト教信仰から出ていない行為はすべて罪である、すなわち、キリスト教信仰と関係ない行為とか、異教にいる者の行為はすべて罪であるとする誤解を招きかねないので、注意が必要です。


  40   隣人を喜ばせる (15章1〜6節)

 1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであって、自分自身を喜ばすべきではありません。 2 わたしたちはそれぞれ、隣人を喜ばせ、その人を建て上げるのに益となるようにすべきです。 3 キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。 4 以前に書かれたものはすべて、わたしたちを教えるために書かれたのであって、それは聖書が与える忍耐と慰めによって、わたしたちが希望を持つようになるためです。 5 どうか忍耐と慰めの神があなたがたに、キリストにならって、互いに同じ思いを与えてくださり、 6 一つの心で声をあわせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるように。

弱い者を担う

 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであって、自分自身を喜ばすべきではありません。(一節)
 一四章一節以下、「確信の弱い人」を受け入れるようにという勧告がなされてきましたが、ここで初めて、その勧告の対象となる人たちが「強い者」と呼ばれて、名指されます。パウロは自分も「強い者」の立場に置いて、「わたしたち強い者」と言って、「確信の強い者たち」に勧告します。
 
 「確信の強い人」は、ともすると自分の確信の強さに誇り、自分の自由を見せつけるような振る舞いをして、「確信の弱い人」の意識を傷つけ、困惑と苦悩に陥れるようなことをします。使徒は、そのような行動を強く戒め、むしろ「強くない者の弱さを担う」ように求めます。すなわち、確信の強さを誇示して「自分を喜ばす」(自己満足の喜びを持つ)のではなく、キリストとの交わりとそこから生まれる自由の確信が弱く、ユダヤ教律法や宗教的伝統に拘束されて「肉を食べない」とか「日を守る」ことにこだわっている「弱い人」の意識を傷つけないように配慮することを求めます。
 
 わたしたちはそれぞれ、隣人を喜ばせ、その人を建て上げるのに益となるようにすべきです。(二節)
 ここの「喜ばす」は、その人の益になるように振る舞うことで、「仕える」に近い意味で用いられています。「その人を建て上げるのに益となるように」という箇所は、直訳すると「建て上げることに向かって善となるように」となります。「建て上げる」という動詞やその名詞形は、信仰の確立やエクレシアの形成について、パウロがよく用いる重要な用語で(一四・一九参照)、「徳を建てる」ではありません。
 
 キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。(三節)
 わたしたちは自分自身を喜ばすべきではなく、隣人を喜ばせるべきであるという在り方のモデルとして、使徒はキリストご自身の場合を指し示します。この場合の「キリスト」は、わたしたちの救い主キリストであるイエスの具体的な姿を指しているわけで、地上のイエスの働きについて読者が一定の知識を持っていることを前提としています。
 
 イエスは、安息日にも病人をいやすなどの働きがユダヤ教指導層からの憎しみを買い、苦しみを受けるようになることを覚悟の上で、すなわち「御自分を喜ばせることをせず」、弱い隣人たちに仕えていかれました。そのように、キリストであるイエスが自分のことを顧みず、父の御心に従うことによって、神に従わない者たちから苦難を受けられることを預言する聖書の言葉として、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」という、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇六八編一〇節後半が引用されます(新共同訳では六九編一〇節)。
 
 この節の前半は、「あなたの家への熱心がわたしを食い尽くした」となっています。この前半はヨハネ二・一七に引用されており、この詩編の一節はキリストにおいて成就した聖書の言葉の一つとして、初期の宣教において重視されていたと見られます。

聖書が与える忍耐と慰め

 以前に書かれたものはすべて、わたしたちを教えるために書かれたのであって、それは聖書が与える忍耐と慰めによって、わたしたちが希望を持つようになるためです。(四節)
 使徒は、自分を喜ばせるのではなく隣人を喜ばせるようにという勧告のモデルとしてキリストの実例を取り上げ、それを聖書の一節で根拠づけたのをきっかけに、聖書がキリストの民に対して持っている意義を語ります。
 
 「以前に書かれたもの」とは、これまでのイスラエルの歴史の中で書かれたもの、すなわち、「律法」と「預言者」と、(パウロの時代ではまだ「正典」としては確立していませんが)詩編などその他の「諸書」を広く指しています。「聖書」と訳した語も、原文は「書かれたもの」(複数形)で、ここでは宗教的権威のある書を指しているので「聖書」と訳しています。
 
 イスラエルの歴史の中で生み出されたこれらの諸書(わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいる諸書)は、終わりの日に出現する真の神の民である「わたしたち」を教え戒めるために書かれたものです。パウロは、すでにコリント書I(一〇・一〜一三)で、旧約聖書を予型的に解釈して、キリストの民を教え戒めています。その用い方に見られるように、聖書(旧約聖書)は、キリストの民にとってはもはや神の要求をまとめた律法の書ではなく、神の救済史の証言として、わたしたちがキリストにあって抱いている希望を確かなものにして、わたしたちキリストの民に忍耐と慰めを与えるための書です。

 

 聖書が救済史の証言であることについては、拙著『パウロによるキリストの福音T』の第八章「福音におけるユダヤ教遺産の継承」を参照してください。

 どうか忍耐と慰めの神があなたがたに、キリストにならって、互いに同じ思いを与えてくださり、一つの心で声をあわせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるように。(五〜六節)
 このような救済史の証言としての聖書を与えてくださった神は、「忍耐と慰めの源である神」(新共同訳)です。この神がキリストの民に「互いに同じ思いを与えてくださり」、一切の対立を超えて、「一つの心で声をあわせて」わたしたちの主イエス・キリストの父なる神を讃えさせてくださるようにと、使徒は祈ります。キリストの民がすべての対立を克服して一つの思いになることは、結局は神の恩恵の働きに待たざるをえないのです。
 
 対立を超えて同じ思いになるように説き勧めるさい、使徒は「キリストにならって」と言っています。そのキリストは、「キリストでさえ御自分を喜ばせることはされませんでした」と言われたキリストです。使徒は、すこし前にフィリピの集会に書き送ったときにも、集会の兄弟がみな同じ思い、同じ心になるように強く求めましたが、その時にも「キリスト・イエスにあるのと同じ思い」を持つように求め、自分を空しくされたキリストの姿を模範としてあげ、有名なキリスト賛歌を引用しています(フィリピ二・五以下)。ローマ書では、キリスト賛歌は引用されていませんが、「キリストにならって」と言うとき、使徒の心にはこの賛歌のキリストの姿があったと見てよいでしょう。


  41   ユダヤ人と異邦人のためのキリスト (15章7〜13節)

 7 だから、キリストもあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたは神の栄光のために互いに相手を受け入れなさい。 8 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために割礼の者たちに仕える者となられたが、それは父祖たちへの約束を確立するためであり、 9 他方、異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるためです。このように書かれています。「このゆえに、わたしは異邦人の中であなたを讃え、あなたの名をほめ歌おう」。 10 そして、さらにこう言っている。「あなたがた異邦人よ、主の民と共に喜べ」。 11 さらにこう言う。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、主を讃美せよ」。 12 そして、さらにイザヤも言っている。「エッサイの根が生えいで、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みを置く」。
 13 どうか希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださり、あなたがたが聖霊の力によって希望に溢れますように。

互いに受け入れなさい

 だから、キリストもあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたは神の栄光のために互いに相手を受け入れなさい。(七節)
 一四章一節以下、使徒は対立する二つのグループに対して、互いに受け入れるように求めてきました。とくに強い者が弱い者を受け入れるように求めてきました。そのように勧告するにあたって、使徒はすでにキリストをモデルとしてきましたが(三節、五節)、その勧告が最後にもう一度キリストをモデルにして、というよりキリストの出来事を根拠にして、要約されます。
 
 キリストは、酒を飲まず肉を避け、日を重んじる弱い兄弟をも御自分の民として受け入れ、また、そのような宗教的戒律から解放されている強い者も、御自身に属する者として受け入れておられます。そうである以上、共にキリストに属する民として、当然あなたたちも互いに相手を受け入れなければならないではないか、と使徒は迫ります。あなたたちが互いに受け入れるならば、それは神の栄光を顕すことになり、互いに受け入れず裁き合うならば、それは神の栄光を傷つけることになると、使徒はローマの兄弟たちを励まし、かつ警告します。

 

 「神の栄光のために」という句は、原文では「キリストもあなたがたを受け入れてくださった」の後ろにあり、この文を修飾すると理解できます(日本語訳は例外なくそうしています)。しかし、この句は、直前にカンマを入れることにより、「あなたがたは互いに相手を受け入れなさい」を修飾する句として読むこともできます(RSV、NRSV)。ここでは、互いに相手を受け入れることの意義を強調するために、このように読む方が適当と考えます。互いに受け入れることは神の栄光になり、受け入れないことは神の栄光を傷つけるという意味になります。



ユダヤ人と異邦人のためのキリスト

 わたしは言う。キリストは神の真実を現すために割礼の者たちに仕える者となられたが、それは父祖たちへの約束を確立するためであり、他方、異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるためです。(八節〜九節前半)
 ローマの兄弟たちの間の対立は、これまで「強い者」と「弱い者」の対立として語られてきました。先に見たように、この対立は、単純にユダヤ教律法にこだわるユダヤ人とユダヤ教律法にこだわらない異邦人の対立ではなく、むしろユダヤ人信徒の間において、キリストを信じながらもなおモーセ律法の順守にこだわる人たちと、キリストにあってすべてのものは清いことを知り、ユダヤ教の宗教的細則から解放されて自由であることを強く確信している人たち(パウロも自分をそのような強い者の一人としています)との対立であったと考えられます。その対立に異邦人信徒も巻き込まれて、ローマの兄弟たちは二つに割れていたと見られます。そのさい異邦人信徒は大部分「強い者」の側についたと推測されますので、この対立は実質的には、「強い」ユダヤ人信徒を核とする異邦人信徒と、モーセ律法の順守にこだわるユダヤ人信徒との対立であったと見られます。
 
 そうすると結局ローマでも、これまでパウロの働きで形成されたユダヤ人と異邦人とから成る集会で問題とされていたこと、すなわちユダヤ教律法をどう扱うかという問題、キリスト信仰におけるモーセ律法の位置づけの問題が対立の原因となっていることが分かります。
 
 そこで使徒は改まって「わたしは言う」と宣言して、モーセ律法の中で生きてきたユダヤ人と、その外にいた異邦人との両者を共に、キリストが受け入れて御自分の民としてくださっていることを改めて強調し、両者が互いに相手を受け入れるための根拠とします。
 
 「割礼の者たちに仕える者」は、原文では「割礼の仕え人」です。キリスト・イエスは「割礼の民」であるユダヤ人として生まれ、イスラエルの民の中でその働きを全うされましたが、それは終わりの日にイスラエルに救済者を送るとイスラエルに約束された「神の真実を現すため」でした。

 

 「神の真実を現すために」の原文は「神の真実《アレーテイア》のために」であり、次節の「憐れみのために」と一対をなしています。この《アレーテイア》は、コリントT一・九の《ピストス》(信実な)とは違う用語ですので一応違う訳語を用いていますが、「信実」と同じです。詩篇などで、次節の「憐れみ」と並んで讃美されている神の「信実」(《エメス》または《エムナー》)を指しています。

 キリストがユダヤ人の中に現れたのは、ユダヤ人に対して「父祖たちへの約束を確立する」だけでなく、「異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるため」でもあることが九節以下で強調されます。

まずユダヤ人に対しては、キリストは「父祖たちへの約束を確立するため」に、ユダヤ人の中に生まれ、ユダヤ人の中でその働きを全うされました。イエスが十字架上に死なれたこと、復活してキリストとして立てられたこと、信じる者に聖霊を送って救いの働きを進めておられること、これらの出来事はすべて、神がイスラエルの歴史の中で、終わりの日にイスラエルの中に実現すると約束してこられたことの成就でした。

そして、そのキリストの出来事は同時に「異邦人が憐れみを受けて神を讃美するようになるため」でもあったのです。異邦人に対するキリスト出現の目的が、「憐れみのために」または「憐れみのゆえに」(ギリシア語原文)と表現されています。キリストが来られたのは、今まで神と無縁であった異邦人が「憐れみを受けて」、すなわち無条件の恩恵によって、神の民とされるようになるためでした。

 パウロは、この手紙の九〜一一章で、神が信実のゆえにイスラエルに約束しておられた救い主をイスラエルの中に送られたが、イスラエルはその救い主を拒み、彼らの不信仰・不従順のゆえに福音は異邦人に向かい、異邦人が神の憐れみ(恩恵)によって神の民となったという救済史の奥義を詳しく語っていました。「あなたがた(異邦人)は、かっては神に不従順でしたが、今は彼ら(イスラエル)の不従順によって憐れみを受けました」(一一・三〇)。こうして、神の信実のゆえにイスラエルの中に成就したキリストの救済の出来事が、同時に異邦諸国民が神の憐れみを受ける出来事となったのです。
 
 ここで神の民となることが「神を讃美するようになるため」と言われています。ここの「神」はキリストの父なる神であり、イスラエルの神です。キリストは、異邦人がイスラエルの神を拝むようになるために出現されたのです。キリストが「父祖たちへの約束を確立するため」に来られたということは、ユダヤ人信徒には納得しやすことですが、そのキリストの出来事が異邦人も異邦人のままでイスラエルの神の民となるためであるということは納得しにくいことです。それで、使徒はそのことを論証するために、とくにユダヤ人を説得するために、聖書の箇所を多く引用します。
 
 このように書かれています。「このゆえに、わたしは異邦人の中であなたを讃え、あなたの名をほめ歌おう」。(九節後半)
 そして、さらにこう言っている。「あなたがた異邦人よ、主の民と共に喜べ」。(一〇節)
 さらにこう言う。「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民よ、主を讃美せよ」。 (一一節)
 そして、さらにイザヤも言っている。「エッサイの根が生えいで、異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。異邦人は彼に望みを置く」。(一二節)

 

 九節後半は、七十人訳ギリシャ語聖書の詩篇一七編五〇節(新共同訳では一八編五〇節)からの引用です。
 一〇節は、申命記三二章四三節からの引用です。ヘブライ語テキストでは「国々よ、主の民に喜びの声をあげよ」となっていますが、パウロは七十人訳ギリシャ語聖書から引用しています。
 一一節は、詩篇一一七編一節からの引用です。
 一二節は、七十人訳ギリシャ語聖書のイザヤ書一一章一〇節からの引用です。ただし、「そしてかの日には」が省略されています。七十人訳ギリシア語聖書は、新共同訳の底本になっているヘブライ語聖書と表現はやや違っていますが、異邦人がダビデ的メシアの支配に入ってくることを語っている点では同じです。
 パウロの聖書引用の仕方については、『天旅』二〇〇四年1号60頁の「パウロの聖書引用」の項を見てください。

 これらの引用箇所はみな、異邦人がイスラエルの神である主《ヤハウェ》を賛美することを主題にしています。「異邦人」という語は、一一節の引用詩篇の並行表現が示しているように、「諸民族・諸国民」と同じ意味です。パウロは、聖書がキリスト出現のずっと前から、世界の諸国民がイスラエルの神を賛美するようになることを預言していることを示して、キリストの出来事によって異邦人が異邦人のままでイスラエルの神を賛美するようになることを根拠づけます。
 
 こうして、モーセ律法の順守をめぐって生じた「強い者」と「弱い者」の対立について、「互いに相手を受け入れるように」という一四章から始まった勧告をここで終えて、使徒は祈りをもって締め括ります。この結びの祈りは、同時に一二章から始まったキリスト者としての歩みに関する勧告全体を締め括る祈りにもなっています。

勧告のむすび

 どうか希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださり、あなたがたが聖霊の力によって希望に溢れますように。(一三節)
 「希望の神」と言う表現はここだけです。「希望の源である神」(新共同訳)と理解してよいでしょう。イスラエルの神、聖書の神は、約束と成就という救済史的構造で働かれる神ですから、すなわち、約束の言葉を与えることで信じる者が希望に生きるようにされる神ですから、本質的に「希望の神」です。パウロはこのイスラエルの神の本質を見事に表現しています。この神を信じることは、ヘブル書一一章が描くように、必然的に希望という姿を取ることになります。
 
 使徒は、「信じることによる喜びと平和」と言っています。《ピスティス》(信仰)という名詞ではなく、《ピステイン》(信じる)という動詞が用いられていることが注目されます。特定の信仰箇条を告白する「信仰」ではなく、約束された方の信実に自分をすべて投げ込む生き方が「信じる」ことです。このような生き方をする者に「あらゆる喜びと平和」が与えられます。その消息は、すでに五章一〜一一節で語られていましたが、勧告の最後にあたって、使徒は「希望の神が、信じることによるあらゆる喜びと平和であなたがたを満たしてくださる」ように祈ります。
 
 そしてさらに、「信じること」に伴う「聖霊の力によって」ローマの兄弟たちが、ひいていはこの勧告を聴くすべてのキリストの民が「希望に溢れる」ように祈ります。将来の約束を各人の内なる現実とするのは聖霊の力です。福音における希望とは、将来に対するたんなる願望ではなく、聖霊によって将来を先取りして現在に生きることです。この希望の姿はすでに八章で力強く語られていました。パウロは最後に、信じる者が希望に溢れることを祈って、勧告の部分を閉じます。ロマ書本体部分の最後を締め括るこの文(一三節)からも、キリストの福音において希望がいかに本質的な構成要素であるかがうかがわれます。

「宗教」の相対化

 ところで、このローマ集会の特殊な問題に関する勧告(一四・一〜一五・一三)においては、パウロの議論の進め方はなにか少し歯切れの悪い印象を与えます。おそらく主題がきわめて微妙な問題をはらんでいるので、使徒は断定的な議論を避けて、慎重な表現をとったのではないかと推察されます。その「微妙な問題」とは、やはりキリストの民の中におけるモーセ律法の位置の問題です。
 
 キリストにあって神の無条件絶対の恩恵によって義とされ救われるのにモーセ律法の順守は必要ではないという「福音の真理」に関しては、このローマ書の第一部に見られるように、パウロは断固とした主張をしています。とくに、もともとモーセ律法に関係のない異邦人にモーセ律法の順守を要求することについては、ガラテヤ書に見るように、パウロは命がけで反対しています。そこには何のあいまいさもありません。
 
 しかし、ここでは問題が違います。モーセ律法の順守という宗教的習慣の中に生きてきたユダヤ人がキリストを信じるようになったとき、モーセ律法に対してどのような態度をとるべきかという問題です。キリスト信仰によって救われることには変わりはありません。その上でモーセ律法順守の習慣(それがユダヤ教です)を続けるべきか、それともそのような習慣は不必要として放棄すべきかの問題です。
 
 多くのユダヤ人信徒は、キリストにおいて与えられた救いを感謝して受け入れつつ、これまでのユダヤ教の宗教的習慣を変える必要を感じることなく、またそれが信仰の妨げになると感じることなく続けていたと見られます。それに対して、パウロ自身を含む「強い者」は、キリストにあって御霊の命に生きるようになった今は、もはや外から行為を規制する養育係のような律法は必要ない(ガラテヤ三・二三〜二五)のだという理解と強い確信から、律法をもたない異邦人信徒との交わりのためにも、モーセ律法順守の必要はないとしました。そのような「強い者」の中には、モーセ律法を無視して、ユダヤ人でありながら「異邦人のように」振る舞う人もあったようです。ここに、二つのグループがモーセ律法順守の問題をめぐって、互いに相手を批判し、交わりが妨げられることになります。
 
 このような事態に対して、パウロはモーセ律法が神の律法として有効か無効かを論じて、どちらかを支持し、他を断罪するという仕方ではなく、各人の確信の問題として、どちらの信仰生活もそれぞれ自分の確信に従って生きている限り、信仰を妨げるものではないとし、その上で「お互いに相手を受け入れるように」勧告します。
 
 そのさい使徒は、律法順守にこだわる「確信の弱い人たち」を、キリストの恩恵から落ちているなどと断罪することなく、しかも彼らの生き方を認めることがモーセ律法の絶対的な有効性(それを順守しないと救われないというような有効性)を認めるような発言にならないように、細心の注意を払いながら、言葉を選んで勧告します。その結果、この部分のパウロの議論が歯切れの悪い印象を与えるのではないかと考えられます。
 
 ところで、モーセ律法順守の習慣というのはユダヤ教のことですから、ここでパウロはキリスト信仰の中でユダヤ教という宗教をどのように取り扱えばよいのかという問題を論じていることになります。パウロが形成した集会はユダヤ人と異邦人の両者が混在した集会ですから、この問題は避けて通ることができませんでした。
 
 ところが、今はほとんどの集会にユダヤ人はいませんから、現在ではもはや問題にならないのでしょうか。この問題は使徒時代に限られる過去の問題に過ぎないのでしょうか。たしかに、現在ではユダヤ教を直接問題にしなければならない場面はほとんどないでしょう。しかし、ここで使徒がユダヤ教という宗教的習慣を取り扱っている仕方は、現在の福音宣教における「宗教」の扱い方に重要な示唆を与えています。
 
 福音は様々な「宗教」の中にいる人々をキリストの恩恵に招き入れます。福音によって招かれ、キリストにあって恩恵の場に生きるようになった者は、それまで自分が生きてきた「宗教」をどのように扱えばよいのでしょうか。
 
 ここで「宗教」という語は、人間の霊的次元の活動全体を広く指す用語としてではなく、それぞれの民族や共同体が歴史の中で受け継いできた(広い意味での)祭儀的習慣を指す用語として用いています。人間はみな何らかの形の「宗教」の中に生まれ落ち、その中で育ち、その中で生きています。そのような伝統的な宗教的習慣をどのように扱うかは、現在においても福音の重要課題です。
 
 そこで、パウロがモーセ律法順守の習慣(それがユダヤ教という「宗教」です)を取り扱っている仕方が、現在のわたしたちに大きな示唆と指針を与えます。結論を言うと、使徒はここでユダヤ教という「宗教」を相対化していると言えます。すなわち、モーセ律法の順守は救いに絶対的に必要なものではないから、順守しなくても神に生きることに差し支えはないが、それを順守して神に仕えることも一つの生き方であることを認めることができるというのです。パウロは、モーセ律法の順守というユダヤ教を否定したのではありません。それが救いに不可欠であるとするユダヤ教の絶対性を否定したのです。その上で、ユダヤ教の外で生きる生き方も、ユダヤ教の中に生きる生き方も受け入れているのです。これがユダヤ教を「相対化」するということです。
 
 今まで絶対的とされてきた「宗教」を相対化するためには、「宗教」以外に人を救う絶対的な根拠が必要です。福音においては、その絶対的な根拠はキリストです。キリストにおいて与えられている神の絶対恩恵です。この箇所では、「キリストがあなたがた(両方の者)を受け入れてくださった」という事実(七節)が、このユダヤ教の相対化を可能にしています。
 
 実はヨハネ福音書も「宗教」の相対化を明確に主張しています。ヨハネ共同体は、その形成の過程でサマリア人(サマリア教徒)を含むようになったと見られますが、この福音書のイエスは「この山(ゲリジム山)でも、エルサレムでもなく、父を礼拝する時が来る」と宣言されます。すなわち、ヨハネ福音書は、ゲリジム山でのサマリア教という「宗教」でもなく、エルサレム神殿におけるユダヤ教という「宗教」でもなく、「御霊と真理によって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と告知するのです(ヨハネ福音書四章)。「御霊と真理による礼拝」という絶対的な根拠によってサマリア教とユダヤ教が相対化されているのです。
 
 この「宗教」の相対化の問題は、現在の福音宣教に課せられた大きな課題ですが、この講解の範囲をはるかに超えますので、ここではローマ書のこの箇所がこの課題に示唆を与えていることを指摘するに止めます。

 

 「宗教」の相対化については、拙著『教会の外のキリスト』の終章「キリストの絶対性とキリスト教の相対性」を参照してくだい。






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