パウロによるキリストの福音 III


 第一七章 地の果てまでも ――手紙の結び――



はじめに

 ここまで第一部から第四部に至るまでの本体部分(一・一八〜一五・一三)で、使徒パウロは自分が宣べ伝えている福音のすべてを、自分の全存在をかけて提示し、議論し、展開してきました。この本体部分を書き終えて、今や使徒はこの長大な手紙の結びに入ります。一五章一四節から始まる「手紙の結び」は、手紙の「前置き」(一・一〜一七)で語った内容を最後にもう一度取り上げる形で、諸国民への使徒としてのパウロの思いを熱く語ります。
 まず前置きで語った異邦人への使徒としての使命(一・一〜六)が、祭司の務めという視点から詳しく語り直されます(一五・一四〜二一)。続いて、前置きで語られていたローマ訪問の願い(一・八〜一五)が、帝国西部への伝道活動計画の一環として具体的な計画という形で表明されます。そのさい、その前に果たさなければならない使命として、集めた献金を届けるためのエルサレム訪問が言及され、それが無事に成功するように執り成しの祈りが求められます(一五・二二〜三三)。
 最後に、手紙の通例に従い、個人的な挨拶(一六・一〜一六)と同行者からの挨拶(一六・二一〜二三)がつけられます。その間に、手紙としてはやや異例ですが、偽りの教えに対する警告が挿入され(一六・一七〜二〇)、神への賛美で締め括られます(一六・二五〜二七)。

  42 宣教者パウロの使命(15章14〜21節)

 14 わたしの兄弟がたよ、あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うこともできると、わたしの方もまた、あなたがたについては確信しています。 15 しかし、わたしはところどころ、あなたがたに記憶を新たにしてもらおうと、かなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みを賜って 16 異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の務めを果たしているからです。祭司の務めというのは、異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるためにほかなりません。 17 だから、わたしは神に仕えることについては、キリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。 18 異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。キリストが言葉とわざにおいて、 19 しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです。こうして、わたしはエルサレムから始まり、孤を描いてイリリコン州に至るまで、キリストの福音を満たしてきました。 20 このように、キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝えることを熱心に追求してきました。それは、他人の土台の上に建てるようなことはしないためです。 21 「彼について告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書かれているとおりです。



異邦人のための祭司の務め 

 わたしの兄弟がたよ、あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うこともできると、わたしの方もまた、あなたがたについては確信しています。(一四節)

 ここから手紙の結びに入ります。まだ会ったことのないローマの信徒たちに、同じ主に属し、同じ志をもつ兄弟として、使徒は信頼をこめて「わたしの兄弟がたよ」と呼びかけます。しかし、最初にパウロは、自分が建てて指導したのではない集会に対する配慮をもって、「かなり思い切って書いた」理由を説明します(一四〜一六節)。
 
 わたしが教えたり指導したりするまでもなく、あなたたちだけですでに「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うこともできる」と確信しているというのは、自分が建てたのではない集会に対する配慮を表現しています。
 
 しかし、わたしはところどころ、あなたがたに記憶を新たにしてもらおうと、かなり思い切って書きました。(一五節前半)
 
 手紙の「前置き」(一・一〜一七)の講解で述べたように、パウロは本書をとくにユダヤ人信徒を念頭において書いているので、ユダヤ教に関する発言では、「ところどころ」ユダヤ人読者に衝撃となるようなことを「かなり思い切って」書いたことを意識しているのでしょう。
 
 キリストの福音に生きるユダヤ人は、パウロが本書で書いたことはすでに理解しているはずですが、ここでもう一度確認してもらいたいということを、相手を傷つけないように、「記憶を新たにしてもらおうと」と、婉曲に表現しています。
 
 パウロはこのローマ書で、信仰による救いの原理を確立するために、律法の原理に立つユダヤ教はもはや救いの道ではありえないことを、ユダヤ人にとってはかなり衝撃的な表現で「思い切って」語っています。しかし、本書のユダヤ教(律法)に関する表現は、ガラテヤ書のそれに比べると、律法の積極的な意義を語ることが多くなるなど、かなり和らげられています。それは両書が書かれた動機の違いから来ます。
 
 ガラテヤ書は、異邦人に割礼を受けさせて「キリストの福音を覆そうとしている」者たちの働きを論破するために書かれたものですから、律法主義に対する反対は激烈にならざるをえません。それに対して、ローマ書では信仰による義という福音の原理を確立した上で、(一四章の講解で見たように)律法を順守するユダヤ人信徒の在り方を認め、律法から自由な人たち(強いユダヤ人ともともと律法の外にいる異邦人)との融和を図っています。その上で、なおユダヤ人信徒を中核とするローマ集会の援助を期待しなければならない事情もありますから(一五・二四)、律法に対する表現も(ガラテヤ書と較べると)慎重で穏やかなものになっているようです。
 
 それは、わたしが神から恵みを賜って、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の務めを果たしているからです。祭司の務めというのは、異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるためにほかなりません。(一五節後半〜一六節)
 
 パウロは続いて、ユダヤ教について「かなり思い切って」書いた理由を説明します。それは、「わたしが神から恵みを賜って、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の務めを果たしているから」だと言います。これは、パウロが異邦人のために祭司の務めを果たすべく召された使徒であることを知るならば、パウロがユダヤ教についてこのように「思い切って」書いた理由が理解できるはずだという思いから出ています。
 
 パウロはいつも自分の使徒としての使命を、資格のない者に与えられた恩恵の賜物であると自覚しています(ロマ一・五、コリントT一五・九〜一〇)。ここでも改めて自分の使徒職が恩恵によるものであることを述べていますが、ここで注目されるのは、パウロが自分の異邦人への使徒としての使命を「祭司の務め」という用語で語っていることです。
 
 「祭司の務めを果たしている」という動詞と、すぐ後に出てくる「献げ物」という用語は、パウロ書簡ではここだけです。パウロは珍しくここでは、自分の異邦人への使徒としての使命を祭儀的な用語を用いて語っています。「祭司の務め」の内容は、すぐ後に続く「異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるため」という目的節で説明されます。すなわち、祭司が神殿で神に献げ物を献げるように、異邦人を聖霊によって聖なるものとされた「献げ物」として神に献げることであるというのです。
 
 当時のユダヤ人の間では、終わりの日に成就するメシアの時代には、イスラエルが栄光の地位に上げられるだけでなく、異邦諸国民がイスラエルの神を礼拝するようになると信じられていました。パウロはこの待望を共有し、自分の使命をこのメシア時代の後半部、すなわち異邦諸国民をイスラエルの神の礼拝へと導くことであると自覚しているのです。直前の段落(一五・七〜一三)で、異邦人がイスラエルの神を拝むようになることを預言した聖書を多数引用したのは、この使命を聖書によって根拠づけるためでした。
 
 パウロは回心の当初から自分が異邦人に福音を伝える使命を与えられていると自覚していたようです。ダマスコでの回心後すぐにナバテア王国のアラブ系異邦人にキリストを宣べ伝えています。その後もアンティオキアを中心に、割礼のない福音を宣べ伝え、異邦人がそのまま神の民となる原理を確立するための戦いを進めています。そして(回心後一七年ほど後の)エルサレム会議において、パウロがメシア時代に異邦諸国民をイスラエルの神に導くための使徒であることが公式に確認されます。すなわち、ペトロたちはユダヤ人をメシア・イエスに導く役割を、パウロは異邦人をメシア・イエスに導く役割を与えられていることを互いに認めます(ガラテヤ二・七〜九)。こうして、異邦人をメシア・イエスに導き、それによって異邦諸国民をイスラエルの神を礼拝するように獲得したパウロは、今エルサレムを訪れるにあたって、「異邦人の献げ物」を神に献げる祭司の務めを果たそうとします。
 
 パウロは自分が果たすべき「祭司の務め」を「異邦人の献げ物が、聖霊によって聖なるものとなり、神に喜ばれるものとなるため」(原文)と言っています。「異邦人の献げ物」とは、異邦人が神に献げる献げ物(献金なども含む)ではなく、異邦人を神に献げること、異邦人自身が神への献げ物とされることを意味しています。その際、神に献げられる献げ物は「聖なるもの」、「神に喜ばれる献げ物」でなければなりません。献げ物を清めて「聖なるもの」にするのも祭司の務めです。
 
 「聖なるもの」とは神に所属するものという意味です。指導層が大部分ユダヤ人である初期の教団では、異邦人が「聖なるもの」、すなわち神に所属する民となるためには、ユダヤ人と同じように割礼を受けてモーセ律法を順守する必要があるという主張が強力でした。それに対してパウロは、異邦人を「聖なるもの」にするのは、割礼や律法順守ではなく、信仰によって受ける聖霊の働きだけによるのであることを命がけで主張したのです。「聖霊によって聖なるものとなり」という一句に、パウロの生涯の主張がこめられています。
 
 この点について見解の相違が残っていることを知っているパウロは、この献げ物がエルサレムの指導者たちに受け入れられるかどうか不安を感じています(一五・三一)。事実、パウロが無割礼のままで「聖霊によって聖なるものとされた」異邦人信徒を連れてエルサレムに上り滞在していたとき、別の件でパウロが神殿に入ったのを見たユダヤ人が、パウロが無割礼の異邦人を神殿に連れ込んだとして騒ぎを起こします(使徒二一・二七〜三六)。パウロが心配していたように、「ユダヤの不信の者たちから」(一五・三一)引き起こされた騒乱によって逮捕される結果になります(使徒二一・二七以下)。

異邦人を招くキリストの働き 

 だから、わたしは神に仕えることについては、キリスト・イエスにあって誇りを持っているのです。(一七節)

 このように「神から恵みを賜って、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の務めを果たしている」のは、終わりの時、メシアの時代に不可欠の大切な仕事をしているのですから、ユダヤ人がどのように批判し反対しようと、イスラエルの神に仕える者として、自分の使命を同胞ユダヤ人に誇ります。そして、その誇りをキリストの働きとして誇ります(次節)。
 
 異邦人を従順に導くために、キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、わたしはあえて語ろうとは思いません。(一八節)
 
 パウロが誇るのは、自分の働きを誇るのではなく、自分を通してキリストが働かれた事実を誇るのです。その事実以外は弁明したり議論したりせず、ただ自分の宣教を通してキリストが働いてくださり、多くの異邦人をイスラエルの神への従順へと導いてくださった事実を指し示します。
 
 パウロはここで、キリストは「異邦人の従順へと」(直訳)働いてくださった、と言っています。「異邦人の従順」とは、異邦人がイスラエルの神に聴き従うようになることです。パウロは自分の使徒としての使命を「異邦人を信仰の従順へと導くため」と表現していました(一・五)。そこでの講解で述べたように、パウロにおいては、この組み合わせにおける信仰と従順はほとんど同意語です。神が語られる言葉(この場合は福音)に聴き従うことが信仰です。「従順」と訳されている語は、もともとは「下で聴く」という意味の語です。ひれ伏して(自分を無にして)神の言葉を聴くことが信仰です。イスラエルの中で語り続け、終わりの時にキリスト・イエスによって語られた神に、世界の諸国民が聴き従うようになるために、キリストは選ばれた器であるパウロを通して働かれたのです。
 
 キリストが言葉とわざにおいて、しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれたのです。(一八節の末尾〜一九節前半)
 
 パウロはここで自分を通して働かれたキリストの働きを要約します。キリストは、パウロを通して働かれました。キリストは「言葉とわざにおいて」働かれたとありますが、この一対の句に「わたしの」(新共同訳)という説明はついていません。この句はキリストが働かれた領域を指しています。キリストは言葉の領域においても、業の領域においても、「しるしと不思議を現す力により、御霊の力によって働かれた」のです。

 

 原文は前置詞なしで「言葉とわざ」が三格で並んでいます。この三格は「手段の三格」ではなく(手段はすぐ後に「力により」とか「御霊の力によって」と明示されます)、「観点(または関連)の三格」と見るべきでしょう。 

 言葉の領域においては、パウロが福音を宣べ伝えるとき、また、兄弟たちを言葉で励まし勧告するとき、その言葉には「御霊と力の証明」が伴い(コリントT二・四)、人間的な知恵や論理を超えて、聴く者の心に直接神の言葉を刻み込みました(テサロニケT一・五、一・一三)。それは、キリストが「御霊の力によって」働かれた結果です。
 
 わざの領域においては、パウロがあらゆる圧迫と迫害を耐え抜いて諸都市に福音を伝えた働きの中に、まず何よりも御霊の力が現れています。パウロの生涯に見られるような超人的な伝道の働きは「御霊の力によって」なされたとしか理解できません。
 
 そして、その宣教の働きの中で、パウロが「しるしと不思議を現す力により」多くの「力あるわざ」(病人の癒しや悪霊の追放などの奇跡)を行ったことが、使徒言行録に伝えられています。パウロは自分がこのような奇跡を行ったことについては、書簡の中でほとんど触れていませんが、ここで自らの筆でまとめて確認しています。また、パウロはコリント第一書簡(一二章)で御霊の賜物を列挙していますが、その中で上げられている「病気をいやす力」とか「奇跡を行う力」は、使徒としてパウロ自身も豊かに与えられ、宣教活動の中で現されていた賜物です。
 
 パウロは自分が行った奇跡を、キリストが「しるしと不思議を現す力によって」行われたこととします。そのような力はパウロのものではなく、キリストのものです。そして、すぐにそれを「御霊の力によって」行われたことと言い直します(この二つの句は同格で並んでいます)。パウロを通して、キリストが「御霊の力によって」働いておられるのです。
 
 このように、パウロを器として行われたキリストの「御霊の力による」働きは、すべて「異邦人を信仰の従順に至らせるため」であり、パウロは「神から恵みを賜って、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者」となっているのです。そして、パウロは自分の務めを「異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる献げ物となるため」の「祭司の務め」を果たしていると語るのです。わたしたちは、地中海世界に広く進展したパウロの宣教活動の中に、世界の諸国民を神の国に招いておられる復活者キリストの働きを見ているのです。

パウロの活動の舞台 

 こうして、わたしはエルサレムから始まり、孤を描いてイリリコン州に至るまで、キリストの福音を満たしてきました。(一九節後半)

 パウロは自分の福音宣教の働きを語るのに、「エルサレムから始まり」と言っています。パウロがエルサレムで福音を宣べ伝えたのは、回心後三年目の最初のエルサレム滞在のときだけですが、迫害されて、ごく短期間で終わったようです(使徒九・二六〜三〇)。しかし、ユダヤ人パウロにとってエルサレムは、終わりの日に神の言葉がそこから世界に出ていく聖なる神の都です(イザヤ二・三)。パウロの意識では、全世界に神の言葉である福音を宣べ伝える働きはエルサレムから始まらなければならないのです。それがごく短期間であったにせよ、パウロは自分の福音宣教は「エルサレムから始まり」と意識しています。
 
 エルサレムから始まり、シリア、小アジア、ギリシャへと至るパウロの宣教の足跡は、地中海沿いに孤を描くように北西へ延びています。さらに、パウロの視線はローマを経て南西のスペインに向かう弧を描いています。現代のような地図のなかった時代ですが、旅の方向からパウロは自分の行程を「弧を描くように」と意識することができたのでしょう。もっとも、「弧を描いて」というのは語義にこだわった訳で、たんに「そのあたり」とか「回り歩いて」という程度の軽い意味に理解することも可能です。
 
 パウロは「イリリコン州に至るまで」と言っていますが パウロがイリリコン州で宣教の働きをしたという報告は、書簡にも使徒言行録にもありません。エフェソを発ってマケドニア経由でコリントに向かう旅(55年)の途中、55年の夏にこの地域で活動した可能性はあります(パウロはこの旅の目的地コリントで55年から56年にかけての冬に、このローマ書を書いています)。
 
 イリリコン州はバルカン半島西岸の州で、アドリア海を隔ててイタリア本土に対しています。パウロはこの地域をローマ帝国東半分の西端と見て、「今やこの地域(帝国の東半分)で働く余地がなくなった」(一五・二三)と言うことになります。
 
 パウロはこの地域全体を隈なく訪れたのではありませんが、主要な拠点都市で福音を宣べ伝え、そこに周辺地域に福音を宣べ伝える活動を続ける信徒の群を確立したことで、パウロはこの地域に「福音を満たした」と言うことができました。
 
 このように、キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝えることを熱心に追求してきました。それは、他人の土台の上に建てるようなことはしないためです。(二〇節)
 
 このような広範囲に宣教活動を進めてきたさいの原則を、パウロはここで明らかにします。それは、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝える」という原則です。パウロが初期にダマスコから宣教活動を始めたときに、すでに他の使徒たちが活動していた地中海沿岸の諸都市に向かわないで、東のアラビヤに向かったのも、この原則からだと考えられます。それ以後も「他人の土台の上に建てるようなことはしない」という気概をもって、パウロは活動を続けます。パウロの伝道は、生涯にわたって開拓伝道であったのです。そして、パウロはこの原則を聖書の引用で根拠づけます。
 
 「彼について告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書かれているとおりです。(二一節)
 
 引用は、イザヤ書五二章一二節(七十人訳ギリシャ語聖書)からです。この節は「主のしもべの歌」(イザヤ書五三章)の導入部の一句です。イザヤ書の「主のしもべの歌」は、初期の教団でメシアにかかわる預言として重視されていました。パウロもこの「主のしもべの歌」を深く受けとめ、自分もこの「しもべ」の姿に重ねていたのではないかと思われます。

 

 七十人訳ギリシャ語聖書では、ヘブライ語本文にない「彼について」という句が入れられています。そのため、この訳はここでのパウロの引用目的に適合したものになっています。

  43 ローマ訪問の計画 (15章22〜33節)

 22 こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。 23 しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、 24 イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています。
 25 しかし今は、聖徒たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。 26 マケドニア州とアカイア州の人たちが、エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意したからです。 27 たしかに彼らは進んで同意しましたが、彼らには聖徒たちに負い目もあるのです。異邦人が聖徒たちの霊的なものに与ったとするならば、異邦人は肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目があるからです。 28 このことを成し遂げ、この実を確実に手渡した後、わたしはあなたがたのところを経由してイスパニアへ行きます。 29 あなたがたのところに行くときには、キリストの溢れる祝福を持って行くことになると思っています。
 30 兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい。 31 すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように、 32 そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい。 33 平和の神があなたがた一同と共にいてくださるように。アーメン。

ローマ訪問とイスパニア伝道の予定 

 他の手紙でもしているように、パウロは手紙の終わりでこれからの行動予定を知らせます。
 
 パウロは手紙の前置きのところでローマ訪問の熱い願いを述べていました(一・八〜一五)。手紙の結びを書くにあたって、ローマを訪れたいという切望を再度述べるとともに、それを具体的な予定として表明します(二二〜二四節)。
 
 こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。(二二節)
 
 「こういうわけで」というのは、直前(一四〜二一節)に述べた異邦人への使徒としての使命から、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を宣べ伝える」働きをまず果たさなければならない事情を指しています。それで、ローマを訪れることはすぐにはできなかったわけです。
 
 異邦諸国民に福音を伝える働きを進めてきたパウロは、アンティオキアを出て以来西に向かって急いでいます。パウロが目指す先には、異邦諸国民を統括する帝国の首都ローマがあったことは、パウロ自身がこの言葉によって打ち明けています。ところが、このように使命を果たす必要からだけでなく、騒乱や反対運動に妨げられて一度ならず進路を違う方向に変えなければなりませんでした。パウロはそのことを「これまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました」と言っています。ローマを目前にしているのに、やむをえない状況に迫られて、反対の東に向かいエルサレムに急がなければならないことも起こりました(使徒一八・一八〜二二)。そのような時にもローマを目指すパウロの決意は固かったことを、ルカは「わたしはそこ(エルサレム)へ行った後、ローマを見なくてはならない」というパウロの言葉として描いています(使徒一九・二一)。
 
 しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、(二三節前半)
 
 今パウロは「エルサレムからイリリコン州まで」(一五・一九)、すなわちローマ帝国の東半分の地域での宣教の働きを終えて、コリントに来ています。「今や、この地域にはもはや(福音のために働くべき)余地がない」と言える段階です。東半分での使命を果たした今、西に向かい念願の帝都ローマを訪れることができる時が来ました。
 
 当時ローマ帝国の重要な部分である北アフリカは視野に入っていないようです。パウロの目は地中海北側の西半分の地域(そこにはガリアも含まれます)に向かい、ガリアを越えてその西端、すなわちイスパニア(現在のスペイン)を目指します。おそらく、当時ローマから到達するには海路で直行できるイスパニアの方が、かえって身近な目標となったものと思われます。
 
 また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、(二三節後半)
 
 イスパニアへ行くようになる場合には、ローマを素通りしたくない、是非ともローマを訪れたいという希望を、それが永年の切望であったことを述べて理由付けます。このような言い方は、「他人の土台の上に建てるようなことはしない」(二〇節)ことを原則としてきたパウロが、自分が建てて指導してきたのではないローマの集会で働こうとしていることへの理解を求める気持ちがあるからでしょう。パウロは異邦諸国民への使徒として、帝都に働きの拠点をもつこと切望していますが、それをローマの兄弟たちに理解してほしいのです。
 
 イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています。(二四節)
 
 パウロはイスパニアに行くことを決めていますが(本節後半、二八節)、ここでは「行くようになる場合には」と接続法を用いて、断定的な言い方を避けています。自分としてはイスパニアに行くことを決意し計画を立てているが、主が許してくださるならば(状況が許すならば)実際に行くことになるであろうが、その場合には、という気持ちでしょう。
 
 そして、「途中であなたがたに会い」という言い方にも、ローマに滞在して宣教活動をすることが目的でないことを示唆して、この場合も「他人の土台の上に建てるようなことはしない」という原則を貫こうとするパウロの気持ちを滲ませています。
 
 「幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば」という言い方も、自分が建てたのではないローマ集会に対するパウロの控え目な態度が出ています。使徒としての権威をもって教えたり命令したりするのではなく、同じ信仰に生き、福音のために共に働く同志として、対等の立場で交わりを求めます。パウロは「前置き」でローマ訪問の目的を、「わたしがあなたがたに会うことを熱望しているのは、あなたがたに御霊の賜物をいくらかでも分け与えて、あなたがたを強めたいからです。いやむしろ、あなたがたの中で、お互いの信仰、すなわち、あなたがたの信仰とわたしの信仰によって、共に励まされたいからです」と言っていました(一・一一〜一二)。しばらくでも滞在してこの願いが満たされたならば、それでローマ訪問の目的は達せられたのであり、こうしてローマ集会とパウロの信頼関係が確立すれば、「あなたがたによってイスパニアに送り出してもらう」ことができるようになります。
 
 「幾分でも」と抑制した言い方をしているのは、ローマに腰を据えて活動するつもりはないのですから、十分なことは望めないにしても、「幾分でも交わりが満たされ」、信頼関係ができあがり、異邦人への使徒としてのパウロの使命が理解されれば、という気持ちでしょう。
 
 パウロは、イスパニア伝道という大きな計画にローマの集会が参加して、背後から支援してくれることを期待しています。「あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうこと」の中にどのような内容が期待されているのか、具体的には何も言っていませんが、アカイア州ではコリントが、アジア州ではエフェソが周辺地域への宣教活動の拠点となったように、ローマが帝国西部への新しい宣教活動の拠点となることを期待していると見てよいでしょう。
 
 地の果てまで福音を伝えるという《エクレーシア》の使命を共にすることにより、そのために共に祈ることが何よりの支援ですが、具体的には協力者の提供とか金銭的な援助が考えられます。後で(一六章の個人的挨拶の段落で)見るように、パウロはローマの諸集会に多くの同志をもっていますから、その中から協力者を期待していたことは考えられます。しかし、金銭的な援助については、当時のローマ諸集会がどれほどの経済力を持っていたかが分かりませんので推察は困難ですが、たとえそれがなくても、これまでしてきたように天幕造りの仕事をしながら福音のための活動をする覚悟はしていたはずです。パウロは最後まで独立伝道者として活動する決意であったと推察しますが、ローマ集会の理解と祈り、そして何らかの協力という支援を期待し、それを「あなたがたによって送り出してもらうことを願っています」と表現します。
 
 これまで活動してきた帝国東部の諸州とは違い、ガリアとかイスパニアというような帝国西部の諸州は、まだ誰も福音をもたらしていない処女地であったと考えられます。常に処女地を求めて開拓伝道を進めようとするパウロの姿勢に、主から選ばれた「異邦人の使徒」パウロの真面目が出ています。しかも、それを独立で貫こうとするパウロの気概に聖霊の力を実感します。

エルサレム訪問の必要 

 しかし今は、聖徒たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。(二五節)

 パウロはこの手紙をコリントで書いています。コリントから海路西に向かえばイタリア本土はすぐそこです。永年訪れることを切望してきたローマは目の前です。「しかし今は」正反対の東に向かい、はるか遠くにあるエルサレムに向かって出発しようとしています。どうしてもそうしなければならない事情があるのです。
 
 エフェソでコリント第一書簡を書いた時点では、異邦人諸集会の代表たちと一緒に自分もエルサレムへ行くかどうかは決めていませんでした(コリントT一六・四)。ここでやはり自分も一緒に行くことを決心しています。この時点でのパウロのエルサレム行きは、このエルサレム訪問がパウロの働きの成否を左右する重大な意味をもつものであると、パウロが考えていたことをうかがわせます。
 
 この段落の「聖徒たち」はユダヤ人信徒で構成されるエルサレム教団を指しています。エルサレムの「聖徒たち」がユダヤ人キリスト教を代表する表現であることは、二七節で「聖徒たち」が異邦人と対照されて語られていることからも確認されます。
 
 「仕えるために」というのは、具体的には異邦人諸集会で集めた献金を手渡すことを指しています(二八節およびコリントT一六・一〜四参照)。
 
 マケドニア州とアカイア州の人たちが、エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意したからです。(二六節)
 
 マケドニア州にはフィリピ、テサロニケ、ベレアが、アカイア州にはコリントがあります。これらの諸都市と周辺地域の集会の人たちが、「エルサレムの聖徒たちの貧しい人々に幾分かの援助をするように、進んで同意しました」。ここでこの二つの州だけが名をあげられているのは、今、献金を携えてエルサレムに向けて出発しようと、パウロと一緒にコリントで待機しているのは、この二州の人たちだからであると考えられます。
 
 パウロは二年半あまりのエフェソでの活動を終えて、マケドニア経由で今はアカイア州のコリントに来ていますが、この旅は募金旅行であり(コリントU八章と九章)、マケドニア州の諸集会の代表が彼らの献金を携えてパウロと一緒にコリントに来ていると考えられます。アジア州(その州都がエフェソ)も当然その募金活動に参加しているはずですが、アジア州の代表は海路エルサレムに向かうパウロ一行と途中で合流する予定であると見られるので、同行していないのでしょう(エルサレムへの航海の途中、パウロ一行がミレトスでエフェソ集会の代表者たちと会ったことについては使徒言行録二〇章が報告しています)。
 
 ガラテヤの諸集会については、募金活動が行われたことは伝えられていますが(コリントT一六・一)、ここには名があげられていません。ガラテヤではパウロに反対する「ユダヤ主義者」の活動が浸透して、ガラテヤの書集会がパウロから離れ、この募金活動から脱落した可能性があります。しかし、地理的な位置からして、途中で合流したことも十分ありうるので、ガラテヤの諸集会が募金活動から脱落したのかどうかの判断の根拠にはなりません。
 
 エルサレム会議のとき、パウロには「無割礼の者たちへの福音」が委ねられましたが、そのさい「貧しい人たち」を顧みることが要望されました(ガラテヤ二・一〇)。この「貧しい人たち」はエルサレムの「聖徒たち」の別称です。最初期のユダヤ人信徒は、詩篇の敬虔や預言者の言葉、また身近なエッセネ派からの影響、そして何よりイエスの貧しい者たちへの幸いの言葉を受けて、自らを「貧しい者たち」と呼んでいました。
 
 このように「貧しい者たち」は宗教的な呼称ですが、この時代には実際に経済的に困窮していたと見られます。エルサレムに成立した最初期の信徒共同体は、エッセネ派共同体に倣って、資産を持ち寄って共同生活をしましたが、孤立した生活共同体は二十年あまりを経て、外からの援助を必要とする状況に陥っていたと考えられます。パウロの募金の手紙(コリントU八章と九章)には、実際の貧しさへの救援の呼びかけの面があります。

 

 ローマ書執筆の55年当時はもちろん、50年前後と見られるエルサレム会議も、エルサレム教団成立から二十年近く経っていて、このような援助を必要とする状況があたっと推察されます。  なお、原文の「聖徒たちの貧しい人々」という表現は、「聖徒たちの中の(一部の)貧しい人々」と理解するか、「聖徒たちという貧しい者たち」と理解するか、両方の理解が可能です。ガラテヤ書(二・一〇)でエルサレムの聖徒たち全体が「貧しい者」と呼ばれていることから、後者の理解が順当であると考えます。前者の理解では、献金の経済的意義が前面に出ますが、次節の理由づけが示すように、パウロはエルサレム集会自体を援助(奉仕)の対象としていると見られます。 

 このように、パウロの募金活動はエルサレム会議の要望に応える救援活動ですが、同時にユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つにされることを願ったパウロの悲願の実践でもあります。この援助を受け入れることは、ユダヤ人共同体が無割礼の異邦人信徒を同じ主に属する民として受け入れることを意味します。そのようになることを願って、パウロはこの募金活動を熱心に進めてきました。しかし、律法に熱心なユダヤ人にとって、これがいかに難しいことかは、パウロは十分に承知しています(一五・三一)。
 
 このような悲願をこめたパウロの献金の呼びかけに、異邦人集会の人たちは「喜んで」応じました。そして、彼らが進んで同意したことの霊的意義が続いて語られます。
 
 たしかに彼らは進んで同意しましたが、彼らには聖徒たちに負い目もあるのです。異邦人が聖徒たちの霊的なものに与ったとするならば、異邦人は肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目があるからです。(二七節)
 
 「彼ら」、すなわち異邦人信徒たちは、「聖徒たち」、すなわちエルサレムのユダヤ人信徒たちに「負い目がある」のです。イエスの直弟子たちとその周囲に集まったユダヤ人信徒の共同体は、福音の土壌であるイスラエルの宗教的伝統、イエスの言葉や働きの伝承(イエス伝承)、復活者キリストの体験と告白(キリスト伝承)を保持する共同体であり、異邦人はこの根につながることによって霊的な救済の現実に与ることになるのです。このことをパウロは、「異邦人が聖徒たちの霊的なものに与った」と表現します。異邦人は「オリーブの根の養分にあずかる者になった」のです。ですから、パウロは異邦人に向かって「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」と言います(一一・一七〜一八)。
 
 そうであるならば、異邦人は「聖徒たちに負い目がある」立場ですから、「肉のもので聖徒たちに奉仕する負い目がある」ことになります。この場合の「肉のもの」は物質的なものを指します。具体的には、金銭の援助で奉仕するという負い目(義務、責任)があることになります。
 
 このことを成し遂げ、この実を確実に手渡した後、わたしはあなたがたのところを経由してイスパニアへ行きます。(二八節)
 
 「このこと」、すなわち「聖徒たちに仕えること」(二五節、二七節)を成し遂げるとは、「この実を確実に手渡す」ことと同じです。「この実」とは、異邦人諸集会から集めた援助の寄金を指し、それは異邦人信徒たちの愛の実であると同時に、パウロが祭司として神に献げる「献げ物」でもあります(一五・一六)。
 
 「確実に手渡した後」と言っていますが、ここに用いられている動詞はもともと「封印する」とか「証印を押す」という動詞で、正式に受け取ったという証印をもらって引き渡すという意味で用いられているので、「確実に手渡す」と訳しています。このような言い方にも、この献金がエルサレムの指導者たちに問題なく受け入れられるかどうかについて、パウロが不安を感じていることがうかがえます。
 
 この使命を成し遂げた後、パウロは念願のローマ訪問を果たし、ローマを経由してイスパニアに行く計画です。ローマを経由することは、たんにイスパニアに行く旅程の問題ではなく、パウロのこれからの福音活動にとって重要な意義をもつ一段階であることは、ここ(二二〜二四節)で控えめな表現ながら語り、ローマの兄弟たちに理解してもらおうとしました。
 
 あなたがたのところに行くときには、キリストの溢れる祝福を持って行くことになると思っています。(二九節)
 
 ローマ訪問は、パウロがこれから成し遂げようとしているイスパニア伝道の拠点として期待している面がありますが、それだけでなく、使徒としてローマの兄弟たちに「キリストの祝福」をもたらすという一面があります。パウロは訪れることを永年切望していたローマに、 手ぶらで行くのではありません。これまでキリストの使徒として受けてきた御霊の賜物のすべてを携え、それをローマの兄弟たちに分かち与えるために行くのです。
 
 パウロは使徒として、「キリストの祝福の充満をもって」(直訳)ローマを訪れようとしています。その「キリストの祝福」の豊かさは、すでにこの書簡(ローマ書)に詳しく展開されていました。今その実質を携えて、その体現者である使徒自身がローマに来ようとしています。後で見るように、パウロは計画したイスパニア伝道の途上でローマに到着したのではなく、囚人としてローマに護送されてきます。しかし、どのような形であれ、使徒パウロ自身からこのような「キリストの祝福」を直接受けることができたローマの兄弟たちは、なんと恵まれていることでしょうか。

共に祈るようにとの願い 

 兄弟がたよ、わたしたちの主イエス・キリストにより、また御霊の愛によってお願いします。わたしと一緒に力を尽くして、わたしのために神に祈っていただきたい。(三〇節)
 
 パウロは、まだ会ったことのないローマの兄弟たちに、「兄弟がたよ」と呼びかけ、「わたしたちの主イエス・キリストにより」、すなわち同じ主イエス・キリストに属する者として、また「御霊の愛によって」一緒に祈るように願います。「御霊の愛によって」とは、同じ御霊が与えてくださっている愛によって交わりにある者として、という意味ですが、この句が加えられているところに、パウロが御霊による交わりを現実として強く感じていることがうかがえます。
 
 パウロはローマの兄弟たちに、「祈りにおいてわたしと一緒に苦闘してください」(直訳)と願っています。「わたしと一緒に力を尽くして祈ってください」と訳していますが、「苦闘する」という語を使っていることに、この時のパウロの心境がうかがえます。この動詞は《アゴニア》(苦悩)と同系の動詞ですが、この語は(辞書によると)もともとは競技を開始する直前の心理を指す語であるとのことです。パウロは今エルサレムに上って、異邦人伝道の実を献げて祭司の務めを果たそうとしていますが、これがいかに困難で危険な務めであるかを十分自覚しています。この困難で危険な決勝戦を目前にして、パウロは《アゴニア》(苦悩)の中で祈っています。そして、ローマの兄弟たちに、パウロの苦悩を理解して、「一緒に苦闘する」ように願うのです。
 
 パウロは「わたしのために」祈ってくださいと願っていますが、これはパウロが危険から救われるようにという個人的な願いだけではなく、パウロがこのエルサレム行きで果たそうとしている福音のための課題、すなわちユダヤ人と異邦人からなる一つのエクレシアの形成という課題の実現のための祈りも含んでいます。その願いの内容は、続く三一〜三二節の三つの副文で表現されています。この訳では「すなわち」で続けています。
 
 すなわち、わたしがユダヤの不信の者たちから救われ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなるように、(三一節)
 
 「ユダヤの不信の者たち」とは、イエスをキリストと認めないエルサレムと周辺地域のユダヤ人たちです。ローマ書執筆当時(50年代半ば)のユダヤは、熱心党の活動の影響もあって、律法(モーセ律法と父祖の伝承)順守の熱意が高揚しており、エルサレム教団は孤立していました。エルサレム教団は、律法順守で評判の高い「義人ヤコブ」を代表に立ててかろうじて存続していましたが、そのヤコブも62年に「ユダヤの不信の者たち」によって殺されます。
 
 そのようなエルサレムに入ることは、これまでも律法を汚す者として命を狙われていたパウロにとってどれほど危険なことであるかを、パウロは十分自覚しています。今回のエルサレム上京の目的を果たすためには、まずこの危険から救われなければなりません。しかし、その上でなお、「エルサレムに対するわたしの奉仕」、すなわち命がけで持参した異邦人集会からの献金が、「聖徒たちに受け入れられる」かどうかが不確かなのです。
 
 献金を受け入れることはパウロの「無割礼の福音」を認めることになるとして、この献金の受け取りが拒否されることを、パウロは真剣に心配しています。エルサレム会議の合意にもかかわらず、エルサレム教団のユダヤ人指導層の中には、パウロの律法から自由な福音を拒否する勢力が強力であったことをうかがわせます。「前置き」の講解で見たように、ローマ書はエルサレムを「隠れた宛先」として、このようなエルサレム教団のユダヤ人指導層に対するパウロの福音の弁証という一面を持っているとも見られます。
 
 そして、神の御心によって喜びをもってあなたがたのところに到着し、あなたがたと共に憩うことができるように祈ってもらいたい。(三二節)
 
 そして、神の加護の下に、エルサレムでこの重大で危険な課題を無事果たした喜びをもってローマに到着し、ローマの兄弟たちとしばらくの間一緒に「憩うことができるように」、祈ってもらいたいと願います。「憩う」というのは、休息の日々が与えられるようということではなく、妨げられることのない平安の中で、お互いに信仰の励ましと賜物の分かち合いができるようにという願いでしょう。
 
 平和の神があなたがた一同と共にいてくださるように。アーメン。(三三節)
 
 この結びの挨拶をもって書簡の本文は一応終わります。この後に続く一六章の問題は別に扱います。



  44 個人的な挨拶 (16章1〜16節)

 1 わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 この人はケンクレアイの集会の奉仕者です。 2 どうか、主にあって聖徒たちにふさわしく彼女を迎え入れ、彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください。彼女自身多くの人の援助者となり、とくにわたしの援助者となってくれた人ですから。
 3 キリスト・イエスにあってわたしの協力者であるプリスカとアキラによろしく伝えてください。 4 この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです。この二人には、わたしだけでなく、異邦人のすべての集会が感謝しています。 5 また、二人の家に集まる集会にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はキリストに捧げられたアジア州の初穂です。 6 あなたがたのために一方ならず苦労したマリアによろしく伝えてください。 7 わたしの同国人であり同囚の仲間であったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。二人は使徒たちの中で際だっており、わたしよりも先にキリストにある者となった人たちです。 8 主にあってわたしの愛するアンプリアトによろしく伝えてください。 9 キリストにあるわたしの同労者ウルバノと、わたしの愛するスタキスによろしく伝えてください。 10 キリストにあって熟達したアペレによろしく伝えてください。アリストブロの家の者たちによろしく伝えてください。 11 同胞のヘロデオンによろしく伝えてください。ナルキソの家の中で主にある者たちによろしく伝えてください。 12 主にあって労しているトリファイナとトリフォサによろしく伝えてください。主にあって多く労した、愛するペルシスによろしく伝えてください。 13 主にあって選ばれたルフォスと彼の母によろしく伝えてください。彼の母はわたしの母でもあるのです。 14 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく伝えてください。 15 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖徒たち一同によろしく伝えてください。 16 お互いに聖なる口づけをもって挨拶をかわしなさい。すべてのキリストの集会からあなたがたに挨拶を送ります。

一六章の問題 

 一六章(あるいはその一部)は、別の手紙がローマ書本体に付け加えられたものではないかという問題が提起され、いまだに議論が続います。その主張の主要な根拠は、写本上のものと内容上のものがあります。
 
 写本によって最後に置かれるはずの「頌栄」(一六・二五〜二七)の位置が様々で、一五章の終わりに置かれている有力な初期写本もあり、初期には一五章までの版も流布していたことを示しています。
 
 内容からも、三〜一六節の「個人的な挨拶」に現れる多くの人名が、パウロが訪れたことのないローマの集会よりも、三年近く滞在して働いたエフェソの集会にあてた挨拶と見る方が適切である面があります。それで、パウロが一五章までの本体の写しに、エフェソあての個人的な挨拶を付けてエフェソにも送ったのか、あるいはパウロ書簡集がエフェソで収集されたとき、別の機会に書かれたエフェソあての手紙(フェベの紹介状)が加えられたと考える研究者が多くいます。しかし、最近は一六章全体が本来のローマあての書簡の一部であるとする見方も強くなってきています。子細に検討すると、ローマ集会あての挨拶と見ることも十分可能です。
 
 どちらの説をとるにしても、パウロの福音の本質理解については影響はないと考えられます。本講解は、一六章が本来のローマあての書簡の一部であるとして講解を進めますが、エフェソあての挨拶であると見る場合も考慮に入れて考察します。以下の講解では、一六章を本来のローマあての書簡の一部であるとする見方を「ローマ説」、エフェソあての手紙とする見方を「エフェソ説」と略記して用います。

フェベの紹介状 

 わたしたちの姉妹フェベを紹介します。 この人はケンクレアイの集会の奉仕者です。(一節)
 
 一〜二節はフェベの紹介状です。一六章がローマ集会あての挨拶であるとすれば、フェベはこの手紙をローマに携えていった使者である可能性があります。そうだとすると、この女性は、後に世界を変えることになる重要な文書をその身に携えて旅したことになります。
 
 「フェベ」という女性名は、ギリシャ神話の「フォイベ」からきています。当時、奴隷には神話の中の名をつけ、解放された後もそのまま使う習慣があったので、この女性は奴隷または解放奴隷の身分でないかと推察されます。

 

 フェベだけでなく、以下の人名に奴隷または解放奴隷の身分ではないかと推察される人が多く出てきます。この奴隷または解放奴隷の身分については、この時代のローマの奴隷制を解説したフィレモン書講解の「ローマの奴隷制」を参照してください。 

 フェベは「ケンクレアイの集会《エクレーシア》の奉仕者」であると紹介されています。ケンクレアイはコリントの南東、サロン湾に臨むコリントの外港で、東方に向かう船の出港地です。パウロはここからエルサレムに向かい、またエフェソなど東方からコリントに来るときに立ち寄ることになります。
 
 「奉仕者」は、原語では《ディアコノス》(仕える者)という語です。この語は後に「執事」と訳され、教会の役職の一つを指すようになりますが、パウロの時代では「監督」と並んで、集会の指導的な立場の人たちを指す用語です。パウロ書簡では、ここと「監督たちと奉仕者たち」と複数形でフィリピ書一章一節に出てくるだけです。ここでは、「執事」という教会的役職名になっている語を避け、新共同訳に従って「奉仕者」と訳しています。
 
 パウロの時代には、(おそらく奴隷身分の異邦人)女性も集会の指導的立場で活躍したのであり、教会の役職を男性に限るようになる牧会書簡の時代とは事情が異なることが分かります。
 
 どうか、主にあって聖徒たちにふさわしく彼女を迎え入れ、彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください。彼女自身多くの人の援助者となり、とくにわたしの援助者となってくれた人ですから。(二節)
 
 パウロはフェベについて、宛先の集会に「彼女があなたがたの助けを必要とするときには、どんなことでも助けてあげてください」と頼んでいます。このような依頼は、まだ訪れたことのないローマの集会よりも、長年共に過ごして親しいエフェソの集会にふさわしいとも考えられますが、ローマ集会あてと見ることも不可能ではありません。
 
 パウロはフェベを、集会に対する奉仕者として「多くの人の援助者」となっただけでなく、「とくにわたしの援助者となってくれた人」であると紹介しています。 パウロはコリントに数回(少なくとも三回)滞在していますが、コリントと東方(エフェソやエルサレム)との往復にはいつもケンクレアイに立ち寄り、集会の「奉仕者」であるフェベの世話になったことと推察されます。

プリスカとアキラ 

 キリスト・イエスにあってわたしの協力者であるプリスカとアキラによろしく伝えてください。(三節)
 
 個人的な挨拶の最初に「プリスカとアキラ」夫妻の名があげられます。それは、彼らの存在の重要性からして当然です。二人はパウロの伝道活動にとってかけがえのない協力者でした。
 
 アキラはポントス州出身のユダヤ人で、プリスカ(プリスキラとも呼ばれる)はその妻です。このユダヤ人夫妻がいつどこで福音に接し、キリスト信仰に入ったかは不明ですが、遅くとも40年代後半にはローマに在住して、ユダヤ人会堂に所属しています。新しいキリスト信仰をめぐって(とくに律法順守の必要をめぐって)会堂のユダヤ人の間で騒乱が起こり、クラウディウス帝はユダヤ人をローマから追放します(49年)。おそらくアキラ夫妻はこの騒乱の中で、イエスを信じるユダヤ人グループの中心的人物であったのでしょう。この追放令でコリントに移住した夫妻は、(第二次伝道旅行で)コリントに到着したパウロに出会い(50年)、パウロを自分の家に迎え、同じ職業であるテント造りを共にして、パウロの自給伝道を助けることになります(使徒一八・一〜四)。
 
 約一年半後に起こったユダヤ人との騒乱のために、夫妻はパウロと一緒にコリントを去り、エフェソに到着します。「パウロは二人をそこ(エフェソ)に残し」、エルサレムに向かいます(使徒一八・一八〜二三)。アキラ夫妻はエフェソで伝道活動を続け、自分の家に集会を形成するようになります。エフェソに戻ってきたパウロは、二年半にわたってエフェソに滞在して活動します。この間、エフェソでコリント第一書簡が書かれた時点(おそらく53年)では、アキラ夫妻はエフェソに在住して、自分の家の集会を指導しています(コリントT一六・一六)。ローマ書執筆時(56年初頭)もまだエフェソに在住していたことが確認されれば、ローマ書一六章がエフェソあての手紙であることの確かな根拠になりますが、この確認はできません。むしろ、ローマ書一六章をローマ集会あての手紙の本来の部分であるとして、ここを根拠にして、アキラ夫妻が(54年のユダヤ人追放令の廃止後)ローマに戻っていたと推定する見方が有力になっています。そうであれば、ローマ集会に自分の同志を得たいパウロの指示とか依頼に従って、ローマに移住したという見方も可能になります。
 
   パウロがエフェソにいた時期(53〜55年)の最後に、アルテミス神殿にかかわる騒乱が起こっています(使徒一九章)。この騒乱のためにパウロが投獄さたと考えられます。判決は確認できませんが、追放処分になった可能性はあります。そうすると、同じくエフェソでパウロと並んで指導的な立場にいたプリスキラとアキラ夫妻も追放され、ローマに移住していた可能性が考えられます。
   
 パウロは先にこの二人をエフェソに残してエルサレムに向かいました。二人をエフェソに残したのは、自分がエフェソに来て活動する計画であるので、その道備えをするためでした。同じように、ローマをイスパニア伝道の拠点としたいパウロが、自分のローマ訪問に先立って、この二人にローマに移住して、パウロの働きのための環境づくりを依頼したことも十分考えられます。
 
 当時の習慣に反して、妻のプリスカの名が先にあげられているのは、パウロへの協力や伝道活動と集会指導という福音の働きの面では、いつもプリスカの方が積極的で、表に出ていたからであると考えられます。ここにも、初期には女性が宣教に積極的に参加し、重要な役割を果たしていたことが示されています。
 
 この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれたのです。この二人には、わたしだけでなく、異邦人のすべての集会が感謝しています。(四節)
 
 パウロはこの二人について、「この二人は、わたしの命のために自分たちの首を差し出してくれた」と言っています。これは、パウロの命を救うために自分たちの命を危険にさらしたという意味です。おそらくエフェソでパウロが経験した危急の場面で起こった出来事で、このようなことがあったのでしょう。パウロがその事件を具体的に語らないで、このような一般的な表現に止めているのは、それが脱獄というような非合法の行為であったので、表に出すことを避けたからである可能性もあります。

 

 先にフィリピ書の講解で見たように、パウロはエフェソで投獄されたと見られます。この事件について、パウロの生涯と使徒としての活動を小説風に描いているウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、その中でエフェソの騒乱で投獄されたパウロを、プリスカが自分をパウロの身代わりにして、パウロを脱獄させる場面があります。これは小説ですが、著者は神学者でもあり、その物語の骨格は最近のパウロ研究の成果を堅実に用いていることがうかがわれます。このような出来事は実際にはありそうではありませんが、その可能性も否定しきれません。もしそれが事実であれば、キリスト教徒がローマの法律や秩序を破る者でないことを示したいルカが、このような非合法な脱獄を含むエフェソでの入獄について語ることを避けたこともうなずけます。 

 この二人は、「異邦人の使徒」パウロを助けることによって異邦人への福音の宣教に貢献していただけでなく、自らもユダヤ人でありながら、パウロと同じくユダヤ教律法から自由な福音を唱えて、異邦人信徒たちを指導し励ましていたので、異邦人のすべての集会が二人を高く評価し、感謝していたことがうかがわれます。
 
 また、アキラ夫妻がローマに戻っているとすれば、この書き方は、自分の同志であるこの夫妻の重要性をローマの人たちに印象づけ、二人を通して自分への理解を深めてもらおうと願うパウロの気持ちを示すことになります。
 
 また、二人の家に集まる集会にもよろしく伝えてください。(五節前半)
 
 初期においては、《エクレーシア》は個人の家に集まっていました(フィレモン二、コロサイ四・一五参照)。ローマにおいても、この時期には一つの「ローマ教会」というようなものは存在せず、以下の講解に見るように、個々の信徒の家に集まる集会《エクレーシア》や、特定の立場の人たちのグループが散在していたと考えられます。それで、パウロはこの手紙の前置きのところで、宛先として「ローマにある《エクレーシア》(単数形)」という表現ではなく、「ローマ在住の神の愛される方々、召された聖徒たち一同に」という形を用いています(一・七)。
 
 アキラ夫妻はエフェソでも自分の家に信徒を集め、集会を指導していました(コリントT一六・一九)。ローマに戻ってからも、自分の家に集まる《エクレーシア》を指導しました。おそらく二人の周りにはかなりの数の異邦人信徒が集まっていたと推定されます。パウロは、自分がローマに来たときに、この集会が彼の活動の拠点となることを期待して、とくにこの集会に挨拶を送っていると見られます。

パウロの友人たち 

 わたしの愛するエパイネトによろしく伝えてください。彼はキリストに捧げられたアジア州の初穂です。(五節後半)
 
 以下に、パウロは多くの知人・友人の名をあげて挨拶を送ります。また訪れたことのないローマにこれほど多くの知人・友人がいることは不自然であるというのが「エフェソ説」の根拠になっていますが、これも子細に検討すると、パウロがローマにこのような友人をもっていたことはありうることと考えられますので、ローマ説も十分成り立つと考えられます。
 
 最初にエパイネトへの挨拶が来ます。彼は「キリストに捧げられたアジア州の初穂」であると紹介されています。「アジア州の初穂」というのは、アジア州で最初にキリストを信じて告白した人のことです。アジア州というのは実質的にはエフェソを指すので、この表現は「エフェソ説」の根拠の一つとされます。しかし、「ローマ説」では、エパイネトがローマに移住しており、パウロがローマの人たちにエパイネトの重要性を印象づけようとしているとも解釈されます。
 
 あなたがたのために一方ならず苦労したマリアによろしく伝えてください。(六節)
 
 ここの「マリア」は、ここに出てくるだけで、詳しいことは分かりません。おそらくユダヤ人女性で、エフェソまたはローマでの福音宣教に大きな働きをした女性であると考えられます。
 
 わたしの同国人であり同囚の仲間であったアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。二人は使徒たちの中で際だっており、わたしよりも先にキリストにある者となった人たちです。(七節)
 
 「同国人」とは、パウロと同じユダヤ人である人ということです。「同囚の仲間」とは、パウロが投獄されたとき一緒に投獄された仲間を意味します。ところで、ローマ書執筆時には、カイサリアやローマでの「同囚の仲間」はありえないので、エフェソでの「同囚の仲間」となり、ここも「エフェソ説」の根拠とされるところです。「ローマ説」では、アンドロニコとユニアは出獄後ローマに移住したことになります。
 
 ここにアンドロニコ(男性)と一組で出てくる「ユニア」が男性か女性かが争われています。ギリシャ語原文では四格《ユニアン》で用いられているので、主格がユニアス(男性)かユニア(女性)か、両方の可能性があるからです。近代語訳も分かれています。日本語訳はほとんどみな「ユニアス」と訳していますが、岩波版青野訳は「ユニア」としています。二人が「使徒」と呼ばれていることから、女性の使徒を認めるグノーシス派に対抗して、女性を使徒職から排除しようとする正統派は、ここを男性と理解する傾向があります(ヴルガタも男性扱い)。この正統主義的傾向から離れて、ここでは女性と理解し、「ユニア」と訳します。初期のギリシャ教父たちも、女性と理解してアンドロニコの妻として語っています。おそらく、この二人は、アキラとプリスキラ夫妻のように、夫婦で福音のために活動したと見られます。
 
 「二人は使徒たちの中で際だっており」とありますが、これは使徒たちの間で評判の高い信徒という意味ではなく、二人自身使徒であって、使徒たちの仲間の中で目立つ存在であるという意味です。「使徒」という語は、「十二人」に限られず、復活されたイエスの顕現に接して宣べ伝えた多くの証人について用いられています(コリントT一五・七)。
 
 アンドロニコとユニアという二人のユダヤ人夫妻は、「わたしよりも先に」、すなわちパウロの回心よりも早い時期に、(おそらくパレスチナで)復活の証人として活躍しており、その後エフェソとかローマに移って福音を宣べ伝え、その地の集会形成に寄与したのでしょう。当時のディアスポラ・ユダヤ人の活動範囲の広さからすれば、これはごく自然なことです。
 
 主にあってわたしの愛するアンプリアトによろしく伝えてください。(八節)
 
 「アンプリアト」は、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の人であろうと考えられます。それ以外のことは分かりません。
 
 キリストにあるわたしの同労者ウルバノと、わたしの愛するスタキスによろしく伝えてください。(九節)
 
 「ウルバノ」は、名前からすると自由人でしょう。「わたしの同労者」とありますから、彼はこれまでのパウロの伝道活動のどこかで協力した人物でしょう。手紙の発信人に名を連ねているテモテやシラスけでなく、パウロには他にも多くの「同労者」がいたことをうかがわせます。
 
 「スタキス」については、ここに出てくるだけで、詳しいことは分かりません。
 
 キリストにあって熟達したアペレによろしく伝えてください。アリストブロの家の者たちによろしく伝えてください。(一〇節)
 
 「アペレ」は、ここに出てくるだけで、詳しいことは分かりません。
 
 「アリストブロの家の者たち」というのは、アリストブロの家の奴隷か、またはその家の解放奴隷である者たちを指します。「アリストブロ」というのは、ローマ社会では珍しい名前で、ローマで過ごしたことが分かっているアリストブルス(ヘロデ大王の孫)であると見て、その家で奴隷であった者たちを指すとする見方があります。このアリストブルスは40年代後半に亡くなっていますが、奴隷または解放奴隷は、没後も主人の名で呼ばれました。そうすると、ここは「ローマ説」の有力な根拠になります。しかし、「カイサルの家の者たち」が、必ずしもローマを指すとは限らず、エフェソを指しているので(フィリピ四・二二)、決定的な根拠にはなりません。
 
 同胞のヘロデオンによろしく伝えてください。ナルキソの家の中で主にある者たちによろしく伝えてください。(一一節)
 
 「同胞のヘロデオン」も、名前から見て、おそらくヘロデの宮廷に所属していたユダヤ人の奴隷または解放奴隷の身分の人物でしょう。
 
 「ナルキソの家の中で主にある者たち」は、ナルキソの家の奴隷またはその家の解放奴隷たちの中に、キリストを告白する者がいたことを示しています。ナルキソはローマの有力者であることが分かっていますので、ここも「ローマ説」の根拠とされます。
 
 主にあって労しているトリファイナとトリフォサによろしく伝えてください。主にあって多く労した、愛するペルシスによろしく伝えてください。(一二節)
 
 「トリファイナとトリフォサ」は、両方とも女性名です。名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の女性であったと見られます。「ペルシス」も女性名です。名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の女性でしょう。身分の低い女性たちが、「主にあって多く労した」と言われており、初期の宣教活動がこのような女性たちによって担われていたことがうかがえます。
 
 主にあって選ばれたルフォスと彼の母によろしく伝えてください。彼の母はわたしの母でもあるのです。(一三節)
 
 「ルフォス」は、名前からすると自由人であると考えられます。マルコ福音書一五・二一に、イエスに代わって十字架を背負ったクレネ人シモンに、アレキサンドロとルフォスのいう名の息子がいることが伝えられています。マルコ福音書のルフォスと本節のルフォスが同一人物かどうかが問題になりますが、確定はできません。
 
 パウロはルフォスの母について、「彼の母はわたしの母でもある」と言っています。パウロはルフォスの家に滞在して、ルフォスの母親から親身の世話を受けたことがあるのでしょう。

 

 先にあげたウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、このルフォスをマルコ福音書のルフォスと同一視して、パウロがパレスチナでルフォスの家に滞在して、母親から世話になり、また父親のシモンからイエスの十字架刑の模様を詳しく聞いたという場面を描いています。 

 アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく伝えてください。(一四節)
 
 「ヘルメス」は、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分の男性です。まとめて上げられた五名の名の後に、「彼らと一緒にいるすべての兄弟たち」という句が続いているところから、彼らは一つの「家の集会」または何らかの男性結社のメンバーであったのかもしれません。

 

 最後にあげられている「ヘルマス」は、ローマで成立したとされる「ヘルマスの牧者」との関係が視野に入ってきますが、同書の成立は二世紀半ばと見られるので、ここのヘルマスが著者であることは、年代的にありえないことになります。 

 フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖徒たち一同によろしく伝えてください。(一五節)
 
 「フィロロゴとユリア」はおそらく夫妻でしょう。ユリア(女性名)とネレウスは、名前から見て、おそらく奴隷または解放奴隷の身分であると見られます。このグループの後に「彼らと一緒にいるすべての聖徒たちに」という句が続いていることから、彼らは一つの「家の集会」のメンバーである可能性があります。
 
 お互いに聖なる口づけをもって挨拶をかわしなさい。すべてのキリストの集会からあなたがたに挨拶を送ります。(一六節)
 
 初期には、キリストにある者たちは「主の晩餐」に集まるときなど、お互いに兄弟姉妹として、抱擁と口づけで、お互いに赦し受け入れている心を現しました(テサロニケT五・二六、コリントT一六・二〇、コリントU一三・一二、ペテロT五・一四参照)。使徒はローマの集会も同じように、「聖なる口づけをもって挨拶をかわす」ことで、主にある一致を現すように期待します。
 
 最後に、パウロは「すべてのキリストの《エクレーシア》(複数形)から」挨拶を送ります。パウロは個々の集会を念頭において、《エクレーシア》の複数形を使っています。パウロは、これまでの活動によって成立した帝国東部のすべての《エクレーシア》を代表して、帝都ローマの兄弟たちに連帯の挨拶を送ります。ここで「挨拶を送ります」と訳した動詞は、ここまで「よろしく伝えてください」と訳し、一五節では「挨拶をかわしなさい」と訳したのと同じ動詞です。

初期の集会の身分構成 

 この個人的な挨拶の段落(三〜一六節)の人名について 最初に見たように、このような多数の知人は、まだ訪れたことのないローマより、長年働いたエフェソがふさわしいと見て(他にも理由がありますが)、一六章エフェソ説が主張されることになります。しかし、パウロ書簡の結びの挨拶で、このように多数の個人名があげられるのは異例です。また、パウロは自分をよく知っている集会に挨拶を送るとき、その中の特定の個人名をあげることはありません。それだけに、これをよく知られているエフェソあての手紙とするより、知られていないローマの集会に対して、自分と関わりのある限りの知人の名をあげて、ローマにおける自分の立場を補強しようとしていると見ることもできます。これまでの伝道活動で知り合った人たちが、ローマに移住している可能性は十分にあります。とくにユダヤ人は54年の追放令廃止後に多く移住したと考えられます。
 
 この人名表は、初期の集会の身分構成を示唆しています。ローマであれエフェソであれ、初期のキリストの民には、ユダヤ人も異邦人も混じっています。奴隷または解放奴隷の身分の人がかなり多くいます。女性も宣教活動や集会の中での活動に積極的に、ときには指導的な立場で参加しています。使徒時代には、「キリストにあっては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もない」(ガラテヤ三・二八)という標語が文字通り実現していたと言えます。


  45 警戒しなさい(16章17〜20節)

 17 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきをひき起こす人たちを警戒し、そのような人たちから遠ざかりなさい。 18 このような人たちは、わたしたちの主キリストに仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。そして、甘い言葉やへつらいの言葉で純真な人々の心を欺いているのです。 19 あなたがたの従順は皆に知られており、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。それでもなお、わたしはあなたがたが善にはさとく、悪には染まないでいてほしいのです。 20 平和の神が速やかにサタンをあなたがたの足の下に打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。

最後の警告 

 使徒は、友人たちへの挨拶を書き終えて、いよいよ手紙を書き終えようとするとき、やや唐突に偽りの教えを持ち込む者を警戒するようにという警告を入れます。これまで心にかかりながら明言してなかった心配事を、最後に書かないではおれなかったのでしょう。

 

 この警告が宛先の友人たちへの挨拶と同行者からの挨拶の間に割り込んでいるという不自然な位置と、他のパウロ書簡にはあまり見られない用語と表現があることから、この部分は後の挿入であると見る研究者もあります。また、エフェソに送られた小書簡の一部であるとする立場もあります(ケーゼマン)。この種の警告を手紙に最後に書き加えるパウロの習慣(ガラテヤ六・一二以下、コリントT一六・二二)があることから、また用語も決定的な根拠にはならないことから、本来のローマ書の一部と見てよいでしょう。 

 兄弟たちよ、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきをひき起こす人たちを警戒し、そのような人たちから遠ざかりなさい。(一七節)  「あなたがたが学んだ教え」とは、伝えられた福音の基本的な内容を指しています。たとえば、コリントT一五・三〜五やコリントT一一・二三以下のように、伝えられ学び取られなければならない「教え」です。このような教えのことは、先に「教えの型」と言われていました(六・一七)。
 
 このような福音の基本的な教えに反した教えを持ち込んで、「分裂やつまずきをひき起こす人たち」は、一四章で取り上げられたような、集会内で違った意見を持つ人たちや批判する人たちではなく、外から入ってきて、「異なる福音」によって集会を分裂させ、信徒をつまずかせる人たちです。パウロのエフェソ滞在中に、ガラテヤ、フィリピ、コリントにこのような「偽りの働き人たち」が来ていたことが伝えられ、パウロはそのような者たちを警戒するように必死に手紙を書かなければなりませんでした。そのような「偽りの働き人たち」の影響がローマにも及ぶことを真剣に心配しなければならない状況であったと考えられます。
 
 このような人たちは、わたしたちの主キリストに仕えているのではなく、自分の腹に仕えているのです。そして、甘い言葉やへつらいの言葉で純真な人々の心を欺いているのです。(一八節)
 
 パウロは、少し前に書いたフィリピ書で、「自分の腹を神としている」人たちが、「十字架に敵対して歩み、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」と書いています(フィリピ三・一八〜一九)。「自分の腹を神としている」とか「自分の腹に仕える」というのは、ユダヤ教の食事規定を順守することを至上の価値とすることだとする解釈もありますが、フィリピ書の表現からすると、自分のこの世的な欲望を満たすことを目的にして宗教活動をすることと理解するのが順当でしょうう。
 
 彼らは神の真理ではなく、人を喜ばすだけの「甘い言葉やへつらいの言葉」で、「純真な人々の心を欺いている」と警告されます。罪の現実を指摘しないで人間本性を美化する言説だけでなく、禁欲や難行苦行を要求する一見敬虔な言説も、人間の律法主義的本性におもねる「甘い言葉やへつらいの言葉」であることに注意しなければなりません。
 
 あなたがたの従順は皆に知られており、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。それでもなお、わたしはあなたがたが善にはさとく、悪には染まないでいてほしいのです。(一九節)
 
 パウロは、伝えられた教えに「心から従う」ことが救いだとしています(六・一七)。パウロにおいては、このような意味での「従順」が「信仰」とほとんど同じ意味で用いられています。パウロは、すべての異邦人を「信仰の従順」に導くために働いていると言っています(一・五)。

 

 パウロの「従順」の用法について、とくに「服従」との違いについては、フィリピ書二章一二節の講解を参照。 

 ローマの兄弟たちがこの意味の「従順」において評判を得ていることをパウロは賞賛しますが、それでもなお、そのような「純真な人々」が「善にはさとく、悪には染まない」でいるように願います。この場合の善とか悪は倫理的なものではなく、「善」は福音の真理であり、「悪」は偽りの教えを指しています。善に対しては「知恵深く」、悪には「混じらないで、純粋な姿で」いてほしいという言い方は、「蛇のように賢く、鳩のように素直であれ」(マタイ一〇・一六)というイエスの語録を思い起こさせます。
 
 平和の神が速やかにサタンをあなたがたの足の下に打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。(二〇節)
 
 「平和の神」という表現は、本体部分の最後にも用いられていました(一五・三三)。パウロは、外から入り込んできて「分裂やつまずきをひき起こす人たち」を、「サタンに仕える者」と呼んでいます(コリントU一一・一三〜一五)。彼らの野心の背後には、神のわざを破壊しようとするサタンの働きがあるとパウロは見ているのです。それで、二〇節前半は、外からの偽教師たちの奸計が見破られ、彼らの野望が打ち砕かれることという解釈も可能ですが、「平和の神がサタンを打ち砕く」という表象は、当時の黙示文学で、神が終末時の蛇であるサタン(創世記三・一五)を打ち砕いて、地上に最終的な平和をもたらされることを指しており、パウロもこの意味で用いていると見る方が適切であると考えられます。「速やかに」という句も、キリストの来臨による勝利の日が近いことを指していると理解できます。
 
 「わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように」という祈りは、パウロの手紙では通例の結びの言葉です。それで、一七〜二〇節の警告はローマ書本体の議論の後では不自然であり、エフェソの集会にあてられたフェベの紹介状のような短い手紙に書き添えられた結びと理解するのが自然であるとして、この段落は「一六章エフェソ説」の根拠の一つとされます。


  46 同行者からの挨拶(16章21〜23節)

 21 わたしの同労者テモテ、また、わたしの同胞であるルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。 22 この手紙を筆記したわたしテルティオが、主にあって挨拶を送ります。 23 わたしと集会全体が世話になっている家の主人ガイオがあなたがたによろしくと言っています。市の会計係のエラストと兄弟のクアルトがあなたがたによろしくと言っています。 [24 わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた一同と共にあるように。]

パウロの同行者 

 最後にパウロは同行者たちからの挨拶を加えます。  テモテはパウロにもっとも近い同労者であり、テモテが宛先の集会によく知られている場合には、共同の発信人として手紙の冒頭に名をあげられますが(テサロニケT、フィリピ、コリントU、コロサイ、フィレモン)、ローマの集会には知られていないので、冒頭ではなく、最後の同行者からの挨拶に含まれることになります。彼の名を最初にあげるのは、パウロはテモテをローマ(およびイスパニア)へ連れて行く心づもりをしているからでしょう。
 
 ルキオ、ヤソン、ソシパトロは、「わたしの同胞である」、すなわちユダヤ人であると言われています。「ルカ」《ルカス》は「ルキオ」《ルキオス》の別称(略称)であるので、ここのルキオはコロサイ四・一四とテモテU四・一一の「ルカ」と同一人物を指す可能性があります。そうだとすると、パウロとルカ伝承の近親性とか使徒言行録のパウロに関する記述のある部分が目撃証人の手になるものであるとする説明が可能になります。
 
 ヤソンはテサロニケでパウロを匿い、そのためにユダヤ人の襲撃を受けた人物であると見られます(使徒言行録一七・五〜九)。ソシパトロは、パウロがコリントからマケドニアを通って旅行するときの同行者リストにある「ベレア出身のソパトロ」(使徒言行録二〇・四)を指すと見られます。ルカはフィリピ出身である可能性が高いので(使徒言行録二〇・六)、ここに上げられている三名のユダヤ人は、マケドニアの主要な集会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)を代表して、パウロと一緒に献金を届けるためにエルサレムに上ろうとして、コリントで待機している人たちであると考えられます。パウロがとくに「同胞である」ことを強調してユダヤ人の名をあげるのは、宛先集会のユダヤ人指導層との結びつきを強調したいからだと考えられます。この点は、テモテの扱いと共に、この段落がローマ宛であることを支持します。
 
 「この手紙を筆記したわたしテルティオ」が挨拶を送っています。パウロはほとんどの手紙を口述筆記で書いたと見られますが、筆記者が名前を出して挨拶をするのはここだけです。筆記者テルティオが宛先集会の人たちによく知られた人物だからでしょう。「テルティオ」(三番目)という名は奴隷または解放奴隷に典型的な名です。
 
 次に「わたしと集会全体が世話になっている家の主人ガイオ」の挨拶が来ます。ガイオは、パウロがコリントで伝道したとき、自身でバプテスマを施した数少ない入信者の一人です(コリントT一・一四)。ガイオはかなりの資産家で広い屋敷をもっていたと見られ、パウロがローマ書執筆時にコリントに滞在したときには、コリントの全集会がガイオの家に集まっており、パウロ一行もこの家で世話を受け、ローマ書をここで書くことになります。
 
 なお、パウロは最初のコリント伝道のとき、ユダヤ人会堂から追い出されて、隣にある「神を敬う」異邦人ティティオ・ユストの家で活動したと伝えられていますが(使徒言行録一八・七)、ティティオ・ユストとこのガイオが同一人物であって、そのローマ風のフルネームは Gaius Titius Justus であったのではないかという推定もあります(グッドスピード)。
 
 「市の会計係のエラスト」については、最近のコリントの発掘で、エラストという名の市の経理担当職の人物がこれを寄進したという銘のある、一世紀半ばの街路舗装タイルが発見されています。「兄弟のクアルト」は、主にある兄弟ではなく、エラストの肉親の兄弟のことであると考えられます。「クアルト」(四番目)という名も奴隷または解放奴隷に典型的な名です。
 
 二四節の「わたしたちの主イエス・キリストの恵みがあなたがた一同と共にあるように」という結びの挨拶は、底本には欠けていますが、この結びの挨拶で終わる写本もかなり流布していました。結びの挨拶の言葉が繰り返し現れる(一五・三三、一六・二〇、一六・二四)ことは、ローマ書の末尾が複雑な編集と写本伝承を経ていることを示唆しています。


  47 結びの頌栄(16章25〜27節)

 [25 あなたがたを堅く立てることができる方に、すなわち、わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって、また、世々にわたって封印されてきたが、 26 今や預言の書を通して、永遠の神の命令により、すべての民を信仰の従順に至らせるために明らかにされるにいたった奥義の啓示により、あなたがたを堅く立てることができる方、 27 すなわち、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストをとおして、栄光がとこしえにあるように。アーメン]

福音によって救う神への賛美 

 二五〜二七節の三節は、「あなたがたを堅く立てることができる方に、・・・・すなわち、唯一の知恵ある神に、イエス・キリストをとおして、栄光がとこしえにあるように」という頌栄文ですが、その間に修飾句が積み重ねられ、複雑な構造の一つの文章になっています。このような文体や用いられている用語から、この文はパウロのものではなく、編集あるいは写本の段階で付け加えられた部分であるとする見方もあり、議論が続いています。写本によって置かれている位置もまちまちで、この部分を欠く写本もあります。底本もこの部分は[ ]に入れていて、本来の本文に属していない部分であるとしています。しかし、その内容は前置きの一章一〜七節とかなり正確に対応していて、両者で手紙本体を囲い込み、この手紙が「パウロによるキリストの福音」の提示であることを示しています。それで、誰が書いたにせよ、「キリストの福音」を提示するこの壮大な文書の結びとして検討する価値があります。

 頌栄の対象は「あなたがたを堅く立てることができる方に、・・・・すなわち、唯一の知恵ある神に」という遠く離れた同格の名詞(二五節冒頭と二七節冒頭)で示されています(両方とも三格)。その間に、「堅く立てる」ための手段が「〜によって」という二つの句で説明されます。すなわち、一つは「わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって」という句、もう一つは「奥義の啓示により」という句です。そして、後の「奥義」に「世々にわたって封印されてきたが、今や預言の書を通して、永遠の神の命令により、すべての民を信仰の従順に至らせるために明らかにされるにいたった奥義」という長い説明がつきます。
 
 内容からすると、ここの「堅く立てる」は、滅びの洪水に押し流されることなく、神の真理に堅く立って命にあずかることを指していますから、ほとんど「救う」と同じ意味で用いていると見てよいでしょう。ここで「あなたがたを救う、唯一の知恵ある神」が賛美されているのです。
 
 この「唯一の知恵ある神」がわたしたちを救われる仕方が、「わたしの福音とイエス・キリストの宣教によって」という句と「奥義の啓示により」という句で説明されているのですが、「わたしの福音」と「イエス・キリストの宣教」、および「奥義の啓示」の三つは、実は同じ出来事を指しています。
 
 「わたしの福音」という表現は、二章一六節にも出てきていましたが、これはパウロの福音宣教活動とその告知の内容の両方を含んでいます。それを受けた者の立場からすると、「パウロの福音」です。「パウロの福音」とはパウロが神から委託されて世界に宣べ伝えた告知ですが、その内容は「イエス・キリスト」です。パウロは「イエス・キリスト」を宣べ伝えたのです。その告知が、ここで「イエス・キリストの宣教」という句で指し示されています。「宣教」の原語は《ケーリュグマ》です。イエス・キリストを宣べ伝える報知が福音です。
 
 そしてさらに、この「イエス・キリストの福音」が「奥義の啓示」の出来事であるとされて、その意義が詳しく解説されます。この「奥義」という語に、「世々にわたって封印されてきたが、今や預言の書を通して、永遠の神の命令により、すべての民を信仰の従順に至らせるために明らかにされるにいたった奥義」という長い説明がついています。「奥義」《ミュステーリオン》とは、神の御旨の中に隠されている救いのための秘密の計画のことですが、その秘密がイエス・キリストの福音によって「明らかにされた」のです。福音は「奥義の啓示《アポカリュプシス》」なのです。この用語を用いると、福音の奥義を解明するローマ書も一つの「アポカリュプシス」、すなわち黙示文書の一つとなります。
 
 この「奥義」は、「世々にわたって封印されてきた」、すなわち世々にわたって隠されていたのです。このような表現とか、それが「今や」福音によって明らかにされたという思想は、コロサイ書(一・二六)やエフェソ書(三・三〜五)で強調されています。この最後の頌栄文は(ギリシア語原語で読んでいますと)、コロサイ書やエフェソ書との関連を強く感じさせます。
 
 この「奥義の啓示」は、まず「預言の書を通して」なされました。「預言の書(複数形)」は、旧約聖書の預言書だけでなく、ユダヤ教黙示文書も含んでいるのでしょう。これらの預言文書は、最終的にではありませんが、福音による最終的な啓示を準備する文書として(一・二)、神の啓示の系列に加えられます。そして、「永遠の神の命令(指図)により」、すなわち、神の指図によって今や時が満ちたとして世に遣わされたキリストにより、世々に隠されていた奥義が明らかにされたのです。
 
 その「奥義の啓示」がなされたのは、「すべての民を信仰の従順に至らせるため」です。ユダヤ人だけでなく、世界の異邦諸民族すべてが、唯一の神の言葉に聴き従うようになることが、キリストの福音の目的です。コロサイ書(三・二六〜二七)やエフェソ書(三・五〜六)は、異邦諸民族がユダヤ人と共に救済にあずかり、一つの民として神への従順に至ることが「奥義」であると強調しています。

 

 「信仰の従順」については、ローマ書一章五節の講解を参照してください。また、パウロの「従順」の用法について、とくに「服従」との違いについては、フィリピ書二章一二節の講解を参照してください。

 こうして、パウロが世界に告知したキリストの福音を提示するローマ書は、「唯一の知恵ある神」への荘重な賛美で結ばれます。「知恵ある神」は珍しい表現です。神は測りがたい知恵によってすべての民の救済を計画されました(一一・三三)。そして、今やそのすべての民の救済が「キリストの福音」によって宣べ伝えられているのです。最後の頌栄は、「福音によって世界を救う神」への壮大な賛美となっています。

 

 この最後の頌栄が、前置きの一章一〜七節とかなり正確に対応していること、文体や用語さらに思想がコロサイ書とエフェソ書のものと強い近親性を示していること、パウロをほとんど唯一の使徒としていることなどから、この頌栄はパウロ書簡集がエフェソで集成されたさいに、コロサイ書やエフェソ書を生み出した人たちによって、使徒パウロの福音提示の最も重要な文書に加えられたのではないかという推察を促します。パウロ書簡集の成立事情については、「フィレモン書講解」の「パウロ書簡集とオネシモ」を参照してください。 





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