パウロによるキリストの福音 III

第二章 神に背く人間

   ― ローマ書講解 2 ―


  第一部 信仰による義


第一部の構成

 手紙の前置きの部分(一・一六〜一七)で自分が宣べ伝える福音の本質を提示したパウロは、手紙の本体部分(一・一八以下)でその福音を展開していきます。最初に、救いに至らせる神の力は、ユダヤ人であるかギリシア人であるかに関係なく、「すべて信じる者に」働くのだということを取り上げます。これは、救いに至らせる神の力が働く場に入っていくための入り口を描くことになります。その入り口は信仰です。信仰しかありません。人を義とする神の働きは徹頭徹尾、この神の義を啓示する福音を信じる者、すなわち主イエス・キリストを信じる者に与えられるからです。信仰によって義とされることによって、人は救いに至らせる神の力が働く場に入ることができるのです。この入り口の議論が、「パウロによる福音書」の第一部(一・一八〜五・一一)を構成します。

 第一部が入り口であることを強調するのは、第二部(五・一二〜八・三九)こそ、パウロが福音の本質とする「救いに至らせる神の力」の姿を描く重要な部分であることを明らかにするためです。西欧プロテスタント神学ではしばしば、信仰義認論をパウロ神学の核心として強調するあまり、第二部の重要性が見過ごされているのではないかと思われます。入り口だけを示して、入った殿堂内部の壮麗さを見ていないという傾向があるのではないかと心配されます。

 第一部の前半(一・一八〜三・二〇)では、人間はすべて神に背いており、罪の支配下にあることが明らかにされます。まず、すべての人間はいかなる区別もなく、正しい神の裁きの前には断罪される存在であることが示されます(一・一八〜二・一六)。その後、律法を与えられているユダヤ人も例外でないことが論じられ(二・一七〜三・八)、最後に「義人はいない。一人もいない」という結論が掲げられます(三・九〜二〇)。こうして前半では、人間の義が徹底的に否定されます。すなわち、人間が自分で達成できる義はありえないことが明らかにされるのです。
 
 後半(三・二一〜五・一一)では、人間の義が否定された後を受けて、神の義が提示されます。すなわち、神の義を啓示する福音を信じる(ひれ伏して受け取る)ことによってのみ、人は義とされることが論じられます。まず、(広く受け入れられている福音の定型的な文を用いて)人は信仰によって義とされるというテーゼが掲げられます(三・二一〜二六)。ここでも義とされるのは律法の行いとは無関係であることが念を押され(三・二七〜三一)、かえって律法(聖書)からアブラハムの実例を引いて、信仰による義が根拠づけられます(四・一〜二五)。そして、最後に信仰によって義とされた結果を簡潔にまとめて勝利の凱歌をあげ、同時に第二部へ入る備えがされます(五・一〜一一)。


 4 神への背きとその結果 (1章18〜32節)

 18 おおよそ、不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して、神の怒りが天から現れます。19 神について知りうる事柄は、彼らには明かであるからです。神が彼らにそれを示しておられるのです。20 見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識されるのですから、彼らには弁明の余地はありません。21 彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく、かえって、彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされたのです。22 彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、23 不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです。
 24 そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、創造者に反抗して被造物を崇拝し、また礼拝したのです。創造者こそ永遠に誉め讃えられるべきです。アーメン。
 26 それゆえ神は、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。彼らの中の女たちは、自然な性の交わりを自然に反するものに変え、27 同じく男たちも、女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男の間で恥ずべき行為をして、その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けているのです。
 28 そして、彼らは認識の中に神を入れようとしなかったので、神も彼らを無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされたのです。29 その結果、彼らはあらゆる不義、邪悪、貪欲、悪意に満たされ、妬み、殺意、争い、欺き、邪念にあふれ、中傷する者、30 そしる者、神を憎む者、人を侮る者、高慢な者、大言を吐く者、悪事を企む者、親に逆らう者、 31 無感覚な者、不誠実な者、非情な者、無慈悲な者になっています。32 このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら、彼らは自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。

創造者への背き

 パウロの議論は「神の怒りが天から現れます」(一八節)という言葉で始まります(原文ではこの文が最初に来ます)。これは明らかに、先行する主題提示の文「福音に神の義が現れており」(一七節)に対応しています。福音が告知する主イエス・キリストの出来事の中に人を義とする神の働きが現されているのに対して、キリストの外においては神の怒りが普遍的に現れているというのです。「天から」というのは、天の下にあるすべての者にという意味で、神の怒りが向けられない場は天の下のどこにもないことを意味しています。以下の文は、人間の普遍的な状況を描きます。

 「神の怒り」という表現は、旧約聖書にしばしば見られる神の擬人的描写の一つですが、神が背く者を断罪し、拒否し、交わりの道を断っておられる姿を表現しています。神の怒りが現れるのは、「不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して」です。何が真理であるかは定義されていません。しかし、神の怒りがそれに対して現れるとされる「不信心と不義」という表現は、不信心と不義が同格で並んでおり、パウロが不義というのは不信心、すなわち神を認めない心と生き方であるとしていることが分かります。従ってここで真理というのは、神を認め、神の前に生きる人間の在り方を指しているとしてよいでしょう。一八節は、神と人間の対立と断絶の普遍的現実を描いています。
 
 続いてパウロは、この断絶が人間の側の責任であることを明らかにします(一九〜二〇節)。たしかに神は直接見ることはできません。しかし、「見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性」は、神が人間に示しておられ、「世界の創造以来、被造物によって理解され」るのです。人間には肉眼で見ることができない事柄でも、理解する能力が与えられています。神は人間のその能力に「神について知るうる事柄」を示しておられるので、人間は被造物を見れば、それを造られた方の超越性や永遠の力を理解できるのです。こうして「神は明らかに認識されるのです」から、人間が神を認めない不信心は、人間の側に責任があり、「弁明の余地はありません」。

 このパウロの議論は、「知恵の書」一三章(一〜九節)に強く影響されています。総じてこの段落のパウロの議論は、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵文学の線上にあると見られます。ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていました(箴言三・一九、八・二七以下、知恵九・九、シラ二四・一以下など)。
 ヘレニズム期のユダヤ教は、ギリシア思想から大きな影響を受けつつ、ギリシア思想や哲学という手段を用いて、ギリシア思想と対決しようとしました。「シラ書」(「ベン・シラの知恵」とも呼ばれる)や「知恵の書」(「ソロモンの知恵」とも呼ばれる)などに代表される知恵文学は、このようなギリシア思想と遭遇した時期のユダヤ教思想の典型です。ギリシア語を母語とするパウロは、七十人訳ギリシア語聖書にも通じており、この聖書には「シラ書」や「知恵の書」が含まれているので(新共同訳聖書では続編に入れられています)、パウロは日頃このような文学に接し、よく読んでいたはずです。パウロの思想を理解するためには、このような知恵文学をよく理解しておく必要があります(七十人訳ギリシア語聖書に含まれる黙示文書についても同じように言えますが、黙示思想とパウロの関係については別の機会に触れます)。

 このように人間が普遍的に神に背いている現実を、パウロは人間の意志の問題とします(二一節)。これは人間に神を認識する能力が欠けているから生じた結果ではなく、「彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく」、すなわち、神を神として認めることを拒否したというのです。意志の問題というのは、人間の向きの問題です。神に向かうのではなく、神に背を向けているのです。この拒否は、人間の自我主張の本性がさせるのです。人間は、神ではなく自分自身が自分の主人でありたいのです。この拒否の結果、「彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされた」のです。
 
 創造者を認めることを拒否した結果は偶像礼拝です。「 彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです」(二二〜二三節)。パウロは、ギリシア哲学に代表される人間の知恵の成果を知っています。人間は自分の知恵によって高度の文明を造り上げてきてました。ところが、人間が誇りとするその知恵は、創造者なる神を認めないという一点で真理の核心を見損ない、「愚かになった」のです。その結果生じた偶像礼拝は人類に普遍的な現象であり、人間の知恵の愚かさを示しています。
 
 パウロが説く福音は、まさにこの神からの福音ですから、パウロは異邦人に福音を伝えるときはいつも、まず異邦人が偶像礼拝からこの創造者なるまことの神に立ち帰るように説かなければならなかったのです(テサロニケT一・九、使徒一四・八以下を参照)。この段落には、パウロが異邦人に福音を語るときに用いた伝道説教が反響していると見られます。

 ユダヤ教から異邦人の偶像礼拝に向けられた非難については、「知恵の書」の一三〜一四章を参照。パウロの表現には、預言者(たとえばイザヤ四四・九〜二〇)以来の伝統を展開させたヘレニズム期ユダヤ教の偶像礼拝非難が背景にあります。



性の乱れ

 偶像礼拝の結果は道義の退廃です。偶像は人間が造った神ですから、人間はその神を自分の欲するままの姿にすることができます。すなわち、自分を規定するのは自分自身であり、人間は自分の欲するままに生きることができます。自分を造り存在させている方、創造主なる神の定めに従う必要はありません。このような偶像礼拝の結果を、パウロは「神は彼らを(彼らの心の欲望、情欲、空しい思いに)引き渡された」という表現を繰り返し用いて語ります(二四、二六、二八節)。人間が自分の欲望のままに勝手に生きるように放置されている状態が、神の裁きであり、神の怒りの現れだというのです。

 偶像礼拝の最初の、そしてもっとも典型的な現れが、性的な秩序の混乱です。人間は「不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えた」(二三節)ので、「そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです」(二四節)。「互いにその体を辱めるという汚辱」とは性的な乱れです。その内容は二六〜二七節で具体的に語られますが、その前に、このような混乱が起こるのは人間が創造者に反抗しているからだという主張が、創造者への賛美という形で繰り返されます(二五節)。
 
 性的な乱れを具体的に語る部分(二六〜二七節)では、「自然な性の交わりを自然に反するものに変え」たことが非難されています。男の場合は、「女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男との間で恥ずべき行為をして」(二七節)と明確に描写されていますが、女の場合は「自然な性の交わりを自然に反するものに変え」というだけで、それがどういう性行為を指すのか明確には語られていません。男の場合から推定すれば、女の場合も女性同士の間の情欲に燃える性行為を指すと理解しなければなりません。パウロは異邦人の間に見られる同性愛を、自然に反する行為、創造の秩序に反する行為として非難しているのです。事実、ギリシア人の間では、とくに男性の間の同性愛が多く行われ、非難されないで、むしろ高尚な愛情とされていたようです。ユダヤ人はこのような同性愛を創造者の定めに反する行為として嫌悪していました。
 
 「その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けている」というのはどういうことを指しているのか明かではありませんが、不自然な性関係から生じる人間関係の軋轢や社会の退廃を指していると見られます。

 ここで「自然に反する」性行為だけが非難されていて、婚姻関係を乱す性行為が取り上げられていないことが注目されます。その理由はおそらく、婚姻関係を乱す性行為は異邦人社会でも非難されているのに対して、同性愛関係は非難されず、異邦人社会の体質のようになっている事実にユダヤ人は嫌悪感を持っていたからでしょう。
 この箇所(二六〜二七節)は同性愛を断罪する根拠とされ、教会は同性愛者を追放してきました。しかし、最近の生物学の成果によると、少数ながら同性しか愛せないように生まれついた人もあることが明らかにされています。そのような人にとっては、同性を愛することが「自然」となります。このような特別の場合には、多数派の「自然」で少数の人たちの「自然」を断罪することはできません。むしろ少数の特殊な人たちの人間としての尊厳を擁護しなければなりません。パウロの伝道説教の言葉を一般化・教条化して、教会法とすることは避けなければなりません。現代の学問の成果は、「自然」とか「創造の秩序」とは何かについて問いを突きつけています。
 少数の人たちの「自然」を尊重しなければならないとしても、それは多数の人たちが「自然に反して」情欲にふけることを認めることを意味するのではありません。「その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けている」(ここでは身体を意味する語は使われていません)という言葉を、最近のエイズの流行に直ちに結びつけることはできませんが(エイズの原因には親子感染や血友病からのものなど同性愛以外のものが多いのですから)、エイズの流行は少なくとも性的無秩序に対する警告として真剣に受け止めなければなりません。コンドームを配布するとうような姑息な手段ではなく、人間関係における性の在り方という根本問題として、反省と自覚を深める機縁としなけれなならないと思います。

人間性の退廃

 創造者なる神を拒否して偶像を礼拝した最初の結果として性的混乱をあげたパウロは、続いて偶像礼拝が引き起こした悪一般を列挙します(二八〜三一節)。「認識の中に神を入れようとしなかった」というときの「認識」《エピグノーシス》とは、コスモス(宇宙・存在界)全体についての根本的な認識を指し、現代の用語では「哲学」に近いでしょう。人間は自分のコスモス理解の中に、そのコスモスを創造した方を認めなかったので、神は人間をそのコスモスの中に閉じ込め、「無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされた」のです(二八節)。「無益な思い」と訳した語は、「承認されない、資格のない、無価値の、腐敗した《ヌース》(理性)」というような意味の語で、人間が(真理に到達するのに)役立たずの思考に引き渡されていることを言っています。

 したいことをするように放置されていることを、人間は「自由」と称し、それを喜び、懸命に追求していますが、人間がしたいことをするとき、人間の内側から出てくるものは、お互いを傷つける悪(してはならないこと)ばかりです(マルコ七・二〇〜二三参照)。その結果は以下(二九〜三一節)に列挙される悪であり、人間の悲惨を生み出すのです。してはならないことをするように放置されていることは、神の怒りの現れであり、神の裁きなのです。
 
 ここ(二九〜三一節)に列挙されている人間の悪は、すでにヘレニズム期のユダヤ教が偶像を礼拝する異教世界に見ていたものですが(知恵の書一四・二二〜三一)、パウロはそれを生まれながらの人間本性(肉)から出るものとして扱い(ガラテヤ五・一九〜二一)、ここでそれを神に背いた人間がその中に放置されている諸々の悪として、一覧表にしてあげています(性的な乱れは先にあげたのでここには含まれていません)。この悪の一つ一つについて述べる必要はないと思いますが、全体として見ますと、殺人や盗みというような実際の行為ではなく、人間の意志や心情など内面の悪、そこから出る言葉の悪、また性格的な悪が列挙されていることが目立ちます。人間性そのものの退廃が描かれていると見られます。新約聖書の著者たちは当時のヘレニズム世界の家庭訓や悪徳表を利用したと言われますが、ここの悪徳表を見ると、パウロが悪をより深く人間の内面と本性に巣くっているものと見ていることがうかがわれます。おそらくこの一覧表は、パウロが長年の伝道生活の中で体験した人間性の悪を並べ上げたものでしょう。
 
 このように神に背いた人間が陥っている悪の現実を描く部分を、パウロは「自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認している」という弾劾で締め括ります(三二節)。悪を悪と自覚しているかぎり、悔いて悪から離れる可能性が残りますが、悪を是と認める者は、自らが悪となり、もはや悪から離れる可能性はありません。しかも、人間は「このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら」、悪を是認するのです。「神の正しい定め」というのは、すぐ後でパウロ自身が詳しく解説しているように(二・六〜一一)、善を行う者には命が、悪を行う者には最終的には死が、報いとして臨むという神的原理を指しています(この場合の命とか死は、肉体の命とか死ではなく、永遠の存在としての魂の命とか死を指しています)。人間はこの根本原理を生得的な感覚で知っているにもかかわらず、悪を行い、悪から離れられないで、悪を是認しているのです。このような人間の現実は、「原罪」と呼ばれる人間の根元的な背神の結果です。

 「正しい定め」と訳した《ディカイオーマ》は、新約聖書ではパウロだけが用い、しかもローマ書だけで用いています(ここと二・二六、五・一六と一八、八・四の五箇所)。《ディカイオシュネー》と同じ系列の「義」という意味の語ですが、パウロにおいて「神の《ディカイオシュネー》」が人を義とする神の働きを指しているのに対して、「神の《ディカイオーマ》」は神の正しい要求ないし定め、またその内容をさしています。ローマ書における個々の用法については、それぞれの箇所で解説します。

 5 神の正しい裁き (2章1〜16節)

  1 だから、すべて人を裁く者よ、あなたは弁解の余地がない。あなたは他の人を裁くことによって、自分を裁いているのです。裁いているあなたが同じことを行っているからです。 2 このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています。 3 このようなことを行う者たちを裁きながら自分も同じことをする者よ、自分は神の裁きを免れるとでも考えているのですか。 4 それとも、神の慈愛はあなたを悔い改めに導くものであることを知らないで、神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじるのですか。 5 あなたの頑なさと悔い改めのない心のゆえに、神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって、あなたは神の怒りを自分の上に蓄えているのです。
 6 神はその人のしたことに従って、各人に報われるのです。 7 すなわち神は、忍耐強く善を行って栄光と誉れと不滅を追求する者たちには永遠の命を与え、 8 自我心にかられた者たちや、真理に従わず不義に耳を傾ける者たちには、怒りと憤りが注がれます。 9 誰であれすべて悪を行う人間の魂には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、患難と苦悩が下り、 10 善を行う人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、栄光と誉れと平和が与えられます。 11 神には人を偏り見ることはないからです。
  12 律法と関係なく罪にある者は皆、律法と関係なく滅び、律法の中にあって罪にある者は皆、律法によって裁かれます。 13 律法を聴いているだけの者が神の前に義であるのではなく、律法を行う者が義とされるからです。 14 律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです。 15 このような者たちは、律法の求める行為が自分たちの心に記されていることを実証しているのです。彼らの良心も共に証して、心の思いが互いに責めたり弁明したりしています。 16 このことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたところを裁かれる日に明らかになります。

人を裁く者

 ここまで(一・一八〜三二)パウロは、神に背いている人間の姿を描いてきました。これは決して一部の人間の姿ではなく、人間そのものの姿として語られたのです。しかしパウロは、人間の退廃と悲惨をこのように描き糾弾する立場にある者が存在することを承知しています。実は、以上に語られた人間の現実は、ユダヤ教から見た異邦人(非ユダヤ教徒)への批判であり、彼らの背神の糾弾です。それは「知恵の書」などのユダヤ教文書に見られるとおりです。パウロ自身もユダヤ教徒として、異邦人世界の現実をそのように糾弾せざるをえませんでしたし、それがユダヤ教の立場からする異邦人世界の糾弾であることをよく承知しています。

 以上のように人間の現実を批判糾弾する立場にある者は、自分たちは創造者なる唯一の神を拝み、偶像礼拝とそれから生じる退廃に陥っていないとしていたのです。そのように自分を「裁く(批判し糾弾する)者」の立場に置いている者はユダヤ人であることを十分承知した上で、パウロはここではユダヤ人という特定のグループの人間を名指して問題にするのではなく、あくまで原理の問題として「すべて人を裁く者よ」と呼びかけます。ユダヤ人でなくても、たとえばキリスト教徒であっても、その他誰であっても、もし誰かが自分はそのような者ではないとして、そのような現実にある人間を裁く(批判し糾弾する)立場に置いているならば、まさにその人こそ、ここで「すべて人を裁く者よ」と呼びかけられているのです。この呼びかけは、自分の宗教によって自分は正しいとし、その地点から異教徒を断罪する「すべての」宗教的人間に向けられているのです。ユダヤ人はその代表です。
 
 このように「人を裁く者」も、彼らが裁いている人たちに向けられたのと同じ言葉で(一・二〇)、「弁解の余地がない」と断罪されます。同じ言葉が用いられていることにより、先の段落(一・一八〜三二)とこの段落(二・一〜一六)が一対となって、すべての人間が神に背く根元的な罪の中にあることが描かれるのです。裁く者が断罪されるのは、裁く者が自分が裁いている者と同じことを行っているからです。同じことを行っている他の人を裁くことは、自分を裁くことになるのです(一節)。ここでのパウロの舌鋒は、ダビデ王に向かって「それはお前だ」と指弾した預言者ナタンを思い起こさせます(サムエル記下一二章)。

 パウロがここでユダヤ人を念頭において語っていることは明かですが、そのユダヤ人について「同じことを行っている」と断定するのは、ユダヤ人にはまったく衝撃的な発言です。事実、パウロはすぐ後(一七〜二四節)で、「ユダヤ人」の名をあげて、「裁く者」の立場に自分を置いているユダヤ人が同じことを行っている事実を列挙します。しかし、ここではあくまで原理の問題として、「すべて人を裁く者」が同じことを行っていることを取り上げて、先の段落(一・一八〜三二)で描いた人間の背神と退廃が、人間の一部ではなく全部の姿であることを強調するのです。
 
 その上で、「このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています」と言います(二節)。人間はすべて生得的な直感で漠然と知っていますし、とくにユダヤ人は律法に教えられて明確に知っています。 ところが、「このようなことを行う者たちを裁く者」(ユダヤ人をはじめ、前述のすべての宗教的人間)は、自分を裁く者の立場に置いていますから、同じことを行いながら自分が裁きの対象になるとは考えず、「自分は神の裁きを免れると考えている」のです。 パウロは疑問文の形を用いて、これを妄想として厳しく退けます(三節)。その理由は六〜一一節であげられますが、その前に「自分は神の裁きを免れると考えて」悔い改めないユダヤ人を初めとする「宗教的人間」のかたくなさを厳しく批判します(四〜五節)。
 
 ユダヤ人は、神の裁きも二種類あると考え、異邦人には「厳しい王として罰を下される」が、イスラエルには「戒める父として試練を与える」とし(知恵の書一一・一〇)、父としての慈愛を自分たちが終末の裁きを免れることの根拠としていました(知恵の書一五・一〜三)。パウロは、彼らが裁きを免れる根拠としている神の慈愛は、悔い改めに導くためのものであるから、悔い改めないで神の慈愛を当てにすることは、「神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじる」ことだと糾弾します。パウロがユダヤ人の「頑なさと悔い改めのない心」を糾弾するのは、神の慈愛の究極の啓示であるイエス・キリストを拒み続ける事実を念頭に置いて、そのような同胞に対する激しい痛み(九・一参照)から出ていると見られます。
 
 ユダヤ教では、人間は地上の行為の結果を天に蓄えているのだと考えています。とくにユダヤ教黙示思想では、地上の苦難の中で忠実に律法に従うことにより「義の宝を天に蓄える」のだという表象が多く用いられています。ところが、パウロはこれを逆転して、義人とか選民として(裁きを免れるという)特別扱いを期待して悔い改めないユダヤ人は、「神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって」、「神の怒りを自分の上に蓄えている」のだとします。これは昔、「主の日」を自分たちの敵が滅ぼされる日であると期待していたイスラエルに向かって、預言者たちが「主の日」はイスラエルに対する審判の日であると叫んだことを思い起こさせます。

 「神の正しい裁き(義の裁き)が現れる怒りの日」を前提にして語っている事実は、パウロがユダヤ教黙示思想を真剣に受け止め、黙示思想を自分の思想の枠組みとしていることを示しています。「義の裁き」、「怒りの日」、「現れる」《アポカリュプシスの動詞形》などの用語は、死海文書やその他の黙示文書によく用いられている表現です。

神の正しい裁き

 続いてパウロは、「人を裁く者」が自分は神の裁きを免れると考えていることがいかに理不尽なことかを、神の裁きの原理を掲げることで示します(六〜一一節)。神の裁きの原理とは、「 神はその人のしたことに従って、各人に報われる」ということです(六節)。そして、その原理の実現として、生涯を通じて永遠を追求して善を行い永遠の命を与えられる者と(七節)、自我心によって生きて不義の道を歩み神の怒りが注がれる者(八節)が対比されます。終わりの日の裁きの場で各人が神から受けるものは、その人が実際にその生涯をどのような原理で、何を目標にして生きたかによって決まるのです。どのような宗教に所属したか、どのような民族や文化の中で生活したか、どれほどの知的水準であったかなどは一切関係がありません。そのことが「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句を用いて表現されます(九〜一〇節)。そして、所属している宗教などいっさい関係はないことが、「神には人を偏り見ることはない」(申命記一〇・一七)という聖書引用で確認されます(一一節)。

 六節は詩編六二編一三節からの引用。詩編では救いの根拠として語られていますが、パウロは神の怒りを自分の上に蓄えているという宣告の根拠として引用しています(六節は関係代名詞で五節に続いています)。六節の「報われる」は未来形で、終末時の裁きを指しています。七節と八節に動詞はありませんが、六節の展開として「報われる」とか「注がれる」という未来形の動詞を補って理解しなければなりません。
 七節で「永遠の命」という表現が用いられていますが、この表現はパウロ書簡では五例(ガラテヤ書に一回、ローマ書に四回)だけです。パウロは、キリストにある者は聖霊により現在すでに終末的な質の命に生きていることを繰り返し語っていますが、その命を「永遠の命」と呼ぶことはありません。パウロが「永遠の命」という表現を用いるときは、「来るべきアイオーンにおける命」という、当時のユダヤ教(とくにファリサイ派や黙示思想)に見られる将来の面を色濃く残しています(マルコ一〇・一七に見られるように)。現在すでに聖霊によって生きている命を「永遠の命」と呼んで、福音の主題にしたのはヨハネです。

律法を持つ者も持たない者も

 「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句は、パウロの福音提示のさいの標語です(一・一七)。律法をもつユダヤ人も律法をもたないギリシア人も区別なく、律法とは関係なく、信仰によって義とされる(救われる)ことがパウロの福音の核心です。しかしここでは、その前提として、律法の枠の中にいるユダヤ人も、律法の外にいるギリシア人も、同じ裁きの原理の下にあることが確認されるのです(一二〜一六節)。ここではユダヤ人は「律法の中にある者」と呼ばれ、ギリシア人に代表される異邦諸国民は「律法を持たないい者」と呼ばれます。人間は律法を持つ者と持たない者に区分され(これはユダヤ人から見た区分です)、両者が同じ原理で裁かれることが確認されるのです。
 
 ここで(ローマ書では)初めて「律法」という語が登場します。「律法」と訳されているギリシア語原語は《ノモス》ですが、このギリシア語は《トーラー》というヘブライ語のギリシア語聖書における訳語であり、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教における《トーラー》を指していることになります。そして、この《トーラー》という語はユダヤ人にとってユダヤ教の全体を指すきわめて包括的な意味をもつ語なのです。

 《トーラー》(律法)という語は実に広範な意味合いで用いられる語で、場合によって、個々の戒律規定、戒律規定の総体、モーセ五書、ユダヤ教全体などを指します。《トーラー》は、「律法」という訳語が示唆するような戒律だけを意味する語ではなく、出来事や物語、祭儀や文学など、民の歴史の中に啓示された神の意志や定め全体を指す語なのです。そのことは、ユダヤ人が普通《トーラー》という語で指しているモーセ五書の内容が、生活上の戒律規定だけでなく、イスラエルの民の歴史を語り伝える物語や、祭儀規定や、説教や文学的な作品を含む、きわめて幅広いものであることからも分かります。モーセ五書を意味する《トーラー》(律法)は、「預言者」と「諸書」と並んで、ユダヤ教聖典を構成する一部分ですが、ユダヤ人にとっては《トーラー》こそ神の意志の啓示であり、それに従うことが生活のすべてであったのです。すなわち、《トーラー》はユダヤ人にとって宗教そのものであり、宗教は生活の一部ではなく全体であったのです。ここでユダヤ人が「律法を持つ者」と定義されていることから、ここでの「律法」は個々の戒律(またはその総体)ではなく、ユダヤ教という宗教全体を指していることは明かです。パウロが《ノモス》という語を、このようにユダヤ教そのものを指す意味で用いていることは、キリストに出会う以前の自分を語るのに、《ノモス》(律法)という語と「ユダヤ教」という語の両方を同じ意味で用いていることからも分かります(フィリピ三・五〜六とガラテヤ一・一三〜一四を比較)。

 まず、神の正しい裁きの原理として、律法をもっているかどうかと関係なく、「罪にある者」は滅びることが主張されます(一二節)。すなわち、ユダヤ教徒であろうが異教徒であろうが関係なく、神に背き、自我心から不義に生きる者は、神の裁きにより滅びに至るのです。パウロはここで個々の宗教的・道徳的規定に違反する諸々の行為を考えているのではなく、神に背いて生きる人間の生涯全体を念頭において語っているので(八節)、私訳では「罪を犯す者」ではなく「罪にある者」と訳しています。
 
 そして、律法をもっていることを誇る者(ユダヤ人)に向かって、「律法を聴いているだけの者」ではなく、「律法を行う者」が神の前に義とされるだと宣言します(一三節)。自分がどれだけ律法が求めるところを行っているかどうかを省みないで、ただ安息日ごとに律法の朗読を聴き、その解釈を教えられているだけで(すなわち、ユダヤ教という宗教に所属しているだけで)、自分は神の民に所属し、義人であると考えているユダヤ人の錯覚を暴露します。「律法を行う者が義とされる」はユダヤ教の基本原理ですが、パウロはここでは律法を行うことはできるかどうかを問題にしていません。聴いているだけで義であるとする錯覚を取り上げているのです。この錯覚は、どの宗教にもあります。キリスト教徒にも、洗礼を受け聖餐にあずかり、日曜日毎に教会で説教(聖書の解釈)を聴いているから、自分はキリストに所属し、義なる民であると錯覚している人が多くいます。実際は、キリストの霊をもたない者、キリストの霊によって生きていない者はキリストに属していないのです(ローマ八・九)。
 
 ここでパウロはユダヤ人にとって衝撃的な発言をします。ユダヤ人は、律法という神の啓示をもっていない異邦人は律法を行う可能性はないのであるから、神の民となる可能性はないと考え、「罪人である異邦人」と決めつけていました。そのユダヤ人に向かって、パウロは「律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです」と断言します(一四節)。すなわち、律法(ユダヤ教)の外にいる異邦人(異教徒)も、「律法が求めるところを自然に行うならば」、自分自身が律法となり、律法を行う者でありうる、すなわち義とされて神の民でありうるというのです。
 
 ここで「自然に行う」という表現が問題になります。ここで「自然」という語は人間の生まれながらの本性を指すものではありません。パウロはそれを「肉」と呼んでいます。「肉」は律法の求めるところを行うことはできません。しかし、律法を持たない異邦人でもキリストにあって御霊により律法が求めるところを行うようになることを念頭に置いてパウロはこう言った、と解釈する説があります(たとえばアウグスティヌス)。この場合「自然に」は「モーセ律法という特別の成文律法を受けていなくても」という意味になります。これはキリストにある者には魅力的な解釈ですが(そして事実はその通りなのですが)、パウロの語法としては、御霊による生き方を「自然に」という語で表現しているとすることは無理があります。また、「自然に」を人間の理性によって普遍的に認識される法に従って、すなわち「自然法に従って」という(ストア的な)意味に理解し、異邦人が自然法に従って生きるときは神の律法を行っているのであるという解釈もあります。しかし、パウロの歴史的状況に即して見るならば、パウロはヘレニズム期のユダヤ教が用いていた「書かれざる律法」(フィロンや黙示文書に出てきている)という考え方を知っており、異邦人が律法の求めるところを行うのは、彼らが「書かれざる律法」を持っているからだとし、それをここで「自然に」という語で表現したと考えられます。それで、モーセ律法のような成文律法を持たない異邦人が「律法が求めるところを自然に(書かれた律法なしで)行うならば」、それは、律法が「自分たちの心に記されている」ことを実証していることになると言います(一五節前半)。

 先に見たように、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていましたが、それは同時に創造者が人間に求めておられるところが何であるかを認識する感覚を含んでいました。知恵はイスラエルには具体的に《トーラ》という形で与えられたのですが(シラ二四章)、異邦人には「書かれざる律法」という形で与えられていたことになります。

 ここでパウロは、そのような「律法が求めるところを自然に行う」異邦人の心の姿を「良心」という語を用いて描写します(一五節後半)。「良心」というのは、当時のヘレニズム哲学で広く認められていた生得的な人間の道徳的自覚(自分の行為の善悪を自覚する能力)を指し、パウロはこの「良心」が善悪を判断して「互いに責めたり弁明したり」して、律法を持たない人間も律法が求める善をなすようにしているのだとします。

 「良心」と訳している《シュネイデーシス》は、旧約聖書には対応するヘブライ語はなく、ヘレニズム世界の通俗哲学の用語です。ユダヤ教ではヘレニズム期になって用いられるようになっています(たとえばフィロンやヨセフス)。新約聖書では30回出てきますが、その中でパウロ書簡に14回あり、福音書には用いられていません。新約聖書にこの語を持ち込んだのはパウロであると言えるでしょう。

 以上に述べたこと、すなわち、一二〜一三節で原理を述べ、一四〜一五節で敷衍した神の裁きは、「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」実現します(一六節)。人間の実相がもはや隠れることなく顕わにされるとき、すなわち終末時の審判において、律法をもっていたかどうかに関係なく、罪にある者は裁かれ、義を行った者は誉れを受けるという神の裁きが明らかになるのです。

 一六節は節全体が「神が裁かれる日に」という副詞句であって、一二節の裁きが行われる時を示しています(KJV.は一三〜一五節を括弧に入れて、一六節を一二節に続けています)。しかし、修飾される動詞から遠く離れているので、私訳では「このことは明らかになります」という句を補って、独立の文として訳してあります。

 パウロは「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」という文の後に、「わたしの福音によれば、キリスト・イエスによって」という句を加えます。「神が人々の隠れたところを裁かれる日」が来ることは、当時のユダヤ教に共通の認識でした。とくに黙示思想ではその間近な到来が熱烈に待望されていました。パウロは、その終末の裁きが「キリスト・イエスによって」行われることを付け加えざるをえません。「わたしの福音によれば」、すなわち、パウロが身に受け、命をかけて宣べ伝えてきた福音によれば、神はイエスを死人の中から復活させてキュリオス・キリストとして立て、この方によって世界を裁くこととされたのです(コリントU五・一〇)。このキリスト・イエスに対する態度で神の裁きが下るのです。律法のあるなしではなく、キリストへの信仰によって裁きが決まるのです。このことはローマ書全体で論証することになるのですが、パウロはそのことを示唆する句で、この神の裁きについての段落を締め括ります。


「宗教」の錯覚

 ここまで(一・一八〜二・一六)で、パウロは神に背いている人間の現実を描いてきました。ここでパウロは「ユダヤ人」という名を出していませんが、前半(一・一八〜三二)ではユダヤ人の立場から異邦人の偶像礼拝とそれに伴う退廃を糾弾し、後半(二・一〜一六)では返す刀で異邦人を裁くユダヤ人の背神を指弾しました。前半においても、人間が欲するままに悪を行っている現実が、悪に引き渡されている結果であり、それが神の裁きであるという深い洞察が見られますが、全般的に(ヘレニズム期ユダヤ教の)伝統的な思想に依存しており、描写も簡潔です。それに較べると後半の方がいっそうパウロの独自性がよく出ており、(ユダヤ人の名をあげて議論を進める二・一七〜三・二〇も含めると)はるかに詳細で表現も生き生きとしています。この事実は、ローマ書の成立事情のところで述べましたように、パウロがおもにユダヤ人を念頭においてこの書簡を書いていることを確認させます。

 ここでは異邦人を裁くユダヤ人を念頭に置きながらも、「ユダヤ人」と名をあげない点が示唆深いものがあります。すなわち、自分の「宗教」だけを真理とし、その中にいる自分たちを義とし、外にいる異教徒を不義と判断する「宗教人」一般が断罪されているからです。
 
 「宗教」という語はいろいろな意味で用いられますので、使用にさいしては注意が必要です。ここは厳密な定義をする場所ではありませんが、最小限度の限定をして使用しなければなりません。人間が人間以上の存在と関わる営みを広く宗教と言いますが、その中で共通の祭儀や教義や戒律によって一定の人間集団が形成されているとき、そのような宗教活動をここではカギ括弧をつけて「宗教」と呼ぶことにします。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、仏教、その他わたしたちが日常「宗教」と呼んでいるものがそうです。
 
 先にも見たように、パウロが「律法」というときには、このような意味での「宗教」としてのユダヤ教を指しています。ユダヤ教は代表的な「宗教」です。「ユダヤ人」とは、このような「宗教」の中にいるユダヤ教徒を指しています。パウロがこの段落(二・一〜一六)で「律法」について述べていることは、「宗教」一般について言えるのです。「すべて人を裁く者」とは、自分の宗教だけを真理として、異教徒を断罪するすべての「宗教」内の人間をさしているのです。
 
 ここでパウロは、「宗教」をもっているから、あるいは「宗教」の中にいるから自分は義人であって神の裁きを免れていると考える「宗教人」の錯覚を暴露します。「宗教」の中にいる者がこの錯覚から免れることは、きわめて困難です。パウロが「宗教」の錯覚を見抜くことができるのは、自分が「宗教」とはまったく別の原理で義とされることを体験したからです。すなわち、キリスト信仰によって義とされるという福音を体験したからです。福音は「宗教」の錯覚を克服するのです。
 



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