パウロによるキリストの福音 III

 第七章 恩恵の支配

   ― ローマ書翻訳と講解 7 ―


 第二部 キリストにおける生



第二部への序言 ― 三楽章か四楽章か ―

 前回、ローマ書が口述筆記による書であるという観点から、五章一〜一一節の段落で大きなまとまりが終わっていることを明らかにしました。そうすると、五章一二節から新しい大きな部分が始まることになります。この区分が八章末で終わることは、内容上からも明かであり、八章末で大きな区切りがあることは研究者の間でも異論のないところです。わたしは一章から五章一一節までを第一部とし、五章一二節から八章末までを第二部として、九〜一一章の第三部、一二章以下の第四部と対等に並べて、ローマ書を四部構成で理解しています。

 ところが、これまでのローマ書研究の多くは、(はじめと終わりの挨拶的な部分を別にして)一章から八章を第一部とし、九〜一一章の第二部、一二章以下の第三部と対等に並べて、ローマ書を三部構成で理解しています。第一部(一〜八章)の中での区切り方については(前述したように)研究者の間でさまざまな見方があって一様ではありませんが、これを一まとまりの第一区分として、九〜一一章の第二区分、一二章以下の第三区分と対等に扱っているのは共通しています。ローマ書を交響曲にたとえると、長大な第一楽章(一〜八章)と、長さは約半分の第二楽章(九〜一一章)と第三楽章(一二章以下)という三楽章形式で聴いているわけです。それに対して、四部構成で理解しているわたしは、ローマ書という交響曲をほぼ同じ長さの四楽章形式の音楽として聴いていることになります。三楽章形式で聴こうと四楽章形式で聴こうと大した違いはないように思われますが、以下に説明するように、わたしはローマ書の理解にかなりの影響が出ていると見ています。

 交響曲においては、一つの楽章には主要な一つの主題が貫かれています。その主題を効果的に響かせるために調性やテンポが選ばれます。ローマ書において、九〜一一章がイスラエルの救いという主題に貫かれ、一二章以下がキリスト者の実際的な歩みという主題が扱われていることは問題がありません。ところが、一〜八章は一つの主題に貫かれた一つの楽章として聴くことができるでしょうか。この問題を、ローマ書は文書ですから、用語を手がかりにして検討してみましょう。

 一〜八章の前半(わたしがいう第一部)と後半(第二部)を較べますと、そこに用いられている用語の分布に大きな違いが認められます。前半では「信仰による義」が主題ですから、「信仰」とか「信じる」という語が多く出てくるのは当然です。第一部では「信仰」が一五回、「信じる」が九回出てきます。それに対して、第二部では「信仰」は全然出てきません。「信じる」も六章八節にやや特別な意味で出てくる以外は一度もありません。この「信仰」と「信じる」という用語一つとっても、第一部と第二部が同じ主題を奏でているとはとうてい聴くことはできません。さらに「義とされる」は第一部には一一回ありますが、第二部では三回に過ぎません(なお、「義」という名詞は第一部で一二回、第二部で八回と両方でかなり用いられていますが、この点については第二部の適当なところで論じることになります)。

 それに対して、第二部には《プニューマ》(霊、御霊)が一五回(八章に集中して)出てくるのに、第一部では一回(第二部を予告する五・五で)、第二部に《エン・クリストー》(キリストにあって)という句が五回出てくるのに第一部では一回(三・二四の定型的な文で)、第二部に「いのち」《ゾーエー》は一一回で出てくるのに対して、第一部では二回(その中の一回は第二部を予告する五・一〇)となります。

 このような用語の分布を見ますと、一〜八章の前半と後半でパウロが同じ主題を念頭に置いて論述しているとはとうてい考えられません。前半(第一部)では「信仰による義」が主題であることは間違いありませんが、その主題は後半(第二部)まで続いていません。後半には別の主題が現れてきています。すなわち、「信仰」とか「義とされる」という用語は消えて無くなり、「キリストにあって」とか「御霊」とか「いのち」という用語が圧倒的に多くなり、「キリストにある」という場において働く御霊のいのちが主題になっています。

 このように第一部と第二部では、用語から見てもぜんぜん別の主題が奏でられていることが分かります。そうであるにもかかわらず、一〜八章を一つの主題が奏でられている一つの楽章として聴くことには無理があります。これを一つの楽章として聴くとき、たいていの注解者は「信仰による義」を主題として聴くので、三章二一〜三一節を力を込めて「主題提示」として講解した後は、後半では消えてしまった主題に合わせようとして解釈に無理が生じ、活気を失い、つけ足しのような解説になる場合が多くなるのです。

 

 たとえばドイツ語の標準的な注解書であるNTDは、アルトハウスの旧い版も、シュトゥールマッハーの新しい版も、一〜八章を第一部、九〜一一章を第二部、一二章以下を第三部とする三部構成をとっています。最近この三部構成の問題点が気づかれたのか、(前後の挨拶的な部分を除いて)ケーゼマンは五部構成、ウィルケンス(EKK)は一〜一一章を本体部分として、それを三部に分けています(全体では四部構成になると見られます)。ウィルケンスは一一章までを三部構成とする点では本講解と同じですが、区分の原理はここでわたしが主張しているものとは違いますし、五章末までを第一部とするなど、区分の仕方も違います。  

 これまで繰り返し主張してきたように、第一部は「救いに至らせる神の力」が働く場に入るための入り口を論じる部分であり、第二部こそ「キリストにある」という場における「いのちの御霊」の働きを描くことによって、「救いに至らせる神の力」としての福音の本質を語る核心的な部分であることを、ここでもう一度、用語の観点からも確認しておきたいと思います。

  12 罪の支配と恵みの支配  
            ( 5章12〜21 節)

 12 このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように ――  13 律法までの時期にも罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪と認められないのです。 14 しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人々に対しても死が支配しました。このアダムは来るべき者の型なのです。
  15 しかし、恵みの賜物はあの違反とは比較になりません。一人の違反によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは多くの人に溢れたからです。 16 この賜物は一人の罪による場合のようなものではありません。裁きにおいては一つの罪過が処罰をもたらしますが、恵みの賜物の場合は、多くの罪過があっても、義をもたらすのです。 17 一人の違反によって、その一人を通して死が支配したとすれば、なおさら、溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちは、一人のイエス・キリストによって命の領域で支配することになるのです。
  18 こうして、一つの違反によってすべての人に断罪がもたらされたように、一つの義の行為によってすべての人に命に至らせる義がもたらされるのです。 19 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の人の従順によって多くの人が義なる者とされるのです。 20 律法が入り込んで来たのは、罪過が増し加わるためでした。しかし、罪が増したところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれたのです。 21 それは、罪が死の領域で支配したように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストによって永遠の命に至らせるためです。



 

この段落の意義と構成

 新しい部分を(口述して)書き始めようとするにあたって、パウロはここまでに(第一部で)述べてきたこと全体を念頭に置いて、「このようなわけで」という一語を発します。この一句に、前回の口述で述べた内容全体がこめられています。人はみな、ユダヤ人もギリシア人も区別なく罪の支配下にあり、ただキリストを信じることによって、神がキリストにおいて成し遂げてくださっている贖いにより義とされるのです。この「信仰による義」という入り口を通って、わたしたちは神のいのちが溢れる恩恵の場に入ってきたのです。これからこの恩恵の場のすばらしさを述べようとするにあたって、パウロは第一部で述べたことを別の視点からまとめて、第二部への導入とします。それがこの段落(五・一二〜二一)です。

 「別の視点」というのは、すべての人間は罪と死の支配下にあるという霊的事実と、すべての人間はキリストによって義とされて救いの場に生きるのだという二つの霊的現実が、それをもたらした「一人の人」の罪と義に対応しているという視点です。この二つの霊的な現実をそれぞれ「一人の人」との関係から見るという視点です。その二つの霊的な現実にそれぞれ対応する「一人の人」とは、アダムとキリストです。

 この段落の内容を見れば、パウロがここでアダムとキリストの対比と対応を念頭に置いて語っていることは明かです。パウロは、キリストにおいて実現した救いを、アダムによって起こった罪と死の支配と対応するものとして述べようとしているのです。「アダムは来るべき者(キリスト)の型なのです」(一四節)。これがこの段落の主題です。そこで、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように」(一二節)と、まずアダムによってもたらされた罪と死の支配を描きます。ここで「一人の人」と言っているのはアダムのことであるのは、聖書に親しんでいる者であれば明かなことです。

 その「アダムにおいてこのようなことが起こったように」とまで言うのですが、その後に続くはずの「キリストの場合もこうである」という、アダムの場合と対比される主文がありません。一二節は文が完結しないで途切れています。「アダムの場合がそうであったように、キリストの場合もこうである」という対比は、実は一八〜一九節に至ってはじめて明確に表現されるのです。パウロは、まずアダムにおける罪と死の支配の実状を語り(一二〜一四節)、アダムの場合とキリストの場合の違いと対照(コントラスト)を明らかにした上で(一五〜一七節)、初めてアダムの場合とキリストの場合の対応(コレスポンデンス)を明確に述べるのです(一八〜一九節)。そして、最後に「罪の支配」と「恩恵の支配」という二つの場を対比して(二〇〜二一節)、これから第二部で述べようとする事柄が起こる場を明らかにします。この段落は、第二部で語られる「救いに至らせる神の力」が働く場を描くことで、第二部の壮麗な建造物がその上に建てられている基礎がどのようなものであるかを指し示しています。

 

アダムにおける罪と死の支配

 パウロは、第一部の前半(一・一八〜三・二〇)で述べた「すべての人は罪と死の支配下にある」という事実を、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだ」(一二節)結果であるとします。

 ここでまずもう一度確認しておくべき重要なことは、パウロが言う「罪」とは、宗教的戒律とか道徳や法律というような規範に違反する行為ではないということです。パウロは罪について語るときはいつも、「罪」《ハマルティア》という語を単数形で用いています。パウロ書簡で、この語または同じような意味の用語が複数形で現れる箇所がごく僅かありますが、それはほとんどみなユダヤ人キリスト教の定型的な伝承を引用する場合に限られています。ユダヤ教で用いられる複数形の「罪」《ハマルティア》とか「罪過」(《ハマルティア》以外の用語)は、律法に違反する個々の行為を指しています。それに対して、パウロが用いる単数形の「罪」は、神に背かせる方向に働く霊的な支配力を指しています。したがって、複数形の「罪」が現れる文では、いつも人が主語で「人が罪を犯す」という形で用いられ、単数形の「罪」が現れる文では、いつも「罪」が主語で人は目的語となり、「罪が人を支配する」とか「罪が人に報酬を与える」というように用いられることになります。それで、パウロは人間を支配する力としての罪を、奴隷を支配する主人を比喩として描くことになるのです(六・一五〜二三)。

 ここでも「罪」(単数形)は、どこからか「世」に入ってきたのです。そして、その「罪」を通路にして「死」が入ってきたのです。「世」《コスモス》というのは、本来整然たる秩序をもって存在する宇宙全体、存在界全体を指すギリシア語ですが、ここではわれわれ人間が存在する世界、人間界を指していると見てよいでしょう。「罪」と「死」が、「一人の人」によってわれわれ人間界に侵入してきたというのです。この見方は、言うまでもなく、創世記三章の「アダムの背き」の記事から来ています。パウロは誰よりも熱心で徹底したユダヤ教徒として、「律法」(ここでは創世記三章)の記事を真剣に受けとめ、そこに人間の真実の姿が啓示されているとしています。

 

 ユダヤ教黙示思想にも同じような思想があります。たとえば、ラテン語エズラ記(七・一一八)には、「ああ、アダムよ、あなたはいったい何ということをしたのか。あなたが罪を犯したとき、あなただけが堕落したのではなく、あなたから生まれたわたしたちも堕落したのである」という言葉があります。また、シリア語バルク黙示録(五四・一五〜一九)にも同じような思想が見られます。しかし、この二つの黙示思想文書はともにエルサレム神殿崩壊以後の成立と見られるので、パウロがこれらの文書から影響を受けたのではありませんが、一世紀のユダヤ教の知恵思想と黙示思想(両者は深く通底しています)に、アダムの堕落の記事を人間そのものの堕落を語る啓示と受けとめる理解があったことをうかがわせます。パウロもその流れの中にいることになります。

 創世記三章では、アダムが主の命令に背いて、禁じられていた「善悪の知識の木」の実を食べたことによって、エデンの園から、すなわち原初の神との親しい交わりから追放されたことが物語られています。神と等しくなって、神なしに自分だけで完成したいという高ぶりが、蛇の姿で女にささやき、アダムは女に促されて一緒にこの木の実を食べます。ところで、この神話の衣をまとった物語の主人公を指す「アダム」という名は、ヘブライ語では「人」という意味の普通名詞なのです。この物語は「人」の真実の姿とその命運を物語っているのです。創世記三章のアダムは現実の人類を代表しているのであり、人間そのものなのです。したがって、ここでは人間そのものの姿がアダムという「一人の人」に起こった出来事として物語られているのです。

 パウロはこの出来事を指して「一人の人によって罪が世に入り」と言うのです。ここでは「人」《アントローポス》という名詞が用いられている意味が重要です。この段落では「一人」と「多くの人」あるいは「すべての人」との対比が重要な意味をもっているので、「一人」という数がついていますが、罪が生じるのは「ひとり」ではなく「人」そのものなのです。「人」《アントローポス》によって罪とか義が生起するのです。パウロは直前に書いたコリント書簡では、「《アントローポス》によって死が来たのだから、死者の復活も《アントローポス》によって来るのです」(コリントT一五・二一直訳)と言っています。ここには「一人」という数はついていません。もともと《アントローポス》というギリシア語は《アーダーム》(人)というヘブライ語の訳語であり、パウロは創世記三章で起こった「アダムによって罪と死が来た」ということをギリシア語で「《アントローポス》によって死が来た」と言っているだけなのです。

 パウロが人類を代表する存在を「人《アントローポス》」という語で表現するのは、福音書に保存されている「人の子」伝承の別の形であると見られます。パウロはイエス・キリストを「人《アントローポス》」という表現で呼んでいます(一五節)。福音書ではイエスは「人の子」と呼ばれています。この「人の子」という表現はイエスご自身によって用いられ、初期の宣教において黙示思想的な意味を担って伝承され、福音書の中に定着したものです。しかし、この句はユダヤ教黙示思想の特殊な内容を担っているので、異邦人社会では理解されず、なじむことができません。それで、パウロは異邦人世界に福音を宣べ伝えるにさいして、この「人の子」という句を用いていません。復活してキリストとして立てられたイエスの称号には「神の子」が用いられ、「人の子」という黙示思想的な称号は用いられなくなります。そして、イエス・キリストが人間を代表する終末的な存在であることを指すのに「人《アントローポス》」が用いられるようになります。ユダヤ教黙示文学にも、そのような終末的存在を「人」と呼んでいる用例があります(ラテン語エズラ記一三・一〜一三)。パウロ以後、パウロの宣教圏では「人の子」に代わって「人」が用いられるようになっていたことは、明らかにマルコ一〇・四五の「人の子」伝承を指していると見られるテモテT二・五〜六に「人」が用いられていることからもうかがわれます。

 その神への背きという罪のために、人はいのちの源である神との親しい交わりを失い、死すべき者になります。創世記では、その事実がエデンの園から追放されるという神話的な表象で語られます。パウロの文では、「罪によって死が入り込んだ」と表現されるのです。パウロにおいては、罪も死も、人間を支配すべく外から世に入り込んできた力なのです。「死」とは、たんに身体が死ぬことではなく、霊的存在としての人間全体が命の根源である神から切り離されて死んでいる状態(身体の死はその結果)であり、同時に人間にそのような死をもたらす支配力そのものなのです。罪と死は一体として人間を支配する霊的な力なのです。

 このように創世記三章を念頭において「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み」と語った後、パウロはその結果である現在の人間の実情を自分の言葉でまとめて、(原文の語順に直すと)「こうして、死がすべての人に及んだ、すべての人が罪に陥ったので」と言います。「こうして」というのは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込」んだ結果として、という意味です。その結果「死がすべての人に及んだ」のです。しかしそれは、一人の人の罪の責任をすべての人が背負って死ぬようになったのではなく、「すべての人が罪に陥ったので」、各人が各自の罪の結果として死ぬのだと説明を加えるのです。
 
 なお、「罪に陥った」と訳した動詞は、普通「罪を犯す」と訳されています。しかし、「罪を犯す」という表現は何かの規範に違反する個々の行為を指すので、パウロの「罪」の概念にふさわしくありません。ここではまだ律法という規範はありません。罪が人を支配する力であると見られている場では、人がその支配力に身を委ねるとか服するという意味に理解しなければなりません。それで「罪に陥る」と訳しています。

 「すべての人が罪に陥ったので」と訳した一二節最後の句については、古来から激しい論争が続いてきました。この私訳では、ほとんどの現代語訳と同じく、この句の最初の語を「〜ので」という理由を示す接続詞と理解して訳しています。ところが、文法的には「その人において」とか「それに基づいて」という関係詞と読むことも可能ですので、この句の読み方には実に多くの説が出されてきました(ICCは七つの読み方をあげて検討しています)。ここで一つひとつ検討するゆとりはありませんので、その中でキリスト教史上最大の論争を起こした訳を取り上げます。それはカトリック教会の公式の訳となったラテン語のウルガタ訳です。この訳はここを in quo omnes peccaverunt と訳しました。英語では in whom all sinned となります。すなわち、「その人において、すべての人が罪を犯した」と理解したのです。この訳が、ラテン語系の西方キリスト教における「原罪」説の重要な根拠になりました。原罪説とは、アダムが神の戒めに背いて罪を犯したとき、アダムの子孫である人間はすべて彼の中にいて罪を犯し、その罪は誕生を通して(性欲・性交を原罪的とするカトリック思想については別に扱います)個々の人間に引き継がれたのであるとする説です。この原罪説はアウグスティヌスによって完成され、その後の中世ローマカトリック教会の神学を決定づけました。しかし、パウロにはこのような意味の原罪説はありませんし、「原罪」に相当する用語もありません。パウロは罪の普遍的な支配を強調していますが、それはアダムの違反の責任を万人が負うという意味ではなく、アダムに代表される人間はすべて例外なく罪に陥っているという事実を強調しているのです。
 この点については、先に引用した二つの黙示思想文書もよく似たことを言っています。ラテン語エズラ記は、先に引用した節の直後でこう言っています。「わたしたちに不死の世が約束されていても、いったい何の役に立つでしょう。わたしたちが死をもたらす悪行をしているのですから」(七・一一九)。シリア語バルク黙示録(五四・一九)も、「されば、アダムは彼自身に対してのみ責任があり、われわれがすべてが各人自分のアダムである」と言っています。パウロの「すべての人が罪に陥ったので」もこの線上にあります。しかし、次項で見るように、パウロにはユダヤ教黙示思想と決定的に違う面が出てきます。


 

罪の支配における律法の位置

 このように「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだ」のですが、このような罪と死が支配する世界に「律法」が与えられることになったのは何のためかが論じられます。パウロは救済のどのような局面を語るときも、そこで「律法」がどのような意義を担っているのかを明らかにして、律法を位置づけしないではおれないのです。ユダヤ教徒にとって律法は絶対的な存在なのです。パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように」とまで言って中断し、「そのように」で始まる主文を述べる前に、この罪と死が支配する場における律法の位置とか意義に触れないではおれないのです。

 パウロは、「 律法までの時期にも罪は世にあったのですが、律法がなければ、罪は罪と認められないのです」(一三節)と言います。すなわち、律法は罪が罪として認められるようになるために与えられたのだと言うのです。罪の支配の下で罪に陥っていても、そのような人間の在り方は、律法がなければ人間の「自然」とか「本性」と自覚されるだけで、それが神への背反であり敵対であることが認識されないのです。律法が与えられるまでの時期には、罪が罪として認識されないだけで、「罪は世にあった」、すなわち、罪は厳然として人間を支配していたのです。これが神の求めるところであるという律法が与えられて初めて、人間は自分の在り方が神に背いている、すなわち罪の中にあるのだということ気づくのです。「律法がなければ、罪は罪と認められない」という文は、パウロの律法観をよく示しています。パウロにとって律法とは、それを順守することによって義とされ、神との関わりを形成する根拠(これがユダヤ教の基本的な律法観)ではなく、人間が神から離反していること、あるいは契約に背いていることを認識させるためのものなのです(ガラテヤ三・一九、ロマ三・二〇、七・七)。

 この点で、パウロの思想は当時のユダヤ教黙示思想とは根本的に違っています。先に(注で)見たように、創世記三章の理解ではパウロとユダヤ教黙示思想との間に共通点がありました。しかし、神から離反して罪に陥っている人間に与えられた律法の意味については、両者は決定的に違います。ユダヤ教黙示思想においては、律法はそれを順守することによって罪の支配から解放されて救われるために与えられたものでした。その点では黙示思想もユダヤ教の枠の中に止まっています。それに対して、パウロにおいては律法はそのような目的のために与えられたのではなく、あくまで罪が罪として認められるために与えられたものなのです。罪の支配から解放されて救われるのは、律法を順守することによるのではなく、キリスト信仰によるのです。パウロの思想は黙示思想を超え、ユダヤ教そのもからもはみ出しています。

 ユダヤ教黙示思想において、アダムがもたらした悲運から救われるのはモーセ律法の順守によるとされていることについては、ラテン語エズラ記七・一二七〜一三一、シリア語バルク黙示録八五・三〜五を参照。

 ここでパウロは「しかし」と言います。この「しかし」は、「律法が来るまでの時期」においては「罪は罪と認められない」のですが、人間が自分の在り方を罪と自覚していなくても、という意味です。この律法がなくて「罪が罪と認められない」時期、すなわち「アダムからモーセまでの間」にも、「しかし、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人々に対しても死が支配した」のです(一四節前半)。

 アダムは「善悪を知る木の実を食べてはならない」という命令を神の命令として聴いていました。アダムは明白に、意識的にその神の命令に背いたのです。それに対して、アダム以後モーセまでの人間は、アダムに与えられた命令も、モーセによって与えられた戒めも聴いていないので、自分の在り方が罪であるという認識はありませんでしたが、それでも死が支配するという事実は変わらなかったのです。人間の側に認識があろうとなかろうと、罪と死の支配の現実は変わらないです。認識がなければ、罪と死の支配から解放されて、本来の人間の姿を回復したいという願いもありません。罪は、罪の支配下にある現実を「自然」だと意識させるほど完全に、人間を自分の支配下に取り込んでしまっているのです。

 ところで、パウロが「死が支配した」という文で用いている動詞「支配する」は、この段落で三回繰り返して用いられており(一四、一七、二一節)、この段落のキーワードになっています。この動詞は、ギリシア語では「王として支配する」という意味で、イエスが宣べ伝えられた「神の国(王国)、神の支配」の「国(王国)」とか「支配」という名詞の動詞形です。パウロはこの段落で、イエスと同じ「恩恵の支配」という福音の核心を(「支配する」という動詞を用いて)語ろうとしているのですが、その前にそれと対照して「罪と死の支配」の現実をまず語らないではおれないのです。

 ここまで来て、パウロは自分が罪とか死の支配について、それが「一人の人」によって来たのだと強調するのは何のためかという意図をもらします。すなわち、その一人の人である「アダムは来るべき者(キリスト)の型である」(一四節後半)ということです。一人の人アダムによって罪と死の支配が世に臨んだように、(それと同じ原理によって)終わりの日に現れると約束されていた一人の救済者キリストによって義といのちが支配するようになることを言いたいからです。その主張は一八〜一九節で明白に述べられることになるのですが、しかしパウロはその前にアダムの場合とキリストの場合の違いを明らかにしようとします(一五〜一七節)。この講解も、パウロの論述の順序に従って進め、最後の「パウロのアダム・キリスト論」という項で、この段落の主題である「アダムは来るべき者(キリスト)の型である」という宣言の意味をまとめることにします。

 

キリストの場合はなおさら

 一人の人アダムによって起こったとして語られていることは、実は来るべき者、「一人の人イエス・キリスト」によって起こることを、予め前もって示す型であったのです。「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」(新共同訳一四節後半)。アダムによって起こったことを型として、キリストによって起こったことを述べようとして、パウロはその対応関係よりも、まずキリストの場合の豊かさに圧倒されて、キリストの場合がアダムの場合といかに大きく違っているかを述べないではおれません。それが一五〜一七節です。

 「しかし、恵みの賜物はあの違反とは比較になりません」(一五節前半)。キリストの場合、すなわちキリストによって起こることは「恵みの賜物」と呼ばれています。神がキリストによって与えてくださるものは、受ける人間の資格とか価値を問わず、無条件に与えてくださるものであるので「恵みの賜物」と呼ばれるのです。この「恵み、恩恵」《カリス》こそパウロの福音の核心にある原理です。以前にも述べましたように、パウロは「恩恵の使徒」なのです。パウロはキリストの事態を語るとき、まず《カリス》(恵み、恩恵)という言葉で語り出さないではおれないのです。

 「あの違反」、すなわちアダムが神の命令に違反した場合を指していますが、その「一人の違反によって多くの人が死ぬことになった」わけです。しかし、そのようなことが起こったとすれば、「なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物とは多くの人に溢れた」(一五節後半)のですから、「恵みの賜物はあの違反とは比較になりません」と言えるのです。この「なおさら」には、悪ですら「一人の人を通して」これほどの普遍的な支配力を振るうことができたとすれば、善の根源であり、万物の支配者である神がそれ以上の支配力を「一人の人によって」発揮されないことがあろうかという、ユダヤ教の神信仰の伝統があります。

 前半の文で「恵みの賜物」と言われていたことが、後半の文では「神の恵み」と「一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物」と二重に語られています。たしかに一切は「神の恵み」から発するのですが、「神の恵み」は宗教に通底する普遍的な原理です。しかし、福音においては「神の恵み」は、キリストが信じる者に無条件で賜物として与えてくださる御霊の命という具体的な内容をもっています。キリストの福音の使徒パウロは、「神の恵み」と言った直後に、その具体的な内容を「キリストの恵みによる賜物」という表現で言い直さないではおれないのです。

 ここ(一五節)では、「一人の人」アダムの違反によって「多くの人」が死ぬことになったのと、「一人の人」イエス・キリストの恵みによって「多くの人」が神の賜物を受けるようになることが、「なおさら」という語で比較され対照されています。両方の場合で、「一人の人」の在り方が「多くの人」にその結果を及ぼすという点で対応し共通していますが、その結果の及ぼし方が「なおさら」で結ばれて、アダムの場合が事実であれば、「なおさら」キリストの場合は確かな事実ではないかと強調されるのです。ここで「多くの人」と言われているのは、セム的語法で「すべての人」と同じ意味で用いられています。事実、一八〜一九節では「すべての人」と「多くの人」が互換的に(同じ意味で)用いられています。

 さらに続けて、「 この賜物は一人の罪による場合のようなものではありません。裁きにおいては一つの罪過が処罰をもたらしますが、恵みの賜物の場合は、多くの罪過があっても、義をもたらすのです」(一六節)と、アダムの場合とキリストの場合の違いが対照されます。「この賜物」、すなわちキリストの恵みによる賜物(御霊のいのち)は、「一人の罪による(裁きの)場合のようなもの」ではないことが、続く文で説明されます。すなわち、「裁きにおいては(アダムの違反という)一つの罪過が(すべての人間の死という)処罰をもたらしますが、(キリストにあって無条件で賜る御霊のいのちという)恵みの賜物の場合は、(人間の側にいかに)多くの罪過があっても、義(救い)をもたらすのです」。

 最後の「義をもたらす」というところを、新共同訳は「無罪の判決が下される」と訳しています。新共同訳は一六節後半を法廷一般の場面として訳しています。すなわち、「裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下されるからです」と訳して、この部分を一般法廷の比喩として扱い、先行する文を根拠づけています。しかし、この段落での「義」は、一七〜二一節の用例が示しているように、法廷での「無罪判決」ではなく、神との生命的な交わりという積極的内容を含むと見られます。したがって、「義」という用語で、一七節以下との関連を保持すべきであると考えられます。一六節後半は、急に法廷の比喩になるのではなく、この部分(一五〜一七節)全体の中で、他の節と同じくアダムとキリストの対比そのものが取り扱われると見るべきでしょう。

 パウロはさらに、アダムの場合とキリストの場合を「なおさら」で比べる文章を重ねます。「 一人の違反によって、その一人を通して死が支配したとすれば、なおさら、溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちは、一人のイエス・キリストによって命の領域で支配することになるのです」(一七節)。この文では「支配する」という動詞が繰り返し用いられています。アダムの場合とキリストの場合において、「支配する」もの(主語)が違うことが対照され強調されます。両方で、「一人の人」によって支配が生じるのは同じです。しかし、アダムの場合は「死が支配する」のですが、キリストにおいては「溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちが(命の領域で)支配する」のです。

 ここでアダムの場合の「死が支配する」に対して、キリストの場合は「命が支配する」ではなく、「溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちが(命の領域で)支配する」となっていることが注目されます。アダムの場合においては人間は死に支配される者、支配の対象ですが、キリストにおいては人間が支配する者になるのです。死の支配から解放され、命《ゾーエー》の領域で、命《ゾーエー》に溢れて、命《ゾーエー》に敵対する諸々の勢力を支配する立場に立つのです。それは罪と死に支配されていた人間が、キリストにあって「溢れる恵みと義の賜物を受けている者」となるからです。

 キリストに属する者たちが支配する立場に至るとの思想は、すでにイエスの「人の子」発言にも見られます(ルカ一二・三二、二二・二八〜三〇)。それを伝承したパレスチナのユダヤ人キリスト教の伝承は、その支配を終末時における聖徒たちによる世界支配の実現としました。しかし、パウロはそのような黙示思想的な終末待望も保持してはいますが(コリントT六・二、一五・二三以下)、それだけではなく、現在始まっている命《ゾーエー》の領域における勝利と支配と理解しているのです。ここにも初期キリスト教の諸々の潮流の中でのパウロの独自性が見られます。

 まお、ここでの「死が支配した」は過去形ですが、「溢れる恵みと義の賜物を受けている者たちが命の領域で支配する」の「支配する」は未来形です。この未来形は(五・一〇の「救われる」と同じく)現在始まり、将来に向かって進み、終末において完成される過程を指す未来形です。

 「恩恵と義の賜物の充満を受けている」(直訳)という表現に、義が恩恵の賜物であることを深く自覚しているパウロの気持ちが滲み出ています。キリストにおける神の無条件絶対の恩恵が、人間の弱さや不信心の現実を覆い尽くし溢れ出て、罪人を義としているのです。自分には義のかけらもないのに、恩恵の賜物である義が溢れているのです。その義によって人間は《ゾーエー》の領域で支配する者になることができるのです。

 この段落で「義」と訳した一六節の《ディカイオーマ》も、一七節と二一節の《ディカイオシュネー》も、一八節の《ディカイオーシス》も、ほぼ同じ意味で用いられていると見られます。ここでの「義」は、第一部で罪人を義とする神の働きを「神の義」と呼んだパウロ独自の使い方ではなく、ユダヤ教で普通に使われている意味で(マタイはこの意味で使っています)、神が人間に求めておられる在り方とか行為を指しています。この意味の義は、恩恵によって「義とされた」結果、御霊によって人間に与えられる境地です。この意味の「義」は、この段落と六・一五〜二三の「奴隷の比喩」に集中して出てきます。最初に用語の分布を調べたさい(??頁)、「義とする」という動詞は第一部だけであるが、「義」という名詞は第二部にもかなり出てくることに触れましたが、これはおもにこの二つの段落でこのような意味で、かなりの回数用いられているからです。


 

アダムとキリストの対応

 「アダムは来るべき者(キリスト)の型である」(一四節後半)と言った後、両者がどのように対応しているかを述べる前に、パウロはキリストの場合の豊かとかさに圧倒されて、両者の場合の違いとか対照(コントラスト)を語らざるをえませんでした(一五〜一七節)。今それを語り終えて、やっと本題のアダムとキリストの間の対応関係(コレスポンデンス)を語ります(一八〜一九節)。こうして、一二節で「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込み、こうして、すべての人が罪に陥ったので死がすべての人に及んだように」というところで中断されていた比較が完成します。

 「こうして、一つの違反によってすべての人に断罪がもたらされたように、一つの義の行為によってすべての人に命に至らせる義がもたらされるのです」(一八節)。一二節の内容があらためて、「一つの違反によってすべての人に断罪がもたらされた」という少しだけ違った形で反復されます。その上で、「そのように(それと同じように)、一つの義の行為によってすべての人に命に至らせる義がもたらされるのです」と、両者の対応関係が完成します。今まで「一人の人」として対照されていたアダムとキリストは、この節では「一つの違反」と「一つの義の行為」という形で対比されます。アダムとキリストが、それぞれが神に対して行ったこと、あるいはそれぞれの在り方で対照されるのです。アダムは神が求められるところに従わないで背いたのです。それに対してキリストは神の御旨に完全に従い、そのために命を投げ出されたのです。それで、同じことが次節(一九節)で「不従順」と「従順」という用語を用いて言い直されるのです。

 一八節では、アダムの「違反《パラプトーマ》」とキリストの「義の行為《ディカイオーマ》」が対照されています。一九節では、アダムの「不従順《パラコエー》」とキリストの「従順《ヒュパコエー》」が対照されています。この四つの名詞はみな単数形です。諸々の律法規定に対する順守・違反とか従順・不従順ではなく、人間の在り方の総体が神に結ばれているか離反しているかの問題です。

 ところで、一八節のアダムの違反とキリストの義の行為によってすべての人にもたらされる結果を表現する部分を見ますと、「断罪へと(至らせる)」、「いのちの義に(至らせる)」という意味の表現が用いられています(この節には動詞はありません)。《エイス》(英語のinto, unto)という前置詞を用いたこの表現は、一・一七の「救いに(至らせる)」の場合と同じく、終末を視野に入れた結果を示しています。すなわち、一つの違反によってすべての人間が終末的な「断罪」に至り、一つの義の行為によってすべての人間が終末的な「いのち《ゾーエー》の義」に至るというのです。「《ゾーエー》の義」(直訳)というのは、ユダヤ教では義人は終末において(すなわち来るべきアイオーンにおいて)永遠の命《ゾーエー》が与えられるとされているので、《ゾーエー》をもたらす義、《ゾーエー》に至らせる義という意味になります。パウロにおいては、《ゾーエー》はなお「来るべきアイオーンのいのち」という終末的・黙示思想的意味を一面では色濃く残しています。

 続く「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の人の従順によって多くの人が義なる者とされるのです」(一九節)は、一八節と同じことを述べていますが、一九節では「〜とされる」という動詞が用いられています。ここでアダムの場合の「罪人とされた」は過去形ですが、キリストの場合の「義なる者とされる」は未来形です。アダムの場合はすでに起こった現実ですが、キリストによってもたらされる義は、先の「《ゾーエー》の義」のところで見たように、これから始まり終末において完成する未来に向かっての過程です。

 ここに見られるように、この段落ではパウロはユダヤ教的な用語を用い、ユダヤ教的な論理を駆使して、キリストによる救済を論証しようとしています。それは、このようなアダムと「来るべき方」の対応関係によって、キリストによる救いを説得できるのはユダヤ人であるからだと考えられます。パウロはおもに聖書に親しんでいるユダヤ人読者を念頭においてローマ書を書いていると見てよいでしょう。

 

罪の支配と恩恵の支配

 ここまでアダムとキリストの対応と対照を述べてきたパウロは、最後に結論として、「アダムにある」という場と「キリストにある」という場に働く二つの支配力を対照します。パウロは(コリントT一五・二二の一箇所以外は)「アダムにある」という表現は用いていませんが、人間が生まれながらの本性のままに生きている場を、「キリストにある」という場と対照するために、この講解では「アダムにある」とか「アダムにあって」と呼んでいきます。「アダム」とは人間そのものを指す名詞ですから、「アダムにあって」というのは、人間が自分の本性に従って生きている姿を指していることになります。後で見ますように、パウロが「肉において」と言うのと、ほぼ同じ内容になります。

 「場」という用語については、前号26頁の「恩恵の場」を参照してください。

 「アダムにある」という場では罪《ハマルティア》が支配するのです。それに対して「キリストにある」という場では恩恵《カリス》が支配するのです(二一節)。これがこの段落の結論であり、これから第二部で語ろうとする救いの土台です。パウロはこの段落で、第二部全体の基礎工事をしたのです。ただ、パウロはこの結論を述べるにさいしても、その中で律法がどのような位置にあり、どのような働きをしているかに触れざるをえないのです。それでこの結論の部分(二〇〜二一節)は、律法の意義づけと一体となって、罪の支配と恩恵の支配が対照されることになります。

 「 律法が入り込んで来たのは、罪過が増し加わるためでした」(二〇節前半)。ここで「罪過」と言っている語は単数形で、すぐ後で同じことを「罪」《ハマルティア》と言い直していることから見ても、パウロ特有の支配力として「罪」を指していることが分かります。すでに繰り返し見てきたように、パウロは律法を、それを順守することで罪の支配から解放されるために与えられたものではなく、罪を自覚させるために与えられたものであるとしています(三・二〇、四・一五)。神に背いているという人間の本性的な在り方が、律法によって個々の違反行為(罪過)となり、罪が自覚され、自覚した上で神に背き続けることで罪は神への意識的背反となって深くなります。アダムとキリストの間に律法が後から入り込んで来たのは、そのような意味で「罪が増し加わるため」であるというのです(ガラテヤ三・一五〜二〇)。

 「しかし、罪が増したところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれたのです」(二〇節後半)。律法によって罪が増し加わりました。「しかし」、律法によって罪が増し加わったところでは、その増し加わった罪の支配を克服することで、恩恵が恩恵として「さらにいっそう」力強く支配して、「満ちあふれる」ことになるのです。言い換えれば、律法は恩恵をますます恩恵とするために与えられたことになります。人間が罪を自覚せず、ただ本性のままに生きているところでは、自分の存在が恩恵によるものであることは自覚されず感謝もされません。罪の支配が増し加わり、人間の存在全体を圧倒するように「満ちあふれる」とき、人間は自分の存在を恩恵によるものと深く自覚し、恩恵を賜る神をあがめるようになるのです。

 このように律法が恩恵を恩恵として「さらにいっそう満ちあふれる」ようにするのは、「それは、罪が死の領域で支配したように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストによって永遠の命に至らせるため」なのです(二一節)。二一節全体は二〇節の文の目的を示す節(副詞節)になっています。すなわち、律法は罪の支配と恩恵の支配の対比をいっそう際だたせて、「アダムにあって」罪の支配下にある人間に、「キリストにあって」恩恵の支配にあずかることの素晴らしさを確認させるのです。

 「罪が死の領域で支配した」と訳した文は、「罪が死によって支配した」(協会訳、新共同訳、岩波版青野訳)と訳すことも可能です。「死」の前に用いられている前置詞《エン》は「によって」という意味にも用いられるので、罪が死を足場とか支点として、あるいは梃子として支配したという理解も可能です。しかし、一七節の「命《ゾーエー》において」という句との並行関係から、また並行する次の句において手段は《ディア》という別の前置詞で表されていることからも、ここの《エン》は「において」という本来の意味に理解する方がよいと考えます。すなわち、罪が死を手段とか道具として支配するというよりは、罪がその支配により結果として死という領域を形成し、その領域において支配者となっていると理解します。

 なお、二一節の罪の支配と恩恵の支配との対比において、支配の主語は罪と恩恵が対応し、支配の結果ないし目標としては死と永遠の命が対応していますが、支配の手段については、後半には「義によって」という句がありますが、前半には対応する句はありません。パウロは論文を書いているのではありませんからそのままでよいのですが、強いて補うとすれば「律法によって」となると考えられます。パウロは律法を罪が人間を支配するときの足場とか支点と考えていることが、「罪の力は律法である」(コリントT一五・五六)という言葉やローマ書七・一〜一二の記述から分かります。
 
 パウロはこの段落の最後に、結論として二つの支配を対照させます。すなわち、罪の支配と恩恵の支配です。アダムにあっては、すなわち現実の人間界においては罪が支配しています。それに対して「キリストにあって」は、恩恵が支配しているのです。パウロはこの「恩恵の支配」を告知する使徒です。この二つの支配がパウロの救済論の枠を形成しています。「罪が支配したように、恩恵も支配する」のです。すなわち、罪の支配が現実であるように、恩恵の支配も現実であるのです。

 恩恵は「義によって」支配します。恩恵は義の賜物を与えることによって(一六〜一七節)、わたしたちを命の源である神と結びつけ、いのちに至らせるのです。そのいのちは「永遠の命」です。それは神との結びつきにおける命であるからです。ただ、その命は「に至らせる」という表現が示唆しているように将来の事態、終末の事態です。パウロにおいては、「永遠の命」はまだユダヤ教的な「来るべきアイオーンでの命」という面を残しています。しかし、今はないが終わりの日に与えられる命というユダヤ教的な限界を突き抜けて、現在すでに始まっており、終末の完成に向かって進んでいるという意味で「に至らせる」と言っているのです。それは、「救いに至らせる」(一・一六)という表現と同じです。

 ケーゼマンはその著『ローマ人への手紙』において、「義」を法廷的な意味とか単なる賜物としてではなく、神の支配力(マハト)として理解してローマ書を講解しています。しかもケーゼマンにおいては、支配力としての「神の義」は世界史的・宇宙論的な視野で貫かれており、義を個人的・実存論的に理解してきた欧米のプロテスタント神学に大きな衝撃を与えました。しかし、パウロにおいては、「罪が支配する」に対立するのは「義が支配する」ではなく、「恩恵が支配する」です。たしかに「恩恵は義によって支配する」のですから、「義」は神の支配の一つの現れであると言えます。しかし、パウロにおいては恩恵の方がより根元的な支配力であると言えます。わたしは、パウロの福音の核心は「恩恵の支配」であると理解していますが、恩恵と義との関係、また恩恵の支配の世界史的・宇宙論的視野の問題などは、さらにローマ書全体の釈義の中で確認されなければならないと考えられます。


 パウロのアダム・キリスト論


型としてのアダム

 この段落で、パウロはアダムをキリストの「型」として、アダムとキリストを対比しています。ここで「型」とは何か、たとえで説明しておきましょう。ある形の菓子を作るとき、まず木にその形を掘り抜いた「型」を作り、それに菓子の材料を詰め込んで目的の形の菓子を得ます。あるいは、機械の部品を作るとき、まず木でその部品の形を作り、その「木型」を土に埋めて固め、それを抜き出して同じ形の空洞を作り、この「鋳型」に熔けた鉄を流し込んで目的の形をした鉄の部品を得ます。このように、目的の形をした製品を得るために先に作られた「型」は、目的の製品と同じ形をしていますが、それは製品そのものではありません。

 アダムはこのような意味で、来るべき方キリストの「型」として、キリストがどのような方であり、どのような働きをしてくださり、どのような結果を人間にもたらされるのかを、予め前もって示す者であったのです。それで新共同訳はここを「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」と訳したのです。アダムはキリストと同じ形をしていますが、目的の本体ではありません。本体はキリストです。本体を予め指し示すために用意された、同じ形をした「型」にすぎません。パウロはここでその「同じ形」を、以上に見たように、「一人の人によってすべての人が」死に定められたり命に至る義を受けたりするという原理として描いて見せました。

ここで「型」と訳したギリシャ語《テュポス》は、英語の type という語の語源になった語で、本来(粘土などに)刻印された図形や像を指す用語です。そこから、この語は広く、写し、像、形、モデル、模範などの意味で用いられます。ところで、パウロの時代のユダヤ教では、聖書の人物や出来事を将来の出来事を予め指し示す「型」《テュポス》として理解し(予め指し示す型ですから「予型」という訳語もよく用いられます)、聖書を解釈する方法が行われるようになっていました。たとえばアレキサンドリアのフィロンは、聖書の物語をギリシア哲学の成果に合わせるために、この方法を駆使して(彼はそれを「寓喩的解釈」と言っていますが)聖書を解釈しています。このような聖書解釈の方法を「予型論」(タイポロジー)と言いますが、パウロもこの予型論的な方法で聖書を解釈し、聖書の物語をキリストの出来事とキリストの民に適用するのです。すでに、コリントT一〇・一〜一三で、イスラエルの民がエジプトを出てから荒野で体験したことを、「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」の《テュポス》(新共同訳では「前例」)だとしています。また、ガラテヤ四・二一〜三一では、サラとハガルの物語を現在のキリストの民とエルサレムを拠点とするユダヤ教との対立の「予型」として扱っています。ローマ書のこの段落は、パウロの予型論的聖書解釈の典型的な場合です。


 

一人の人アダム?

 ここで現代人から一つの疑問が提起されます。現代では、人類の始祖が一人の人アダムであったとは信じられていません。人類は地球上に生命が発生してから何億年という長い期間を経て進化した結果であると理解されています。創世記のアダムの物語は人間の現実の姿を神話の形で物語ったものであり、実際の出来事ではないことは常識になっています。それは世界の常識であるだけでなく、神学もこの現代の科学的常識を受け入れて、その上で聖書理解を進めています。

 このように創世記のアダムが現実の「一人の人」でないならば、パウロがここで「一人の人」キリストによってすべての人が義とされ救われることの「型」としてアダムの場合を用いることは成り立たないのではないか、という疑問が出てきます。ここでの議論はあくまでアダムが「一人の人」であることを前提にしているからです。創世記に記されているように、創造者である神が最初に「一人の人」アダムを造られたと受け取るのでなければ、この段落のアダムをキリストの「型」とする議論は成り立たないのではないか、という疑念が起こります。創世記の物語を文字通りに起こった事実であると信じるよほどのファンダメンタリストでなければ、ここのパウロの議論は説得力をもたないのではないか、と考えられます。

 この疑念は、聖書の本質を誤解しているところから起こっています。聖書は世界とか宇宙の事実を科学的に記述するための書ではありません。聖書に太陽が東から昇り西に沈むと書いてあるからといって、現代ではそれを天動説の根拠にする人はありません。聖書に神が最初に一人の人間アダムを造られたと書いてあるからとして生命進化の科学的知識を否定するのは、聖書の本質の誤解です。聖書は世界を科学的に記述する書ではなく、救済史の啓示なのです。創造者なる神が人間を救済される働きを啓示する書なのです。そして、その救済の働きは世界の歴史の中で、イスラエルの歴史とキリストの出来事という形で実現していくのです。

 その救済史の中で、キリストの出来事こそ救済の本体です。イスラエルの歴史はその最終的な救済の出来事を準備し、約束し、予め前もって表す型であり、キリストの出来事において実現・成就するのです。イスラエルの歴史が生み出した聖書(旧約聖書)は、キリストの出来事によって、その意義が明らかになるのです。これが福音の基本的な聖書理解です。

 救済の本体であるキリストの出来事は、一人の人キリストによってすべての人が義とされ命を与えられるという構造をしています。神はそのような形ですべての人を救うことにされたのです。ですから、その救済の出来事を予め前もって表すために、人間の創造と神からの背反、その結果の死の支配という現実が、一人の人によって起こったこととして物語られることになったのです。そして、その一人の人の名が人間そのものを表す「アダム」となったのです。アダムによってキリストの出来事が根拠づけられるのではなく、逆にキリストの出来事によってアダムの物語が意義づけられるのです。パウロはキリストの出来事からアダムの「物語」を意義づけているのです。ですから、アダムの物語が人類の発生の過程に合致しているかどうかは問題ではありません。

 

キリストはアダムである

 ところで、一四節の「アダムは来るべき者の型である」という文の「来るべき者」という語は、(文法的には分詞形だけですから)本来は後ろに何か名詞を補って読むべき形の語です。ただ、この語はこれだけで(冠詞をつけて)「来たるべき者」という意味の表現として、終わりの日にイスラエルに現れると約束されていたメシアを指す用語として広く用いられていましたので(マタイ一一・三などを参照)、ここでもその用法に従い「来るべき者」と訳し、キリストを指すと理解して講解してきました。しかし、パウロはここでは「来るべき」という語の後ろに「アダム」という名詞を略していたのではないかと考えられます。すなわち、略されている名詞を補えば、一四節は「アダムは来るべきアダムの型である」となります。

 パウロはこう言っているのです、「創世記のアダムは、終わりの日に現れるアダム、すなわちキリストの型である」。パウロがキリストを「終わりの日のアダム」と理解していたことは、このローマ書の少し前に書いたコリント書簡において、パウロ自身の言葉で明確に語られています。すでにコリント書簡の講解で詳しく論じたことですが(コリントT一五章の講解を参照)、ローマ書のこの段落の理解にとって重要ですから、その要点をここで繰り返しておきます。

 パウロは死者の復活を論じたコリントT一五章で、先に見たように、「人《アントローポス》によって死が来たのだから、死者の復活も人《アントローポス》によって来るのです」(二一節直訳)と言っています。そして、すぐにそれを「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(二二節)と言い直しています。この言い換えから、パウロはアダムとキリストを共に「人」《アントローポス》としていることが分かります。アダムとキリストは「人」と呼ばれて、それぞれ人間全体を代表する存在とされているのです。

 それで《アントローポス》に「原人」という訳語が用いられることがありますが、「原人神話」における「原人」との混同を避けるために、この用語は使用しません。

 このことは死者の復活を論じたコリントT一五章の終わりの箇所でいっそう明らかになります。パウロはこう言っています、「『最初の人アダムは命のある生き物になった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです」(四五節)。ここで明白にキリストが「最後のアダム」と呼ばれています。キリストはアダムなのです。最初のアダムと対比される「最後のアダム」なのです。最初に造られて命のある生き物となったアダムに対して、終わりの日に現れるアダム、すなわち終末に現れる人間そのものなのです。

 パウロはさらにこの最初のアダムと最後のアダムの対比を、「最初の人《アントローポス》」と「第二の人《アントローポス》」という表現で行っています(四七〜四九節)。先にも述べたように、《アントローポス》というギリシア語は《アーダーム》の訳語ですから、パウロはここで先に(四五節で)述べたことをギリシア語の用語で言い直しているだけです。パウロはキリストに属する者たちが終わりの日に復活することを根拠づけるために、「わたしたちは、土からできたその人(最初のアダム)の似姿となっているように、天に属するその人(第二の人、最後のアダム)の似姿にもなるのです」(四九節)と言います。

 このように、パウロはキリストを「最後のアダム」として「最初のアダム」と対応させるのです。最初のアダムに起こったのと同じことが、方向を逆にして最後のアダムにも起こるのです。そこに、この段落で見たようなアダムとキリストの対応と対照を論じる議論が生まれます。しかし、わたしがここで「パウロのアダム・キリスト論」と呼んでいるのは、このようなアダムとキリストの対応を語る議論のことではなく、もちろんそれも含みますが、パウロの「キリストはアダムである」というキリスト理解のことです。

 キリストをどのような方として理解するか、そしてそれをどのように言い表すかという議論を、神学では「キリスト論」と言います。すでに新約聖書の中に、様々なキリスト論が芽生え、それが以後の神学の歴史の中で発展して、複雑な議論になっていきます。たとえば、キリストを神の子とする「神の子・キリスト論」、キリストを黙示思想の「人の子」とする「人の子・キリスト論」、キリストを宇宙の支配者《キュリオス》であるとする「《キュリオス》・キリスト論」、イスラエルの救済者「ダビデの子」であるとする「ダビデの子・キリスト論」、その他「大祭司・キリスト論」など、様々なキリスト論が新約聖書の中に見られます。その中でパウロの「アダム・キリスト論」、すなわち「キリストは終わりのアダムである」とするキリスト理解は、パウロ独自のものであり、現代のキリスト理解にとってきわめて重要であると考えられます。

 最初のアダム、すなわち創世記のアダムは、現実の人類を代表する存在として物語られていました。それに対して、復活者キリストは終わりの時に出現する新しい人間を代表する存在として告知されているのです。コリントT一五・四七〜四八の表現を用いると、現実の人間はすべて「土からできた者たち」であり、「土からできたその人(地に属する人、最初のアダム)に等しい」のです。この人間の在り方を「アダムにある」と言います。そして、信仰によってキリストと結ばれ、天からの霊によって「天に属する者たち」となった者はすべて、「天に属するその人(第二のアダム、終わりのアダム)に等しい」のです。この人間の在り方を「キリストにある」と言います。この現実の人間と終末的な新しい人間をそれぞれ代表するアダムとキリスト、最初のアダムと終わりのアダムの対比が、パウロの救済理解、ひいては人間理解の基本的な枠組みを形成します。

 わたしたち現実の人間はすべてアダムに属し「アダムにある」のです。しかし、その人間がキリストを信じキリストに属する者となるとき、アダムに属する人間が同時に「キリストにある」という終末的な場に生きるようになるのです。この二つの現実の同時性が、パウロの福音理解の特質となっています。

 本来キリストとは「来るべき方」、すなわち終わりの日に到来して、人間の最終的な救済を完成される方として、将来に待ち望まれる方のことです。ところが、福音は復活されたイエスをキリストとして宣べ伝えます。すなわち、キリストはすでに到来され、その方による終末の救いが始まっているのです。復活者キリストは、終末的な命(永遠の命)を人に与えることによって、最終的な救いを現に与えておられるのです。したがって、パウロが「キリストにあって」救いが来ていると告知するとき、「来るべきアイオーン」という黙示思想の待望が「キリストにある」という場で現実になっているのです。パウロにおける「アダムにあって」と「キリストにあって」という二つの場の枠組みは、「このアイオーン」と「来るべきアイオーン」という黙示思想の時間軸の対立を、すでに到来されたキリストの命を体験することによって現在化して克服し、現在の霊的な場の対立としたものと言えます。

 パウロは、コリント書Tの一五章で見たように、キリストを「最後のアダム」としています。コリント書では「死者の復活」を論証するために、その「アダム・キリスト論」を用いていました。ローマ書のこの段落においては、さらに広い視野で、救済の基本的な枠組みを明らかにするために用いています。すなわち、キリストは「最後のアダム」であるから、一人の人アダムによって罪が普遍的に支配したように、一人の人キリストによって恩恵が普遍的に支配し、賜物として義を与えることにより永遠の命に至らせるのです。キリストがアダムとしてすべての人間を代表する存在であることを印象づけるために、「一人の人」と「すべての人」という対照が繰り返し用いられていますが、それはあくまでアダムとキリストとの対応構造をいっそう明確に示すためのものであって、対応の本体は「最初のアダム」と「最後のアダム」の対応にあります。

 キリストを「最後のアダム」、「終末のアダム」とする見方は、人間理解にとって重要な枠組みを提供します。福音は、キリストにあって新しい人間、終末的な人間の出現を告知するものになります。この主題はローマ書全体の内容を語ることになりますので、ここではこれだけに止めます。

 

 この主題については福音講話「ローマ書による『新しい人間』」を参照してください。



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