パウロによるキリストの福音 III

 第八章 罪の支配からの解放

   ― ローマ書翻訳と講解 8 ―


  12 罪に死にキリストに生きる  
            ( 6章1〜14 節)

  1 では、わたしたちはどう言うべきなのか。恵みが増し加わるために罪にとどまるべきでしょうか。 2 決してそうではない。 罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか。 3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです。 4 死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです。 5 もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです。
  6 わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを、わたしたちは知っています。それは、罪のからだが滅ぼされて、わたしたちがもう奴隷として罪に仕えることがないようになるためです。 7 死んだ者は罪から放免されているからです。 8 もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています。 9 キリストは死者の中から復活して、もう死ぬことなく、死はもはやキリストを支配しないことを知っているからです。 10 キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのであり、キリストが生きておられる生は、神に生きておられるからです。 11 そのように、あたがたがたも自分が、キリスト・イエスにあって、罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを認めなさい。
  12 それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、からだの欲求にあなたがたが従うということにならないようにしなさい。 13 あなたがたの肢体を不義のための武具として罪に委ねてはなりません。むしろ、死者の中から生き返った者として自分自身を神に委ね、あなたがたの肢体を義のための武具として神に委ねなさい。 14 それは、あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはないからです。



「恩恵の支配」に対する非難と誤解

 前段(五・一一〜二一)でアダムとキリストを対比して、罪の支配に打ち勝って満ちあふれる恩恵の支配を賛美して、「罪が増したところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれたのです」(五・二〇)と言ったパウロは、ここでそのような恩恵の支配の主張に対していつも提起される批判を取り上げて反論を加えます。「では、わたしたちはどう言うべきなのか」(一節前半)という句は、パウロが批判者たちの議論を念頭において、それに対する反論を始めるときにいつも用いる表現です(他に四・一、七・七、九・一四)。
 
 パウロは自分から論敵の批判を取り上げて言います、「恵みが増し加わるために(わたしたちは)罪にとどまるべきでしょうか」(一節後半)。批判者たちは、パウロが言うように「罪が増すところでは、恵みはさらにいっそう満ちあふれる」のであれば、わたしたちは罪をなくす努力をする必要はなく、恵みが増し加わるために罪にとどまっている方がよいということになるではないかと、パウロの福音を非難していたのでしょう。パウロはこの非難を取り上げ、「決してそうではない」と強く否定して、「罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」とその理由を述べます(二節)。そして続く三節以下で、キリストにあって恩恵の支配の下にある者は「罪に死んだ者」であることを論証するのです。
 
 ここに見られるような、徹底した恩恵の支配を宣べ伝える者に対する体制的宗教からの非難という事例は、わが国の歴史にもありました。法然や親鸞がただ念仏または信仰だけで救われるという主張をしたたとき、戒律を重視する旧仏教側から激しい非難を受け、仏法を破壊する者として当時の権力者に訴えられ、ついに法然や親鸞は島流しに処せられるという事件がありました。法然や親鸞は、戒律を行うことによってではなく、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えるだけで救われると主張しました。救われるための資格を得るような行はいっさい否定して、ただ阿弥陀仏の無辺無量の恵みから発する救済の本願だけに救いの根拠を求めたのです(阿弥陀の本願は絶対恩恵の一つの表現です)。それに対して、そのような仏教は発菩提心(菩提、悟りを得ようとする努力)を破壊し、仏教そのものを否定するものだと、旧仏教から激しく非難されたのです。これは、パウロの「恩恵の支配」の福音は律法を順守して罪を克服しようとする努力を否定し、律法(ユダヤ教)そのものを否定するものだと、ユダヤ教または一部のユダヤ人キリスト教指導者から激しい非難がなされたのと同じです。このような批判に反論して福音を確立するためにパウロは「ローマ書」を書きましたが、同じように(一二〇〇年ほど後に)法然は「選択本願念仏集」を著し、親鸞は「教行信証」を撰述したと言えるでしょう。

 

 福音と浄土系仏教の類似と相違、さらに遡って福音と大乗仏教成立との関係などは、きわめて興味深い問題ですが、ここで扱える問題ではありませんので別の機会に譲ります。  

 外からの非難だけでなく、信仰者の中にも「恩恵の支配」を誤解して、「恵みが増し加わるために、わたしたちは罪にとどまっていてよいのだ」と考える者が出てきます。そのような考えを口にはしませんが、実際の信仰生活において、そのような考えで歩む人たちが教会の中に現れます。ここでも歴史的な実例をあげます。ルターは魂の苦悩の中でパウロの福音を再発見して、すっかり律法主義と祭儀主義の色彩を濃くしていた中世のローマ教会を批判し、「信仰義認」の旗印をかかげて宗教改革の波を引き起こしました。ルターの魂の体験から成立発展したルター派教会は、その後の数百年の歩みの中で、「信仰義認」が教条化していきます。その教義を受け入れで告白する者は救われるとされて、信じる者を変革する神の力が見失われていきます。信仰によって義とされ、恵みによって救われているのであるから、現実の人間と生活はすこしも変わらなくてもよいのだとされ、恵みが「罪にとどまる」口実にさるようになります。この現状を批判したのが、信仰者の立場からナチスに抵抗して処刑されたボンヘッファーです。彼は、そのようなルター派の、ひいては近代プロテスタンティズムの恩恵理解を「安価な恵み」と呼び、パウロの福音の誤解として厳しく批判したのでした。

 

 ボンヘッファーについては、左記のような邦訳と評伝がありますので、参考にしてください。
  『ボンヘッファー選集』(全9巻) 新教出版社
  E・ベートゲ著 『ボンヘッファー伝』(全4巻) 新教出版社
 なお、一冊にまとめられた読みやすい紹介書としては左記の書をお勧めします。
  宮田光雄著 『ボンヘッファーを読む』 岩波セミナーブックス51 岩波書店  

 外からの非難に対しても、内における誤解に対しても、パウロはこの段落で、そして第二部全体で見事に応えています。パウロは、自分の福音の核心である「恩恵の支配」がどのような現実であるのかを、ここで精細に描き出すのです。いつもそうですが、パウロの福音は論争の中にその本質を現してくるのです。わたしは、ローマ書の(ここでわたしが言う)第一部の「信仰義認」だけを受け取って、パウロの福音の核心部である第二部を十分理解していないところに、近代プロテスタンティズムの弱点があるのではないかと考えています。第二部は、聖霊によって霊なるキリストと合わせられる体験と、このキリストにあって生きる「御霊のいのち」の次元を描いているので、聖霊の理解なくしては読めないのです。

罪に死んだ者

 以上のような非難と誤解に対して、パウロは「決してそうではない」と、断固否定した上で反問します、「 罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」(二節)。「わたしたち」キリストにある者、キリストにあって恩恵の支配の下にある者は、「罪に死んだ者」なのです。「罪に死んだ者」というのは、罪を犯さない者という意味ではありません。繰り返し見てきましたように、パウロがいう「罪」とは規範に違反する個々の行為ではなく、人間を支配する力です。したがって、「罪に死んだ者」というのは、罪の支配力が及ばない領域にいる者、罪の支配力とは無関係になった者という意味です。たとえば、鉄片がアルミになったために磁力が作用しなくなった状態です。
 
 そのように罪に死んだ者がどうして罪の支配の中にとどまって、唯々諾々と罪に支配されていることがあろうか、と反問するのです。死体が動くことがないように、罪に死んだ状態の者が罪の力に呼応して(罪の力を原動力として)動くことは事実としてありえないではないか、というのです。パウロは「死んでいる」と「生きている」という事実の対照を用いて、罪の支配からの解放を説明するのです。
 
 「恩恵の支配」に対する非難と誤解は、恩恵が支配する「キリストにあって」という場は罪に死ぬ場であるという事実を知らないところから出るのです。先の段落(五・一二〜二一)で見たように、「アダムにある」という場では罪が支配していましたが、「キリストにある」という場では恩恵が支配しています。キリストを信じてキリストに合わせられた者は、「アダムにある」という場から「キリストにある」という場に移ったのですから、もはや罪の支配の下にはなく、恩恵の支配の下にあるのです。すなわち、罪に死んで、恩恵が与える新しい御霊の命に生きるようになっているのです。その消息が、続く三〜五節でキリストを信じたときに受けたバプテスマを象徴として用いて説明されます。

キリストの中へのバプテスマ

 パウロは、キリストを信じてバプテスマを受けた人たちに呼びかけます、「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです」(三節)。パウロはこの手紙でローマの兄弟たちに語りかけています。そして、ローマの信徒たちはパウロ自身がバプテスマを授けたのではありませんが(パウロはまだローマに行っておりません)、信仰に入ったときバプテスマを受けたことを前提にして、パウロは語っています。

 

 パウロはローマの兄弟たちが「バプテスマを受けた」ことを前提にして、そのバプテスマを象徴として用いて語っていますが、「バプテスマ(洗礼)」という名詞は一回も用いていません。ここ(三〜四節)では、もっぱら《バプティゾー》という動詞の受動態を繰り返して用いています。ほとんどの日本語訳(文語訳、協会訳、新改訳、新共同訳、岩波版青野訳)は、これを「バプテスマ(または洗礼)を受ける」と訳しています。たしかにこの動詞は洗礼者ヨハネが「洗礼を授けた」ときにも、イエスがヨルダン川で「バプテスマを受けた」ときにも、使徒たちが信じた者たちに「洗礼を授けた」ときにも使われている動詞ですから、そう訳すのは間違いではありません。しかし、「洗礼」とか「バプテスマ」をいう名詞を用いて「洗礼を受ける」とか「バプテスマを受ける」と訳すと、洗礼という儀式にあずかることを意味することになり、ここでは適切ではありません。ここで《バプティゾー》という動詞は、「浸す」とか「沈める」という本来の意味で用いられています。初期の福音宣教においてバプテスマは、ヨハネのバプテスマと同様、水の中に全身を沈める形で行われていました。パウロはその洗礼儀礼の形を比喩として用いて、霊なるキリストと合わせられ、キリストの死に合わせられているという霊の(秘義的な)現実を語るのです。従って、《バプティゾー》の受動態(バプテスマされる)の後には《エイス》(の中へ)という前置詞を伴う句が続くことになります。なお、パウロがこの動詞を「洗礼を授ける」とか「洗礼を受ける」という意味で用いているのは、コリントT一・一三〜一七で否定的な意味合いで用いている場合と、コリントT一五・二九、ガラテヤ三・二七の二箇所だけです。ここのローマ六・三とコリントT一二・一三では「浸し入れる」という本来の意味で用いられています(コリントT一〇・二は予型論的)。この動詞はバプテスマという儀礼を受けることを背景にしていますので、ここでは「バプテスマされる」という動詞形にして訳しますが、あくまで「沈める」とか「浸し入れる」という意味、したがって「合わせられる」という意味で理解していただきたいと思います。  

 イエスを《キュリオス》と告白して、その信仰の告白行為としてバプテスマを受けた者は、実に「キリストの中へとバプテスマされた(浸し入れられ、組み入れられた)」のです。「キリストに合わせられた」のです。そのように「キリストに合わせられた」者の在り方が「キリストにある《エン・クリストー》」と言われるのです。このような霊的事態が起こるのは聖霊の働きによります。パウロはここで「聖霊による」という表現は用いていませんが、現実に霊なるキリストの中に組み入れられる出来事は、聖霊の働きなしでは起こりえません。パウロは、ローマの兄弟たちが信仰に入ったとき、このような現実が起こっていることを思い起こさせて、「キリスト・イエスの中にバプテスマされた者は、キリストの死の中にバプテスマされたのです」と、その中に含まれる意義を確認させるのです。「キリストの死の中へバプテスマされる」というのはパウロだけの表現です。「キリストに合わせられる」という出来事は、「キリストの死に合わせられる」ことを含みます。この「キリストの死に合わせられる」ことによってはじめて、わたしたちの「古い人」は死ぬのです。
 
 古来人間は、永遠の実在界を探求し、霊的実在界に自在に生きるという宗教的境地に到達するのに、最大の妨げは自分自身であることに気づいていました。自分を主張し、自分の欲求に従う自我が生きている限り、そのような境地に達すことはできないことを自覚していました。それで、霊的な真理に到達することを説いた智者たちは、何らかの形で自分に死ぬこと、無の境地に生きることを求めたのでした。それで、宗教的探求は何らかの形の禁欲的な修行を伴うのが普通になります(たとえば、大死一番を求める禅の修行を考えてください)。そのような禁欲的な修行は、普通の市井の生活を送る者にはとうていできないことですから、宗教的な悟得はごく限られた者が特別な状況で到達できる特権的な境地になります。
 
 これに対して福音では、誰でもキリストにあるならば、すなわち、キリストが自分のために死なれたことを信じて、このキリストに身を投じ、恩恵によって与えられる聖霊によりキリストに合わせられるならば、キリストの死が自分の死になるのです。自分が死ぬために厳しい禁欲的な修行をする必要はありません。自分の死という境地が、キリストにあって、上からの恩恵として賜るのです。ですから、どのような境遇の人でも到達できる境地になるのです。市井の普通の生活の中で、もはや自己の欲求に従うのではなく、自己を滅却した生き方が自然な無理のない形で始まるのです。ごく普通の市民生活の中に自己を滅却した生き方に接するとき、そこにわたしたちはキリスト者の標識を感じるのです。
 
 「キリストの死に合わせられた」ということを、パウロはさらに「キリストと共に葬られた」という表現で念を押します。「死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです」(四節前半)。葬られることは死の確認です。パウロが引用しているパウロ以前のキリスト伝承(コリントT一五・三〜四)に、「キリストは…死に、葬られ、復活し、現れた」とあります。キリストが死んで葬られたのに合わせられて、わたしたちも死んで葬られたというのです。これまでのわたしたちが生きている限り、別種の新しい命によって生きることはできないからです。死んで葬られるのは、わたしたちが別種の新しい命に生きるようになるためです。
 
 わたしたちが今まで生きてきた命とは別種の新しい命に生きるようになるために、キリストが「死者の中から復活された」のです。「それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命の新しい次元に歩むようになるためです」(四節後半)。キリストは創造者なる神の目的と限りない力によって「死者の中から復活させられた」のです。「死者」は複数形です。死の状態から復活させられたというのではなく、「多くの死者たちの中から」キリスト一人がまず復活されたのです。キリストは「初穂」として復活されたのです(「初穂としての復活」については、コリントT一五章の講解を参照してください)。
 
 このキリストの復活は、復活の順序として「初穂」である(コリントT一五・二三)だけでなく、現在のわたしたちが《ゾーエー》(命)と呼ばれる新しい人間の在り方に生きるようになるための根拠です。キリストが復活されたから、キリストに合わせられた者が「命の新しい次元に歩む」ことができるようになるのです。パウロはここで「命の新しさ」に歩むという表現を用いています。「新しさ」という名詞を用いた表現はパウロだけで、それもここと「御霊の新しさ」(七・六)の二箇所だけです。「新しさ」という名詞の元にある《カイノス》(新しい)という形容詞は、新約聖書では終末的な事態を指しています。パウロにとって、《ゾーエー》(命)とか《プニューマ》(御霊)は終末的な現実であって、今までにはなく、さらに新しいものによって取って代わられることのない終末的な人間の在り方を指し示す用語です。その御霊の命がもたらす人間の終末的な在り方を「命の新しさ」と表現するのです。そのような意味合いを表現するために、ここでは「命の新しい次元」と訳しています。
 
 なお、パウロがここで「歩むようになるため」という表現を用いているのは、パウロがここで将来の復活を問題にしているのではなく、現在の地上の歩みについて語っていることを示しています。わたしたちはまだ復活してはいないが、復活を目指す終末的な質の命を、現在の歩みの中で生き始めているのです。「歩むようになるため」は、わたしたちがバプテスマによってキリストの死に合わせられたのは、罪の中に「とどまる」ためではなく、罪の支配から解放されて、命の新しい次元に「歩む」ようになるためであることを明示して、一節の誤解とか非難に答えていることになります。

 

 キリストと「一緒に十字架につけられた」、「一緒に死んだ」、「一緒に葬られた」という表現(接頭語《シュン》を伴う動詞)を多用するパウロが、キリストと「一緒に復活した」という表現を用いないことが注目されます。「一緒に復活させる」という表現はコロサイ書(二・一二)やエフェソ書(二・六)になって初めて使われるようになります。パウロにおいては、わたしたちの復活が将来のことであるという面が保持されています(次節を参照)。  

死の形と復活の形

 このようにキリストの中にバプテスマされてキリストの死に合わせられた者が、「命の新しい次元に歩む」ようになることが、死んで復活されたキリストと「同じ形に合わせられる」からだという表現で根拠づけられます。

 「もしわたしたちがキリストの死の形に合わせられたのであれば、その復活の形にも合わせられることになるからです」(五節)。
 
 「形に合わせられる」と訳した句は、直訳すると「同じ形に合わせられる」です。あるいは「同じ姿に合わせられる」、「似姿に合わせられる」です(新共同訳は「姿」をいう語を用いています)。キリストは死んで復活されたのであるから、キリストの死と同じ形に合わせられた者は、キリストの復活と同じ形に合わせられることになるのだというのです。キリストの復活にあずかるには、キリストの死に合わせられなければなりません。他方、キリストの死に合わせられて、キリストの復活に合わせられないことはありません。両者は同じキリストに合わせられることの結果であり、一体です。片方だけではありません。パウロはこの一体性を根拠にして、四節で述べたことを根拠づけるのです(五節は理由を示す小辞《ガル》で始まっています)。
 
 ところで、この文で「死の形に合わせられた」の動詞は現在完了形ですが、「復活の形に合わせられる」の方は未来形です。わたしたちがキリストの死に合わせられたのはすでに起こった霊的事実ですが、「復活の形に合わせられる」のはこれから起こることです。それが将来のことであることを示すために、「復活の形にも合わせられることになる」と訳しています。ただ、この未来形はキリストが来臨される終末の時だけを指しているのではなく、パウロにおいては、現在すでに始まっており、将来に向かって進展し、終末において完成するという過程全体を指す未来形です。これは「救われる」が未来形で語られる(たとえば五・一〇)のと同じです。パウロにおいては、《エン・クリストー》(キリストにある、キリストと結ばれている、キリストに合わせられている)という現実は、「今すでに」と「やがて将来に」という緊張をはらむ現実です。

キリストと共に十字架につけられた

 パウロはこれまでに強調してきた「キリストの死の中へバプテスマされた」とか、「キリストの死に合わせられた」、「キリストと共に葬られた」、「キリストの死の形に合わせられた」という事実を別の表現で繰り返します(六節)。
 
 「わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられたことを、わたしたちは知っています」(六節前半)。
 
 ここで「古い人」という表現が出てきます。この表現が出てくるのは、パウロ七書簡ではここだけです(後でコロサイ三・九、エフェソ四・二二で用いられるようになります)。「古い人」というのは、わたしたちの中の一つの側面ではなく、古いアイオーンに属する人間、アダムが代表する生まれながらの人間の全体を指します。「わたしたちの古い人はキリストと共に十字架につけられた」というのは、わたしたちの人間性の中のある一面(たとえば嫉妬深いとか短気であるとか欲深いなどなど)が否定され、なくなったというのではなく、今までの生まれながらの人間存在全体が否定され、十字架につけられたのです。パウロは以前すでにガラテヤ書(五・二四)で、「キリスト・イエスに属する者たちは、欲情や欲望と一緒に、肉《サルクス》を十字架につけたのである」(私訳)と言っています。そうすると、パウロがここだけで用いている「古い人」というのは、パウロ特有の用語である「肉」《サルクス》とほぼ同じ意味で用いていることがわかります。それは、古いアイオーンに属する人間、アダムが代表する生まれながらの人間の人間性全体を指しています。この「古い人」が死ななければ、「新しい人」、すなわち新しいアイオーンに属する人間が、新しい質の命《ゾーエー》に生きることは始まらないのです。
 
 このように「わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」のは何のためか、その目標が示されます。「それは、罪のからだが滅ぼされて、わたしたちがもう奴隷として罪に仕えることがないようになるためです」(六節後半)。ここに「罪のからだ」という注目すべき表現が出てきます。パウロにおいては、「からだ」《ソーマ》は精神に対立する身体ではありません。ギリシア人は精神(魂)と身体(肉体)を対立する別の存在と見て、精神が自分を閉じ込めている低い欲望の塊である身体から解放されることを救済とする傾向がありました。ヘブライの伝統にあるパウロにとっては、身体から離れた精神(魂)はありえません。「からだ《ソーマ》」というのは、身体と精神を備えた人間の全体、具体的な相で見られた人間の全体を指します。「罪のからだ」とは、罪の支配下にある人間の具体的な姿です。この罪に支配された人間の姿は、後で「死ぬべきからだ」(六・一二)とか「死のからだ」(七・二四)と呼ばれることになります。
 
 わたしたち生まれながらの人間は、罪という主人に支配される奴隷として罪に仕えているのだ、とパウロは見るのです。これは比喩です。奴隷制社会に生きる人たちに身近な奴隷の姿を比喩として用いて、罪の支配下にある人間の姿を描くのです。これが比喩であることは、後でパウロ自身が断っています(六・一九) 。ローマ社会の奴隷は主人の温情によって解放されることがありましたが、罪という主人は決して自分の奴隷を解放しようとはしません。このような主人から解放されるのは、奴隷が死亡したときだけです。死亡した奴隷は、もはや主人に仕える責任はありません。そのように、わたしたちが罪の支配から解放されるためには、キリストの死に合わせられてわたしたちが死ぬ他には道がないのです。

 

 ローマの奴隷制については、『天旅』二〇〇一年5号の23頁以下を参照してください。  

 パウロは、死んだ者は罪の支配から解放されるという事実を、もう一つ別の比喩で説明します。それは法廷の比喩です。法廷の「無罪放免」という比喩を用いて、パウロはこう言います。「 死んだ者は罪から放免されているからです」(七節)。 「放免されている」と訳した動詞は、これまで「義とされている」と訳してきたのと同じ動詞ですが、ここでは法廷用語として「無罪を宣告して放免する」という意味で用いられています。七節も《ガル》という理由を示す小辞で始まっていますが、死者は罪責から放免されているという法廷の原則を用いて、六節の理解を根拠づけるのです。どのような犯罪者も、死んでしまえばもはや法律によって責任を追及されることはありません。そのように、「罪のからだ」としての人間も、その「罪のからだ」がキリストに合わせられて死んでしまえば、もはや法律によって責任を追及され、拘束され続けることはないのです。
 
 この奴隷の比喩と法廷の比喩は、後で「わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです」(六・一九)と断って、改めて取り上げられます。キリストに合わせられた者は、キリストの死に合わせられたのであり、罪に死んでいるのだという霊の現実を何とかして理解させたいと、パウロは実際の生活の中の身近な体験を比喩として用いて語るのです。そこでは奴隷の比喩(六・一五〜二三)と結婚の比喩(七・一〜六)が詳しく展開されます。後者(結婚の比喩)は、ここでごく簡単に触れた法廷の比喩を、結婚関係を実例として用いて詳しく展開し、死んだ者は法の責任追及と拘束を受けないことを説明しようとしています。イエスは「神の国」をパレスチナの農民の生活の中からの比喩を用いて語られましたが、パウロは「キリストにある」という霊的現実を、ローマ社会の都市生活の中からの比喩で語るのです。

キリストと共に生きる

 ここまで(三〜七節)わたしたちはキリストと共に死んだ者であることが、「死の中にバプテスマされた」、「共に十字架につけられた」、「共に葬られた」、「死の形に合わせられた」というような様々な表現によって畳みかけるように語られてきました。たしかに、同時にその中で、キリストと共に死んだのはわたしたちが「命の新しい次元に歩むため」、「復活の形に合わせられるため」であるという目的も指し示されていました。しかし、全体としては、「罪に死んだわたしたちが、どうしてなお罪の中に生きることができるでしょうか」(二節)という議論を根拠づけるために、「罪に死んだ」という事実を述べることに重点がありました。
 
 ここでパウロは視線を「キリストと共に生きる」ことに向けます。「 もしキリストと共に死んだのであれば、キリストと共に生きるようになることをわたしたちは信じています」(八節)。「キリストと共に死んだ」という事実を見つめて確認した後、そこから始まる「キリストと共に生きる」という生の現実に目を向けます。それは、これから始まり、将来に向かって進み、終末において完成される新しい生です。八節においても(四節と五節と同じく)、「キリストと共に死んだ」は過去形であり、「キリストと共に生きるようになる」は未来形です。
 
 ここで「キリストと共に生きるようになること」について、パウロは「(そのことを)わたしたちは信じています」と言っています。ここで「信じる」という動詞が用いられていますが、これは「信仰」とか「信じる」という用語がいっさい出てこない第二部での唯一の例外です。第一部では、イエスを復活者キリストと信じて告白することが「信仰」と呼ばれて、義とされるための唯一の道として繰り返し出てきました。ところが、第二部ではキリストを信じている者は「キリストにある」者として語られて、もはや「信仰」という用語は出てきません。ここの「信じる」も、第一部でのような特定の内容をもつ「信仰」とか「信じる」ではなく、自分の側では理解したり根拠づけたりできない見えない世界を確実な現実として生きる姿勢一般を指しています(ヘブル書一一・一参照)。
 
 なお、ここの「信じています」の内容は「キリストと共に生きるようになること」です。「キリストと共に死んだ」ことは含まれていません。それは事実として前提されています。八節は原文の順序通りに訳すと、「もしわたしたちがキリストと共に死んだのであれば、わたしたちは信じます、キリストと共に生きるようにもなることを」となります。わたしたちがキリストの死に合わせられてキリストと共に死ぬことがなければ、キリストと共に生きることは始まりません。キリストと共に死ぬということが現実に起こってはじめて、キリストと共に生きることが始まるのです。ただ、「キリストと共に生きる」ことはわたしたち人間の側で理解したり根拠づけたりすることができない現実です。それは、神が与えてくださる現実として「信じて」生きていくことになるのです。
 
 そう信じて生きていくことができる根拠は、神がキリストを復活させたという事実です。パウロは「わたしたちは信じています」ということができる根拠を、「わたしたちは知っているからです」という(分詞形の)文で続けます。「キリストは死者の中から復活して、もう死ぬことなく、死はもはやキリストを支配しないことを知っているからです」(九節)。
 
 わたしたちは聖霊が働く場で復活されたキリストに出会ったので(聖霊体験はそれ以下ではありません)、キリストは死者の中から復活されたことを身をもって知っています。そしてキリストの復活は、ラザロの場合のようにこの世の生に生き返っただけで結局は死ぬような出来事ではなく、もう死ぬことはない終末の生に復活されたのです。今なお死はすべての人を支配しています。その中でキリストだけはもはや死に支配されることがない方として生きておられます。復活者キリストだけが、死がもはや支配しない終末の世界を体現しておられるのです。そのようなキリストに出会い、そのようなキリストに合わせられて生きているのですから、すなわちそのような「キリストにあって」生きているのですから、わたしたちは、見えるところではなお罪が支配し死が支配している現実のただ中で、「キリストと共に生きるようになる」ことを信じて歩むことができるのです。

罪に死に神に生きる

 パウロは、福音が宣べ伝えるキリストの死と復活の出来事を、「キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのであり、キリストが生きておられる生は、神に生きておられる」(一〇節)ことと理解しています。これは、「キリストはわたしたちの罪のために死に、三日目に復活された」というエルサレム教団のケリュグマを継承してはいますが、それにパウロ独自の理解が加えられています。むしろ、かなり決定的な変化が起こっていると言うべきかもしれません。パウロが受けて伝えたとするエルサレム教団のケリュグマは、ユダヤ教の贖罪祭儀の伝統の中で、キリストの死を「わたしたちの罪(複数形)のため」の死、すなわち、「わたしたちが律法に違反して犯した諸々の罪を贖うために犠牲の供え物として死なれた死」と理解し宣べ伝えています(コリントT一五・三〜五)。それに対して、パウロは「キリストが死なれた死は、ただ一度罪に死なれたのである」とするのです。この「罪」は単数形です。すなわち、人間を支配する力としての罪です。キリストは罪の力が支配する場で自分が死ぬことによって、自分に合わせられる民が「罪に死ぬ」ことができるように、原型となられたという理解です。キリストは自分に属する民を代表して「罪に死なれた」のです。ここにも「キリストはアダムである」というパウロの「アダム・キリスト論」が見られます。キリストは「終わりのアダム」として、すなわち、終末に現れる人間を代表する存在として、自ら罪が支配する場で死なれ、そのことによってキリストに属する人間が「罪に死ぬ」、すなわち、もはや罪がその支配力を及ぼすことができない場に置かれるようにされたのです。パウロはキリストの十字架の死を、ユダヤ教の贖罪祭儀の視点を超えて、わたしたちの霊的現実の根源をなす同時的な出来事と観ているのです(ガラテヤ二・一九)。
 
 この「罪に死なれた」キリストの死について、「ただ一度」という句が添えられています。この句は、罪を贖う祭儀的犠牲が繰り返し供えられたのと対照して、人間を「罪に死んだ」状態にするための救済者の死は、終わりの時に成就する決定的な出来事であって、それまでになく、またそれ以後に繰り返される必要もない、決定的な一回限りの出来事であることを示しています。この句は後に、贖罪祭儀としての意義を重視する「ヘブライ人への手紙」にも受け継がれて出てきます(ヘブライ九・二六)。
 
 そのキリストが復活されて今も生きておられる生は、「神に生きる」という質の生です。「罪に死ぬ」と「神に生きる」は対句となっています。罪は神に対立する霊的な支配力として現れています。「罪に」と「神に」という(ギリシア語では)三格の形は、「〜に向かって」、「〜に対して」とか「〜との関わりにおいて」という意味で用いられていると理解してよいでしょう。すでに「わたしたちは罪に死んだ」(二節)という形で用いられていました。わたしたちは「罪との関わりにおいては死んだ者となった」のです。それは、キリストが罪との関わりにおいて死なれたからであり、そのキリストの死に合わせられて、わたしたちも罪が支配する場で死んだ者となったのです。そのように、復活されたキリストは「神との関わりに生きておられる」のです。神と関わる場において、神との結びつきの中で生きておられるのです。復活とは、一度死なれたキリストが、永遠の神との関わりの中で、その神の命によって永遠に生きておられる事実を表現する言葉です。
 
 このように「罪に死に、神に生きておられる」キリストの事実を思い起こさせた後、パウロは「そのように、あたがたがたも自分が、キリスト・イエスにあって、罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを認めなさい」(一一節)と続けます。キリストがそうであったように、「同じように」あなたたちも罪には死んだ者であり、神に生きている者であることを「認めなさい」と、パウロは求めます。「認める」という動詞はパウロがよく用いる動詞で(ローマ書だけでも一九回)、本来は「勘定に入れる」(四・三など)とか「考える」(三・二八)などという意味ですが、ここでは「しっかりとその事実を認識して(評価して)、その上に立って歩みなさい」という気持ちで用いていると見られます。
 
 わたしたちが「罪には死んだ者であり、神に生きている者である」のは、わたしたちが「キリスト・イエスにあって」、すなわちキリストに合わせられてはじめて、ありうることです。わたしたちは自分で「罪に死に、神に生きる」ことはできません。キリストの死に合わせられて死に、その結果、キリストの復活に合わせられて、復活のキリストの命に生きるようになってはじめて、「神に生きる」ことができるようになるのです。
 
 したがって、(原文で)最後に置かれている「キリスト・イエスにあって」という句は、「罪には死んだ者であり、神に生きている者である」という全体にかかるものと理解すべきです。ところが、ほとんどの邦訳(協会訳、新改訳、新共同訳、岩波版青野訳)では、この句を直前の「神に生きている」だけにかけて、「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(新共同訳)というように訳しています。これは邦訳にしばしば見られる傾向ですが、修飾する語句を直前の句だけにかけて、先行する表現全体を修飾していることを見落とす誤りの一例です。この訳では、「罪に死ぬ」ことは「キリスト・イエスにあって」起こることではなく、自分で「罪に死ぬ」ことになります。自分で罪に死んだ上で、「キリスト・イエスにあって神に生きる」ことが始まります。ところが、パウロはこの段落で、わたしたち「キリストに合わせられた者」は「キリストの死に合わせられた」のであり、そのことによって「罪に死ぬ」ことになったのであることを強調しています。すなわち、わたしたちは「キリストにあって、罪に死んだ」のです。もし自分で「罪に死ぬ」ことができるのであれば、キリストの十字架の死は要らないものになります。キリストは、エノクのように地上の生から死を経ないで復活の生に入られても、救済者でありえたことになります。

義のための武具

 ここまでに述べてきたことを「そこで」または「それゆえに」という一語で受けて、そのように「キリストにあって、あなたたちは罪に死に神に生きている」のであるから、このように歩みなさいと実際の生き方を勧告します(一二〜一四節)。これは、一節の「恵みが増し加わるために、わたしたちは罪にとどまっていてもよい」ということになるではないか、という批判に対する反論を具体的な形で締め括ることになります。

 まず、「それゆえに、罪があなたがたの死ぬべきからだを支配して、その結果、からだの欲求にあなたがたが従うということにならないようにしなさい」(一二節)という勧告がきます。先に「罪のからだ」(六節)と言われていた「古い人」の在り方が、ここでは「死ぬべきからだ」、「死に定められたからだ」という表現で語られています。この場合の「からだ」は、六節の「罪のからだ」のところで述べたように、精神に対立する肉体ではなく、からだを備えた具体的な人間全体の在り方を指しており、その在り方が「罪に支配されている」とか「死に定められている」と規定されているのです。
 
 ここでも単数形の「罪」が人間を支配する力として登場します。罪がわたしたちの死ぬべきからだを支配するとき、わたしたちは「からだの欲求に従って」生きることになり、罪の奴隷としての生き方に陥ります。罪の支配に身を委ねないために、「からだの欲求に従わない」ように勧告するのです。罪はわたしたちの「からだの欲求」を手がかりにして支配するのですから。
 
 ここで「からだの欲求」というのは、食欲とか性欲というような身体が本来持っている生理的欲求が問題となっているのではありません。もしそうであるならば、この勧告は禁欲主義の勧告となります。このような生理的欲求をゼロにすることはできません。それなくしては、人間は人間として存続できないのです。人間がもつ本来の生理的欲求を可能な限り抑えつけても、それで罪の支配を脱することはできません。ここで「からだの欲求」というのは、「罪のからだ」、「死すべきからだ」の存在としての人間が本性的にもっている欲求、すなわち支配欲に他なりません。人間は支配欲の塊です。物に対する支配欲は所有欲となり、人に対する支配欲は権力欲となって現れます。人間が次から次へと際限なく物を欲しがるのは、すこしでも多くの物資を支配して自分の自由にしたいからです。人間が本性的に権力を欲するのは、すこしでも多くの人を支配する立場になって、自分の思うとおりにしたいからです。この際限のない支配欲が、人と人との愛の関係を破壊し、罪が人間を支配する場を形成しているのです。
 
 パウロは、このような「からだの欲求に従うことがないように」という勧告を、「肢体」という言葉を用いて、さらに具体的に表現します。「あなたがたの肢体を不義のための武具として罪に委ねてはなりません」(一三節前半)。「肢体」というのは手や足、目や耳というような身体の各部分のことです。わたしたちはこのような肢体を用いて行動します。このような人間としての行動をする道具としての肢体を「不義のための武具」として、罪という支配力に委ねて、罪という主人が使用するままにさせてはいけない、というのです。
 
 「武具」と訳した原語は「道具」という意味にも用いられるギリシア語です。パウロはキリスト者の生を闘いと見て、この語を「武具」の意味で用いることが多いので(コリントU六・七、、一〇・四、 ロマ一三・一二)、ここでも「武具」という語で訳しておきます。手や足、目や耳などの「肢体」を用いて具体的な行動をするとき、その肢体を「不義のための武具」、すなわち不義を行うための道具として、罪に用いさせてはならないのです。ここで「不義」というのは、さき(前号33頁下段の注記)に述べた「義」の反対、すなわち神が人間に求めておられる在り方とか行為に反することです。神が人間にこのような肢体をお与えになったのは、「罪」がそれを道具として用いて、人間に不義を行わせるためではなく、「義のための武具(道具)」として、神の御心を行わせためであるのです。それで、パウロは続けてこう言うのです。「むしろ、死者の中から生き返った者として自分自身を神に委ね、あなたがたの肢体を義のための武具として神に委ねなさい」(一三節後半)。
 
 ここで、キリストにある者はキリストの死に合わせられて死に、キリストの復活の形に合わせられて「命の新しい次元に歩むようになる」のだという、この段落(とくに三〜五節)で述べてきた霊の現実が実践的な形で現れてきます。わたしたちの「古い人」は死んだのです。そして、キリストの復活の命によって歩む新しい人として生き返ったのです。このように「死者の中から生き返った者」として、自分自身を神に委ね、その具体的な表現として、自分が行動するときの道具である「肢体」を、神が用いることができるように神に委ねるように求められるのです。それが実際にどのような形をとるのかは、第四部(一二章以下)で具体的に語られることになりますが、ここでは恩恵の下にある者は恩恵の現実を自分の肢体で現していく責任があるという原理を述べるにとどめます。
 
 ここで「神」は「罪」と対立する「義」の源泉として見られており、自分の肢体を「義のための武具」として献げるべき対象として現れています。パウロにおいては、「罪」は究極では神と対立する支配力として、人間を支配することを神と争う力なのです。

恩恵の下にいるので

 そして最後に、このような勧告が可能になる根拠として「恩恵の支配」にもう一度目を向けさせます。

 「それは、あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはないからです」(一四節)。

 一四節は理由を示す小辞《ガル》で始まっており、一二〜一三節の勧告がなされる根拠を示しいます。その根拠は「あなたがたは律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪があなたがたを支配することはない」という事実です。ここに再び、パウロ独自の律法観が現れています。すなわち、もしわたしたちが「律法の下にいる」ならば、罪の支配から逃れることはできないという見方です。律法にはわたしたちを罪の支配から解放する力はないのです。わたしたちは「恩恵の下にいる」ことによって初めて「罪の支配」から脱することができるのです。ここで明確に「律法の下にある」場と、「恩恵の下にある」場が対立するものとして対照されています。
 
 ユダヤ教の原理は「律法の支配」です。ユダヤ教にも罪の赦しはあり(この場合の罪は律法に違反する諸々の行為という複数形の罪です)、神の慈愛とか恵みが説かれています。しかし、ユダヤ教の基本原理は「律法の支配」です。すなわち、律法を順守する者が義であり、神の民としての資格を持つのです。ユダヤ教徒であることは、ラビの表現によれば、「律法の軛を負う」ことです。ダマスコ体験までのパウロは、「同胞(ユダヤ人)の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとして」、「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心でした」(ガラテヤ一・一四)。律法学者たちが口伝で伝える「先祖からの伝承」も、モーセ五書という成文律法と同じ神の律法として扱われていました。パウロはこの「律法」を守ることに誰よりも熱心でした。それが義に至る道であり、「ユダヤ教に徹する」ことだったのです。ところが、ダマスコ途上で復活のイエスに遭遇し、神はまったく別の義の道を立てておられることを体験するのです。義の道としての律法は終わったのです。キリストは「律法の終わり」となられたのです(一〇・四)。
 
 ダマスコ体験以後のパウロは、このキリストにおいて与えられる恩恵に生きる者となり、キリストにおける恩恵を告知する使徒となります。「恵みの下にいる」という場では、「もはや罪が支配することはない」という事実を体験します。それは、個々の律法違反行為の責任を問われないという「罪の赦し」ではありません。「罪に死んだ」結果、罪の支配から解放されているという事実の体験であり、その認識です。個々の罪の行為が赦されても、罪の支配の下にあるかぎり、罪に生きるという事実は変わりません。その結果は死です(六・二三)。それに対して、キリストにある者はキリストの死に合わせられて罪に死んだので、「もはや罪が支配することはない」のです。その結果、まったく新しい別の力が支配する場で生きることができるようになるのです。その消息は八章で詳しく展開されることになりますが、ここでは「自分の肢体を義のための武具として神に委ねなさい」という勧告の根拠として触れるにとどまっています。
 
 一四節の原文には「もはや」という副詞はありませんが、動詞が「(これからは)支配することはないであろう」という未来形であるので、「律法の下にあった」これまでの場と、「恵みの下にある」これからの場(現在すでに始まり、これから生きることになる場)の対比をはっきりさせるために補って訳しています。「キリストにある」という場は、第二部の導入部ともいうべき先の段落(五・一二〜二一)で明らかにされたように、恩恵が支配する場なのです。

パウロのキリスト体験の核心

 このように、この段落(六・一〜一四)は、「恩恵の支配」の宣教に対する批判に応えるという形を取っていますが、その中にパウロの福音の核心、すなわちパウロのキリスト体験の核心が語られています。その核心とは、十字架されたキリストと共に死に、復活されたキリストの命に生きることです。この「キリストにあって」、すなわちキリストに合わせられることによって、古い自分に死に、新しい命の次元に生きることこそ「救い」の中身です。
 
 この「救い」の体験は第二部全体で詳しく展開されるのですが、その核心部分というべきものが、ここに語られているのです。ただ、ここでは「恩恵の支配」への批判に答えるために、「罪に死んだ者は罪にとどまることはできない」と主張することに重点が置かれているので、六章では「罪に死ぬ」とか「罪から解放されている」ことを述べることが多くなっています。そして、自分に死ぬことは律法から解放されることを意味すると、「律法からの解放」が七章で語られ、最後に八章で罪と律法から解放された結果、命の御霊によって「命の新しい次元」に生きる現実が語られることになるのです。このような構成をとる第二部の中で、この段落に現れる「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」というキリストにある者の姿は、第二部の主題を示しており、パウロが体験し告知する「キリストの福音」の核心を指し示しています。
 
 ところで、ここに語られている「キリストの死に合わせられ、キリストの復活の命に生きる」という福音の核心は、第一部で告知された「信仰による義」とどのような関係にあるのでしょうか。神学の世界ではよく「義認と聖化」ということが言われます。信仰によって義とされるのは法廷的な無罪宣告であって、行いなくして信仰によって義(無罪)と認められた者は、それから聖霊の働きによって実際に神の御心を行う者(聖なる者)となるように召されているのである、という考え方です。ここでは福音が法的な義認と霊的な聖化という二段構えで理解されています。わたしは、パウロの福音にはこのような二段構えはないと考えます。
 
 パウロは少し先にコリント集会の人たちに向かってこう言っています、「あなたたちは、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の御霊によって、洗われ、聖とされ、義とされたのです」(コリントT六・一一後半私訳)。この文の直前で、パウロはコリント集会の人たちが信仰に入るまでは異教徒として「みだらな者、偶像礼拝をする者、強欲な者・・・・・であった」として、「しかしあなたたちは洗われた、しかしあなたたちは聖とされた(清められた)、しかしあなたたちは義とされた」と、「しかし」と三つの過去形の動詞を繰り返して畳みかけるように信仰に入ったゆえに起こった変化を描き、最後に「主イエス・キリストの名によって、そしてわたしたちの神の御霊によって」と、その変化が起こった根拠を述べるのです。パウロは三つの動詞を用いていますが、それは信仰によって、すなわちキリストにあって、神の御霊の働きによって起こった変化という一つの事態を違った用語で表現しているのです。「洗われた」という表現にはバプテスマが背景にあるのかもしれません。「洗われた」、「聖とされた」、「義とされた」というのは、順次に起こったことではなく、同じ一つの現実を指しているのです。それはすべて「主イエス・キリストの名において」、すなわち「キリストにある」という場における「神の御霊の働き」によるのです。こうしてキリストを信じたときに起こった変化は、「キリストにある」という場で最後の完成を目指して続きます。この過程が「救い」であることは、これまで繰り返して述べてきた通りです。
 
 この段落で見てきたように、パウロにおいては、神の御心にかなう在り方とか歩みである「義」は、恩恵の場で実現するのです。すなわち、「キリストにあって」、キリストの死に合わせられて死ぬ場に働く命の御霊によって義は実現するのです。ただ第一部では、その「義」が実現される場に入っていくための道が、「律法の行い」によるのではなく、律法とは無関係に「キリスト信仰による」のであることが論争的に主張されたのです。そしてこの第二部において、義の実現が直接取り上げられて論じられるのです。こうして、第一部と第二部は、「義認と聖化」というように神の救いの働きが二段構えで語られているのではなく、罪の支配下にある人間を救う神の働き(神の義)という一つの現実が、そこに入る入り口とその本体の描写という二つの違った視点で語られているのです。



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