パウロによるキリストの福音 III

 第九章 二つの解放のたとえ

   ― ローマ書翻訳と講解 9 ―


はじめに

 前段(六・一〜一四)で、キリストにある者、キリストに合わせられた者は、キリストの死に合わせられ復活の命に生きる者であること、罪に死に神に生きる者であるという福音の核心を示したパウロは、その罪の支配からの解放を、読者に身近な奴隷の身分を比喩として、分かりやすく再説します(六・一五〜二三)。そして、奴隷の比喩からすぐに、もう一つの身近な社会生活である結婚を比喩として用いて、罪の支配からの解放と一体である律法からの解放を説きます(七・一〜六)。イエスはガリラヤの農民たちの身近な日常体験を比喩として用いて「神の国」の福音を語られましたが、パウロはヘレニズム世界の都市生活の日常体験を比喩として用いて、福音の救済体験を語るのです。

 第二部の構成としては、まず救済の土台として救済史の基本的な枠組みであるアダムとキリストの対比を示し(五・一二〜二一)、その後六章で罪の支配からの解放、七章で律法の支配からの解放、八章で御霊の命によって生きる現実を語っていると見るとすっきりしますが、罪と律法という二つの支配からの解放(実は一つですが)を説明する比喩が続いているので、今回は誌面の都合で、この二つの解放の比喩を主題として一回にまとめて扱います。

 

 ローマ社会の奴隷制の実際、とくに奴隷からの「解放」については、『天旅』二〇〇一年5号23頁以下の「ローマの奴隷制」の項を参照してください。  

  14 義の奴隷 (6章15〜23節)

 15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいのでしょうか。決してそうではない。16 あなたがたは知らないのですか。あなたがたは、だれかに従うために自分を奴隷として委ねるならば、あなたがたが従っている人の奴隷なのであって、罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかなのです。17 しかし、神に感謝します。あなたがたはかっては罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い、18 罪から解放され、義に仕える奴隷になりました。
 19 わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです。あなたがたの肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていたように、今はあなたがたの肢体を奴隷として義に委ね、清くなりなさい。20 あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした。21 その時、あなたがたはどのような実を得ましたか。今では恥じるようなものではありませんか。そのようなものの終局は死です。22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕える者となり、あなたがたの実を清くしています。その終局は永遠のいのちです。23 罪の報酬は死です。それに対して、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにあって賜る永遠のいのちなのです。

恵みの下にいるのだから

 キリストにある場では恩恵が支配するという福音の告知(五・二一)に対して、批判者たちは「恵みが増し加わるために罪にとどまっていよう、ということになるではないか」と非難しました。この非難に対してパウロは、キリストにある者は罪に死んだ者であり、罪にとどまることはできないことを論証しました(六・一〜一四)。その中で、「キリストにある」とは、キリストの死に合わせられ、キリストの復活のいのちに生きることであるという、福音の救済体験の核心を語ることになりました。そして、その結論の部分で、もはや罪に支配されることがないのは、キリストにある者は「律法の下ではなく恵みの下にいる」からだと宣言しました(六・一四)。
 
 ここで「律法の下にいる」と「恵みの下にいる」という二つの場が改めて対比され、その違いが問題にされます。前回(一節)の「罪にとどまる」ではなく、今回は「罪を犯す」という表現で、問題が律法に関連づけられて先鋭化されています。パウロは「律法の下ではなく恵みの下にいるので、もはや罪が支配することはない」と言います(一四節)。それに対して反対者は、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだから罪を犯してよい(律法の規定に違反してもよい)、ということになるではないか」と言います(一五節)。パウロと反対者(ユダヤ教徒およびユダヤ教律法の順守を要求するキリスト教指導者)の間には、律法と恩恵についての理解が根本的に違っているので、「律法の下ではなく恵みの下にいる」ことの結果が正反対になるのです。パウロは反対者の議論を取り上げて、「けっしてそうではない」と明確に否定します(一五節)。しかし、その否定を神学的な議論で根拠づけるのではなく、比喩を用いて説明するのです。

奴隷の比喩

 パウロは「あなたがたは知らないのですか」と反問して、当時では誰もが身近に知っている奴隷の立場を比喩として取り上げます(一六節)。実際、初期の信徒には奴隷の身分の者が多かったのです(一六章の注を参照)。誰もがよく知っているように、「だれかに従うために自分を奴隷として委ねるならば、あなたがたが従っている人の奴隷なのであって」、他の人に従うことはできないのです。二人の主人のどちらにも奴隷として仕える(兼ね仕える)とか、中間にいることはできないのです。この奴隷の立場を比喩として用いて、「あなたがたは、罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか、どちらかなのです」と結論します。
 
 ここで「罪の奴隷」と「従順の奴隷」が対比されています。罪は人間を支配する力ですから、罪という主人に仕える「罪の奴隷」という表現は理解できます。しかし、「従順」は従うさいの人の姿勢ですから、従順という主人に仕える奴隷という意味では「従順の奴隷」という表現は理解しにくいものになります。事実、パウロはすぐ後で「罪の奴隷」の反対を「義に仕える奴隷」と表現しています。「罪の奴隷」に対立するのは「義の奴隷」であるはずです。しかし、パウロにおいては神への不従順が罪であり、神への従順が義ですから(五・一九)、パウロは「義の奴隷」と言うところを、「従順の奴隷」と置き換えることができるのです。
 
 この場合の「従順」とか「不従順」は、律法の規定を順守するか否かという「服従」の問題ではなく、神との関わりにおける人間の在り方そのものの問題です。自分を無にして神に聴き従う「従順」が義です。イエスはこの意味で義を全うされた方です。この「従順」は「信仰」と同じです。それで「信仰の従順」という表現も出てきます(一・五)。わたしたちがこの従順の姿勢で神に仕える姿が「従順の奴隷」と表現されるのです。

 

 義と従順の関係、また「従順」と「服従」の違いについては、フィリピ書二章一二〜一八節の講解(『天旅』二〇〇一年3号24頁以下)を参照してください。  

 しかも、「罪の奴隷として死に至るか、従順の奴隷として義に至るか」という対比において、罪という主人に奴隷として仕えた結果の死に対して、「従順の奴隷」として仕えた結果が義であるとされ、死と義が対比されています。ここでは「義」は死の反対、すなわち神との交わりにおける命を意味しています。この段落では、「義」は主人として仕える対象として現れたり、また仕えた結果として到達する目標として用いられたりしています。「義に仕える奴隷」は「神に仕える奴隷」(二二節を参照)と同じです。ユダヤ人パウロにとって、「義」は神との関わりの一切を指す用語なのです。

 

 「義」という名詞の用例については、『天旅』二〇〇二年6号33頁下段の注を参照。  

古い主人から新しい主人へ

 こうして、奴隷の身分を比喩として、人間は罪の奴隷であるか従順の奴隷であるかどちらかであること、中間の立場はないことを示した後、キリストにある者は罪という主人から解放されて、新しい主人である義に仕える者になったことを確認します。

 「しかし、神に感謝します。あなたがたはかっては罪の奴隷でしたが、あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い、罪から解放され、義に仕える奴隷になりました」(一七〜一八節)。
 
 この文で問題になるのは、「あなたがたが引き渡された教えの型に心から従い」という句の内容です。このことによってローマの信徒たちは罪の奴隷から解放され、義に仕える奴隷に変わったのです。

 

 「教えの型」という句はパウロには珍しい表現で、それが何を意味するのか、多くの議論がなされてきました。ここに用いられている《テュポス》というギリシャ語は、パウロにおいては普通「予型」とか「前例」という意味で用いられているギリシア語です(ロマ五・一四、コリントT一〇・六)。しかし、ここではそのような意味ではなく、伝統的に形成された教えの「形態」とか「内容」という、語の古典的な意味で用いられていると考えられます。そうであれば、コリントT一五・三〜五やローマ一・二〜四のように定型化された「福音」を指すと見てよいでしょう。日本語訳は「教えの基準」(協会訳)、「教えの規範」(新共同訳)、「教えの型」(岩波版)などと訳しています。また、ここに用いられている「引き渡された」という受動態の動詞は、「伝えられた」伝承という使用例が多いので、邦訳では「(あなたがたに)伝えられた教えの型」と訳されています(協会訳、新共同訳、岩波版青野訳)。しかし、原文の「引き渡された」という動詞の主語が二人称複数形であるので、この訳は無理です。原文の動詞はあくまで「あなたがたが(それに)引き渡された(または委ねられた)」という意味です(RSVなど多くの英訳と現代語訳は正確にそう訳し、ケーゼマン、ヴィルケンス、シュトゥールマッハーのNTDもそう理解しています)。おそらく、パウロは伝統的な「教えの型」という表現を用いながら、その内実であるキリストを念頭において、「あなたがたが(バプテスマにおいて)引き渡された主であるキリスト」を意味している、と理解してよいと考えられます。  

 ここで「教えの型」というのは定型化された「福音」の内容を指し、パウロはその本体であるキリストを念頭に置いて、「あなたがたが(バプテスマにおいて)引き渡された主であるキリスト」に心から従った結果、罪という主人から解放されて義という新しい主人に仕える奴隷になった、と言っているのです。このことが起こったのは、神の恩恵の働きによるのですから、パウロは「神に感謝します」と叫びます。人間は自分の力で主人を変えることはできないのです。
 
 奴隷は二人の主人に同時に仕えることはできません。キリストに属する者は、罪という主人から解放されて義という新しい主人に仕える者になったのですから、もはや罪に仕えることはできないのです。今は義に仕える奴隷として、自分を新しい主人である義に献げるだけです。

比喩を用いる理由と比喩による勧告

 ところで、「義に仕える奴隷」という表現は矛盾を含んでいます。奴隷は仕えることを強制される身分です。しかし、新しい主人である義はけっして仕えることを強制しません。義に仕えるのは、あくまで自発的な願いからすることです。キリストにある者は、そうしないではおれないから義に仕えるのです。パウロは、キリストにある者はもはや罪にとどまることはできないということを説明するために奴隷の身分を比喩として用いましたが、この比喩は「キリストにある」場においては、矛盾を含む比喩になります。そこで、パウロは比喩を用いることについて一種の弁明を入れます。
 
 「わたしは、あなたがたの肉の弱さのゆえに、人間的な表現で語っているのです」(一九節前半)。
 
 パウロはこの段落(六・一五〜二三)で「奴隷」とか「(奴隷として)仕える」という用語を繰り返し用いてキリストにある者の姿を描いていますが、神と人との関係は決して主人と奴隷の関係ではありません。すなわち、力による強制ではなく、愛による自発的な交わりです。ただ、「あなたがたの肉の弱さのゆえに」、すなわち生まれながらの人間性によって理解し判断する習慣が長く続いたので、人間は霊の現実を見る能力が衰えています。それで、罪に死んでキリストに生きるという霊の現実を語るのに、やむなく奴隷という社会制度における人間生活の現実を比喩として用いざるをえないのだと断っているのです。こう断った上で、奴隷の比喩を続けます。
 
 「あなたがたの肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていたように、今はあなたがたの肢体を奴隷として義に委ね、清くなりなさい」(一九節後半)。
 
 ここで、以前の「アダムにある」生き方と、現在の「キリストにある」生き方が対比されて、勧告が行われます。福音を信受してキリストに結ばれるようになるまでは、「アダムにあって」、すなわち生まれながらの人間本性に従って生きることで、自分の「肢体を奴隷として汚れと不法に委ね、不法の中に陥っていた」のです。この「汚れ」とか「不法」《アノミア》という表現には、律法を持たない異教徒の放縦な生活に対するユダヤ人の嫌悪が感じられます(一・一八〜三二参照)。パウロは律法を誇るユダヤ人も同じであることを強調していますが(二・一〜二九)、ここでは両者をまとめて「汚れと不法」という表現でくくっています。

 

 「肢体」については、六章一三節の講解(前号45頁)を参照。  

 それが現実であったように、キリストにある今は、実際に自分の「肢体を奴隷として義に委ね、清くなる」必要があります。ここでも「清くなる(聖となる)」というユダヤ教の理念が掲げられています。神は聖なる方(清い方)であるから、神に仕えるには「聖なる者」(清い者)でなければならない(レビ記一一・四五)、というユダヤ教の公理が貫かれています。しかし、その「清さ」はもはや律法を厳格に順守するという意味ではなく、キリストにあっては、神の本性あるいは栄光にあずかるという意味になっていると理解しなければなりません。これは、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(コリントU三・一八)というときの、「主と同じ姿に」なることを意味しています。そのために、自分の肢体を義という主人に献げなければならないのです。

結果の比較

 最後に、罪の奴隷と義の奴隷がそれぞれの主人に仕える生涯を送った結果を比較して、義に仕える生涯を送るように勧告します。
 
 「あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした。その時、あなたがたはどのような実を得ましたか。今では恥じるようなものではありませんか。そのようなものの終局は死です。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕える者となり、あなたがたの実を清くしています。その終局は永遠のいのちです」(二〇〜二二節)。
 
 あのアイオーンの更新を告知する「しかし今や」という句(三・二一、コリントI一五・二〇)で、キリストに来る前の時期とキリストにある今が対照されます。キリストに来ることは、個人の生涯において「アイオーンの更新」、生の質における決定的な革新なのです。それまでの時期とそれ以後の時期は、対照的な質をもち、反対の価値判断が行われます。それまでの時期に懸命に追い求めていた価値は、キリストにある「今では恥じるようなもの」になるのです(フィリピ三・七参照)。
 
 「あなたがたが罪の奴隷であったとき、あなたがたは義には責務のない者でした」とパウロは言います。ここで「責務のない」と訳した語は、奴隷が主人から解放されて、もはや主人に拘束されていない自由な状態を指す語です。ここでは「義」という主人に仕える必要のない立場を表現しています。義とは無縁な姿です。その時に得た「実」、すなわち罪の奴隷として生きていた時期に獲得した成果は、人の目には立派な成果であっても、今キリストにあって生きている御霊の命の質(それは人生において信仰と愛と希望という姿で現れます)から見れば、永遠の質を持たない空しいものであり、それを得たことを誇りとしていた自分が恥ずかしくなります。それがどのように価値あるものに見えても、それが神の霊の質をもたない限り、「終局」《テロス》においては神との関わりのないものと判断されて、神との交わりから断たれます。それが「死」です。

 

 二一節の「実」は単数形ですが、それを指す「恥じるようなもの」と「それらのもの」は複数形です。「実」は集合名詞として、人生の様々な行為とか成果を指していると理解できます。ガラテヤ章二二節の「御霊の実」も単数形ですが、その内容は複数の名詞で挙げられています。  

 「しかしキリストにある今は」、罪から解放されて「神に仕える者」となりました。「仕える」という動詞は、ここでも「奴隷として仕える」という語が用いられており、奴隷の比喩が貫かれています。キリストにある者は「神に仕える奴隷」なのです。ここでは仕える主人として、罪と神が対照されています。この段落では、「罪の奴隷」に対照されるのは、「従順の奴隷」、「義の奴隷」、「神の奴隷」です。「罪の奴隷」はともかく、「神の奴隷」という比喩は、先にパウロ自身が断っていたように(一九節前半)、本来成り立ちません。神は人間を強制する方ではないからです。それにもかかわらず、「神の奴隷」というような表現が出てくるのは、パウロにおいて救済が罪と死の支配からの解放と理解されているので、それを分かりやすく語るための比喩として、奴隷の解放というローマ社会での身近な体験が有効であるからだと考えられます。奴隷が解放されることによって起こる身分と生活の劇的な変化が、「キリストにある」ことによって起こる劇的な変化の比喩としてふさわしいからです。解放された結果、もはや元の主人に拘束されない自由の身であることが強調される場合もありますが(ガラテヤ五・一以下)、ここでは新しい主人に仕える立場を強調して、「(奴隷として)仕える」という奴隷の比喩が続くと考えられます。
 
 「神に仕える」ことにより、「あなたがたの実を清くしている」と言われます。ここを直訳すれば、「あなたがたの実を清さに向かって結んでいる」となります。「清さ」とは、先に述べたように、神の本性あるいは栄光にあずかることですから、この文は人生の成果が「主の栄光を反映する」ものとなることを指しています。そして、「その終局《テロス》は永遠のいのちです」。

「終局」の対照

 「罪の報酬は死です。それに対して、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにあって賜る永遠のいのちなのです」(二三節)。

 このように、罪の奴隷として生きる生涯と神に仕える生涯の結果を比較した箇所で、パウロは「終局」《テロス》という語を繰り返し用いて、その二つの生き方の最終的な局面を描いていました。熱烈なファリサイ派ユダヤ教徒であるパウロは、人生をいつも神の最終審判の視点から見ないではおれません。ファリサイ派ユダヤ教の基本的な問いは、「永遠の命を受け継ぐためには何を為すべきか」という問題です(マルコ一〇・一七)。この問いにおける「永遠の命」とは、来るべきアイオーン(世)における命のことです。神の最終審判を経て到来する永遠のアイオーンにおいて、神から与えられる資産として「受け継ぐ」命です。その命を受け継ぐことが、このアイオーンでの生涯、すなわち地上の生涯の目的であり意義であるのです。

 

 七〇年以前のファリサイ派ユダヤ教が終末的・黙示思想的な傾向を強く持っていたことについては、M.Hengel, The Pre-Christian Paul (SCM Press), p.40ff を参照してください。 

 パウロはこの箇所(二〇〜二三節)で「罪の奴隷」と「義の奴隷」という人間の二つの生き方の結果を比較していますが、その結果の比較においても、その結果の最終的な局面を比較しないではおれません。そのさいにもなお奴隷の比喩が貫かれます。罪に仕える生涯の「終局は死」であり、神に仕える生涯の「終局は永遠のいのち」となります。
 
 罪という主人が、生涯仕えてきた自分の奴隷に支払う報酬は「死」です。神の命からの永遠の断絶です。それは罪に仕えた当然の結果です。それに対して神が御自身に仕えた者に与えるものは「報酬」ではなく「賜物」《カリスマ》です。報酬は当然の支払いですが、賜物はそれを受ける資格のない者に恩恵として与えられるよきものです(四・四)。永遠のアイオーンにおける命は恵み深い神の賜物として与えられるのです。生涯神に仕えた報酬ではなく、神が恩恵の神でありたもう故に、御自身に属する者に無条件で与えてくださる賜物です。永遠の命を自分の功績と資格で獲得できる人間はいません。わたしたちは、これだけのことをしましたから報酬として永遠の命をくださいと要求することはできません。為すべき事を為した無益(無資格)の僕に過ぎません(ルカ一七・七〜一〇)。神に仕える生涯の意義は、地上にあってすでに神がこのような絶対恩恵の方であることを知ることにあります。現在「主イエス・キリストにあって」与えられているこの無条件絶対の恩恵に生きることによって、かの「終局」においても同じ恩恵の神が来るべきアイオーンにおける命を与えてくださることを確信して生きることができるのです。パウロはこの「神の賜物」を待ち望むことでできる根拠として、「わたしたちの主イエス・キリストにあって」という現在わたしたちが生きている恩恵の場をあげないではおれないのです。
 
 このようにパウロにおいては、「永遠のいのち」はなお「来るべきアイオーンにおけるいのち」という終末的な意味をもっています。パウロがその七書簡で「永遠の命」という語を用いているのは僅か五回、ガラテヤ書の一回(六・八)とローマ書の四回(二・七、五・二一、六・二二、六・二三)に過ぎません。そして、どの場合も終末的な意味で用いていると見ることができます。これは、ヨハネ福音書が一つの書だけで「永遠のいのち」を一六回も用いて書の主題とし、しかもそれを現在の体験としていることと較べると、パウロとヨハネの違いが際だちます。
 
 しかしパウロは、キリストにある者は聖霊によりすでにこの地上で終末的な質の命に生きていることを繰り返し語っています。たとえば、「キリストの死の中にバプテスマされることによって、わたしたちはキリストと共に葬られたのです。それは、キリストが父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちもまた命《ゾーエー》の新しい次元に歩むようになるためです」(六・四)と言っています。「歩む」とは、現実に生きている姿を指しています。わたしたちは現在この地上で、新しい次元、すなわち終末的な次元の命《ゾーエー》を生きているのです。後にヨハネはこの《ゾーエー》を「永遠の命」と呼んで、彼の福音書の主題にしたのです。ヨハネはもはや二つのアイオーンという黙示思想的な枠組みを用いないで、すべてを現在の霊的現実として見たのですが、パウロではまだ「永遠の命」という表現は「来るべきアイオーンにおける命」という終末的意味を保持しているのです。しかし、いのち《ゾーエー》を現在の霊的現実として最初に、そしてその質を詳しく語ったのはパウロです。わたしたちはヨハネのいう「永遠の命」をパウロの《ゾーエー》論から理解しなければなりません。
 
 

 

  15 律法からの解放  ( 7章1〜6 節)

 1 それとも、兄弟たちよ、あなたがたは知らないのですか。わたしは律法を知っている人たちに話しているのですが、律法とは、人が生きている間だけ支配するものではありませんか。 2 結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結びつけられていますが、夫が死ねば、夫の律法から解放されているのです。 3 それで、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば、姦通の女として扱われますが、夫が死んでいるのであれば、律法から解放されているので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。  
 4 わたしの兄弟たちよ、このようにあなたがたもキリストのからだを通して律法に死んだのです。それは、あなたがたが他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになるためです。 5 わたしたちが肉のうちにあったときには、もろもろの罪の情欲が律法を通してわたしたちの肢体の中に働き、死のために実を結んでいました。 6 しかし今や、わたしたちは自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放されたのです。それは、わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです。

結婚の比喩

 キリストにあって恩恵が支配する場に生きる者は、罪の支配から解放されていることを、奴隷の比喩を用いて説いたパウロは、続いて同じことを結婚の比喩を用いて語ります。ただし、この結婚の比喩では律法から解放されていることが前面に出てきます。すぐ後(七章七節以下)で明らかになるように、律法は罪が支配するさいの梃子(力をかけるための装置)になっているのです。このことを、パウロはすでに「罪の力は律法です」と表現していました(コリントT一五・五六)。ですから、罪の支配からの解放を説くためには、律法からの解放を明らかにしなければならないのです。パウロはこの律法からの解放を、結婚の比喩を用いて明らかにするのです。
 
 パウロは「律法を知っている人たち」に話しかけます(一節前半)。ここの原文は「《ノモス》を知っている人たち」ですが、パウロはここでユダヤ教の《ノモス》、すなわち《トーラー》を指しているのか、ローマの法律あるいは法律一般を指しているのかが問題になります。以下(二〜三節)で語られる内容は、ユダヤ教の律法にもローマの法律にも共通する法の一般原則です。それで、両者を含む表現として「法」という訳語を用い、「法」の一般原則を比喩として、パウロは「律法」からの解放(四〜六節)を説明していると理解することも十分可能です。しかし、パウロはユダヤ人を強く意識してこのローマ書を書いていると見られ、とくに七章は「律法から解放されている」という、ユダヤ人にはもっとも理解困難な問題を扱っていますので、ユダヤ人を念頭において語っていると理解して、「律法を知っている人たち」と訳しておきます。しかし、以下の解説で比喩として用いられている結婚のについて語るときは、現在のわたしたちに身近な「法律」という用語を用いることが多くなります。
 
 ユダヤ教の律法《トーラー》であれ、ローマの法律であれ、法律というものは「人が生きている間だけ支配するもの」です(一節後半)。人が死ねば、その人はもはや法律の適用を受けません。法律に違反した行為も責任を問われません。これが法律の原理です。「律法を知っている人たち」はこのことを十分承知しているはずだ、とパウロは前置きして、それを結婚の場合に適用します。
 
 「結婚している女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結びつけられていますが、夫が死ねば、夫の律法から解放されているのです」(二節)。
 
 結婚している女性は、愛情によって夫に結びついているのですが、ここでは法律との関係という面で結婚関係が考察されています。法律との関係という視点から見ると、法律上正式に結婚関係に入った女性は、法律によって妻としての権利を認められますが(たとえば夫の資産を相続する権利など)、同時に法律によって妻としての義務(たとえば夫以外の男性と関係しないことなど)を課せられています。妻は法律によって、「夫に結びつけられている」のです。

 

 この文(二節前半)で、「結びつけられている」という受動態の動詞に「生きている夫」と「律法」という二つの与格の名詞がついています。文法的には、結びつけられている対象は与格で表現されるので、どちらかを結び付けの対象とすると、他は手段を示す与格になります。それで、「律法から解放されている」という表現と厳密に対照させて、「生きている夫によって律法に繋がれている」と理解する解釈があります。わたしは若い時に、ドイツ敬虔主義の代表的な注解書であるベンゲルの『グノーモン』がこの解釈をとっているのを読んで、大いに啓発された思い出があります。この解釈の方が、人の死によって「法律から解放される」という事態をより論理的に説明することができると考えられますが、やはり「結びつけられている」という動詞は、法律より人について用いられるのが普通ですので、「夫に結びつけられている」と理解することにします。この理解でも、人の死によって法の支配は終わるという比喩の比較点は十分成立すると考えられます。  

 しかし、「夫に結びつけられている」のは、夫が生きている間だけです。「夫が死ねば、夫の律法から解放されている」立場になるのです。「夫の律法」あるいは「夫の法律」というのは、夫が妻に対して持っている権利と義務を規定する法律です。この場合では、夫が妻に要求することができる権利として、妻が他の男性と関係を持つことを禁じる権利が問題とされています。妻の側から見れば、貞操を守る義務が問題になっています。ところが、「夫が死ぬと」、女性には妻としての義務を課している法律がもはや適用されません、すなわち「夫の法律から解放されている」のです。こうして、「夫の法律」が妻を支配するのは、法律の性質上夫が生きている間だけですから、夫が死ねば、女性は妻として貞操を守らなければならないという「夫の法律」から解放されます。
 
 「それで、夫が生きている間に、他の男と一緒になれば、姦通の女として扱われますが、夫が死んでいるのであれば、律法から解放されているので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(三節)。
 
 現代の日本では刑法の姦通罪はありませんので、夫のある女性が他の男性と関係を持っても刑罰を受けることはありません。ただ、民法上の不利益を受けるだけです(たとえば夫婦関係の破綻に責任がある者として離婚請求ができないなど)。しかし、古代社会では普通、既婚女性が夫以外の男性と通じる行為は姦通罪として厳しく処罰されました。ユダヤ教律法《トーラー》はとくに厳しい刑罰を定めています。姦通に対する刑罰は死刑でした(レビ記二〇・一〇、申命記二二・二二)。八章(一〜一一節)のイエスと姦通の女の物語は、このような律法の規定を前提にしています。
 
 ところが、「夫が死んでいるのであれば、律法から解放されているので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」。もやは姦通の女として処罰されないのは、夫婦の律法が無くなったからではなく、律法は今まで通り存在していますが、夫の死によって女性はその律法が規制する対象ではなくなったからです。比喩はここまでで、この比喩を用いてパウロは、キリストにある者が律法から解放されて、復活者キリストと一つになって生きる現実を語り出します。

律法からの解放

 「わたしの兄弟たちよ、このようにあなたがたもキリストのからだを通して律法に死んだのです。それは、あなたがたが他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになるためです」(四節)。
 
 「このように」、すなわち、夫が死んだので「夫の律法」から解放されている女性と同じように、キリストにある者は「律法に死んだ」者であり、他の者と一緒になることができる立場にあるというのです。ここで重要な比較点は、夫に死なれた妻の比喩では死ぬのは夫で、妻は夫の死により「夫の律法」から解放されるのですが、キリストに属する者の現実においては、わたしたちは「キリストのからだを通して律法に死んだ」と表現されている点です。「律法に死んだ」というのは、夫に死なれた妻はもはや夫婦関係を律する法律の対象とならないように、律法は依然として存在していても、わたしたちはもはや律法が規制する対象ではないという意味です。これは「罪に死んだ」という表現と同じです(六・二の講解参照)。そのような変化が「キリストのからだを通して(あるいは、キリストのからだによって)」起こったのです。
 
 パウロが「キリストのからだ《ソーマ》」と言うとき、キリストに属する者たちの共同体を指す場合があります(コリントT一二・二七)。また、パンとぶどう酒による「主の晩餐」にあずかることは「キリストのからだにあずかる」ことだという表現もあります(コリントT一〇・一六)。しかし、ここでは素直に、キリストがわたしたちと同じ身体をもって地上の生涯を歩まれ、その体が十字架につけられて死なれたことを指していると理解すべきでしょう。わたしたちは信仰によってキリストに合わせられることにより、このキリストの死に合わせられるのです(六・三)。キリストがそのからだをもって死なれた死にわたしたちがあずかることによって、わたしたちが「律法に死んだ」者、すなわち、もはや律法が規制する対象ではない者になったのです。これが「キリストのからだを通して」と表現されるのです。これは、自分と一体である夫の死によって妻が「法律に死んだ」立場になるのと同じです。キリストの死がわたしたちの律法からの解放になるためには、わたしたちがキリストと合わせられていなくてはなりません。無関係の者の死は、わたしたちに何の変化ももたらしません。
 
 こうして、わたしたちが「律法に死んだ」者になったので、「夫の律法」から解放された女性が他の男と一緒になることができるように、そのことによってわたしたちが「他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになる」ことが可能になるのです。ここで「他の者」が「すなわち死者の中から復活された方」であるキリストを意味することが明確に語られていますが、では「律法に死ぬ」前に一緒にいた者は誰かという問いが起こります。律法によって結びつけられていた古い夫は誰かという問題です。それは、「他の者、すなわち死者の中から復活された方と一緒になり、神のために実を結ぶようになる」という文との対照から、古い夫と一緒にいた時にどのような実を結んでいたかを考えることで解答を見つけることができます。パウロ自身がこの対照を次の節で語ってくれています。
 
 「わたしたちが肉のうちにあったときには、もろもろの罪の情欲が律法を通してわたしたちの肢体の中に働き、死のために実を結んでいました」(五節)。
 
 ここで「神のために実を結ぶ」と対照されているのは、「死のために実を結ぶ」ことです。そして、わたしたちと一緒にいて「死のために実を結ばせる」古い夫は「罪の欲情」です。わたしたちは「罪の欲情」と一緒にいたために、「死のための実を結んでいた」のです。ところで、「欲情」はわたしたちの「肢体の中に働く」罪の結果ですから、「わたしたちが肉のうちにあったとき」、本当に一緒に暮らした夫は「罪」であるということになります。先の奴隷の比喩では、罪は主人でしたが、この結婚の比喩では、罪はわたしたちが「律法によって結びつけられている」夫になるわけです。

 

 五節の「罪」も「欲情」も複数形ですが、その働きを指す動詞は単数形です。すなわち、パウロはここでも、人間の中に働く様々な罪の欲情を一つの支配力と見ていることがうかがわれます。このような「罪」が、この結婚のたとえで、新しい夫としての復活者キリストと対立する古い夫になると見られます。  

 「わたしたちが肉のうちにあったとき」、すなわち、わたしたちが生まれながらの本性に従って生きていたとき、あるいは「アダムにあった」とき、わたしたちは罪という霊的支配力に「律法によって結びつけられ」ていたのです。それは、妻が法律によって夫に結びつけられているのと同じです。その時には、罪はわたしたちの肢体の中に働いて神に敵対する欲情を引き起こし、その欲情がわたしたちの肢体の行動を駆り立てて死に向かわせていたのです。この場合の「死」とは、終局における神の命からの断絶です。先の奴隷の比喩では、罪という主人が生涯仕えた奴隷に支払う報酬が死であると語られていましたが(六・二三)、ここの結婚の比喩では、結婚生活で子供が生まれることを比喩として、罪は生涯一緒に暮らす夫として、わたしたちの生涯に「(終局的な)死に至る実」を結ばせると語られるのです。

文字と霊

 「しかし今や、わたしたちは自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放されたのです。それは、わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです」(六節)。
 
 ここで再びあの「しかし今や」が現れます。キリストにあって劇的な変化が起こったのです。その変化とは、「律法から解放されたので、文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになる」ことです。結婚の比喩を用いたのは、わたしたちはキリストにあって「律法から解放されている」という、パウロのもっとも重要な主張、そしてユダヤ教徒にはもっとも理解困難な現実を納得させるためでした。そして、「律法から解放された」のは、まさに「文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において」神に仕えるようになるという劇的変革が起こるためでした。この変革こそ、「しかし今や」で指し示されるアイオーンの更新なのです。
 
 ところで、パウロはこの変革を説くために二つの比喩を用いました。先の奴隷の比喩では、「罪から解放されて神に仕える者となり」(二二節)と、「(奴隷の)解放」が比喩として用いられました。この結婚の比喩では、「自分を縛っていたものに死んだので、律法から解放された」と表現されています。「自分を縛っていたもの」は、直訳しますと「その中に(または、それによって)わたしたちが縛られていたもの」となります。これは、三〜四節の結婚の比喩からすると、妻を夫に縛りつけていた法律に相当するものとして、「律法」を指すと理解してよいでしょう。わたしたちキリストにある者は、「キリストのからだを通して律法に死んだ」のです(四節)。そして、「罪に死んだ者は、罪から解放されている」という現実(六・一〜一一)と同じく、「律法に死んだ者は、律法から解放されている」のです。ただし、この場合の「解放されている」は、奴隷が「解放される」とは違う動詞が用いられています。ここで用いられている動詞は、もともとは「無効にする」とか「廃棄する」という意味の動詞で、ここでは律法の効力が及ばない者にされている、あるいは律法と何の関わりもない者にされている、という意味で用いられています。キリストにあって律法に死んだわたしたちは、今や律法の効力が及ばない者、律法とは何の関わりもない者になっているのです。わたしたちは「律法の外に」いるのです。
 
 このように、わたしたちが「律法から解放された」のは、実に「わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるためなのです」。「文字という古い次元」と訳した部分の直訳は「文字の古さ」です。「古い文字」ではありません。新共同訳の「文字に従う古い生き方」は、意味を汲んだ分かりやすい訳であると思います。「文字という古い支配領域」を意味します。「文字」は律法の文言を指します(二・二七)。律法の支配下にいる限り、わたしたちは律法の文字が規定するところを実行するように要求され、それを実行するときは祝福が、それができないときは呪いを受けます。このような原理で神と人との関係が定められ、人がこのような原理で神に仕える時代が「古さ」と呼ばれているのです。この「古さ」は、聖書的な表現を用いると、「古い契約」ということになります。パウロはここでモーセ契約を念頭に置いて「文字の古さ」と言っています。
 
 しかし今や、キリストによって新しい時代(アイオーン)が到来しました。それは、人がもはや律法の文字に規制されるのではなく、神から賜る御霊によって神との関わりを持ち、神に仕える時代です。これは預言者たちがが預言した「新しい契約」です(エレミヤ三一・三一〜三四、エゼキエル三六・二五〜二八)。終わりの日に実現する神と人との新しい関わり、すなわち「新しい契約」です。それがここでは「御霊の新しさ」と表現されているのです。「新しい霊」ではありません。新共同訳が意訳しているように、「御霊に従う新しい生き方」、または「御霊の新しい支配領域」、「御霊による新しい契約」です。

 

 「古い契約」と「新しい契約」については、『天旅』一九九九年5号および6号の「キリスト契約の諸相T、U」を参照してください。  

 「文字ではなく御霊によって」とか「文字は殺し、御霊は生かす」(コリントU三・六)という標語は、パウロの神学を理解する鍵となる重要な句です。パウロは以下の論述において、「文字は殺す」という主題を七章(七節以下)で、「御霊は生かす」という主題を八章で、詳しく展開することになります。従って、「わたしたちが文字という古い次元ではなく、御霊という新しい次元において仕えるようになるため」という六節後半の句は、七章から八章全体の内容を指し示す標題としての位置を占めることになります。



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