福 音 と 宗 教 8 


    第二章 宗教の神学   

                      



      第六節 「宗教の将来」 ― ティリッヒ (上)


ティリッヒの生涯と思想

 宗教の問題が深刻になってきている現代において、「宗教の神学」の確立の必要と重要性を説いた好著、古屋安雄『宗教の神学 ― その形成と課題』は、第四章「キリスト教の絶対性と諸宗教」においてクレーマーを扱ったところで次のように述べ(145〜146頁)、「宗教の神学」の形成におけるティリッヒの歴史的位置と意義を明らかにした上で、その後、第六章「宗教の神学の諸問題」の第五節「パウル・ティリッヒ」で、かなり詳しくティリッヒの宗教論を紹介しています。 

   「キリスト教と諸宗教の問題を神学的にとりあつかう場合に、クレーマーのような神学者であって同時にすぐれた宗教学者である人物の見解に注目することは特に必要であろう。かえりみればこれまでにみてきた代表的な神学者たち、ハルナック、トレルチ、バルト、ボンヘッファーはいずれもキリスト教以外の諸宗教については直接の知識と出会いの体験をもたなかった人たちである。そしてそういう神学者の宗教論が長らく神学界の指導的見解であった。しかしながら実はその間、神学と宗教学の両方を深く結びつつ、キリスト教と諸宗教の問題に地味に取り組んできた人々がいたのである。クレーマーはその人々の系譜につらなる一人で、彼の発言の背後には多くの先達と同僚の労作と視点があることを見逃してはならない。この系譜につらなる最初の一人は、トレルチの絶対性の問題提起に刺激されて、神学者でありながらインドの宗教の研究をはじめ、すぐれた宗教学者でもあったルドルフ・オットーである。バルトの『ローマ書講解』とほぼ同じ時期に著した『聖なるもの』によって、当時かなりの注目を集めたものの、その後バルト神学の支配的影響下に長らく無視された宗教現象学の先駆者である。しかし幸いなことにオットーが開いた方向は、その後、神学者でありかつすぐれた宗教学者であった人々、あるいは神学部で宗教学を教えた人々によって継承されたきた。ゼーダーブロム、ファン・デル・レーウ、ハイラー、ワッハ、エリアーデたちである。しかしこれらのすぐれた宗教学者たちの研究やその宗教論を真正面からうけとめる神学者、しかも組織神学者があらわれたのはつい最近のことである。パウル・ティリッヒがその人である」。

 パウル・ティリッヒ(1886〜1965)は、ドイツのルター派教会のビショップというべき地位の牧師の子として、一八八六年にドイツ東部の小都市で生まれ育ち、一九〇〇年の父の転勤であこがれの大都会ベルリンに移ります。彼はドイツの諸都市の人文ギムナジウムと諸大学での哲学と神学を中心に高度の訓練を経て、ルター派教会の牧師資格と大学からの学位を取得します。しかし一九一四年に始まった第一次世界大戦には従軍牧師として働きます。この体験は彼の思想に深く影響したことが、彼が後に語った自伝的回想にも触れられています。

 『自伝的考察』によると、幼少時代に父が牧する教会の宗教的雰囲気の中で体験した「聖なるもの」、あるいは神的なものの現臨体験が、後にルドルフ・オットーの『聖なるもの』の理念を肌で理解することになった、と述懐しています。この体験がオットーとともにシュライエルマッハーに近親感を抱き、東西の神秘主義に目を向けることにもつながります。なお『境界に立って』の中で幼少期については、東部ドイツ人の父親の憂鬱で思索的な素質、過敏な義務と罪責意識、強烈な権威感などと、西部ドイツ人の母親の感性的直感、生の歓びへの感覚、合理性など、相反する気質の拮抗が、境界に立っているという意識の端緒になっていることを回想しています。さらに城壁に囲まれた都会と開放された自然豊かな田園との境界、自分が属する上層階層と周囲の子供たちとの社会階層の境界に立っているという意識、それに伴い育まれた社会的罪責意識、このような境界意識が後に宗教社会主義に向かわせることになる一つの要因となります。

 大戦前の時期については、『自伝的考察』で、一九〇〇年にベルリンに移ってから大戦までの期間の学生生活と大学での研究生活について簡単に記述しています。大学では神学部で学び、大戦後は神学者として教会および大学で教えることになりますが、この時期では哲学的な志向が強く、ギリシア哲学からドイツ古典哲学にいたる幅広い哲学思想を理解修得することを努めています。その中でキルケゴールに出会い、後の実存主義の端緒をつくったシェリングに深く傾倒し、シェリングの宗教哲学を扱った論文を博士論文および神学得業士論文としています。この神学と哲学の二つの領域に関わっているという問題は、『境界に立って』の「7 神学と哲学の境界に立って」においてその意義が詳しく述べられています。ティリッヒは最後までキリストの啓示に立つ神学者であることを自認しています。とくにケーラーによって目を開かれたパウロ的・ルター的義認論を基盤としてその神学を形成していきます。しかし、ギムナジウム時代以来燃えていた哲学への志向は生涯続き、原理が異なる二つの領域の境界に立って、思想的な苦闘を続けます。その成果は多くの論文にも表現されていますが、最終的には彼の主著となる『組織神学』に結実することになります。ティリッヒは「哲学が問い、神学が答える」という「相関の方法」でその『組織神学』を構成するにいたります。

 大戦時の従軍体験と敗戦によるドイツ帝国の崩壊は、壮年期のティリッヒに深刻な影響を与え、大きな変化をもたらします。ティリッヒはその回想で、この体験がはじめてわたしをドイツ的権威主義から解放したと述懐しています。上からの権威の規定によって律せられる「他律」と自分の内面の創造的思惟から出る「自律」との葛藤は、『境界に立って』の「6 他律と自律に境界に立って」に詳しく論じられています。彼は近代精神の標語である自律が様々な問題を抱えていることを認識しており、自律と他律の矛盾を統合するものとして、宗教的に成就された自律を「神律」と呼び、その「神律」を彼の神学思想の中心に置きます。大戦後の時期においては、ティリッヒの社会的政治的関心が強まり、大戦後のマルキシズムに対抗する宗教社会主義の運動に積極的に参加し、その運動の理論的指導者として活躍します(その詳細は『ティリッヒ著作集第一巻』の解説を参照)。この宗教社会主義の立場は生涯変わらず、彼の神学的思考において伏流として貫いています。そのことはティリッヒ自身が『境界に立って』の「8 教会と社会との境界に立って」、「10 ルター主義と社会主義との境界に立って」、「11 観念論とマルキシズムとの境界に立って」において詳しく語っています。

 大戦直後にバルトは『ローマ書』を出して、歴史と文化に基礎を求めるようになった近代の自由主義プロテスタント神学を厳しく批判します。ティリッヒはバルトのキリストにおける啓示を絶対とするバルトの神学に共感しつつ、人間の営みをいっさい無視する姿勢には批判的で、人間の営みとしての文化に深い関心を示し、文化を神学の主題として取り上げ、バルトが『ローマ書』第一版を出したのと同じ年に『文化の神学の理念について』(一九一九年)を発表しています。そして宗教哲学者として、無制約的存在に無制約にかかわる宗教と、芸術や国家を含む社会制度などの文化との関係を神学の主題として追求し、文化の神学を形成すべく努めています。文化において人間の実存状況が問題となり、それを超える無制約的なものが志向されているところでは文化は宗教的であり、宗教はまたその現象形態においては文化となるとして、文化と宗教の境界に立つ者として思索しています。両者の関係を要約して、ティリッヒは「宗教は文化の意味内容であり、文化は宗教の表現形式である」と言っています。両者の境界に立つ状況については、『境界に立って』の「9 宗教と文化との境界に立って」に簡潔に述べられています。

 大戦後のティリッヒはドイツの諸大学で神学および哲学の教授として活躍します。マールブルグ大学にいたとき、そこの哲学教授であったハイデッガーと接し、その実存哲学的思考方法から強い影響を受けます。ここで彼の主著となる『組織神学』が書き始められます。この大戦後の時期、ティリッヒはあらゆる文化領域を宗教的中心へと関わらせようとして幅広く活躍します。マルキシズムやニーチェなど時代の思潮に対しても、一方的に否をいうのではなく、然りの面を維持する弁証法的な姿勢で臨みます。しかし、大戦後のドイツに生まれた民主的なワイマール体制は短命に終わり、国家社会主義(ナチス)の台頭を許し、ティリッヒはヒトラーを批判したために教授職を追われることになります。その年(一九三三年)ちょうどドイツに来ていたラインホールド・ニーバーからアメリカのユニオン神学校に来るようにという要請を受けてニューヨークに渡ります。ティリッヒ四七歳のことで、この時から彼のアメリカ時代が始まります。

 アメリカ時代のティリッヒは、ユニオン神学校の教授として活動を始めます。英語力も十分でない客人ティリッヒをユニオンの同僚たちが温かく迎えて助けてくれたことを、彼は感謝をもって回顧しています。ユニオン神学校は世界の各地からの神学者を迎え(日本の有賀教授もその一人でした)、エキュメニカルな交流の中心地でした。またブロードウエイを隔てたコロンビア大学との対話や交流も、この時期のティリッヒの活動の養分となったようです。ユニオン神学校を定年退職後はハーヴァード大学に「ユニバーシティ・プロフェッサー」(学部を超えて講義する名誉ある教授職)として招かれ(五四年〜六二年)、論文や講演でアメリカの神学界と思想界に大きな足跡を残します。その間に知的交流委員会の招きで来日し(六〇年)、日本の各地で講演し、仏教や神道の代表者と対話をしています。この来日とその後のシカゴ大学でのエリアーデとの共同セミナーの活動と意義については、この節の後半で詳しく述べることになります。ティリッヒ自身はこの日本との出会いを、アメリカとの出会いと並べて、自身の生涯における二つの大いなる異文化体験と呼んでいます。ティリッヒは六三年に念願の主著『組織神学』第三巻を書きあげて完成しています。そしてその二年後の六五年に、七九歳で亡くなります。ティリッヒは、故郷であるドイツを去って異境の地で人生の後半を生きなければならなかった境遇について、『境界に立って』の「12 故郷と異郷との境界に立って」でその意義を語っています。


ニーバーの『キリストと文化』

 本節ではティリッヒの生涯と思想を要約紹介したあと、後半でティリッヒの「宗教の神学」を検討する予定ですが、その前に少し寄り道になりますが、リチャード・ニーバーの『キリストと文化』を簡単に見ておきたいと思います。リチャード・ニーバーは兄のラインホールド・ニーバーと共に二〇世紀前半のアメリカのキリスト教会と神学界において指導的な役割を果たした神学者です。二人はドイツから移住してきた牧師の子ですが、アメリカで神学教育を受け、福音をアメリカの現実の社会に根付かせるために、時代のアメリカ社会と文化の問題に真剣に取り組みます。二人はティリッヒをアメリカに招聘したり論文を英訳するなどして、ティリッヒがアメリカで活動するのに大きな貢献をしますが、そのリチャード・ニーバーがキリスト信仰と文化の関係をまとめたのが本書です。わたしは若い時に宣教師が日本の文化に対してきわめて否定的な態度で接するのを見て、信仰と文化の関係を考えようとしてこの書を読んだ記憶があります。ここでティリッヒの文化と宗教の神学を理解するために、また諸宗教をその中に含む文化の問題を神学的に考えるために、ニーバーのこの書を要約しておくのも有益かと思います。

 ニーバーの『キリストと文化』(1949)はその第一章「永続的問題」で、キリスト信仰はその成立当初から時代の文化との間で受容と反発、融合と迫害の歴史を繰り返し、キリスト者にとって大きな問題となってきた事実をあげて、その問題の重大さと永続性を強調しています。そもそもイエスが時代のユダヤ人から拒否されたのも、イエスがユダヤ人存立の総体であるユダヤ文化を否定したからであると正当化するラビの意見を引用して、この問題の重要性を示唆しています。この問題はキリスト教と外の社会との間にあるだけでなく、それ自身一つの歴史的文化的存在としてのキリスト教自身の内部の問題でもあるとして、キリスト者の真剣な取り組みを促しています。なお、ニーバーは序言において、その問題との取り組みと発想がトレルチの『キリスト教会と諸集団の社会的教説』に負うものであることを述べています。問題の性質をあげた上で、「キリストの定義のために」と「文化の定義のために」という二つの小節で、この問題を構成する二つの対立項の内容を定義する努力をしています。「キリスト」についても啓発的な発言が見られますが、ここでは「文化」の定義についてのニーバーの「神学的解釈を抜きにした現象の定義」を紹介してしておきます。

 ブルクハルトが言ったように、文化とは「物質生活の向上のために、そして精神的道徳的生活の表現として、自発的に発生するいっさいのもの ― すべての社会関係、技術、芸術、文学、科学 ― の総計である」ということ、要するに人間が人間としてする活動の全過程であり、全結果が文化となるのでしょう。文化の厳密な定義はできないとしたうえで、ニーバーはその主要な特質を四つあげています。1 文化は常に社会的であり、文化は一つの社会が受け継ぎ伝達する社会的遺産である。2 文化は人間の業績である。川は自然であるが、運河は文化である。石英の一片はは自然であるが、鏃(やじり)は文化である。3 人間の業績はすべてある目的のために計画されたものであり、それゆえに価値の問題となる。その諸々の価値の中で人間のための善が圧倒的であるが、人間以外のものの価値も追求される。達成された価値は保存されなければならず、この価値の保存のための活動(教育など)が人間の文化のための活動の大きな部分を占める。4 すべての文化は多元的である。一つの文化が達成しようとする諸価値は常に多数である。社会は多数の価値追求を統合する苦労をしなければならない。
 このように文化の特質を記述した上で、ニーバーはキリスト信仰と文化との関係を五つの類型に整理して提示し、それぞれに一章をあてて詳述します。ここではその五つの類型をごく簡単に要約して列挙するにとどめます。

 1 文化に対するキリスト(Christ Against Culture) ― ニーバーは第二章でこの「反文化的キリスト」の類型を詳しく論じています。新約聖書の各巻は世界のただ中に新しい民の成立を告知し、その民に主であるキリストへの全面的な愛と従順を要求しています。その要求の裏側として、彼らがそこから救い出された旧い世界に対する拒否が、その世界の文化に対する拒否の要求となっています。それをもっとも明確に語っているのはヨハネの第一の手紙です。著者は「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」(二・一五)と語ります。古代教父の中でこの反文化のキリスト信仰をもっとも明確にしたのはテリトゥリアヌスです。そして中世の修道院も、時代の文化の維持に貢献する一面を伴いますが、もともとは文化から隔離したところでキリスト信仰を確立しようとする反文化的な運動でした。近代ではプロテスタント分派(メノナイトなど)に反文化的傾向が強く出ています。ニーバーはこの反文化的キリスト信仰の典型としてトルストイをあげ、彼の実例からこの立場が「必然にして不十分な立場」であることを説明しています。それは、この世の文化に反抗してキリストへの忠誠だけを貫こうとする「徹底的キリスト者」も、その実践は文化世界の現実のただ中で行わねばならないからです。実践面だけでなく、この立場は神学的にも罪の性質と普遍性など様々な問題を抱えていることが指摘されます。

 2 文化のキリスト(Christ of Culture) ― ここにあげた反文化的なキリスト教に対して真っ向から対立し、キリストと文化を調和させようとするキリスト教の流れが第三章で取り上げられます。彼らは一方ではキリストによって文化を解釈し、キリストと合致する文化の要素を重視し、他面では文化によってキリストを解釈します。この立場は新約聖書の時代ではユダヤ教内のキリスト信仰に見られました。彼らはユダヤ教という彼らの文化伝統の中でキリストを解釈し、そのキリストへの忠誠を保とうとしました。この立場は、古代ではグノーシス主義によって代表されました。彼らは福音を時代の科学や哲学と和解させようとしたのです。中世では両者の和解はアベラルドゥス(1079-1142)によって試みられました。そして近代においては合理主義とか自由主義の名のもとに「文化のキリストの主題による変奏曲」が無数に奏でられることになります。ロックやカントやジェファーソンらもこの流れに数えられます。そしてこの流れはシュライエルマッハーによって神学的に基礎づけられ、ヘーゲル、エマーソン、リッチュルへと進み、文化主義プロテスタンティズムの時代を迎えます。このプロテスタンティズムを代表するリッチュルは、キリストと文化という二つの礎石の上にその神学を形成します。彼は文化と自然の相克を問題としましたが、文化とキリストの間には何の相克も感じることなく、両者の調和と神の国における両者の成就と統合を目指します。今日、この文化主義的キリスト教はバルトらの新正統主義と根本主義の両方から厳しく批判されていますが、ニーバーはキリストの文化への同化は恒久的な運動としてキリストの支配の進展には避けられない意義を有するものとして、「文化主義的信仰の擁護」をしていますが、様々な問題があることも指摘して「神学的反論」も加えています。

 3 文化の上にあるキリスト(Christ Above Culture) ― キリスト教の大多数の運動は、文化に対する二つの極端(徹底的反文化と文化順応)の中間の道を歩む「中道の教会」であったとして、中間派の三つのタイプを第四章から第六章で取り上げるますが、その前にニーバーはそれらの中間派に共通する特徴ないし確信を四つの神学的定式にまとめています(第四章第一節)。1 すべての文化の基礎となる自然は父なる神の創造によるものであり、善であるという確信。2 人間はその存在の本質上、神への服従に義務づけられているという確信。3 罪の普遍性と徹底性の確信。4 恩恵の卓越性と服従のわざの必然性との確信。以上の四つの確信を共通にしながら、中道の道を行く人たちに三つのタイプがあるとして、ニーバーはその三つを総合主義者(synthesisits)、二元論者(dualists)、回心主義者(conversionists)と名付け、それぞれを以下の三つの章で詳論します。

 最初に第四章(第二節)で、「キリストと文化の総合」を目指す人たちの思想を紹介します。この人たちはキリストと文化を「これか・あれか」ではなく「これも・あれも」の関係で扱うのですが、両者の間の隔絶をしっかり認識した上で、その隔絶を克服して両者を総合しようとする人たちです。ニーバーはその立場の最初の代表者としてアレクサンドリアのクレメンスをあげます。クレメンスは当時の地中海世界で随一の文化都市であったアレクサンドリアで、キリスト教徒の教師として指導に当たります。そのさい、当時のギリシア文化の基準を満たすように、ギリシアの哲学者たちの教えに基づいて、倫理や道徳を教えるだけでなく、思想や哲学も導かれるように教えます。しかし、それだけでなく、クレメンスはその上にイエスの山上の説教に見られるような高度な倫理や、聖書的な見方を加えます。クレメンスは自分たちがその中で生きている文化を認めた上で、その上にキリストを置くことで両者を総合しようとします。この方向は「文化の上にあるキリスト」(Christ Above Culture)と言えるでしょう。クレメンスのキリストは文化に対立するものではなく、人が自分の努力では達成できないものを与えるために、文化の最良のものを用いるキリストです。

 ニーバーは中世の最大の神学者と呼ばれるトマス・アクイナスもこのタイプに入れています。トマスは貧困、独身、服従の誓約に忠実な修道僧として徹底的な反文化的生活を体現すると同時に、時代の文化を包摂し保護する教会の神学者として、超俗的キリスト信仰と文化世界の統一体としての中世キリスト教世界を代表しています。近代においては、教皇レオ一三世や英国国教会の主教バトラーなどを総合主義者としてあげていますが、彼らはトマス主義の継承者であるとしています。総合とか統合は人間がもつ基本的な欲求です。とくに神は唯一であることを信じるキリスト者にとって避けがたい欲求であり目標です。それを成し遂げたクレメンスやトマスやその継承者たちによって、後世の教会と文化は共に計り知れない影響を受けています。しかし、誰も反対することができないようなこの総合にも問題があることを、ニーバーはこの章の第三節「総合の問題点」で指摘します。もともと別次元の神の業であるキリストと人間の営みである文化を一つのシステムに総合しようとする試みは、不可避的に相対的なものを絶対化し、無限なものを有限の形式に引き下げ、ダイナミックなものを物質的化する傾向をもちます。総合の努力はキリストと福音の制度化を招く傾向をもちます。総合主義者はしばしば自分の文化の保存と回復に没頭し、文化的保守主義の傾向をもち、一種の「文化のキリスト」となります。総合主義者は人間の営みの中に存在する根本悪と真っ向から取り組もうとしないという批判を、「中道の教会」からも、とくに次の二元論者にから受けることになります。

 4 矛盾におけるキリストと文化(Christ and Culture in Paradox) ― この標題でニーバーは第五章で、キリストと文化を相容れない別の原理によって成り立つ二つの領域として、その相矛盾する二つの領域の双方に忠誠と責任を果たそうとして苦闘するタイプを扱います。第一節で、キリストにおける恩恵による和解と、本性的に罪の中にある人間の営みとしての文化を、矛盾する別の原理とする二元論的神学をかなり詳しく検討した上で、第二節でそのタイプの源流としてパウロを取り上げます。パウロの思いはキリストにある恩恵の支配に集中しています。パウロにおいては、キリスト者の倫理は何よりもキリストにあって恩恵によって賜った新しい命の発現としての倫理です。しかしキリスト者もこの文化世界の中で生きていかなければなりません。総じて文化は罪ある人間の営みとして神の裁きの下にありますが、それでも罪を暴露しつつ、罪が破壊的な力を振るうことを防止しています。それゆえキリスト者は国家や法律などの文化的諸制度にも忠実に従う必要があります。パウロはキリストにある者を徹底主義者のように文化世界から切り離して孤立した共同体を作ろうとはせず、また総合主義者のように一つのシステムに統合しようとはせず、終末における統合を望み見て、矛盾の中を生き抜こうとします。このパウロの二つの原理によるキリストと文化の矛盾の思想は、古代教会の最初のパウロ主義者であるマルキオンによってやや歪んだ形で受け継がれます。ニーバーによれば、マルキオンはユダヤ文化の精髄である旧約聖書を、イエスの愛の神とは異なる正義の神を押しつけるものとして拒否し、結婚を含む文化を退けて禁欲主義に向かい、一つのセクトを形成することで1の徹底主義者の方向に行った、とされます。

 第二節でパウロを見た上で、ニーバーはキリスト教史で最も典型的なこのタイプの代表者として、第三節でルターを取り上げます。ニーバーは最初にルターの二つの著作『キリスト者の自由』と『略奪・殺人的農民集団に反対して』を取り上げ、前者におけるキリストにある者の愛から出る自由な奉仕のわざの頌栄と、後者の領主たちへの「だれでも、できる者は刺し、打ち、殺せ」という勧告の間の大きな距離を示し、それを弁護するルター自身の「二つの王国がある。一つは神の国であり、他はこの世の王国である。神の国は恩恵とあわれみの王国である。しかしこの世の王国は怒りと残酷の王国である。・・・・」という言葉を引用して、ルターの二元論的信仰思想を印象深く記述しています。この二つの王国の原理に忠実に生きるために、ルターは一方では総合主義的解決を退けます。矛盾する二つの王国を一つに統合するにはあまりにも深く両者の違いを認識していたからでしょう。両者の混同は両者の崩壊を招くとしています。そして他方では徹底主義者のように文化の領域を排除してキリストだけに閉じこもることにも反対し、文化における生活をキリストに従って歩む場として積極的に評価します。ルターは「罪人にして同時に義人」という恩恵の場で、この矛盾する二つの世界を、動的・弁証法的に同時に生きぬきます。しかし後継のルター派教会は両者を並列させるだけの静的なものになったとします。ルター以後のこのタイプの代表者として、ニーバーはゼーレン・キルケゴールやロジャー・ウィリアムズらをあげています。そして最後の第四節「二元論の功罪」で、二元論者はその動的な実存理解をもって、キリスト者の生の源泉に注意を向け、そのことによって信仰だけでなく文化にも活力をもたらしたという貢献が認められます。しかし他のタイプからの批判もあり、ニーバーはその中の二つを取り上げます。一つは、文化世界のいっさいの人間の営みが相対化されることで一部の人たちに文化的生活の諸法則を放棄させる「無律法主義」に導く危険と、もう一つは、パウロの場合の奴隷制、ルターの場合の社会階層についての発言に見られるように、時代の文化をそのまま認める文化的保守主義への傾向です。

 5 文化の改造者キリスト(Christ The Transformer of Culture)  ― 多くの点で4の二元論者と共通していますが、文化に対してより積極的な態度をとる人たちを、ニーバーは回心主義者(conversionists)と呼び、この人たちの思想を、「第六章 文化の改造者キリスト」で扱います。まず第一節で彼らの神学的確信を三つあげます。第一は創造の善性です。二元論者が創造を彼らの主要主題である贖罪の前置きのように扱うのに対して、回心主義者はキリストが創造にも参与しておられることを重視して、創造と贖罪を共に神の善性において理解します。第二に人間の堕罪がまったく人間の行為であって、いかなる意味においても神の行為ではないという確信です。二元論者の物質界に属する身体がそれ自身で罪であるという思想は共にしません。回心主義者にとって文化は歪曲された善であって、悪ではありません。第三に、歴史は神の力あるわざと人間の応答の物語であり、それは現在に起こっているという確信です。回心主義者は、創造と文化の統合を究極的終末に期待するのではなく、万物を自己自身まで引き上げることによって改造する主の力を認めつつ現在を生きます。

 ニーバーは新約聖書の中でこのような回心主義的モチーフを第四福音書に見て、それを第二節で論じています。まずヨハネは万物は言(ロゴス)によって創造されたと宣言することで、すべて存在するものは善であるという確信を力強く表現しています。しかし同時に、この福音書は神に背き別の原理で成り立っている(悪魔に支配されている)ように見える「世」の罪を暴き、キリストと世は両立し得ないとする二元論的、分離主義的に見える面もあります。しかし、神はこの「世」を愛して御子をお与えになったのです。この福音書では堕罪は創造された善の歪曲であり、神はそれをキリストにおいて包摂されるとされています。この福音書の歴史観は、「神の国」を「永遠の命」という主題に置き換えていることに示されているように、裁きも永遠の命も終末への待望ではなく、現在の神の働きとして理解されています。ニーバーも認めているように、この福音書には二元論的、分離主義的傾向も多分にあり、単純に回心主義の文書とすることはできず、回心主義のモチーフが散見するというものではないかと思います。ニーバーの解説も晦渋の感を免れません。ニーバー自身、「ヨハネは、回心主義的モチーフを、反文化的キリストの思想的立場の分離主義と結合したのである」と言っています。

 ニーバーは第三節で、このタイプを代表する古代教父としてアウグスティヌスを取り上げます。アウグスティヌスは、新プラトン主義の修辞学者がキリスト教の説教者となった彼の経歴が示すように、かれ自身が文化の回心の実例となります。アウグスティヌスは、徹底主義者による文化の拒否や、文化主義者による文化の理想化や、良質の文化にキリストを付け加えるという仕方で進められる総合や、とうてい征服すべくもないほど不道徳な社会にあって福音によって生きることを願う二元論とは違い、人間のすべてのわざにおいて表現されている人間の生命に、キリストは再び方向を与え、これを再び活気づけ、再び生まれさせるという意味で、「文化の改造者としてのキリスト」を指し示します。彼の主著の一つである『神の都』が示しているように、アウグスティヌスはローマ帝国の社会を皇帝中心の共同体から中世キリスト教世界に回心させたあの偉大な歴史的運動の指導者の一人となります。このようにアウグスティヌスを位置づけた後、ニーバーはこのような姿勢を取らせるアウグスティヌスの神学 ― すべての創造を善とし、それを歪曲腐敗させる人間の根本的な罪、キリストによる贖罪の神学 ― をかなり詳しく解説しています。そして最後の第四節で、近代においてこのタイプを代表する神学者として英国のF・D・モリスの思想を紹介して、この回心主義の理念の実例を加えています。

 以上のように、ニーバーはキリストと文化との関係を五つの類型に分類しました。この類型は、わたしたちがキリスト信仰と実際の文化的営みとの関係を考える際の、物差しとその目盛りのような働きをしてくれる便利で有益なものです。しかし、現実は複雑で、けっして一人の人や運動を一つの類型に閉じ込めることはできません。わたしたちは複雑な現実の中で個々の場合に対処して決断し行動しなければなりませんが、その決断や行動はしばしば違った類型のものとなります。ニーバーもこの消息は心得ていて、最後の章「第七章 『結論的・非科学的後書』」で、どの類型も「これが唯一のキリスト教的解答である」と言えないとし、そのような結論がわたしたち人間の「信仰の相対性」(わたしたちの信仰の相対性は、個人の知識の断片性、信仰の脆弱性、置かれている歴史的状況の一時性、価値の相対性などの面から考察されています)によるものであることを述べ、状況に即した実存的決断が求められる「社会的実存主義」の必然を論じています(ここでニーバーはキルケゴールに大きく依存していますが、キルケゴールの実存主義が個人主義的であって文化の問題を切り捨てていることを批判し、決断は歴史的・社会的対話の中でなされる決断であることを強調しています)。そして最後の節「依存における自由」において、われわれは自由の中で決断するのであるが、その自由はすでに多くの条件に依存していることを論じています。しかし最終的には、人間の業績である文化の世界は、イエス・キリストにおいて啓示された神の恩恵の世界の内側にあるという信仰によって決断することになる、という言葉で結ばれます。
 ここに取り上げたニーバーの「キリストと文化」の関係の考察は、宗教(少なくとも諸宗教)が文化の一分野である以上、宗教の神学にとって重要な示唆を与えるものとなります。ここで本節の主題であるティリッヒの宗教論に戻ります。


ティリッヒの『文化と宗教』

 組織神学者ティリッヒが宗教をどのように位置づけまた意義づけているかは、彼の主著である『組織神学』全三巻を見なければなりません。しかしこの著作は、バルトの『教会教義学』ほど大部ではありませんが、それでも三巻からなる大著で、それを読み通して理解するのは、哲学と神学の素養のない一般読者にはかなり困難です。しかし幸いティリッヒには、日本の宗教的関心のある聴衆に語りかけた講演を集めた『文化と宗教』と題する講演集があります。ティリッヒは晩年(一九六〇年)に短期間ではありますが日本に滞在して各地で講演し、仏教や神道の代表者たちとの対話を重ねています。その時の講演を集めたこの著作は、ティリッヒ自身が自分の神学的立場を分かりやすく解説し、主題である文化と宗教に対する彼の理解を要約しています。それで本稿では、おもにこの著作に基づいてティリッヒの宗教論を見ていくことにします。

  『ティリッヒ博士講演集 文化と宗教』は、高木八尺編訳で一九六二年に岩波書店から出版されています。本書には、ティリッヒの日本文化という異文化と遭遇した体験を語る「日本講演旅行についての非公式なレポート」や、ティリッヒと仏教徒たちとの対話を記録編集した「ティリッヒと日本との出会い」という一文も含まれおり、興味深い内容になっています。

 この書の最初の講演で、ティリッヒは「私の神学の哲学的背景」を語っています。ティリッヒは若いときから哲学への関心が強く、大学では哲学の講義も担当しています。そもそも哲学は、人間の知的営みである諸学を統合する学であり、すべてを体系的に根源的に知ろうとする人間の欲求から出るものですから、人間の営みとしての文化の中核に位置します。ある文化がどのような質の文化であるかは、その文化が生み出す哲学に現れています。哲学を志向したティリッヒの神学が、文化を神学的に理解し位置づけようとしたことは当然です。ティリッヒは若き日にバルトの神学に共鳴して同じ方向に向かいますが、一方バルトが『ローマ書』を出して、文化宗教となった近代プロテスタンティズムを批判し、神学と文化を厳しく分離したのと同じ時期に、ティリッヒは「文化の神学の理念について」という論文を発表して、キリスト者はいかにして真正な文化を建設できるかという問題、すなわちキリストと文化との関係に取り組んでいます。

 ティリッヒはこの最初の講演で、ギリシアのパルメニデス、プラトン、アリストテレス、ストア派、プロティノス、古代や中世のアウグスティヌス、ニコラウス・クザヌス、近代ではカントやシェリングらの名をあげて、彼らの思想からいかに多くを教えられたかを語っています。ティリッヒは哲学思想には二つの流れがあるとします。すなわち、本質論的な思想の流れと実存論的な思想の流れです。前者は経験や直感における存在の本質を示し、後者は人間の状況の有限性、愚劣さ、両義性を示すものであるとし、自分の神学は両者を結びつけようとする企てだとしています。この二つの哲学思想、とくに実存論については、ティリッヒはその後の「神学に対する実存主義の意義 ― 神学と哲学」という講演でやや詳しく述べています。本質とは多くの個に共通な質であり、多くの個々体の根本をなす理念、普遍性を指し、プラトンがイデアと呼んだものです。この本質論は長らく西洋哲学思想の本流を形成してきました。実存主義は、このような本質論的な思考にプロテストするものとして起こってきました。本質主義は、実在の形而上学的考察や科学的な発展をもたらす上で大きな貢献をしてきました。しかし反面において、本質は実存の中ではじめて現実となりうるものであるということ、実存による本質の現出は、一面では事物の本質の表現であるが、同時に本質を隠し、歪曲するという一面があることを見落としていたのです。ティリッヒはヨーロッパの近代思想史において、最初に実存主義的思考を示したのはパスカルであるとし、人間の認識の有限性を証明したカントもこの系列にいれています。ヘーゲルに反対したキルケゴールの実存主義は有名であり、それに続くニーチェの哲学や、サルトルやカフカの文学などが現代を実存主義の色彩で染めています。

 ティリッヒは、この「神学に対する実存主義の意義 ― 神学と哲学」という講演の前半で実存主義の意義を説明した後、後半で実存主義と本質主義の両方の神学との関係を取り上げます。実存主義は、人間の時間的空間的存在としての苦難、人間の有限性と不安、肉体的精神的疾患、罪と失望、過誤と愚昧などから来る窮境、人間だけが自覚することができる窮境を分析し、それをいかに克服すべきかを問います。人類はすでに太古の昔から、この自覚と問いと答えを神話という形で表してきました。今は実存主義的分析から出る問いに神学的伝統から来る答えが対応します。ティリッヒの『組織神学』を構成する原理を一言で表現すると、「哲学が問い、神学が答える」ということになりますが、そのさい答えも問いに影響を及ぼし、問いの方向を規定し、問いに深さを与えます。問いと答えは相関的に結合しています。本質主義は、言語や理性をもつ人間の自然における位置や意義を問い、人間の本質を運命の中に身を置きながら自由である、すなわち有限なる自由であるとしました。これを受けて近代の神学は、人間を自己の本性を完成する能力がある存在と考え、道徳主義的となり、恩寵の福音から離れていきました。実存主義はこの傾向に反発して、人間は善と悪の混合物であること、意志することを行うことができるという信念の誤りを明らかにし、時間空間の世界では道徳的に完成された社会は実現できないことを示しました。それは積極面では、神がわれわれの実存状況を改変する力をもった神として、イエス・キリストがわれわれの古き存在を克服する新しい存在の顕現として把握される道を開きました。実存主義は、近世のプロテスタンティズムが見失っていた恩寵の福音 ― 受け容れがたい人間存在の受け容れ ― を再発見させ、伝統的聖礼典の象徴(象徴については後述)に新しい意味を与えました。さらに実存主義は聖書、とくに新約聖書の古い象徴や神話を新しい時代にふさわしい解釈をすることを教えました。最後にティリッヒは、「現代の神学は実存主義から、人間存在の実存状況の再発見、恩寵の意義の再発見、聖書の新しい解釈の展開、という三つの賜物を受けている」という言葉でこの講演を締めくくっています。

       ティリッヒの『組織神学』は、「哲学が問い、神学が答える」という原理で構成されています。この書は五部からなっていて、第一部は「理性と啓示」、第二部は「存在と神」、第三部は「実存とキリスト」、第四部は「生と霊」、第五部は「歴史と神の国」と題されています。それぞれの題名で「と」で結ばれている二項は、前の項が哲学が発する問い、後の項がそれに対する神学の答えを構成しています。人間が抱えている問題を総体的に、また根源的に問う哲学に、神の啓示に基づく神学が答えるという形をとっています。もっとも、先に述べたように、問いから答えへの一方通行ではなく、答えが問いを規定するという相関の方法が取られています。この『組織神学』で宗教の問題がどこで扱われているかが注目されます。普通神学では宗教の問題は啓示に関する序論的な最初の部門で扱われますが、ティリッヒの『組織神学』では第四部の「生と霊」という聖霊の働きを議論する聖霊論の中で論じられています。これは、ティリッヒが宗教を人間の多義的な(善と悪を判然と区別できない多面的な相をもっている)生の現実の中に位置づけて理解しようとしていることの表れであり、宗教を人間の多義的な営みである文化との関連で考察していることを示しています。それで「文化と宗教」の関係が重要となり、在日中の講演でもこの主題で二回の講演をしています。

 ティリッヒは「宗教と文化」と題する二回の講演の最初の講演で、まず宗教と文化の衝突を、宗教と科学、教会と国家の衝突を実例としてとりあげ、それは両者が(またはどちらかが)自分の限界を超えるから起こるのであって、両者は共に人間精神の機能であり、人間の生命の基本的な発現である限り、結合することができるはずであり、その再結合こそ自分の生涯の課題であると述べています。この主題に入る前に、横道にはなるがと断りながら、現代では不人気な「道徳性」という言葉のもつ内容の重要性を説きます。すべての生命は中心に向かって自己を統合しようとする「自己統合への衝動」を持ちますが、人間精神の領域における中心ある自己(人格とも呼ばれる)の確立および自己統合こそ道徳性であり、これは人間精神の最初の機能であり、文化と宗教の両方の基盤です。その上でまず文化の概念を取り上げ、文化は精神の次元における生命の自己実現、生命の自己創造だとします。人間の精神が遭遇した外の世界に向かってする最初の基礎的な行為は言語の創造であり、人間は言語によって意志の伝達だけでなく、実在を指し示し、実在の本質を把握しようとします。言語という基盤のうえでに人間の認識機能と美的機能が生じます。一方、生命には自己を超えてより崇高なるものに向かって突き進む衝動があります。精神にも究極的に崇高なるもの、究極的に豊かなもの、絶対的な力 ― それが「聖なるもの」と呼ばれます ― に向かって突き進もうとする自己超越、自己昇華の動きがあります。ティリッヒは、人間がこの「究極的であると解されるものに究極的にかかわっている状態」を宗教と呼びます。「宗教とは、なにかあるものが無条件的に真剣な事柄としてわれわれに迫ってくるものがある心の状態」と言えるとします。これがティリッヒの究極的関心事としての宗教の基本的概念となります。

 この宗教の概念は、宗教の通常の概念、すなわち祭司、僧侶、寺院や教会、礼拝行為、神話、教義、祭典などを伴う歴史的宗教の観察から出た通常の概念とは異なります。ティリッヒはこのような歴史的形態をとった宗教を狭義の宗教と呼び、ここであげた究極的関心事としての宗教を広義の宗教と呼んで、両者を厳しく区別すべきことを説いています。この区別は、本書第一章の「結び」で述べた「単数形の宗教と複数形の宗教」(92頁)の区別、人間の本性的な営みとしての宗教性そのものと歴史的社会的な形態をとった諸宗教との区別とほぼ同じです。日本語では単数形と複数形の区別がないため、「宗教」という言葉を用いた議論はしばしば混乱します。この狭義の宗教(歴史的諸宗教)は文化の一部であり、宗教と文化が衝突するのは、狭義の宗教が文化以上のものであることを主張する場合、または特定の文化が絶対性を要求してその限界を超えるときに起こります。広義の宗教、すなわち無条件的な関心事としての宗教は、あらゆる宗教の心髄であり、現実の諸宗教に対して、「この宗教ははたして究極的なものへの人間の究極的な関係を、かかる究極的関わりが本来あるべきような仕方で、真に表現しているであろうか」という審問的な問いを発します。究極的なものに関する歪曲、有限なものを究極的なものとするのが偶像崇拝です。狭義の宗教、歴史的諸宗教は、宗教の本質をなす究極的関心事としての宗教によって批判され審判されますが、それをなくすことはできません。歴史的諸宗教は究極的関心という宝物の保管者であり、それをなくすことは究極的関心が培われる場所を断ち切ることになります。究極的関心はこれらの歴史的諸宗教のなかで育成されます。それがなければ、究極的関心は枯渇し、崇高なものは低俗ななものに置き換えられ、普遍的な世俗化が起こります。


ティリッヒの宗教論

 ティリッヒは前項で取り上げた「宗教と文化」という講演をした後、引き続いて同じ大学(京都大学)で「宗教哲学の諸原理」という通し標題で四回の講演を行っています。これは宗教を哲学的な見地から検討したもので、ティリッヒの宗教論を要約して提示しています。この四回の講演をまとめることで、ティリッヒの宗教観を見ておきたいと思います。

 第一講は「宗教哲学の方法と聖なるものの観念」  と題されています。この講演でティリッヒは前半で宗教という対象を扱う方法について述べます。方法は扱う対象の性質に依存する面があることに注意を喚起した上で、いつの時代にも見られる「方法の帝国主義」に対する警告を発します。これは、ある分野の方法が他の分野の方法にも適用されることを求める傾向です。現代では自然を対象とする自然科学の方法がほかの分野の学問の方法として支配的になる傾向があります。自然科学はあらゆる現象をより小さい原因、最後には原子の運動にまで還元して説明しましたが、宗教を対象とする学問にもこの還元法が用いられ、宗教を心理学的に説明する学派と社会的に説明する各派という二つの学派が現れます。ティリッヒはこの二つの学派についてそれぞれ三つの実例をあげてその方法が宗教を理解するのには不適切であることを論証していきます。

第一の心理学的説明によれば宗教とは、1 自然や社会に対する恐怖を超人間的な力の助けをかりて克服する方法である。2 人生と幸福に対する人間の無限の欲望を来世において満たされることとの保証である。3 もっとも新しいフロイドの説で、抑圧された心理的コンプレックス(父や母の像など)の投射である。ティリッヒはこの三つの心理学的説明に対して、「これらの人間の恐怖や欲望やコンプレックスは何に投射されるのか」と問えば、これらの心理学的説明の誤りは明らかであるとして退けます。それらの人間の心理が投射される投射幕は、宗教の原理そのもの、聖なるもの、わたしたちに究極的に関わるものです。これらの心理学的説明は具体的な象徴、特定の神々、特定の儀式や教理などは説明できるが、投射幕である宗教の原理そのものを説明することはできないとして退けます。
 第二の社会的な説明も三つの実例をあげていますが、これも先の心理学的説明を退けたのと同じ理由(投射幕である宗教の原理そのものを説明できない)で退けられます。その三つとは、1 神々は王とか英雄とか社会的に重要な人物が神化されたものである(エゥヘメロスの理論)。この理論は神化と言ったときにすでに投射幕を説明なしで前提としている。2 マルクスによる阿片説。支配階級は被支配階級の地上での生活向上を与えたくないので天上での充足に向けようとした、という説。ここでも宗教の原理が前提となっているという誤りがある。3 現代の人類学者や民俗学者による、宗教はある特定の文化の一機能であるであるという説。この説は、「宗教が文化の一機能にすぎないのであれば、どうしてそれが同時に生の諸形態をすべて決定する基礎となりうるのか」と、「宗教と、この宗教を内に展開させる文化との間に、なぜ絶えず衝突が起こるのか」という二つの問いに答えられないとして退けられます。

 このように還元法による説明がすべて退けられるのであれば、まず神の存在を論証して、その存在者に関係する人間の諸活動として宗教を説明する形而上学的方法が問題になります。神という観念はこの連続講演の主題として、ここでは保留して、ティリッヒは存在という範疇は時間と空間のうちの存在について用いられるもので、神的なものの本性に適合しないとして、この形而上学的方法も退けます。こうして宗教という対象に対して用いられる唯一の方法として、ティリッヒは「体験分析の方法」をあげます。これは諸体験を、直接に体験された性格において観察し、記述する。そして、それと他の体験された諸現実との関係を示し、それが人間の生において占める場所を示し、その体験そのものの構造から内的な批判を行うというものです。現実は諸現象に自らを示しますが、それを記述する前に、それらの現象についての理論を立てません。ティリッヒは、この方法はフッサールの現象学を(ハイデッガーを経て)継承し発展させたものとしています。この方法の一つの実例として、後半で聖なるものの観念を論じます。

 ティリッヒは、宗教哲学は神の観念から出発すべきでなく、聖なるものの体験から出発すべきことを主張します。後者は直接与えられるものだからです。それは記述され分析されうるものです。この聖なるものの記述と分析は、ルドルフ・オットーの『聖なるもの』という著作で見事になされました。聖なるものは神秘として現れ、われわれを魅了し、同時に畏怖させます。この「魅了し畏怖させる神秘」という聖なるものの性質に、ティリッヒは「それはどういう種類の神秘か」と問い、「それはあらゆる神秘を超えた神秘、いつかはその神秘性を失うような特定の神秘ではなく、唯一の神秘である」と答え、オットーの聖なるものの性質に究極的なもの、無制約的なものという要素を加えます。このように聖なるものの分析は、対象と主体とを超えた究極的なものへの関わりという宗教の基本的概念を与えてくれます。宗教とは、究極的なものに関わっていること、したがって究極的に関わっている関心をいだくことである、ということになります。この関わりはわたしたちの全存在の事柄であり、中心をもった自己(人格)の問題です。このような中心をもった無制約的な関わりがあらゆる宗教のもっとも内奥の中心であるが、この中心が普通の意味の宗教とどう関わるのかを問い、この問いへの答えの中でティリッヒは「悪霊的なもの」という概念を導入します。究極的な関わりの対象である聖なるものは常に具体的な形で現れますが、その聖なるものが現れる有限な具体的事物が聖なるものそのものと混同されることが、狭義の宗教の中でしばしば起こります。聖なるものを指し示す有限な担い手が自分の神聖をを主張するとき、それは悪となり破壊的となります。ティリッヒはこの聖なるものと破壊の結びつきを「悪霊的なもの」と呼び、宗教史の偉大さはこの悪霊化との絶えざる戦いが続いたという事実にあり、他方この悪霊化が絶えず起こることは宗教の恥辱であると言います。宗教は人類の最高の栄誉であり、最も深い恥辱である、ということになります。

 第二講は「聖なるものの力学と宗教の象徴」  と題されていますが、講演の内容はほぼ「聖なるものの力学」に費やされ、「宗教の象徴」は次の講演に回されています。前講の終わりで論じられていたように、聖なるものは何らかの具体的なものの中に現れ、その聖なるものと関わり方が人類の宗教史となるのですが、そのさい聖なるものが現れる具体的なものが聖なるものそのものと取り違えられて絶対性を要求し、それが悪霊的な力となって破壊的な方向に働くようになります。一方それを克服しようとする力も働きます。この究極的なものと具体的なものとの間の緊張関係が、宗教における力動的な力となります。この緊張から絶えず闘争が起こり、種々の異なった解決が展開します。この闘争と諸解決が宗教と宗教史の運命を決します。ティリッヒはこれを「聖なるものの力学が宗教の運命である」という表現でまとめています。

   ティリッヒは聖なるものの力学において悪霊的な力を重視して、別の講演をこの主題にあてて詳しく論じています。ここでの講演より後に別の場所(東京神学大学)で行われた「宗教の力学と悪魔的なものの構造」と題する講演で、同じ主旨のことがよりいっそう詳しく語られていますので、それも参照して、ここで両方の講演をまとめて要約しておきます。後の講演では「悪魔的なもの」と訳されていますが、本講演の「悪霊的なもの」と同じです(原語は the demonic) ― 訳者が違います。「魔的なもの」という訳語も参考になります。

 聖なるものが具体的現実のうちに現れるとき、すなわち人物や書物や事件などに現れるとき、聖なるものは自己を現しているその事物を聖化する。それ故に石の建物が神殿となり、パンが秘蹟となり、一人の人物が神の顕現となり、一冊の書物が啓示の記録となります。そうなると、具体的事物は、それが指し示しているものと混同される危険に絶えずさらされることになり、次の段階では、究極的なもの自体ではなく、聖なる事物に究極性が要求されるようになります。この要求をティリッヒは「宗教の悪霊化(悪魔化)」と呼びます。これが起こると、悪霊化した宗教は他のすべての有限なものを自己の統制下に服従させようとし、それができないときは破壊しようとします。

 悪霊化した宗教は個人を狂信者にします。狂信者とは自分の疑惑を抑圧している者です。もし人が聖書を歴史的に理解する方法を多少とも知っていながら、伝統的解釈の故に歴史的研究の成果を認めないならば、自分の疑惑を抑圧する狂信的根本主義者となります。伝統的道徳の細部に頑固にこだわる狂信的道徳主義者もいます(彼らは不適切な呼び方ですがパリサイとかピューリタンと呼ばれています)。社会面では、われわれはヒトラーやスターリンにおいて悪霊化した疑似宗教の脅威を十分体験してきました。中世末期の宗教裁判やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に出てくる大審問官は、ここで「悪霊的なもの」と言っているものの最高の表現であり、その構造をよく示しています。しかし、悪霊的なものは聖なる場所、すなわり宗教の領域に住むのをもっとも好みます。諸宗教おいて悪霊的なものが聖なる場所を占めている形態のいくつかをあげると、第一に多神教があげられます。これは神の数の問題ではなく、「究極的なものが究極的であることを主張しつつ、さまざまの有限的形態に現れ得るか」という問題であり、もし現れ得るのであれば、さまざまな形態の究極的なものがそれぞれ自らの究極性を主張し、これがわれわれに意識を分裂させ、どの主張も真剣に受け取られないという結果を招きます。もう一つは偶像礼拝です。聖なるものの芸術的再現、つまり神の像や聖なる人物の像が究極的なもの自体に取って代わり、礼拝されるようになる場合があります。もし一つの宗教組織が聖なるもの自体と同一視されるならば、自分に対立する諸宗教を抑圧し除去しようとします。もしその目的のために政治権力を利用するようになれば、悪霊的なものは最も恐るべき段階に達します。

 ティリッヒは、宗教が悪霊的なものに対抗する二つの方向として、自己を超えて究極的に崇高なるものに向かう方向と、聖なるものを全面的に否定し、低俗の状態に向かう世俗化の方向があるとします。そして、前者の場合には、宗教の悪霊化に対する戦いは、預言者的批判によるか神秘主義的高揚によるとされます。預言者的批判による戦いは、旧約聖書の預言者たちに典型的に示されています。イスラエルの預言者たちは政治的指導者(王)や宗教的指導者(祭司)たちの聖なるものへの越境を厳しく批判しました。この預言者的批判から西洋のあらゆる宗教の反悪霊抗争の諸形態が生まれます。その中で最大のものは宗教改革ですが、それはただ一度起こった事件を指すのではなく、プロテスタンティズムとは宗教における悪霊化に対抗する原理そのものの名称であり、プロテスタンティズム自身の中にある教理とか道徳などの絶対化(その中にキリストでないイエスの絶対化をあげているのは示唆的な指摘です)と戦うことを求める原理です。宗教の悪霊化と戦うもう一つの道は神秘的高揚によるものですが、これは西洋にもありますが、インドを発祥地とする諸宗教において有力であり、仏教もその一つです。この道が預言者的な道と異なる点は、神秘的高揚が具体的宗教の根本的批判を生み出さない点です。神秘的高揚には段階があり、最高の段階に達したごく少数の個々人の状態と最低の段階にいる民衆との差は大きく、前者は通常の宗教のいかなる形態をも超えていますが、彼らは後者に残る悪霊化された宗教の形態を容認しているので、一般の宗教に改革が起こらず、沈滞する傾向があります。
 
宗教の悪霊化と戦うこの二つの道は共に限界があり断片的とならざるをえません。それで世界はもう一つの方向、世俗化の方向をとることになります。世俗化とは人間の精神生活の全活動範囲から聖なるものが徐々に消滅していく過程です。この人間の活動をティリッヒは水平方向と垂直方向とに分け、何か新しいものを生産する文化的創造活動は水平方向に向かい、歴史的時間の中で行われ、その完成形態は人間の歴史となる重要なものです。ところが、その中で垂直方向の次元が失われ、過去と未来を超越し、しかも現在であり、永遠から出て永遠の向かうもの、水平的軌道では近づくことができないものの次元を見失っています。この事実がもっともよく表れているのは技術の世界です。さらによいものの生産に向けて技術上を走り続けるアメリカと日本ではこの垂直方向の次元の喪失は深刻です。人間は道具を造ることができる唯一の生物であり、この能力によって走り続ける技術的世界はだれも否定できません。これを敵とすることはロマンティックな愚行です。しかし、この技術世界の進行は垂直的軌道の喪失を招き、二つの結果を生むことになりました。一つは、人間自身がこの生産過程の一部となり、道具生産における道具の一つに過ぎなくなったことです。これがマルクス主義革命が起こり、人間の非人間化に対する戦いが起った原因です。もう一つは、人間は手段を作り出すが、この手段に目的を示し得ないということです。このような事態をティリッヒは「文化の世俗化」と呼んでいます。世俗化は一種の解放でした。近代の啓蒙主義が宗教裁判に象徴される悪霊化した宗教から文化を解放しました。しかし、完全に世俗化された世界の空虚を満たすべく悪霊が裏口から、すなわち宗教ではなく政治組織から入り込みました。世俗的なものに逃避することは、空虚な低俗という結果を招き、その空虚にふたたび悪霊的な力が入り込みます。

 このように分析した上で、ティリッヒはこの講演の結びとして次のように述べています。「われわれの宗教的現状は二者択一に立たされている。一方においては、聖なるものに向かいつつ生じる悪霊化から、他方においては、世俗化の結果である低俗化から、したがって新しい悪霊化から、逃れ得ないというにある。われわれの取るべき道はどこにあろうか」。この問いに対してキリスト教が答えうるものであることを、以下の三つの原理をあげて根拠づけています。1 キリスト教は、神のみが存在するのであって、人間的なものは何も存在しない、という根本的な反悪霊的な原理を持っている。神的なものも表現されると、その表現は人間的領域のものとなり、神の審判の下に立ちます。何ものも、究極的であるとの主張はできないという原理です。2 キリスト教は宗教ではない、ということ。キリスト教が一つの宗教であるならば、他の諸宗教と同じ平面で際限のない論争に巻き込まれることになります。しかし、キリスト教が、争う余地のない最後のものはただ一つしかない、すなわちキリストの姿において完全な形態で実現された「新しい存在」であることを明らかにするならば、キリスト教はもはや一つの宗教ではなく、自己自身を含むあらゆる宗教に対して審判となります。その結果 宗教としてのキリスト教(christian religion)ではなく、キリスト教(Christianity)が諸宗教の上に高められます。3 キリスト教が一つの宗教ではなく、それ自身で反悪霊的な原理であるならば、キリスト教は世俗的なものを喜んで受け容れます。神は日常的世俗的生活の中に現存する故に、そこでは宗教も寺院もいらないのです。ティリッヒは、もしキリスト教がここにあげた三つの原理を真剣に取り上げるならば、自己および宗教の世界全体の内部における、悪霊的なものと低俗的なものとの戦いを、これまで以上に効果的に遂行しうるであろう、と述べてこの講演を締めくくります。 ― この結びの部分の論述は重要ですが、これは次節の「現代の宗教問題」でやや詳しく論評する予定です。

 第三講「宗教の象徴」 で、ティリッヒは象徴一般と特殊な宗教的象徴について論じます。宗教とは究極的なものに究極的に関わっていることであるならば、宗教に対するわれわれの関係を表現する道は一つしかない、すなわち象徴と神話による道です。有限な事物や言葉で無限のものを表現できないのですから、有限なものが何か自己を超えた何かを指示するという仕方で用いる以外に方法はないわけです。これが象徴です。ティリッヒは最初に象徴の性質について、とくに記号と対比してその特質を説明します。自己以外の何かを指示するという働きにおいては象徴と記号の区別はありません。記号と象徴の違いは、自己を超えて指示する対象との内的な関係の有無です。記号はその内的関係がありません。信号の青色と車の進行には内的関係はなく、車の進行指示は他の記号でも示すことができます。それに対して象徴はそれが指示する対象に参与しています。象徴される対象はある仕方で象徴の中に現存しており、象徴は対象に参与しています。この相互参与の状況はあらゆる宗教的象徴の偉大さであるとともに危険でもあります。さらに記号との違いは、象徴はそれ以外の仕方で実在のに近づく方法がないという仕方で実在を開示する点です。ティリッヒはその関係を芸術的象徴(作品)で説明しています。このような違いから、記号が便宜の観点から案出されるのに対して、象徴は人または集団の創造的深みに生まれるのであり、人がその象徴の力を体験する間は生きているが、その力がなくなると象徴はその機能を失い死滅します。宗教史は死んだ象徴の墓場であり、新しい象徴の沃野である、ということになります。ティリッヒは、象徴が用いられる分野として言語、芸術、歴史、宗教をあげていますが、とくに宗教的象徴はわれわれ人間に関係づけられたもの、われわれの全実存に関係づけられたものであり、宗教的象徴をそれ以外の場で用いることの危険を警告しています。そして、この宗教的象徴の意義と用い方について、典型的な象徴三つをあげ実例をもって解説します。その三つとは、創造、キリスト、神の国というキリスト教神学の主要な主題です。

 1 創造は実存的な象徴、われわれの全実存に関係づけられた象徴です。それは何億年か前の物理的出来事の記述ではありません。創造はあらゆる有限なものと、それが出てきた根底、それが帰っていく根底との関係の象徴です。この根底を人格的な象徴を用いて創造者と言い、超人格的象徴では創造的根底と称します。この創造という象徴は次の四つのことを意味します。@われわれは造られたものであること、自分の力で存在するものではなきこと、われわれの存在の根底を指し示しています。それ故、まさにその根底がわれわれの究極の関わりでなければならないことを指し示しています。Aこの依存関係は、実体的な同一性、神と世界の同一性という思想を排除します。Bわれわれは無から来て無に赴くのではなく、永遠から来て永遠に赴くのであることを指し示しています。C「無からの創造」という思想は、世界が神的根底に根ざしている以上、世界は善であるということを含んでいます。

 2 「キリスト」という象徴。イエスは象徴ではなく、歴史上に実在した人物です。「キリスト」は「新しい世、歴史の新しい時期、変容された実在、新しい存在をもたらすという任務を果たすために聖なる油を受けた者」を指す称号、象徴です。これが歴史上のイエスという人物に適用されて「イエス・キリスト」、正確には「キリストであるイエス」と称されるとき、この象徴は、新しい存在がすでに彼において始まったことを指し示しています。新約聖書はイエスがキリストであることを、人の子、主、救い主、ロゴスなどの伝統的な称号を用いて指し示しています。一つの出来事が象徴を用いて物語られるとき神話という形態をとります。このような物語を文字通りに理解すると根本主義(ファンダメンタリズム)の誤りに陥ります。宗教的真理を語るには神話は欠かせないのです。それで、聖書は「非神話化」するのではなく、「非字義化」する必要があると言うべきだ、とティリッヒは提言しています。

 キリスト教神学はイエスという歴史的人物とキリストという象徴を結びつけることによって困難な問題に直面してきました。「史的イエス」の問題は、歴史研究が蓋然性の限界内にとどまるので、結論や解決はなく、確実性に達することはできないのです。確実性は「参与」によって初めて可能になります。キリストとしてのイエスの像は、それに参与した者たちを圧倒して、キリストとしてのイエスの真理を世界に確立してきました。ここでティリッヒは、プロテスタンティズムが歴史学の方法をもって自らの聖典に立ち向かい、他の世俗的文書と同じように、徹底的に歴史の問題を問いただすことができた唯一の宗教であることを、誇りをもって述べています。「イエス・キリスト」という呼び方に含まれている非象徴的なものと象徴的なものの合一は、キリストとしてのイエスの理解にとって決定的に重要です。もしイスラム世界で、ムハンマドの歴史的事実を公に問題にするならば、その人は翌朝には生きていないであろうと言われるのと対照的です。反対に仏教の世界では、ゴータマに関する歴史上の事実がどうであれ、悟りに達するのに決定的に重要ではないとされて、彼の歴史的研究はほとんどされませんでした。

 3 「神の国」は象徴としての特徴をすべてもっており、明らかに一つの象徴であるだけでなく、東洋と西洋との相違、特に仏教とキリスト教の相違をもっともはっきりと示している象徴です。それは、この象徴が備えている四つの特徴で明らかです。ティリッヒは四つの特徴を記述する前に、「神の国」という象徴を非象徴的に用いる二つの用い方に警告をしています。一つは、「神の国」を一定の年月の後のある時期に到達される歴史の段階、歴史のうちでの歴史の成就と考える場合です。これは象徴としての性格と歴史的実存の現実に矛盾します。もう一つは、「神の国」を、ある人たちが入ることを許され、それ以後はずっと幸福でありうる静的な天の場所とする誤りです。両方とも「神の国」という大いなる象徴の、象徴としての意義を誤解しています。その結果、現代人が受け入れることを拒むという結果を招いています。このように「神の国」の象徴としての性格を明らかにした上で、その四つの特徴をあげていきます。@それは社会的・政治的なあるものを指し示している。それは正義と愛とによる個人の集団の重要性を強調しています。それは正義であるから、その愛はたんなる慈悲以上のものであり、慈悲を必要とする現実を変えようとします。A救いは歴史を超えるが、歴史の内部で生起します。それだけでなく、歴史において決定的なことが起こり、歴史それ自身が啓示の場所となります。B神の国は、歴史の中で絶えず悪霊的なものと闘争するという動的な事態を指し示しています。その勝ち負けは両義的です。悪霊的なもののは、その支配は砕かれているが除去されてはおらず、利用され奉仕させられています。悪霊的なものも聖なるものの一種であり、このことはインドの宗教に見られます。C神の国は終末論的な象徴です。時間は何か新しいものに向かって進んでいきます。われわれは存 在のそれぞれの瞬間に創造される過程におり、終わりに直面しています。現在において永遠の過去と永遠の未来が与えられています。この永遠の理解がすべての宗教の究極の課題です。

 ティリッヒの象徴論は、それが創造とかキリストとか神の国というキリスト教の主要主題が象徴として扱われていることからも分かるように、神学にとって重大です。これらの主題が象徴とされていることは衝撃的ですが、それは「参与」(perticipation)によって信仰の現実となることを見落としてはならないと思います。参与とは、聖霊の働きによってそれらの象徴が指し示している現実に入っていくことを指すティリッヒの概念です。この象徴論の重要性は次の第四講演によってますます明らかになります。

 第四講は「実在また象徴としての神」 と題されています。これまでの三回の講演でティリッヒは、究極的なものに究極的に関わっている状態という宗教概念の中身について語ってきましたが、最後に宗教の中心的な象徴である「神」について語ります。神という用語を拒否する宗教(仏教)や疑似宗教(共産主義)においても、何かが究極的なもの、聖なるものとして扱われる限り、神の観念についての議論が妥当します。

 最初にティリッヒは、宗教の力学(究極的なものと具体的なものとの力関係)によって神の観念の歴史的発展を概観します。最初の前神話的段階では、シャーマニズムやマナ信仰やアニミズムに見られるような、聖なるものの全体が現実のほとんどあらゆる顕著なものの中に現前していて接しうるという、聖なるものと具体的なものとが鋭く分離されず無差別に体験されている段階です。究極的なものと具体的なものが分離されるのは、偉大な神話(ギリシアやインドの神話)の時代に現れます。聖なるものは支配する神々に集中し、神々の勢力は悪霊たちの勢力と戦って勝利をえます。しかし、神々はそれぞれの特殊な性格において有限でありながら、神々として要求する絶対性のゆえに互いに闘争し、悪霊的となります。この段階の神々は有限なものを神として拝む偶像にとどまります。次に神的なものから悪霊的なものを除去しようとする徹底的な試みとして、ゾロアスター教やマニ教のような宗教的二元論が興ります。究極的な力として善と悪の二つの力があると答えることは、悪の存在という難問を解くもっとも容易な方法ですが、これは究極的なものの究極性を否定することになり、悪霊的なものを除去しないだけでなく、自身が悪霊的なことを行うことになります。神話に見られるように、多神教は多くの神々を統合する家父長的・君主的一神教の形をとり、そこから真の一神教の二類型が発展します。その一つ、一元的一神教は具体的対象の全体を超越します。神は世界の上にあるが、外にあるのではなく、万物の内にあって万物を越えて支える力動的な基体です。この基礎の上に絶対の存在や非存在の哲学が発達し、独立し、神秘的体験へと帰入します。もう一つ類型の排他的一神教の方は、ユダヤの預言者たちの啓示体験によって創られ、キリスト教とイスラム教によって世界的な影響力をもつにいたります。イスラエルの神はあらゆる具体性において他の神々と戦い征服します。それは、それに反するならば自分の民でも裁くという正義という普遍的原理で、特定の神の絶対性の主張に打ち勝ちます。

 この二類型の一神教において究極性の要素が勝利を占め徹底的になっていった結果、それに対する反動が起こり、究極的一者と世界の間に様々な形態の中間的存在が入ってくるようになります。東洋の神秘主義的宗教に覚者と呼ばれる具体的人物が登場し、大乗仏教には大勢の有限な神に似た存在者が入ってきます。西洋では中間者は排他的一神教への脅威ですから、一神教はそれと戦い外面的には勝利したように見えますが、実際にはユダヤ教にもキリスト教にも様々な名称でこのような中間的な存在者が入ってきています。ローマカトリック教会では諸聖人、とりわけ処女マリアが典型的です。神の観念における絶対と具体との緊張という宗教の力学の問題を解決する方法として、ティリッヒは三位一体の象徴をもっとも適切な解決としてあげています。

 講演の前半で神の観念の典型的な発展を歴史的に振り返ったティリッヒは、後半で実在また象徴としての神の観念に含まれる問題を直接に構成的に述べます。第一は神と存在の関係です。「神があるとはどういう意味か」という問いについては、多くの存在するものの中に神と呼ばれる一つのものがあるということではありえません。神は何よりも一つの存在者ではなく、「存在するすべてのものの内にある存在の力」、「存在そのもの、存在の根底」です。次の問いは、「神は生きているとはどうい意味か。そもそも生命があるとはどういう意味か」という問いです。生命において存在は現実的です。すべての生命過程には三重の性質があります。生命は生命自身と同一である(自己同一)、生命は生命自身を越えて変わる(自己変化)、生命は自分自身に帰る(自己還帰)の性質です。この普遍的な過程は、存在の根底に根ざしています。神的なものにおいても同じ過程が起こっています。この神的根底で起こっていることはわれわれの思いを越えていますが、神が永遠において行われること、神が自らとの自己同一を越え、そして自らとの統一を再建するということは、有限な生命過程においても反復して起こることです。神は永遠において肯定し、否定を否定する。この弁証法は、真実なものであるかぎり、すべての生命過程の記述となります。その過程の中に自己よりの超出と自己への還帰があり、それは自己統合、自己生産、自己純化の相をもちます。この生成、生命の創造性は、すべての存在の根底に根ざしています。しかし、すべての生命過程は悪の可能性を含んでいます。それは神的根底においては可能性にとどまりますが、被造者においては現実 ― 崩壊と破壊と非聖化の現実  ― になります。さらに、すべての生命の根底としての神の生命という象徴と、自己変化と生成に関する命題とは、神的根底における否定の要素を前提としているとして、ティリッヒは否定に三つの概念があるとして、単に否定する否定、生命(未存在から現勢的な存在への移行)を生み出す否定、ある特定のものではない存在、しかも絶対的に豊富である存在という三つをあげています。この第三の否定の概念が、仏教において無が究極的なものになる可能性に触れ、キリスト教における「生ける神」という最高概念と対比しています。ここの生命と否定に関するティリッヒの議論は、複雑な哲学的議論を極度に圧縮しているために、かえって理解困難な面があるようです。

 このように存在と生命の根底としての神を語った後、ティリッヒは「神は霊である」という命題を取り上げます。霊は中心をもつ人格について語るものですから、われわれは人格の概念を象徴的に神に適用することになる、とします。この語を神に適用する前に、ティリッヒは近代の西洋において人格の概念が思考の中心になるまで、古典的神学では神が人格であると称せられたことはなかったという事実に注意を喚起しています。神がペルソナと称されたのは、そのギリシア語《プロソーポン》(役者の面、役割)という語意から、神の役割という意味で用いられたのであり、三一神に適用されたときは根底としての神(父)、形としての神(子)、行為としての神(聖霊)という役割の意味であったことを思い起こすべきであると言っています。神の人格性が問題になるのは、実存的状況において、すなわち祈りの状況において問題になります。祈りにおいては、「私 ― あなた」の関係が前提されます。その関係において、神は私に対する方として人格的です。しかし、神には人格的なものを越える面もあるのですから、すべての祈りには黙想的・瞑想的な面もあるべきです。「私 ― あなた」という関係は、「私 ― それ」の関係にではなく、「私 ― 私以上の私」の関係に変えられるべきです。霊としての神は、非人格的な生命には非人格的に現前し、人格的な生命には人格的に現前し、すべての生命にとっては超人格的に現前します。

 ティリッヒはさらに二つの神の象徴を語ります。一つは全知、全能、偏在、永遠という力の象徴です。これらの力が文字通りに理解されるのは馬鹿げています。その時、神は玉座に座して思いのままに振る舞う天の暴君となり、こころある人々に拒否されるだけです。このような神の観念は、神への冒?となり攻撃となります。さらに、これらの象徴に含まれている実存的な関係を人間から奪い去ります。そのような力は、私を実存的な状況から救う力であることをやめ、たんなる客観的記述になってしまいます。もう一つは愛の象徴です。ティリッヒは、キリスト教の愛の概念から情緒的で感傷的な面の優勢を除かねばならないことを主張し、愛には正義の堅い構造があること、離脱した者を無条件永遠に肯定する質のものであることを理解しなければならないことを強調します。愛が感情的な面で理解されると、なぜ慈悲深い神がこの世界の悲惨を許しているのかという難問が解けず、神の愛は子供の反抗を大目に見る弱い親の愛のレベルに引き下げられます。ルターが経験したように、抵抗する者に対する愛は悪霊的な特性を持ちます。神は自らを愛として確立するために、悪霊的なもの、破壊的に聖なるものを用います。すなわち悪霊的なものを愛のために奉仕させるように用います。このことは、すべてにおいてすべてである神という宇宙の完成という象徴に導きます。ティリッヒはこの講演の最後に、「この『すべてにおいてすべてである神』は、仏教的定式において愛の永遠性のための余地をもつであろうか。それとも、それは永遠の成就において愛の可能性をさえも克服する(除去する)であろうか」と問い、「わたしはこの問いに答えることはできない。わたしはこの問いをあなた方に残し、私はこの問いをたずさえて帰る」という意味深い言葉で締めくくります。
 
     この第四講と同じ題名でほぼ同じ内容のいっそう簡潔な講演が、日本滞在中の最後の講演として行われ、講演集『文化と宗教』の最後に収められています。宗教の中心問題である「神」の概念について、ティリッヒの思想をよくまとめていますので一読をお勧めします。   


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