パウロによるキリストの福音

 パウロ文書 用語解説

 パウロ書簡(パウロの名による書簡を含む)に用いられている主要な用語、および講解において用いられている特殊な用語の解説。人名や地名などの固有名詞は、神学的な意味がある場合以外は、省略します。

 なお、この用語解説は、その用語の意味内容全体を説明する辞典的な解説ではなく、パウロ書簡およびこの講解を読むために必要な最小限にとどめた解説であることをお断りしておきます。また、未執筆の項目も多く残り、内容も暫定的なもので、将来増補改訂する予定ですが、訳注のアップロードに合わせて、とりあえず現在までに出来た形で添えることにします。

 本解説においてはローマ書、コリント書IとU、ガラテヤ書、テサロニケ書T、フィリピ書、フィレモン書の七書簡を「パウロ書簡」、エフェソ書、コロサイ書、テサロニケ書U、テモテ書TとU、テトス書の六書簡を「パウロの名による書簡」と呼び、両者を併せて「パウロ文書」と呼びます。
 
 ギリシア語、ヘブライ語、アラム語など、聖書の原語は、《 》で表示します。



 ア行

愛(あい)


 ギリシア語には愛を意味する用語として《エロース》、《フィリア》、《アガペー》の三つがある。パウロは、より高い価値への欲求とか性愛を意味する《エロース》と、友情のような人間の自然の情愛を指す《フィリア》は用いず、もっぱら日常のギリシア語では比較的用例の少ない《アガペー》だけを用いている。それは、ギリシア語訳旧約聖書で神の愛を指すのにほとんどこの語が用いられていたので、パウロが体験した神の愛を告白するのに自然にそうなったと見られる。その結果、《アガペー》という語には実に深くて豊かな霊的内容がこめられることになる。その内容については、福音講話「キリスト信仰の諸相」の第三部第二講「十字架の愛・聖霊の愛ーパウロの福音における愛」を、《アガペー》については第三講「愛はすべてに勝つ――新約聖書における《アガペー》」を参照のこと。


アイオーン

 ギリシア語の《アイオーン》はもともと「きわめて長い時間、永遠」を意味し、ギリシア語旧約聖書(七十人訳ギリシア語聖書)ではヘブライ語の《オーラーム》(永遠)の訳語として用いられている。また、比較的長い時間区分、すなわち「時代」という意味でも用いられ、「このアイオーン」とか「来るべきアイオーン」という形で用いられる。この語は、ギリシア語訳旧約聖書でも用いられているが、とくに黙示思想において重要な意味を持つようになる。黙示思想では、「神は二つのアイオーンを造られた」とされ、現在の悪が支配する「この(現在の)アイオーン」と、終末的な審判と宇宙的な破局を経て到来する「来るべきアイオーン」を峻別する。義人または神の民は「この(現在の)アイオーン」では苦しめられるが、「来るべきアイオーン」では神の栄光にあずかるとされる。パウロは黙示思想を超えているが、黙示思想の用語とか黙示思想の枠組みを用いて福音を語っており、とくに現在の世界を「このアイオーン」という表現で指すことが多い(ロマ12・2、コリントI1・20、2・6、3・18、コリントU4・4など)。ただ、「このアイオーン」は終末にいたるまでの世界の全体を指しているので、《コスモス》の意味に近づき、「この世」と訳されることが多い。後のグノーシス思想においては、実体化されて霊界における人格的存在という意味を持つようになるが、その意味で用いられている可能性があるのは新約聖書ではエフェソ2・2だけである。


贖い(あがない)

 旧約聖書では「贖い」には二つの意味がある。一つは、捕虜や奴隷となった者を身代金を支払って買い戻すこと、あるいは他人の所有に渡った資産を買い戻すことである。この買い戻す立場にある者を「贖う者」と呼ぶ。この場合の「贖い」はほぼ「解放」と同じ意味になる。預言者において、ヤハウェは「イスラエルを贖う者」と呼ばれている。もう一つは、罪の汚れを犠牲の血によって拭い清めて、神との交わりを回復するという祭儀的な意味である(レビ記一六章が典型的)。この場合の「贖い」は「贖罪」とも表現される。この二つの「贖い」は別の概念であり、ヘブライ語ではまったく別の語で表されているが、日本語訳旧約聖書では両方とも同じ「贖い」とか「贖う」という用語で訳されているため、概念に混乱を生じている。
 新約聖書では、キリストの十字架と復活の出来事によって両方の意味の「贖い」が実現したとして、それを《アポリュトローシス》という語で指し、日本語訳では「贖い」と訳している。すなわち、キリストの血によって祭儀的な「贖罪」が成し遂げられ、復活者キリストの命によって死の支配からの「解放」が実現したとされる。こうして新約聖書の《アポリュトローシス》は「救い」とほぼ同じ意味で使われている。
 パウロ書簡では、「贖い」はローマ書(3・24、8・23)とコリントI(1・30)の三箇所に出てくる。ローマ書3・24では、次節の《ヒラステーリオン》(犠牲の血が注がれる贖いの座)との関連が示唆しているように、血によって罪を拭い清めるという祭儀的な意味を背景として、キリストにおいて人を罪の支配から救い出してくださる神の働きを指している。この箇所(ローマ3・24〜25)は、ユダヤ人キリスト教団が形成した伝承をほぼそのまま使用しており、「贖い」という用語の使用もユダヤ人キリスト教団から出ている見られる。ローマ書8・23では、「体の贖い」という形で、滅ぶべき体が朽ちるべき状態から解放されて朽ちないものに変えられることを指している。コリントI1・30では、キリストが「義と聖と贖い」であるという形で出てくる。パウロは福音を語るのに伝承を引用する以外には「贖い」という語をあまり用いていないが、「パウロの名による書簡」になると罪の赦しという意味の「贖い」が救済論の中心的な位置を占めるようになる(コロサイ1・14、エフェソ1・7、1・14、4・30)。


イエス

 ユダヤ人の間によく見られる男性の個人名《イェホーシューアー》またはその短縮形である《イェーシューアー》の日本語表記。どの「イエス」であるかを特定するのに、福音書では出身地をつけて「ナザレのイエス」と呼ばれているが、パウロ書簡にはこの表現は出てこない。パウロ書簡では大部分「イエス・キリスト」、「キリスト・イエス」、「主イエス」、「主イエス・キリスト」というように、「キリスト」とか「主」《キュリオス》という称号をつけて、復活し、メシヤとして宣べ伝えられているイエスを指している。
 「イエス」という名が単独で用いられる場合はごく少ない(イエスを含む用例134回のうち11回)。その中から、イエスが主またはキリストであることを述べている文(ロマ10・9、コリントI12・3など)を除くと、「イエス」だけに触れる文は数例にとどまる。その数例の用法(コリントII4・10〜14、ガラテヤ6・17など)は、パウロが地上のイエスの生涯、とくにその苦難を熟知し、共感していたことを示唆している。パウロとイエスの関係については第一部第五章第三節の「パウロとイエス」の項を参照。


異言(いげん)

 ギリシア語原語《グロッサ》は「舌」を意味する語。パウロ書簡には「グロッサで語る」という表現がよく出てくる(コリントT14章など)。それは舌が直接神の霊にコントロールされて、本人が日常語ることがない言語で語り出す現象を指し、聖霊の《カリスマ》(賜物)の一つとされている(コリントT12・10)。そうして語り出された言語は、語る本人には理解できない言語であるが、聞いている人に理解できる場合と理解できない場合がある。理解できない言語の場合は、理性にも実を結ぶように、それを解釈する霊の賜物を求めるように勧められている(コリントT14・13)。ルカは、ペンテコステの日に弟子たちが「御霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出し」、それを聞いた様々な地方の人々が理解したと報告している(使徒2・1〜13)。また、新たに信仰に入った人たちが聖霊を受けて「異言」で祈ったと報告している(使徒10・44〜46、19・6)。異言は初期の集会に広く見られる賜物《カリスマ》であるが、最近のペンテコステ運動において復興している。


イスラエル

 旧約聖書では本来、ヤコブの12人の息子たちを名祖とする12部族の連合体を指す。ヤコブが「イスラエル」と呼ばれていたので(創世記32・28)、この連合体は「イスラエル」と呼ばれることになる。この連合体は、シナイ山でモーセと通して与えられた「トーラー」(律法)によってヤハウェ神との契約を結び、ヤハウェの民となり、父祖アブラハム・イサク・ヤコブに与えられた約束、すなわちカナンの地を与えるという約束を受け継ぐ民であると自覚していた。後にこの民が王国を形成し、それが南北二つの王国に分裂したとき、北王国が「イスラエル」と名乗った(パウロには北王国イスラエルを指す用例はない)。
 パウロは自分が所属する民族を指すとき、ほとんど常に「ユダヤ人」という名を用いている。ユダ族を中心とする南王国ユダは、バビロン捕囚後エルサレムに神殿を再建し、「トーラー」に基づく宗教であるユダヤ教を形成するが、このユダヤ教によって統合された民を「ユダヤ人」と呼んだのである。従って、パウロの時代では他の諸民族と区別してこの民族を指す呼称は「ユダヤ人」となる。パウロがこのユダヤ人を「イスラエル」という名で呼ぶのは、改めてこの民が神との契約を結び、神の約束を受け継ぐ選ばれた民であるという面から見る場合に限られる。従って、「イスラエル」という名は、神に選ばれた契約の民がなぜイエス・キリストを信じないのか、その不信仰のために神の約束は無効になるのかという問題を取り扱ったローマ書九〜一一章に集中して現れることになる(全用例20回の中13回)。その他には、自分がこの契約の民に属することを誇る場合(フィリピ3・5、コリントU11・12)とか、キリストの民こそ神の契約を継承する「真のイスラエル」であることを主張する場合(コリントU3・7、3・13、ガラテヤ6・16)など、数例がある。


異邦人(いほうじん)

 ギリシア語では「諸民族」。ユダヤ人から見たユダヤ人以外の諸民族を指す語。ユダヤ人は自分たちだけが唯一のまことの神の律法を与えられ、それに従って生きる浄い民であり、他の諸民族は汚れていると考えていた。異邦人が神の民となるには、ユダヤ教に改宗してユダヤ人となること、すなわち割礼を受けてモーセ律法を順守することが必要とされた。パウロが自分を「異邦人への使徒」(ロマ1・5)とするのは、たんにユダヤ人以外の民族に福音を宣べ伝えるために召された使徒という意味ではなく、異邦人が異邦人のままで、すなわち割礼を受けてユダヤ教に改宗しなくても、キリストを信じることによって神の民となるという福音の原理を確立するために召された使徒という意味である。なお、パウロ書簡では「まずユダヤ人に、そしてギリシア人にも」という形で、「ギリシア人」で異邦人を代表させる表現がよく用いられる。この表現については「ギリシア人」の項を参照。



永遠の命(えいえんのいのち)

 旧約聖書には死後の命という意味での「永遠の命」という思想はない。従って、モーセ五書だけを聖書とするサドカイ派は死後の命とか復活を信じていない。捕囚後に成立したファリサイ派において、義人は死後も滅びずに存続するという思想が出てくる。そして、さらに後期の黙示思想において初めて、「来るべきアイオーンにおける命」という意味で「永遠の命」という表現が現れる(ダニエル書12章)。福音書に出てくる「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」という質問(マルコ10・17)は、この「来るべきアイオーンにおける命」を受け継ぐには現在何をする必要があるのかという、当時のユダヤ教の基本的な問いを代表していると見られる。
 パウロは、信じる者はキリストにあって聖霊によりすでに終末的な質の生命に生きている現実を繰り返し語っているが、その命を「永遠の命」と呼ぶことはない。パウロが「永遠の命」という表現を用いるとき(パウロ書簡ではロマ6・23などで5回、パウロの名による書簡ではテモテT1・16など牧会書簡で4回)は、現在生きている命の完成態としてではあるが、「来るべきアイオーンにおける命」という将来の面を色濃く残している。キリストにあって聖霊により生きている現在の命を、すでに死を克服している命として「永遠の命」と呼び、信仰の中心的な主題にしたのはヨハネである。


エクレシア

 ギリシア語原語《エクレーシア》は、「呼び出された者たち」という意味の語で、本来《ポリス》(都市国家)で議決のために招集された市民集会を指した。ギリシア語訳旧約聖書はこの語を、「イスラエルの民」を指すヘブライ語の《カーハール》(会衆)の訳語として用いた。それで、福音によって集められたキリストの民を新約聖書は《エクレーシア》と呼ぶことになる。パウロはこの語を、個々の集会を指して「誰それの家にある《エクレーシア》」とか「どこそこの地域にある《エクレーシアイ》(複数形)」という形で用いる一方、その性格とか本質を念頭においてキリストに属する民全体について語るときもある。個々の《エクレーシア》を指す訳語としては「集会」がよいと考えられるが、キリストの民全体を指す場合は適当な訳語がないので、(本講解では)ギリシア語を日本語表記で「エクレシア」としてそのまま用いる。普通、日本語訳聖書では、個々の集会を指す場合も民全体を指す場合も「教会」と訳されている。「エクレシア」について、とくに「神のエクレシア」という表現について、またその訳語について、詳しくは第二部第三章の「神のエクレシア」の項を参照。


奥義(おくぎ)

 ギリシア語《ミュステーリオン》の訳語。このギリシア語は英語の「ミステリー」の語源となった語で、本来「隠されたもの、秘密」を意味する。ヘレニズム世界の宗教用語としては、救済のためにあずかる「秘密の儀式」(ふつう「密儀」と言われる)を指した。ヘレニズム期に成立したユダヤ教黙示思想では、天に隠されていたが特別の選ばれた人物に啓示される秘密の知識(エノク書など)とか、神の御旨の中に隠された終末についての「秘密の御計画」という意味で用いられた(たとえばダニエル2章、新共同訳では「秘密」と訳されている)。
 パウロはローマ書とコリント書Tでこの語を8回用いているが、「密儀」という意味の用例はなく、みな黙示思想的な「神の秘密の御旨」という意味で用いている。しかし、黙示思想における終末的な「神の秘密の計画」というよりは、「隠されていた神秘としての神の知恵」(コリントI2・7)という意味が強い。パウロにおいては、十字架の宣教も「神の《ミュステーリオン》」の宣教である(コリントI2・1)。ローマ書までのパウロ書簡では用例は比較的少ないが、コロサイ書とエフェソ書になるとこの二書簡だけで用例は10回に及び、《ミュステーリオン》は中心的な思想になる。そこでは黙示思想的な「二つのアイオーン」の枠組みの中で、かっては隠されていたが今では聖徒たちに啓示された神の救済計画という意味で用いられている。
 協会訳、新改訳、岩波訳は「奥義」と訳しているが、新共同訳は「秘められた計画」とか「神秘」と訳している。
 


 カ行

型(かた)/予型 (よけい)

 《テュポス》(英語の「タイプ」の語源)の訳語。パウロは《テュポス》という語を(副詞形を含めて)6回用いているが、その中でコリントI6章の6節と11節では、荒れ野におけるイスラエルの民の不従順を「時の終わりに直面しているわたしたちに警告するため」の「前例」(新共同訳)という意味で用いている。そして、ローマ書5章14節では、アダムを来るべき方(キリスト)の「型」《テュポス》としている(新共同訳はここでは「前もって表す者」と訳している)。このような例から、旧約聖書の中の人物や出来事や祭儀などを、キリストとキリストにおける救いの出来事を「予め指し示す型」と見る見方、すなわち旧約聖書の「予型論的解釈」が出てくることになる。


割礼(かつれい)

 男性性器の包皮を手術で切除する儀式。古代諸民族によく見られる習慣であるが、イスラエルではヤハウェとの「契約のしるし」として重要な意味をもった(創世記一七章)。とくに捕囚期と捕囚以後においては、異教徒からユダヤ教徒を分かつしるしとして重視された。それで、異教の支配者がユダヤ教を禁圧しようとするとき割礼禁止という形をとり(セレウコス朝のアンティオコス四世やローマ皇帝ハドリアヌス)、ユダヤ人はこれに命がけの抵抗をして、マカベヤ戦争やバルコクバ反乱となった。
 ユダヤ人は生後八日目に割礼を受けた(フィリピ3・5)。異邦人のユダヤ教への改宗には割礼を受けることが求められた。ユダヤ教会堂にはユダヤ教の教えに引かれた異邦人が参加したが、割礼を受けるまでは正式のユダヤ教徒とは認められず、「神を敬う者」と呼ばれた。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、異邦人を「無割礼の者」と呼んで、不浄の民であるとした。
 異邦人がキリストを受け入れて信仰に入ってきたとき、ユダヤ人指導者の中には、異邦人信徒も割礼を受けてユダヤ教に改宗しモーセ律法を順守することを要求する勢力があった。パウロはこの要求を断固として退け、異邦人は割礼を受けなくても、すなわち異邦人のままでキリストの信仰によって義とされ救われることを主張した。それで、パウロ書簡で「割礼」の語は、割礼と律法順守を要求するユダヤ人指導者に反対して信仰によって義とされることを主張するガラテヤ書とローマ書第一部(1〜4章)に集中して出てくることになる(全部で35回の中23回)。もちろん、パウロはユダヤ人に割礼を廃止することを求めてはいない。ユダヤ人はユダヤ人のままで信仰によって救われるのである(ロマ3・30、コリントI7・18)。パウロにとって割礼は、身体に受ける割礼ではなく、預言者が語ったように「心の割礼」でなければならないことになる(フィリピ3・3、ロマ2・25〜29)。
 「パウロの名による書簡」になると、異邦人は割礼なしでキリストの民であるということは確立しているので、「割礼」の語が出てくるのは僅かであり(6回)、信仰上の問題となっていない。



神の義(かみのぎ)

 「義/義とする」の項の中の【神の義】を見よ。


からだ/体/身体(からだ)

 死後の世界とか内面的な悟りなどよりも地上の現実の生活に焦点をあてて信仰を取り扱った旧約聖書の伝統を受け継ぎ、パウロの信仰は「具体的」である。すなわち、体を具(そな)えた人間全体の変革と救済を扱っている。
 パウロにおいて救済は神の霊の働きであるが、その霊を宿すのは体である。体は「聖霊が宿る神殿」であり、キリストがその血という代価をもって買い取って自分のものとされたのだから、神の栄光を現すために用いるべきものとなる(コリントI6・19〜20)。キリストに属する者の実際の生活は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ロマ12・1)という言葉で要約される。終末における神の裁きにも、「体を住みかとしていたときに行ったことに応じて報いを受ける」ことになる(コリントU5・10)。終末において神の子に現される栄光は「体の贖い」によって与えられる(ロマ8・23)。すなわち、現在の卑しい朽ちるべき体が朽ちることのない栄光の「霊の体」に変えられるという「死者の復活」にあずかることになる(コリントI15・42〜44)。「霊の体」については、第二部第七章「死者の復活」の中の「六 復活の体」を参照。なおそのさい、「体」《ソーマ》は「肉」《サルクス》と混同されてはならない。《サルクス》については、「肉」の項を参照。
 さらに、パウロはキリストの民の集会「エクレシア」を「キリストの体」として、その有機的な一体性を語っている(コリントI12・30)。この表現は個々のメンバーの有機的なつながりと一体性を強調するだけでなく、霊なるキリストはエクレシアという体によって、この地上の現実の歴史の中にご自身を現されるという、パウロの福音の具体性を示している。この見方は「パウロの名による書簡」で、キリストを体であるエクレシアの頭とする形で(コロサイ1・18)さらに展開されることになる。

カリスマ

 「賜物」の項を見よ。


義(ぎ)/義とする(ぎとする)

 「義」《ディカイオシュネー》という名詞は、新約聖書での用例91回の中パウロ文書に57回(ローマ書に33回)用いられ、「義とする」《ディカイオー》という動詞は、新約聖書での用例39回の中パウロ文書に25回用いられていて、パウロの福音理解の鍵をなす用語であることをうかがわせている。

【義】
 旧約聖書では神および人の正しい振る舞い、とくに契約に忠実な行為が「義」《ツェデカー》と呼ばれている。神は義であり、人に義を行うことを求められる。すなわち、契約の言葉(律法)を忠実に守り行うという意味の義が求められている。神はご自身の義によって世界を裁かれる(この意味の《ツェデカー》は、新共同訳では「正義」と訳されている)。一方、神は契約に忠実に民を救われるので、神の義は救いの賜物という形で現れ、義と救いが並行表現となる場合がある(イザヤ51・5など)。ユダヤ教においては、神の律法を順守することが「義」であり、律法を順守する者が「義人」と呼ばれた。
 新約聖書ではマタイが「山上の説教」で、神から求められている人間の在り方とか行為という意味で「義」を5回用いているが(6・1の新共同訳「善い行い」は原語では《ディカイオシュネー》)、パウロはこの意味で用いることは比較的少なく(ロマ6・13、6・16、6・19、フィリピ1・11)、おもに神と正しい関係にあり、神に受け入れられる人間の在り方とか資格という意味で用いている。パウロにおいて「義」の問題とは、どうすれば神に受け入れられ、本来の神との交わりに生きることができるようになるのかという問題、すなわち、どうすれば救われるのかの問題である。したがって、「義」という用語はそれに到達する方法を示す表現を伴って出てくることが多い。ユダヤ教の原理である「律法による義」は厳しく否定され(ガラテヤ2・21、3・21、フィリピ3・6、3・9、ロマ10・5)、「信仰による義」(ロマ9・30、10・6)あるいは「信じる者に与えられる義」(フィリピ3・9)、または「信じる者に認められる義」(ロマ4・3)が福音の原理として繰り返し主張される。

【義とする】
 このことは「義とする」《ディカイオー》という動詞を用いても表現される。《ディカイオー》というギリシア語はもともと法廷用語で、旧約聖書のギリシア語訳でも、この動詞はおもに神の裁きとの関連で用いられ、「罪に定める」の反対として、神が人を(神との関係において)正しい者として判決し扱われることを指している。聖書においては裁くのは神であり、人は裁かれる立場であるから、能動態では神が主語であり(神が人を義とする)、人が主語の場合は必ず受動態で用いられる(人は神によって義とされる)。人を主語とする能動態の用例はない。
 パウロもこの動詞を旧約聖書とユダヤ教の用法に従って用いており、最後の審判において罪に定められることなく義とされることを念頭に置いて未来形で用いる場合もあるが(ロマ2・20、3・20)、キリストの出来事によってすでに義とされていると過去形で用いることがパウロの独自性を示している(ロマ5・1、5・9、8・30)。義とされる道については、名詞「義」の場合と同じく、ユダヤ教の原理である「律法の行為によって義とされる」ことは否定され、「(キリストの)信仰によって義とされる」という原理が福音の核心として繰り返し主張されている(ガラテヤ2・16)。
 なお、「義」とか「義とされる」ということはユダヤ教の主要関心事であるので、この用語はパウロがユダヤ人を念頭に置いて議論する場合(ガラテヤ書、ローマ書、フィリピ書3章など)によく用いられ、異邦人をおもな対象とする他の書簡における用例は少ない。異邦人には他の用語で同じことが語られている。たとえばコリント書簡では(「義」が出てくるTの1・30、6・11、Uの5・21はユダヤ人起源の伝承が用いられていると見られる)、救いは「和解」という用語で語られている(コリントU5・18以下)。ユダヤ人と異邦人の両方を対象とするローマ書では、「義とされる」と「和解される」が並行して用いられている(5章の9節と10節)。
 
【神の義】
 このようにパウロにおいては、人間は律法順守や道徳的・宗教的精進などの自分の働きによって自分を義とすることはできないのであるから、人は神の働きによってはじめて義とされることになる。パウロ書簡(とくにローマ書)では、神が人を義とする働きが主題となっており、人を義とする神の働きが「神の義」と呼ばれている。福音の中に啓示されたのは、そのような「神の義」である(ロマ1・17)。
 もともと旧約聖書において「ヤハウェの義」は契約に忠実に行為されるヤハウェの働きを指していた。契約に背く悪しき者を裁き、忠実な義人を救い高く挙げるヤハウェの働きが「ヤハウェの義」として賛美されていた。ユダヤ教においてもその意味は受け継がれ、とくにクムラン文書では、「神の義」は神が罪を取り除き、契約を確立して民を救われる働きと理解されていた。黙示思想文書では、「神の義」は不義の民を裁き、義人を救われる神の終末審判における働きを指していた。
 初期のユダヤ人キリスト教団は、十字架につけられ復活したイエス・キリストの出来事に(黙示文書では終末時に現されるとされていた)「神の義」が現されたと告白し宣べ伝えた。ロマ3・25〜26a と コリントU5・21 はこのような初期のユダヤ人キリスト教団の告白をパウロが引用しているとみられる。パウロはこのようなユダヤ人キリスト教団の「ケリュグマ」を継承しながら、「神の義」に独自の内容を与えている。すなわち、「救いに至らせる神の力」としての「神の義」である(ロマ1・16〜17)。これがローマ書を貫く主題となる。
 ユダヤ人キリスト教団の告白における「神の義」には、ユダヤ教の伝統の法廷的な意味合いが強いが、パウロはそれをキリストにおいて現実に働く神の力として理解している(ローマ書1章の16節と17節のつながりがこのことを指し示している)。その力は律法とは無関係にキリストの出来事の中に現され、律法に中にいるユダヤ人であれ、律法の外にいる異邦人であれ、信じる者には区別なく恩恵の賜物として働き、人を現実に変革して「救い」に至らせるのである(ロマ3・21〜24)。「神の義」という表現自体はこの段落(ロマ3・21〜26)以外にはほとんど出てこないが、「救いに至らせる神の力としての神の義」という主題は、「パウロによる福音書」とも言うべきローマ書全体を貫いている(詳しくはローマ書講解を参照)。
 なお、「パウロの名による書簡」には「神の義」は用いられていない。


希望(きぼう)

 「希望」(名詞)および「希望する」とか「望む」(動詞)は、新約聖書では圧倒的にパウロ文書(とくにローマ書)に多く用いられている。パウロにおいて希望は信仰と愛と並んで、キリストにある者に与えられているもっとも尊い宝とされている(テサロニケT1・3、5・8、コリントI13・13)。
 パウロにおいては、希望はたんに将来によいことが起こるようにという願望ではなく、神の約束によって確かなものとされた将来を現在に生きる姿勢を指している。たしかにパウロにおいても、希望は現在まだ持っていないものを将来に期待する姿勢であることは事実である(ロマ8・24b〜25)。しかし、パウロにおける希望が一般の未来への願望(よく夢という語で語られる)と異なる点は、まだ持っていない将来が現在の生き方を支える現実の力となっている点である。それは、アブラハムの実例に示されているように(ロマ4章)、将来が神の約束により確実であることと、終末時に与えられる将来の栄光がすでに現在聖霊により心の内に注がれている神の愛によって保証されているからである(ロマ5・2〜5)。キリストにある者は信仰によって救われて、このような質の希望に生きるようになった者である(ロマ8・24a この箇所の意味についてはロマ書訳注の当該箇所を参照)。
 パウロにおける希望は、このように聖霊による現実の力である点で、黙示思想の希望と区別されなければならない。



ギリシア人(ぎりしあじん)

 パウロは異邦人、すなわちユダヤ人以外の人たちを「ギリシア人」と呼ぶことが多い。当時ローマが支配していた地中海世界は、アレキサンドロスの東征以来、ギリシアの文化が広く行き渡り、ギリシア語が共通語として用いられた。ギリシア人以外の民族の人たちも、ギリシア風の都市に暮らし、ギリシア語を話し、ギリシア的な思想と生活をする人たちが多かった。それで、ユダヤ人は神に選ばれた特別の契約の民である自分たち以外の民族を指すときに、「ギリシア人」という語で代表させる場合が多かった。パウロもこのようなユダヤ人の視点から、神の救済の働きを語るとき、「まずユダヤ人に、そしてギリシア人にもまた」という形の二分法で語ることが多い(ロマ1・16など)。また、キリストにあってはユダヤ人と異邦人の区別はないことを語るとき、「ユダヤ人もギリシア人もなく」と表現する(ガラテヤ3・28)。ただし、ギリシア人の宗教的傾向をユダヤ人と対比して語るときは、固有のギリシア人を指していると見られる(コリントI1・22)。まれに「ギリシア人にも未開の人(バルバロス)にも」というギリシア人の視点からの二分法を用いる場合もある(ロマ1・14)。


キリスト

 ギリシア語の《クリストス》を日本語で表記した語。《クリストス》は、旧約聖書で神から「油を注がれた者」を意味するヘブライ語の《マシアーハ》(日本語では「メシア」)のギリシア語訳である。《クリストス》というギリシア語も「油を注がれた者」という意味の語である。旧約聖書で《マシアーハ》は、油を注がれて王とか祭司、預言者として立てられた人物を指すが、捕囚後に成立したユダヤ教では、終わりの日に神から派遣されるイスラエルの救済者を指すようになっていて、その到来が待望されていた。初期の教団は、復活したイエスをユダヤ人に約束されていた「メシア」として宣べ伝えたが、ギリシア語を用いる教団は異邦人世界に復活したイエスを《クリストス》であると宣べ伝えた。したがって、《クリストス》は本来、神から霊を注がれた終末的な世界の救済者を指す称号である。
 パウロ書簡では、このキリストであるイエスを指すのに「キリスト・イエス」とか「イエス・キリスト」という呼び方が多く用いられている。ただ、「キリスト」が復活した救済者の称号であることが理解されないヘレニズム世界では、「イエス・キリスト」が一人の人物の名前のように受け取られる傾向が出てきたので、イエスが復活した終末的な救済者であることを示すのに《キュリオス》(主)という称号が付けられるようになる。パウロも重要なところでは《キュリオス》という称号をつけて、「主イエス・キリスト」という形を用いる。
 パウロの「キリスト」の用法で重要なことは、この名を終末的な救済者の称号としてだけではなく、復活して現在も霊なる現実として働いている方を指す用法が多いことである。とくに、「キリストにあって」という時の「キリスト」は、このような意味である。


グノーシス/グノーシス主義(ぐのーしすしゅぎ)

 パウロにとって「知識」は聖霊の賜物であり尊いものであるが(コリントI12・8)、他方「知識」に誇ることの危険も指摘される(コリントI8・1)。パウロ以後の時期では、自分の霊的知識を誇り、福音の単純な告知の言葉を軽視する傾向が出てきたので、「不当にも知識と呼ばれている反対論」を避けるようという警告がなされるようになる(テモテT6・20)。この「知識」のギリシア語原語が《グノーシス》である。
 このような「不当にも知識《グノーシス》と呼ばれている反対論」が発生する背景には、当時の地中海世界に広がり始めていた「グノーシス主義」と呼ばれる宗教運動がある。「グノーシス主義」の成立の経緯やその思想内容は複雑多様で、簡単に説明することはできないが、強いて要約すれば、現実の世界と宇宙《コスモス》を悪として、この悪の現実に捕らえられ眠り込んでいる魂が、自分に与えられた霊知《グノーシス》によって目覚め導かれて、魂の本来の故郷である光の領域に帰還することが救済であるとする宗教思想と見ることができる。このようなグノーシス主義はキリスト教成立以前すでに(おそらくユダヤ教周辺から)始まっていたが、キリスト教が広まると、キリスト教思想と融合し、二〜三世紀にはキリスト教的な用語でグノーシス主義の宗教思想を説く「キリスト教グノーシス主義」が盛んになる。
 パウロの時代にはまだグノーシス主義と呼べるような体系的な宗教にはなっていなかったが、その萌芽ないし傾向はあったと見られる。パウロを批判したユダヤ人の働き人たちは、たんに割礼とモーセ律法の順守を要求したのか、あるいはグノーシス主義的な思想を背景にしてパウロを批判したのか議論されているが、確定は困難である。牧会書簡は、二世紀になって教会内に入り込んできたグノーシス主義的な教説を排撃するために書かれている。グノーシス主義はその教説を多く神的存在の系譜からなる神話的な形で語るが、牧会書簡はそれを「作り話や切りのない系図」として退けている(テモテT1・4)。
 

クムラン文書(くむらんぶんしょ/くむらんもんじょ)

 一九四七年に死海北西岸のクムランで発見された写本群の総称。死海文書ともいう。聖書正典の写本、外典と偽典、注解書、および独自の宗団文書を含む。歴史家のヨセフスは、イエスの時代のユダヤ教には、ファリサイ派、サドカイ派の他にエッセネ派があったことを伝えているが、クムラン文書はエッセネ派の文書であると見られる。
 エッセネ派は、エルサレムの大祭司を非正統として、「義の教師」と呼ばれる指導者によって導かれて、クムランの洞窟周辺で修道院的な共同生活をした一団であり(各地で生活する在家の信徒もいた)、律法の厳格な順守と黙示思想的な終末信仰が特色である。洗礼者ヨハネはこの宗団と関わりがあり、間接的にイエスにも影響を及ぼし、最初期のエルサレム教団に教団のモデルを提供したと見られる。
 パウロとの関係では、パウロがエルサレムで律法の研究に励んでいたころ、前31年の地震でクムランを去った宗団がエルサレムに移って活動していたので、パウロは何らかの形で接触があり、影響を受けた可能性がある。パウロ書簡には、黙示思想的な終末思想の枠組みから義についての用語に至るまで、エッセネ派から影響を受けていた痕跡が認められる。


 サ行

死者の復活(ししゃのふっかつ)/死人の復活(しにんのふっかつ)

 「復活」の項を見よ。


使徒(しと)

 ギリシア語《アポストロス》は「遣わされた者、使者」の意。イエスも父から遣わされた者であり、信徒各人もキリストの証人として遣わされた者であるが、初期の教団では、福音を宣べ伝え、神の言葉によって教団を指導するために任命された特定の役職を指すようになった。使徒職は、聖霊の賜物によって与えられる役職であり、その権威は個々の集会を超えて教団全体に及び、預言者とか教師の上位にある、教団最高の役職とされた(コリントI12・28)。パウロの時代では、使徒の範囲は流動的で、パウロ自身は、復活の主イエスを見て、その証人として世に遣わされて働いている者が使徒であるとしている(コリントI9・1、15・8、ロマ16・7)。しかし、誰が使徒であるかについての基準は人によって異なり、パウロが使徒であることを否定する者もあったので、パウロは自分が使徒であることを激しく争わなければならなかった(ガラテヤ書、コリントU)。パウロの後、福音書の時代になると、使徒は地上のイエスの直弟子であったとされる「十二人」に限られるようになる(使徒1・21以下)。

主(しゅ)

 ギリシア語は《キュリオス》。このギリシア語は本来、主人、所有者、支配者などを意味し、世俗的には奴隷の主人、家などの所有者、地域の支配者などを指し、宗教的には神々を指して用いられた。旧約聖書のギリシア語訳では(ギリシア語を用いるパレスチナのユダヤ人の間でも)、神またはヤハウェを指すのに用いられ、新約聖書においても(パウロを含め)この用法は踏襲されている。
 ところが、イエスが復活された後、この称号は復活のイエスに向かって用いられるようになる。アラム語を用いるパレスチナのユダヤ人教団でも、「マラナ・タ」(主よ、来たりたまえ)という告白的な祈りにもその痕跡が認められるように、すでにイエスが「主」と呼ばれていたが、おそらくアンティオキアを中心とする異邦人教団の成立にともない、異邦人への宣教では、復活されたイエスを《キュリオス》と告白することが信仰告白の中心になる。パウロも、パウロ以前に成立していたと見られる、イエスを《キュリオス》とする信仰告白を引用している(コリントI12・3、ロマ10・9、フィリピ2・6〜11)。また、ギリシア語では、人間を支配する霊的諸存在(神々)が《キュリオス》たちと呼ばれていたので、パウロは復活されたイエスこそが唯一の《キュリオス》であることを強調している(コリントI8・6)。「キリスト」は本来神から油を注がれたメシアとしての称号であるが、異邦人社会ではその意味が理解されなくなり、「キリスト」とか「イエス・キリスト」が一人の人名のようになったので、イエスの地位を指す称号として「主」《キュリオス》が多く用いられるようになり、「主イエス」とか、「主イエス・キリスト」という呼び方が多くなる。異邦人への使徒としてのパウロ書簡には、この用法の《キュリオス》が圧倒的に多い。

十字架(じゅうじか)

 新約聖書では本来イエスが処刑された十字架刑を指す(十字架刑の実際については、マルコ福音書講解88「十字架」を参照)。しかし、パウロは「十字架」という名詞を、イエスの十字架刑という歴史上の出来事を指すのに用いることはない。また、自分が背負う苦難を象徴するのに用いることもない。
 パウロは「十字架につける」という動詞を受動態で用い、「十字架につけられたキリスト」という形で、自分の宣教の核心を語る(コリントI1・23、ガラテヤ3・1)。この場合、十字架につけられているのは(地上のイエスではなく)復活者キリストであり、動詞は現在完了形であるので、パウロの宣教は「十字架につけられたままの姿の(復活者)キリスト」という、人間の知恵には矛盾した愚かさの極みの形となり、「十字架のつまずき」(ガラテヤ5・11)となる。この宣教の言葉が「十字架の言葉」(コリントI1・18)と呼ばる。その中身は、救いの力に満ちて空しくはない「キリストの十字架」であり(コリントI1・17)、パウロの唯一の誇りである(ガラテヤ6・14)。
 なお、パウロはキリストに合わせられて自分が死ぬ(ロマ6・3〜4)ことを、「キリストと共に十字架につけられる」(ガラテヤ2・19)という形で語り、また、「このキリストによって、わたしは世に対して、世はわたしに対して、十字架につけられている」と語る(ガラテヤ6・14)。
 

自由(じゆう)

 「解放する」という動詞から、解放された状態を指す「自由」(名詞)や「自由な」(形容詞)が派生している。したがって、「解放」と理解するほうが適切な場合もある。この語群は、新約聖書では圧倒的にパウロ文書に多く出てくる(とくに律法からの解放を主張するガラテヤ書とローマ書に多い)。奴隷が解放されて自由人となることを比喩として用いて、罪の支配から解放されることが説明され(ローマ6・15〜23)、キリストにある者は律法の軛から解放されて自由であること(ガラテヤ5・1)、罪と死の支配から解放されていること(ローマ8・2)が強調される。パウロにおいて救済は罪や死の支配力から「解放される」ことであり、また、それが「律法と無関係の神の義」によってなされることから、律法の拘束から解放されているという意味の「自由」が、パウロの福音において中心的な位置を占める。なお、ローマ8・21の「神の子の自由」は、「神の子の解放」と訳した方がわかりやすい(同箇所の注を参照)。「奴隷」の項を参照。

信仰(しんこう)

 パウロにおいても、福音宣教活動の一般の用法と同じく、宣べ伝えられている福音の使信を信じて受け入れること、それに伴ってイエスをキリストと告白することを意味する場合が多い。しかし、パウロ書簡では、「イエス・キリストの信仰」とか「キリストの信仰」という表現で語られる場合が多い(とくにローマ3・22のような福音の核心を語る箇所で)。この翻訳では、これを「キリスト信仰」と訳している(ローマ3・22の訳注および講解を参照)。この表現は、イエス・キリストを信じることを当然含みながら、それより広く、霊なるキリストとの交わりに生きる現実、すなわち「キリストにあって」生きる現実の全体を指すと見られる。このような意味での「キリストの信仰」がたんに「信仰」という語だけで指される場合もある(たとえばガラテヤ3・23〜26)。
 パウロにおいては、「信仰と愛と希望」というように並べて取り上げられる場合がある。この場合の「信仰」は、救いの土台である「キリストの信仰」という広い意味ではなく、「キリストにあって」賜る聖霊の働きが、子としての身分を与え、父へのまったき信頼に生きることを可能にしてくださることを指している(ローマ8・14〜16)。また、さらに狭い意味で、聖霊が分かち与える《カリスマ》の一つとして、病気をいやすことなどと並ぶ「力ある業」を行う能力を指す場合もある(コリントT12・9、13・2)。

救い(すくい)

 パウロにおいても、旧約聖書と黙示思想における終末的な救いの思想、すなわち終わりの日に現れる神の怒りから救い出されるという思想が保持されている(テサロニケT1・10、5・8〜9、ローマ10・1、13・11)。しかし同時に、現在が「救いの日」であり(コリントU6・2)、信じる者の中に救いのプロセスが始まっているという面も出てきている(フィリピ2・12〜13、コリントU3・17〜18)。この両面を含んで、パウロは「救い」を、福音に現れた神の働きの目標として提示する(ローマ1・16)。パウロにおいては、救いとは罪と死の支配から解放され(ローマ8・2)、義とされて現在すでに神との平和を得ており(ローマ5・1〜2)、御霊によって子として父との親しい交わりに生き(8・14〜17)、将来には神の栄光にあずかることである(8・18以下)。

聖霊(せいれい)/御霊(みたま)

 聖書では、もともと風、息、気を指す語(ヘブライ語では《ルアハ》、ギリシア語では《プニューマ》)が「霊」という意味で用いられている。この語は、人間存在の一要素としての「霊」とか、人間を超えて働く力としての「諸霊」を指すのにも用いられるが、おもに神の霊を指すのに用いられる。パウロにおいては、《プニューマ》が人間の霊を指すことは稀で(テサロニケT5・23、ローマ8・16など少数)、ほとんどの場合、定冠詞をつけた《ト・プニューマ》という形で神の霊、神から与えられる霊を指している。「聖なる」がついて神の霊であることが明示されている場合も多く、その時は「聖霊」と訳しているが、「聖なる」とか「神の」などがつかない場合も、ほとんどは人間の生来の霊ではなく、キリストにあって神から与えられる霊を指しているので「御霊」と訳している。このような神からの霊を指すと考えられる場合、新共同訳は ”霊”と表記しているが、これは日本語表記になじまないので、私訳では「御霊」と訳している。パウロにおいては、キリストにあって受ける新しいいのちの現実はすべて御霊の働きの結果、「実」である。パウロはその書簡のいたるところで御霊の働きに触れているが、とくにガラテヤ書五章、コリント書I一二〜一四章、ローマ書八章で詳しく論じている。

宣教(せんきょう)

 広い意味では、預言者のように、神から委ねられた神の言葉を民に告げ知らせる行為一般を指す。イエスも「神の国」を「宣教」された。しかし、イエスの復活の後、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を神の救いの業として告げ知らせる活動が、とくに「宣教」と呼ばれ、パウロ書簡ではこの意味で用いられている。動詞《ケーリュッセイン》はこの告知の活動を指すが、その名詞形《ケーリュグマ》は宣教活動そのもの、または告知された内容を指す(コリントI1・21、2・4、15・14)。したがって、「福音」《エウアンゲリオン》とほぼ同じ意味になるが、初期の宣教運動を議論するときの学術用語としては、コリントI15・3〜5に見られるような定型化された告知内容を指している。なお、「宣教」《ケリュグマ》を告げ知らせる活動と「教え」《ディダケー》を与える活動を区別して、前者を教団の外にいる者に福音を告げ知らせる伝道活動、後者を内にいる信徒を指導する牧会活動とする見方もある。 「福音」の項を参照。

相続(そうぞく)

 旧約聖書で「相続」というのは、土地を受け継ぐことを意味する。もともと、ヨシュアに率いられてカナンの土地に入ったイスラエルの十二部族が、それぞれ割り当てられた土地を受け継いだことを指す。アブラハムには「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」の広大な土地が約束された(創世記一五・一八)。しかし、ユダヤ教黙示思想において、このアブラハムへの約束が終末論的に理解され、神が世界を裁かれる終末時に、それまで世界を支配していた悪人が滅ぼされ、アブラハムの子孫である選ばれた義人が世界を支配するようになると信じられるようになっていた。それが「世界を相続する者となる約束」とされた。「相続する」という表現は、ファリサイ派ユダヤ教やイエスの宣教では、「神の国を相続する」(マタイ五・五、二五・三四)とか「永遠の命を相続する」(マルコ一〇・一七)という形で、終末的な救済を象徴する意味で用いられている。パウロにおいては、それと同じく最終的な救済にあずかること、神の栄光を受け継ぐことを指している(ローマ8・17〜25)。

 タ行

賜物(たまもの)

 新約聖書では二つのギリシア語が「賜物」と訳されている。一つは《ドーレア》で、好意から無償で与えられる贈り物を指している。「神の賜物」(ヨハネ四・一〇)とか「聖霊の賜物」(使徒二・三八)などはその例である。しかし、パウロ書簡ではこの語の用例は少なく、「義の賜物」(ローマ五・一七)の一例と、その対格形が副詞的に「無代価で、無償で」という意味で用いられるか(ローマ三・二四、コリントU一一・七)、または「無目的に、空しく」という意味で用いられている(ガラテヤ二・二一)だけである。報酬の反対として、無代価で与えられることを指すとき、パウロは「恵み《カリス》によって」と語ることが多い(ローマ四・四)。ローマ三・二四では、「無代価で《ドーレアン》」と「恩恵《カリス》によって」が同格で並んでいる。
 もう一つは《カリスマ》(およびその複数形の《カリスマタ》)である。これは《カリス》(恩恵)によって与えられるよいものを指す語で、その用例は圧倒的にパウロに多い。神から恩恵によって賜る良いものが「恩恵の賜物」と呼ばれ、永遠の命も「神の賜物《カリスマ》」と呼ばれている(ローマ六・二三)。
 しかし、「カリスマ」の用例の多くは、「知恵の言葉、知識の言葉、病気をいやす力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、種々の異言を語る力、異言を解釈する力」など、聖霊によって各人に与えられる特殊な霊的能力を指している。この用例はコリント第一書簡の一二章に集中しているが、ローマ書一二章にも出てくる。これは、パウロ書簡だけに出てくるパウロ特有の用例である。


罪(つみ)

 パウロは「罪」《ハマルティア》という用語を単数形で用いている。パウロ書簡で、この語または同じような意味の用語が複数形で現れる箇所はごく僅かであるが、それはほとんどみなユダヤ人キリスト教の定型的な伝承を引用する場合に限られる。ユダヤ教で用いられる複数形の「罪」とか「罪過」は、律法に違反する個々の行為を指す。それに対してパウロが用いる単数形の「罪」は、神に背かせる方向に働く支配力を指す。したがって、複数形の「罪」が現れる文では、いつも人が主語で「人が罪を犯す」という形で用いられ、単数形の「罪」が現れる文では、いつも「罪」が主語で人は目的語となり、「罪が人を支配する」とか「罪が人に報酬を与える」というように用いられる。パウロは人間を支配する力としての罪を、奴隷を支配する主人を比喩として描いている(ローマ六・一五〜二三)。
 パウロ書簡には「原罪」に相当する用語はないが、生まれながらの人間はすべて「罪の支配下にある」という思想が表明されている(ローマ3・9、5・12)。パウロはこの普遍的な支配力としての罪と格闘し、その本質(正体)を暴露している(ローマ書7章)。
 なお、動詞形《ハマルタノー》はふつう「罪を犯す」と訳されるが、これは個々の律法に違反する行為を指すことになり、罪が支配力として理解されている場では不適切である。この翻訳では、「罪に陥る」とか「罪の下にいる」と訳している。この動詞はもともと「的を外す」という意味の語で、本来の意味に理解して訳すのが適切な場合がある(コリントT15・34)。

時(とき)

 「時」を意味する二つのギリシア語《カイロス》と《クロノス》は、パウロ書簡において日常的な時間を指すのにほとんど同意語として用いられる場合が多いが、基本的には《クロノス》が時間の経過とか一定の長さの時間を指すのに対して、《カイロス》は特別の意味をもつ出来事が起こる時点を指すことが多い。それで、キリストの出来事(キリストの十字架・復活の出来事やキリストの来臨)が起こる時は普通《カイロス》を用いて指し示される(ローマ五・六、一三・一一、コリントT七・二九など)。しかし《クロノス》も、「時《クロノス》が満ちると、神は御子をお遣わしになった」(ガラテヤ四・四)とか、「時《クロノス》と時期《カイロス》について」(テサロニケT五・一)というように、終末的な出来事が起こる時を指すのに用いられることもある。

 ナ行

肉(にく)

 ギリシア語原語は《サルクス》。パウロがよく用いる用語で、新約聖書の一四七回の用例中、約半数はパウロ書簡に出てくる。人や動物の肉体というごく日常的な意味で用いる場合もあるが(コリントT一五・三九、コリントU一二・七など)、多くの場合、心身全体を含む人間存在そのものを指す。「すべての肉」は全人類を指し、「肉と血」と組み合わされて神の事柄に関わりえない人間性を指している(コリントT一五・五〇、ガラテヤ一・一六)。「肉によれば」という句は、人間的次元ではという意味で用いられ(ローマ一・三、四・一)、神的次元と区別される。
 しかしパウロにおいて、この語の用例で重要なのは、肉《サルクス》が御霊《プニューマ》との対比で用いられる場合である。肉《サルクス》はとくに生まれながらの人間性そのものを指すのに用いられ、神の御霊《プニューマ》の本性とは反対の方向に向かう人間性を指している(ガラテヤ五・一七以下)。肉は弱く、神の御心に従いえない性質のものであり、罪に支配されているので、「罪の肉」と呼ばれる(ローマ八・三)。人間は、肉(生まれながらの人間本性)に従う限り、神の命に生きることはできないのであって、キリストにあって賜る御霊によって生きる時にはじめて、肉の働きを克服して神の命に到達することができるとされる(ローマ八・四〜六)。
 このように「肉」は御霊の働きによって克服されるべき反神的人間性であり、「体」《ソーマ》と区別されなければならない。体《ソーマ》は、神によって救済される人間の本質的な構成要素であって、体を具えた人間全体が御霊の働きによって救われるのである。「からだ/体」の項を参照。 


 ハ行

バプテスマ

 イエスは洗礼者ヨハネからバプテスマを受け、彼の教団において活動された初期にはバプテスマを授ける活動をされたが(ヨハネ三・二二)、ガリラヤで御自身の宣教を始められてからはバプテスマを授けることなく、またバプテスマについて語られたこともない。しかし、イエス復活後の初期の教団は、福音を聞いてイエスをメシア・キリストと信じる者に、バプテスマを受けてその信仰を言い表すように求めた。使徒言行録は、パウロも福音の宣教活動においてバプテスマを授けたと報告している(使徒一六・一五、一九・五など)。パウロもその書簡で、受取人がバプテスマを受けていることを前提している(ガラテヤ三・二七、ローマ六・三)。
 ところでパウロ書簡では、バプテスマについて語るさい、名詞形《バプテスマ》は一回(ローマ六・四)だけで、ほとんどは動詞形《バプティゾー》を用いている(十三回)。《バプティゾー》という動詞は、本来「浸す」という意味の動詞であり、パウロは多くの場合、「の中へ」という意味の前置詞《エイス》を伴って、「〜の中に浸す」という本来の意味で用いて、その霊的意義を語っている(ローマ六・三、コリントT一二・一三)。「バプテスマ(という儀礼)を授ける」という意味で用いている場合もあるが(コリントT一・一三〜一七)、その用例はバプテスマ儀礼を授けるのは自分の本来の使命ではないことを語る文脈に出てくることに留意しなければならない。


福音(ふくいん)

 《エウアンゲリオン》というギリシア語の訳語。《アンゲリオン》(報せ)に《エウ》(よい)がついて「よい報せ」を意味する。世俗のギリシア語では、皇帝の即位や戦勝の告知などに用いられた。初期にギリシア語を用いて宣教した教団は、イエス・キリストの出来事を神の救いとして宣べ伝えるさい、その告知を《エウアンゲリオン》と呼んだ。背景には、神の救済を「良い知らせ」と呼んだ旧約聖書の伝統があると考えられる(イザヤ40・9など)。この用法はパウロ以前に始まっていると見られるが、パウロはこの語を自分の宣教の中心に据えている。この語は新約聖書に78回用いられているが、その中の約三分の二はパウロ書簡に出てくる。
 この名詞には二つの用法がある。一つは宣べ伝える行為を指す場合である(コリントII 2・12、8・18、フィリピ4・3、4・15など)。他の一つは報せの内容を指す場合で、これが大部分を占める。二つの用法が同時に出てくる場合もある。たとえばコリントI 9・14で、「福音を宣べ伝える」の「福音」は報せの内容であるが、「福音によって生活の資を得る」の「福音」は宣教活動を指している。
 告知の内容は、神の救いのわざとしてのイエス・キリストの出来事である。告知の内容は、パウロ以前の初期教団において定型化されており、パウロはそれを引用している。代表的な箇所はコリントI15・3〜5、ロマ1・2〜4である。告知の内容を指し示す「キリストの福音」という表現もしばしば用いられるが、約半数は「福音」だけで、この主イエス・キリストの出来事を語る告知を指している。ただしパウロの場合、「福音」はたんにキリストの出来事を世界に知らせる情報の言葉ではなく、神から人の魂に語りかける言葉として、「信じる者を救いに至らせる神の力である」ことが重要である(ロマ1・16)。
 後に《エウアンゲリオン》という語は、十字架の死と復活に至るイエスの生涯を物語ることによって神の救いのわざを告げ知らせようとする文書にも用いられるようになる。このような文書を指す《エウアンゲリオン》は「福音書」と訳されるが、パウロ書簡の「福音」と同じ語である。
 なお、関連する用語として「宣教」の項を参照。

復活(ふっかつ)

 パウロ書簡で「復活」に触れる箇所は、大部分「復活させる」《エゲイロー》という動詞が用いられている。この動詞はもともと「目覚めさせる、起き上がらせる」(他動詞)または「目覚める、起き上がる」(自動詞)という意味の動詞であるが、新約聖書では圧倒的に「神がキリストを復活させた」という意味で用いられている。パウロ書簡でも、神が主語の場合は、神がキリストまたは死者を「復活させる」と能動態で用いられ(たとえばコリントU四・一四)、キリストまたは死者が主語のときは、「復活させられる」と受動態で用いられる(たとえばコリントT一五・四、一五・一六)。ただし、日本語では「キリストは復活した」と訳される場合が多い。
 パウロ書簡では、キリストではなく人が目的語であるときは、「生かす、生命を与える」《ゾーオポイエオー》という他動詞が、「復活させる」《エゲイロー》と同じ意味に用いられる場合がある(ローマ八・一一、コリントT一五・二二、一五・四五など)。
 復活の出来事を指す名詞は《アナスタシス》であるが、これは動詞(三六例)と比べると用例は比較的少なく、「キリストの復活」を指すのは二例くらいで(フィリピ三・一〇、ローマ六・五)、他の六例はみな終末時の「死者の復活」を指している(コリントT一五・一二など)。終末時の「死者の復活」を指すのに、「体の贖い」という表現が用いられる場合もある(ローマ八・二三)。
 なお、協会訳(口語訳)は、動詞《エゲイロー》を「よみがえらせる」と訳し、名詞《アナスタシス》を「復活」と訳しているが、新共同訳は名詞「復活」と合わせて、動詞も「復活させる」に統一している。本私訳でも、「復活」と「復活させる」に統一している。
 パウロは二つの復活の間に生きている。すなわち、すでに起こったキリストの復活とすぐに起こるべき死者の復活の間である。イエスを復活させた神は、イエスに属する民をも復活させてくださることをパウロは確信し、そう宣べ伝えている(テサロニケT四・一四、コリントU四・一四)。パウロにおいては、キリストと復活と終末時の死者の復活は一体であって切り離すことはできない。このことをパウロはコリントT一五章で、復活者キリストはやがて復活する者たちの「初穂」であるという表現で語っている。
 パウロは、キリストにある者はキリストの死に合わせられることによって、キリストの復活の形に合わせられ、「命の新しい次元に歩むようになる」と語っている(ローマ六・四〜五)。この命は、「何とかして死者の中からの復活に達したい」(フィリピ三・一一)と願わせる命、すなわち復活に至る質の命、復活の命である。聖霊によってこのような復活に至る質の命を現在生きていることが、パウロの復活信仰の核心をなす。

ヘレニズム

 前四世紀の後半に行われたアレクサンドロスの東征以来、地中海からインド近くに至る広範な地域がギリシア・マケドニア人の支配下に置かれるようになり、ギリシア語とギリシア文化、ギリシア的生活様式が、もともと固有の宗教と文化を持っていた東方諸民族に浸透して、一種の混淆文化を形成した。ギリシア人は自分たちの国を「ヘラス」と呼び、自分たちを「ヘレネス」と呼んでいたので、このギリシア化した(すなわちヘレネス化した)世界は(近代の歴史学者から)ヘレニズム世界、その文化は「ヘレニズム」と呼ばれるようになった。ギリシア・マケドニア人の支配は、前一世紀にはローマ人によって取って代わられ、政治体制としてはヘレニズム時代は終わるが、ローマが支配した時代も、文化的にはギリシア文化が支配的な「ヘレニズム」の体質を残すことになる。
 先祖伝来の固有の宗教を固持したユダヤ教徒も、ヘレニズム世界に組み込まれて、この時期(ヘレニズム期)にその宗教は少なからずヘレニズムの影響を受けることになる。ローマ帝国時代にこの世界で成立したキリスト教も、ヘレニズム世界の共通語であるコイネー・ギリシア語を用いる人々の宗教として、ギリシア語を使用言語とすることになる。その成立事情から、キリスト教はその母胎であるユダヤ教と、その環境であるヘレニズムの両方から大きな影響を受けているので、この世界で成立した新約聖書の理解にはヘレニズム世界の理解が欠かせないことになる。


ヘレニスト

 パウロ書簡には出てこないが、ルカが使徒言行録で「ギリシア語を話すユダヤ人」を指すのに《ヘレニースタイ》(複数形)という語を用いている(使徒六・一、九・二九)。この語は、「ヘブライ語を話すユダヤ人」《ヘブライオイ》との対照で用いられている(使徒六・一)。この「ギリシア語を話すユダヤ人」が、普通「ヘレニスト」と呼ばれる。「ヘブライ語を話すユダヤ人」《ヘブライオイ》とは、おもにパレスチナ在住の(厳密にはアラム語を話す)ユダヤ人であり、「ギリシア語を話すユダヤ人」《ヘレニースタイ》は、おもにディアスポラ(離散)のユダヤ人である。両者は使用言語の違いから、ユダヤ教団においても別の会堂を形成していた。初期の福音宣教においても、イエスを信じたユダヤ人にこの二つのグループがあり、それぞれ違った経過をたどることになる。パウロは「ヘレニスト」のグループに属し、ヘレニズム世界の都市に散在するヘレニスト・ユダヤ人の会堂を拠点として福音を伝える活動を進めることになる。


誇り(ほこり)/誇る(ほこる)

 この用語(名詞も動詞も含めて)はパウロ特有の用語で、新約聖書の約60回の用例の中、53回はパウロ七書簡に出てくる(原語の回数)。この用語は、パウロにおいて肯定的な用法と否定的な用法の両方に用いられている。否定的な用法というのは、神の前に人間が自分の価値とか資格を誇ることを徹底的に否定している場合である。たとえば、ローマ書ではユダヤ教徒が律法を持っていることや律法を行っていると誇っていることが徹底的に否定されている(2・17〜24、3・27、4・2)。パウロにおいては「肉の誇り」は徹底的に否定される。それに対してローマ書5・1〜11の段落では、同じ語がキリストにある者の勝利を誇る意味で肯定的に用いられている。この段落のきわめて強い積極的姿勢から見て、ここでは「誇る」は「勝ち誇る」の意味であり、「勝ち誇って歓ぶ」という気持ちを含んでいると見られる。多くの英訳は rejoice (歓ぶ)という訳語を用いている。パウロは自分が使徒であることを主張する箇所(コリントU10〜13章)でこの語をとくに多く用いている。そこでも、パウロは敵対する者たちの「誇り」を「肉の誇り」として退け、自分が主から立てられた使徒であることを、「愚かさを誇る」とか「弱さを誇る」という逆説的な言い方で誇っている。この場合の「誇り」については、第二部一一章「信仰の逆説」を参照。


 マ行

恵み(めぐみ)

 《カリス》の訳語で、新約聖書ではパウロ文書(パウロ書簡とパウロの名による書簡)に圧倒的に多い(パウロ以外ではルカ文書に多い)。「恩恵」とか「恩寵」とも訳される。私訳ではおもに「恩恵」を用いる。パウロにおける「恩恵」《カリス》は、たんに好意的な行動、態度、心情を指すのではなく、常に神について用いられ、神の愛とか憐れみから出る、人に対する神の無条件の扱い方を指している。人とのかかわりにおいて、神が相手の人間の価値とか資格を問わないで(すなわち相手に絶して)、無条件によい働きをしてくださるという、愛から出る神の無条件・絶対のかかわり方を指す。この恩恵の無償性・無条件性は直接的に表現される場合もあるが(ローマ三・二四、四・四など)、報酬との対比で「賜物」という表現で語られる場合もある(ローマ六・二三)。「恵みの賜物」と二重に表現される場合もある(ローマ五・一五)。
 「恩恵」は「選び」と一組になって語られる場合が多い(ローマ一一・五)。それは両方とも、自分の側に何の根拠もないことを自覚している人間の告白である。自分が神の民であるとか神の子であることについては、自分に何の資格もないのにそうなっているのは「恩恵による」としか言えないし、神がそのように選ばれたとしか言えないからである。とくにパウロは自分が使徒とされたことについて語るとき、両者を一組にして語っている(ガラテヤ一・一五、ローマ一・一と五)。
 パウロにおいては、「罪」が個々の律法違反の行為ではなく神に背かせる支配力であるように、「恩恵」は個々の無代価の賜物だけではなく、キリストにあって神が支配されるときの原理であることが重要である。アダムにあって罪が支配するように、キリストにあって恩恵が支配する原理であり、支配力である(ローマ五・一二〜二一)。キリストにある場は、恩恵が支配する場である(ローマ五・二)。キリストに属する者は、律法の支配の下にいるのではなく、恩恵の支配下にいる(ローマ六・一四)。「恩恵の支配」こそが、イエスの場合と同じく、パウロにおいて福音の根本原理である。


黙示思想(もくじしそう)

  前二世紀初頭から二世紀初頭にかけて、異教帝国に支配され抑圧されたユダヤ教団において形成された特殊な形態の終末待望の思想を指す。預言者以来、神の最終的な救済の実現を待ち望んでいたユダヤ教団は、ヘレニズム帝国(セレウコス朝)とローマ帝国の強力な支配の下でその信仰が抑圧され、苦難の歴史を歩むことになる。その中で「敬虔な者たち」は、地上の歴史がよい方向に進展するという期待を断念し、現世界(この《アイオーン》)が悲惨と恐怖の中で終末に達して滅んだ後に、神御自身がもたらされる新しい世(来るべき《アイオーン》)において救済されて栄光に至るという希望に生きるようなる(「アイオーン」の項を参照)。
 天上の霊界の実相と来るべき新しい《アイオーン》到来の計画は、地上の人間には隠されていて理解不可能であるが、神はその秘密を選ばれた義人(エノクとかダニエルなど)に特別に啓示され、それが文書に書きとどめられたとされる。この隠された秘密が覆いを取り除いて示されることが「黙示」と呼ばれ、そのような神の黙示によって示された秘密を書き記した文書が「黙示文書」と呼ばれる。この時代には、ダニエル書、エノク書、バルク書などの多くの(偽名の)黙示文書が生み出された。クムラン文書(死海文書)も黙示的文書を含んでいる。それらの黙示文書の内容は一律ではなく、様々な象徴を用いて古い《アイオーン》の滅びと新しい《アイオーン》の栄光が語られている。このような黙示文書に語られている、きわめて激烈な二元論的図式をもった終末待望の思想を「黙示思想」と呼ぶ。
 パウロは黙示思想家ではないが、彼の時代の黙示思想から強い影響を受け、彼の思想は黙示思想の枠組みの中で動き、黙示思想的な用語を用いて福音を提示している。しかし、御霊によって終末が現に到来しているというリアリティーに生きることによって、黙示思想的二元論を克服していることがパウロの福音理解にとって重要である。

 ヤ行

約束(やくそく)

 神が将来の行動を約束される言葉を指す。パウロ書簡では、神がアブラハムに多くの子孫を与えることと、子孫に土地を与えると約束されたことが典型的で根源的な神の約束として重視される。神の約束を信じて生きる信仰が神と人間の関係の基本であることが、アブラハムの実例で説かれ、信仰による義の典拠とされる(ガラテヤ三・一三〜一八、ローマ四章)。パウロにおいて福音《エウアンゲリオン》は約束《エパンゲリア》の性格をもつ神からの言葉である。アブラハムのように、この福音という祝福(救済)の約束の言葉を信じる者が、義とされて神に受け入れられるのである。したがって、新約聖書で「約束」の用例は圧倒的にパウロ書簡に多くなる。ヘブライ書と使徒言行録が続くが、福音書にはほとんど出てこない。「契約」との関係については、「契約」の項を参照。


ユダヤ教(ゆだやきょう)

 「ユダヤ教」《ユウダイスモス》という用語は、新約聖書ではパウロ書簡に二回出てくるだけである(ガラテヤ一・一三と一四)。これはギリシア人がユダヤ人の宗教を、他の諸宗教から区別するために用いた名称であって、ユダヤ人自身は自分たちの宗教を《トーラー》と呼んでいた(「律法」の項を参照)。
 普通「ユダヤ教」という呼び方は、南王国ユダヤの民がバビロン捕囚から帰還してエルサレムに神殿を再建し、エズラらの指導によってモーセ律法(モーセ五書)を規範として形成した祭儀と生活の体系を指す。バビロン捕囚以前のイスラエルの宗教を「古代ユダヤ教」と呼ぶ立場もあるが(M・ウエーバー)、現在ではそれは「イスラエルの宗教」と呼び、捕囚以後に成立したユダヤ人の宗教を「ユダヤ教」と呼ぶのが普通である。ユダヤ教は現代にまで続いているので、エルサレム神殿の破壊までの時期を(後の時代のユダヤ教と区別して)「初期ユダヤ教」とか「第二神殿時代のユダヤ教」と呼ぶこともある。


ユダヤ人(ゆだやじん)

 後の時代には、「ユダヤ人」とは民族を指すのかユダヤ教徒を指すのかが問題となるが、パウロの時代には両者は重なっており、ユダヤ人とはユダヤ教徒のことであり、ユダヤ教団に所属し、ユダヤ教に従って生きる人を意味した。パウロ書簡で「ユダヤ人」と言われているところは「ユダヤ教徒」と読むと論旨がはっきりする場合が多い。「ユダヤ人」と呼ばれる集団の主要部分は、ユダヤ人の両親から生まれた「生まれながらのユダヤ人」であるが、他民族の者がユダヤ教に改宗してユダヤ人となった者も含まれる。パウロは、異教の諸民族を「ギリシア人」に代表させ、ユダヤ教徒と異教徒を対比するときに「ユダヤ人とギリシア人」という表現を用いている(「ギリシア人」の項を参照)。また、ユダヤ教団を神との特別の契約関係にある民という視点から語るときは「イスラエル」と呼んでいる(「イスラエル」の項を参照)。


世(よ)

 パウロ書簡で「世」と訳されている原語には、《コスモス》と《アイオーン》の二つがある。この二つのギリシア語は、起源も意味合いも異なり、文脈によっては区別して理解しなければならないことがある。
 《コスモス》は、本来「秩序、整然としていること」を意味する語で、そこから「飾り、装飾」という意味も出てくる。ギリシア人はこの語を宇宙とか存在界全体を指すのに用いた。もともとギリシア思想においては、この秩序ある存在界全体は、それに合致して生きることが善であるとして、価値の源泉、神的存在と見なされた。パウロ書簡においても、《コスモス》という用語は、宇宙とか被造物の総体、世界とか人の住む世界全体、または世間とか人間界という意味で用いられている。
 それに対して《アイオーン》は、本来ある長さの時間的スペースを指す語で、「世代、時代、時期」という意味で用いられる。聖書では、この語はヘブライ的終末論の時代区分として(とくに黙示思想において)よく用いられている。パウロ書簡においても、「今のこの時代(世、代)」とか「諸々の時代」、「永遠」(複数形で「代々に」の意 )などと用いられている(「アイオーン」の項を参照)。
 このように《コスモス》は空間的に見られた世界で、ギリシア的思考の用語であるが、《アイオーン》は、時間の面から見た世界で、ヘブライ的思考の用語である。新約聖書においては、この二つの用語はまだ別々の意義を担って用いられているが、その二つが共に、キリストにある者の在り方とか生き方に対立するものとして「世」と呼ばれていることは、その両者を統合する思想に向かう出発点として意義深い。すなわち、ギリシアの空間的宇宙論にヘブライ的時間軸が加わったことで、時間の中で目標(終末)に向かって変化するシステム世界の物語としての「歴史」という概念を生み出すことになる。

預言(よげん)/預言者(よげんしゃ)

 パウロ書簡においても、イエス・キリストの出来事が旧約聖書の預言の成就であるという最初期の福音宣教の基本宣言が共有されているが、その場合はいつも「預言者」という語が用いられている(ローマ一・二、三・三一)。これは、ユダヤ教におけるヘブライ語聖書の三区分(律法、預言者、諸書)の用例によるもので、旧約聖書の預言書の総体を指している。それに対して、「預言」という用語はパウロ書簡においてはほとんど、「異言」などと並ぶ聖霊の賜物《カリスマ》としての「預言」を指している(コリントT一二〜一四章に多出、他にテサロニケT五・二〇、ローマ一二・六など)。聖霊の賜物《カリスマ》を扱うところでは、預言の賜物を与えられている者が「預言者」と呼ばれ、《エクレーシア》において「使徒」に次いで重要な指導的役割を与えられている(コリントT一二・二八)。


 ラ行

来臨(らいりん)


 パウロは、復活して天に上げられたキリストが再び来て世界を裁き完成されるという希望を、初期の教団と共有しており、その出来事を《パルーシア》(来臨)という用語で語っている(テサロニケT二・一九、三・一三、四・一五、五・二三、コリントT一五・二三)。もともと《パルーシア》は誰かがある場所に到着することを意味する語で、パウロは自分やテモテなどがある場所へ到着することを指すのに用いている場合も多い。主キリストの来臨を指すのは、《パルーシア》という名詞だけでなく、「(主が)来られるとき」と動詞を用いて語ることもある(コリントT四・五、一一・二六など)。日本語訳聖書では、《パルーシア》も「(主が)来られるとき」と訳される場合が多い。
 栄光のキリストの来臨という終末的出来事を指すのに、他にも「主の日」(テサロニケT五・二)とか「主イエス・キリストの日」(コリントT一・八)という旧約聖書以来の伝統的な表現も用いられているが、パウロ独自の用語として注目されるのは、主イエス・キリストの「顕現」《アポカリュプシス》という語の用例がある(コリントT一・七)。《パルーシア》が今は不在の者が到着するという意味であるのに対して、《アポカリュプシス》は、隠されている姿で今すでにいる者が、覆いを取り除かれて現れるという意味であり、現に御霊として隠された形でエクレシアの中に現臨して働いておられるキリストが、その栄光の姿を世界に現される時を指すことになる。


律法(りっぽう)

「律法」と訳されているギリシア語原語は《ノモス》であるが、このギリシア語は《トーラー》というヘブライ語のギリシア語聖書における訳語であり、パウロが《ノモス》というときはユダヤ教における《トーラー》を指していることになる。そして、この《トーラー》という語はユダヤ人にとってユダヤ教の全体を指すきわめて包括的な意味をもつ語である。
 《トーラー》(律法)という語は実に広範な意味合いで用いられる語で、場合によって、個々の戒律規定、戒律規定の総体、モーセ五書、ユダヤ教全体などを指す。《トーラー》は、「律法」という訳語が示唆するような戒律だけを意味する語ではなく、出来事や物語、祭儀や文学など、民の歴史の中に啓示された神の意志や定め全体を指す語である。そのことは、ユダヤ人が普通《トーラー》という語で指しているモーセ五書の内容が、生活上の戒律規定だけでなく、イスラエルの民の歴史を語り伝える物語や、祭儀規定や、説教や文学的な作品を含む、きわめて幅広いものであることからも分る。モーセ五書を意味する《トーラー》(律法)は、「預言者」と「諸書」と並んで、ユダヤ教聖典を構成する一部分であるが、ユダヤ人にとっては《トーラー》こそ神の意志の啓示であり、それに従うことが生活のすべてであった。すなわち、《トーラー》はユダヤ人にとってユダヤ教という宗教そのものであり、宗教は生活の一部ではなく全体であった。
 捕囚後に成立した初期ユダヤ教において、モーセ五書として成文化されていた《トーラー》を実際生活に適用するために律法学者たちが行った解釈が、口頭で弟子から弟子へ伝えられ、それが蓄積されて伝承となっていった。ファリサイ派ユダヤ教では、このような伝承が「口伝律法」として、成文律法と同じ権威をもつとされた(サドカイ派は口伝律法の権威を否定)。新約時代のユダヤ教では、成文律法と口伝律法を含めての《トーラー》がユダヤ教の内容を構成した。パウロが「先祖からの伝承」を守るのに人一倍熱心であったというとき、それは「ユダヤ教に徹しようとした」というのと同じ意味である(ガラテヤ1・14)。
 パウロが《ノモス》という語をユダヤ教そのものを指す意味で用いていることは、キリストに出会う以前の自分を語るのに、《ノモス》(律法)という語と「ユダヤ教」という語の両方を同じ意味で用いていることからも分かる(フィリピ3・5〜6とガラテヤ1・13〜14を比較)。《ノモス》が「法則」という意味で用いられているかどうかがパウロ書簡の数カ所で問題となるが、この用語をギリシア的な、あるいは近代的な「法則」という意味に理解することには極めて慎重でなければならない(ロマ3・27および8・2の注と講解参照)。

 ワ行

和解(わかい)

 「和解する」(動詞)と「和解」(名詞)の用例は、新約聖書ではパウロ文書だけに見られる(計一三回)。「和解する」(動詞)は、人間関係について用いられている例が一例だけあるが(コリントT7・11の別れた夫と和解する場合)、他の五例(ローマ5・11の二回、コリントU5章の18、19、20節)はみな神と人との関係について用いられている。「和解」(名詞)の用例は四回あり(ローマ5・11、11・15、コリントU5・18、5・19)、みな神と人との関係について用いられている。このようなパウロ書簡に見られる「和解」の用例は、「パウロの名による書簡」に(原語ではわずかに違った形の語で)受け継がれ、福音提示において中心的な位置を占めるようになっている(コロサイ一・二〇、一・二二、エフェソ二・一六)。なお、マタイ五・二五と使徒一二・二〇で、日本語訳では「和解」という語が用いられているが、そのギリシア語原語はパウロ文書の用語とは別のギリシア語である。
 ユダヤ教では「和解」という用語で神の救いを語ることはなかったと見られる。ヘレニズム期のユダヤ教には「和解」という用語が稀に見られるが(マカバイU一・五、五・二〇、七・三三、八・二九やヨセフスなど)、みな人間の側からのイニシャティヴ(悔い改めや祈りなど)による和解を指している。パウロは異邦人にキリストの福音を宣べ伝えるときには、「義とする」とか「血による贖い」というようなユダヤ教特有の法廷的な用語や祭儀的な用語を避けて、「和解」という一般的な用語を用いて福音を語ったようである。
 パウロ書簡で「和解」を主題とする箇所は、コリントU5・17〜21とローマ5・10〜11の二箇所である。コリント書簡では、福音は「和解の言葉」と呼ばれ、キリストの使徒は「和解の務め」を委ねられた者とされている。その中の「神はキリストに中におられて、世の諸々の罪過の責任を問うことなく、世を御自分と和解させておられる」(19節前半の私訳)という部分は、すでにパウロ以前に、ギリシア語系ユダヤ人の福音宣教活動の中で定型化されて用いられていたのではないかと見られる。その和解は、人間の側からなされた行為による和解ではなく、あくまで「罪を知らない方を罪とされた」神の一方的な恩恵の働きによる。
 ローマ書(5・10〜11)では、それまでの議論を、9節で「今やキリストの血によって義とされているのですから、なおさら御怒りから救われることになります」とまとめた後、それと同じことを10節で、「敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいたのですから、和解させていただいている今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」と言い直していることが注目される。「義とされる」というユダヤ教的な表現が、「和解させていただいた」という表現で置き換えられている。それまでの「血による贖い」とか「義とされる」というユダヤ教的な世界での議論を、「和解」という異邦人向けの表現で言い換えたところに、異邦人への使徒としてのパウロの姿が見られる。
 なお、和解は救いそのものではなく、「御子のいのち(復活のいのち)によって救われることになる」という救いの場へ入る入り口であることについては、この箇所についてのローマ書講解を参照のこと。



 


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