67 人生のむなしさ
主御自身が建ててくださるのでなければ、
家を建てる人の労苦はむなしい。
(新共同訳 詩編 一二七編一節)
旧約聖書後期の諸文書には「空しい」という言葉がかなりよく出てきます。その中でも代表的なものは「コヘレトの言葉」で、初めから終わりまで「すべては空しい」という思想で貫かれています。イスラエルはその歴史の最終段階にきて、やりきれない空しさに捉えられたのでしょう。
ローマによる第二神殿の破壊までのイスラエルの歴史を人の一生にたとえますと、神の約束によって生まれ育てられた族長時代の揺籃期、モーセによってエジプトから脱出し独自の契約宗教を形成した青年期、ダビデ・ソロモンによって王国を形成した壮年期、そしてバビロン捕囚という決定的な挫折を体験した以後の老年期ということになりましょう。老年期に入ったイスラエルの心の片隅に、神の民の必死の苦闘にもかかわらず世界は何も変わっていない、すべては空しかったのではないかというやりきれない思いが忍び込んできたのでしょう。
イスラエルの賛美の歌である詩編にも、この空しさの気分が入ってきています。この詩編は「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか」(二節)と民に語りかけています。この空しさの気分はどの民にも共通のものでしょう。とくに老年期を迎えた文化や個人には普通のことでしょう。しかし、神の民イスラエルにはその空しさを克服する希望も与えられていました。それが「主御自身が建ててくださるのでなければ」という一句に凝縮されています。
たしかに人間の手の業はそれだけではすべて空しいものです。やがてはすべて無に帰します。しかし、人間の営みは、その中で主御自身が働き成し遂げてくださる分があるかぎり、その分だけ空しくはないのです。無から創造される神が、キリストによって新しい命の現実を創造してくださいました。誰でもキリストにあるならば、滅ぶべき存在の中に主御自身が創造し完成してくださる新しい命が始まるのです。この主御自身が内に建て上げてくださる命があるかぎり、人生の空しさは神からの希望にのみこまれてしまいます。神はキリストによって「すべては空しい」という人の思いを滅ぼされたのです。
(一九九六年二号)