市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第5講

第二節 聴衆

 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」。

(五章一節)

山に登り

 ところで、ここで注目しなければならない点は、五章一節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とありますが、「この群衆」とは四章二五節の「群衆」を指しているということです。すなわち、イエスの癒しの働きを身に受けて、イエスを通して働く神の救いの力を実際に体験した人たちや、その働きを見てイエスを神から遣わされた人ではないかと予感し、神からの助けを求めてイエスのもとに集まってきた「大勢の群衆」です。
 イエスが五章から七章の「御国の福音」を語りかけた相手は誰かという問題は、古来多く議論されてきました。ある人々は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」というところを、「群衆を避けて、山に登られた」と解釈し、「山上の説教」は弟子たちだけに語られたものであると理解しようとしました。おそらくこの解釈は、「あなたがたも完全な者となりなさい」という高度な要求を含む教えは、一般民衆ではなく選ばれた弟子だけに向けられたものであるという考えが動機になっているのでしょう。しかし、この解釈は成り立ちません。この「説教」の結びの箇所で、マタイははっきりと、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(七・二八)と書いています。マタイは明白に、「群衆」がこの教えを聴いたのであると言っているのです。
 この節(一節)の書き方からすると、マタイは弟子たちがイエスにいちばん近いところで聴いたことを強調していることは確かです。マタイはイエスのこの教えの言葉を、自分の共同体の信徒を含めて、自分の時代の「弟子たち」にとくに聴かせたかったのでしょう。しかし、マタイ福音書のここまでの物語の流れからすると、弟子として召されたのはまだ四人だけですし(四・一八〜二二)、その四人もまだ何もしていません。彼らもイエスの言葉を聴くことにおいては群衆と同じ立場です。ここでは、イエスの癒しの働きを身に受けた人々や、それを見てイエスに従ってきた「大勢の群衆」の中に、「弟子たち」も含まれます。イエスはこの「大勢の群衆」を見て、彼らに語りかけるために適当な場所を求めて、「山に登られた」と理解すべきでしょう。
 その「山」はどこかという詮索は無意味なことです。「山上の説教」はもともとイエスがどこかの場所でされた一回の説教ではなく、様々な機会にイエスが語られた個々のお言葉を集成した「イエスの語録集」を、さらにマタイが自分の構想に従って、イエスの「御国の福音」としてまとめたものですから、それを特定の場所に結びつけることはできません。マタイがそれを山で語られたものとしたのは、ユダヤ人にとって山は神の啓示の場所だからです。「モーセの十言」という旧い契約の言葉はシナイ山で与えられました。いま、それを超える新しい啓示の言葉がイエスの口を通して与えられるのです。その場所は、ユダヤ人にとっては、山でなければならないのです。
 現在ガリラヤ湖を見おろすなだらかな丘陵地に、イエスが群衆に「幸い」の言葉を語られたことを記念する「祝福の教会」が建っています。荒涼たる砂漠の岩山で、稲妻と雷鳴の中で与えられたとされる旧い契約の言葉に対して、イエスの祝福の言葉が優美な風光のガリラヤ湖畔の青草の丘に響いたという想像は、「御国の福音」を聴く心にふさわしいものでしょう。
 「腰を下ろされると」という表現も、ユダヤ教会堂での習慣が背景になっています。会堂(シナゴーグ)での礼拝において、ラビは会衆に対面する椅子に着座して、律法を教えました。「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている」(二三・二)と言われるわけです。また、ラビたちも着座して教え、弟子たちはその足下に座って教えを聴きました。いま、イエスはモーセを超える啓示の言葉、「御国の福音」を語り出そうとして、イエスだけに備えられた座に着かれるのです。その足下に弟子たちが座り、それを群衆が取りまいています。その群衆もみな、これから語られるイエスの言葉によって、弟子として従うように招かれているのです。

どこで聴くのか

 わたしたちにとって大切なことは、わたしたちもこの「群衆」の立場でイエスの「御国の福音」の言葉を聴かなければならないということです。もしわたしたちが、自分はあのような癒しを求めて集まってきた群衆とは別だ、わたしはイエスを通して働く神の力に頼る必要はない、自分で自分のことは立派にやっていけるのだから、という立場で聴くのであれば、イエスのお言葉はわたしたちの外を通り過ぎるだけで、わたしたちの内に留まることはないでしょう。
 イエスの癒しの働きについては、マタイ福音書ではこの「山上の説教」の後で語られることになるのですが、わたしたちはすでにマルコ福音書によってよく知るところです。福音書の伝えるところによれば、イエスの癒しの働きは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る」(一一・五)という、まことに驚くべき奇跡です。しかし、このような目を見張るような出来事の背後で、目に見えないところでさらに大きな奇跡が起こっていることを見落としてはなりません。それは「恩恵の奇跡」です。
 イエスは、病気に苦しみ助けを求める人々に、何も要求されませんでした。報酬はもちろん、神の救いの力を受けるのに何か資格を求められることはありませんでした。まったく無条件で癒しを与え、彼らを救っていかれました。必要なのは、イエスを通して働く神の恵みの力を無条件で受け取る空の手、すなわち信仰だけでした。癒しの働きを身に受けた人々は、自分は何もしていないし、何も差し出していない、それを受ける何の資格も功績もないのに、一方的に神の力が働いて癒されたことを体験していました。すなわち、彼らは神の圧倒的な恩恵の支配を体験していたのです。それを見て集まってきた人々も、そのような恩恵によらなければ、自分ではどうしようもない状況にあり、それを知り尽している人々でした。彼らはすでに恩恵の場にいるのです。イエスはそういう「群衆」に語りかけておられるのです。
 わたしたちもこの群衆と同じ立場で、イエスのお言葉を聴くのです。すなわち、神との関わりにおいて何かを得ようとするとき、自分には何の資格もない者として、ひたすら神の無条件で一方的な恩恵に縋らないではおれない者として、イエスのお言葉を聴くのです。その時はじめて、「山上の説教」は「御国の福音」として、わたしたちの内に留まる命の言葉となるのです。

 そこで、イエスは口を開き、教えられた(五章二節)。

 マタイは、イエスのお言葉の重要性を強調するために、わざわざ「イエスは口を開き」という荘重な導入の句を用いています。わたしたちも身を乗り出し、全存在をかけて聴かなければなりません。