市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第28講

第四節 断食について

 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」。

(六・一六〜一八)


 この一段は、イエスの弟子たちが断食することを前提にして、断食の仕方について勧告しています。ところが、マルコ福音書(二・一八〜二二)によりますと、イエスの弟子たちはもはや断食をしないとされ、断食しない理由が問題になっています。この違いは福音書成立の事情の違いによります。マルコ福音書は七〇年のエルサレム神殿崩壊の少し前に成立したと考えられ、異邦人を多く含むキリスト教団はすでにユダヤ教の律法や習慣から離れて、独自の信仰生活を形成していました。それで、(洗礼者)ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人たちが断食しているのに、イエスの弟子たちが断食しない理由が論争されたのです。
 それに対してマタイは、ユダヤ人の信仰運動の中で成立した「語録資料Q」の立場を基本にして、ユダヤ人信徒に語りかけています。それで、ユダヤ人としての敬虔の代表的な現れである断食も当然行うべきこととして扱い、その仕方がユダヤ教団と違うことを強調することになります。ところで、マタイ福音書はマルコ福音書を資料の一つとして用いていますので、マタイはマルコ福音書の断食論争をほぼそのまま用いていますが(マタイ九・一四〜一七)、ユダヤ人信徒の断食の習慣と調和させるために、マルコの記事に微妙な変更を加えています。
 マルコが「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と書いているところを、マタイは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができようか」と変えています。「断食する」を「悲しむ」という心情に変えることで、断食という実際の行動が成り立つ余地を残し、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」という言葉に、断食の実際の習慣を根拠づける解釈をする可能性を与えています。また、ヨハネの弟子たちの質問に、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに」と「よく」を加えることで、断食するかどうかではなく、断食の回数の問題のような印象を与えています。
 このように、マタイはイエスの弟子が断食することを当然とした上で、「偽善者」の断食との違いを強調します。「偽善者」の断食の目的は、自分が断食していることが人に見られて、社会で敬虔な者と認められることです。それで、自分が断食していることが目立つように「顔を見苦しくする」のです。実際に「顔を見苦しくする」ことがどの程度行われたかは分かりませんが、律法学者やファリサイ派の人たちが断食していることを誇りにしていたことは事実です。ファリサイ派の人たちは、モーセが律法を受けるためにシナイ山に登ったといわれる週の第五日(木曜日)と下山したといわれる第二日(月曜日)の週二回の断食を守り、それを律法に忠実な生活として誇っていました(ルカ一八・一二)。彼らは人から評価されることによって、「すでに報いを受けている」ので、神から受ける報いはないのです。

 二世紀初めに成立したとされる「十二使徒の教訓(ディダケー)」に、「あなたがたの断食を偽善者のそれのようにしてはならない。彼らは週の第二日と第五日に断食するのだから、あなたがたは第四日(水曜日)と準備の日(金曜日)とに断食しなさい」(八・一)と書かれています。この文書は、イエスの弟子が断食することを当然として、ただファリサイ派の断食と日を変えることだけを要求し、その以上のことは何も書いていません。日を変えたから断食が偽善でなくなるわけはありませんので、もし日を変えればそれでよいとしているのであれば、この文書が考えている断食はファリサイ派と同じレヴェルであると言わざるをえません。

 それに対してイエスの弟子は、断食をするときには「頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と言われます。これは、普段の生活をしているようにして、断食をしていることが目立たないようにするためです。これも、先の施しや祈りと同じく、断食が隠れたところでなされることによって、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ようになるためです。
 では「隠れたところでなされる断食」とはどのような断食でしょうか。断食というのは、旧約聖書と捕囚後のユダヤ教においては、もともと「懺悔」とか「悔い改め」を表現する行為でした。それに加えて、律法への献身とか祈りへの集中を示す断食も行われました。このような様々な断食に共通するものは、自己否定の表現としての意味でしょう。もし断食が自己否定の表現であるならば、断食をしていることが目立つように「顔を見苦しくする」行為は自己顕示であり、断食を誇る心は神の前に自分の価値や功績を主張することに他ならないのですから、断食とはまったく反対のことをしていることになります。食事を抜くことで自己否定の境地に達しようとすることは本末転倒です。
 「隠れたわたし」の内に自己否定が起こったとき、その自己否定こそ「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」隠れた断食なのです。この自己否定は断食を含む苦行とか修行によって起こるものではありません。人間の自己は自らを否定することはできないのです。では、それがどうして起こりうるのか、マルコ福音書の断食論争が示唆しています。
 マルコ福音書のイエスは、弟子たちが断食しない理由を婚礼の譬を用いて語っておられます。

 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる」。(マルコ二・一九〜二〇)

 「花婿が奪い取られる」というのは、花婿であるイエスが暴力的に奪い取られること、すなわちイエスの十字架の死を指しています。それで、このお言葉は、イエスが地上で一緒におられたときには弟子たちは断食しなかったが、イエスが死なれた後では断食するようになると解釈され、初期のキリスト教団の断食を説明するものだとされることもありました。しかし、この解釈は成り立ちません。そもそもこの断食論争の記事は、初期のキリスト教団が(一部のユダヤ人キリスト教集団を除いて)断食を廃したことで、ユダヤ教諸派と対立したことをイエスの言葉で根拠づけるためのものです。「花婿が一緒にいる」というのは、イエスが地上で弟子たちと一緒におられた時だけでなく、復活して今弟子たちと一緒にいてくださることを指しています。この記事の「今」が婚礼の時なのです。もしそれが地上のイエスだけを指し、十字架以後の教団が断食しているのであれば、このような論争の必要も意義もないのです。
 そうすると、「花婿が奪い取られる時」にイエスの弟子たちがする断食というのは、もはや形の上での断食はしない教団での「断食」ですから、内面的に理解する他ありません。復活者キリストとしてわたしと一緒にいてくださるイエスは、わたしのために十字架につけられて死んでくださったイエスです。そのイエス・キリストの十字架に合わせられて自分が死ぬとき、「断食」の本来の内容である自己否定が「隠れたわたし」において実現しているのです。これが「隠れたところでなされる断食」です。このような隠れた場での自己否定に対して、すなわち十字架に合わせられて自分が死んでいる場においてはじめて、「隠れたことを見ておられる父が」聖霊という賜物を与えて「報いてくださる」のです。
 マタイのユダヤ人キリスト教集団では実際に断食が行われていたことが前提されています。その上で、マタイはその断食が人前に目立たないように、すなわち、断食が隠れたところで行われるように求めているのです。マタイの場合のように断食することを前提にしていても、マルコのように断食しないことを前提にしている場合と同じく、「隠れたところでなされる断食」は十字架のキリストに合わせられて自己が死ぬという以外には実現しません。
 このことは断食だけでなく、他の宗教的苦行とか修行についても同じです。苦行や修行もそれが人からの誉れを求めている限り、神から受けるものはありません。それが「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」ものとなるためには、すなわち、御霊の賜物をより深く受けるものとなるためには、隠れたところでなされなければなりません。そして、隠れたところでなされる苦行とか修行が目指す「隠れたわたし」の自己否定は、わたしが十字架のキリストに合わせられて死ぬ他はありません。