市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第31講

第二節 「アッバ、父よ」

イエスの祈り

 弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」と言ったとき、イエスは「祈るときには、こう言いなさい」と言って、まず「父よ」という呼びかけを教えられます(ルカ一一・一〜二)。イエスは自分が祈っておられる祈りを弟子たちに教えられるのです。
 イエスは祈るときはいつも「アッバ!」と呼びかけておられました。イエスが祈られた《アッバ》というアラム語を直接伝えているのは、マルコ福音書一四章三六節のゲッセマネの祈りの一箇所だけです。そこでは、《アッバ》というアラム語と《ホ・パテール》(父)というギリシア語が並んで出てきます。ところで、この「アッバ、父よ」という表現はパウロ書簡(ガラテヤ書四章六節とローマ書八章一五節)にも用いられていて、ギリシア語を話す初期の教団の祈りで《アッバ》というアラム語の呼びかけが用いられていたことを示しています。弟子たちはイエスの「アッバ!」という祈りをいつも耳にし、そう祈るように教えられていたので、ギリシア語世界に福音を宣べ伝えたときも、自分たちの祈りに刻印された《アッバ》というアラム語の祈りを、主イエスの祈りとしてそのまま伝えたのでしょう。この事実は、間接的にイエスが《アッバ》という呼びかけで祈られたことを証言しています。
 《アッバ》というアラム語はもともと幼児語でしたが、イエスの時代までに成人した子が父親を呼ぶ言葉にもなっていました。ですから、イエスが幼児語で呼びかけられたと考えるのは間違いです。しかし、おもに親しい家族の間で用いられる呼びかけの言葉ですから、イエスがこの言葉で祈られたことは、当時のユダヤ教の祈りと比べると、イエスの祈りの世界がきわめてユニークなものであったことを示しています。
 このように、イエスが神を「アッバ!」と呼び、子としての親しい交わりに生きられたのは、イエスが神の御霊に満たされておられたからです。イエスの聖霊体験は、共観福音書が描くところによりますと、イエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマをお受けになったとき、聖霊が鳩のようにイエスの上に降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞かれたという形で伝えられています(マルコ一・九〜一一とその並行箇所)。しかし、イエスの聖霊体験をこのような一回の出来事として描くのは、聖霊によって「アッバ、父よ」と祈り、それによって神の子とされていることを体験した初期の教団(ガラテヤ四・六、ローマ八・一五)が、自分たちの体験をイエスに投影し、それを旧約聖書の成就として物語った結果であると見られます。イエスの聖霊体験の内容はわたしたちが推察したり想像したりすることができない深いものでしょう。しかし、その体験からイエスの「父」の啓示と「神の国」の宣教が出ているのですから、わたしたちが聖霊によって歩む中でイエスの言葉を追体験する程度に応じて理解することができるはずです。
 イエスはヨハネからバプテスマをお受けになった後、しばらくユダヤでヨハネと同じようにバプテスマ運動を進めておられたようです(ヨハネ福音書三・二二、三・二六、四・一)。その期間に、イエスは神の御霊の働きを深く受けて、周囲のユダヤ人がユダヤ教では達し得ない神との交わりの独自の境地に入っていかれたのだと、わたしは考えます。そして、神の御霊によってイエスから発する力と知恵に圧倒されたヨハネの弟子たちの一部が、弟子としてイエスに従うようになります(ヨハネ福音書一章)。この時すでに、イエスはバプテスマのヨハネをも含め、ユダヤ教律法をはるかに超える霊の境地に入っておられたと見られます。
 ヨハネが領主のヘロデ・アンティパスに捕らえられて投獄されたのを機に、イエスはユダヤを去ってガリラヤに行き、イエス独自の宣教を開始されます(マルコ一・一四)。その時、イエスはもはやバプテスマを授けることはなく、ユダヤ教律法では罪人(つみびと)として排斥されている取税人や遊女をも仲間として受け入れて、ユダヤ教律法とはまったく異なる原理に立つ交わりを形成されます。その原理が「恩恵の支配」であり、それは「父の慈愛」から出てくるものです。イエスは御霊によって親しい交わりに入られた神を「父」と呼び、子としての信頼に生きられました。イエスの宣教は初めから、イエスが御霊によって体験しておられる「父」の慈愛を宣べ伝えるものとなるのです(マタイ一一・二七)。それで、イエスの言葉を伝える福音書は、何の説明もなく当然のように、イエスが「父」という表象で神のことを語り、「わたしの父」、「わたしたちの父」、「あなたがたの父」という言葉を用いて教えられたことを伝えるのです。マタイもその「御国の福音」(五〜七章)において初めからそうすることになります。

御霊による「アッバ、父よ」

 イエスから「祈るときは、『父よ』と言いなさい」と教えられた弟子たちは、言葉遣いの上では、もはやユダヤ教の形式的な用語の羅列ではなく、イエスと同じく「父よ」と呼びかけて祈ったのでしょう。しかし、イエスと同じように内から自ずと発する「父よ」は、御霊を受けて、御霊によって祈るようになって初めて可能になるのです。わたしたちの本性的な在り方からは、イエスのような「父よ」は出てこないのです。
 わたしたちがキリストにあって受ける御霊こそ「子たる身分を授ける霊」であり、その御霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶことができるのです(ローマ八・一四〜一六)。いやむしろ、御霊は「『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊」なのです(ガラテヤ四・六)。この御霊がわたしたちの内で「アッバ、父よ」と叫んで、この祈りが自分の内からの祈りとなることを可能にしてくださるのです。
 わたしたちがこのような御霊を受けるのは十字架の場においてです。キリストがわたしのために死なれたという十字架の事実の前に、自己主張をしてやまない自我が打ち砕かれるとき、御霊が働きを始められるのです。御霊が最初に与えてくださる祈りは、「父よ、わたしはあなたに対して背いていました」という悔い改めの祈りです。これが最初の「父よ」です。イエスが「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音一五章)で語られたあの悔い改めは、十字架の場で「(子としての)本心に立ち帰り」(これが「悔い改め」です)、聖霊によって祈り始めた人間の姿です。
 立ち帰ってきた放蕩息子は父親の懐に受け入れられ、子としての扱いを受けます。十字架にひれ伏す者には、「子たる身分を授ける霊」が与えられ、子としてすべてを父に委ねて生きる信頼の生が始まります(マタイ六・二五〜三四)。その中で、子としての祈りが始まるのです。それが「主の祈り」です。

天にいますわたしたちの父

 「語録資料」の端的な「父よ」に、マタイは「わたしたちの」という語を加えています。これは集会で一緒に祈るときの形を配慮したからでしょう。マタイはさらに「天にいます」という句を加えます。地上の父親と区別するためでもありますが、「天にいますわたしたちの父」という呼びかけは、当時ユダヤ教会堂で重要になりつつあった用語法を手本としているとされます(EKK注解)。ここにもマタイのユダヤ教との親近性がうかがえます。
 マタイの付加部分は礼拝での使用のために形を整えたという一面がありますが、それが御霊によって祈られるときには、深い霊的な意味を担うものとなりえます。その意味については、以前に書きましたものを引用しておきます。

 「アッバ」は本来「わたしの父」であるが、この「アッバ」を祈る者たちの交わりにおいては、「わたしたちの父」となる。わたしの父も、彼の父も同じ方であるから。そして、同じ父をもつ自覚がお互いを兄弟の交わりに導き入れる。・・・・この「わたしたちの父よ!」が、人種、国籍、文化の差異を超えて広がる時、真の人類共同体が地上に出現する。終わりの日、神の約束が成就し、あがなわれた神の子たちの群れが地上に起こされる。彼らはイエスを先頭に、この祈りを共にする群れである。・・・・
 わたしたちは地にあって、「天にいます父よ!」と祈る。父は天にいまし、わたしたちは地にいる。天は見えざる世界、時間を超えた永遠の霊界、移り行かざる次元である。地は見える世界、時の流れの中に流転する無常の世界である。地にあるわたしたちは、天にいます神を直接知ることはできない。しかし、キリストにあって聖霊により、「アッバ!」と全身を投入する時、天にいます父が地にあるわたしとかかわり、働いてくださる。祈りが天と地とを結ぶ。そこに人の思いを超えた不思議な世界が展開する。