市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第42講

第八章 本物と偽物

結びの勧告

 マタイは、イエスの「御国の福音」を、彼独自の仕方で長い「山上の説教」(五〜七章)にまとめました。「幸いの言葉」と「地の塩、世の光のたとえ」(五・三〜一六)を導入部とし、本論(五・一七と七・一二によって囲い込まれた部分)で、律法と預言者を完成するものとしてのイエスの教えを詳しく展開し提示します。この本論の提示を終えて、マタイは最後に締め括りの勧告を行います(七・一三〜二七)。
 締め括りの勧告は三つのたとえで構成されます。第一は「狭い門と広い門」、第二は「良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木」、第三は「岩の上に建てられた家と砂の上に建てられた家」のたとえです。いずれも対照のたとえで、この説教の言葉を行う者と行わない者が対照され、両者の終末における結末が比較されます。この対照によって、ここで聞いた言葉を行うようにと強く勧告されて、全体が締め括られます。



第一節 狭 い 門

狭い門・狭い道

 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」。(七・一三〜一四)

 このたとえでは門と道のイメージが重なっています。「門」は「戸口」と違って、都市に入る城門などを意味する語ですから、門を通って道を歩き始めるというよりは、道を歩いてきて都に入る門にいたるという心象(イメージ)を思い描くべきでしょう。

 ルカ(一三・二四)に「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」というイエスの言葉が伝えられています。おそらく「語録資料Q」にこの語録があり、ルカとマタイがそれぞれ独自の用い方をしたと見ることができます。「狭い門から入れ」というイエスの言葉に、マタイがよく知られた「二つの道」の対照を重ねた結果、このマタイ福音書の言葉になったと考えられます。「狭い門」という表現はユダヤ教テキストには珍しく、イエスの言葉遣いと見られますが、それに対して「二つの道」の対照はユダヤ教でよく知られた表現だからです(申命記三〇・一五、詩篇一、エレミヤ二一・八)。「二つの道」の思想がマタイの共同体においてよく知られていたことは、マタイ的特徴を受け継ぐ教会に由来すると見られる『ディダケー』(一・二〜五・二)が「二つの道」を主題としていることによっても裏書きされます。マタイがQの狭い門に関する語録を、彼の共同体に流布していた二つの道の訓戒的な表現で拡大したと見てよいでしょう。その結果、「そこから入る」という本来門に関わる表現の直前に「その道は広く」という語が来るという不自然な文になっています(一三節)。

 ここで対照されている二つの終着地「命」と「滅び」は、終末的な意味をもつ用語です。命《ゾーエー》と滅びについて、門の表象を用いて、「天の国に入る」(五・二〇)というときと同じ動詞「入る」が用いられていることからも、「命」が「天の国」(神の国)と同じく終末的に理解されていることがうかがわれます。
 この「狭い門を通って命に入る」という終末的な内容に「道」のイメージを加えたことは、マタイの特徴をよく示しています。すなわち、マタイにとっては、終末的な栄光に入るためには地上の歩みが不可分の要件となっているのです。本来終末的な命とか天の国を、地上での歩みで「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」を行うことに結びつけるのです。こうして、結びは導入(五・一七〜二〇)に対応して、本論を囲い込みます。命の都に入る門が狭いように、そこにいたる道も狭いのです。
 ところで、門を形容する「狭い」と道について語られる「狭い」は、原語では違う用語です。門が狭いというときの「狭い」は幅が小さいという普通の意味の語ですが、道が「狭い」というときの語は、「苦難」と同じ語幹から出た動詞の分詞形で、直訳すると「苦難に満たされた」という意味になります。道のイメージを付け加えたのはマタイですから、マタイが語録伝承の「狭い」の隠喩的意味を解釈して取り出しているわけです。マタイは、終末的な命に到達するための地上の実際の歩みは苦難に満ちたものであるが、安易な広い道を選ぶのではなく、「狭い」道を歩んで、命にいたる狭い門を見出すようにと説くのです。
 この門と道のたとえで、マタイは、広い道を歩み広い門から入る者は「多い」が、狭い道を歩み狭い門から入る者は「少ない」と、二つの道を歩む人数を対照しています。この対照は、欲望のままに流される安易な生活をする共同体の外の多数の人たちと、信仰の厳しい生活をする少数者の群である共同体とを対照しているのではありません。この結びの勧告全体(七・一三〜二七)は、マタイの共同体自身に向けられているのです。共同体の中で、広い道を歩んで滅びにいたる者が多く、狭い道を歩んで命に入る者が少ないという、きわめて厳しい警告なのです。マタイは共同体を麦と毒麦が混じった共同体であると見ています(一三・二四〜三〇、三六〜四三)。イエスの弟子にも本物と偽物があることを知っています(七・一五〜二三)。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(二二・一四)のです。

狭い門としての十字架

 わたしたちキリストにあって生きる者には、十字架につけられたキリストが門であると同時に道です。わたしたちは、十字架につけられたキリストという門を通ってはじめて、御霊の命の世界に入ることができるのです(ガラテヤ三・一〜二)。そのことをヨハネは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と表現しました。このヨハネ福音書(一〇・九)の「わたし」は、パウロの場合と同じく、十字架の死を負う復活者キリストです(ヨハネ三・一四)。さらにヨハネ福音書(一四・六)は、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っています。同じ「わたし」が門であり、道なのです。門と道は「わたし」において重なって一つになっています。
 しかし、わたしたちの体験では、十字架につけられたキリストを信じることによって御霊による新しい命の世界に導き入れられ、そこからキリストにあって(キリストに合わせられた者としての)歩みが始まります。まず十字架という門を通って入り、そこから復活者キリストと共に歩む新しい道が始まります。ここでは、終末的な意味で命に入ることを念頭において語られたマタイの順序(道を歩いて行って門に至るという順序)とは逆になっています。それは、御霊によって終末的な現実がすでに信じる者の中に到来しているからです。すでに門から入っているのです。ただ、完成を目指す道が続いています。わたしたちは十字架の道を歩まれたイエス・キリストと共に、自分の十字架を背負ってキリストの道を歩むように求められているのです(マルコ八・三四)。