市川喜一著作集 > 第10巻 パウロによるキリストの福音U > 第15講

第三節 初穂キリスト

 20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、 24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 26 最後の敵として、死が滅ぼされます。 27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

(一五・二〇〜二八)

初穂としてのキリストの復活

しかし今や

 このように「死者の復活」を否定すればキリストの復活を否定することになり、福音を偽りとし信仰を空しいものにすることになるとした上で、同じ論理で、キリストが復活された以上、それは「死者の復活」を保証するのだと論を進めます。

 「しかし今や、キリストは眠りについた人たちの初穂として死者の中から復活されたのです」。
(二〇節私訳)

 「しかし今や」という句は、パウロにおいては、救済史の時代《アイオーン》の転換を告げる重要な句です。キリストの十字架・復活の出来事は、新しい時代、終わりの時の到来を告げる出来事なのです。今までの《アイオーン》(時代、世)とはまったく異なる質の新しい時代の到来なのです。ローマ書三章二一節でも、そのような重さをこめてこの句が用いられています。そこでは、律法が支配していた時代が終わり、律法とは関係なく信仰によって義が与えられる時代が来たことが宣言されています。ここではキリストの復活が《アイオーン》の転換点であることが宣言されているのです。
 しかし今や、キリストは実際に復活されたのです。人が何と言おうと、キリストは事実復活してペトロに現れ、十二人に現れ、多くの兄弟たちに現れ、パウロ自身にも現れたのです。これは命をかけて証言できる確かな事実です。今や、このキリストの復活によって死者が復活する終末のアイオーンが到来したのです。キリストの復活は、キリストだけに起こった特別の出来事ではありません。それは死者たち(複数)が復活することを代表する出来事なのです。この関係をパウロは「初穂」という比喩を用いて表現するのです。

初穂

 この「初穂」という語はもともと祭儀的性格の強い語です。日本の神事でも田畑の収穫の初穂を捧げて神々を祭ります。イスラエルのヤハウェ礼拝においても家畜の初子や畑の初物が捧げられました。初物を神に捧げるのは、収穫の全体を神に捧げて、神に属する聖なるものにしているのです。「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそう」なのです(ローマ一一・一六)。捧げられた初物は全体を代表し、その中に全体を含んでいます。
 キリストは初穂として復活されたのです。すなわち、キリストの復活はキリストの身にだけ起こった孤立した出来事ではありません。創造者なる神が終りの日に成し遂げると語ってこられた死者たちの復活が、いまキリストの身において起こったのです。初穂を神に捧げることは全収穫を捧げることであるように、キリストの復活は終末の死者の復活の開始であり、その中に死者の復活全体が含まれているのです。
 この「初穂」という一語によって、キリストの復活とわたしたちとの関係が見事に言い表されています。この章の初めで、パウロは自分が受けて伝えた「福音」を提示していました(三節後半〜五節)。そこではキリストの十字架については、「わたしたちの罪のために」という句でわたしたちとの関係が明示されていました。ところが、キリストの復活についてはその事実が告知されているだけで、わたしたちとの関わりが明言されていませんでした。いまここで、それが明言されます。キリストは「わたしたちの初穂として」復活されたのです。パウロはこのこと、すなわちキリストの復活とわたしたちとの関わりを明らかにするために、この章(第一五章)全体を書いているのです。この章全体でパウロが主張していることを含めて福音を提示するならば、「福音」はこのようになります。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの初穂として三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

 キリストの十字架上の死はわたしたちの罪のためであること、キリストの復活はわたしたちの復活の初穂であること、そして、このキリストの十字架と復活の出来事は、神が聖書によって約束してこられた終末の救済の成就であること、これが「福音」の核心なのです。

アダムとキリスト

 「死が人によって来たのだから、死者の復活も人によって来るのです」。(二一節私訳)

 パウロはここで、キリストの復活とわたしたちとの関係、すなわち「キリストはわたしたちの初穂として復活された」という関係を根拠づけます(二一節の初めに先行する文を根拠づける《ガル》という語があります)。しかし、ここでパウロがその根拠づけに用いる論理は現代人には意表外のものです。この節はふつう「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」と訳されます。しかし、ここでは「一人の」という句はついていません。ここで用いられている「人」という語《アントローポス》は単数形で、冠詞もついていません。
 ここでパウロがギリシア語で《アントローポス》(人)と言うとき、その背後にヘブライ語聖書の《アーダーム》があることは明らかです。《アーダーム》は本来個人名ではなく、「人」とか「人間」という意味の名詞であって、創世記冒頭の三章ではこの語を用いて人間の創造と堕落が物語られているわけです。創世記冒頭のアダムの物語は人間の現実存在の姿を語るものです。その物語においてアダムは人間(人類)を代表する者として行動しています。このような聖書理解を背景にして見るとき、この節の《アントローポス》というギリシア語を《アーダーム》(以下慣例に従って「アダム」と表記します)というヘブライ語に戻して訳すと、パウロがここで言おうとしていることが少しはっきりしてきます。
 パウロはこう言っているのです。「死がアダムによって来たのだから、死者の復活もアダムによって来るのです」。最初のアダムは創世記のアダムを指しており、後のアダムはキリストを指していることは、すぐに続く次節からも明らかです。そして、四五節ではキリストのことをはっきりと「最後のアダム」と呼んでいます。パウロはキリストを「アダム」と見ているわけです。ここでパウロが「アダム」というとき、それは人類を代表する立場の存在という意味です。創世記のアダムと福音が告知するキリストは、その意味で共に「アダム」なのです。創世記のアダムは現在の人間、この古いアイオーンの人間を代表し、キリストは終末時の人間、来るべき新しいアイオーンの人間を代表するのです。
 パウロが説く「死者の復活」信仰は救済史の論理に基づいています。そして、福音が前提とする救済史は、「聖書に書いてあるとおり」という句が示しているように、キリストの出来事が聖書(旧約聖書)の成就であるという基本的な枠組みを持っています。その中で、キリストは新しいモーセであるとか、アブラハム契約の成就者である(パウロはとくにこの枠組みを重視しています)とか、様々な枠組みが用いられていますが、パウロはキリストをアダムと対比することで、キリストの出来事を人類史的な意義にまで拡げています。キリストを終わりのアダムとするパウロのアダム・キリスト論は、救済史の最大の枠組みを形成します。

 「つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです」。(二二節私訳)

 前節では死も死者の復活も共に「アダム(人)」から来るという共通面が強調されていましたが、ここでは初めのアダムによってもたらされたものと、終りのアダムによってもたらされたものとの違いが強調されます。それはまったく正反対のものなのです。それで、ここでは二人のアダム(人)はそれぞれ固有の名で呼ばれています。すなわち、初めのアダムは創世記で用いられている人物名の「アダム」、終りのアダムは福音が用いている「キリスト」という名で呼ばれます(この節のアダムとキリストには定冠詞がついています)。
 前節で「人」の前に用いられていた前置詞は《ディア》(によって、を通して)でしたが、この節のアダムとキリストの前に用いられている前置詞は《エン》です。これは英語の「イン」に相当するギリシア語の前置詞であって、パウロが「エン・クリストー」という形で、わたしたちとキリストの結び付きを表すのに繰り返し用いています。新共同訳がこれを「キリストに結ばれて」と訳しているように、この「エン」は人がキリストと結ばれていること、言い換えればキリストに属する者であることを表現しています。ここではそれを「キリストにあって」と訳しております。ここでこの「エン」という語を用いて、人間の二つのあり方が表現されています。一つは「アダムにあって」、すなわちアダムに属する人間のあり方と、もう一つは「キリストにあって」、すなわちキリストに属する人間のあり方です。
 現在の人間は、生まれながらの自然のままではみなアダムに属しています。言い換えれば、わたしたち自然のままの人間のあり方をアダムが代表しているのです。アダムは聖書でわたしたち現実の人間すべてを代表する者として描かれています。わたしたち現実の人間が例外なく死ぬことが、アダムの物語として語られています。すなわち、アダムが神に背いた結果死ぬことになったと語られていますが、それはわたしたち人間の現実のことなのです。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のです。
 それと同じように、「キリストにあってすべての人が生かされる」のです。わたしたちが信仰によってキリストと結びつき、キリストに属する者とされるならば、死者の中から復活されたキリストの生命によって生かされることになり、キリストが復活されたように復活にいたるのです。
 ここで受動態で用いられている「生かす」という動詞《ゾーオポイエイン》は、「命を与える」とも訳されますが、人を主語とする自動詞の「生きる」《ゼイン》と違って、神を主語とする他動詞であって、神(またはその霊)が人を死の状態から生かすという終末的な意味で用いられる動詞であり、「復活させる」《エゲイレイン》と同じ意味です。神は「死者を生かす神」とも呼ばれ(ローマ四・一七)、「死者を復活させる神」とも呼ばれます(コリントU一・九)。この「生かす」と「復活させる」という二つの動詞は同意語として、組み合わせて用いられることもあります(ローマ八・一一、ヨハネ五・二一)。いま扱っているコリント書簡の箇所でも、二一節で「人によって死者の復活が来る」と言われたのと同じことが、この二二節では「キリストにあって生かされる」と表現されているのです。このように《ゾーオポイエイン》(生かす、命を与える)という動詞が終末的な復活を意味することは、後でパウロがキリストを「命を与える霊」(《ゾーオポイエイン》する霊)(四五節)と呼んでいることの意味を理解するうえで重要になります。
 このように、「生かされる」は死者の復活を指しているのですから、それは将来の出来事です。当然、この動詞は未来形で使われています。「アダムにあってすべての人が死ぬことになった」のはすでに起こっている現実ですから過去形で語られていますが、「キリストにあってすべての人が生かされることになる」のは未来形で語られるのです。

生命の現在と将来

ユダヤ教における永遠の生命

 本章は死者の復活を否定する人たちに対して、キリストの復活が終末時の死者の復活を初穂として含んでいることを論証しようとして書かれているのですから、ここで用いられている「生かす」とか「命を与える」という動詞が「復活させる」と同じであることを明らかにすれば、それでよいわけです。しかし、「復活」という用語は本来終末時の出来事を指すのですから、どうしても未来の意味に限定される傾向があります。それに対して「生かす」とか「命を与える」という表現自体は、現在のことも含むことができる幅の広さがありますから、ここですこし本題からそれますが、この用語を手がかりにしてキリストにあって賜る現在の生命と将来の復活の関係について、新約聖書が語るところを聴きたいと思います。
 福音がそこから生まれてきた母胎はユダヤ教、とくにファリサイ派ユダヤ教です。また、非主流のエッセネ派も深い関わりがあると推察されています。いずれにせよ、福音を生み出す母胎となったユダヤ教では、「永遠の生命」とは来るべき世において神から賜る生命であって、それは未来の出来事であります。その未来の生命にあずかるために現在律法を守り行う生活をしなければならないのです。「(将来)永遠の命を受け継ぐには、(現在)何をすればよいでしょうか」(マルコ一〇・一七)という問いは、ユダヤ教の基本的な問いなのです。そして、来るべき世で賜る永遠の命は復活という形で与えられることが信じられていました(ヨハネ一一・二四)。ユダヤ人には体のない霊魂だけの永生というようなものは考えられないからです。このように、ユダヤ教では「永遠の命」と「復活」は重なっていて、共に来るべき世で与えられる将来の救済の出来事であったのです。
 福音がはじめユダヤ人たちに宣べ伝えられたとき、それは永遠の命を受け継ぐ、すなわち復活にあずかるのは、律法を守り行うことによるのではなく、イエス・キリストを信じることによるのだ、というユダヤ人にはまったく革命的な使信であったのです。しかし、イエス・キリストを信じることによって与えられる救済は、なお来るべき世における生命であり、将来の復活であったのです(マルコ一〇・二九〜三〇参照)。救済の土台として律法が否定され、かわりに信仰が置かれたことは、ユダヤ教の根本原理を覆す革命であったのですが、それはなお、永遠の命を将来の出来事と見るユダヤ教の枠組みを超えることはなかったのです。

現在の出来事としての永遠の命

 このユダヤ教の基本的な枠組みをも超えて、永遠の命を現在の出来事として最初に明らかに示したのは使徒パウロでした。パウロにとって永遠の命は将来与えられることを待ち望むだけのものではなかったのです。それは今すでにキリストにあって賜っており、聖霊によって生きている現実なのです。わたしたちはいま現に来るべき世の命を生きているのです。このことはパウロの手紙の全体に響きわたっています。キリスト信仰とはキリストに結ばれてこの生まれながらの古い自分が死に、キリストから賜る別種の新しい命に生きることなのです。死者の中から復活したキリストの命を生きることなのです(ガラテヤ二・一九〜二〇、ローマ六・四、六・一一など)。
 パウロが、そしてまたわたしたちが、永遠の命を将来に待ち望む出来事でなく、いま生きている現実だとすることができるのは、十字架・復活のキリストを聖霊によって現在の事実として体験しているからです。その体験によって、十字架・復活のキリストにおいて来るべき世が到来していることを見ているからです。ユダヤ教が将来に待ち望んでいる終末がキリストにおいてすでに来ているのです。将来与えられるものとして待ち望まれていた永遠の命が、キリストにおいて現に来ているのです。
 こうして、黙示思想に深く影響された当時のユダヤ教の二つの《アイオーン》の枠組みを、パウロははっきりと突き破って、永遠の命を現在のものとしているのです。しかし、パウロが永遠の命について語るところをよく見ますと、それを将来のこととして語っているところも多くあります。永遠の命は将来神から与えられる賜物であり、信仰生活の目標です(ローマ六・二二〜二三)。「キリストと共に生きる」という動詞は未来形で語られます(ローマ六・八)。このように、パウロが命について語るとき、現在形と未来形が微妙に入り交じっています。
 これは、パウロが当時のユダヤ教の二つの《アイオーン》思想の枠組みを突き破っていると同時に、旧約聖書の救済史の啓示そのものは確固として保持しているからです。聖書(旧約)によれば、神はイスラエルの歴史の中で救済の業を進め、ご自身を啓示してこられました。そして、終末時に決定的で最終的な救済の業を成し遂げてくださると約束されています。福音はこの救済史の啓示を前提にして、時が満ち、イエス・キリストの十字架と復活においてこの終末的な救済の業が成し遂げられたと告知するのです。終末はキリストにおいてすでに到来しているのです。しかし、それを受け取るわたしたちがなお時間の中にいる限り、最終的な完成はなお将来に待ち望まれるのです。救済史はなお将来を持っているのです。福音においては、「現在すでに」と「なお将来に」という二つの面は不可分の一体なのです。イエスの「神の国」の宣教にもこの二つの面がありました。パウロが永遠の命について語るときも、この現在と将来の二つの面が同時に語られるのです。

現在の命と将来の復活

 ところで、この永遠の命を復活という「具体的」な相で語るときには(永遠の命が体を備えた形で現れるのが復活です)、未来形で語らざるをえません。わたしたちすべての人間はなお時間の中にあり、死ぬべき体をもって生きているのですから、もはや朽ちることのない体で生きるようになることは将来の神の業として待ち望むことになるからです。神はキリストを復活させて、ご自身の民を死者の復活という形で完成されることを示されたのです。死者の復活こそ救済史の最終目標です。死者の復活を否定することは、救済史を否定することであり、救済史を内容とする聖書を否定することになるのです。パウロが死者の復活を否定する者たちを厳しく批判するのは、それが福音の根底である(旧約)聖書を否定することになるからです。
 パウロが永遠の命について語るさいの現在と将来の二つの面のうち、命がすでに来ているという現在の面を徹底させたのがヨハネ福音書です。ヨハネ福音書はその全体を通じて、信じる者はすでに命を得ていると宣言しています(たとえば五・二四、六・四七)。事の性質上将来のことにならざるをえない復活も、現在の命の現実の中に吸収しようとする傾向があります(一一・二四〜二六)。しかし、そのヨハネ福音書さえも、信じる者がすでに命を持っていることを宣言した直後に、終わりの日の復活を語らざるをえないのです(六・四〇など)。このように終わりの日の死者の復活を語るテキストは本来のヨハネ福音書にはなく、後の編集者の加筆であるとする説があります。そうだとしても、そのような加筆がなければ教団に受け入れられないところが重要です。もしそれを加筆として除去することが死者の復活の信仰を否定することを意味しているのであれば、それは聖書の救済史を否定することであり、福音を福音でないものにすることだと本章でパウロが厳しく批判している誤りになるのです。
 このように、キリストにあって現在賜っている命と将来の復活は不可分の一体です。キリストと結ばれてキリストの命に生きるようになれば、将来の復活はもう待ち望む必要はなくなるのでしょうか。決してそうではありません。逆です。現在キリストの命を生きる現実体験が深くなるほど、将来の死者の復活にあずかる希望も確かなものになってゆくのです。わたしたちに命を与える聖霊は、キリストを死者の中から復活させた方の霊だからです(ローマ八・一〇〜一一)。また、いま現実に復活者キリストの命に生きるのでなければ、聖書の救済史が与える将来の死者の復活の約束も観念的な言葉だけのものになり、わたしたちの希望もユダヤ教黙示思想とたいして変わらない非現実的な思想体系になってしまうことでしょう。
 キリストにあって賜る永遠の命とは、復活にいたらざるをえない質の命だと言うことができます。それはキリストの十字架に合わせられて古い自分が死ぬところに現れてくる新しい命です。このように将来の復活に向かって現在生きる命、これが「キリストにあって生かされることになる」と言われるときの命の質だということになります。

復活の順序

パルーシアにおける死者の復活

 「ただ、各人はそれぞれの順序に従って復活するのです。初穂であるキリストが復活し、次いでキリストの来臨のときキリストに属する者たちが復活します」。(二三節私訳)

 ここで「順序」と訳した原語《タグマ》は、順序づけられたユニットないしグループを指す語です(それで軍事用語としては「軍団」という意味になります)。死者の復活においても、各人はそれぞれ、神が時の中に順序づけられたグループに従って復活することになる、とパウロは言っているのです。このような言明の背後には、時の流れの中でわれわれが体験する救済はすべて、究極の目的に向かって神が定められた段階ないし順序に従って起こるのだという旧約の救済史的信仰があります。
 死者の復活における第一の段階は、初穂であるキリストご自身の復活です。次に来る第二の段階は、キリストの来臨《パルーシア》にさいしてキリストに属する者たちの復活です。ここで、キリストの復活について、第一というような数字ではなく、「初穂」という救済史的意義の強い用語で順序が語られていることが注目されます。キリストの復活はたんに順序が先だというだけでなく、後に来るグループをあらかじめ代表し保証する復活であることが、ここでも明らかにされているのです。
 今は二つの復活の間の時であって、現在地上に生きる信徒は、すでに初穂として復活されたキリストに結ばれることによって、将来の自分の復活を待ち望む立場にあるのです。使徒は、「死者の復活」というのはあくまで将来のことであることを改めて強調し、復活はもうすんだと主張して「死者の復活」を否定する人たちを論駁しているのです。
 ここで「将来」というのは、「将(まさ)に来たらんとする」キリストの事態です。すなわち、キリストの到来、来臨《パルーシア》のことです。キリストが来られるとき、キリストに属する者たちは死の眠りから呼び覚まされて、もはや朽ちることのない体を着せられて栄光の中に現れます。これが「死者の復活」です。逆に、そのような死者の復活が起こることが、キリストの来臨《パルーシア》なのです。パウロにおいては、キリストの来臨《パルーシア》と死者の復活は同一の出来事の二つの呼び方です。パウロが語る将来はほとんど「死者の復活」だけと言えます。パウロはもはや黙示録的出来事の経過について語ることはほとんどありません。パウロの終末待望は「死者の復活」に集中していると言えます。

最終的な完成

 「それから終局となって、その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます」。(二四節私訳)

 この節冒頭の「それから」は、二三節の「次いで」に続いて、復活する者たちの第三の「順序《タグマ》」について語っているのではなく、キリストの来臨のときの死者の復活にさいして到来する最終的な完成の局面を語っているのです。
 パウロがここで用いている《テロス》という語は本来「終わり、結末、完成」というような意味の語で、ここでの文脈からすれば、神の救済史の「最終的な完成の局面」と理解すべきです。その意味を込めて、ここでは「終局」と訳します。
 では、キリストの来臨《パルーシア》時の死者の復活と「最終的な完成の局面」《テロス》との時間的関係はどうなるのでしょうか。この問に対して、教会はさまざまな解答を提出してきました。たとえば、すでに新約聖書の中でヨハネ黙示録(二〇・一〜六)には、キリストが復活した聖徒たちと共に一千年の間地上を支配し、その後に最後の審判と完成が来るという「千年王国」が説かれています。そして、この「千年王国」について、二千年の教会史の中でじつにさまざまな説が提出され、論争が行われてきました。
 しかし、このように《パルーシア》と《テロス》の時間的関係を問う問い自体が意味がないのです。キリストの来臨《パルーシア》とその内容である死者の復活という事柄自体、すでに時の流れを超えた次元の出来事です。そして当然、「救済史の最終的完成の局面」《テロス》も時を超えています。このように時の枠組みを超えた事柄について時間的前後関係を問うこと自体、意味がありません。時間の枠の中にいるわれわれにとって、《パルーシア》も《テロス》も共に時の彼方に待ち望む「終末」的事態であって、その前後関係や、その間の出来事を論じることはできません。ですから、本節の「それから」は、時間の前後関係を示すのではなく、論理的関係を示す語と理解すべきです。すなわち、キリストの来臨時の死者の復活があって初めて、救済史の最終的完成がありうる、という関係です。
 この《テロス》、すなわち「救済史の最終的完成の局面」は、「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に支配を引き渡されます」という表現で語られます。ここで「すべての権力《アルケー》、すべての権威《エクスーシア》や勢力《デュナミス》」が、神の支配に反抗する勢力として語られています。ヘレニズム世界では、人間が住んでいる世界ないし宇宙《コスモス》は天界の霊的な諸力、天使的な諸力が階層をなして支配していると考えられていました。地上の国家権力や支配権力もその一つの表現と考えられていたのです。「その時キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」とあるのは、その時キリストと「すべての権力、すべての権威や勢力」との一大決戦が行われて、キリストが勝利して彼らの支配を滅ぼされるという意味ではなく、次節の内容からしても、キリストがすでにその十字架と復活によって始められた反神的諸力の克服の業がこの段階ですべて完成し、その完成した支配を「父である神に引き渡される」ことになると理解すべきでしょう。

最後の敵

 「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで、支配されることになっているからです」。(二五節私訳)

 前節の「キリストはすべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼし」が、キリストに関わる神の定めによって根拠づけられます。この節の初めに、「せざるをえない《デイ》」という語がありますが、聖書ではこの語は必ずそうならざるをえない神の定めを表現する語です。神が終末的救済者としてお立てになったキリストは、その使命と権能からして、その支配が「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」貫かれるように定められているのです。そのような定めを教団は旧約聖書の中に見い出して、キリストの支配の完全さを根拠づけたのでした。その代表的な例は詩編一一〇編です。そこではこう宣べられています。

 「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」。(詩編一一〇・一)

 復活して神の右に上げられたキリストは、この「主の御言葉」によって、「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」支配するように、神によって定められているのです。 十字架・復活によって始まったキリストの支配は、なお神の支配に敵対するさまざまな霊的力が働くこの世《アイオーン》の中で、それらの力の支配を打ち破りつつ、完成に向かって進められてゆきます。そして、そのキリストの支配は「すべての敵を御自分の足の下に置くにいたるまで」、すなわち「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」にいたるまで、必ず到達するのです。それが神の定めだからです。

 「最後の敵として、死が滅ぼされます」。(二六節)

 このようにキリストが滅ぼしていかれる神への敵対的支配力の最後のものが死です。キリストが最後の敵である死を滅ぼされるとき、「すべての権力、すべての権威や勢力を滅ぼす」というキリストの業は完了し、キリストが支配を父なる神に引き渡される「終局」が来るのです。
 「死が滅ぼされる」とは「死者の復活」にほかなりません。死者が復活するとき、死が滅ぼされるのです。死者が死者でいるかぎり、死が支配しています。死者が復活するときはじめて、死が滅ぼされて、神の命が完全に顕現するのです。
 最後には死も滅ぼされるという言明が、詩編(八・七)の引用で根拠づけられます(二七〜二八節)。「神は服従させた」という表現をキーワードにして、キリストが「父である神に支配を引き渡される」という「終局」の出来事が、聖書解釈の形で説明されます。ここの議論の運びには、現代のわれわれから見るとやや強引な感じを受けますが、当時のパリサイ派聖書学者には普通のことだったのでしょう。詩編八編は本来、創造の秩序において人間がすべての被造物を支配するように定められたことを歌った詩編ですが、その中の「人の子」(五節)がメシア的に解釈されて、キリストの支配を賛美する詩編とされたものと考えられます。それで二八節ではキリストが「御子」と呼ばれ、最終の局面では御子が御父から与えられた万物の支配権を御父に引き渡して、神の全救済史が完成すると語られることになります。神の救済史の全過程は、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ことです。キリストにおける死者の復活が成就することで、死という最後の敵に対しても神は勝利者として現れ、この最終的完成が実現するのです。