第二節 生きることはキリスト
共に福音にあずかる仲間
執筆の事情
パウロは獄中からこのフィリピ集会あての手紙を書いています(一・七、一七)。先に見たように、パウロはエフェソで投獄されたと見られます。ルカはエフェソでの騒乱を伝えていますが(使徒言行録一九章二一節以下)、パウロの投獄については沈黙しています。おそらくパウロはこの騒乱に巻き込まれて逮捕投獄されたのでしょう。ルカは、この新しいキリスト信仰がローマ帝国にとって危険なものではないことを示そうとする護教的な意図をもって書いていますから、ローマ官憲によるパウロの逮捕や投獄を伝えなかったと考えられます。
最近話題になっているウォルター・ワンゲリンの「小説聖書」の第三巻「使徒行伝」は、パウロの生涯と使徒としての活動を小説風に描いていますが、その中でエフェソの騒乱で投獄されたパウロを、プリスカが自分をパウロの身代わりにして脱獄させる場面があります。これは小説ですが、著者は神学者でもあり、その物語の骨格は最近のパウロ研究の成果を堅実に用いていることがうかがわれます。パウロがアキラとプリスカ夫妻について、「命がけでわたしの命を守ってくれた人たち」(ローマ一六・四)と呼んでいることからも、このような出来事が実際にあったことも推察できます。もしそれが事実であれば、キリスト教徒がローマの法律や秩序を破る者でないことを示したいルカが、このような非合法な脱獄を含むエフェソでの入獄について語ることを避けたことは、一段ともっともらしくなります。
エフェソでの投獄がどのような罪状によるものか、裁判はあったのか、どのくらいの期間に及んだのか、どのような経緯で出獄できたのかなど、詳しいことは何も分かりません。ただ、パウロの手紙から、このとき投獄されたのはパウロだけでなく、数人の仲間が一緒に逮捕されて投獄されたと推定されます。次のような人の名が上げられています。
「キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕われているエパフラス」(フィレモン二三)
「わたしと一緒に捕われの身となっているアリスタルコ」(コロサイ四・一〇)
「わたしの同胞で、一緒に捕われの身となったことのあるアンドロニコとユニアス」(ローマ一六・七)
ローマ書一六章は、多くの研究者が見ているように、エフェソ集会あての個人的挨拶であるならば、ここに名を上げられている二人(アンドロニコとユニアス)は、エフェソで一緒に投獄された同囚の仲間となります。もしローマ書一六章がローマの集会あての手紙の一部であるとすれば、この手紙の執筆時にはカイサリアやローマでの入獄はまだ起こっていないのですから、エフェソで共に投獄され、後にローマに移住したと見なければなりません。
投獄がパウロ一人ではなく数名に及んでいることからも、大規模な騒乱による逮捕であることをうかがわせます。パウロたちは総督府に拘留されますが、それがたんなる卑俗な犯罪によるものではなく、キリスト信仰によるものであることが(監視の兵卒との交流を通して)総督府全体に知られるようになったこと(一・一三)、訪問者を受け、エパフロディトの病気など外からの情報が伝わっていること、手紙を書くことができることなどから、この拘留は比較的ゆるやかなものであったことがうかがわれます。しかし、一面では主の助けにより釈放されて再びフィリピの人たちと会うことを確信しつつも(二・二四)、裁判の成り行きによっては死も覚悟しなければならない状況であることも自覚しています(一・二〇以下、二・一七)。
この獄中でパウロは、フィリピ集会からの贈り物をたずさえてパウロのもとに来て、エフェソでのパウロの働きに献身的に仕えたエパフロディトの重病を知ります。幸いにエパフロディトは主の憐れみによって癒されますが、自分の病気がフィリピの仲間に伝わり、心配をかけていることを辛く思うようになり、早くフィリピの仲間に元気な姿を見せたいと願うようになります。パウロもエパフロディトをフィリピに帰すことがよいと考えるようになります(二・二五〜三〇)。そこでエパフロディトをフィリピに送り帰すにあたって、エパフロディトの信仰と献身に賞賛を表明すると同時に、フィリピの人たちに対する日頃の熱い思いをこめてこの手紙を書くのです。
執筆の直接のきっかけはエパフロディトの帰郷ですが(この手紙はエパフロディトに持たせたと考えられます)、この手紙執筆の動機はやはり、パウロとフィリピ集会との信頼に満ちた交わりにあると言えます。先に見ましたように、フィリピの集会はパウロを熱く慕い、パウロの主要な活動地であるテサロニケ、コリント、エフェソと、資金を送り続けてパウロを支えてきました。パウロもフィリピの集会を、親が子を慕い心配するように心にかけてきました。その自分が生んだ信仰の子たちに対する使徒としての愛と配慮が、この手紙を書かせたのです。このキリストにある愛と信頼の交わりから生まれた手紙は、獄中という陰惨な境遇で生まれたにもかかわらず、喜びを基調とするまことに美しい書簡になっています。
この獄中からの手紙に、すでに前回取り上げた援助への感謝の手紙の一部(四・一〇〜二〇)と、(別の機会に書かれたと見られる)割礼を誇る働き人に対する「警告」(三・一後半〜四・一)が組み込まれて、現在の形のフィリピ書ができたと考えられます。「警告」の部分は後で取り上げることにして、先に獄中からの書簡の部分を見ていきます。
挨 拶
1 キリスト・イエスの僕(しもべ)であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。 2 わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。(一・一〜二)
この手紙では、パウロは自分が使徒であるという立場に触れていません。ガラテヤ書、コリント書、ローマ書など論争的な性格をもつ書簡では、使徒としての立場で書いていることを初めから明確にしていますが、自分を全面的に信頼して慕ってくれているフィリピ集会に対してはその必要がなかったからでしょう。ただ「キリスト・イエスの僕(しもべ)」とだけ名乗っています。「僕(しもべ)」という用語は、旧約では「神の僕(しもべ)」という形でよく用いられており、「僕(しもべ)なる預言者」という用例が多いことからも分かるように、特別に召されて神の働きの器として神に仕える者を指します。パウロもここでそのような意味で用いているわけですが、パウロの場合は神に仕えることがキリスト・イエスに仕える者となり、仕える働きの内容が特定されています。パウロにおいては、キリストに仕えることが神に仕えることなのです。また同時に、自分を「キリスト・イエスの奴隷」(直訳)と名乗る(ローマ一・一も参照)のは、全存在をキリストに献げた者であるという自覚の表現でもあります。
この手紙では、共同の発信人としてテモテの名があげられています。テモテはパウロと一緒にフィリピで伝道活動をして、フィリピ集会の形成にかかわった協力者であり(使徒言行録一六章)、フィリピの人たちによく知られた人物です。また、信頼を受けている者としてこれからフィリピに派遣しようとしている人物です(二・一九以下)。ここではパウロと同じ「キリストの僕(しもべ)」として紹介されています(「僕(しもべ)」はパウロとテモテを指す複数形)。パウロは手紙を書くとき、相手方によく知られた人物を共同の発信人として名をあげています(テサロニケT、コリントIとU、フィレモン)。しかし、手紙の内容はまったくパウロ一人のもので、この手紙でもテモテは第三者として語られています(二・一九以下)。
宛先は「フィリピ在住のキリスト・イエスにある聖徒たちへ」(直訳)となっています。「聖徒たち」という表現には、終末にさいして真に神に属する者たちという意味が込められていると見られます。この表現は、初め最初期のエルサレム教団のユダヤ人信徒たちに用いられましたが(パウロは募金活動に関する箇所ではずっとこの意味で用いています)、パウロは、「キリストにある」者は(異邦人であろうと)すべて彼らと同じ神に属する民であるとして、この呼び方をよく用います(コリントI一・二など)。
この手紙では宛先の呼び方に、「監督たちと奉仕者たちと一緒にいる」という句が付けられていることが目立ちます。両方とも複数形で呼ばれていることからも、両者は特定の制度的地位ではなく、集会の運営を担う指導的なグループの人たちを指していると見られます。集会や伝道活動、互いの助け合い、パウロ一行への援助など、信仰的な面でも経済的な面でも実際の活動を決めたり実行したりするさいの役割を担当した人たちでしょう。両者には厳密な区別はなく、「監督たち」は集会活動全般を決めたり、集会を司会したり指導したりする人たちであり、「奉仕者たち」というのは経済面を含む実際的な活動を担った人たちを指すのではないかと考えられます。
「監督」《エピスコポス》は、後に牧会書簡(おそらく二世紀初め)で単数形で用いられるようになり(テモテT三・一〜二、テトス一・七)、二世紀初めの殉教者イグナティオスも一人の監督による教会体制を強調し、古カトリック教会の「単独司教制」へ発展していくことになります。「奉仕者」と訳されている《ディアコノス》も、後には「執事」という実務を担う教会の役職名となっていきます。パウロの時代にはまだ、このような教会制度的な役職名として用いられているのではありませんが、コリント第一書簡(一二章)に見られる「使徒」「預言者」「教師」というようなカリスマ的指導者とは違う、やや継続的な形で職責を担う人たちが集会の指導や実務に当たっていたと見られます。このような人たちが、あまり厳密な区別をしないで「監督」とか「奉仕者」と呼ばれていたと見てよいでしょう(《ディアコノス》がこのような意味でローマ一六・一にも用いられています)。
福音への参加
3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。 6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。(一・三〜六)
挨拶に続いて、パウロは日頃フィリピの人たちのために神に捧げている感謝と祈りを伝えます。フィリピの人たちのことを思い起こし祈るたびに、パウロは神に感謝し、喜びに満たされるというのです(三〜四節)。それは、彼らが「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」からです(五節)。ところで、このパウロの感謝と喜びの源になっている「あなたがたの福音への《コイノーニア》(交わり、参与)」には二つの意味が考えられます。一つは、フィリピの人たちが福音のもたらす救いにあずかっているという意味です。もう一つの意味は、フィリピの人たちが福音を宣べ伝える活動に参加しているという意味です。
この二つの意味は、「福音」という語がもっている二つの意味から出ています。すなわち、「福音」は「救いの音信」という意味で、告知されている内容を指す場合と、告知する行為を指す場合があるからです。パウロが「福音」を告知の内容を指して用いていることは当然ですが(ローマ一・二〜四、コリントT一五・三〜五など)、告知する行為を指している場合もあります(四・三、ローマ一・一、コリントU八・一八、ガラテヤ二・七)。「福音」が告知された内容を指すのであれば、「福音への《コイノーニア》」は福音がもたらす救いにあずかっているという意味になり、「福音」が告知する行為を指すのであれば、福音を宣べ伝える活動に参加しているという意味になります。この場合、どちらの意味であるかが争われています。
しかし、この二つの意味は二者択一ではありません。どちらかを採れば、他方が否定されるという関係ではありません。福音を宣べ伝える活動に参加することは、福音がもたらす救いにあずかっているからできるのです。この句を「福音を宣べ伝える活動に参加する」ことと理解することは、当然彼らが福音のもたらす救いにあずかっていることを含んでいます。それで、本当の二者択一は、「福音の救いにあずかっている」と理解して宣教活動に参加するという意味を排除するか、救いにあずかっていることを含んで「宣教活動に参加している」と理解するか、の問題になります。わたしはこの場合後者をとるべきであると考えます。
「福音への《コイノーニア》」という表現は、このフィリピ書だけに出てきます。パウロは、救いにあずかっていることを指すのに他でこの表現を用いることはありません。そうすると、パウロの宣教活動に参加した唯一の集会として(四・一五〜一六でも宣教活動への参加を指すのに《コイノーニア》の動詞形が用いられています)、パウロと特別の関係にあるフィリピの集会に書き送る手紙の中では、この表現は宣教活動への参加と理解するのが自然です。
さらに、「最初の日から今日まで」という句も、救いの事態に関する説明と理解することも不可能ではありませんが、宣教活動への参加の説明として理解する方が適切です。救いに関しては現在救われていることと、その救いが将来に向かって進展することがよく語られますが、救いが「最初の日から今日まで」続いていることが語られることは、パウロにおいてはやや場違いな印象を受けます。それに対して、宣教活動への参加の説明としてはごく自然です。前回見たように、パウロが最初にフィリピで伝道して集会を形成したときからこの手紙の執筆時までずっと、フィリピの集会はパウロの活動を支援し続けたのです。
パウロは、このようなフィリピの人たちの「福音への参加」を喜び、それを与えてくださった神に感謝しているのです。それは真の仲間を得た喜びです。パウロは、ユダヤ人からは異端者として命を狙われ、ユダヤ人キリスト教徒からは厳しく批判されて反対運動まで起こされ、自分が建てた異邦人集会(ガラテヤやコリントの集会など)からも様々な問題や批判を起こされるという状況で、組織に頼らずに孤軍奮闘、独立自給の福音宣教活動を進めてきたのです。その中で、フィリピの集会だけが全面的にパウロを信頼して慕い、その活動を支援してきたのです。パウロにとっては、フィリピの人たちだけが心を許せる同志であり仲間であったのです。そのような仲間を得た喜びがいかに深いものであるかは、すこしでも独立伝道に携わった者にはよく理解できます。パウロがフィリピの人たちに向かって「あなたがたの福音への参加」を喜ぶと言うとき、それは、福音のもたらす救いの恵みに共にあずかっているだけでなく、さらに進んで福音のための働きと労苦をも共にしている仲間を得たことを喜んでいるのです。
パウロはフィリピの人たちについて、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(六節)と続けます。「キリスト・イエスの日」というのは、復活されたイエスが栄光の主として世界に来臨あるいは顕現される日のことです。パウロはこの日のために福音を宣べ伝え、その働きの成果をこの日の視点から見ています(二・一二〜一六、テサロニケT二・一九)。
「あなたがたの中で善い業を始められた方」は神です(二・一三)。神はキリスト・イエスを受け入れた者たちの内に聖霊によって働かれるのです。神は、福音を信じたフィリピの人たちの中に働いて、イエスを「キュリオス・キリスト」と告白させ、愛をもって生き、パウロと力を合わせてこの福音のために働くという「善い業」を始められました。「福音への参加」は神が始められた「善い業」です。神が始められた業である以上、その業は「キリスト・イエスの日」に完成することを確信する、というのです。フィリピの人たちの神の子としての栄光も、パウロと共にする福音のための働きも、その日には完成して栄光の中に現れることを確信するのです。
キリストの熱愛
7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。 8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。(一・七〜八)
七節で「考える」と訳されている動詞《フロネオー》は、新約聖書全体の用例26回の中22回がパウロ書簡です。しかもその中の10回がフィリピ書に出てきます。パウロはこの動詞をたんに「考える」とか「思う」という以上の意味で用いています。すなわち、ほとんどの場合この動詞は、人間がその全存在をある対象に注ぎ込んで生きる姿勢を指しているので、「考える」では不適切です。「心を向ける」とか「思いを抱く」もなお不十分ですが、やや近いかもしれません。パウロがフィリピ書でこの動詞を繰り返して用いているのは、八節の「熱愛」が示しているように、パウロとフィリピの人たちの間の熱い心の交流の中で書かれているからだと考えられます。
パウロがフィリピの人たちについて以上のような思いを抱く理由が続きます(七節)。パウロは「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」、いつどんな時にも、「共に恵みにあずかる者として、あなたがたを心に抱いているから」(直訳)だと言います。「共に恵みにあずかる者」という表現には、先の「福音にあずかる」と同じ《コイノーニア》という語が「共にあずかる」という形で使われています。「共に恵みにあずかる」というのは、福音がもたらす救いの恵みにあずかるだけではなく、福音を宣べ伝える働きとその労苦にも共に参加していることを指しています。パウロは使徒として福音を宣べ伝える使命と労苦を、つねに「恵み」として理解しているのです(コリントT一五・一〇、ガラテヤ一・一五、ローマ一・五)。パウロはここで、フィリピの人たちをこの恵みに「共にあずかる者として心に抱いている」と言います。パウロが福音を弁明し立証するときも、福音のために獄舎に監禁されているときも、フィリピの人たちはそこに一緒にいて、福音を弁明し、獄舎の労苦を共にしているのだと、パウロは感じているのです。
そのようなフィリピの人たちとの一体感を、パウロは神を証人として立てて吐露します(八節)。自分が「キリスト・イエスの熱愛をもってあなたがたを慕っている」(私訳)ことは、神御自身が証人となってくださるというのです。
ここで「熱愛」と仮に訳した《スプランクナ》というギリシア語は、もともと心臓、肝臓、腎臓、肺臓など、犠牲動物の内臓を指す語でしたが、後に人の内臓を指すようになり、さらに人の内側のもっとも奥深い部分を指すようになり、心とか感情という意味にもなります。内臓が心とか感情の座と見られていたからです。旧約聖書のヘブライ語がこのギリシア語で訳される場合はほとんどありませんが、ギリシア語で書かれた後期のユダヤ教文献には、その動詞形が「憐れむ」という意味で用いられるようになります。共観福音書ではこの用法が引き継がれ、イエスが群衆を憐れまれたとか、イエスのたとえで、王が家臣を憐れむとか、放蕩息子の父親が息子を憐れむというように、いつも動詞形で用いられます。パウロでは逆に動詞形は出てこず、いつも名詞形で出てきます。他の書簡でも少し用いられていますが(コリントU六・一二、七・一五)、同じ時期の獄中書簡であるフィレモン書に三回(七、一二、二〇節)、フィリピ書に二回(ここと二・一)に集中して出てくることが注目されます。日本語で「腸(はらわた)の底から」というような表現に見られるように、全人格・全存在の奥底からの心とか感情を指しています。この場合は、そういう質の慈愛の感情を指していると見られるので、「熱愛」と訳しておきます。
「キリスト・イエスの熱愛」というのは、わたしたちのためにご自身の命を献げて愛してくださったキリスト・イエスの愛の質を指しています(ガラテヤ二・二〇)。そのような質の熱愛をもって慕っているので、パウロはフィリピの人たちのために、彼らが「キリストの日」に完成されるように、次のように祈らないではおれないのです(九〜一一節)。
キリストの日に備えて
9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、 10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、 11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(一・九〜一一)
パウロの目はいつも「キリストの日」に向いています。パウロは自分も愛するフィリピの人たちのことも、すべて来るべき「キリストの日」から見つめます。パウロの視線は終わりの「キリストの日」から現在に向かっています。その視点から見るとき、現在何が必要であるのかが正しく判断できます。それは愛《アガペー》が増し加わることです。
パウロにおいては、愛《アガペー》は聖霊の賜物です(コリントI一二・三一以下)。あるいは聖霊の実です(ガラテヤ五・二二)。イエスが示され、また説かれたあの無条件・絶対の愛は、内なる聖霊の働きによってのみ実現することができます。しかし、聖霊を受けたからといって、自動的に愛が始まり増し加わるわけではありません。わたしたちの複雑な現実の生活の中で、「知る力と見抜く力とを身に着けて」、すなわち、経験によって鍛えられて、事柄の本質を理解し、判断力をしっかり身につけることによって、人間の自然の本性に従うのではなく、聖霊の導きに従うことができるようになるのです。そのとき初めて、愛《アガペー》が増し加わります。そして、愛が増し加わるとき、キリストにある者として、終末に面して生きる者として、真に重要なことが何であるかが分かるようになり、確信が増し加わるのです。「本当に重要なことを見分ける」という表現は、ローマ書二章一八節でユダヤ人が律法によって教えられて、「何をなすべきかをわきまえている」と語られているところで用いられています(ギリシア語原文は同じです)。キリスト者はそれを、律法ではなく聖霊の愛によって教えられるのです。
愛に満たされることが、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となる」ことなのです。それ以外のことは求められていません。このことは、テサロニケの集会にあてた手紙でも同じように祈られていました(テサロニケT三・一二〜一三)。終わりの日に備えて現在を生きる点では同じですが、ユダヤ教徒は律法の完全な順守をもって備えようとし、キリスト者は愛の完全を目指すという点で違ってきています。
パウロはさらに「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほど受ける」ように祈ります。「義の実」というのは、ガラテヤ書五章二二節以下の「聖霊の実」と同じと見ることができます。「実」とはわたしたちの現実の生き方の中に現れる結果を指しますが、それがどこから来るのかという視点から見れば「聖霊の実」であり、どのような性質のものかという視点から見れば「義の実」になります。神に受け入れられる善い生き方です。パウロにおいては、義は人間が築き上げる功績ではなく「イエス・キリストによって与えられる」恵みの賜物です。そして、このような「義の実」を豊かに身につけることが、「神の栄光と誉れとをたたえる」ことになるのです。
生きることはキリスト
投獄は福音の前進のため
12 兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。13 つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、14 主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。(一・一二〜一四)
ここでパウロは現在の自分の境遇について語り始めます。福音を宣べ伝えたことによって逮捕され投獄されたことは、福音の働きのためには大きな障害になると、普通は考えられます。フィリピの人たちもパウロの身の安否について、また福音の前途について大いに心配したことでしょう。パウロは自分の心境については後で述べますが、まず何よりも先に、この出来事が「福音の前進に役立った」ことを、協力者であるフィリピの人たちに報せます。パウロは自分の一身上の安否よりも福音の前進を優先しているのです。
福音の前進に役立ったのは、パウロの逮捕監禁が犯罪行為などのためではなく、「キリストのためであると知れ渡った」ので、「イエス・キリスト」という名と、その方を信じる新しい信仰に人々の関心が強く向けられるようになったからです。パウロが監禁されている総督府全体に知れ渡っただけでなく、外のすべての人々にも知れ渡ったので、町中がこの新しい信仰のことを話題にしたのでしょう。パウロの逮捕投獄がエフェソのアルテミス神殿での騒動(使徒言行録一九章)によるものであれば、町中がこの話題に騒然となったことは想像できます。
さらに、キリストにある兄弟たちの中で多くの人たちが、この機会を捉えてキリストのことを積極的に周囲の人たちに語るようになりました。しかも、パウロの投獄を見て、「確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」のです。福音のために自分を投げ出しているパウロの姿を見て、信仰を励まされ、迫害や苦難の時にますます強く働きたもう聖霊の御力によって、恐れることなく勇敢に「御言葉」を語った、すなわち福音を伝えたのです。
ここに用いられている「御言葉」《ホ・ロゴス》という語は、初期においては「福音」を指す術語でした。もちろん、《ロゴス》(言葉)は新約聖書でも大部分、人が語る言葉や神が語られる言葉を指していますが、初期の宣教活動の場で、このように単数形が定冠詞つきで単独で用いられるとき、宣教の内容、すなわち福音を指していました。パウロの場合にも、テサロニケT一・六やここはその用例です。この用法は、共観福音書でも見られます。たとえば、マルコ福音書の四・一三以下や八・三二など、初期の宣教状況を反映する編集句によく現れます。初期の宣教の歴史を語る使徒言行録には、もちろん多くの用例があります。
それがなんであろう
15 キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。16 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、17 他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。18 だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。
(一・一五〜一八)
パウロの投獄とその原因となった事件により、多くの神殿と様々な宗教が雑居する大都会エフェソに、新しいキリスト信仰が話題となり、キリストを宣べ伝える活動が一段と活発になったのですが、その中にはパウロに対抗するためにされている活動もあることを伝え聞きます。エフェソで活動したのはパウロだけでなく、他の「働き人」たちもいたのです。もちろん一方では、パウロの投獄が福音の弁証のためであることを理解して、エフェソに福音を確立したいというパウロの切なる願いを代って実現しようという愛の動機で熱心に伝道する人たちもいました。アキラとプリスカ夫妻もそのような仲間でした。しかし他方、ある働き人たちを核として形成された集会やグループは、パウロが投獄された機会に自分たちの勢力を拡大しようと熱心に活動したのです。彼らは「ねたみと争いの念にかられて」(一五節)、「党派心から」(一七節協会訳)活動しているのです。彼らはその活動によりパウロの影響力を削ぐことを期待しているのです。それは投獄されているパウロの苦しみに、さらに心労を加えることです。
新共同訳は「自分の利益を求めて」と訳していますが、ここは協会訳の「党派心から」の方が適切でしょう。この時期にすでにコリントでは「アポロ派」や「ケファ派」などがあったことが伝えられていますが(コリントI一・一二)、この段落のパウロの文は、エフェソにも同じように競合するグループがあったことを示唆しています。
たとえそれが党派心からなされる伝道であっても、とにかくキリストが告げ知らされているのだから、それを喜ぶとパウロは言います(一八節)。それが自分の苦しみを増し加えることであっても、キリストの名がさらに伝えられ、あがめられるのであれば、それを喜ぶというのです。自分が導いた人を「自分の」弟子と見る宗教家の党派心を、パウロは完全に脱却しています。
キリストがあがめられることだけを願う
18b しかり、これからもわたしは喜びます。19 というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。(一・一八b〜二〇 一部私訳)
そしてさらに、「しかり、これからもわたしは喜ぶであろう」と言って、その理由を続けます。先に不純な動機からする伝道も、キリストが宣べ伝えられているのだから喜ぶと言ったとは別の喜びが、ここから語られます。その喜びの理由あるいは内容を語る一九節と二〇節は一つの文章で、一体として理解されなければなりません。強いて原文の語順通りに直訳すると次のようになります。
「しかり、これからも喜ぶであろう、 19 このことがわたしにとって救いとなるのを知っているから、あなたがたの祈りとイエス・キリストの御霊の助けによって、20 (以下の)わたしの熱望と希望どおりに、いかなる場合も恥じることなく、かえって大胆に語ることによって、いつものように今も、キリストが大いなる方とされるように、わたしの身体によって、生きるにしても死ぬにしても」。
「しかり、これからもわたしは喜ぶであろう」という句で新しい段落が始まっているので、「このこと」というのは、先の段落で語られた動機が何であれキリストが宣べ伝えられているという事実を指すのではなく、投獄という現在の状況を指すと考えられます。また、この文章全体からすると、「わたしにとって救いとなる」というのは、獄舎から無事救い出されることを言っているのではなく、たとえ処刑されることになっても、自分の存在の意義が全うされるという、永遠の救いのことを言っています。「となる」と訳した動詞も、そういう「結末に至る」という意味の動詞です。パウロのために絶えず祈る仲間の祈りと、苦難のときに寄り添って助けてくださる御霊の力に支えられて、この投獄という状況は最後には自分の永遠の救いという結末に至るものであることを知っているので、これからも喜びをもってこの状況に立ち向かうと言っているのです。
「このことがわたしにとって救いとなる」という部分のギリシア語原文は、七十人訳ギリシア語聖書のヨブ記とまったく同じ文です。パウロはヨブの苦難を念頭において、この文を書いたと見られます。
「救いとなる」という句に「わたしの熱望と希望どおりに」という説明が続いています。このことから、パウロにとって救いとは二〇節に語られている熱望の実現であることが分かります。すなわち、「生きるにしても死ぬにしても、いかなる場合も恥じることなく、かえって大胆に語ることによって、いつものように今も、わたしの身体によってキリストが大いなる方とされるように」という熱望が実現することが、救いに至ることだというのです。パウロは、自分の身体によってキリストの現実の偉大さが人々に伝わることだけを熱望しているのです。もし処刑されて自分の身体が冷たいむくろになることがあっても、その事実を通してキリストが大いなる方としてあがめられるようになれば、それで本望だというのです。
パウロは殉教を熱望しているのではありません。むしろ生きて出獄し、フィリピの兄弟たちと再会し、再び福音のために働くようになることを願っています(一・二四〜二六)。パウロが熱望しているのは、自分が生きるにしても死ぬにしても、自分の身に起こることを通してキリストが大いなる方とされることなのです。パウロはキリストのゆえに自分の死生を超越しているのです。この境地から次の節(二一節)の偉大な言葉が出てくるのです。
ここに用いられている「熱望」という語は、「首を伸ばして待ち望む」姿勢を指す語で、後にローマ書(八・一九)で全被造物が神の子たちの顕現を待望していることを語る文で用いられています。
死生の相対化
21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。(一・二一〜二六)
このようにキリストにあるゆえに死生を超越した境地が、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉で端的に表現されます。「生きるとはキリスト」という端的な表現に、パウロの一切がこめられています。人間として生きる意義とか価値、また生きる力(原動力)と栄光の一切がキリストにあるというのです。自分のために死に、復活して今も生きたもうキリスト、自分の内に生きてくださる霊なるキリスト、このキリストに合わせられて存在することが、自分にとって「生きる」ことそのものだというのです。このように「生きるとはキリストである」とき、「死ぬことは益である」となります。キリストにある者にとって、死ぬことは「世を去って、キリストと共にいる」ことであり、肉の身体を脱ぎ捨てて霊なるキリストとさらに深く一つになることだからです。「死ぬことは益」は「生きるとはキリスト」の一面です。
パウロは生と死という二つの間に板挟みになっています。一方では「この世を去って、キリストと共にいたい」という願いを持っているのですが、他方では「肉において生き続ければ、実り多い働きができ」、新しく生まれたばかりの地上の《エクレーシア》のためになお働く必要があるという、願いと義務の板挟みです。
二三節で新共同訳は「熱望」という訳語を用いていますが、ここは「願いがある」という程度の表現で、二〇節の首を伸ばして待望する「熱望」よりは弱い表現です。
普通、生と死との間に板挟みになるというのは、苦しくて生きるのはいやだが、死ぬのも恐ろしくてできない、という板挟みです。生きるに生きられず、死ぬに死ねないという矛盾です。ところが、パウロの場合、生きることも死ぬことも望ましいので、どちらを選ぶべきか分からない、という板挟みです。生と死どちらも望ましいという死生を超越した境地は、先にも見ましたように、キリストという絶対的な価値を見出した結果です。復活して死を克服されたキリストに合わせられて生きている結果です。自分のために死に復活されたキリストに合わせられているので、生きるとはこのキリストに結ばれて自分が死に、キリストが自分の中に生きてくださっている現実です。死ぬことは、この朽ちるべき身体を脱ぎ捨てて復活されたキリストにいっそう近くなることです。こうして、キリストにあることが絶対的な価値となるとき、生と死は絶対的な矛盾であることをやめて相対化され、生きるのもよし、死ぬのもよしとなるのです。これは復活信仰が身についたところに生まれる境地です。
「この世を去って、キリストと共にいたい」という願いはあるが、「肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要」と確信するので、「わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う」(二五節協会訳)とパウロは言います。「と思う」は「知っている」という動詞が用いられており、主がそうなるようにしてくださることを「知っている」のです。そうなれば、パウロが再びフィリピの人たちのところに姿を見せることによって、キリスト・イエスにある彼らの誇りが、パウロのことでさらに満ちあふれるようになるはずです(二六節)。
一章一二〜二六節の部分は、投獄されて死刑判決もありうるという状況で、パウロ自身が自分の心境を語っている貴重な箇所です。パウロの最後はどのようであったのか、確かなことはわかりません。しかし、どこでどのような最後を迎えたにせよ、福音のための死(殉教)を前にしたパウロの心境は、ここにパウロ自身が語っているとおりであったと見ることができます。パウロは何回もの投獄や陰謀などによる死の危険に直面してきましたが、その時のパウロの心境はいつもここに語られているようなものであったと見ることができます。その意味で、このフィリピ書簡がいつ書かれたにしても、これを殉教を前にしたパウロの遺書として読んでもよいと思います。
福音にふさわしく
福音のための戦い
27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、 28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。 29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。 30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。(一・二七〜三〇)
ここまで獄にある自分の心境を語ってきたパウロは、ここからフィリピの集会の人たちに向かって、励ましと勧めの言葉を語ります。処刑もありうるという状況で語られている言葉ですから、残る人たちに最後にこれだけは言っておきたいという切実さが感じられます。いわば、パウロの「遺訓」という性格が滲み出ています。
パウロはその最後の勧めを、「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と一息で語り尽くします。「ただ」これだけだ、という感じの文です。ここで「生活を送りなさい」と訳されている動詞《ポリテウオマイ》(パウロ書簡ではここだけ)は、《ポリス》(都市国家)という語を含んでおり、「市民として振舞う」という意味合いをもっています。パウロがフィリピ集会に与える励ましと勧告は、この用語からも、また後に続く内容からも、社会の中での集会の在り方や集会内の振舞いに重点が置かれていると見られます。しかし何よりも「わたしたちの市民権《ポリテウマ》は天にある」(三・二〇)のですから、天に市民権をもつ者としての生き方の中に包み込まれています。
勧告される生き方は、「キリストの福音にふさわしく」と要約されています。しかし、パウロはこの書簡では「キリストの福音」とは何かを改めて説明することはありません。この点で、まず福音の内容を提示して、続いてそれにふさわしい実践的な生き方を勧告するという他の書簡と違います。フィリピの人たちはすでに「福音にあずかっている」のです。福音が与える救いにあずかり、福音を宣べ伝える労苦をパウロと共にしているのです。フィリピの人たちは福音が「救いに至らせる神の力」であることを知っているのです。このような人たちに、パウロは改めて福音を解説することなく、現にあずかっている福音の現実に生き抜くように励ますのです。
その励ましは、まず外に向かって福音を宣べ伝えるための戦いに関するものから始まります。パウロがフィリピで伝道したとき、ローマ市民には許されていない風習を宣伝して騒乱を引き起こす者として訴えられ、広場で裸にされてむち打たれ投獄されました(使徒言行録一六・一六〜四〇)。このような福音のためのパウロの戦いを、フィリピの人たちは自分たちの町で「かって見た」のでした。パウロがフィリピを去ってからも、このローマ風都市の市民たちはユダヤ人イエスを主キリストと告白する人たちの新奇な信仰に対して反対し続けました。このような「反対者たちに脅されて」、フィリピの集会は苦しい戦いを強いられてきました。しかし、「キリストの福音にふさわしく生きる」ならば、すなわち霊なるキリストにしっかりと結びついて生きるならば、そのキリストから賜る上よりの力によって、集会は「同じ御霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」(一部私訳)という姿を現すことができるのです。「たじろぐ」というのは、具体的には「信仰を捨てる」ことです。
この文で「一つの霊によって」(新共同訳)というのは、「共に戦う」と「たじろがない」という分詞形で示されている結果を生む根拠になっているので、「心を合わせて」との並行表現と見るより、「同じ御霊によって」と理解する方がよいと考えられます(パウロが《プニューマ》と言うときはほとんど「御霊」を指しています)。集会の戦う力と心の一致は聖霊によって賜っているのです。また、「福音の信仰に」という三格は、「のために」とか「によって」など、様々な解釈が可能ですが、戦う力は御霊によって賜っていると理解すると、「信仰によって」ではなく「信仰のために」が順当です。この場合、「信仰」はほぼ「福音」と同格です。
パウロは、フィリピの集会のそのような様子を伝え聞くようになること、あるいはそこを訪れて直接見るようになることを切に願って、この励ましをエフェソの獄中から書いています。パウロが福音のためにエフェソで獄に繋がれていることを、フィリピの人たちは「今また聞いています」。フィリピの人たちが「かって見、今またそれについて聞いている」福音のためのパウロの戦いを思い起こさせ、「その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」と、使徒は同じ戦線に立つ同志としての連帯の中から励ましを送るのです。
パウロは、フィリピの集会が「同じ御霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」ことを、「反対者たちには滅びのしるし、あなたがたの救いのしるし」(私訳)としています。「しるし」と訳した語は「証明」という意味もあります。「どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」フィリピの集会の姿は、その中にキリストがおられ、上よりの御霊の力が支えている証明であって、そのキリストにあって救いへの途上にあることのしるしです。それに対して、反対者たちにとっては、その救いに反対して自分を救いに無縁な者としているという意味で、滅びへの道にあることを示しているのです。ここでは救いも滅びも終末の裁きの視点から見られています。そして、このフィリピの集会が外からの反対に屈することなく立っている姿は、人間の決意や努力によるのではなく、「神から」来ているので、反対者は押しつぶすことができません。
この「神から」来ているものが、続く二九節で「あなたがたに恵みとして与えられたからです」という文で説明されています。「恵みとして与えられた」ものは「キリストのために苦しむこと」です。それは「キリストを信じること」と一体として与えられているのです。
「恵みとして与えられた」もの(この文の主語)を指す表現は、すこし混乱しています。おそらく「キリストのために苦しむことが」と語ろうとして、「キリストのために」まで来て、「彼を信じることだけでなく」を挿入し、改めて「彼のために」を繰り返して本題の「苦しむことも」と続けたのではないかと推察されます。「キリストのために苦しむこと」は「キリストを信じること」の中に含まれているというパウロの信仰理解が、自然にこのような挿入をさせたのでしょう。
キリストを信じることによって終末の時に生きる神の民とされたエクレシアは、終わりの日の苦難を自らの身に引き受けて、神の救済の御計画を担うように召されているのです。信仰によって神の民とされた恵みの中に、このキリストのための苦難も含まれているのです。わたしたちが外の世界に向かってキリストを告白し宣べ伝えるために受ける迫害は、わたしたちを神の民とされた神の恵みの中に含まれているのです。こう理解するとき、迫害も神の恩恵を確かなものとし、御霊の喜びと希望が溢れる場となります。
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」 (マタイ福音書五章一一〜一二節)
思いを一つにして
1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、御霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(二・一〜五)
外に向かっての戦いについて語った後、使徒は集会の内側の問題に転じます。外に向かって福音の信仰のために戦うには、「心を合わせて」共に戦うことが何よりも重要なことです。「どんな町や家も、内輪で争えば成り立って行かない」のです(マタイ一二・二五)。パウロがフィリピの集会に何よりも第一に願うことは、集会の一致です。これは「福音にふさわしく生きる」ために、不可欠の前提です。主にあって心を一つにして交わり、共に戦っている姿を見せることによって「わたしの喜びを満たしてください」と切望します。その一致が欠けて、集会が内部で分かれ争うならば、それはパウロにとって何よりも辛く悲しいことなのです。同じ時期に書かれたコリント人への第一書簡でも、パウロは何よりも先にこの問題を取り上げています(コリントT一・一〇以下)。
一致の根底は、すでに「同じ御霊によってしっかり立ち」と語られていました。その「御霊による一致」が、さらに言葉を尽くして励まされます。ここのくどいまでの語り方に、パウロが集会の一致をどれほど強く願っていたかが感じられます。逆に言えば、この「御霊の一致」という貴重な宝ほど壊れやすいものはなく、人の僅かの肉の思いでも傷ついてしまうのであることをパウロは知っているのです。
最初に「あなたがたに幾らかでもあるなら」と並べられている項目の中で、初めの「キリストによる励まし、愛の慰め、御霊による交わり」という三つには、当時の集会で会衆に与えられた「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(コリントU一三・一三)という祝祷が反映しているとされています。この祝祷には、キリスト・(父なる)神・聖霊の三位一体論の萌芽があると言われていますが、ここで神学的理論が目指されているのではなく、キリストにある救いの体験がこのような形の表現を自然に生み出すのだと理解できます。使徒はこのようなエクレシア共通の体験を指して、「あなたがたが現にそのような祝福の下にいるのであれば」一致を実現してほしいと訴えているのです。
ここでキリストについては、「キリストにある《パラクレーシス》」と言われています。この語はコリントU一・三〜七では「慰め」と訳されています。この「慰め」は、その箇所からも分かるように、神がキリストにあって苦難にある者と共にいてくださることによって力づけてくださることを指しています。力づけるという意味で「励まし」という訳語が選ばれ、次の「愛の慰め」と区別されたのでしょう。「励まし」と「慰め」は厳密に区別することは困難です。ここは相互の一致を求めている文脈ですから、同じキリストにある者同士として励まし、神から賜っている愛によって互いに慰め、現に聖霊により与えられているお互いの交わりを深める気持ちが幾分でもあるなら、という意味で用いられていると見てよいでしょう。そういう気持があるなら、集会の一致を何よりも熱心に追求して「わたしを喜ばせてほしい」と願うのです。
使徒はこの三つに、「それに慈しみや憐れみの心があるなら」とつけ加えます。「慈しみ」と訳されている語は、一章八節に出てきた《スプランクナ》(はらわたからの思い、熱愛)です。「憐れみの心」は、ルカ福音書(六・三六)で「父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と言われているときの「憐れみ深い」と同じ語です。
こうして並べられた五つの心の姿について、「幾らかでもあるなら」と言われているのは、あるかないか知らないが、もし幾らかでもある場合には、という意味ではなく、学生に向かって「学生なら、こうしろ」と言う場合のように、そういう心が与えられている以上は、という意味で使われています。あなたがたには「キリストによる励まし、愛の慰め、御霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心がある」のだから、それが完全なものでなくても、「幾らかでもある」以上は、互いに一致して、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」、わたしの喜びを満たしてほしいと願うのです。
一致を求めてくどいほど繰り返されている四つの表現の中で、「同じ思いとなり」と「思いを一つにして」と、「思う」という動詞が繰り返されていることが目立ちます。この動詞は、使徒のフィリピ集会への熱い「思い」を反映して、この書簡に繰り返し現れます。パウロは、フィリピの人たちがそれと同じ「思い」をお互いの間に抱くことを切望しているのです。彼らが「同じ思いとなる」ことが、彼らを熱く思っているパウロの喜びを満たすのです。
続いて、一致を妨げることと進めることの対比が二組で語られます。まず「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることが求められます。利己心や虚栄は一致を壊します。へりくだりこそ一致を達成する前提です。次に「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(心にかけなさい)」と勧められます。自己中心の心は一致を妨げます。それに対して他人への思いやりは一致を押し進めます。
そして、最後に「キリスト・イエスにもある思いを、あなたがたの間で抱きなさい」(五節私訳)と締め括ります。ここでパウロはもはや自分の内にある思いではなく、キリストの中にある思いを範例として提示するのです。キリストご自身こそ、「へりくだって、自分のことを求めず、他人への思いやりに生きる」という思いを抱く者の原型なのです。そのキリストの思いを示すために、パウロはフィリピの人たちが日頃唱え歌っている「キリスト賛歌」(六〜一一節)を引用します。
キリスト賛歌
6 キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神は彼を高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、
地下のものがすべて、
イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、
「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、
父である神をたたえるのです。 (二・六〜一一)
この「キリスト賛歌」は本来詩形をなしていたと考えられるので、新共同訳を行分けして、詩形で掲げておきます。この賛歌はパウロの作ではなく、すでにヘレニズム世界の諸集会で歌われていたものを、パウロが引用している(その中で「十字架の死に至るまで」という句はパウロの挿入である)ことが、広く認められています。パウロ以前の成立とすると、すでに四十年代に、すなわち福音の宣教開始後20年以内に成立していたことになり、最初期のキリスト告白の一つとしてきわめて重要で興味深い賛歌です。しかし、パウロの作でないのであれば、この賛歌は直接パウロのキリスト論を探求する資料にはなりませんので、その詳しい解説は他の研究書や注解書に委ね、ここではパウロがフィリピの人たちにへりくだるように説き勧める文脈の範囲内で取り上げるに止めます。
この賛歌の前半(六〜八節)は、キリストが主語で、神の身分であるキリストが自分を無にして人間となり、死にいたるまで自分を神の御旨に明け渡されたことが描かれています。後半(九〜一一節)は、神が主語で、神が死にいたるまで神に従ったイエスを栄光の座に高く上げて、すべてのものが彼を主《キュリオス》として告白するにようにされたことが賛美されています。パウロがここでフィリピの人たちに範例として示そうとしているのは、前半の「自分を無にする」キリストの姿です。
賛歌の前半によれば、「神の身分であるキリスト」、永遠に神と共にいますキリストが、人間となられたことが告白されています。それがイエスです。前半にはイエスという名は出てきませんが、「人間の姿で現れ」と言うとき、イエスを指していることは明らかです(一〇節で名指されます)。ですから、人間イエスの存在そのものが、「自分を無にされたキリスト」なのです。イエスが人間としての欲求を断ち切って、神の御旨に従う生涯を全うすることで「自分を無にする」ことを達成されたというのではありません。イエスの誕生そのものが、「神の身分であるキリストが自分を無にされた」出来事なのです。
ところが後半では、イエスが自分を無にして、死に至るまで従順であったので、神はイエスを高く上げて、すべての名にまさる名、すなわち《キュリオス》イエス・キリストという名を与え、天上、地上、地下のすべてのものがひれ伏して拝むようにされたというのです。九節で、前半の「人間の姿で現れ」た方が「彼」という代名詞で指されていますが、一〇節で「イエス」と名指されています。「キリスト」を、六節が宣言しているように、神と等しい方、神の身分である方とすれば、賛歌の後半は、人間イエスがキリストという栄光の地位に高められたことを賛美している、と言えます。
この賛美の前半と後半は循環しています。前半では、キリストが自分を無にしてイエスとなったこと、したがってイエスとは自分を無にしたキリストの姿に他ならないことが語られ、後半では、イエスが自分を無にしたからキリストとなったことを語っています。これは論理的には循環論法です。この循環を成り立たせるのは復活信仰です。神がイエスを死者の中から復活させて、キリストとしてお立てになったことを信じ、この信仰により賜る聖霊によって復活者キリストと合わせられて生きる場においては、イエスがこのキリストの受肉された姿であることが当然のこととなるのです。この復活信仰の場においては、イエスが復活によってキリストとなったことと、キリストが受肉によってイエスとなったこととは、表裏一体です。キリストであるイエスの現実を逆方向に言い表したものに他なりません。イエスがキリストになる方向が復活であり、キリストがイエスになる方向が受肉です。受肉は逆方向に見た復活なのです(この点については拙著『キリスト信仰の諸相』277頁「補論―神の子の誕生」を参照)。
こうして見ると、福音を福音ならしめている復活信仰は、その中に受肉の信仰を含んでいることになります。そして受肉は、このキリスト賛歌に見るように、「キリストの《ケノーシス》」、すなわち「キリストが自分を無にした」出来事なのです。このことを理解すると、ここでパウロが「福音にふさわしく」生きることを説くときに、このキリスト賛歌、とくに前半の「キリストの《ケノーシス》」を根拠にすることの意義が見えてきます。福音にふさわしく生きるとは、復活信仰に含まれる「自分を無にした」キリストに合わせられて、自分を無にして、他者をあるがままに受け入れて仕えて生きることなのです。復活の場は「自分を無にする」場なのです。
救いの達成を目指して
12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。 14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。(二・一二〜一八)
このように、「福音にふさわしく」生きることを説き勧める勧告の最後に、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」という一段が来ます。「福音にふさわしく」行動するために、まず最初に集会が外に向かって「福音の信仰のために戦う」ことが求められ(一・二七〜三〇)、次に集会内の一致が求められましたが(二・一〜一一)、最後に各自が「自分の救いを達成するように努める」ことが求められます(二・一二〜一六)。
段落を導入する最初の「だから」という語は、先に引用した「キリスト賛歌」の中の、「(イエスは)死に至るまで従順でした」を受けて、「だから、あなたがたも従順でいて」と続きます。イエスは死に至るまで従順であったので神は彼を高く上げられたのだから、あなたがたも最後まで従順でいて自分の救いを達成しなさい、という形で勧告を形成します。
ここで「従順」が救いの達成に不可欠の要件として、勧告の中心をなしています。使徒パウロは、「いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と、フィリピの人たちに、ひいてはわたしたちに、説き勧めます。では、パウロが言う「従順」とはどういう姿でしょうか。
パウロが「従順」を強調することから、パウロはイエスの自由な宗教を服従の宗教に変えてしまったと批判する説があります(たとえばE・シュタウファー)。しかし、その批判はパウロの「従順」を正確に理解せず、「服従」と混同しているからではないかと考えられます。
パウロの言う「従順」《ヒュパコエー》は「服従」《ヒュポタゲー》と違います。たしかに、「服従する」《ヒュポタッソー》という動詞は、パウロ文書に出てきます(ローマ一三・一、コロサイ三・一八など)。この動詞は《タグマ》(秩序)という語幹から出る動詞で、「(ある秩序の中で)下位の者が上位の者に従う」という意味です。それで「服従する」と訳しておきます。家庭の秩序や国家(とくに軍隊)の秩序の中で振舞いについて用いられるのにふさわしい動詞です。後に修道院や制度的教会でも重要な役割を果たします。それに対して、「従順」《ヒュパコエー》は《ヒュパクオー》という動詞の名詞形ですが、この動詞は「聴く」という語幹からできた動詞で、「下に立って聴く、聴き従う」を意味します。語りかけられた言葉に、相手への信頼とか尊敬とか畏れなどから、その言葉に自分を委ねて従うことです。パウロは信仰のことを語るときはいつもこの動詞を使います。時には「聴く」ことと「信じる」ことは等置されます(ガラテヤ三・二)。したがって、「信仰の従順」(ローマ一・五)という表現に見られるように、パウロにおいては「従順」はほとんど「信仰」と同じ意味で用いられています(ローマ一・八と一六・一九を比較せよ)。
パウロは、権威に服従することを求めているのではなく、フィリピの人たちが使徒パウロを通して聴いた福音の言葉に、自分を委ねきって生きることを求めているのです。「信仰の従順」を求めているのです。従順こそ、具体的な姿で現れている信仰に他なりません。
イエスも、このような意味で神に従順でした。子としての信頼をもって父の御言葉にご自身を委ねられたのです。その結果、イエスは高く上げられて栄光の座に着かれました。そのように、あなたがたもパウロが一緒にいない今はいっそう、パウロを通して伝えられた福音の言葉に委ねきって歩み、自分の救いを達成するようにと励ますのです。
ここで「救い」が、目標を目指して進む一つの過程(プロセス)として描かれていることが重要です。たしかに、「救い」には現在すでに救われているという面があります。福音を信じて受け入れ、イエス・キリストを主《キュリオス》と言い表すならば、わたしたちはキリストにあるあがないによって義とされ、神の子とされているのです。信仰によって義とされ、聖霊を受け、子としての命に生きているのです。ところがしばしば、このように信仰によって義とされたことが救いのすべてであるかのように強調されて、「救い」には、信仰によって義とされた者が「救いを達成する」ことを目標にして進む過程であるという面もあることが見落とされています。
信仰によって義とされる、または神との和解を受けることは、わたしたちが救いを達成するための場に入れられたことを意味するのであって、それがただちに救いの達成ではありません。そのことをパウロ自身がこう言っています。
「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。
(ローマ五・九〜一〇)
ここで同じことが並行する二つの文で表現されています。この二つの文で、「義とされた」と「和解させていただいた」は過去形です。それに対して「救われる」は両方とも未来形です。わたしたちは信仰によってすでに義とされ、和解を受けているのです。そして、その場にとどまるかぎり、来るべき裁きにおいて神の怒りから救われ、これからの歩みにおいて「御子の命によって救われることになる」のです。「神の怒りから救われるであろう」には、黙示思想的な終末観の名残がありますが、「御子の命によって救われるであろう」という未来形は、パウロの救済観を理解する上で重要です。キリストの血によって義とされ和解させていただいた場にとどまることによって、復活されたキリストの命にあずかり、その復活の命によって神の子としての姿を完成する歩みが可能になるのです。その目標に向かう過程が「救われるであろう」という未来形で語られているのです。同じことが、「主の霊の働きにより、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(コリントU三・一八)とも語られています。
「恐れおののきつつ」というのは、終わりの日の神の裁きを恐れ、滅びるのではないかという不安におののきつつ、という意味ではありません。「恐れおののきつつ」努めなければならない理由は、続く一三節で語られています。すなわち、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」。この文の重点は、「あなたがたの内に働いておられるのは神である」という部分にあります。あなたがたは死人の中からの復活に達し、終わりの日の栄光にあずかることを望み見て、苦難に耐え、信仰の働きを続けているが、それは決して人間の願いと努力によるものではなく、神があなたがたの内に働いて、そのような望みを持たせ、そのような働きをさせておられるのである、ということです。自分の内に働いておられるのが神であるとすると、そのような望みをもって働くことは神に従うことであり、それを軽視したり無視したりすることは神に背くことになるのです。その自分の内に働いてくださっている神への関わりと責任という真剣さが、「恐れおののきつつ」という表現で語られているのです。
原文では一三節の最後に置かれている「その心を超えて」または「その心に従って」という句については議論があり、解釈と翻訳が分かれています。大多数は「神の御心に従って」と理解していますが、それも「御心のままに望ませ、行わせておられる」(新共同訳)と理解するか、先行する部分全体を指して「それは神のよしとされるところ」(協会訳)と理解するか、分かれています。
このフィリピ書二章一三節の「あなたがたの内に働いておられるのは神である」という部分は、直訳すると「あなたがたの内に働くことを働いておられるのは神である」という特殊な表現になっていて、聖書の神の働きの特質を理解する上で重要な箇所です。この節の構造の精密な分析とその意義については、水垣渉『宗教的探求の問題』(創文社)の「第一〇章 はたらきをはたらく神」を参照してください。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」と説き勧めたパウロは、救いを達成するための歩みにおいて大切なことを加えます。それが「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」(一四節)という勧告です。この勧告の背景には、約束の地を目指して荒れ野を四十年にわたって旅をしたイスラエルの民が、不平を言ってつぶやいたために約束の地に入ることを許されなかったという旧約聖書の物語があります(民数記一四章)。この手紙の少し前に書かれたと見られるコリント第一書簡(一〇章)でも、パウロはこの物語を用いてこう勧告しています。
「彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはならない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」。(コリントT一〇・一〇)
「不平を言う」ことだけが、救いの達成を妨げるものとして取り上げられているのは、それが「従順」の反対だからです。不平は、召された方への信頼からその言葉に委ねきる在り方からは出てきません。不平は不従順、不信仰の現れです。不平を言うことなく、従順に徹して歩むのは、「とがめられるところのない清い者となり、神の子供となる」ためです(一五節以下は一四節の目的を示す文です)。ここで、救いの達成が別の表現で語られています。「となる」のは、自分の働きではなく、信頼をもって御言葉に委ねる者に対する神の働きの結果です。そして、「神の子供」とされた者の姿が様々な表現で、(原文では)後に続きます。
ここは《フィオス》(息子)ではなく、《テクナ》が用いられているので、「子供」と訳しておきます。神から生まれ、神と同質の命に生きている者という気持ちで用いられていると考えてよいでしょう。
救いとは、「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子供となり」、「世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保ち」つつ生きることです。ここでは救いが、「時代の中で」および「世にあって」と、現実世界の中での神の子供の姿として描かれています。「時代」《ゲネア》は、わたしたちの用語ではほとんど「歴史」と言ってもよいでしょう。神に背き、自己の利益や権力や名誉のために隣人を抹殺することをためらわない「よこしまで曲がった」歴史の中で、そして、神から離反して暗闇と死の支配の下に陥っている現実の世界《コスモス》の中で、神の子供たちは「星のように輝き、命の言葉を保つ」のです。
「非のうちどころのない」神の子供というのは、道徳的に完璧な人間という意味ではなく、神に信頼して委ねる「従順」において「非のうちどころのない」ことを指しています。この意味での完全さは、時代の道徳や宗教に背く場合もあります。この意味での「非のうちどころのない」神の子供の原型は、やはりイエスです。イエスは父に完全に信頼して従われたために、当時の宗教であり社会規範である律法に違反する者として死に追いやられたのでした。
真に神に従う者が迫害され、死に追いやられる事実は、この現実の歴史世界がいかに深く闇の中に陥っているかを示しています。キリストにあって命の光を受けた者は、それだけに深く現実世界の暗闇を見ます。すでにパウロは、この光の世界と闇の世界の深い対立を見ていますが、その対立はヨハネ福音書において頂点に達します。
この段落を読みますと、「よこしまで曲がった」歴史の暗闇の中で、「命の言葉を保って、星のように輝いた」多くの神の子供たちを思い起こします。語り出すときりがないので、その中で最近の一人だけ名をあげておきます。世界が先の大戦の惨禍と憎悪の中にあったとき、その闇の権化とも言うべきヒットラーの支配に抗して、神に従うとはどういうことかを命をかけて示したボンヘッファーの姿が思い起こされます。彼の獄中書簡を読むと、「命の言葉を保つ」ということがどういうことかが迫ってきます。死が迫る苦難の中で明るさと愛に満ちた姿は、獄中からこの喜びの書簡を書いたパウロの姿を彷彿とさせます。彼の存在は、歴史の暗闇に輝く星であることを実感します。
ボンヘッファーについては、宮田光雄『ボンヘッファーを読む』(岩波書店)を読まれることをお勧めします。
パウロの視線は、獄中にあって「キリストの日」に向かっています。フィリピの人たちも獄中の使徒と同じく、「キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」者として、福音のために共に戦い、集会の内では、自分を無とされたキリストの思いをもって一致を守り、各自が従順に徹して救いの達成に務め、「非のうちどころのない」神の子供となるならば、その事実は、「キリストの日に」、すなわちキリストが来臨されて一切が明るみに出るとき、「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかった」ことが明らかになり、「わたしにとって歓喜となるのです」(私訳)と言います。パウロは「キリストの日」の歓喜を現在の苦難の中での支えとしています。この歓喜が、続く文で自分の死をも超えて響き渡るのです。
パウロは自分の死を見つめながら言います、「然り、たとえわたしがあなたがたの信仰の供え物と礼拝の上に(わたしの血を)注ぐことになっても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」(私訳)。「注ぐ」という動詞は、祭儀において祭壇に神酒などを注ぐときに用いられる動詞です。原文には「血」という語はありませんが、状況から見て、パウロは自分の命を注ぐことを言っているのは明らかですので、「わたしの血を注ぐ」とか「自分自身を(供え物として)注ぐ」と理解しなければなりません。実際、パウロはすべての異邦人が信仰によって感謝の供え物を献げ、神を礼拝するようになるために、自分の血を注いだのです。このときエフェソの獄からは釈放されたのでしょうが、結局は殉教することになるのですから。
たとえ処刑されることになっても、わたしが命をかけて伝えた福音によってあなたがたが天来の喜びを受けたことを喜び、あなたがた一同のその喜びと合わせて共にわたしも喜ぶと言い、さらに、獄中にあってかの日の栄光を望み見て喜ぶ自分の喜びに、あなたがたも呼応して喜びなさいと呼びかけます。獄の中と外とを貫き、生と死を超えるこの喜びの響き合い、これこそ「キリストにある」救いが人間の悲惨な現実を貫いて溢れている姿です。
手紙の結びの前に、協力者のテモテを派遣することと、フィリピから来てパウロに仕えたエパフロディトを帰す予定について書いていますが(二・一九〜三〇)、この部分はこの書簡の執筆事情を説明するところで触れましたので、ここでは省略します。
そして、最後に繰り返して「主にあって喜びなさい」と呼びかけて、この手紙をいったん締め括ります(三・一前半)。この溢れる喜びが、この獄中の書簡を「喜びの書簡」としています。これこそ、「福音にふさわしく」生きる、すなわち「喜びの知らせ」にふさわしく生きる者の証言です。
最初の「フィリピ書の構成」で述べたように、三章一節後半から四章一節までは別の機会に書かれた書簡であると見られるので、この部分は次節で扱うことにして、獄中書簡の「福音にふさわしく」の項は四章二節に飛びます。
結びの勧告
2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。(四・二〜三)
獄中からの手紙の後半で(一・二七以下)、「福音にふさわしく」歩むことをことを求めたパウロは、その中でとくに集会が「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」歩み(二・二)、福音のために戦うことを願ってきました(一・二七)。最後に心を痛めている具体的な問題を取り上げます。ここに名をあげられている二人の女性エボディアとシンティケは、フィリピ集会の形成期にパウロと協力して働いた「協力者」であり、おそらく「監督たちと奉仕者たち」(一・一)の一員として集会の運営や世話に当たっていた女性であると考えられます。フィリピの初穂であり、自分の家を集会の場所として提供していたリディアも女性であり、初期の集会では女性が積極的な役割を果たしていたことがうかがわれます。この二人は対立していたようですが(どういう性質の対立であったのかは分かりません)、二人の対立が解消しなければ、フィリピ集会の一致は保てません(この対立は二人の女性と集会全体との対立であると読むことも可能です)。パウロは二人に「主にあって(互いに、または集会と)同じ思いを抱く」ように切に求めます。二人に求めるだけでなく、パウロは信頼する「真実の協力者」にも二人の間(あるいは二人と集会の間)に立って、問題を解決するように切に懇願します。
ここで「あなたにもお願いします」と直接呼びかけられている「真実な協力者」とは誰であるのか、決定することは困難です。ここで「協力者」と訳されている語は、「クレメンスや他の協力者たち」という場合とは違う用語で、「シュジゴス」という人名と見ることも可能ですが(NRSV欄外)、「軛を共にする仲間」という意味の名詞と見るのが順当です。パウロの同労者としてテモテやシルワノやエパフロディトなどがあげられ、また、フィリピの集会を代表してこの手紙を読む立場にある人物としてリディアなどが候補になりますが、決定はできません。この部分が獄中からの書簡として二・一九〜三〇と同じ書簡に属すのであれば、テモテではありえなくなります。
なお、「クレメンスや他の協力者たち」に添えられている「命の書に名を記されている」という句は、神に属している者たちの名は神のもとにある書に書き記されているという旧約聖書の表象から来ています。すでにモーセもこの表現を用いて祈ったとされ(出エジプト記三二・三二〜三三)、詩編でも用いられ(六九・二九など)、黙示文書にも現れます(ダニエル一二・一)。この表象は新約聖書にも引き継がれ、パウロがここで用いるだけでなく、ルカ(一〇・二〇)も用い、とくにヨハネ黙示録が多く用いています(三・五、一三・八、一七・八、二〇・一二、二〇・一五)。なおこの句は「クレメンスや他の協力者たち」と共に二人の女性にもかかると読むことも可能です。パウロは、彼女たちも共に「命の書に名を記されている」仲間であるのだから、退けないで助けてあげてほしいと言っていると理解することもありえます。
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。(四・四〜九)
「福音にふさわしく」生きるようにという勧告は、「いつも喜んでいなさい」という勧告で締め括られます(四節私訳―現在形の命令文は継続を示しています)。パウロはこの書簡ですでに何回も喜びを語り(二・一七など)、喜ぶように求めてきました(二・一八、三・一)。獄中の陰惨な状況を背景にしますと、この書簡の喜びの基調音は福音の救いの輝かしさをいっそう印象深くします。獄中の使徒は、別れを告げるにあたって最後にもう一度、「重ねて」喜ぶように求めます。喜びこそ、福音に生きる者のもっとも輝かしい標識だからです。
人間は、「喜びなさい」と命令されたからといって、喜ぶことはできません。喜びは内から自然に湧きあがってくるものです。喜びは聖霊によって内から湧きあがるものです。わたしたちの喜びは聖霊による喜びです(テサロニケT一・六、ガラテヤ五・二二、ローマ一四・一七)。しかし、聖霊を受けているからといって放置しておきますと、心は世の思い煩いや不満や不安に覆われて、喜びの泉は塞がれてしまいます。内から喜びの泉がいつも溢れているためには、主キリストにしっかりと結びついて、無条件絶対の恩恵の現実に身を置いていなければなりません。どのような状況でも、心が見えるものにではなく見えないものにしっかり向いていなければなりません。それで、「いつも」、すなわちどのような状況にあっても、「主にあって」喜んでいなさいと求められるのです。
この喜びは「主にあって」溢れるものです。すなわち、キリストにおいて受ける恩恵に対する感謝と賛美がその源泉です。この恩恵への感謝が、どのような隣人も、またどのような状況も無条件で受け入れる「広い心」になります。このキリストにある者の「広い心」あるいは「温和さ」が、自分と関わりをもつすべての人に知られるように、自分の損得を超えて、差別なく仕えるように求められます。そうするのは「主は近い」からでもあります。
「主は近い」というのは、主の来臨の時が近いという時間的な意味と、主はすぐ身近にいてくださるという場所的な意味がありますが(新共同訳はこの意味に理解しています)、ここではどちらか一方に決める必要はないでしょう。「キリストにあって」生きる者は、この両方を意識して生きているのです。主の来臨の時は近いのですから、地上の出来事や状況に思い煩うことはありません。主は身近にいてくださるのですから、人からの毀誉褒貶に動揺することはありません。主が近いことを自覚している者は、地上の思い煩いから解放されて、どのような状況に置かれても「感謝を込めて祈りと願いをささげ」、求めているものを人にではなく「神に打ち明け」、必要なものは神から恩恵によって賜物としていただいているのだという自覚で生きていくことができます。そのような、自分の力と計らいを放棄した歩みには「あらゆる人知を超える神の平和」が宿り、心と思いを不安や恐れから守るのです。
最後に「真実なこと、気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、また、徳や称賛に値すること」は、「すべて」心に留めて追求するようにという勧告が来ます(八節)。この「すべて」は、それがどの宗教や文化に属するものであれ、またどのような名で呼ばれているものであれ関わりなく、という意味でしょう。ここに上げられている徳目は、どのような宗教や文化圏でも価値あるものとして尊ばれているものです。キリスト者はキリスト教というレッテルが貼ってあるものだけを追求するのではなく、広く人間にとって価値あるものを、キリスト教の外にいる人たちと一緒に追い求めていくように励まされているのです。
最後に自分を模範にして歩むように勧めて(九節)、結びの挨拶に入り(二一〜二三節)、この手紙を締め括ります。
四章一〇〜二〇節については、第一節「独立伝道者パウロ」、とくに「援助への感謝の手紙」の項を参照。
結びの挨拶
21 キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。22 すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(四・二一〜二三)
「皇帝(カエサル)の家の人たち」については、第一節の中の「フィリピ書について」の「獄中書簡」の項を参照。