市川喜一著作集 > 第11巻 パウロによるキリストの福音V > 第11講

第三節 復活を目指して

よこしまな働き手たちとパウロ

警戒しなさい

 この書簡の三章(厳密には三・一後半〜四・一)は、獄中から書かれた本体とは別の手紙であると見られることは、最初の「フィリピ書の構成」で述べました。しかし、本体より先か後か、またこの手紙も獄中からのものかどうか、決定は困難です。
 この手紙の内容からしますと、フィリピの集会も、ガラテヤの集会の場合と同じように、後から来た「働き手たち」によって「福音の真理」から逸脱する危険にさらされていたようです。ガラテヤ書のように明確には語られていませんが、フィリピでも「よこしまな働き手たち」は、異邦人信徒に割礼を受けることを求めたのでしょう。

 1 同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。 3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(三・一後半〜三)

 三章一節後半は二節以下の警告の手紙に属し、「同じことをもう一度書きますが」という句は、これよりも先に、割礼を誇る「よこしまな働き人を警戒せよ」という同じ内容の手紙があったことを指していると見るのが順当でしょう。
 彼らは「犬ども」とも呼ばれています。ユダヤ人は、食物規制をもたない異邦人を、何でも見境なく食べる犬だと軽蔑していました。その軽蔑の呼称を、パウロは割礼を誇るユダヤ人に投げ返すのです。この書簡のパウロには、感情的に激しい表現が見られます。自分が宣べ伝える福音を破壊しようとする者たちへの怒りの激しさは、福音の真理を守り抜こうとする使徒の情熱の激しさを示しています。
 彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と呼ばれています。彼らが割礼の価値を誇示しているので、割礼は「切り傷にすぎない」と、パウロはその無価値さを暴露するのです。また、割礼を受けていないが「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」わたしたちこそ「真の割礼を受けた者」であるとされていることからも、彼らが異邦人信徒に割礼を受けることを要求したことが推察されます。すなわち、わたしたちこそ「真の割礼を受けた者」であるから、その上に「切り傷にすぎない」割礼を受ける必要は全くないという議論です。
 パウロは、《ペリトメー》(割礼)と似た音をもつ《カタトメー》(切り傷)という語を意図的に用いていると見られます。ユダヤ教において神聖な契約のしるしである割礼を「(包皮の)切り傷」に過ぎないとするパウロは、ユダヤ人からは生かしておくことのできない背教者であると見られることになります。
 「真の割礼」については、すでに預言者エレミヤが「包皮に割礼を受けた者を罰する。心に割礼のない者を罰する」(エレミヤ九・二四〜二五)とか、「主によって割礼を受け、心の包皮を取り去れ」(エレミヤ四・四 「主によって」は私訳)と叫んでいます。パウロも「真の割礼」とは、身体に受ける切り傷によって神の民に属する者であると誇るのではなく、一切の人間的な価値に頼ることなく、ただわたしたちのために一切を成し遂げてくださったキリスト・イエスだけを誇り、神の霊によって新しくされた心で神に仕えることであるとするのです。キリストにある者はすでに御霊により「真の割礼」を受けているのです。この上、どうして身体に切り傷を受ける必要があるでしょうか(割礼についてはすでに「ガラテヤ書講解」で詳しく論じていますので、ここではこれだけに止めます)。

肉の誇り

 4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 (三・四〜六)

 割礼を誇り、異邦人信徒に割礼を受けることを要求するユダヤ人の働き人に対して、パウロは自分も彼ら以上に「肉に頼れる」者であることを誇った上で、キリストを知ることは、そのような肉の誇りを塵芥とするのだと論を進めます。
 「生まれて八日目に割礼を受け」というのは、成人してから割礼を受けた改宗者ではなく、ユダヤ人の両親から生まれたユダヤ人であり、生まれながら「イスラエルの民に属し」ている者であることを強調しています。イスラエル十二部族の一つ「ベニヤミン族の出身で」、彼のヘブライ名「サウル」は、ベニヤンミン族が生んだ初代の王サウルに因んでつけられた名です。そしてさらに、このように出生からして「ヘブライ人の中のヘブライ人」であることを誇るだけでなく、「律法に関しても」、すなわちユダヤ教徒として、律法順守において彼らに負けない完璧な者であることを誇ります。
 「ファリサイ派の一員」であることは、当時のユダヤ教では律法の学習と順守ではエリート階層に属する者であることを示すレッテルでした。そして、律法順守に対する熱心さでは誰にも引けを取らない者であったことを、「教会の迫害者」であった事実で証明します。すなわちパウロは、イエスをメシアと信じる者はもはやモーセ律法を順守しなくてもよいというような主張をする者として、彼らを探索し、逮捕し、会堂で鞭打つことで、律法への熱心を示したのです。パウロは律法を順守することにおいては、「非のうちどころのない者」であるという自負をもって生きてきたのです。

ユダヤ教時代のパウロについては、「ガラテヤ書講解」で講じていますので、ここではこれだけにしておきます。詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音』第一章「ユダヤ教徒パウロ」の第一節「ユダヤ教時代のパウロ」および第二節「迫害者パウロ」を参照してください。

目標としての死者の復活

キリストを知ることの絶大な価値

 7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、 9 キリストの内にいる者と認められるためです。(三・七〜九前半)

 このようにユダヤ教の優等生であったパウロの生涯がひっくりかえる出来事が起こります。イエスを信じる者たちを逮捕しようとしてダマスコへ急ぐ途上で、復活されたイエスに遭遇するのです(使徒九・一〜一九)。この「ダマスコ体験」はパウロの在り方そのものを根底から変えてしまいます。
 パウロは、自分の前に神的な栄光をもって現れた方に向かって、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねます。その方は、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」と答えられます(使徒九・五)。この遭遇体験によって、パウロは十字架上に処刑されたイエスが復活された方、約束されていた救済者キリストであることを知り、その方の前にひれ伏します。迫害者は降参し、迫害してきた方の奴隷として仕える者になるのです。
 この出来事はよくパウロの「回心」と呼ばれますが、これは改宗ではありません。ユダヤ教からキリスト教に改宗したのではありません。まだキリスト教という宗教は存在していません。パウロはあくまでユダヤ教の中にいるのです。いや、その中にいるかいないかは、もはや問題ではなくなったのです。自分の在り方が根底から変わったのです。その転換がこの一段で端的に表現されているのです。
 この短い部分(七〜八節)に、「キリストを知ることのあまりのすばらしさのゆえに」を含めて、「キリストのゆえに」という表現が三回繰り返されています。この句は転換の原点を指しています。「キリストのゆえに」この転換が起こったのです。
 キリストのゆえに「わたしにとって有利(利益)であったこれらのこと」、すなわち直前に列挙したユダヤ教徒として価値ある事実を「損失と見なすようになった」のです。それは、まさに律法の観点から見て価値あることを追求する彼の熱心さが、神が遣わされたキリストであるイエスに敵対させたからです。そして、「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさのゆえに、今では他の一切(キリストを知ること以外の一切)を損失とみています」と言うのです。今やパウロにとって、キリストを知ることが価値のすべてです。キリストの中にすべての宝(価値)が隠されているのです。キリストの中に宇宙(コスモス)、歴史、人間に関わる一切の奥義が含まれているのです。キリストを知ることは、この奥義に参与し、究極の価値にあずかることです。この奥義に参与しないことは一切無価値であり、無価値なものに関わることは損失にすぎません。
 そのようなキリストをパウロは「わたしの主」と告白しています。このキリストであるイエスに、パウロは生涯をかけて奴隷として仕えていくのです。その方のために命を投げ出して仕えるのです。パウロはその方を告知する福音に仕えるために、「すべてを失いました」。それまで築いてきたユダヤ教教師としての名声も、ユダヤ教社会の中での安定した生活も、そして命の保証さえも失いました。しかし、「それらを塵あくた(くず、ごみ、糞を指す語)と見なしています」と断言します。
 これは「価値観の転換」というような生やさしいものではありません。「価値観の転換」の場合は、価値を判断する自分は維持されています。ここでは、価値を判断する自分自身が失われ、捨て去られているのです。そして、「わたしの主キリスト・イエスを知ることの価値」だけが一切となっているのです。「キリストを得る」ことだけが追求されているのです。
 ここで、自分自身を含め「すべてを失う」のは、「キリストを得るため」、また「キリストの内にいる者と認められるため」であると告白されています。「(わたしが)キリストを得る」と「わたしが彼の中に見出されるようになる」(直訳)は同じです。「わたしがキリストを得る」という能動態と、「わたしがキリストの内に見出される」という、神を隠れた行為者とする受動態が一息に語られます。わたしの願いと神の働きが一つになって、キリストと一つになる境地が実現するのです。これは、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・一九〜二〇)という境地です。自分自身をキリストの中に(キリストのゆえに)失うのでなければ、自己をキリストの中に見出すことはできません。

死者の中からの復活

 9 わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。 10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の形に合わせられて、 11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 (三・九後半〜一一 一部私訳)

 パウロの文は、原文では八節から一一節までが一つの文として続いています。七節を転換点として、律法に熱心なユダヤ教徒としての誇り(五〜六節)が塵芥のように打ち捨てられ、この一文(八〜一一節)によって「わたしの主キリスト・イエスを知ることの絶大な価値」、「キリストを得て、キリストの中に自分が見出される」境地が一気に告白されるのです。原文は複雑な構造をしていますが、その大意を見ておきましょう。
 まず、「キリストを得て、キリストの中に自分が見出される」境地、すなわちキリストと一つにされる境地がどのような内容のものであるかが、「義」という用語で語られます。「義」はユダヤ人が神との関わりを語るときには、いつも中心に来る用語です。それは、神に受け入れられるための人間の在り方であり、そのための資格です。フィリピの人たちに割礼を受けることを求めた「よこしまな働き人たち」も、異邦人の信徒が義とされるためには、割礼を受けてモーセ律法を順守する必要があると主張したのです。それに対してパウロは、キリストによる救いの場では、「律法(の順守)からの義」ではなく、「キリスト信仰からの義」、換言すれば「信仰に基づく神からの義」が与えられているのだとします(九節)。
 ここで「律法からの(または、律法による)義」と「信仰からの(または、信仰による)義」が対照されています。人が義とされて神に受け入れられるのは、律法の順守によるのではなく、信仰によるのである、これがパウロの福音の根本的な主張です。とくに、ガラテヤ書やローマ書のように、義とされるためには律法順守が必要であるとするユダヤ人キリスト教の主張に対抗するときには、この点が前面に強く出てきます。このフィリピ書でも、割礼を求める働き人への警告の部分では、僅か一行か二行に要約された形にせよ、この点を繰り返さざるをえません。

「信仰による義」については、すでに「ガラテヤ書講解」で詳しく論じていますので、それを参照してください。また、パウロが言う「信仰」とは「キリストの信仰」(直訳)ですが、この「キリストの信仰」の意味と、それを「キリスト信仰」と訳す理由については、拙著『パウロによるキリストの福音T』155頁「キリスト信仰」の項を参照してください。

 ここで重要なことは、キリストと一つに合わせられている境地が、義という観点からだけでなく復活の観点からも語られていることです。パウロの福音は、宗教改革以来、信仰による義認がすべてであるかのように語られることがありますが、それは入り口に過ぎず、キリストの福音の本体は、信仰による義という場で与えられる復活者キリストとの交わり、その中で得られる復活信仰の方です。
 キリストとは復活者のことです。「キリストを得る」とは、復活に達することなのです。「自分がキリストの内に見出される」とは、自分が復活者の中にいることです。このことが一〇節で「キリストを知ること、すなわち、キリストの復活の力を知り、キリストの苦難への参与を知ること」と説明されます(原文の「彼」をキリストと読んで直訳)。霊なるキリストとの交わりの中で、キリストを死者の中から復活させた神の力を体験し、キリストの苦難にあずかることを身をもって知ること」が、パウロにとって「キリストを知る」ことなのです。

一〇節は「知ること」あるいは「知るため」という不定詞句で語られています。この「知る」という動詞の不定詞形の後に、「彼(キリスト)を」、「彼の復活の力を」、「彼の苦難の交わり《コイノーニア》を」という三つの目的語が、「そして」あるいは「すなわち」で結ばれて続いています。この不定詞句は、「キリストを知る知識」(七節)とか「キリストを得る」(八節)ことの内容を敷衍説明していると見てよいでしょう。

 パウロにとって、「キリストの復活の力を知る」ことは、「キリストの苦難にあずかることを知る」体験の中で実現することです。そのことは、この警告の手紙とほぼ同じ時期、エフェソでの入獄体験の後に書かれたと見られるコリントの信徒への第二の手紙の中(四・一〜一五)で、詳しく語られています(本書の第四章「復活信仰の具体相」参照)。ここではそれが僅か二節(一〇〜一一節)に凝縮しているのです。
 そして、「キリストを得る」こと、すなわち、キリストの苦難にあずかることを通してキリストの復活の力を知りたいという願いが、おそらく殉教の可能性を見つめて、「キリストの死の形に合わせられて、なんとかして死者の中からの復活に達したいのです」(私訳)という最終的な形で告白されます。

新共同訳の「その死の姿にあやかる(感化されて似る)」という表現は不適切で、「その死の形に合わせられる」(私訳)とか、「その死のさまにひとしくなる」(協会訳)、「彼の死と同じ形にされる」(岩波版)、「キリストの死と同じ状態になる」(新改訳)などの方が適切です。ここに用いられている動詞は、「同じ《モルフェー》(形)にされる」という意味ですが、新約聖書の中でも外でも他にはどこにも用いられていません。おそらくパウロは、あの「キリスト賛歌」の前半(二・六〜七)で、神の《モルフェー》であるキリストが僕の《モルフェー》をおとりになり、死に至ったという箇所を念頭において、この語を用いたのでしょう。この句は、この警告の手紙(三章)も獄中で書かれたことを示唆すると見ることもできますが、決定的ではありません。

 パウロが、キリストの死の形に合わせられて、「なんとかして達したい」と願っている目標は「死者の中からの復活」です。キリストが死者の中から復活されたように、自分も死者の中から復活する者になりたいという切望です。「なんとかして達したい」という表現が明らかに示しているように、「死者の中からの復活」にあずかることは、将来の目標です。そのことが次の段落(一二節以下)で力をこめて説かれます。
 ここでパウロが用いている「死者の中からの復活」という表現には議論があります。まず、ここの「復活」は他の箇所に出てくる「復活」とは違い、「〜から」という意味の接頭辞を伴っており、新約聖書ではここだけの用語です。「死者の中からの」という説明を伴っていることもあって、この「復活」は一般の死者たちの中から先ずキリストに属する者だけが復活する(コリントI一五・二三)とか、殉教者だけが復活すること(黙示録二〇・四〜六)を指しているとも考えられます。しかし、「復活」というような時間と歴史を超えた事柄について、その段階や順序を厳密に区別することは意味がないので、ここの「死者の中からの復活」は、コリントI一五章で語られている「死者の復活」と同じであると見てよいと考えられます。

パウロが将来の「死者の復活」をどう見ているかについては、拙著『パウロによるキリストの福音U』第六章「死者の復活」を参照してください。

目標を目指して

 12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。 13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。 16 いずれにせよ、わたしたちが到達していたところに、堅くとどまるべきです。 (三・一二〜一六、ただし一六節は私訳)

 コリントの集会にも、死者の復活などはないとか、復活はすでに起こったのだと主張する人たちがいました。彼らはキリストによって与えられた霊知によって「既に完全な者となっている」と称し、霊において死から復活しているのだから、これ以上「からだの復活」は必要ではない、すなわち「死者の復活」などは神の救済計画にはない、と主張していたようです。それに対してパウロは、コリントの信徒への第一の手紙一五章で、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできない」、すなわち地上にいる限りは完全・完成はないのであって、終わりの日に「この朽ちるべきものが朽ちないものを着る」とき、自然の命の体が霊の体に復活するとき、わたしたちキリストにあって生きる者の目標は達せられ、初穂としてキリストを復活させた神の救済計画は完成するのだと説いています。
 フィリピの集会においても、外からの「働き人たち」が影響を及ぼし、集会の中にも自分たちは「既に得た」とか「既に完全な者になっている」と考える人々が出てきていたのでしょう。フィリピ書の場合は、パウロは「なんとかして死者の中からの復活に達したい」と切望して、「目標を目指してひたすら走る」自分の姿を語ることによって、フィリピの集会が正しい道に歩むように説得しようとするのです。
 「既に得た」とか「既に完全な者になっている」という表現は、反対者たちの主張をパウロが引用していると見られます。何か特定をものを得たというのではなく、目的語なしで一切を得たという表現や、「完全な者になっている」という用語には、グノーシス主義的傾向や密儀の影響があるとも考えられます。
 パウロは「キリストを得ること」、すなわち「キリストとその復活の力を知ること」、最終的には「死者の中からの復活に達すること」を目標としています(八〜一一節)。その目標とするものを「既に得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言います。キリストにある者は途上にあるのです。目的地を目指す旅の途上にあるのです。この地上で、これで完成だと腰を下ろすことはできません。
 パウロは目標を「何とかして捕らえようと努めているのです」。そして、そうするのは「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と告白します。自分がキリストを得よう、死者の中からの復活に達しようと努めているのは、自分から出るのではなく、キリストが自分を捕まえて、そのように努めないではおれないように働いておられる結果だというのです。パウロにおいては、自分の努力と内なるキリストの働きが一つになっています。ここに「キリストにある」という人間の在り方、キリストと合わせられて生きる人間の秘密が示されています。すでにキリストとの交わりにあるという現実の中にありながら、いや、そのような現実にあるがゆえに、将来の完成を身を乗り出して待ち望み(ローマ八・一八〜二五)、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、その「目標を目指してひたすら走り続ける」のです。
 ここでパウロは自分の姿を陸上競技のレースにたとえて語っています(コリントI九・二四〜二七参照)。レースにおいて「ひたすら走る」のは賞を得るためです。キリストに属する者は、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」、すなわち「死者の中からの復活に達する」ために、地上の事柄については節制し、己を打ちたたいて服従させ、ゴールを目指して脇目もふらず、ひたすら走るのです。これがキリスト者の終末的な生き方です。
 「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」は、テサロニケT二・一二では「あなたがたをその御国と栄光へと召している方」と表現されていましたが、ここでは文脈からして、「その御国と栄光」は具体的に「死者の中からの復活」を指していると理解すべきでしょう。
 このようにパウロは自分自身を模範として示して、もし自分を完全な者と考える者があるならば、その完全さはこのように考えるべきであると説きます(一五節前半)。パウロの言う「完全」は、反対者が言うような、すでに得たという「完全」ではなく、途上にあることを正しく自覚した終末的な在り方の完全さです。
 一五節後半と一六節はその文意を決定することが困難で、研究者の意見は分かれています。しかし、この一段の大意は明らかです。すなわち、パウロはここで示した自分自身の在り方に倣う者になるように、フィリピの集会に求めているのです。そのことはこの段落の主旨をまとめる一七節で明言されています。したがって、この難しい箇所もこの線で理解しなければなりません。
 「そして、もし誰かが何事かを違った仕方で考えるなら、神はこのことをもあなたがたに啓示してくださるであろう」(一五節後半の直訳)も、この線で理解するならば、「もし集会の中の誰かが、外からの働き人の影響を受けて、パウロとは違った考え方を持つようになっているならば、それが使徒パウロの考えとは違うということも、(あるいは、そのことも含め、正しい考えを)神ご自身がフィリピの集会に啓示してくださるであろう」という意味になると考えられます。
 「いづれにしても、わたしたちが到達していたところに、堅くとどまるべきである」(一六節直訳)という文で、「わたしたちが」到達したところは、「各自が」到達したところではなく、パウロとパウロによって形成されたフィリピの集会が、その成立の時点において到達していた信仰の地点を指していると見るべきでしょう(「到達していた」という動詞は現在完了形ではなくアオリスト形)。「各自が到達したところ」と理解すると、この一段の勧告の意味がなくなります。パウロはフィリピで福音を伝えたときすでに、ここで告白しているような終末的な待望を含む信仰を伝えました。フィリピの人たちはその福音を受け入れてキリストの民となりました。その時に到達していた地点に「堅くとどまること」を求めているのです。

「堅くとどまる」と訳した動詞は、大部分の日本語訳では「進む」と訳されています。しかし、この動詞の本来の意味は「一致する」であって、ここでも「堅くとどまる」の意味であるとされています(バウアー)。岩波版だけが「堅持すべきである」と訳しています。なお、この動詞は不定詞形で、特定の相手に対する命令法ではなく、一般原則の提示という形をとっています。

国籍は天に

 17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。 21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。(三・一七〜四・一)

 パウロはここまで、死者の中からの復活に達するという目標に向かって、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」、ひたすらに走りつづける 自分の姿を告白してきましたが、それはフィリピの集会に向かって、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と言うために他なりません。パウロはこの手紙(三章)でフィリピの集会を「よこしまな働き人たち」の影響から守るために心を砕いていますが、それを(コリントI一五章のような)教義的な議論によるのではなく、自分自身の姿を範例として示すことでしようとしているのです。
 しかし、パウロは今フィリピの人たちから遠く離れています。それで現在フィリピにいて「わたしたち(パウロと同労者)を模範として歩んでいる人々」に目を向けるように勧告します。この「人々」とはおそらく、フィリピの集会の中で成立の時からパウロに忠実に従い、現在も宣教や集会の運営に奉仕している人々を指しているのでしょう。この勧告は、「わたしに倣う者となりなさい」という求めを実際的にしています。
 このようにパウロが「わたしに倣う者となるように」求めるのは、パウロを批判して「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」からです(一八節は一七節の勧告の理由を示す小辞で始まっています)。パウロは、フィリピの集会に働きかける「よこしまな働き手たち」、自分の福音を破壊する質の教えをもたらす者たちを、「キリストの十字架の敵」と呼びます。彼らの教えは、その核心において「キリストの十字架」に敵対しているというのです。
 パウロはこの時期、「十字架につけられたままのキリスト」だけを宣べ伝えてきました(コリントI一・二三、二・二)。復活者キリストがわたしたちのための死を負った方として宣べ伝えられているのです。このキリストに身を委ねて合わせられることが救いです。キリストの死に合わせられて、罪である自分が死に、キリストを復活させた命に生きるようになることが救いです。それ以外のものは何も必要でないということが、パウロの福音の核心です。ところが、キリストを信じる者の中に、割礼を受けてモーセ律法を順守することが救いには必要であると主張する者が多くいて、パウロの働きを妨害してきました。彼らは、キリストの十字架の出来事においてわたしたちの救いに必要なことがいっさい成就していることを認めないで、「キリストの十字架をむなしい」ものにしており、その意味で「キリストの十字架に敵対している」のです。
 パウロはこのような「十字架の敵」と戦いながら、独立の異邦人伝道を進めてきました。とくにエフェソに滞在している期間には、ガラテヤ、(おそらくテサロニケも、)フィリピ、コリントなど、パウロが形成した異邦人の諸集会に対する彼らの働きかけが及び、パウロは警告や対決の手紙を書き、腹心の同労者を派遣して、彼らと戦わなければなりませんでした。パウロの敵は「多いのです」。パウロは彼らのことをこれまで「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言います」。神の最終的な救いのわざである「キリストの十字架」に敵対している以上は、過去の宗教的伝統にいかに忠実であろうと、人々の目にいかに立派に見えようと、「彼らの行き着くところは滅びです」と言わざるをえません。
 「キリストの十字架の敵として歩む者たち」を描く一九節は、直訳すると「彼らの終わりは滅び、彼らの神は腹、その栄光は彼らの恥の中に、彼らは地上のことを思っている」となります。初めの三句は構造が並行しているので、その並行構造から解釈すると、主語の位置にある「彼らの《テロス》、彼らの神、彼らの栄光」と、述部にある「滅び、腹、恥」はそれぞれ同じ事態を指していると理解しなければなりません。その理解に従うと、一九節は次のようなことを語っていることになります。
 彼らは、自分たちは《テロス》(終わり、目標)に達して「完全な者になった」と言っているが、神が裁かれるとき彼らの《テロス》(終局)は滅びに他ならない。また、彼らは自分たちは神に仕え、神との交わりにあると誇っているが、彼らの神は彼らが侮蔑してやまない「腹」にすぎない。すなわち、終わりの日には神が滅ぼされる「腹」であって(コリントT六・一三)、永遠の命とか復活には与ることができないものである。そして、彼らが今自分たちの栄光としていることは、審判の日には恥の中に現れることになる。このように、現在彼らが誇っていることは、終わりの日の審判においては無価値なものとして廃棄されるのだと言っていることになります。
 一九節を異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ主義者に対する攻撃の言葉として、以下のような解釈もありえます。「彼らは腹を神とし」というのは、これを食べてはならないとか、あれは食べてよいというモーセ律法の食物規定を順守することで神に仕えるのだとするのは、「腹を神とする」ことだという痛烈な皮肉であり、また、「恥ずべきものを誇りとし」というのは、割礼を誇ることへの痛烈な皮肉であるとする解釈です。ユダヤ教の外の一般社会では、包皮の切り傷をもって宗教的な誇りとすることは野蛮なこととして軽蔑されていました。神聖な契約のしるしである割礼を「恥ずべきもの」と扱うのは、ユダヤ教から見れば赦しがたい背教です。しかし、パウロは割礼を「切り傷にすぎない」と明言しています(三・二)。
 最後にパウロは自分の姿と対比して、彼らの本質を暴露します。結局、彼らは「この世のことしか考えていない」(直訳は「彼らは地上のことを考えている」)のだというのです。彼らは「来るべき世《アイオーン》」を視野に入れず、この地上での宗教的栄光だけを志向しているのです。それと対照して、パウロはキリストにある者の本来の姿を、「わたしたちの本国は天にあります」と表現します。
 「本国」と訳されている《ポリテウマ》という語は、新約聖書ではここだけに用いられている語で、本来《ポリス》(都市国家)に所属している者の身分とか資格を意味します。現代では「国籍」に近い語です。また、ある《ポリス》に所属する者たちが他の土地に入植して共同体を形成した場合、彼らの「本国」とか「故国」を指す意味もあります。フィリピは退役軍人たちによって築かれた植民都市で、彼らはイタリア本国と同じ特権(イタリア権)を与えられ、自分たちの本国はイタリアにあると意識していました。このようなフィリピの特殊な事情を念頭において、パウロはこの語を用いたのかもしれません。
 わたしたちキリストにある者の「本国」または「故国、故郷」は天にあります。ですから、この地上では「旅人であり、仮住まいの身」なのです(ペトロT二・一一、ヘブル一一章)。「地上の事柄」に心を向ける《フロネオー》ことはできません。むしろ、異境を旅している者として、つねに「本国」を慕い、異境で苦しんでいるわたしたちを救い出してくださる救い主が、そこから来てくださることを切に待ち望んでいるのです。
 この場合の「天」と「地」は、新約聖書の通例と同じく、「来るべき世」と「この世」という二つの《アイオーン》の対比を象徴しています。「そこから(天から)主イエス・キリストが救い主として来られる」というのは、復活して霊なる主として働いておられるキリストが顕現される《パルーシア》(来臨)の出来事を指しています。その「来臨」によって「来たるべきアイオーン」が到来し、救済史が完成するのです。わたしたちキリストにある者は、その時を待望し、その時のために現在を生きているのです。
 その時、主イエス・キリストは「救い主として」わたしたちのところに来られます。「救い主」という称号は、パウロ書簡ではここだけですが、来臨されるイエスを「救い主」と見る見方は、すでにテサロニケ書簡(一・一〇)にもあります。そこではイエスが「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」方として待ち望まれています。それに対してここでは、「万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」方として、すなわち、死者を復活させてくださる方として待ち望まれています。
 死者の復活については、コリント人あての手紙では「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(コリントT一五・四二〜四四)と言われていました。ここではそれが「卑しい体が栄光の体に変えられる」と一句にまとめられていますが、内容は「自然の命の体が霊の体に変えられる」と同じです。これが「死者の復活」です。
 コリント第一書簡(一五章)では、キリストが「初穂」として復活され、わたしたちキリストに属する者が、キリストの来臨の時に、すでに死んでいる者も地上にいる者も、初穂キリストにあずかる者として栄光の体に変えられると説かれていましたが、ここでは、同じことが「キリストの栄光の体と同じ形に変えられる」という一句で表現されています。ここでもキリストの復活がわたしたちの復活の希望の根拠とされています。
 ここで主イエス・キリストは、「万物を支配下に置くことさえできる力によって」、わたしたちの体を変えてくださると言われています。キリストの来臨《パルーシア》は、キリストが「万物を支配下に置く」ことが成就する時ですが、その時に何が起こるのかについて、パウロは地上の歴史の中で起こることについてはほとんど語らず、もっぱら時間と歴史を超えた事態である「死者の復活」に集中しています。このことは、パウロが黙示思想の世界を突き抜けて、復活信仰を中心とする福音の現実にしっかりと生きていることの現れです。パウロの終末的希望は復活に集中しています。わたしたちの希望も、パウロのように、来るべき復活を現在に生きるという終末的な生き方を意味します。
 「警戒せよ」という三章の勧告を、パウロは「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によって(または、主にあって)しっかりと立ちなさい」(四・一)という勧めで締め括ります。パウロはこの三章の勧告を、自分を模範として示して、「わたしに倣う者となりなさい」という形で行いました。この短い勧めの手紙の中に、パウロがこの時期に書いた手紙の内容が凝縮して語られています。テサロニケ第一書簡のキリスト来臨の希望、ガラテヤ書簡の信仰による義、コリント第一書簡の十字架の福音と復活の希望が、パウロ自身の告白として語られています。その意味でこの章は、「パウロによるキリストの福音」を理解する上で貴重です。