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第七章 使徒パウロ最後の日々




第一節 最後のコリント滞在

エフェソからコリントへ

 パウロはエフェソに二年と数ヶ月滞在して、エフェソを中心とするアジア州の諸都市にキリストの福音を伝え、その地域に力強いキリストの民の交わりを形成します。その間、パウロがもっとも苦闘した問題の一つがコリント集会との確執でした。そのことはコリント集会と交わした諸書簡、とくにコリント第二書簡で詳しく見たとおりです。しかし、パウロの切なる祈りと涙をもって書いた書簡や、テトスら忠実な弟子たちの働きによって和解にこぎ着けます。
 コリントの集会との和解を達成し、念願のコリント再訪を果たしたパウロは、コリントで冬を越します。これは五五年から五六年にかけての冬のことであると見られています。この時のエフェソ出発とコリントまでの旅およびコリント滞在についてルカは、「この(アルテミス神殿での)騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方(マケドニア州)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシア(コリント)に来て、そこで三か月を過ごした」(使徒二〇・一〜三)と簡単に触れるだけです。しかしここで、エフェソからコリントに至る旅の行程とその間のパウロの働きについて、もう少し詳しく見ておきましょう。
 エフェソを出たパウロは小アジアの西岸をエーゲ海沿いに北上してトロアスに至ります。パウロは、「キリストの福音を伝えるためにトロアスに行った」と言っています(コリントU二・一二)。途中に、スミルナやマグネシアやペルガモンなどの都市があります。この中のスミルナとペルガモンはヨハネ黙示録の「アジア州の七つの教会」に含まれています。この旅のときに、パウロが「キリストの福音を伝える」活動をして集会が形成されたことは十分考えられますが、確認はできません。
 しかし、トロアスではかなりの福音の進展があり、かなりの規模の集会も形成されたようで、これはパウロがこの時の旅について、「わたしは、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主によってわたしのために門が開かれていました」(コリントU二・一二)と言っているところから確認できます。それにもかかわらず、コリントの成り行きが心配なパウロは、コリントに派遣したテトスからの報告を一日も早く聞きたくて、「(トロアスでは)兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま(トロアスの)人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」(コリントU二・一三)。
 トロアスからトラキア海(エーゲ海の北端部)を渡って対岸のマケドニア州に行きます。当然、港町ネアポリスに上陸してフィリピに向かったことでしょう。「この地方(マケドニア州)を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら」旅を進めます。先の第二次伝道旅行のときのように、エグナティア街道を西に進みテサロニケに至り、そこの集会を励まし、さらにベレアにも行ったことでしょう。ベレアはエグナティア街道からすこし南に離れています。そのままエーゲ海沿いに南下してコリントに至った可能性もありますが、むしろエグナティア街道に戻ってそのまま西へ進み、アドリア海側のアポロニアに出て、そのままアドリア海沿いに南下して西からコリントに入った可能性が大きいと考えられます。
 パウロはイリリコン州まで行ったと語っていますが、それはこの時の旅以外には考えられません。テサロニケから西に向かい、少し北へ入るとイリリコン州です。そこは「キリストの名がまだ知られていない所」ですから、「キリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと熱心に努めた」パウロが、この時にイリリコン州を通るコースを選んだことは十分考えられます(ローマ一五・一九)。
 パウロがこの時アドリア海側のコースをとったと考えるもう一つの理由は、少し後に成立した牧会書簡にニコポリスが言及されていることです(テトス三・一二)。ニコポリスはアポロニアからアドリア海沿いにコリントに至るちょうど中間にある大都市で、この時にパウロが集会を建てたのではないかと推察されます。

マーフィー=オコゥナーの年表によると、パウロは54年の秋にエフェソを出発しマケドニア州に渡り、54年から55年にかけての冬をマケドニア州のどこかの都市で越冬、55年の夏イリリコン州で伝道、55年の冬の前にコリントに到着となります。この年表によると、イリリコン州での伝道活動にかなりの時間がとれます。

コリントでのローマ書の執筆

 コリントに三か月滞在している間、もちろんパウロは集会をして福音を語り、人々を教え、共に祈り、コリントの人たちの信仰と集会の確立のために最善の努力をしたことでしょう。しかし、この期間にパウロは、後の福音の歴史にとってきわめて重要なことを成し遂げます。すなわち、「ローマの信徒への手紙」を執筆したことです。
 パウロは、念願のローマ訪問を果たしたいと願い、ローマの集会に向かってこう書いています。

 「こういうわけで、わたしはこれまで幾度もあなたがたのところに行くことを妨げられてきました。しかし今や、この地域にはもはや余地がないので、また、わたしは永年あなたがたのところへ行くことを切望してきたので、イスパニアに行くようになる場合には、途中であなたがたに会い、まず幾分でもあなたがたとの交わりが満たされたならば、あなたがたによってイスパニアに送り出してもらうことを願っています」。(ローマ一五・二二〜二四)

 「この地域」(ローマ帝国の東半分)での福音の働きを終えて、いよいよ帝国の西半分の地域に福音を満たし、異邦人への使徒としての使命を果たそうと決意します。そこで帝国の西の果てにあるイスパニア(現在のスペイン)に行こうと計画し、その途中に念願のローマ訪問を果たし、ローマ集会との信頼関係が確立されたならば、ローマ集会の支援のもとにイスパニア伝道を行いたいと考えます。前年の54年にはローマからのユダヤ人追放令も解除されていましたので、パウロはいよいよローマに入る機が熟したと判断したと考えられます。
 そこで、使徒はローマ集会あてに、自分が宣べ伝えている福音の全体を提示して、まだ直接会ったことのないローマの兄弟たちに自分を理解してもらうための手紙を書きます。それが使徒パウロの「ローマ書簡」です。このような状況で、またこのような意図で書かれた書簡ですから、特定の問題に対処するために自分が建てた集会に向かって書かれたこれまでの書簡とは違い、使徒パウロがこれまで宣べ伝えてきたキリストの福音の全体が、総合的にまた体系的に提示されることになります。その結果、この「ローマ書簡」は、書簡の形をとってはいますが、書簡の枠をはるかに超えた福音の提示のための文書、すなわち「福音書」としての性格を得ています。このローマ書簡はパウロが書いた最後の書簡になりますが、パウロはその福音のための働きの最後に、その働きの集大成として、将来世界の歴史にもっとも大きな影響を及ぼすことになる「福音書」を書き残すことになります。
 パウロはこの書簡をコリントで「執筆した」と言いましたが、直接ペンを取って書いたのではなく、口述筆記で仕上げます。パウロの書簡は大部分口述筆記で書かれたと見られますが、このローマ書簡では、「この手紙を筆記したわたしテルティオが、主にあって挨拶を送ります」(ローマ一六・二二)と、筆記した人物が自分の名を書き記しています。パウロはこのローマ書簡を、旅先のコリントで世話になっているガイオの家で(ローマ一六・二三)、四回に分けて口述筆記させた、とわたしは見ています。それは内容上の区分と分量の両方から判断しての推察です。
 ローマ書簡の前置きと結びを除く本体部分(一〜一五章)は、内容から見て四つの大きな部分に区分できます。第一部は一章から五章(一一節)までの「信仰による義」を論じる部分、第二部は五章(一二節)から八章までの「キリストにおける生」を語る部分、第三部は九章から一一章の「イスラエルの救い」を論じる部分、第四部は一二章から一五章の「実践的な歩み」を勧告する部分です。
 これらの四つの部分はそれぞれ、一つの主題によって緊密に統合されています。第一部と第二部を一つの区分として全体を三区分する見方が多いようですが、この見方はローマ書の理解を歪め、適切ではありません(その理由はローマ書講解で詳しく論じます)。そうすると、第四部は別として、各区分は沈痛な雰囲気で始まり、勝利の凱歌で終わるという共通のパターンを示し、福音の説教者としてのパウロの口述にふさわしい形となります。
 また、分量の点から見ても、四つの区分はほぼ同じ長さ(それぞれ九〇節から九七節)になり、口述筆記による文書の区分として適当な区分になります。当時の口述筆記による書簡執筆の速度がどの程度であったのか、正確に知ることは難しいですが、この程度の長さであれば、一つの区分を一気に書き上げることができたのではないかと推察します。現代の学者が多くの文献を参照したり引用したりしながら、何ヶ月も時間をかけて書く論文とは違い、パウロは説教者として普段語っている福音の現実を一気呵成にほとばしるように口述して、一つの区分を一日で仕上げたのではないか、とわたしは想像しています(途中で休憩をはさんだり、次の区分までに何日か間をおいたことは考えられますが)。聖書の引用も、聖書の写本を手許に持っているわけではありませんから、記憶の中からかなり自由に引用していることが見えてきます。このような引用は、律法学者として聖書を議論してきたパウロにとってはごく自然なことであったと考えられます。
 この手紙の内容と意義は、「ローマ書講解」で扱うことになりますが、ここではこのコリントで書かれた手紙の最後(ローマ一五・一四〜三三)に、コリント滞在中のパウロの状況と心境が語られていますので、それに基づいてこの時のパウロの姿を見たいと思います。

祭司の務め

 ここでパウロはまず、これまで自分が進めてきた異邦人伝道を総括しています(ローマ一五・一四〜二一)。パウロは初めから自分を「すべての異邦人を信仰の従順へと導くために恵みと使徒職を受けた」(ローマ一・五私訳)者と自覚し、「エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」。パウロはここでその働きを「異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めている」と表現しています。祭司の務めは、民を代表して供え物を神に捧げることです。パウロは自分の祭司としての務めを「異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となる」こととしています。この表現に、パウロが自分の使命をどのように理解していたかがうかがわれます。
 パウロは預言者以来のユダヤ人の終末期待を共有していたように見受けられます。その終末待望はこのように要約できるでしょう。すなわち、終わりの日に神はイスラエルにメシアを送られる。メシアによってイスラエルに対する神の約束は実現し、イスラエルはメシアの働きによって敵対する諸力から解放されて、その信仰は完成されて栄光に至る。そして、メシアによって異邦諸民族もイスラエルの神を拝むようになり、異邦人がイスラエルの神礼拝にあずかる形で世界が唯一の神に帰し、神の世界救済の計画が完成する、というものです。神の救いの福音は「まずユダヤ人に、そして異邦人にも」及ぶのです。パウロはこのようなメシア・キリストの意義を先行する箇所(ローマ一五・八〜一三)で述べて、異邦人がイスラエルの神に帰することを多くの預言者からの引用で確証し、異邦人への使徒また祭司としての自分の務めの意義を語る準備をしています。
 パウロはまさに神の計画の後半部、すなわち異邦人がイスラエルの神に帰るための働きを委ねられたのです。いわゆる「エルサレムの使徒会議」で、割礼の者たち(ユダヤ人)への福音はペトロたちエルサレムの使徒に委ねられ、無割礼の者たち(異邦人)への福音はパウロたちに委ねられました(ガラテヤ二・九)。ところが、神の計画の前半部、「まずユダヤ人に」救い主であるイエス・キリストが宣べ伝えられましたが、ユダヤ人全体がイエスをキリストとして受け入れることは実現しませんでした。イエスを信じるユダヤ人集団はユダヤ人社会で孤立していきます。一方、パウロの異邦人伝道は豊かに実を結び、多くの異邦人がイエス・キリストを信じてイスラエルの神に帰すようになります。パウロはこの矛盾と格闘しなければなりませんでした(ローマ九〜一一章)。パウロは自分の異邦人伝道の成功がユダヤ人を刺激して、不信仰によって切り離されたユダヤ人が「再び接がれる」ことを切に祈っています。

イスパニア伝道の計画

 次にパウロはこれからの計画について語っています(ローマ一五・二二〜三三)。今や「エルサレムからイリリコン州までキリストの福音を満たしたので」、もう「この地方」、すなわちローマ帝国(それは当時の人たちにとって全世界でした)の東部には働く場所がないと感じたパウロは、いよいよ帝国の西端イスパニア(今のスペイン)にまで福音を携えていこうと計画します。その途中で、何年も前から願っていたローマ訪問を果たし、ローマの兄弟たちと交わりを深め、ローマ集会からイスパニア伝道に「送り出してもらいたい」、すなわちイスパニア伝道という新しい大プロジェクトの後援者、協力者になってほしいと頼んでいるのです。パウロはキリストの来臨《パルーシア》が近いことを、聖霊によって迫られています。それまでに全世界に福音を携えて行かなければならないのです。今コリントにあって、パウロの心ははるかな西の果てに向いています(ローマ一五・二二〜二四)。

エルサレム訪問の必要と不安

 しかし、西に向かう前にパウロにはどうしてももう一度東に向かわなければならない任務があります。すなわち、苦心して集めた「聖徒たちへの献金」を届けるために、エルサレムへ行かなければならないのです。「マケドニア州とアカイア州の諸集会はエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意し」、集めた献金を携えてエルサレムに届けようとして、その代表者たちがコリントに集合しているのです。春になって船便が再会するのをまって、パウロはその代表者たちと一緒にエルサレムに向かおうとしています。パウロは、神殿に初穂を捧げる祭司のように、異邦人集会の初穂として、その集会の代表者をエルサレム教団に引き合わせ、献金を届けようとしているのです(ローマ一五・二五〜二九)。
 パウロがエフェソにいるときには、まだこの献金を届けるためにパウロ自身がエルサレムへ行くことを決めていません(コリントI一六・四)。しかし、マケドニア州の諸集会から献金を集め、その代表者たちとコリントに来たときには、どうしても自分がエルサレムに行かなければならないと決心しています(ローマ一五・二五)。
 ローマ書の最後に、パウロの同行者からの挨拶が記されています。その中に、「わたしの同胞であるルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています」(ローマ一六・二一)という挨拶があります。この三名はとくに「わたしの同胞である」、すなわちユダヤ人であることがわざわざ付け加えられています。
 「ルカ」《ルカス》は「ルキオ」《ルキオス》の別称(略称)であるので、ここのルキオはコロサイ四・一四とテモテU四・一一の「ルカ」と同一人物を指す可能性があります。ヤソンはテサロニケでパウロを匿い、そのためにユダヤ人の襲撃を受けた人物であると見られます(使徒一七・五〜九)。ソシパトロは、パウロがコリントからマケドニアを通って旅行するときの同行者リストにある「ベレア出身のソパトロ」(使徒二〇・四)を指すと見られます。ルカはフィリピ出身である可能性が高いので(本書365〜366頁の「われら章句」の箇所を参照)、ここに上げられている三名のユダヤ人は、マケドニアの主要な集会(フィリピ、テサロニケ、ベレア)を代表して、パウロと一緒に献金を届けるためにエルサレムに上ろうとして、コリントで待機している人たちであると考えられます。そうであれば、パウロはエルサレムでの状況に配慮して、エルサレムに連れて行く同行者にユダヤ人を含ませたと見なければなりません。
 アカイア州の諸集会の代表が誰であるかは分かりませんが、「アカイア州の諸集会はエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」のですから、アカイア州の諸集会を代表して、コリント集会の誰かが代表団に加わったことは確実です。
 ここにコリント第一書簡(一六・一)で言及されていた「ガラテヤの諸教会」の代表者の名があげられていないことが注意を引きます。ガラテヤの諸集会は、パウロの懸命の努力にもかかわらず、「ユダヤ主義者」の働きかけが奏功してパウロから離れたのか、あるいは何らかのパウロ批判によって募金活動から脱落した可能性があります。しかし、ここに言及されていないからといって、そう断定することはできません。アジア州の諸集会(エフェソやコロサイなど)も言及されていませんが、パウロ一行がエフェソで船を乗り換えるときに合流する予定であったと考えられます。パウロはマケドニア州の諸集会を回ってコリントに来たのですから、マケドニア州以外の諸集会の代表がコリントにいないのは当然で、ガラテヤの諸集会も途中のどこか(おそらくエフェソ)で合流する予定であった可能性は高いと考えられます
 しかし、パウロの心には大きな不安がありました。それは、この献金がエルサレム教団に受け入れられず拒否されるのではないかという不安です。パウロは宛先のローマ集会に対して、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・・・・わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ一五・三一私訳)と頼んでいます。
 パウロは律法を汚す者としてユダヤ人から何度も命を脅かされていました(次の「パウロに対するユダヤ人の陰謀」の項を参照)。いまユダヤ教の聖地であるエルサレムに行こうとしているパウロは、そこで「ユダヤにいる不信の者たち」(イエスを信じないユダヤ人たち)から命に関わる迫害を覚悟しなければなりません。ここ数年のヘレニズム諸都市(テサロニケやコリントやエフェソなど)でのユダヤ人会堂との紛争を経験してきたパウロは、ディアスポラ・ユダヤ人からエルサレムにパウロの宣教活動が反律法的であると伝えられていることを予想しなければなりませんでした(ディアスポラのユダヤ人会堂とエルサレムとはつねに密接な交流がありました)。
 それだけでなく、苦心して集めた献金がエルサレム教団に拒否される可能性もあります。異邦人集会からの献金を受け入れることは、割礼を受けていない異邦人信徒たちも同じ主に属する民と認めることになりますから、エルサレム教団の保守的ユダヤ人に反対されて、献金の受け取りが拒否される可能性があります。ユダヤ人はこれまでも原則として異邦人からの献げ物や供犠を受け入れていました。しかし、この場合は違います。受け入れることはパウロの反律法的宣教を認めることになるとして、律法に厳格なヤコブの指導下で保守的傾向を強めているエルサレム教団が拒否する可能性は十分にあります。もし拒否されたら、パウロが命がけで追求してきたユダヤ人と異邦人の交わりの中に成立するキリストの民の構想は致命的な打撃を受けます。
 このような不安を抱えながらも、パウロはどうしてもエルサレムに行って献金を届けなければならないのです。春がきて船便が再開されるのを待って、パウロは献金を携えたマケドニアとアカイアの集会代表たちと一緒にエルサレムに向って旅立ちます。