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第四節 ローマへの護送とパウロの殉教

ローマへの航海 

 パウロを聴取する部屋から退場したアグリッパ王と総督フェストゥスは、パウロが死刑や投獄に当たるようなことはしていないと語り合い、アグリッパは「あの男は皇帝に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろうに」と言います(使徒二六・三〇〜三二)。ここでも、総督と王の両方からパウロの無罪が確認されます。その上で、パウロが皇帝へ上訴したのでパウロのローマ行きが実現したことが、神の御計画の実現として物語られます。パウロにとって、そしてルカにとっても、裁判の行く末よりも、福音が使徒パウロによってローマに到達することが重要なのです。
 ルカは、使徒言行録の最後の二章(二七〜二八章)でカイサリアからローマへの航海を詳しく物語っています。この部分も「われら章句」となっており、「著者」がこの航海を体験したこととして伝えています。その航海の記事は詳細で、航路、寄港地、船籍など航海の基本的な事項だけでなく、船首の飾り、風の名称、浅瀬の名称、乗員の人数に至るまで具体的に記録されています。その詳細な航海記を講解することは使徒言行録の注解に委ね、ここでも出来事の大略をたどるにとどめざるをえません。
 まず、パウロを含む数人の囚人を護送する「皇帝直属部隊の百人隊長」がユリウスという名の隊長であることが紹介されています。この百人隊長ユリウスはこの航海で重要な役割を果たすことになるからです。ユリウスは、指示を受けていたからか、またはパウロへの敬意からか、パウロを特別扱いして親切に扱います(使徒二七・一、三)。
 カイサリアを出港したパウロたちの船は、シドンに寄港し、その後キプロス島の北を西に航海し、ミラに着きます。ここでアレクサンドリアからイタリアに向かう船(おそらく大型の穀物運搬船)に乗り換え、西に向かいますが、風向きが悪くて航海は予定通りに進まず、ようやくクレタ島中央部南岸の港に着きます。この時すでに断食日(大贖罪日の前の五日間の断食日、十月始め)も過ぎていたので、パウロは航海の危険を警告しますが、さらに越冬に適した港を求めて、船はクレタ島西部に向かって出港します(使徒二七・一〜八)。
 ところが、突然この海域特有の暴風に襲われ、船はクレタ南方の小島の浅瀬に吹き寄せられ、そこで(難破を避けるために)積み荷や船具まで投げ捨て、その後十四日間アドリア海を漂流します(この場合のアドリア海とはシチリア島とギリシア南端のペロポネソス半島の間の海域を指します)。「助かる望みが全く消え失せようとした」とき、パウロは神からの天使が全員助かると告げたと言って、神を信じるように励まします。十四日目には、漂流の間なにも食べなかった人々に食事を取るように励まします。この暴風による漂流と遭難のときの出来事(使徒二七・一三〜三六)は、とくに具体的に生き生きと描かれており、そのような極限的な状況にあっても、使徒が神への信頼にしっかりと立ち、人々を励まし、状況を乗り切る英雄として描かれます。このようなパウロを描くルカの念頭には、ガリラヤ湖での嵐の中で平然としておられたイエスの姿があったことでしょう。

マルタ島での出来事

 陸地が近いことを察知して、全員が食事を取った後穀物を投げ捨てて船を軽くし、陸地に乗り上げる作業に入ります。ところが、船は浅瀬に乗り上げ、船尾が壊れてしまいます。ローマの兵士たちは囚人が泳いで逃げることを恐れて殺そうと図ります(囚人を逃がした兵士は処刑されます)。百人隊長ユリウスはパウロを助けるために、その計画を制止します。もしユリウスが制止していなければ、パウロも殺され、ローマ入りの願いは目前で破れたことになります。ここではローマの百人隊長が神の器として用いられています。彼の指揮で全員が無事に上陸します。こうして、パウロが伝えた神の言葉が実現します(使徒二七・三九〜四四)。
 一同が上陸した陸地はマルタ島(シチリア島南方80キロほどの小島)でした。島の住民は遭難者たちを親切にもてなします。寒さをしのぐためにたき火をしたとき、パウロがくべようとした枯れ木の束から蝮が出てきてパウロの手にからみつきます(咬んだとは書かれていません)。それを見た住民は、「この人は人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ」と言いますが、パウロが蝮を振り落として何の害も受けないのを見て、「この人は神様だ」と、パウロを見直します。島の長官の父親の熱病を祈りによって癒したことが機縁となり、多くの病人を癒し、この島で伝道の働きをします。こうして、パウロ一行はマルタ島で越冬し、三ヶ月を過ごすことになります(使徒二八・一〜一〇)。

先に見たように、フェストゥスの着任が五九年夏であれば、この航海は同年秋に始まり、その年の冬をマルタ島で過ごし、翌六〇年にローマ入りしたことになります。

パウロのローマ到着

 春が来て船便が再開されたとき、パウロの一行は越冬していたアレクサンドリアの船に乗り、マルタ島を出て、シチリア島のシラクサに寄港し、イタリア半島南端のレギオンに立ち寄り、さらに二日北へ航海してプテオリ港(現在のナポリの近く)に到着します。当時プテオリはローマの南港で、東と南から来る多くの船はここで積み荷を降ろしました。パウロはここで「兄弟たち」を見つけ、請われて七日間滞在します。ここでも百人隊長ユリウスの特別の配慮がうかがわれます。プテオリは、パウロがイタリアで最初にキリスト者の集会に出会った土地になります(使徒二八・一一〜一四)。
 パウロ一行はプテオリから(約一八〇キロ西北の)ローマへ徒歩で向かいます。まず少し北のカプアに出て、そこからアッピア街道を西北上します。ほぼ五日の道のりです。ローマの兄弟たちはパウロのイタリア到着を伝え聞き、二組になってパウロを出迎えに来ます。一組はまずローマから二日路ほどのアピィフォルムまで来ます。次の組は、少しローマ寄りのトレス・タベルネまで来ます。その中には、ローマ書一六章の挨拶に記されていた名前の友人たちが多くいたことでしょう。ローマの兄弟たちに会ったパウロの喜びはどれほど大きかったことでしょうか(使徒二八・一五)。
 パウロはついに帝国の首都ローマに入ります。「われら章句」はここまで続いています。「著者」はパウロと一緒にローマに入ります。パウロが長年祈ってきたローマ入りがついに実現します。自分が願っていた形ではなく、未決の囚人としローマに入ることになりますが、壮麗な都を見たときのパウロの感慨はどれほど深いものがあったことでしょうか。パウロは、番兵一人をつけられてはいますが、自分だけで住むことを許されます(使徒二八・一六)。

ローマでのパウロ

 ローマに到着して三日後に、パウロはローマのユダヤ人会堂の代表者たちを招いて、自分の立場を弁証します。裁判では、ユダヤ人側からの告発も受けなければなりません。パウロは彼らに自分の立場を理解してもらうための努力をします。パウロはまず自分が生粋のユダヤ教徒であることを訴えます。彼らに「兄弟たちよ」と呼びかけ、律法を順守する点で何の落ち度もないことを強調します。それにもかかわらずエルサレムのユダヤ人たちが自分を捕らえてローマ人に引き渡し、ローマ側は無実を認めて釈放しようとしたのに反対したので、ローマ皇帝に上訴せざるをえなくなった事情を訴え、それはユダヤ人を告発するためではないことを強調します。最後に、自分が囚人であるのはイスラエルが共有している希望(メシア時代到来の希望)のゆえであるとして、彼らを味方につけようとします(使徒二八・一七〜二〇)。
 このパウロの弁証にもルカの護教的動機が色濃く出ていて、(他のパウロの演説と同様)ルカの作品であることをうかがわせますが、この弁証に対するユダヤ人の返答も不自然の感じを否めません。ユダヤ人代表は、パウロについてはエルサレムから公式にも非公式にも何の連絡も受けていないと言っていますが、パウロの活動についてはすでに長年ユダヤ人の間で大問題になっていました。それに、ローマにはすでにイエスを信じる者たちの群れに多くのユダヤ人が含まれ、ユダヤ人会堂とは激しい紛争を引き起こしていました。そのために49年のローマからのユダヤ人追放令が出されたのでした。それにもかかわらず、自分たちは何も聞き及んでいないからとして、直接パウロから話を聞く日取りを決めて、ユダヤ人が大勢でパウロの宿舎にやって来たとするのは、帝都ローマで最後にパウロの宣教を締め括る場面を置こうとしたルカの構成ではないかと考えられます(使徒二八・二一〜二三)。
 集まった大勢のユダヤ人に向かって、パウロは朝から晩まで「神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言の書を引用して、イエス(がメシア・キリストであること)について説得しようとした」と、ルカは書いています(使徒二八・二三)。これはパウロの福音宣教の要約です。パウロが宣べ伝えることを聴いたユダヤ人は二つに割れます。ある者はパウロの福音を受け入れますが、他の者たちは信じようとしませんでした。彼らが立ち去ろうとしたとき、パウロはイザヤ(六・九〜一〇)の預言を引用し、ユダヤ人全体が不信仰の民であるとして、神の救いが異邦人に向かうと宣言します(使徒二八・二四〜二八)。
 これはパウロの宣教活動に関するルカの典型的な要約です。ルカは使徒言行録で繰り返しパウロの福音宣教の働きを描いてきました。パウロは地域の代表的な大都市(特に州の首都)のユダヤ人会堂に入って、まずユダヤ人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えます。ところが、信じるユダヤ人は僅かで、大多数のユダヤ人たちはイエスを信じないで、パウロに敵対し、騒乱を起こしたりするので、パウロは異邦人に福音を語るようになるというパターンです。ルカは、パウロの活動の最後の場面で同じパターンを用います。最後は帝国の首都でこのことが起こります。同胞ユダヤ人に最後まで忠実にキリストの福音を伝えたパウロは、ユダヤ人の不信によって異邦人に向かうことになり、その結果「異邦人(諸国民)への使徒」としての召命を果たすことになります。今や諸国民の首都でこのことが起こった場面を描いて、ルカはパウロの福音活動の締めくくりとします。

パウロの最後についてのルカの記述

 ルカは使徒言行録を「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒二八・三〇〜三一)という文で終えています。この文がどれだけローマでのパウロの事実を伝えているかを確認することは、他に資料がないので困難です。重大事件で皇帝の裁判を受けるために護送された囚人が、このように「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝える活動が二年間も続けられるとは、想像するのが難しいことです。エフェソの獄中であれだけの手紙を書いたパウロが、この時期には手紙など活動の痕跡を全然残していない事実は、むしろ逆にパウロが厳しい状況に置かれていたのではないかと想像させます(パウロ書簡の中の「獄中書簡」や牧会書簡がローマで書かれたとは見られないことについては、それぞれの書簡を扱うときに触れます)。
 ローマでのパウロの様子がルカの報告からは確認できないこと以上に困難な問題は、ルカがなぜここで記述を打ち切ったのか、その理由が分からないことです。ルカは裁判の結果やパウロの最後の様子を知っているはずです。それを伝えないで、なぜここで彼の著作を打ち切ったのか、その理由や動機が様々に推測され、多くの議論がなされていますが、確かなことは分からないという他はありません。
 なぜ裁判が二年間も行われなかったのか、その間パウロはどのような処遇を受けたのか、裁判の結果は有罪となりパウロは処刑されたのか、または無罪釈放されて念願の通りにイスパニアまで伝道に赴いたのか、このような最も重要な結末が分からないのです。パウロの最後について触れる資料も僅かにありますが、確実な報告ではありません(後述)。やはりパウロの最後を知っているはずのルカの著作から推測するのが、もっとも確かな手がかりになります。
 ルカの記述を見ますと、とくにパウロの最後のエルサレムへの旅を描く部分を見ますと、ルカはパウロがローマで殉教の死を遂げたことを知っていると推察させます。先に「エルサレムへの最後の旅」の項で見たように、パウロは献金を届けるためにコリントを出発してエルサレムに向かう旅の途中で、マケドニア州(テサロニケやフィリピ)とアジア州(トロアスやエフェソ)の自分が建てた諸集会と会って別れを告げていますが、その情景は最後の別れを惜しむものとして描かれています。ミレトスでのエフェソ集会の代表者たちとの別れの場面が典型的です(使徒二〇・一七〜三八)。ルカは、パウロ自身がはっきりと「自分の顔をもう二度と見ることはあるまい」と言ったと書いています。その通りにならなかったことをこのように断定的に書くとは考えられませんので、ルカはこの旅がパウロの生涯の最後の旅となったことを知っていると推察せざるをえません。
 では、その最後を知っているのに、なぜそれを書かなかったのかという問題が残ります。それは、ルカの著作全体を貫く護教的動機から説明できます。ルカはいつも、この新しい信仰がローマの秩序に反するものではないことを強調しています。とくにローマの官憲との関わりを描くときには、彼らがパウロに好意的であった面を強調する傾向があります。ローマの総督たちはパウロが無罪であることを知っていたと書いています。それで、最高権力者である皇帝がパウロに有罪判決を下したことは書かずに、パウロが首都ローマでも「全く自由に何の妨げもなく」福音を伝えることができたという記述で終わり、その後のことは読者がその線の延長上でパウロの生涯を思い描くようにしたのではないかと推察させます。ルカにとっては、キリストの福音が異邦人への使徒パウロによって、諸国民の帝国の首都ローマにまでに到達したことを描けば、著作の目的は達せられたのです。
 この推察は、ルカの著作の基本姿勢から見て根拠があると考えられますが、逆の場合を推察することは困難です。すなわち、パウロが無罪釈放されてイスパニアまで伝道したことを知っているのであれば、自分の主張を裏付けるのに最も有力な根拠となる皇帝からの無罪判決を報告するのを避けた動機を説明することはできません。ここまで書いてルカが急死したとか、第三の著作を書く予定であったというような偶然に頼る説明しかできないことになります。
 使徒言行録の他にパウロの最後について言及していると見られる文書に、97年頃にローマの集会からコリント集会にあてて書かれた「クレメンスの手紙」があります。その手紙(五・七)にパウロについて、「彼は全世界に義を示し、西の果てにまで達して為政者たちの前で証しを立てた。かくしてから世を去り、聖なる場所へ迎え上げられた」という記述があります。この「西の果て」がイスパニアを指すとして、この時の裁判では釈放されたとする解釈もありますが、それがローマを指すことも十分可能であり、「為政者たちの前で証しを立てた」という表現はむしろ殉教を示唆するともとれます。むしろ、この手紙の言及以外に、この時以後のパウロの活動について触れるものがほとんどないという事実が、この時の殉教を示唆しています。

ネロの裁判による殉教

 次に、パウロを裁いた側の事情を見てみましょう。パウロが上訴した皇帝はネロ帝でした。ネロは54年から68年まで在位していますから、パウロが上訴した60年(プラスマイナス一年を見越しても)には皇帝在位の中頃でした。ネロは後に暴君として有名になりますが、それは晩年の行動から出た評判で、在位の前半ではセネカらの優秀な補佐官に支えられた有能な統治者でした(セネカは62年に引退)。パウロが上訴した時期のネロが、怠慢とか無能とか無関心で裁判を放置したとは考えられません。むしろ、(ユダヤとローマとの距離などを考えると)告発する側の準備に時間がかかったと見るべきでしょう。

パウロが上訴した時、セネカという有名なローマの哲学者がネロの補佐官であったことから、パウロとセネカの間に書簡のやりとりがあったとして、後にセネカがパウロを高く評価しているとする「パウロとセネカとの間の往復書簡」なる文書が流布するようになります。これは三〜四世紀にラテン語で書かれたもので、この時の裁判の資料にすることはできません。しかし、皇帝妃の介入(後述)などを示唆する箇所など、参考になる部分もあります。

 ネロは熱烈なギリシア文化の賛美者で、ギリシア風の競技会を催し、ローマの貴族階級に詩作や竪琴演奏を競わせ、ついに64年のナポリでの競技会には自ら出演します。ところが、その直後にローマに大火があり、それは自分が計画した黄金宮殿(ドムス・アウレア)を建設するためのネロの仕業だという民衆の噂が広がります。噂を消すために神々を祀る祭儀を行いますが、それも不成功に終わったので、当時民衆からローマの祭儀に参加せず「人類への憎悪」を抱く輩とされていたキリスト教徒の仕業だとして、ネロはローマのキリスト教徒を放火犯として逮捕し、十字架につけ、生きながら焼くという残酷な仕方で処刑します。この衝撃的な出来事はキリスト教徒の記憶に深く刻み込まれ、ネロは最初にキリスト教徒を迫害した皇帝として、またキリストに敵対する者(反キリスト)の原型として繰り返し言及され、史上もっとも「悪名高き皇帝」となります。
 この事件で注目されるのは、ネロがキリスト教徒をユダヤ教徒から正確に区別して扱っていることです。先にクラウディウス帝のとき、ローマのユダヤ人の間でキリスト信仰をめぐる紛争があったとき、クラウディウスはユダヤ教徒もキリスト教徒も区別しないで、ユダヤ人をすべてローマから追放しています(49年)。54年にクラウディウス帝が没しネロがその後を継いだとき、ネロは追放令を継続せず廃止しています。その結果ローマには再びユダヤ人が多くなりますが、ユダヤ人が追放されている間にキリスト教徒の群れがユダヤ教徒とは別の教団として歩むようになっていたことは事実です。しかし、その区別を皇帝が正確に知って、キリスト教徒を放火犯として告発し処刑するには、宮廷にその区別を教える者がいなければなりません。それを教えたのは、(パウロを告訴したユダヤ人ではなく)皇帝妃ポッピアではないかと見られます(ギボン)。
 ポッピアはネロの寵愛を受けた宮廷の女性で、ネロに大きな影響力をもっていました。ネロはついに62年に正妻オクタヴィア(クラウディウスの娘)と離婚し、ポッピアと結婚します。この皇帝妃ポッピアは、ヨセフスによると「神を敬う者」、すなわちユダヤ人ではないがユダヤ教に帰依している者であるとされています(『古代誌』二・一九五)。事実、ポッピアはヨセフスを保護し、ユダヤ人のためになるように影響力を行使しています。このポッピアからネロがユダヤ教徒とキリスト教徒の区別を教えられた可能性は高いと考えられます。

ネロについては、塩野七生『ローマ人の物語Z・悪名高き皇帝たち』の「第四部 ネロ」を参照してください。ポッピアについては、『聖書外典偽典6』(教文館)449頁にある「セネカとパウロの往復書簡」につけられた注5を参照してください。なお、この書では「ポッパイア」と表記されています。

 パウロやペトロのローマでの殉教は、64年のキリスト教徒迫害の時だとされることもありますが、パウロの処刑とこの大火によるキリスト教徒の処刑との間には直接の関連はないと見られます。パウロはローマに到着してから二年間拘留されていたとするルカの報告は、その二年後に何らかの決定があって状況が変わったことを示唆しています。先に見たように、その時に有罪となって処刑されたのであれば、パウロの死は64年大火の二年前の62年になります。この年にはポッピアがネロの妃になっていますから、ネロはユダヤ教徒とキリスト教徒との区別は知っていたでしょう。しかし、この時はまだキリスト教徒であることが有罪の理由とされることはありえません。パウロが告訴されたのは、これまでしばしばあったように、ユダヤ人の間に引き起こした騒乱の罪、皇帝に対する謀反の罪であったはずです。
 カイサリアにおける二人の総督へのユダヤ教側からの告発は成功しませんでした。しかし、ローマでの裁判ではユダヤ教側からの告発は効を奏し、パウロを有罪へと追い込んだと見られます。そのことについて、ユダヤ人に同情的な皇帝妃ポッピアのネロへの影響力が行使されたのかどうかは確認できませんが、ありうることと想像できます。
 パウロは、イエスの場合と同じく、ユダヤ教に対する冒?者としてユダヤ人から憎まれ、ローマへの反逆者として訴えられて、ローマの権力によって処刑されるという死を遂げます。この死は、イエス・キリストの御名を告白すること自体が罪とされて処刑されるという意味の「殉教」ではありませんが、やはりキリスト信仰の故に死ぬという広い意味で「殉教」には違いありません。パウロは、主イエス・キリストの僕として、死に至るまでキリストに仕えます。世界の諸国民にキリストの福音をもたらした偉大な「異邦人への使徒」パウロは、殉教の死によってその使徒としての生涯に証印を刻み込みます。