第二章 神に背く人間
第一節 異邦人の罪
18 おおよそ、不義によって真理を押さえつける人間のあらゆる形の不信心と不義に対して、神の怒りが天から現れます。19 神について知りうる事柄は、彼らには明らかであるからです。神が彼らにそれを示しておられるのです。20 見えない神の事柄、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物によって理解され、神は明らかに認識されるのですから、彼らには弁明の余地はありません。21 彼らは神を知りながら、神としての栄光を帰することをせず、感謝することもなく、かえって、彼らはその思考において空しくされ、理解なき心は暗くされたのです。22 彼らは自ら知者であると称しながら、愚かになり、23 不朽の神の栄光を、朽ちる人間や鳥や四つ足の獣や地を這うものに似せた像に変えたのです。
24 そこで神は、彼らが心の欲望のままに、互いにその体を辱めるという汚辱に、彼らを引き渡されたのです。25 彼らは神の真理を偽りと取り替え、創造者に反抗して被造物を崇拝し、また礼拝したのです。創造者こそ永遠に誉め讃えられるべきです。アーメン。
26 それゆえ神は、彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。彼らの中の女たちは、自然な性の交わりを自然に反するものに変え、27 同じく男たちも、女との自然な性の交わりを捨てて、互いに情欲に燃え、男と男の間で恥ずべき行為をして、その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けているのです。
28 そして、彼らは認識の中に神を入れようとしなかったので、神も彼らを無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされたのです。29 その結果、彼らはあらゆる不義、邪悪、貪欲、悪意に満たされ、妬み、殺意、争い、欺き、邪念にあふれ、中傷する者、30 そしる者、神を憎む者、人を侮る者、高慢な者、大言を吐く者、悪事を企む者、親に逆らう者、 31 無感覚な者、不誠実な者、非情な者、無慈悲な者になっています。32 このようなことを行う者が死に値するという神の正しい定めを知りながら、彼らは自らそのようなことを行うだけでなく、それを行う者たちを是認しているのです。
創造者への背き
パウロの議論は「神の怒りが天から現れます」(一八節)という言葉で始まります(原文ではこの文が最初に来ます)。これは明らかに、先行する主題提示の文「福音に神の義が現れており」(一七節)に対応しています。福音が告知する主イエス・キリストの出来事の中に人を義とする神の働きが現されているのに対して、キリストの外においては神の怒りが普遍的に現れているというのです。「天から」というのは、天の下にあるすべての者にという意味で、神の怒りが向けられない場は天の下のどこにもないことを意味しています。以下の文は、人間の普遍的な状況を描きます。このパウロの議論は、「知恵の書」一三章(一〜九節)に強く影響されています。総じてこの段落のパウロの議論は、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵文学の線上にあると見られます。ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていました(箴言三・一九、八・二七以下、知恵九・九、シラ二四・一以下など)。
ヘレニズム期のユダヤ教は、ギリシア思想から大きな影響を受けつつ、ギリシア思想や哲学という手段を用いて、ギリシア思想と対決しようとしました。「シラ書」(「ベン・シラの知恵」とも呼ばれる)や「知恵の書」(「ソロモンの知恵」とも呼ばれる)などに代表される知恵文学は、このようなギリシア思想と遭遇した時期のユダヤ教思想の典型です。ギリシア語を母語とするパウロは、七十人訳ギリシア語聖書にも通じており、この聖書には「シラ書」や「知恵の書」が含まれているので(新共同訳聖書では続編に入れられています)、パウロは日頃このような文学に接し、よく読んでいたはずです。パウロの思想を理解するためには、このような知恵文学をよく理解しておく必要があります(七十人訳ギリシア語聖書に含まれる黙示文書についても同じように言えますが、黙示思想とパウロの関係については別の機会に触れます)。
ユダヤ教の異邦人の偶像礼拝に対する非難については、「知恵の書」の一三〜一四章を参照。パウロの表現には、預言者(たとえばイザヤ四四・九〜二〇)以来の伝統を展開させたヘレニズム期ユダヤ教の偶像礼拝非難が背景にあります。
性の乱れ
偶像礼拝の結果は道義の退廃です。偶像は人間が造った神ですから、人間はその神を自分の欲するままの姿にすることができます。すなわち、自分を規定するのは自分自身であり、人間は自分の欲するままに生きることができます。自分を造り存在させている方、創造主なる神の定めに従う必要はありません。このような偶像礼拝の結果を、パウロは「神は彼らを(彼らの心の欲望、情欲、空しい思いに)引き渡された」という表現を繰り返し用いて語ります(二四、二六、二八節)。人間が自分の欲望のままに勝手に生きるように放置されている状態が、神の裁きであり、神の怒りの現れだというのです。ここで「自然に反する」性行為だけが非難されていて、婚姻関係を乱す性行為が取り上げられていないことが注目されます。その理由はおそらく、婚姻関係を乱す性行為は異邦人社会でも非難されているのに対して、同性愛関係は非難されず、異邦人社会の体質のようになっている事実にユダヤ人は嫌悪感を持っていたからでしょう。
この箇所(二六〜二七節)は同性愛を断罪する根拠とされ、教会は同性愛者を追放してきました。しかし、最近の生物学の成果によると、少数ながら同性しか愛せないように生まれついた人もあることが明らかにされています。そのような人にとっては、同性を愛することが「自然」となります。このような特別の場合には、多数派の「自然」で少数の人たちの「自然」を断罪することはできません。むしろ少数の特殊な人たちの人間としての尊厳を擁護しなければなりません。パウロの伝道説教の言葉を一般化・教条化して、教会法とすることは避けなければなりません。現代の学問の成果は、「自然」とか「創造の秩序」とは何かについて問いを突きつけています。
少数の人たちの「自然」を尊重しなければならないとしても、それは多数の人たちが「自然に反して」情欲にふけることを認めることを意味するのではありません。「その迷いにふさわし報いを自分たち自身に受けている」(ここでは身体を意味する語は使われていません)という言葉を、最近のエイズの流行に直ちに結びつけることはできませんが(エイズの原因には母子感染や血液製剤からのものなど同性愛以外のものが多いのですから)、エイズの流行は少なくとも性的無秩序に対する警告として真剣に受け止めなければなりません。コンドームを配布するとうような姑息な手段ではなく、人間関係における性の在り方という根本問題として、反省と自覚を深める機縁としなければならないと思います。
人間性の退廃
創造者なる神を拒否して偶像を礼拝した最初の結果として性的混乱をあげたパウロは、続いて偶像礼拝が引き起こした悪一般を列挙します(二八〜三一節)。「認識の中に神を入れようとしなかった」というときの「認識」《エピグノーシス》とは、コスモス(宇宙・存在界)全体についての根本的な認識を指し、現代の用語では「哲学」に近いでしょう。人間は自分のコスモス理解の中に、そのコスモスを創造した方を認めなかったので、神は人間をそのコスモスの中に閉じ込め、「無益な思いに引き渡し、してはならないことをするにまかされた」のです(二八節)。「無益な思い」と訳した語は、「承認されない、資格のない、無価値の、腐敗した《ヌース》(理性)」というような意味の語で、人間が(真理に到達するのに)役立たずの思考に引き渡されていることを言っています。「正しい定め」と訳した《ディカイオーマ》は、新約聖書ではパウロだけが用い、しかもローマ書だけで用いています(ここと二・二六、五・一六と一八、八・四の五箇所)。《ディカイオシュネー》と同じ系列の「義」という意味の語ですが、パウロにおいて「神の《ディカイオシュネー》」が人を義とする神の働きを指しているのに対して、「神の《ディカイオーマ》」は神の正しい要求ないし定め、またその内容をさしています。ローマ書における個々の用法については、それぞれの箇所で解説します。