第二節 ユダヤ人の罪
1 だから、すべて人を裁く者よ、あなたは弁解の余地がない。あなたは他の人を裁くことによって、自分を裁いているのです。裁いているあなたが同じことを行っているからです。 2 このようなことを行う者たちの上に、真理に従って神の裁きがあることを、わたしたちは知っています。 3 このようなことを行う者たちを裁きながら自分も同じことをする者よ、自分は神の裁きを免れるとでも考えているのですか。 4 それとも、神の慈愛はあなたを悔い改めに導くものであることを知らないで、神の慈愛と寛容と忍耐の豊かさを軽んじるのですか。 5 あなたの頑なさと悔い改めのない心のゆえに、神の正しい裁きが現れる怒りの日に向かって、あなたは神の怒りを自分の上に蓄えているのです。
6 神はその人のしたことに従って、各人に報われるのです。 7 すなわち神は、忍耐強く善を行って栄光と誉れと不滅を追求する者たちには永遠の命を与え、 8 自我心にかられた者たちや、真理に従わず不義に耳を傾ける者たちには、怒りと憤りが注がれます。 9 誰であれすべて悪を行う人間の魂には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、患難と苦悩が下り、 10 善を行う人には、ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた、栄光と誉れと平和が与えられます。 11 神には人を偏り見ることはないからです。
12 律法と関係なく罪にある者は皆、律法と関係なく滅び、律法の中にあって罪にある者は皆、律法によって裁かれます。 13 律法を聴いているだけの者が神の前に義であるのではなく、律法を行う者が義とされるからです。 14 律法を持たない異邦人が、律法が求めるところを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです。 15 このような者たちは、律法の求める行為が自分たちの心に記されていることを実証しているのです。彼らの良心も共に証しして、心の思いが互いに責めたり弁明したりしています。 16 このことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたところを裁かれる日に明らかになります。
人を裁く者
ここまで(一・一八〜三二)パウロは、神に背いている人間の姿を描いてきました。これは決して一部の人間の姿ではなく、人間そのものの姿として語られたのです。しかしパウロは、人間の退廃と悲惨をこのように描き糾弾する立場にある者が存在することを承知しています。実は、以上に語られた人間の現実は、ユダヤ教から見た異邦人(非ユダヤ教徒)への批判であり、彼らの背神の糾弾です。それは「知恵の書」などのユダヤ教文書に見られるとおりです。パウロ自身もユダヤ教徒として、異邦人世界の現実をそのように糾弾せざるをえませんでしたし、それがユダヤ教の立場からする異邦人世界の糾弾であることをよく承知しています。「神の正しい裁き(義の裁き)が現れる怒りの日」を前提にして語っている事実は、パウロがユダヤ教黙示思想を真剣に受け止め、黙示思想を自分の思想の枠組みとしていることを示しています。「義の裁き」、「怒りの日」、「現れる」《アポカリュプシスの動詞形》などの用語は、死海文書やその他の黙示文書によく用いられている表現です。
神の正しい裁き
続いてパウロは、「人を裁く者」が自分は神の裁きを免れると考えていることがいかに理不尽なことかを、神の裁きの原理を掲げることで示します(六〜一一節)。神の裁きの原理とは、「 神はその人のしたことに従って、各人に報われる」ということです(六節)。そして、その原理の実現として、生涯を通じて永遠を追求して善を行い永遠の命を与えられる者と(七節)、自我心によって生きて不義の道を歩み神の怒りが注がれる者(八節)が対比されます。終わりの日の裁きの場で各人が神から受けるものは、その人が実際にその生涯をどのような原理で、何を目標にして生きたかによって決まるのです。どのような宗教に所属したか、どのような民族や文化の中で生活したか、どれほどの知的水準であったかなどは一切関係がありません。そのことが「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句を用いて表現されます(九〜一〇節)。そして、所属している宗教などいっさい関係はないことが、「神には人を偏り見ることはない」(申命記一〇・一七)という聖書引用で確認されます(一一節)。六節は詩編六二編一三節からの引用。詩編では救いの根拠として語られていますが、パウロは神の怒りを自分の上に蓄えているという宣告の根拠として引用しています(六節は関係代名詞で五節に続いています)。六節の「報われる」は未来形で、終末時の裁きを指しています。七節と八節に動詞はありませんが、六節の展開として「報われる」とか「注がれる」という未来形の動詞を補って理解しなければなりません。
七節で「永遠の命」という表現が用いられていますが、この表現はパウロ書簡では五例(ガラテヤ書に一回、ローマ書に四回)だけです。パウロは、キリストにある者は聖霊により現在すでに終末的な質の命に生きていることを繰り返し語っていますが、その命を「永遠の命」と呼ぶことはありません。パウロが「永遠の命」という表現を用いるときは、「来るべきアイオーンにおける命」という、当時のユダヤ教(とくにファリサイ派や黙示思想)に見られる将来の面を色濃く残しています(マルコ一〇・一七に見られるように)。現在すでに聖霊によって生きている命を「永遠の命」と呼んで、福音の主題にしたのはヨハネです。
律法を持つ者も持たない者も
「ユダヤ人をはじめギリシア人にもまた」という句は、パウロの福音提示のさいの標語です(一・一六)。律法をもつユダヤ人も律法をもたないギリシア人も区別なく、律法とは関係なく、信仰によって義とされる(救われる)ことがパウロの福音の核心です。しかしここでは、その前提として、律法の枠の中にいるユダヤ人も、律法の外にいるギリシア人も、同じ裁きの原理の下にあることが確認されます(一二〜一六節)。ここではユダヤ人は「律法の中にある者」と呼ばれ、ギリシア人に代表される異邦諸国民は「律法を持たない者」と呼ばれます。人間は律法を持つ者と持たない者に区分され(これはユダヤ人から見た区分です)、両者が同じ原理で裁かれることが確認されるのです。《トーラー》(律法)という語は実に広範な意味合いで用いられる語で、場合によって、個々の戒律規定、戒律規定の総体、モーセ五書、ユダヤ教全体などを指します。《トーラー》は、「律法」という訳語が示唆するような戒律だけを意味する語ではなく、出来事や物語、祭儀や文学など、民の歴史の中に啓示された神の意志や定め全体を指す語なのです。そのことは、ユダヤ人が普通《トーラー》という語で指しているモーセ五書の内容が、生活上の戒律規定だけでなく、イスラエルの民の歴史を語り伝える物語や、祭儀規定や、説教や文学的な作品を含む、きわめて幅広いものであることからも分かります。モーセ五書を意味する《トーラー》(律法)は、「預言者」と「諸書」と並んで、ユダヤ教聖典を構成する一部分ですが、ユダヤ人にとっては《トーラー》こそ神の意志の啓示であり、それに従うことが生活のすべてであったのです。すなわち、《トーラー》はユダヤ人にとって宗教そのものであり、宗教は生活の一部ではなく全体であったのです。ここでユダヤ人が「律法を持つ者」と定義されていることから、ここでの「律法」は個々の戒律(またはその総体)ではなく、ユダヤ教という宗教全体を指していることは明らかです。パウロが《ノモス》という語を、このようにユダヤ教そのものを指す意味で用いていることは、キリストに出会う以前の自分を語るのに、《ノモス》(律法)という語と「ユダヤ教」という語の両方を同じ意味で用いていることからも分かります(フィリピ三・五〜六とガラテヤ一・一三〜一四を比較)。
まず、神の正しい裁きの原理として、律法をもっているかどうかと関係なく、「罪にある者」は滅びることが主張されます(一二節)。すなわち、ユダヤ教徒であろうが異教徒であろうが関係なく、神に背き、自我心から不義に生きる者は、神の裁きにより滅びに至るのです。パウロはここで個々の宗教的・道徳的規定に違反する諸々の行為を考えているのではなく、神に背いて生きる人間の生涯全体を念頭において語っているので(八節)、私訳では「罪を犯す者」ではなく「罪にある者」と訳しています。先に見たように、ヘレニズム期ユダヤ教の知恵思想は、神がそれによって世界を創造された「創造の言葉」を知恵と同一視して、知恵によって創造されたすべての被造物には創造者を認識する感覚が植え付けられていると考えていましたが、それは同時に創造者が人間に求めておられるところが何であるかを認識する感覚を含んでいました。知恵はイスラエルには具体的に《トーラ》という形で与えられたのですが(シラ二四章)、異邦人には「書かれざる律法」という形で与えられていたことになります。
ここでパウロは、そのような「律法が求めるところを自然に行う」異邦人の心の姿を「良心」という語を用いて描写します(一五節後半)。「良心」というのは、当時のヘレニズム哲学で広く認められていた生得的な人間の道徳的自覚(自分の行為の善悪を自覚する能力)を指し、パウロはこの「良心」が善悪を判断して「互いに責めたり弁明したり」して、律法を持たない人間も律法が求める善をなすようにしているのだとします。「良心」と訳している《シュネイデーシス》は、旧約聖書には対応するヘブライ語はなく、ヘレニズム世界の通俗哲学の用語です。ユダヤ教ではヘレニズム期になって用いられるようになっています(たとえばフィロンやヨセフス)。新約聖書では30回出てきますが、その中でパウロ書簡に14回あり、福音書には用いられていません。新約聖書にこの語を持ち込んだのはパウロであると言えるでしょう。
以上に述べたこと、すなわち、一二〜一三節で原理を述べ、一四〜一五節で敷衍した神の裁きは、「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」実現します(一六節)。人間の実相がもはや隠れることなく顕わにされるとき、すなわち終末時の審判において、律法をもっていたかどうかに関係なく、罪にある者は裁かれ、義を行った者は誉れを受けるという神の裁きが明らかになるのです。一六節は節全体が「神が裁かれる日に」という副詞句であって、一二節の裁きが行われる時を示しています(KJV.は一三〜一五節を括弧に入れて、一六節を一二節に続けています)。しかし、修飾される動詞から遠く離れているので、私訳では「このことは明らかになります」という句を補って、独立の文として訳してあります。
パウロは「神が人々の隠れたところを裁かれる日に」という文の後に、「わたしの福音によれば、キリスト・イエスによって」という句を加えます。「神が人々の隠れたところを裁かれる日」が来ることは、当時のユダヤ教に共通の認識でした。とくに黙示思想ではその間近な到来が熱烈に待望されていました。パウロは、その終末の裁きが「キリスト・イエスによって」行われることを付け加えざるをえません。「わたしの福音によれば」、すなわち、パウロが身に受け、命をかけて宣べ伝えてきた福音によれば、神はイエスを死人の中から復活させてキュリオス・キリストとして立て、この方によって世界を裁くこととされたのです(コリントU五・一〇)。このキリスト・イエスに対する態度で神の裁きが下るのです。律法のあるなしではなく、キリストへの信仰によって裁きが決まるのです。このことはローマ書全体で論証することになるのですが、パウロはそのことを示唆する句で、この神の裁きについての段落を締め括ります。「宗教」の錯覚
ここまで(一・一八〜二・一六)で、パウロは神に背いている人間の現実を描いてきました。ここでパウロは「ユダヤ人」という名を出していませんが、前半(一・一八〜三二)ではユダヤ人の立場から異邦人の偶像礼拝とそれに伴う退廃を糾弾し、後半(二・一〜一六)では返す刀で異邦人を裁くユダヤ人の背神を指弾しました。前半においても、人間が欲するままに悪を行っている現実が、悪に引き渡されている結果であり、それが神の裁きであるという深い洞察が見られますが、全般的に(ヘレニズム期ユダヤ教の)伝統的な思想に依存しており、描写も簡潔です。それに較べると後半の方がいっそうパウロの独自性がよく出ており、(ユダヤ人の名をあげて議論を進める二・一七〜三・二〇も含めると)はるかに詳細で表現も生き生きとしています。この事実は、ローマ書の成立事情のところで述べましたように、パウロがおもにユダヤ人を念頭においてこの書簡を書いていることを確認させます。 17 ところで、もしあなたが自らをユダヤ人と称し、律法を拠り所とし、神との関係を誇り、 18 律法に教えられて御心を知り、何をなすべきかをわきまえ、 19 自分を盲人の導き手、闇の中にいる者たちの光、 20 無知な者たちの教育者、未熟な者たちの教師であると確信し、それを律法の中に知識と真理を具体的な形で持っているからだとするのであれば、 21 他人を教えるあなたが、どうして自分自身を教えないのですか。「盗むな」と説くあなたが、盗むのですか。 22 「姦淫するな」と言っているあなたが、姦淫するのですか。偶像を忌み嫌っているあなたが、宮の物を盗むのですか。 23 律法を誇っているあなたが、律法に違反することで、神を辱めているのです。 24 実際、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」と書いてあるとおりです。
25 割礼は、もしあなたが律法を行うなら、たしかに有効です。けれども、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼となっているのです。 26 だから、もし無割礼の者が律法の義の要求を守るならば、彼の無割礼は割礼と算定されることになるのではありませんか。 27 それで、生まれながら無割礼であるが律法を満たしている者が、律法の文字と割礼を持っていながら律法の違反者であるあなたを裁くことになるのです。 28 外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではないからです。 29 むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそユダヤ人であり、文字ではなく御霊による心の割礼こそ割礼なのです。そのような人の誉れは、人からではなく神から来るのです。
律法を誇るユダヤ人の律法違反
ここまでで、パウロはすべての人間が神に背いていることを明らかにしてきました(一・一八〜二・一六)。その前半(一・一八〜三二)では、創造者である唯一の神から離れて偶像を拝む諸国民の背神と、その結果である人間性の退廃が糾弾されました。実は、この非難はユダヤ教の立場からする異邦人(異教徒)への批判・非難であったのですが、後半(二・一〜一六)で、そのように「人を裁く」ユダヤ人が、ユダヤ人という名をあげないで、同じように神に背いていると断定されました。先に見たように、ユダヤ人という名を上げないことに重要な意味があったのですが、ここからパウロは「ユダヤ人」と名指して、「人を裁きながら同じことをしている」ユダヤ人の背神を示して、ユダヤ人も例外ではないことを論じます。新約聖書で用いられている《ユウダイオス》は「ユダヤ人」という意味の語であり、普通「ユダヤ人」と訳され、この私訳でもそう訳していますが、当時の用語法ではむしろ「ユダヤ教徒」を指す名称です。たとえば、「サマリア人」は「サマリア教徒」(ヨハネ福音書四章)、《クリスティアノイ》(キリスト人)は「キリスト教徒」(使徒一一・二六)という意味で用いられています。現代の語感では、「ユダヤ人」と「異邦人」という対比は、人種的・民族的対比を意味していると受け取られがちですので、ローマ書のように信仰上の問題を扱っている文書では、「ユダヤ教徒」と「異教徒」という語で理解する方が意味が明確になると思われます。そのため、この講解では以後場面に応じて「ユダヤ教徒」を用いることにします。
続けてパウロはユダヤ教徒の誇りを列挙していきます(一七〜二〇節)。ユダヤ教徒の誇りの根拠は《トーラー》(律法)を与えられていることです。《トーラー》を与えられているということは、神との特別の契約関係にあるということです。《トーラー》は契約の言葉であり、《トーラー》を持つユダヤ教徒だけが、神から選ばれて特別の関わりにある民なのです。そして、「《トーラー》の中に(唯一神に関わる)知識と(コスモスの真相としての)真理を具体的な形で(自分たちの歴史的体験として)持っている」ので、この《トーラー》に教えられて、ユダヤ教徒だけが明確に神が人に求めておられるところを知り、人間は何をなすべきか、いかに生きるべきかを知っている民であると誇っているのです。そして、《トーラー》を持たない異教徒たちを、このような知識をもたない「盲人」、「闇の中にいる者」、「無知な者」、「未熟な者」と呼び、自分たちユダヤ教徒こそ、そういう異教徒たちの「導き手」、「光(灯火)」、「教育者」、「教師」であると自認していたのです(パウロは当時のユダヤ教文献によく出てくる用語を用いて、ユダヤ教徒の自負と誇りを描いています)。預言者イザヤ(四二・六〜七、四九・六)が言ったように、自分たちユダヤ教徒こそ「主の僕」であり、「諸国民の光」として異教徒を教え、真の神の知識と真理に導き、救いをもたらさなければならないと自負していました。そのような使命感から、ユダヤ教徒は周囲のヘレニズム世界の人々に積極的に宣教活動をしていたのです(マタイ二三・一五参照)。ユダヤ教社会にもこの他にいろいろと《トーラー》違反や犯罪行為があったでしょうが、とくにこの三つをあげるのは、パウロと同時代のフィロンにも並行例があり、当時のラビたちによってよく取り上げられ議論されていたことがうかがわれます。また、経験的には例外的な行為をユダヤ人共同体全体にとって代表的なこととして述べるのは、「黙示文学的見方による」(ケーゼマン)と見ることもできるし(黙示文学は神の民の中に見られる腐敗を終末の徴候の一つと見ました)、また、「彼らは言うだけで実行しない」という、シナゴーグに対する原始キリスト教の論争の定型的表現(ルカ一一章、マタイ二三章など)の一つである(ウイルケンス)と見ることもできます。
こうして、「律法を誇っている(一七〜二〇節)あなたが、律法に違反する(二一〜二二節)ことで、神を辱めている」と結論します(二三節)。《トーラー》が与えられたのは、それに従うことによって神の栄光を現すためでした。ところが、《トーラー》に違反することによって、周囲の民からそのような悪しきことをする民の神と見られるようになり、「神を辱めている」ことになるのです。ユダヤ教徒は日頃「神の大いなる名が称えられ、聖とされんことを」という「カデシュ」の祈りを口で唱えながら、実際の行為では神の名を汚しているというのです。そしてこの結論を、「神の名は、あなたがたのゆえに異邦人たちの中で汚されている」という聖書の言葉(イザヤ五二・五)を引用して根拠づけます(二四節)。このイザヤ書の箇所は、ヘブライ語聖書では「わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている」ですが、七十人訳ギリシャ語聖書は「わたしの名は常に、あなたがたのゆえに異邦人の間で汚されている」となっています。この引用は、ギリシャ語を用いるヘレニスト・ユダヤ人にとって、また初期キリスト教徒にとって、ヘブライ語聖書ではなく七十人訳ギリシャ語聖書が正典聖書であったことを思い起こさせます。なお、イスラエルの民にゆえに主の名が異邦諸国民の間で汚されていることについては、エゼキエル書三六章一六〜二四節なども明白に語っています。
御霊による心の割礼
次にパウロはユダヤ教徒の誇りである割礼を取り上げます(二五〜二九節)。ここまで(一七〜二四節)、《トーラー》を与えられていることが義の保証にならないことを示したパウロは、続けてユダヤ教徒が神と特別の契約関係にあることを保証する最も確かな拠り所としている割礼の有効性を問題にします。割礼の有効性を問題にすること自体がすでに正統ユダヤ教への挑戦です。「割礼」は男性性器の包皮を手術で切除する儀式で、古代諸民族によく見られる習慣ですが、イスラエルではヤハウェとの「契約のしるし」として重要な意味をもっていました(創世記一七章)。とくに捕囚期と捕囚以後においては、異教徒からユダヤ教徒を分かつしるしとして重視されました。それで、異教の支配者がユダヤ教を禁圧しようとするとき割礼禁止という形をとり(セレウコス朝のアンティオコス四世やローマ皇帝ハドリアヌス)、ユダヤ人はこれに命がけの抵抗をして、マカベヤ戦争やバルコクバ反乱となりました。
ユダヤ人は生後八日目に割礼を受けました(フィリピ三・五)。異教徒がユダヤ教に改宗するには割礼を受けることが求められました。ユダヤ教会堂には、ユダヤ教の教えに引かれた異邦人が参加しましたが、割礼を受けるまでは正式のユダヤ教徒とは認められず、「神を敬う者」と呼ばれました。ユダヤ人(ユダヤ教徒)は、異邦人を「無割礼の者」と呼んで、不浄の民であるとしました。
黙示思想には「聖なる者が世を裁く」という思想があります。預言者たちにも終末思想はあり、終わりの時に神が世界を裁かれることが語られています。しかし、神の民が終末審判に参加するという思想は見あたりません。時代が下って黙示思想の成立と共に、この《アイオーン》では世の支配者たちから迫害されてきた「義人」とか「聖徒」たちが、新しい《アイオーン》では世界を裁き支配する立場に立つという逆転が期待され、語られるようになります。黙示文書の終末観は一様ではなく、終わりの日の世界審判についても違った見方が並存しています。その中に、「聖なる者たちが世を裁く」という思想が見られるようになります。たとえば、「やがて、『日の老いたる者』が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである」(ダニエル七・二二)とか、「見よ、彼(永遠の神)は一万人の聖者をひきつれて来られた。それは彼ら(すべての人)に審きを行うためである。彼は不敬虔な者たちを滅ぼし・・・・」(エチオピア語エノク書一・九)、「義人たちよ、罪人を恐れるな。主は、いつか彼らをきみたちの手に返されるから、そうしたら好きなようにやつらを裁いてやるがよい」(同九五・三、九六・一も)と語られるようになります。そして、さらに天使への裁きに聖徒が参与すると理解されて、「聖なる者たちは天使をも裁く」(コリントI六・三)という思想になったと見られます。聖徒が裁きの座につくという思想は新約聖書のマタイ福音書一九章二八節に、また、終わりの日に主は裁くために聖なる者たちと共に来臨されるという思想はテサロニケT三章一三節に、その痕跡をとどめています。このような黙示思想の流れの中で、パウロがそれを逆転して、割礼の者と算定された異教徒が裁きの座に着いて、律法違反の割礼の者たち(ユダヤ教徒)を裁くことを語った可能性もあります。しかしここでは、福音書の並行事例に従い、証人として神の裁きの正しさを証明すると理解します。なお、引用した福音書の語録は「語録資料Q」からのものです。
こうして、「外見上のユダヤ人がユダヤ人であるのではなく、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない」という原理が、神の正しい裁きの帰結として確認されます(二八節)。そして、その原理の肯定的な面として、「むしろ、隠れたところにおけるユダヤ人こそ(真の)ユダヤ人である」という重大な宣言がなされます(二九節)。この「隠れたところにおけるユダヤ教徒」は、「外見上のユダヤ教徒」と対照されています。「外見上のユダヤ教徒」とは「肉に施された外見上の割礼」を受け、書かれた文字としての《トーラー》を持ち、《トーラー》に従って生活することを標榜している者たちのことです。それに対して、「隠れたところにおけるユダヤ教徒」とは、「肉に施された外見上の割礼」は受けていないが「御霊による心の割礼」を受けており、書かれた文字としての《トーラー》はもっていないが、《トーラー》が求めるところを現実の歩みにおいて満たしている者たちのことです。そのような者があることを、パウロは長年の異邦人伝道によってよく知っています。そして、そのような「隠れたところにおけるユダヤ人」の誉れは、「人からではなく神から来る」、すなわち、人からユダヤ教徒と認められなくても、神からそう認められると言って議論を締め括ります。ここで神から契約の民ユダヤ教徒と認められることが「誉れ」という語で語られるのは、ユダヤ人とかユダヤ教徒という名称は名祖のユダから来ていますが、「ユダ」という名は「ほめる」という動詞から来ているとされているからです(創世記二九・三五)。ユダヤ人は自分たちこそ神からの誉れにあずかっている民だと誇っていましたが、パウロはそれを「外見上のユダヤ人」ではなく、「隠れたところにおけるユダヤ人」のものとします。パウロは、信じる者が聖霊を受けて新しい命に生きるようになることを、ユダヤ教儀礼である割礼を比喩として用い、「御霊による心の割礼」と呼んでいますが、「聖霊によるバプテスマ」という呼び方はまだしていません。強いて捜せば、「一つの御霊によって一つの体の中へバプテスマされた」(コリントI一二・一二直訳)という表現がありますが、聖霊が与えられることを強調しながらも、それを「聖霊のバプテスマ」と呼ぶことはありません。この呼び方はマルコ福音書以降になります。七〇年代以降の福音書の時代になって、他のバプテスマ運動との差異を強調するために、「水によるバプテスマ」に対して「聖霊によるバプテスマ」という呼び方が用いられるようになります(拙著『教会の外のキリスト』の中の「7 聖霊のバプテスマ」参照)。この呼び方も、パウロの「御霊による心の割礼」を源流としていると見てよいでしょう。
1 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。また、割礼の益は何か」。 2 それはすべての面で多くあります。まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです。3 「ではどうなるのか。ある者たちが信じないのであれば、彼らの不信実が神の信実を無効にするのではないか」。 4 決してそんなことはありません。すべての人を偽り者として、神が真実とされますように。あなたは、あなたのもろもろの言葉において正しいとされ、あなたが裁きを受けるとき勝利を得るであろう、と書かれているとおりです。
5 「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」 ――わたしは人間の論法に従って語っているのです。 6 決してそうではありません。そうだとしたら、どうして神は世を裁くことができましょう。
7 「ところで、もしわたしの偽りによって神の真実が溢れ出て、神の栄光となるのであれば、なぜわたしはなおも罪人として裁かれねばならないのか」。8 わたしたちは中傷され、わたしたちが「善を来たらせるために、悪をしようではないか」と言っていると、ある者たちが噂しているが、そのような者が断罪されるのは当然です。
ユダヤ人に対する神の信実
これまで進めてきたパウロの議論は、ユダヤ教徒と異教徒を同列に置いて、ユダヤ教徒が誇る《トーラー》と割礼の救済史的意義を無視しているように思われます。そこで当然、ユダヤ教徒から抗議の声があがります。パウロはその抗議を自分の方から取り上げて、その抗議を退けます。この段落は、論者であるパウロ自身が反論を立てて、それに答えていくという「ディアトリベー」と呼ばれる論争文体が用いられていると見られます。この訳では、ユダヤ人論敵の抗議と見られる文は「 」に入れて示してあります。ここに立てられている反論は、(イエスを信じない)ユダヤ教徒からものか、それともパウロの割礼なしの福音に反対した「ユダヤ主義者」(異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ人伝道者)からのもの(シュトゥールマッハー)かが問題になります。たしかにパウロは、ガラテヤ、フィリピ、コリントと、パウロの割礼なしの福音を覆すために働きかけてきた「ユダヤ主義者」の働きがローマにまで及ぶのを恐れて、彼らの反論に対して自分の福音を弁証するためにこの書簡を書いたという面があります。しかし、ここの文脈(神に背いている人間であるという点ではユダヤ人も例外ではなく、異邦人と同じであることを示そうとする文脈)では、とくに「ユダヤ主義者」に限定する必要はなく、彼らも含んでユダヤ教徒一般を指すと理解してよいでしょう。
「では、ユダヤ人の優れた点は何か。すなわち、割礼を受けてユダヤ教徒であることの益は何か。お前の議論では何もなくなるのではないか。神がユダヤ人を選ばれた意味はなくなるのではないか」(一節)という抗議に、パウロは「たしかに何もない」と否定するのではなく、「それはすべての面で多くあります」と言って、ユダヤ教徒であることの救済史的な特権を認めます。そして、その「多くある」特権を数え上げようとして、「まず第一に、神のもろもろの言葉が信託されたことです」と言います(二節)。事実、イスラエルの選びの意義を正面から取り上げる第三部(九〜一一章)では、その多くの特権が列挙されています(九・四〜五)。しかし、ここでは第二以下は触れられることなく、「神のもろもろの言葉が信託された」という基本的な特権だけが取り上げられます。中傷に対する反論
次にパウロは、不信心な者、不義なる者を義とする神の義(四・五)というパウロの福音宣教に対する反論を取り上げます。パウロに反対するユダヤ教徒は、パウロが主張する「神の義」の論理的矛盾を衝きます。パウロ自身が彼らの反論をまとめます。「しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするのであれば、いったいどう言ったらよいのか。怒りを注ぐ神は不義ではないのか」(五節)。パウロが主張するように、もし神の義が不義なる人間を義とする働きにあるならば、そのような神の義は人間の不義があって初めて成立するものである。そうすると、自分の義を貫くために人間の不義を必要としながら、その不義なる人間に怒りを注ぐ(処罰する)とは、神の振舞いに矛盾があることになる。すなわち、神は不義となるのではないか。したがって、パウロが主張するような「神の義」はありえない、という論法です。三節では「信じる」という動詞とその名詞形である「信実《ピスティス》」と「不信実《アピスティス》」が用いられ、「神の信実《ピスティス》」という重要な句が出てきます。これはパウロに特徴的な表現です。それに対して、四節と七節では、人間の「偽り」に対して「真実な」と「神の真実《アレーセイア》」という表現が用いられています。この語は、七十人訳ギリシア語聖書が神の「まこと、誠実」を《アレーセイア》で訳していることから、新約聖書でもよく用いられ、パウロも聖書(とくに詩編)の表現を意識してこの語を用いていると考えられます。両者は同じと見てよいでしょう。新共同訳は両方とも「真実」と訳していますが、この講解ではパウロ的な表現である「神の信実」を用いて講解を進めます。
パウロは、人間の不信実と対比して(人間の信実をあてにしないで)「神の信実」を救済の土台と見ていたことが、書簡の各所に見られます。この段落以外では、ロマ一五・八、コリントT一・九、コリントT一〇・一三、コリントU一・一八などです。パウロはこの主張を書簡で組織的に展開していませんが、論敵が「不信実な人間を支える神の信実」というパウロの主張を取り上げて非難している事実は、パウロの福音宣教においてこの主張が際だっていたことを示しています。パウロのこの主張はパウロ系の諸教会で受け取られて、「パウロの名による書簡」の時代になると、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテU二・一三)という信仰告白の形で定式化されます。わたしは、マルコ福音書の「神の信実に生きよ」(マルコ一一・二二私訳)という信仰理解もこの線上にあると考えています。そこから、「絶信の信」の消息が出てくることになります(マルコ福音書の当該箇所の講解を参照)。