市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第7講

第二節 律法による「信仰の義」の立証

10 アブラハムの範例 (4章 1〜25節)

 1 では、わたしたちの先祖アブラハムは肉によって何を得たと言えるのでしょうか。 2 もしアブラハムが行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができますが、神の前ではできません。 3 というのは、聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼に義と認められた」とあるからです。 4 ところで、働く者に対しては、報酬は恵みによるものではなく、当然の支払いと見なされます。 5 しかし、働きはなくても、不信心な者を義とする方を信じる者は、その信仰が義と認められるのです。 6 同じようにダビデもまた、行いがなくても神が義と認められる人の幸いをこう語っています。
  7「不法が赦され、罪が覆われた人たちは幸いである。
  8 主がその罪を認めない人は幸いである」。
9 では、この幸いは、割礼の者に及ぶのでしょうか、それとも無割礼の者にも及ぶのでしょうか。わたしたちは言います。「アブラハムには信仰が義と認められた」のです。 10 では、どのような時にそう認められたのでしょうか。割礼を受けている時ですか、それとも無割礼の時ですか。それは、割礼を受けている時ではなく、無割礼の時です。 11 アブラハムは、無割礼の時に信仰によって義とされた証として、割礼というしるしを受けたのです。こうして彼は、無割礼の状態で信じて義と認められるすべての人々の父となり、 12 また、割礼の者たちの父、すなわち、割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが無割礼の時にもっていた信仰の模範に従う者たちの父となったのです。
 13 世界を相続する者となるという約束がアブラハムに、あるいは彼の子孫になされたが、それは律法によるものではなく、信仰の義によるものなのです。 14 もし律法による者たちが相続人であるならば、信仰は無意味となり、約束は破棄されたことになります。 15 そもそも律法とは怒りを引き起こすものです。だが律法のないところには違反もありません。
 16 従って相続は信仰に基づくことになるのですが、それは恵みによって約束がすべての子孫、つまり、律法に基づく者だけでなく、アブラハムの信仰に立つ者にも実現するためです。アブラハムはわたしたちすべての者たちの父なのです。 17 「わたしはあなたを多くの民の父として立てた」と書かれているとおりです。アブラハムは死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じ、その神のみ前でわたしたちの父となったのです。
 18 アブラハムは希望に逆らいつつ希望に立って信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となったのです。 19 彼はおよそ百歳になっていて、自分の体がすでに死んでしまっていることと、サラの胎が不妊であることを知りながらも、信仰が弱くなることはありませんでした。 20 彼は不信仰によって神の約束を疑うことなく、信仰によって強められて、神に栄光を帰し、 21 神は約束されたことを成し遂げることもできると、完全に委ねたのです。22 だから、それが彼に義と認められたのです。
  23 しかし、それが彼に義と認められたのは、彼のためだけではなく、 24 わたしたちのためでもあるのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じるわたしたちも、義と認められることになるのです。 25 主イエスは、わたしたちの罪過のために渡され、わたしたちの義のために復活させられたのです。

わたしたちの先祖アブラハムの場合

 パウロは前の段落(三・二一〜三一)で、イエス・キリストの出来事において「律法と無関係の神の義」が現されていることを、力強く宣言しました。そして、人が義とされるのは「律法の行いによるのではなく、信仰による」のであることを宣言しました。しかし同時に、その「律法と無関係の神の義」、「信仰による義」は「律法と預言者とによって立証されて」現されたのでした。パウロはここ(四章全体)で、「律法と無関係の神の義」が「律法と預言者とによって立証されて」現されたことを、実例をあげて示します。これは、「信仰の律法」、すなわち、信仰を要求し、信仰によってはじめて真意が開示され、信仰によって義が実現すると理解された《トーラー》(ユダヤ教)とはどのようなものかを示す実例でもあるのです。
 パウロはこの議論を「それでは、わたしたちは何と言うべきでしょうか」という問いの文で始めています(一節冒頭)。この問いは、パウロの福音を批判する者たちの議論を念頭において、それに対する反論を始めるときにパウロが用いる典型的な表現です(他には六・一、七・七、九・一四)。パウロの批判者たち(ユダヤ教徒だけでなく、異邦人信徒に割礼を受けることを要求した伝道者たち)は、パウロの「律法と無関係の神の義」とか「信仰による義」という主張は律法(ユダヤ教)を無効にすると批判していました。彼らはその議論において、ユダヤ教の基本的な理解に従い、アブラハムは主の言葉への従順の行為(見知らぬ土地への旅立ちやイサク奉献など)によって義とされたのだ主張していたと考えられます。パウロは、彼らも自分たちの先祖として尊び範例としているアブラハムをとりあげ、「わたしたちの先祖」、すなわち彼らと自分たちの共通の先祖としてのアブラハムの実例によって反論します。アブラハムを範例とする議論は、アブラハムの子孫であることを誇るユダヤ人には説得的です。パウロはこの議論によってユダヤ教徒を説得しようとしています。

一節の本文は確定が困難です。「得た」という動詞(本来は「見出した」の意)を欠く有力な写本もあり、その位置も写本によって違っています。この動詞がないものとして、「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムについて、どう言うべきでしょうか」と訳す翻訳(たとえばRSV)や注解も多くあります。しかし、構文上からもこの動詞が必要ですので、あるものとして訳します。さらに、「肉による」という句は、文法的には「肉によるわたしたちの先祖」と理解することも、「肉によって得た」と理解することも可能です。大多数の翻訳は「肉による先祖」と訳していますが、この場合アブラハムが「わたしたち」ユダヤ人の先祖であることを、とくに「肉による」という句で限定する必要はないと見られます。むしろ、アブラハムは従順の行為によって義とされたという批判者たちの主張を意識して、「肉によって(人間の働きによって)何を得たのか」を問題にしていると理解する方が、「誇り」を問題にしている後続の文(二節)との関連からも、適切であると考えられます。

 パウロは、「わたしたちの先祖アブラハムは肉によって何を得たと言えるのでしょうか」(一節)と問います。「何を見出したのか」(直訳)という表現は、旧約聖書によく見られる「恵みを見出した」という表現(たとえば創世記六・八)を背景にして、アブラハムが人間の働きによって「恵みを見出した」のかどうか、すなわち神に認められたのかどうかを問いかけるのです。そして、「もしアブラハムが行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができますが、神の前ではできません」(二節)と答えます。たしかに、もしアブラハムが、ユダヤ教律法学者たちやパウロの批判者の「ユダヤ主義者」が言うように、従順の行為によって義とされたのであれば、アブラハムは自分の価値を誇りとすることができます。しかし、「神の前では誇ることはできません」とパウロは断定します。その理由は、聖書が「アブラハムは神を信じた。それが彼に義と認められた」(創世記一五・六)と言っているからです(三節)。聖書ははっきりと「信じたことが義と認められた」と宣言しているのであるから、アブラハムは自分の従順の行為が義と認められたと誇ることはできない、というのです。ユダヤ教徒を相手にする議論では、聖書の言葉が決着をつけます。パウロは、ガラテヤ書(三・六)でもこの創世記の言葉を引用して「ユダヤ主義者」と戦いましたが、このローマ書においてもあらためてこの言葉で自分の立場を根拠づけます。この聖書の言葉は、パウロが依って立つ陣地です。

パウロの批判者たちがアブラハムの事例を根拠にして割礼を受けるように要求したことと、それに対するパウロの反論について、また、パウロが救済史をアブラハムとキリストという対比で見ていることについて、ガラテヤ書三章の講解(拙著『パウロによるキリストの福音T』176頁「第二節 信仰による義と聖霊」)を参照してください。

恩恵と報酬

 ここでパウロは、アブラハムの場合について、「その信仰が義と認められた」ことは「恩恵による」のだということを明らかにします。もしアブラハムが彼の行為によって義と認められたのであれば、それは働きに対する報酬であって、「恵みによるものではない」ことになります。この場合、義と認められることは、「当然の支払いと見なされます」(四節)。しかし、「働きはなくても」、すなわち、神からのよきものを報酬として受けるのに十分な働きとか資格がなくても、「不信心な者を義とする方」を信じる者は、「その信仰が義と認められる」のです。ここでパウロは、「働きはなくても」ということ、すなわち「当然の支払い」とか「報酬」を受ける資格がないことを、「不信心な」という語で言い換えています。神との関わりにおいて、義を受ける資格がない者を、宗教的な用語で言えば「不信心な者」となるのです。パウロがイスラエルの神を「不信心な者を義とする方」と呼んだことは、「恩恵」という語は使っていませんが、神を「恩恵の神」としていることになります。まさに、資格のない者を無条件で受け入れること(義とすること)こそ、「恩恵」の本質であるからです。
 この「不信心な者を義とする方」という神理解は、すでに旧約聖書の中にも現れていました。イスラエルの神は決して律法によって裁くだけの方ではないのです。預言者たちはイスラエルの罪を糾弾しつつも、律法に背いてやまない民を神は赦して受け入れてくださることを語り、その恩恵の前にひれ伏して、主に立ち帰るように叫んだのでした(たとえばイザヤ四四・二二)。そのような預言者たちの叫びに応えて、イスラエルの中に「不信心な者を義とする方」に縋る祈りが出てきたのでした。たとえば詩編五一編のような多くの「悔い改めの詩編」、ダニエル書九章の祈り(とくに一八節参照)や、死海文書の「感謝の詩編」など、神の恩恵に縋る祈りが出てきていました。
 パウロはダマスコ途上で復活の主イエスに出会うまでは、「行いの律法」のチャンピオンでした(ガラテヤ一・一四、フィリピ三・六)。その頃のパウロにとって、義とされるのは律法の行いを完全にするという働きに対する報酬であることは自明のことでした。そのパウロが復活の主キリストに出会ったとき、この原理が徹底的に打ち砕かれます。まさにパウロの律法への熱心が、神が遣わされた救い主キリストとその民を迫害させたのです。神は敵対するパウロを無条件で受け入れ、恩恵により御子キリストに仕える使徒とされました(コリントT一五・一〇)。パウロは身をもって神の恩恵の力を体験したのです。それ以後のパウロは、当時のユダヤ教が立つ報酬の原理を否定し、恩恵の支配を宣べ伝える「恩恵の使徒」となったのです。「恩恵」《カリス》という語は、新約聖書では圧倒的にパウロ書簡に多く出てくることになります。

ダビデの場合

 アブラハムについて語ったことを、パウロはもう一人の旧約聖書の主要人物であるダビデの場合を引用して補強します(六〜八節)。ここで詩編三二編一〜二節が引用されていますが、この詩編はユダヤ教では伝統的にダビデの詩編とされているので、パウロはこの告白をダビデの言葉として引用しています。パウロがこの詩編の言葉を引用するのは、同じ語が用いられている二つの聖書の箇所はお互いに他を説明する、という律法学者たちの聖書解釈の原理に従っています。すなわち、創世記一五章六節とこの詩編に同じ「認める」という語が用いられているので、この二カ所は互いに他方を説明しているとして引用するのです。

ダビデ詩編の引用は、ある主張を聖書の引用で論拠づけるときは、「律法」(モーセ五書)と「預言者」の両方から引用するというラビの習慣から来ている可能性もあります。アブラハムの記事は「律法」に含まれますが、ダビデは、ユダヤ教の聖典ではヨシュア記から列王記にいたる「前の預言者」に含まれます。しかし、ここでは同じ語が使用された二カ所の解釈という原理で引用されていると見てよいでしょう。

 ダビデがこの詩編で、「不法が赦され、罪が覆われた人たちは幸いである。主がその罪を認めない人は幸いである」と告白しているのは、「行いがなくても神が義と認められる人の幸い」を歌っている、すなわち、アブラハムの場合と同じく「不信心な者を義とする方」の恩恵を歌っているのだとされるのです。この二つの箇所が関連づけられて、お互いに一方が他方を説明するとされると、重大な結論が引き出されます。アブラハムの場合がこの詩編の言葉で説明されると、アブラハムも「不法が赦され、罪が覆われた人」となります。これは伝統的なユダヤ教のアブラハム解釈とは異なります。伝統的なユダヤ教では、アブラハムは主の言葉に従順に従った義人の模範でした。それに対して、創世記と詩編の言葉をお互いに他を説明するとして並べたパウロの理解によると、アブラハムも不法と罪の中にあったが、主の恩恵によって、罪が認められることなく義と認められた者となり、その意味でイスラエルの父祖であることになります。
 だいたい詩編の多くは作者がわかりませんが、ユダヤ教では多くのものがダビデのものとされています。それで、典型的な「悔い改め詩編」である五一編も、バト・シェバのことで大きな罪を犯したダビデの悔い改めの詩編とされるわけです。このことは、深く罪を自覚して悔い改めているイスラエルが、自分たちの悔い改めをダビデの詩編で表現し、その罪を赦してご自分の民として受け入れてくださっている主の恩恵を賛美していることを示しています。したがって、パウロがアブラハムをイスラエルの在り方を代表する父祖としてあげるとき、アブラハムも「不法が赦され、罪が覆われた人、主が(恩恵により)その罪を認めない人」となるのです。このようなアブラハム理解は、聖書解釈の技術的な問題ではなく、パウロのダマスコ途上の決定的な恩恵体験から出ています。

無割礼のときに

 続いてパウロは、「この幸い」、すなわち「不法が赦され、罪が覆われた人たちの幸い」、「主がその罪を認めない人の幸い」は、「割礼の者に及ぶのでしょうか、それとも無割礼の者にも及ぶのでしょうか」と、聖書を知るユダヤ教徒に問いかけます(九節)。ユダヤ教の立場からすれば、答えは「もちろん割礼の者だけに及ぶ」となります。ユダヤ教の立場からすれば、無割礼の異教徒はいかなる意味においても主との関わりをもつことはできません。それに対してパウロは、「アブラハムには信仰が義と認められた」とあるが、「では、どのような時にそう認められたのでしょうか」と重ねて問いかけます。パウロの問いの核心は、アブラハムに信仰が義と認められたのは、アブラハムが「割礼を受けている時ですか、それとも無割礼の時ですか」という点にあります。この問いにパウロ自らが答えます、「それは、割礼を受けている時ではなく、無割礼の時です」(以上一〇節)。
 この点は、聖書を知っているユダヤ教徒はみな認めざるをえません。「アブラハムは神を信じた。それが彼に義と認められた」という出来事は、創世記一五章に記されていますが、アブラハムが割礼を受けたのは、その後の創世記一七章になってからです。「アブラハムは、無割礼の時に信仰によって義とされた証として、割礼というしるしを受けたのです」(一一節前半)。したがって、割礼を受けることは、人を義とする行為ではなく、無割礼の時に信仰によって義とされて神に属する者となったことの「しるし」なのです。パウロは、創世記(一七・一一)の「契約のしるし」としての割礼に、このような「無割礼の時に信仰によって義とされた証」という新しい意義を与えます。
 「こうして」、すなわち、無割礼の時にその信仰が義と認められ、その後で割礼を受けることによって、アブラハムは二つのグループの共通の父(先祖、原型)となったのです。すなわち、まず「彼は、無割礼の状態で信じて義と認められるすべての人々の父となり」(一一節後半)、次いで「また、割礼の者たちの父、すなわち、割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが無割礼の時にもっていた信仰の模範に従う者たちの父となったのです」(一二節)。アブラハムは無割礼の時にその信仰が義と認められたのですから、いま無割礼の状態で、すなわち異邦人のままで、主イエス・キリストを信じることによって義とされる者たち(異邦人キリスト教徒)の父祖であり原型であるのです。同時に、そのアブラハムが割礼を受けたことにより、現在割礼を受けている者の中で、アブラハムが無割礼の時にもっていた信仰の模範に従う者たちの父祖となったのです。割礼を受けていても、それだけでアブラハムの子孫であるのではないのです。割礼を受けているだけでなく、アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰(不信心な者を義とする方への信仰)の模範に従う者だけが「アブラハムの子孫」と認められるのです。ここで、アブラハムの子孫に数えられる「割礼の者たち」から、アブラハムの無割礼時の信仰に従わないユダヤ人が除外されていることに留意しなければなりません。パウロは、働きと報酬の原理に立つユダヤ教徒は、割礼を受けていてもアブラハムの子孫ではない、と言っているのです。アブラハムが「行いはなくても、不信心な者を義とする方」を信じたように、そのようにキリストにおいて最終的に啓示された恩恵の支配に身を委ねる「割礼の者」だけが、アブラハムを父祖とする「割礼の者」だと言っているのです。

この一二節を、協会訳(口語訳)は次のように訳しています。「かつ、割礼の者の父となるためなのである。割礼の者というのは、割礼を受けた者ばかりではなく、われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々をもさすのである」。この訳は混乱を招きます。この訳では、「割礼を受けた者たち」(ユダヤ人)の他に、「われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々」が、「割礼の者」と呼ばれてアブラハムの子孫に加えられることになります。そうすると、ユダヤ人はみな当然アブラハムの子孫であり、その他に加えられる「われらの父アブラハムが無割礼の時に持っていた信仰の足跡を踏む人々」は異邦人キリスト教徒を指すことになり、後半部分は一一節と重複します。この誤りを新共同訳は訂正して正しく訳しています。「更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです」(一二節新共同訳)。

 この一段(九〜一二節)は、「律法と無関係の神の義」というテーゼを、律法(ユダヤ教)のもっとも典型的な表現である「割礼」を用いて再確認しています。この一段が言っていることは、アブラハムの子孫としてアブラハムが受けた約束と祝福に与るのは、割礼を受けているか受けていないかに関係なく、アブラハムが無割礼の時に示したのと同質の信仰をもって生きる者たちであるということです。割礼を受けているとは、ユダヤ教の諸規定《トーラー》を順守する者である、すなわちユダヤ教徒であることですから、「割礼を受けているか受けていないかに関係なく」というのは、ユダヤ教徒であるかどうかと関係なく、すなわちユダヤ教(律法)と関係なく、ということを意味するのです。ここにもパウロがユダヤ教を相対化していることが示されています。この一段には、パウロがガラテヤ書で必死になって激しく主張した「割礼なしの福音」が反響しています。

約束を相続する信仰

 パウロはここで、アブラハムと彼の子孫に与えられた「世界を相続する者となるという約束」を取り上げます(一三節)。旧約聖書で「相続」というのは、土地を受け継ぐことです。アブラハムには「エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」の広大な土地が約束されました(創世記一五・一八)。しかし、これは世界の一部の土地であって、世界そのものではありません。ところが、ユダヤ教黙示思想において、このアブラハムへの約束が終末論的に理解され、神が世界を裁かれる終末時に、それまで世界を支配していた悪人が滅ぼされ、アブラハムの子孫である選ばれた義人が世界を支配するようになると信じられるようになっていました。パウロはこのようなユダヤ教黙示思想の理解を、ユダヤ人読者と共有し、アブラハムへの約束を「世界を相続する者となる約束」と表現するのです。ただ、「相続する」という表現は、ファリサイ派ユダヤ教や新約聖書では、「神の国を相続する」(マタイ五・五、二五・三四)とか「永遠の命を相続する」(マルコ一〇・一七)という象徴的な意味で用いられているので、ここでのパウロの議論も、それと同じく最終的な救済にあずかることを指していると理解してよいと考えられます。
 アブラハムにこの約束が与えられたのは、モーセによって律法が与えられる前のことですから、この約束は律法を順守する者に与えられたものではありません。その約束は「律法による」あるいは「律法に基づく」ものではありえません。創世記一五章の順序によると、「アブラハムは主を信じた。それが彼に義と認められた」ので、神はアブラハムと契約を結び、土地を与える約束を与えられたのです。このように、「世界を相続する者となるという約束」は、信仰による義に基づいていることになります(一三節)。
 パウロはすでにガラテヤ書(三・一五〜二二)で、約束と律法授与の前後関係から(ユダヤ教の計算ではモーセ律法の授与はアブラハムとの契約から四三〇年後であるとされています)、相続は約束に由来するものであり、決して律法に由来するものではないと論じ、したがって律法とは「違反を明らかにするために(後から)付け加えられたもの」であるとしています。同じ議論がここでも用いられています。「もし律法による者たちが相続人であるならば、信仰は無意味となり、約束は破棄されたことになります」(一四節)。ユダヤ教と(パウロと対立する)ユダヤ人キリスト教が主張するように、《トーラー》(モーセ律法)を実行する者だけが義とされて、「世界を相続するという約束」を受け継ぐのであれば、アブラハムが信仰によって義とされ、約束を与えられたという創世記一五章に記されている聖書の記事は意味を失います。そうであれば、信仰の義に対してアブラハムに与えられた約束は、まったく別の条件が課せられたのですから、いったん破棄されたことになります。
 約束と律法がこのような関係であれば、ではいったい律法は何のために与えられたのか、という反問がユダヤ教側から出るのは当然です(ガラテヤ三・一九)。パウロはその反問に対してガラテヤ書で答えていますが、ローマ書でもすでに詳しく律法の本質を論じました(二・一七〜三・二〇)。パウロにとって律法とは、人を義とするために与えられたものではなく、人が神に背いているという罪を明らかにし、罪に対する神の怒りを示すために与えられたものなのです。これは、律法とはそれを行うことによって義とされて神の民となるように神から与えられた定めであるとするユダヤ教徒(と多くのユダヤ人キリスト教徒)にとって、まことに革命的な律法観です。パウロは復活者キリストに出会い、キリストにおいて神の絶対無条件の恩恵を体験することによって、このような律法の本質を理解するようになったのです。その律法の本質を、ここでは簡潔に「そもそも律法とは怒りを引き起こすものです」と要約します。「だが」、アブラハムの場合はまだ律法はなく、キリストを信じた異邦人も律法の外にいるのであり、「律法のないところには違反(の問題)もありません」から、どちらの場合も信じるかどうかで神との関わりが決まることになます(一五節)。こうして、「従って相続は信仰に基づくことになる」(一六節)と、次の一段に続くことになります。

すべて信じる者の父アブラハム

 前段(一三〜一五節)で明らかにされたように、約束されたものを受け継ぐこと(相続)は、「律法によるのではなく、信仰による」のですが、「信仰による(基づく)」というのは、「恵みによる」ということと同じです。パウロにおいては「信仰」と「恵み」は表裏一体の関係にあります。救い(ここでは相続)は、人間の価値や能力とは無関係に、神が無条件に与えてくださるものです。その事態を、受ける人間の側に即して表現すれば「信仰」であり、与える神の側に即して表現すると「恵み」とか「恩恵」となります。ローマ書の核心部(三・二一〜二四)においても、信仰によって義とされることが、恵みによって義とされることと並べて表現されているのは、すでに見たとおりです。このことは、後にパウロの福音を深く理解した人物によって、次のように簡潔に表現されています。「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われたのです」(エフェソ二・八)。
 このように相続が信仰に基づく結果、無条件に無資格の者に与えるという神の恩恵によって、終末的な救済の約束がアブラハムのすべての子孫に実現するのです(一六節前半)。そして、「アブラハムのすべての子孫」とは誰かが、改めて定義されます。「子孫」とは、「律法に基づく者だけでなく」、すなわちモーセ律法の枠内にいるユダヤ教徒だけでなく、その枠を超えて異邦諸民族をも含め、「アブラハムの信仰に立つ者」すべてを含むことになります。「アブラハムはわたしたち(イエス・キリストを信じる)すべての者の父なのです」(一六節後半)。
 こうして、「アブラハムの子孫」という表現は、ユダヤ教とはまったく別の内容を与えられます。ユダヤ教では当然「アブラハムの子孫」とはユダヤ人、ユダヤ教徒だけですが、この福音によって、アブラハムの信仰に立つすべての民族の者に及ぶことになります。「わたしはあなたを多くの民の父として立てた」(創世記一七・五)と書かれている聖書の言葉は、このような形で実現したのです(一七節前半)。

アブラハムの復活信仰

 では、「わたしたちすべての者たちの父」としてのアブラハムの信仰とはどのような質の信仰なのでしょうか。それが、「アブラハムは死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じ、その神のみ前でわたしたちの父となったのです」(一七節後半)という文で描かれます。アブラハムの信仰とは「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神を信じる」信仰なのです。
 ここで神はまず何よりも「死者を生かす神」という名で呼ばれています。この「死者を生かす神」というのは、直接には、アブラハムが、子を得るためには自分も妻のサラも死んだ者であるが(一九節参照)、神は自分たち死んだ者を生かして子を与えてくださると信じたことを指しています。子を生むことはいのちの最大の働きであり証明です。「ヘブライ人への手紙」(一一・一七〜一九)は、アブラハムがイサクを捧げようとしたことも、「神が人を死者の中から生き返らせることができると信じた」行為であるとしています。
 しかし、長い歴史を経て、当時のユダヤ教では終末時の死者の復活が正統信仰の内容となっており(ヨハネ一一・二四参照)、会堂で唱えられる十八連祷の第二の祝福でも、イスラエルの神は「死者を生かす者」と讃美されるようになっていました。パウロはこの祝祷の表現をそのままここに用いているのです。こうして、アブラハムが死んだ体の自分が生かされて子孫が与えられるという約束を信じたことは、いま主イエスの復活を信じ(二四節参照)、その復活者キリストの福音によって死者の復活を信じている「わたしたち」の復活信仰の原型となったのです。

ユダヤ教における復活信仰形成の歴史については、拙著『パウロによるキリストの福音U』の「第六章 死者の復活」で簡単に触れていますので、そちらを参照してください。

 また、アブラハムは「存在しないものを存在へと呼び出す神」を信じたとされています。これも直接には、アブラハムが、存在するはずのない子孫を存在するように呼び出される神を信じたことを指しています。神が天地の万物をその言葉によって創造されたことはイスラエルの基本的な信仰ですが、パウロの時代のユダヤ教では、創造者としての神がこの「存在しないものを存在へと呼び出す神」という表現で讃美されていました。パウロはその表現を用いて、アブラハムの信仰が「わたしたち」の創造信仰の原型であることを指し示しているのです。

この「存在しないものを存在へと呼び出す神」という表現は、当時のユダヤ教の中で、シリヤ語バルク黙示録二一・四、四八・八や、その他「世界の創造について」などのフィロンの著作にも多数見られます。創造者としての神を「存在」という用語で表現することは、主(ヤハウェ)の名を「わたしは存在する者である」《エゴー・エイミ・ホ・オーン》と訳した七十人訳ギリシャ語聖書(出エジプト記三・一四)から始まっていると見られます。ギリシア思想では、神は究極の存在と理解されていたからです。しかし、ヘブライ語の《エヒエー》する方としてのヤハウェは、「存在」という語では表現できません。これは、ユダヤ教がギリシア思想と遭遇し、ギリシア語で表現されるようになるヘレニズム期のユダヤ教にとって避けられない変貌でした。この間の消息については、有賀鉄太郎『キリスト教思想における存在論の問題』が明らかにしています。

 ところで、ユダヤ教とアラブ版ユダヤ教であるイスラーム(わたしはイスラームをアラブ世界に展開したユダヤ教であると見ています)においても、アブラハムは自分たちの先祖であるとされていますが、それは、諸々の偶像を捨てて唯一の神に帰依した最初の改宗者であり、最初に唯一神を宣べ伝えた預言者として、唯一神を礼拝する自分たちの先祖であり原型であるとされているのです。それに対して、キリストの福音は、唯一神を礼拝するという点ではユダヤ教とイスラームと同じですが、その唯一神を「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神」と宣べ伝えるのです。すなわち、アブラハムを最初に「死者の復活」を信じた人物として、自分たちの父祖とするのです。
 「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神」を信じるというのは、創造信仰と復活信仰の両方を含みますが、この両者が実は一つであることを、わたしはこれまで機会あるごとに強調してきました。イスラエルが長い苦難の歴史を通して形成してきた万物の創造者としての唯一神の信仰は、実は福音の復活信仰を準備するためであったのです。イエスの復活を終末時における「死者の復活」の初穂として信じる福音的復活信仰(コリントT一五章)は、創造信仰の上に成り立っています。復活は終わりの時における創造です。神の救済史における終わりの創造です。「復活は創造の冠」なのです。パウロはここで、アブラハムをこのような復活信仰に生きた最初の人物として、「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神のみ前で、わたしたちの父となったのです」とします。そして、このアブラハムの復活信仰の実際の姿を、次の一段(一八〜二二節)で描くのです。

イエスの復活を終末時における「死者の復活」の初穂として信じる福音的復活信仰について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音U』の「第六章 死者の復活」の中の「第三節 初穂キリスト」を参照してください。

望みに逆らって望む信仰

 「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神」を信じたアブラハムの信仰が、実際にはどのような姿で現れたのかが、続く次の一段(一八〜二二節)で語られます。一言で言えば、「アブラハムは希望に逆らいつつ希望に立って信じた」のです。このことはアブラハムの生涯の重要な局面でいつも現れています。たとえば、主の言葉に従って故郷を捨て見知らぬ土地に向かって旅立ったときや、ひとり子イサクを祭壇に捧げようとしたときなどです。しかし、パウロはここで、アブラハムの信仰の典型的な場合として、生まれるはずのない子が生まれたというイサク誕生の物語を取り上げます。アブラハムは、「希望に逆らいつつ希望に立って信じ」抜くことによって、イサクを得、「あなたの子孫はこのように(空の星のように)なる」(創世記一五・五)と言われていたとおりに、多くの民の父となったのです。
 さて、「希望に逆らいつつ」というのは、将来によきことを期待する根拠が何もない状況を指しています。イサク誕生の場合では、その状況は「彼はおよそ百歳になっていて、自分の体がすでに死んでしまっていることと、サラの胎が不妊であることを知りながらも」(一九節)と記述されています。この状況では、子が生まれる可能性はありません。人間の側には、子が生まれる根拠は何もないのです。むしろ、子が生まれることはありえないという根拠が、自分の体が男性の生殖能力という点から言えば「死んでしまっている」ことと、妻の「サラの胎が不妊である」ことと、二つも重なっています。それでもなお、アブラハムは「希望に立って信じた」のです。
 この場合「希望に立って」というのは、「神の約束の言葉だけを根拠にして」ということです。その約束はすでに創世記一五章で「あなたの子孫はこのように(空の星のように)なる」と語られていましたが、創世記一八章(一〇節)ではさらに具体的に「来年の今ごろ、サラに男の子が生まれている」という形で与えられています。アブラハムは子が生まれる可能性がないことを十分に知りながら、それが主の約束の言葉であるという理由だけで、自分の将来を約束された方に「完全に委ねた」のです。これがアブラハムの信仰です。子が生まれる可能性がないという人間の側の状況を根拠にして、神の約束を疑い動揺することが「信仰が弱くなること」であり、神の約束を否定して当てにしなくなることが「不信仰」です。アブラハムは信仰が弱くなることはなく、不信仰によって神の約束を否定することなく、むしろ、「信仰によって強められ」、すなわち、自分の側の根拠にいっさい目を向けることなく、約束された神の信実という事実だけを根拠にして(これが信仰です)、自分の将来を完全に神に委ねたのです。このように、神の側の信実とか慈愛という神の本質だけにいっさいを委ねることを、「神に栄光を帰す」というのです。自分の能力とか、誠実さとか、意志力とか、いっさいの自分の側の根拠が否定されて、ただ約束を実現してくださる神の信実と能力だけをあがめていることになるからです。この「絶望の望」、「絶信の信」だけが、神に栄光を帰し、神をあがめる人間の姿なのです。なお、二一節の「神は約束されたことを成し遂げることもできる」という文の「も」という表現は、約束の言葉を実行するという神の信実だけでなく、神には人間の目には不可能なことも成し遂げる力があると信じたことを指していると理解できます。
 このような質の信仰が、「彼に義と認められた」のです(二二節)。こうして、ここでは「その信仰が彼に義と認められた」というときの「信仰」が復活信仰であることが強調されていることになります。これは、イエス復活の告知と、その上に立つ福音を受け入れないユダヤ教に対するパウロの反駁です。パウロはその議論を、創世記のアブラハムの記事を用いてするのです。すなわち、律法《トーラー》によって福音を論証するのです。このように理解された律法が「信仰の律法《トーラー》」なのです。そして、このように「義と認められた」アブラハムの信仰が復活信仰であることを明らかにした上で、次の一段(二三〜二五節)で、それが「主イエスを死者の中から復活させた方を信じるわたしたち」のための範例であることを指し示して結論とします。

主イエスを信じる者たちのための範例

 以上で見てきたアブラハムの信仰とは、前半(一〜一二節)では「不信心な者を義とする方」を信じる信仰でした。そして、後半(一三〜二二節)では「死者を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神」を信じる信仰でした。このような質の信仰が、「彼に義と認められた」と書かれているのは、実は現在「主イエスを信じているわたしたち」のためであることが最後に明らかにされて(二三〜二五節)、アブラハムに関して語られたこの四章が締め括られます。
 ここで現在イエス・キリストに属している者たちが、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じるわたしたち」と規定されています(二四節)。この表現は、最初期の宣教の中心がイエスの復活であったことを、あらためて思い起こさせます。パウロは「わたしたちの宣べ伝えている信仰の言葉」について、このローマ書でこう言っています。「あなたの口でイエスは主であると言い表し、あなたの心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じるなら、救われるのです」(一〇・九)。「口でイエスは主《キュリオス》であると言い表す」ことと、「心で神がイエスを死者の中から復活させたと信じる」ことは一体です。イエスは復活して天に上げられ、すべてのものの上にある《キュリオス》とされたのです(フィリピ二・六〜一一)。
 では、なぜイエスを復活者《キュリオス》と信じることが救いとなるのでしょうか。それは、まさにこの主《キュリオス》であるイエスが「わたしたちの罪過のために渡され、わたしたちの義のために復活させられた」からです(二五節)。主イエスの十字架上の死と復活が、「わたしたちの罪過のため」、「わたしたちの義のため」であるからこそ、この主イエスを信じて、主イエスに結びつく「わたしたち」が救われるのです。
 ここで、イエスの復活は、十字架刑によって処刑されたイエスが実は神から世界に遣わされた救済者であることの確証であるというだけでなく(最初期のケリュグマはこの点を強く主張していました)、復活されて《キュリオス》とされた方の死が「わたしたち」にとって何を意味するのか、「わたしたち」とどう関わるのかが明白に、しかもこれ以上簡潔にできない仕方で語られているのです。

二五節の文言は、用語の点ではパウロ的ではありません。「罪過」と訳した語は複数形で、普通ユダヤ教で律法に違反する諸々の行為について用いられます。用語も、パウロが「罪」に言及するときに通例単数形で用いる「罪」《ハマルティア》という語とは別の語です。また、「渡され」という表現は(パウロではここと八・三二だけ)、裏切り者とかユダヤ人によってイエスが異邦の支配者の手に「渡される」とか(とくに福音書に多数)、死に「渡される」という場合に用いられています(たとえばコリントT一一・二三)。このような用例から見ると、パウロは受難伝承とか主の晩餐伝承を下敷きにしている可能性が高いと言えます。しかし、キリストの復活がわたしたちを義とするためであることは、伝承には見当たりません。それで、二五節の二肢並行法で並ぶ文全体は、伝承の引用である(ケーゼマン)のか、パウロ独自の文であるのかが議論されています。「パウロが伝統的なモティーフを受領しつつ、この文章を自ら記した」(ウィルケンス)と見ることもできます。いずれにせよ、パウロはローマの信徒たちには親しみ深い表現を用いて、この章で展開したアブラハムに関するパウロ独自の主張を締め括ります。

 主イエス、すなわち復活されたイエスが苦しみを受け、十字架につけれられて死なれたのは、「わたしたちの罪過のため」なのです。「わたしたちの罪過のために渡され」という表現には、あきらかにイザヤ書五三章の「主のしもべ」の姿が反映しています。イザヤ書五三章は全体として、神が「しもべ」を苦しみと死に引き渡され、「しもべ」は神の御心に従って、多くの人の罪を負って死ぬことを語っています。イエスの復活後、主《キュリオス》とされたイエスが十字架上に死なれたのはなぜなのか、弟子たちはこの謎を解決していただこうと必死に祈ったと思われます。御霊の力強い働きと導きの中で、ユダヤ人の弟子たちは日頃親しんでいる聖書(旧約聖書)に、このことがすでに語られているのを見出したのです。その中でイザヤ書五三章はもっとも重要な箇所であり、この旧約聖書の預言と聖霊の働きの中で、「キリストは、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死に」(コリントT一五・三)という福音の基本的な告知(ケリュグマ)が確立したのです。この福音の告知は、ごく初期に(おそらくエルサレムの原始教団で)確立しており、パウロもそれを「受けた」のです(コリントT一五・三)。
 「わたしたちの罪過のために渡され」という表現がイザヤ書五三章から来ている以上、「わたしたちの罪過のために」という句は、わたしたちの罪過「が原因となって」という意味であることは明らかです。ところが、この句と正確に並行する形で、「わたしたちの義のために復活させられた」という句が並びます。用いられている前置詞も、同じ「のために」《ディア》です。しかし、こちらの「のために」《ディア》は、原因ではなく、目的とか結果・効果を示す前置詞と理解しなければなりません。すなわち、主イエスはわたしたちが義とされるために復活された、あるいは、復活してわたしたちを義としてくださった、という意味です。
 こうして、パウロは主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事全体に、罪の下にいるわたしたちを義とする神の働き、すなわち「神の義」を見るのです。これは古い定型的な福音伝承(ケリュグマ伝承)と比べると、パウロの独自性が出てきています。古い福音伝承では、イエスの復活は刑死したイエスを主キリストと認証する神の終末的主権行為であり、それによって死者の復活を内容とする新しいアイオーンの救いの時が始まっており、信じる者はキリストに属することによってそれにあずかることを告知するものでした。このことはコリントT一五章で、パウロも「初穂」という語を用いて力をこめて主張しています。しかし、ここではキリストの復活も、十字架と一つになって、罪人を義とする神の働き、すなわち「神の義」の啓示の出来事とされています。
 パウロは、すでにこれまでに福音の宣教において、十字架を経たキリストの復活、すなわちキリストの十字架と復活の出来事全体を、神の義を啓示する出来事として語ってきました(ガラテヤ三・一)。ここでそれが伝承を下敷きにした定型的な表現で要約されます。これは、パウロ自身がコリント書(T二・二)などで自分の福音の核心だとしている《クリストス・エスタウローメノス》(十字架につけられたままの姿の復活者キリスト)の別の表現です。復活された《キュリオス》キリストが、現在わたしたちの罪のために死なれた死を身に負って現れてくださり、宣べ伝えられているのです。そのキリストにある者を、神はアブラハムに語られたように、義と認めてくださるのです。

パウロのアブラハム論の特異性

 パウロがここ(四章)で展開しているアブラハムについての律法理解(聖書解釈)は、最初期のイエス・キリストの宣教運動の中では特異なものです。今でこそキリスト教世界で、パウロのアブラハム論は当然のように受け取られていますが、パウロの時代では、イエス・キリストを信じる者であれば、誰でもこう理解するという一般的な理解ではありませんでした。
 イエスを主《キュリオス》・キリストと信じ告白する運動は、最初期にはユダヤ人の間で拡がり、その信仰が異邦人に及ぶようになっても、指導的な立場にある者はみなユダヤ人でした。そして、ほとんどのユダヤ人指導者たちは、それまでのユダヤ教のアブラハム理解を受け継いでいて、そこから出ることはなかったのです。ユダヤ教の理解によると、アブラハムは主の言葉への従順の行為によって義とされました。そのことは、当時のユダヤ人キリスト教の思想を代表する一例と見られる「ヤコブ書」によく表れています。ヤコブ書はこう言っています。

 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。(ヤコブ二・二〇〜二四)

 この「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという(従順の)行いによってである」という理解は、当時のユダヤ教における共通の理解であったのです。それに対してパウロは、「アブラハムが行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができますが、神の前ではできません」(二節)と、はっきり反対の立場をとります。このようなパウロの立場については、多くのユダヤ人指導者たちは反対し、パウロのよき理解者であり同労者であったバルナバや、パウロに好意的であったペトロは、困惑したのではないかと思います。
 エルサレムの使徒会議のとき、割礼問題ではパウロの側に立ったバルナバとペトロも、アンティオキア集会の共同の食事の問題で決裂します。この時にアブラハム理解が問題になったかどうかは分かりません。しかし、ダマスコ体験から十数年も経っているという時期では、パウロはすでにガラテヤ書三章やローマ書四章で展開しているようなアブラハム理解を十分確立していたと考えられます。もしパウロが聖書を根拠にするこのような議論で、バルナバやペトロを説得できていたら、あのアンティオキアの決裂もなかったのではないかと推察されます。まして「主の兄弟ヤコブ」に率いられるエルサレムの保守的なユダヤ人教団を説得することはできず、パウロの福音宣教は彼らから出る激しい反対運動に悩まされることになります。ここに示されているようなパウロのアブラハム理解、律法解釈、「信仰の律法」の立場は、当時のキリスト宣教運動の中では特異であり、孤立していたと見られます。
 それでも、パウロはいまローマに行く前に、何とかしてローマのユダヤ人指導者には理解してもらわなくてはならないと感じて、このアブラハムについての章を書きます。執筆事情のところで述べたように、パウロの念頭には反対派の拠点であるエルサレム教団があることも事実でしょう。パウロは、聖書に立つユダヤ人指導層に何としても「律法と無関係の神の義」、「信仰による義」を理解してもらいたいのです。パウロはここで、キリストにあって御霊によって与えられてきた律法理解(聖書解釈)を、渾身の力をこめて書きつけるのです。