市川喜一著作集 > 第12巻 パウロによる福音書 ― ローマ書講解T > 第13講

第五章 いのちの御霊

はじめに

 七章で律法の下にある人間の分裂を描き、肉に売り渡され、罪の支配の下にある人間の悲痛な呻きを自分の呻きとして発したパウロは、その苦悩のどん底から一転して、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と感謝と賛美の声をあげます。この劇的な転換を経て、パウロは切れ目なく「キリスト・イエスにあるいのちの御霊」の世界を告白していきます。それが八章です。七章(七〜二四節)に描かれた「アダムにある」人間の現実と対比して、八章(一〜三〇節)で「キリストにあって」いのちの御霊に生かされている人間の姿が、溢れるような筆致で描かれます。そして、パウロは最後に(八・三一〜三九)、キリストにあってそのような救いと勝利を与えてくださった神の愛を讃える勝利の凱歌を謳い、第二部を締めくくります。
 このようにローマ書八章は、第一部と第二部を通してここまで語られてきたキリストにおける神の救いの御業の頂点です。八章はローマ書の頂点をなすだけではなく、実に「キリストの福音」の内実がどのようなものであるかを、最も詳細にかつ正確に語っている章として、全新約聖書の白眉です。もっとも頂点は裾野があってはじめてその意味をもつのですが、この頂点から見るとき、「パウロによるキリストの福音」の全容が美しく見渡せるようになります。その意味で、ローマ書八章は全パウロ文書理解の鍵であるとも言えます。



第一節 御霊のいのちによる解放

18 御霊によるいのち (8章 1〜11節)

 1 このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません。2 キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。3 肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを、神はなしとげてくださったのです。すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪されました。4 それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです。
 5 肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向します。6 肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です。7 肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです。8 肉にある者たちは神を喜ばすことはできません。9 ところで、あなたがたは、神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり、肉の次元にいるのではなく御霊の次元にいます。キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません。10 キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです。11 イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださいます。

御霊による解放

 現在わたしたちに伝えられているテキストでは、八章は「このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません」(一節)という文で始まっています。しかし、章分けは後世の学者の仕事ですから、原典を理解する上でこだわる必要はありません。前回の講解で述べたように、この八章一節は(七章二五節後半の文と共に)括弧に入れて、「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と、七章二五節前半と八章二節は続けて読むべきであり、この文が八章を開始するのです。七章で描かれてきた「アダムにある」人間の悲惨は二四節の「わたしはなんと惨めな人間でしょう。この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」という悲痛な叫びで締めくくられます。こうして一切の光が消え失せた暗黒の舞台に、突如「わたしたちの主イエス・キリストによって神に感謝します」とキリストを賛美する声が響き渡り、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放したからです」と、いのちの御霊の光が差し込んで来て、舞台は一転します。こうして七章の暗闇の舞台は、この言葉を軸として回転し、八章の御霊の光が満ちあふれる舞台となります。この転換こそが「キリストの福音」の核心です。
 このように、八章一節の「このゆえに、キリスト・イエスにある者に断罪はありません」の「このゆえに」は、先行するどこかを受けているのではなく、二節の「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放した」という出来事の結果を指しており、一節は二節へのコメントとして(おそらくもともと欄外に)添えられた文として自然に理解できます。この場合の「断罪」は、終末の審判において永遠に神から切り離されることが確定することを指しています。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からわたしを解放した」のであるから、「このゆえに」キリスト・イエスにある者には永遠の断罪はないと言えます。
 ところで、この二節につけられたコメントとしての一節の文言は、はからずもパウロの救済論の特色をよく浮かび上がらせてくれています。初期の福音宣教においては、終末の審判が迫っていることが強調され、救いとはその終末の裁きで無罪判決を得て、来るべき栄光の国に入れられることだと一般に理解されていました。それは、パウロ自身も宣べ伝えていた救いの一面です(テサロニケT一・一〇を参照)。それで、二節のパウロの言葉を読んだ初期の信徒は、そこに終末審判における無罪判決の根拠を見いだし、大いに喜んで「だから、キリストに属する者には断罪はないのだ」と叫んだのではないかと想像できます。そのような理解自体は間違いではありません。その通りです。ところが、ここでのパウロの本文では、終末審判の無罪判決は視野に入っていません。あくまで、「この死のからだから誰がわたしを救い出してくれるのでしょうか」という叫びに応えて、キリストが、正確にはキリストにあって神が、あるいはキリストにあるいのちの御霊の律法が、人間を「罪と死の律法から解放してくださった」ことが、救いとして賛美されているのです。「解放した」は過去形です。ここでは、「救い」はキリストにあってすでに起こった「解放」の出来事です。パウロは七章と八章を対比し、その転換をなす八章二節が描く「解放」を救いとして提示するのです。たしかに八章には、この救いに含まれる将来への希望が熱く語られています。しかし、「救い」そのものは、ここで示されているように、罪と死の支配からの「解放」です。そして、その解放はキリストにおいてすでに起こった事実であり、キリストにある者の現在の体験なのです。
 キリストの福音が告知する「救い」とは何かと問われるならば、わたしは躊躇なくこのローマ書八章二節の言葉で答えます。ただその際、わたしたちは律法(ユダヤ教)の下にいるのではなく律法の外にいるのですから、「律法」という用語を使う必要はありません。八章二節でパウロが言っていることは、わたしたちはこう表現することができます。すなわち、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の働きが、わたしたちを罪と死の支配から解放した」、この解放が救いだと言えます。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の力またはその働きが、罪と死が支配している現実からわたしたちを救い出してくださったのです。
 福音はキリスト・イエスを救い主とし、キリスト・イエスがわたしたちを救ってくださったと告知します。その通りです。しかし、そのキリストはどのようにしてわたしたちを救ってくださったのかというと、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊が、わたしたちを罪と死の支配から解放した」と言わなければなりません。この御霊の働きがなければ、「キリストが救ってくださる」という福音の告知はたんなる言葉だけのスローガンになってしまいます。「キリストにあって」、すなわち、わたしたちがキリストに結ばれることによって、「キリストにある」場に働く神の御霊の力を受けてはじめて、救いは現実の体験となるのです。
 キリスト・イエスにあって働く神の御霊は、わたしたちを罪と死の支配から解放して「いのち」《ゾーエー》を与える力ですから、「いのちの御霊」と呼ばれます、そして、パウロは八章全体で、この「いのちの御霊」がどのように働くのか、また、この「いのちの御霊」よって与えられる「いのち」《ゾーエー》がどのような姿をもってわたしたちの人生に現れるのかを描きます。八章は「いのちの御霊」の章となります。

 「命の霊」という句はエチオピア語エノク書六一・七に出てきており、その内容はエゼキエル三七・五にある「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る」という時の「霊」を指しています。しかし、パウロはこのような箇所を出典として用いているのではなく、自分が体験した御霊の働きを語り出すとき、自然にこのような表現を用いないではおれなかったのだと見られます。

神の非常手段

 この「いのちの御霊」の働きとして、パウロは最初に、「御霊に従って歩む」ことによって律法の本来の目的が実現することをあげます(三〜四節)。パウロはあくまで、律法の下にあり、すべてを律法の観点から考えるユダヤ人(ユダヤ教徒)に御霊の働きと意義を説きます。
 パウロはすでに七章で、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、善いもの」であると言明し、さらに一般のユダヤ教の律法観を超えて「律法が霊的なもの」であるとさえ述べていました。そして、本来「いのちに導くはずの戒めがかえって死に導く」という現実は、人間が「肉に属する者であり、罪の支配の下に売り渡されている」結果であると見抜いていました。その事実をここで、「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったこと」(三節前半)と要約します。

 三〜四節は、原文では複雑で長い一文で、しかも文章として不完全ですので、そのままでは理解困難です。「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったことを」(三節前半)とあるだけで、それを(三〜四節の主語である)神がどうされたのか記述がありません。それで、(ほとんどの現代語訳がしているように)「神はなしとげてくださった」という原文にはない句を補った上で、全体を三つの文に分けて訳しています。

 律法は本来人間を「いのち」に導くはずでした。ところが、わたしたち人間はみな生まれながら自我心の塊で、神に背く高ぶりに陥っています。パウロはこの生まれながらの人間の本性を「肉」と呼びます。この人間本性のために、いのちに導こうとして神が与えられた律法は、その本来の目的を達することができなくなっていたのです。かえって律法は人間の高ぶりと背神を推し進める結果になっていました。こうして、肉のために律法が果たしえなかった本来の目的を、神は別の方法で、いわば非常手段を用いて成し遂げてくださったのです(ただし、この非常手段は、世の始めから予定され、終わりの時に至って世に現れたものです)。その非常手段とは、「すなわち、神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪された」ことです(三節後半)。
 すでに初期のケーリュグマ(福音告知の定式)は、パウロも引用している通り(コリントT一五・三〜五)、イエスの十字架の死を「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」出来事だと宣べ伝えていました。パウロはこのケーリュグマの内容を、彼自身の言葉で、さらに正確な表現でここに提示します。
 まず、地上のイエスは、神が御自身の御子を地上に「遣わされた」姿であることが語られています。女から生まれたイエスが神から遣わされた御子であることは、パウロはすでにガラテヤ書(四・四)でも言及しています。ところで、「遣わされた」方は、遣わされる前に神と共にいました方であることが前提されています。この「派遣キリスト論」は必然的に、神と共にいます以上、世界が造られる前からいます方であるという「先在のキリスト論」へと展開します。このようにイエスをすべてに先だっていました神の御子が人間の姿をとって現れた方であるとする信仰告白は、すでにパウロが手紙を書く頃までにヘレニズム世界の共同体で成立し(フィリピ二・六〜一一)、後にヨハネ福音書の中心主題となりますが、パウロはその信仰をここで自分の言葉で表現するのです。
 イエスは先在の神の御子が「人間と同じ者になられ、人間の姿で現れ」た方であるというキリスト賛歌の部分(フィリピ二・七)を、パウロは「罪の肉と同じ姿で」と表現します。人間本性(肉)を罪と見るパウロにとって、「人間と同じ者になられた」とか「人間の姿で現れた」というのは、イエスがわたしたちと同じく罪を本性とする人間性をもって地上の生を生きられたことを意味します。イエスが罪を本性とする人間であるという結論を避けるために、「同じ姿」《ホモイオーマ》を「似ている形」と理解して、外見は似ているが本質は罪とは関係のない神性をもつ方とする解釈がありますが、このような無理な解釈は必要ありません。それはパウロの贖罪論(救済論)の真剣さを壊すだけです。イエスがわたしたちと同じ本性をもつ人間であるからこそ、「罪の肉」にあるわたしたちと一つになって、わたしたちを罪の支配から救い出すことができるのです。神の子としてのイエスの独一性は、「罪の肉」の中にありながら、完全に御霊に従うことにより、罪を克服されたところにあります。
 この神が御自身の子を「罪の肉と同じ姿で遣わされた」事実に、「かつ罪のために」と派遣の目的が付け加えられます。ここに用いられている前置詞は「〜について、〜に関連して」の意味であり、ここでは「罪に関連して」とか「罪の問題を解決するために」という意味に理解してよいでしょう。神が御自身の御子を「罪の肉と同じ姿で」人間の世界に遣わされたのは、まさにそのことによって人間の本性となっている罪の問題を解決するためであったのです。ここ(三節)の「罪」はみな単数形です。ケーリュグマが「諸々の罪科(複数形)のために」と個々の律法違反の行為を指し、かつ「〜に代わって」という意味をもつ前置詞を用いて、ユダヤ教の贖罪祭儀を背景に語っているのと比べると、パウロは罪(単数形)を人間本性の問題としてさらに深く見ていることが分かります。

 この「罪のために」という箇所を、「罪の供え物として」とする読み方もあります(RSV欄外)。これは旧約聖書および当時のユダヤ教で、「罪」《ハマルティア》という語が「罪のための供え物」という意味にも用いられていたからです(レビ記一六章、イザヤ五三・一〇、詩篇四〇・七、ヘブライ一〇・六、八、一八など)。しかし、人間本性を問題にしているこの箇所で、この語の特殊な用法である祭儀的な意味を読み取る必要はないでしょう。

 このように、十字架上に死なれたイエスは神からこの世に遣わされた神の御子であることを述べた上で、そのイエスの十字架の死は「神が肉にある罪を断罪された」出来事であると宣言します。この「神は肉にある罪を断罪された」という文が、複雑で長い三〜四節の主文です。イエスの十字架がたんなる政治犯の刑死とか宗教的な殉教死ではなく、「神が肉にある罪を断罪された」出来事、すなわち神が人間の本性的な「罪」を断罪された終末審判の出来事であるのは、十字架上に死なれたイエスが「神が(終末時に)世に遣わされた神の御子」であり、しかもわたしたちと同じ「罪の肉の姿」を取られた御子であるからです。
 イエスが「神が世に遣わされた神の御子」であるという信仰は、イエスは復活者キリストであるという信仰の一つの表現形式です。「遣わされた御子」という信仰は、逆方向に表現された復活信仰に他なりません。パウロは、「キリストはわたしたちの罪のために死に」というケーリュグマの「(復活者)キリスト」を、「神が世に遣わされた神の御子」と言い換えていることになります。
 しかし、三節の要点は罪と肉の結びつきにあります。イエスが「罪の肉と同じ姿」を取られた御子であるからこそ、イエスの死が「肉にある罪の断罪」となるのです。パウロはすでに七章で、アダムにある人間(生まれながらの人間)の本性を「肉」と呼び、その「肉」は自我心であり、高ぶりによる神からの離反を本性としていること、その結果「肉」に属する人間は罪と死の支配下にあることを描き、そこからの解放を呻き求めていました。今、その人間本性がイエスの十字架において「罪」と断罪されたのです。イエスはアダムにある人間を代表して、十字架の上に神の断罪を受けておられるのです。それは肉(人間本性)にある罪に対する神の決定的な「否」です。

 三節の「肉にある」という句は、「(神は)断罪された」という動詞を修飾する副詞句と理解して、「神は肉において罪を断罪された」という訳も可能です(協会訳、新共同訳、岩波版青野訳)。しかし、「肉において罪を断罪する」という表現は、イエスの受難を身体的な領域に局限するおそれがあります。ここでは、パウロが七章で描いたように、肉に巣くう罪を指していると理解して、直前の「罪」という名詞を修飾する形容詞句として訳します。

 「罪の肉」とか「肉にある罪」という表現が語っているように、パウロは「罪」を個々の規範への違反行為としてではなく、人間本性の問題としていることが分かります。これまでに繰り返し指摘したように、ユダヤ教が個々の律法違反の行為を罪として、罪をいつも複数形で語ってきたのに対し、パウロは罪を一つの支配力として、しかも人間本性に巣くう支配力として単数形で語ります。ここでも、初期のケーリュグマが「キリストはわたしたちの罪(複数形)のために(身代わりの犠牲として)死に」と、キリストの死をユダヤ教の贖罪祭儀の用語で語っているのに対して、パウロはキリストの死を「肉にある罪の断罪」と受け取ります。すなわち、人間本性の中に巣くっている、神に背かせる支配力としての罪が処断され、無効とされ、取り除かれたのです。

御霊による律法の成就 

 このように「肉のために弱くなっているので律法がなしえなかったこと」を成し遂げるために、「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、肉にある罪を断罪された」という非常手段を取られましたが(三節)、最後にその非常手段を取られた目的が明示されます。「それは、律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされるためです」(四節)。このように、御霊の働きの第一に律法が満たされることが上げられるのは、この書簡がおもにユダヤ人信徒(とくにユダヤ主義的な立場の論敵)を念頭において書かれていることを思い起こさせます。
 律法は本来人を「命に導く」ために、すなわちその要求が満たされるならば命を与えるものとして、神から人間に与えられました。律法は聖なるものであり、正しいものです。その要求は「正しい要求」《ディカイオーマ》です。ところが、人間は肉に属する者として本性的に律法の要求を満たすことができません。それで、人間が律法の正しい要求を満たして命を得ることができるように、神は別の道を備えてくださいました。それがキリストであり、そのキリストを告知するのが福音です。「キリストにある」という場では、律法は「いのちの御霊の律法」となって、(肉のために律法を満たすことができず、そのためわたしたちを閉じこめる牢獄となっている)「罪と死の律法」からわたしたちを解放しました(二節)。その解放がどのようにして起こったのかが、この三節と四節で説明されるのです(三節は先行する文を説明する小辞《ガル》で始まっています)。
 わたしたちが「肉に従って歩む」かぎり、律法の要求を満たすことはできません。「御霊に従って歩む」者だけが、律法の要求を満たすことができるのです。なぜそうであるのかは、すぐに続く五節以下で詳しく説明されることになります。ここ(三〜四節)では、わたしたちが律法の要求を満たすことができるようになるために、神が取られた非常手段が語られるのです。すなわち、「神はご自身の子を罪の肉と同じ姿で、かつ罪のために遣わして、(その御子の十字架の死において)肉にある罪を断罪し」、この御子キリストに合わせられて生きる者が、もはや肉に従って歩むことができないようにされたのです。そして、まさにその御子の十字架を受け入れ、その前にひれ伏す者に、恩恵により神の命そのものである御自身の霊を与え、「御霊に従って歩む」ことができるようにされたのです。この神の御子であるキリストに合わせられて人間が生きる場、すなわち「キリストにある」場において、律法は「いのちの御霊の律法」となり、わたしたちを「罪と死の律法」から解放し、人間がもはやその本性である肉に従って歩むのではなく、賜った御霊に従って歩み、それによって律法の正しい要求を満たすことができるようにしてくださったのです。
 この律法の成就は、預言者たちが終わりの日に実現すると予言していたことです。預言者エレミヤは、イスラエルの民の中で続けてきた長年の預言活動の体験から、人間は本性的に神との契約の中で求められていることを守れないのだと痛感し、現在のモーセ契約とはまったく別の契約が与えられる時が来るのを待ち望みました。それがエレミヤの「新しい契約」預言(エレミヤ三一・三一〜三四)です。その「新しい契約」では、律法(神が求められること)がもはや石の板にではなく人の心に記され、その結果、人は外から教えられるのではなく、自分の内に主を知る知識を持ち、内から主の求められるところを行うようになる。また、罪は赦され、神との妨げられることのない交わりが実現する、と預言しました。
 律法が心の中に記されるようになることを、預言者エゼキエルは「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く」と言い、またさらに、「わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる」と語りました(エゼキエル三六・二六〜二七)。このように、預言者たちも人間は自分の力で神の律法を行うことはできず、神からいただく神の霊によってはじめて律法を満たすことができることを語っていました。

 このような預言者の精神をクムラン宗団も継承していたことが、死海文書に見ることができます。たとえば、彼らの代表的な文書である『宗規要覧』には、「私は罪の肉の群れに属し」という表現があり(一一・九)、「神の恵みによって私の義しさは来たり」(一一・一四)、「神の真実の中にある共同体に下された聖霊によってそのすべての罪から潔められ、・・・・・」(三・六〜八)、「(神は)聖霊によってあらゆる悪行から潔め給うのである」(四・二一)という文言があります(訳は日本聖書学研究所『死海文書』から)。パウロがどの程度クムラン宗団から影響を受けていたかは確定困難ですが、興味深い課題です。パウロとクムラン宗団との関係については、拙著『パウロによるキリストの福音T』53頁「エッセネ派の影響」の項を参照してください。

 キリストの十字架・復活が宣べ伝えられ、その福音を信じる者に聖霊が与えられるに及んで、預言者たちが語っていた神の霊による「新しい契約」が実現したのです。パウロは、このキリストの福音を宣べ伝える自分を「新しい契約に仕える」者とし、その働きを「御霊に仕える務め」としています(コリントU三章)。わたしたちは、このキリストの福音を聞いて信じることで、聖霊を受け、その聖霊によって神との「新しい契約」関係に入るのです。そこでは、御霊に従って歩む者たちの中に、神の正しい律法の要求が満たされることになります。

肉の志向と御霊の志向

 パウロは「御霊に従って歩むわたしたち」と言って、「わたしたち」に御霊が与えられていることを前提にしています。この「わたしたち」は、イエスを復活者キリストと信じる者たちを指します。この「わたしたち」は、キリスト・イエスに結ばれ、その「キリストにあって」恩恵により賜る神の御霊によって生きています。キリストに属する者の本質は「御霊に従って歩む」者であることです。

 福音の宣教は、信じる者に聖霊の賜物を与えることを含んでいます。ここでも「信仰に入ったとき聖霊を受けた」ことが前提されています。このことはパウロの手紙のいたるところに見られますが、とくにガラテヤ三章一〜五節の講解を参照してください。

 わたしたちが「肉に従って歩む」とき、すなわち生まれながらの人間本性をそのままにして、自分の力とか努力で神の律法(神の求められるところ)を行おうとすると、七章で描かれたように分裂に陥り、律法は「罪と死の律法」となり、わたしたちを閉じこめる牢獄となります。それに対して、賜った御霊に従って歩むときに初めて、わたしたちは神が求めておられるところを満たすことができるのです。どうしてそうであるのか、その間の消息が五節以下で詳しく説明されます。
 「御霊」《ト・プニューマ》(定冠詞つき単数形の「霊」)は、五章五節で体験的に、そして七章六節で標題的に、他の主題を語る文脈の中で僅かに言及されていました。しかし、ここ八章にきて初めて、キリストにおける神の救いの働きの主役として表舞台に登場します。
 四節の「律法の正しい要求が、肉に従ってではなく御霊に従って歩むわたしたちにおいて満たされる」という主張の理由を説明する五節以下の文が、「それは〜だからである」という意味の小辞《ガル》で始まります。まず、「肉に従っている者たちは肉のことを志向し、御霊に従っている者たちは御霊のことを志向します」(五節)と、肉と御霊の志向が対比されます。

 五節の「志向する」と訳した動詞《フロネオー》は、新約聖書の26回中、パウロが22回使用しており、圧倒的多数を占めています。また六〜七節の「志向」と訳した名詞形《フロネーマ》は、新約聖書ではここ(六〜七節)と八章二七節に4回出てくるだけです。この語は、人間がその全存在をある対象に傾けて生きる姿勢を意味するので、「思う」とか「思い」という訳では十分その意味を伝えることはできません。適切な日本語を見出すことは難しいですが、「志向」という語が近いと考えます。岩波国語辞典は「志向」を「心がその物事を目指し、それに向かうこと」と説明しています。最近はあまり使われない日本語ですが、《フロネーマ》の原意に近いでしょう。「追い求める」と「追求」でもよいかもしれません。

 ここで「肉のことを志向する」と「御霊のことを志向する」は、身体的なことを追求することと精神的なことを追求することとの対比ではありません。食欲や性欲というような身体的な欲望の充足を追求することと、芸術や学問などで精神的・内面的な価値を追求することを対立させて比べているのではありません。「肉のこと」とは、身体的・外面的なことも精神的・内面的なことも含め、生まれながらの人間本性に属するすべてのことです。御霊の次元を知らず、ただ生まれながらの人間本性に基づいて歩む人は、その人生で追求するものが身体的なものであれ精神的なものであれ、結局は人からの誉れとか人間社会での支配力(富や地位など)とか、人間に属するもの、地上のものを目的にしているのです。それに対して、御霊に従って歩む者は、その生涯を通して「御霊のこと」、すなわち御霊がわたしたちに指し示す価値(それは信仰と愛と希望です)を追い求めないではおれません。
 このように肉に従い肉のことを追求する「肉の志向」と、御霊に従い御霊のことを追求する「御霊の志向」が、それぞれどのような結末に至るのかという観点から比較されます。すなわち、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)。「死」が「命《ゾーエー》、すなわち平和」と対照されていることから、この「死」は身体的な死ではなく、《ゾーエー》(永遠のいのち)の反対であり、かつ神との「平和」《エイレーネー》(五・一)の反対であることが分かります。肉の志向に歩む者も、御霊の志向に歩む者も、その身体は同じように死にます。しかし、その人生に現れる霊的質が違ってくるのです。肉の志向が至る先は、神の栄光からの断絶(それがここで「死」と呼ばれています)です。それに対して、御霊の志向が到達するところは、平和(神との絶えることのない交わり)であり、永遠のいのち《ゾーエー》です。六節は、この書簡全体で展開して見せているキリストにある救いと、それを失う滅びを要約して、標語として提示していることになります。
 続いて、なぜ肉の志向は死に至り、どのようにして御霊の志向がいのち《ゾーエー》に至るのかが解き明らかされます(七〜一一節)。「肉の志向は神に敵対し、神の定めに従わないし、そもそも従うことができないからです。肉にある者たちは神を喜ばすことはできません」(七〜八節)。パウロは、肉(人間本性)は神が求めておられることと反対の方向を向いていると見抜いています。そのことはすでにガラテヤ書でこう言っていました。「肉は御霊に反して欲求し、御霊は肉に反して欲求する」(ガラテヤ五・一七私訳)。ですから、肉(人間本性)は神が求めておられることを告げる神の律法、あるいは神の定めに従おうとしないし、そもそもその本性からして従うことはできないのです。従って、御霊なくして、人間本性から発する能力とか意欲だけで生きようとする「肉にある者」は、神の御心にかない、神を喜ばすことはできません。この「肉にある者」が神の聖なる律法に直面したときの苦悩が七章で詳しく描かれたのでした。ここで改めて、人間がその本性によって自己を完成する(真の命を得る)ことができないことが確認され、その上で以下に続く箇所(九〜一一節)で、御霊によってはじめて真実の命《ゾーエー》に至るのであることが説かれます。

「御霊にある」場

 ここでパウロは、ローマのキリスト者に「あなたがた」と呼びかけます。これはローマのキリスト者だけでなく、この書を読むすべてのキリスト者に呼びかけているのです。「ところで、あなたがたは肉の次元にいるのではなく、御霊の次元にいるのです」(原文で九節の初めの部分)。直前の七〜八節で、「肉にある者」は律法を満たして神を喜ばすことはできない、と人間一般の現実を明らかにしましたが、ここでパウロは向きを変えて、キリストに属する「あなたがた」(この語は強調されています)は違う、あなたがたは「肉にあるのではなく、御霊にある」(直訳)のだと、キリストに属する者たちが置かれている特別な場に注目させます。その特別な場とは「御霊にある」という場です。この訳では「御霊の次元にいる」と訳していますが、「御霊の場にいる」と訳してもよいかもしれません。
 パウロは「キリストにある」《エン・クリストー》という表現をよく使います。これはパウロがキリストの福音を語るときの鍵語(キーワード)です。これはキリストに属する者が生きる特別の場を指しています。人間がその本性に従って生きる場は、「アダムにある」と表現されてもよいのですが(アダムとキリストの対応については五・一二〜二一の講解を参照)、この句は実際には用いられません。むしろ、パウロはそれを「肉にある」《エン・サルキ》という句で表現しています。
 この「肉にある」世界のただ中に、神は「キリストにある」という特別の場を備えてくださったのです。復活者キリストは、その十字架の死によって贖罪の業を成し遂げ、世界のただ中に「贖罪の場」として神に立てられたのです(三・二五)。この場こそ、神の御霊、聖霊が働く場です。この「キリストにある」という場に入る者には、聖霊という神の力が及びます。ちょうど、磁場に入ると磁力が及ぶのと同じです。こうして、「キリストにある」という場は、その中に働く力の質で表現すれば、「御霊にある」場となります。「肉にある」場と「御霊にある」場では、その場に働く力の質が違い、その方向が逆方向になります。「肉にある」という場では、律法は「罪と死の律法」になりますが、「キリストにある」という場では、律法も「いのちの御霊の律法」となるのです。
 わたしたちがこのような「御霊にある」という場にいるのは、もちろん、わたしたちがキリストを信じて告白し、キリストに属する者となって聖霊を受けたからです。このことをパウロは、「神の御霊があなたがたの内に宿っているかぎり」(九節の一部)という句で確認します。だいたい、「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません」(九節後半)。キリスト教会に所属していても、キリスト教神学に通じていても、もしキリストの御霊を持っていないならば、その人は「キリストに属する者」(直訳は「キリストのもの」)ではないというのです。

 パウロはここで「神の御霊」を、何の説明もなしに当然のこととして「キリストの御霊」と言い換えています。神の御霊はキリストを通してのみ受けることができる霊であり、キリストを啓示する霊であるので、「キリストの御霊」と呼ばれます。「聖霊」(聖なる霊)と呼ばれることも多くあります。たんに「御霊」(定冠詞つきの単数形)と呼ばれることも多くあります。《プニューマ》は、「神の」とか「キリストの」とか「聖なる」(神に属する)という限定句がつくときは「霊」と訳してもよいのですが、パウロ書簡では単独で用いられるときでも神の霊を指すことがほとんどですので、(明らかに他の霊を指す特別の場合以外は)原則として「御霊」と訳します。

 「キリストに属する者」を短縮して、「キリスト者」と呼んでもよいでしょう。「キリスト者」とは、パウロによれば、「キリストの御霊」を持っている者、「神の御霊」を内に宿している者です。この御霊を持たない者は「キリスト者」ではありません。こう言うのは、何らかの霊的体験を基準にして、そのような霊的体験がある者だけを「キリスト者」とし、それのない者を除外するためではありません。パウロも「持つ」とか「宿す」という動詞を使っていますが、それは人間の表現の限界から来るやむを得ない表現です。御霊は、人間が獲得したり所有したり保管したりすることができる方ではありません(ヨハネ三・八参照)。人間は御霊の働きを受けることができるだけです。そして、誰でも「キリストにある」場に入るならば、その御霊の働きを受けるのです。このように御霊がわたしたちの内に働いてくださっている現実を、パウロは「御霊を持つ」とか「御霊を宿す」と表現しているのです。パウロはその現実を指し示して、キリストにある者たちに自分が「肉にあるのではなく、御霊にある」ことを自覚させようとしているのです。たとえば、学生に向かって、「学ぶ意志のある者が学生である。学ぶ意志のない者は学生ではない。君たちが学生であるかぎり、学ぶ意志に従うのが当然だ」と励ますように、パウロはキリスト者に御霊の場にある者であることを自覚させ、御霊に従って歩むように励ますのです。

内にいますキリスト

 パウロは「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではありません」(九節後半)と言って、キリスト者はキリストの御霊によってキリスト者であることを確認しました。その「キリストの御霊を持たない者」と対照して(一〇節は対照を示す小辞《デ》で始まっています)、「キリストがあなたがたの内にいますならば」と、キリストの御霊を内に宿す者の在り方を描きます。すなわち、「キリストがあなたがたの内にいますならば、体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命であるのです」(一〇節)
 ここでキリスト者の姿を描くのに、九節では「神の御霊が内に宿っている」とか「キリストの御霊を持っている」と言われていたのが、ここでは「キリストが内にいます」という表現で語られていることが注目されます。パウロにとって、神の御霊は当然キリストの御霊ですが、そのキリストの御霊を持つことが、さらに「キリスト」御自身を内に宿すことと言い換えられています。それは、パウロにとって「キリスト」とは霊なるキリストであるからです。パウロにおいては「主はすなわち御霊なり」(文語訳コリントU三・一七)です。したがって、九節の「キリストの御霊」というときの、「キリストの」は同格の二格として、「キリストという霊」と理解してもよいでしょう。

 パウロが「キリスト」と言うとき、御霊として働いておられる復活者キリストを指していることについては、拙著『キリスト信仰の諸相』の第一部「キリストの諸相」第二講「霊なるキリスト――パウロのキリスト告白」を参照してください。

 このように、キリスト者とはキリストの御霊、あるいは霊なるキリストを内に宿す者ですが、この現実に生きるキリスト者は、「体は罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえに命である」のです。霊なるキリストが内にいてくださるキリスト者も、その体はキリストの外にいる人たちと同じように死にます。また、その肢体の中には「欲する善を行わないで、欲しない悪を行う」という「罪の律法」が巣くっていて、わたしを死に追いやる「死のからだ」であることを嘆かないではおれません(七章)。このように、わたしたちが生物学的な死を超える命の希望を持ち得ないで、この身体的存在を「死のからだ」として嘆かざるをえないのは、わたしたちがいのちの根源である神に背いている「罪のゆえに」です。
 しかし、感謝すべきことに、キリストに属する者にはもう一つの別の現実があります。すなわち、「御霊が義のゆえに命である」という現実です。神から恩恵として賜った義によって、御霊が命《ゾーエー》としてわたしたちの内に宿ってくださっています。義とされなければ、聖なる御霊がわたしたちの内に宿ることはできません。キリストにあって恩恵により義とされたので、御霊がわたしたちの内に、わたしたちの新しい命《ゾーエー》となって宿ってくださっています。

 一〇節後半は、「〜である」という繋辞なしで、「体は死、《ト・プニューマ》は命」と並べられているだけです。ここでも《ト・プニューマ》(定冠詞付きの霊)は神から賜っている霊、「御霊」と理解すべきであると考えます。すなわち、「(あなたがたの)罪によって体は死んでいるが、(神からの)義によって御霊こそが(あなたがたの内にあって、あなたがたの)命である」という意味に理解します。これを「霊」と訳しますと、「体は死、霊は命」となって、「肉体は死ぬが、(人間に固有な生来の)霊魂は(死なないで)生きる」という、霊魂不滅を唱えているという誤解に導く危険があります。
 たしかに、《プニューマ》には霊一般や人の霊を指す場合があり、パウロも八章一六節で御霊とは別の「わたしたちの《プニューマ》」という表現を用いています。しかし、パウロ書簡では定冠詞付きの《プニューマ》は、ほとんどの場合「御霊」を指しています。英語では霊一般を指すときは spirit 、御霊を指すときは the Spirit と訳し分けることができます。たとえば、この四〜一一節でRSV(英語の改正標準訳)は、明らかに神の霊とかキリストの霊、聖霊を指すときは the Spirit を用い、その他の場合は本文に the Spirit を用いた上で、欄外の注に spirit を添えています。ということは、RSVもこの箇所の《プニューマ》を御霊と理解して本文を決めていることになります。新共同訳のように霊を「 ”」で囲む表現方法は日本語の表記として問題があります。

復活にいたる命

 次いで、わたしたちの内にあって命である御霊と、わたしたちの死すべき体の関係が次節で展開されることになります。「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊があなた方の内に宿っているならば、キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださいます」(一一節)。
 ここで御霊は「イエスを死者たちの中から復活させた方の御霊」と呼ばれています。福音が世界に宣べ伝える神は、「イエスを死者たちの中から復活させた方」です。世界を創造されただけでなく、イエスを死者たちの中から復活させて、終末的な完成の業を開始された神です。御霊が「神の」御霊であるのは、その霊が死者を復活させる質をもつ「いのちの御霊」であるからです。
 神はイエスを死者たちの中から復活させて、キリストとしてお立てになりました。キリストは復活者として「終わりのアダム」であり、終末時に現れる新しい人類を代表する存在です(五・一二〜二一の講解およびコリントT一五章の講解を参照)。ですから、パウロが「キリストを死者たちの中から復活させた方」と言うときは、そのキリストを初穂として、あるいはそのキリストに含ませて、キリストに属する者たちを死者の中から復活させる神を指し示しているのです。はじめに「イエスを死者たちの中から復活させた方」と言った後で、「キリストを死者たちの中から復活させた方」と言い直しているのは無意味ではありません。それは、わたしたちをも死者の中からの復活に含ませるためであることを見落としてはなりません。
 パウロは「キリストを死者たちの中から復活させた方は、あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」と言います(原文では「あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって」という句は、この文の後に続きます)。初穂であり頭であるキリストを死者の中から復活させた方は、キリストに属する者たちをも死者の中から復活させようとしておられるのです。そのさい、キリストに属するわたしたちは「死に定められた体」あるいは「死のからだ」の中で呻いているのですから、わたしたちの復活は「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」と表現されることになります。
 ここでパウロは「復活させる」ではなく「生かす」という動詞を用いています。ここに用いられている「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、《ゾーエー》(いのち)と《ポイエイン》(造る、為す)という語で出来ています。すなわち、《ゾーエー》を創り出す働きです。この意味は、パウロが復活者キリストを「《ゾーオポイエイン》する霊」(コリントT一五・四五)と呼んでいるところに典型的に現れています。

 ここで用いられている「生かす」《ゾーオポイエイン》という動詞は、人を主語とする自動詞の「生きる」《ゼイン》と違って、神を主語とする他動詞であって、神(またはその霊)が死の状態から《ゾーエー》を創り出して、人を生かすという終末的な意味で用いられる動詞であり、「復活させる」《エゲイレイン》と同じ意味です(ペトロT三・一八)。神は「死者を生かす神」とも呼ばれ(ローマ四・一七)、「死者を復活させる神」とも呼ばれます(コリントU一・九)。この「生かす」と「復活させる」という二つの動詞は同意語として、組み合わせて用いられることもあります。ローマ書のここもそうですが、「父が死者を復活させて命をお与えになる(《エゲイレイン》して《ゾーオポイエイン》される)ように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(ヨハネ五・二一)と用いられています。コリントT一五章でも、二一節で「人によって死者の復活が来る」と言われたのと同じことが、二二節では「キリストにあって生かされる」と表現されています。この動詞は新約聖書に一一回(その中パウロ書簡に七回)出てきますが、そのほとんどが「復活させる」と同じ終末的な意味で用いられています。例外と見てもよいのは僅かで、コリントU三・六の「文字は殺し、霊は生かす」と、ヨハネ六・六三の「生かすのは霊であって」は、やや広い意味で用いられていると見られます。

 神が「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださる」のは、「あなたがたの内に住んでいてくださる御霊によって」です。復活によって「《ゾーオポイエイン》する霊」となられたキリストがわたしたちの中に住んでくださり、わたしたちの中で働いてくださって、わたしたちの「死に定められた体を生かしてくださる」のです。この「生かしてくださる」という動詞は未来形です。「生かす」が復活を含む終末的な出来事である以上、それは未来に待ち望まれる出来事としての性格を保っています。しかし、それがすでにわたしたちの中に住んでくださっている御霊の働きである以上、わたしたちの地上の生の中で現実に始まっています。この段落の初めに出てきた律法を成就する働きも、それによって「死のからだ」の中で呻いている苦しみを克服してくださる働きですし、ときには祈りに応えて、わたしたちの身体の病を癒して死を免れるようにしてくださるのも事実です。
 しかし、パウロが「あなたがたの死に定められた体をも生かしてくださるであろう」と言うとき、やはり終末における死者の中からの復活が念頭にあると考えられます。このローマ書を書いた頃のパウロは、直前のコリント書簡やフィリピ書簡が示しているように、死者の中からの復活に到達することに心が満たされ、熱く燃えています。コリント第一書簡の一五章やフィリピ書の三章を書いたパウロは、このローマ書を書いたときも同じ希望に燃えていることは、この八章の内容自体が示しています。ここの「死に定められた体をも生かしてくださる」という句も、死者たちの復活を指していると理解してよいはずです。
 ところで、この九〜一一節には、わたしたちの中に御霊(あるいはキリスト)がいますことが、「もしいますならば」という形で三回も繰り返されています。この「もしいますならば」は、います場合といまさない場合を分けて、います場合はこうだと言っているのではありません。内に御霊がいまさない場合は初めから問題にされていません。「キリストの御霊を持たない者はキリストに属する者ではない」のです。キリスト者とはその内に御霊を持つ者であるとして語りかけられているのです。すでに大学に入った者たちに、「諸君が学生であるならば」と語りかけるのと同じです。学生に向かって、「もし諸君が学生であるならば、学問をする志に従うべきである」と言うように、キリストに属することによって御霊の働きの場にいる者たちに、御霊によって生かされているとはどういう現実であるかを自覚させようとしているのです。
 この段落では(三節以下)ずっと御霊と肉の対立が問題にされてきました。最後にこの一〇〜一一節で「体」が問題にされます。「体」《ソーマ》は「肉」《サルクス》と混同されてはなりません。パウロにおいては、「肉」は神に敵対する生まれながらの人間本性として全面的に否定されています。それに対して、「体」は神の創造の要素として肯定され、神の救いの働きの対象です。パウロの救済論は「具体的」です。すなわち、神は体を具えた人間全体の救済を備えてくださっているのです。「体」《ソーマ》は現在罪によって「死に定められた」ものになっていますが、最後には「体の贖い」(ローマ八・二三)によって「霊の体」、「栄光の体」に変えられることが待ち望まれるのです(コリントT一五・四四)。肉とは正反対の質のいのちである御霊がわたしたちの内に働くことによって、この体を具えた人間全体が救われます。それが、福音において「死者の復活」の希望という形で表現されるのです。この段落(八・一〜一一)で、御霊は罪と死の支配から解放する力、肉を克服して律法を成就する働き、体を具えた人間全体の救済という終末的希望の源泉として登場します。そして、最後の御霊による終末的希望が、以下に続く段落(八・一二〜三〇)の主要な内容になります。