第三節 神の子の希望
20 やがて現される栄光 (8章 18〜25節)
18 今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています。 19 被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいます。 20 被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。 21 すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です。
22 すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。 23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます。 24 わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです。ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。 25 わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです。
やがて現される栄光
八章に入って、パウロは溢れる筆致で、キリストにあって働く「いのちの御霊」の豊かさを描き(八・一〜一一)、続いてその御霊に導かれて生きる者はみな「神の子」であることを語り、そして「子であるならば相続人でもある」として、キリストに属する者は、キリストと共に、キリストが受けておられる栄光を受け継ぐ共同の相続人であることを語るに至りました(八・一二〜一七)。
しかし、ここに来て、将来栄光を受け継ぐはずの神の子は、現実の世界では苦難を受けざるをえないという定めに触れないではおれなくなります。「キリストと共に栄光にあずかるためにキリストと共に苦しむかぎり」、わたしたちはキリストとの共同の相続人であるのです(八・一七)。続くこの段落(八・一八〜二五)で、現在の苦しみと将来の栄光が対比され、この二つの現実に生きる神の子の「希望」が語られることになります。
まず、「今の時の苦しみ」と「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」が比べられ、パウロは「今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています」と断言します(一八節)。
パウロは基本的に、黙示思想の「二つのアイオーン」の枠組みで思考しています。黙示思想では、神は二つのアイオーン(世、時代)を創造されたとし、悪しき者が支配する「この(古い)アイオーン」では、神に属する敬虔な義人は苦しめられるが、世界の終末に到来する「来るべき(新しい)アイオーン」では、神の力によって救われ、栄光に輝くようになると信じられていました。
これまでに見てきたように、キリストの福音は救いがすでに到来したことを告知しています。キリストにあって神は救いの業を成し遂げられたのです。わたしたちはキリストにあっていのちの御霊の働きにあずかり、現在すでに「永遠のいのち」、すなわち来るべき世のいのちを与えられています。しかし、世界はまだ「この(古い)アイオーン」の中にあります。すなわち、世は神とキリストに敵対する勢力の支配下にあります。キリストに属する民は、「現在のアイオーン」においては苦しまなければなりませんが、それは神の民であることのしるしです。しかし、キリストの《パルーシア》(来臨)で始まる「来るべきアイオーン」においては、神の栄光にあずかることになるのです。
パウロは「今の時《カイロス》の苦しみ」と言っていますが、これは「今のアイオーン」にいながら、キリストの来臨《パルーシア》が迫っているこの時点《カイロス》での状況を意識して語っているのだと考えられます。
この「今の時の苦しみ」を取るに足りないものとさせるのは、「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」があまりにも素晴らしいからです。パウロは救いを、人間が罪(神への背き)によって失っている神の栄光(三・二三)にあずかるようになること(五・二)と考えています。救済をそのような終末的な栄光への参与と見ることは、原始キリスト教の共通の救済理解ですが、パウロの場合は、それが現在すでに聖霊によって始まっていることが強調されます。ただ、聖霊によって始まっている栄光は、地上においては「肉」と呼ばれる卑しい人間本性の中に隠され、また歴史の中では神の民の苦難の中に隠されているので、終わりの時になってはじめて「現れる」ことになります。栄光は終わりの時に突如与えられるのではなく、すでに与えられているのですが、今は隠されています。その隠されているものが「現れる」出来事が終末です。それで、パウロは、キリストの来臨についても(コリントT一・七)、神の民の完成についても(次節)、終末の出来事に「現れる」とか「顕現」《アポカリュプシス》という表現を用いることが多くなります。
被造物の切望
一八節の主題宣言に続いて、この段落(一八〜二五節)において、「今の時の苦しみ」の中で「やがてわたしたちに現されようとしている栄光」を待ち望む切なる希望が、「切に待ち望む」という意味の動詞を三回(一九、二三、二五節)繰り返して語られます。しかも、その切望は個人の心の姿だけではなく、「すべての被造物」と「御霊の初穂をいただいている者たち」の両者を貫く呻きとして、壮大な宇宙論的規模と全救済史的視野で語られます。
パウロは最初に「被造物」の切望を取り上げます(一九〜二一節)。「被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいます」(一九節)。ここの「被造物」の原語は《クティシス》(造られたもの)ですが、この「被造物」《クティシス》が人間を含まない自然界の全体か、人間を含む被造物全体か、その場合キリスト者を含むのか否かが、古来論争されてきました。しかし、続く二〇〜二一節で「被造物」について語られている内容からすると、人間以外の被造物(自然界)全体を指すと理解するのが順当と考えられます。あるいは、人間世界(歴史)を問題にしないで見た宇宙存在全体と理解してよいかもしれません。
一九節の原文は、「被造物の切望は…を待ち望んでいる」という構造になっています。主語の「切望」という名詞が語源的に「首をのばして待望すること」という意味であるので、この翻訳では、これを副詞的に「首をのばして」と訳出して、原文の切迫した雰囲気を表現しています。「身を乗り出して」という訳にしてもよいかもしれません。
自然は将来への待望の中で呻いているというような感覚は、日本人の自然観からは出てきません。日本人だけでなくギリシア人なども含め、ほとんどの民族は自然を不変のもの、あるいは循環するものと捉えていますから、自然がある目標とか完成とか、将来の何かに向かって「首をのばして待ち望んでいる」というように感じることは困難です。パウロが自然をこのように感じるのは、やはり創造者なる神が全存在を完成する計画をもって支配しておられるとする救済史的な宇宙観(とくに黙示思想)をもつユダヤ人であるからです。
では、被造物は何を「首をのばして待ち望んでいる」のでしょうか。パウロは、それを「神の子たちの顕現《アポカリュプシス》」と表現しています。パウロの理解によれば、(一八節の講解で説明したように)キリストに属する民は地上ですでに神の子たちである(八・一四)のですが、神の子としての栄光はこのアイオーンにおいては肉の弱さと苦難の下に隠されています。キリストの来臨によって到来する「来るべきアイオーン」において、復活によって神の子である実質が実現し、その栄光が現れるのです。そのように神の子たちが神の子として本来の栄光をもって現れる終末の事態を「神の子たちの顕現」と呼んでいます。その時に、今は「虚無に服している」被造物も栄光の中に完成するのです。
「被造物が首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいる」理由を、パウロは続く一文で説明します(二〇〜二一節は、理由を示す小辞《ガル》で始まる長い一つの文です)。「被造物は虚無に服させられていますが、それは自分からではなく、希望の中に虚無に服させた者によるのです。すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です」(二〇〜二一節)。
「虚無」というのは、実質のない姿、恒常的なものがない無常の姿、目的がない無意味さ、はかなさを指しています。自然の中にこのような「虚無」を見るのは、やはり当時のユダヤ教黙示思想の特色です。パウロはここで「虚無に服させられていますが」と受動態を用いています。すなわち、被造物(自然界)が虚無の姿を呈しているのは、「自然」の本性からではなく、「虚無に服させた者による」のであるというのです。
「服させた者による」の原文は《ディア》と目的格の形です。この前置詞句はふつう理由とか原因を示しますが、(所有格を伴う場合と同様)行為者を示す用法もあります(バウアー)。「服させた者」がアダムを指すのか、神を指すのかが論争されてきました。「服させた方」という訳は、神を指すと限定するので、翻訳上はどちらをも指す可能性を残して、「服させた者」と訳すことにします。アダムを指すとすると、「服させた者のゆえに」という原因を示す句になります。神を指すとすると、「服させた者によって」という行為者を示す句になります。解釈は二つに分かれています。どちらの解釈にも根拠と困難があります。ここでは、アダムは原因となったにしても、被造物を虚無に服させる権限はないのですから、やはり神を指すと理解します。
創造者に対するアダムの背反によって、すなわち人間が存在と生命の源である神から離反したことで、人間と運命共同体として創造された自然界も、神の意志(計画)によって本来の目的ある存在から虚無へと転落させられました。人間と被造物の連帯性は、旧約聖書の「お前のゆえに土は呪われたものとなった」(創世記三・一七)以来、黙示思想に至るまで、ユダヤ教の伝統となっています。
「黙示思想に至るまで」と書きましたが、参考のために実例を一つだけあげておきます。「わたしは彼らのために世を造った。アダムがわたしの戒めを破ったとき、被造物が裁かれた。そして、この世の出入口は、狭く、悲しみと苦労に満ちたものとなり、またその数も少なく、状態も悪く、危険をはらみ、大きな困難を強いるものとなった」(旧約続編ラテン語エズラ記七・一一〜一二)。
しかし、それが将来の解放という希望の相の下にある虚無である点に、それが神の計画によるものであることが示されています。「希望の中に」の原文は「希望の上に」です。被造物は虚無の中にあるが、その虚無は「希望の上に」置かれている虚無です。すなわち、将来克服されるべき虚無です。その希望とは、「すなわち、被造物自身もまた滅びへの隷属から解放されて、神の子たちの栄光への解放にあずかるようになるという希望です」(二一節)。
ここで被造物世界の希望が奴隷の解放の比喩(メタファー)で語られています。被造物世界は現在「虚無に服させられ」、「滅びへの隷属」の状態、すなわち最後は滅びに至らざるをえない奴隷の状態にあると見られています。このような見方は、当時のユダヤ教黙示文学のあまりにもペシミスティックな特異な世界観の表現とされてきましたが、現代では共感できるようになりました。人間の限りない欲望と傲慢さのゆえに、自然は破壊され、地球環境は生物が生きていけないようになるまで悪化するのではないかということを真剣に心配しなければならなくなりました。「滅びへの隷属」という言葉が実感されます。
しかし、そのように現在は虚無に服し、滅びへと隷属させられている被造物世界にも、その奴隷状態から解放される希望があります。その解放は「神の子たちの栄光への解放にあずかる」ことによって実現します。虚無と滅びに隷属させられたのも人間の罪のゆえでしたが、解放も人間の解放と一体です。人間が罪と死から解放されて、神の子として神の栄光にあずかるようになるとき、被造物世界も一緒に「神の子たちの栄光への解放にあずかる」のです。
「解放」と訳したギリシャ語の名詞は、解放される出来事を指す場合と、解放された状態を指す場合があります。後者の場合「自由」と訳されることが多いのですが、同根の動詞が直前で「解放される」という意味で用いられているので、その動詞との関連を示すために、解放の出来事として「解放」と訳します。「解放」という思想は、二三節の「体の贖い」という用語にまで続いていて(当該箇所の注を参照)、終末的完成を語るこの段落のキーワードになっています。なお原文では「栄光の解放」ですが、「栄光の」という所有格をヘブライ的形容詞と理解して、「栄光ある解放」と訳すことも可能ですが、ここでは栄光にあずからせるための解放と理解して「栄光への解放」と訳しています。
被造物とキリストの民のうめき
この希望があるゆえに、「被造物は首をのばして神の子たちの顕現を待ち望んでいます」(一九節)。被造物は、はやく神の子が現れてくれないかと首をのばして待ち望んでいるのです。しかし、栄光の世界が生み出される前には、女が新しい命を生み出す前に陣痛が避けられないように、被造物世界は今に至るまでそのシステム全体が深い呻きの中で「産みの苦しみ」(陣痛)を味わっています。パウロは、「すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(二二節)と続けます。
二二節の二つの動詞に付いている「共に」という接頭辞は、全体が一緒になってという意味に理解されます。この接頭辞の意味と用例については339頁の注を参照してください。
この「産みの苦しみ」という表現もユダヤ教黙示思想からのものです。黙示思想家は新しい栄光の世界が現れる前にこの世界に臨む苦しみを、出産前の陣痛にたとえて語りました(たとえばエチオピア語エノク書六二・四、ラテン語エズラ記四・四二)。キリスト来臨《パルーシア》の希望を黙示思想的用語で語った「マルコの小黙示録」も、《パルーシア》前に世界に臨む大いなる患難を「産みの苦しみ」という用語で語っています(マルコ一三・八)。パウロは、地上で神の民が体験する患難だけでなく、宇宙全体が新しい栄光の世界を生み出すために苦しんでいる呻きを聴きとるのです。パウロの魂は、なんと壮大で深いのでしょうか。
ところで、このように「すべての被造物が今に至るまで、共に嘆き、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」と言うときの「わたしたち」とは誰でしょうか。ユダヤ教黙示思想に深く沈潜している人たちのことでしょうか。そうではありません。それは、すぐ次の節(二三節)に出てくる「御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身」のことです。わたしたちキリストにある者は、御霊という「初穂」をいただいているので、「自分の内でうめきながら、子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます」(二三節)。この自分の内にあるうめきが、被造物世界のうめきと共鳴して、被造物世界が産みの苦しみを味わっていることを「わたしたちは知っています」と言わせるのです。
わたしたちキリストに属する者は、「御霊の初穂」をいただいている者たちです。「御霊の」という二格は同格の二格、すなわち、御霊という初穂、あるいは、初穂としての御霊という意味です。わたしたちの内に与えられている御霊は「初穂」です。「初穂」というのは、やがて取り入れられる全収穫を代表する一束の穂です。そのように、御霊はわたしたちが将来受け継ぐことになる栄光の前味、前払い、手付け金、保証です。御霊は来るべき終末的栄光の現臨です。それはなお隠された形ですが、終末が現在に臨んでいるのです。
パウロはすでにコリント書簡で「初穂」という語を、復活されたキリストを指す語として用いていました(コリントT一五・二〇、二三)。そこでは、すでに復活されたキリストが、終わりの日に復活するキリストの民を代表し、彼らの復活を保証する「初穂」でした。ここでは、「わたしたちの心に注がれている御霊」が、わたしたちの将来の栄光(それは復活です)の先取り、また保証として「初穂」となります(八・一一参照)。
御霊という初穂をいただいているわたしたちは、「子とされること、つまり、わたしたちの体の贖いを切に待ち望んでいます」(二三節後半)。「子とされること」という名詞は、すでに一六節で「子とする御霊」という形で用いられていました。わたしたちは御霊によってすでに神の子としての身分と実質を与えられています。しかし、その「子とされること」は、現在は死に定められた卑しい体の中に隠されているので、わたしたちは子であることの完全な顕現を「自分の(死に定められた体の)内でうめきながら、切に待ち望む」ことになるのです。
なお、この「子とされること」という名詞を欠く有力な写本もあります。この単語を飛ばして読んでも、希望の内容を語るこの節の本筋は変わりません。本筋は「御霊という初穂をいただいているわたしたちは、体の贖いを切に待ち望んでいます」ということです。
体の贖い
この神の子であることの完全な顕現――パウロはすでにそれを「神の子たちの顕現」(一九節)という表現で語っていました――は、「体の贖い」が成し遂げられるときに実現します。それで、「子とされること」が「すなわち、体の贖い」という同格名詞で説明されることになります。「贖い」《アポリュトローシス》とは、本来身代金の支払いなどによって奴隷や捕虜の状態から解放されることを意味します。ここでも救済を解放という用語で語るパウロの救済論が貫かれています。しかもパウロにおいては、ギリシャ思想の場合のように霊魂が身体から解放されるのではなく、「体」《ソーマ》自体が「滅びへの隷属」から解放されることが救いなのです。
旧約聖書以来のユダヤ教の伝統においては、人間は体を具えた全体的な存在(具体的存在)として理解されているので、人間の救済は体の救済(解放)なくしてはありえません。この「体の贖い(解放)」の内容について、パウロはすでにコリント第一書簡(一五章)で次のように語っています。すなわち、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体で蒔かれて、霊の体に復活するのです」(コリントT一五・四二〜四四)。「体の贖い」とは死者の復活を指しています。ローマ書においてはパウロは「死者の復活」という主題を強調していませんが、八章一一節や本節にコリント第一書簡の一五章全体が凝縮されています。
このように、パウロはローマ書においては、この段落(八・一八〜二五)で「体の贖い(解放)」、「神の子たちの顕現」、「栄光への解放」というような用語で、キリストに属する者の希望を語ります。そしてこの希望は、この世における苦難の中で、また死に定められた体の中で、さらに自分の肉の弱さの中で、「うめき」とならざるをえません。このうめきが、先に見たように、被造物世界のうめきと共鳴して、キリスト者をして宇宙全体の完成を「首をのばして待ち望む」希望に生きる者にならせるのです。この短い箇所(八・一八〜二三)に、パウロの壮大な終末的希望の内容が凝縮しています。
救いの標識としての希望
ところで、パウロはこの希望についてこう要約します。「わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたったのです」(二四節前半)。すでに繰り返し見てきたように、パウロにおいては救いはキリストにあってすでに起こった罪と死の支配からの解放の事実です。御霊による解放の事実を、パウロは八章の冒頭で力強く宣言しました(二節)。そして続けて、キリストにあって御霊に生きる者が持つ希望を語ってきました。今、それを一文にまとめるのです。わたしたちは救われた結果、このような希望に生きる者となったのです。希望は、救われた者の最初の標識です。
二四節前半は、原文では「希望」という名詞が前置詞なしの三格で文頭に用いられています。直訳すれば、「希望に、わたしたちは救われたのです」となります。ギリシャ語の三格(与格)には「〜によって」という手段を示す用法もあるので、ここは「希望によって救われている」と訳されることが多いようです(新共同訳、協会訳、岩波版青野訳など)。しかし、パウロの福音では「信仰によって救われる」のであって、「希望によって救われる」のではありません。この三格は与格本来の用法で「〜に(向かって)」と理解するか、様態の与格として「〜(の状況)において」と理解するのが順当でしょう。最近の英訳では in hope 、独訳では auf Hoffnung 、仏訳では en esperance が普通です。なお、この文の動詞「わたしたちは救われた」は過去の出来事を示すアオリスト形であり、また、この文が置かれている文脈は、希望に生きるわたしたちの現在の姿を主題としていることを考慮すると、わたしたちは救われた結果、現在このような希望に生きるようになっていると理解すべきです。「わたしたちはこの希望へと救われた」のです。それで、ここでは日本語としての分かりやすさを考慮して、「わたしたちは救われて、このような希望を持つにいたった」と訳しています。
この段落で「切に待ち望む」という動詞を三回繰り返して語られるキリスト者の生き方、将来の栄光に向かって身を乗り出して生きる姿勢が「希望」ですが、最後にその希望とはどのような種類の希望であるかが明らかにされます。
「ところで、見える希望は希望ではありません。現に見ているものを、誰が希望するでしょうか。わたしたちが見ていないものを希望するのであれば、忍耐をもって切に待ち望むのです」(二四節後半と二五節)。
「見える希望」と訳した句は、直訳すると「見られている希望」となります。希望する対象が現に見られている希望という意味です。このような意味の「見える希望」というのは形容矛盾であることが、すぐに続く「現に見ているものを、誰が希望するでしょうか」という疑問文で確認されます。ここで「見る」とは、人間が自分の体験と理性で理解できることを広く指しています。すでに見ているもの、すなわち、すでに体験し理解しているものは、もはや希望の対象ではありません。
わたしたちは「見ていないものを希望する」希望に生きているのです。この段落で扱っているわたしたちの切望の対象は、「神の子たちの栄光の顕現」、具体的には「わたしたちの体の贖い」、すなわち死者の復活であり、また、それにあずかることによって全被造物が栄光の中に完成されることでした。ところが、現実のわれわれの体験と被造物の実状はこれと矛盾し、そのような希望が実現する根拠はわたしたちと被造物の側には何もありません。わたしたちの側で理解したり根拠づけたりすることができない事態を待ち望む姿勢、これが「見ていないもの」を希望すると表現されます。そして、この「見ていないものを希望する」ことを可能にする原動力こそ御霊であることが、次の段落(八・二六〜三〇)で展開されることになります。
このように「見ていないものを希望する」のであれば、「忍耐」をもって待ち望む必要があります。自分の側に理解も根拠もありませんから、ひたすら神の約束の言葉だけを根拠にして、栄光の将来を待ち望みます。この世における現実は栄光と反対の苦難であり、わたしたちの理解は肉の弱さのために神のご計画を理解する知恵に達しません。自分の現実と理解がいかに神の約束と反していようが、神の言葉だけを真実として、すなわち神を信実とし、神の信実だけを根拠にして現実を担って生きることが求められます。それが「忍耐」です。福音において希望が語られるときはいつも忍耐が求められることになります(マルコ一三・一三など)。
この段落(八・一八〜二五)は、キリストの福音がもたらす壮大な宇宙完成の希望を僅か八節に凝縮した、実に重い箇所です。この段落で、希望が「解放」と「解放される」、「顕現」と「現される」という二つの系統の用語で語られていることが注目されます。この二つは(それぞれの箇所で説明したように)パウロの救済論の鍵をなす用語であることを、最後に重ねて指摘しておきます。
21 御霊の執り成し (8章 26〜30節)
26 同様に、御霊もわたしたちの弱さに寄り添って助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきか知りませんが、御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです。 27 心を見通す方は、御霊が志向されるところを知っておられます。御霊は聖徒たちのために、神の御心に従って祈り求めてくださるからです。
28 ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです。 29 神は前もって知っておられた者たちを、御子の像(かたち)と同じ形になるようにあらかじめ定めてくださいました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるためです。 30 さらに、あらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義とし、義とした者たちを栄光ある者とされたのです。
御霊のうめきと執り成し
「同様に」という語で新しい段落が始まります。この「同様に」は、被造物がうめき(二二節)、キリスト者がうめく(二三節)のと同様に、「御霊も・・・・・うめきをもって執り成してくださるのです」と続いて、三重のうめきを構成します。たしかに「御霊の初穂をいただいている者たち、すなわち、わたしたち自身もまた、自分の内でうめきながら」栄光の顕現を待ち望んでいますが、わたしたちのうめきと御霊のうめきは重なりながらも異なるものです。その違いが二六〜二七節で語られることになります。
御霊は「わたしたちの弱さ」に寄り添って助けてくださるのです。「わたしたちはどう祈るべきか知りません」(原文は「何を祈り求めるべきかを知らない」)。ここに「わたしたちの弱さ」があります。前の段落(八・一八〜二五)で語られた希望は、「見えないもの」への希望でした。初穂としての御霊は、「やがて現される栄光」とか「体の贖い」を切望させる原動力でしたが、その切望の対象は「見えないもの」、すなわちわたしたちの体験や理性では記述できないものです。従って、放置すれば(自然の欲求に任せると)、わたしたちの魂は祈りの方向を見失うか、内容空疎なお題目に堕する危険があります。祈りが将来の栄光の方向に向かっていても、わたしたちはその内容を把握しているわけではありません。そこに「わたしたちの弱さ」があります。終末における栄光の完成は、神だけがその内容を知っておられるのです。
御霊はこのようなわたしたちの弱さに「寄り添って助けてくださる」のです。「寄り添って助けてくださる」と訳した部分は一つの動詞で、もともと「寄り添う」とか「参与する」という意味の動詞です。それが「助ける」という意味でも用いられるようになっています。ここでは原意を生かして、「寄り添って助ける」と訳しています。この表現は、ヨハネ福音書で聖霊が《パラクレートス》(同伴者、助け主)と呼ばれていることを思い起こさせます。パウロは《パラクレートス》という用語は用いていませんが、ここでまさに聖霊を《パラクレートス》としていることになります。
どう祈るべきか知らないわたしたちに寄り添って、「御霊ご自身が言葉にならないうめきをもって執り成してくださるのです」。聖霊の働きの重要な一面が執り成しです。共観福音書では、イエスが聖霊について教えられたことは多くはありませんが、その一つに弟子を宣教に派遣されるときの次の語録があります。
「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ、また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ一〇・一八〜二〇)。
このように、聖霊は法廷における弁護人の役割をして助けてくださると語られています。これが、法廷用語として弁護人を指す《パラクレートス》という語が聖霊の呼称として用いられるようになるきっかけとなったのでしょう。ヨハネ福音書の「訣別遺訓」(一三〜一七章)における《パラクレートス》についての訓話は、この語録を自分たちの聖霊体験によって敷衍展開したものと見ることもできます。
この「寄り添って」弁護してくださる聖霊の働きを、パウロは迫害時の法廷の場面ではなく(パウロはこのような聖霊の助けによる法廷での弁証を何回も体験してきましたが)、ここでは栄光への希望という人の思いを超えた生き方を助けてくださる働きとして語っています。聖霊の弁護、執り成しがいっそう内面化され、霊的な祈りのための助けとされていることになります。
パウロはすぐこの後(三四節)で、復活して神の右にいますキリスト・イエスがわたしたちのために執り成してくださっていることを語っています。「復活して神の右にいますキリスト」の執り成しと「わたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる」御霊の執り成しが貫き重なって、栄光への道を歩むことができるようにわたしたちを励ましてくださるのです。「復活して神の右にいますキリスト」が、わたしたちに寄り添って助けてくださっている姿が御霊の執り成しです。ヨハネ(一四・一六)は後にこの関係を「別の同伴者」という表現を用いて語ることになります。ヨハネ福音書では、この「別の同伴者」とは、御霊として弟子たちのところに戻ってきて内にとどまる復活者イエスを指します。
「やがて現される栄光」、「神の子たちの顕現」、「神の子たちの栄光への解放」、「体の贖い」など、このような「見えないもの」への切望に生きるようにさせる原動力は御霊の執り成しですが、それは「言葉にならないうめきをもって」なされる執り成しです。「わたしたちの弱さ」に寄り添って助けてくださる御霊の執り成しは、言葉で教え諭す意識の次元ではなく、それよりも奥の、もはや言葉では表現できない次元で、わたしたちの祈りを正しい方向に向かわせる力として働いてくださいます。そのように意識の世界よりも奥で、わたしたちの本性に逆らって祈りを駆り立てる力が「うめき」と表現されるのです。
「言葉にならないうめき」を集会における異言の祈りと理解する見方(ケーゼマン)もありますが、異言の祈りは自ずから溢れ出る祈りの言葉であって、「うめき」という表現には適合しないと考えられます。異言にも様々な種類とか段階があるようですが、基本的に異言は言葉です。ただ、祈りの言葉が、聖霊によって語らされる結果、祈る人の母国語でなくなっているとか、地上の言語ではなく「天使の言葉」と感じられるような言葉になっているのです。このように異言は内から溢れる言葉であるので、「言葉にならないうめき」とは違います。もちろん、異言の祈りの内容が執り成しである場合があります。「言葉にならないうめきをもって執り成してくださる」御霊の執り成しは、異言の祈りも含みますが、もっと範囲の広い御霊の働きと理解すべきであると考えます。
このような御霊の執り成しが、そして御霊の執り成しだけが、神の前に有効であることが続く節で説明されます。「心を見通す方は、御霊が志向されるところを知っておられます。御霊は聖徒たちのために、神の御心に従って祈り求めてくださるからです」(二七節)。
「心を見通す方」は神を指しています。「見通す」という動詞をパウロはコリントT二・一〇で用いていますが、そこでは御霊が「一切のことを、神の深みさえも究める」方とされていました。ここでは、神が隠された心(複数形)の次元を「吟味し、見極める」方とされます。御霊の執り成しは、わたしたちには「言葉にならない」ものであっても、神はその内容を知り、その執り成しを受け入れてくださるのです。
ここで御霊の執り成しの内容が「御霊の志向」(直訳)という句で表現されています。「御霊の志向《フロネーマ》」という句は、先に「肉の志向」と対立するものとして、「肉の志向は死ですが、御霊の志向は命であり、平和です」(六節)という形で用いられていました。わたしたちは肉の弱さの中にあって、何を祈り求めるべきかを知らないのです。わたしたちが懸命に祈り求めているものは、魂を破滅させるようなものであるかもしれません。それに対して、御霊はつねに聖徒たちのために、すなわち神に属する民のために、神の御心に従って祈り求めてくださるので、肉の弱さの中にいるわたしたちも、命と平和を追い求める道を歩むことができるようになるのです。
御霊の執り成しは、わたしたちには「言葉にならないうめき」ですが、神は御霊が志向されるところを知っておられ、その執り成しに従って、わたしたちを助けてくださいます。この御霊の執り成しと、その執り成しに基づく神の助けが、先の段落で見たような「見えないものへの希望」に生きることを可能にしてくださいます。先の段落で宇宙の完成という壮大な希望を語ったパウロは、すぐに続けてわたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる御霊の執り成しを語らないではおれないのです。
神の救済計画
「神の子たちの顕現」とか「神の子の栄光への解放」というような「見えないものへの希望」に生きる原動力が、わたしたちの弱さに寄り添って助けてくださる御霊の執り成しにあることを明らかにしたパウロは、再びその希望の根拠を神の「御計画」という黙示思想的な用語で語ります。
「ところで、わたしたちは知っていますが、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちには、すべてのことが共に働いて善にいたるのです」(二八節)。
先に「聖徒たち」と言われていた人たちが、ここでは「神を愛する者たち」と言い換えられ、さらに「御計画に従って召された者たち」と説明されます。パウロが神の愛に触れる場合は、神がわたしたちを愛してくださったという方向が基調をなしていますが(ローマ五・八など)、ここで神に属する民が「神を愛する者たち」と言い換えられているのは、パウロが敬虔な人間を指すユダヤ教の伝統的な表現を踏襲したものと見られます。
しかし、一切が神の恩恵から発するという場に生きるパウロは、ただちに次の句で、わたしたちが神を愛するのも神の召しによると言い直します。わたしたちが「聖徒たち」として神の民に所属し、「神を愛する者たち」と呼ばれるのは、わたしたちの願いや価値のゆえではなく、神がその救済計画を実現するために、恩恵によって召された結果だとするのです。
「御計画」と訳した《プロテシス》という語は、ここでは予め前もって立てられた目標とか計画という意味で用いられています。この用語が出てくるのは僅かですが(パウロ七書簡ではここと九・一一くらい、エフェソ書では一・一一と三・一一)、思想は典型的な黙示思想のものです。黙示思想では、神は天地が造られる前に世界の救済の計画を立てられ、その御計画に従って歴史を導き、神の民を栄光へと救われるとします。ただその御計画は人間には隠されていて誰も知ることはできないのですが、神が選ばれた聖徒(たとえばエノクとかダニエル)に啓示されたとされます。その啓示を書き記したものがエノク書やダニエル書などの黙示文書です。その隠された神の救済計画は黙示文書では普通《ミュステーリオン》(奥義)という語で呼ばれており、パウロもよく用いています(一一・二五、コリントT二・一、四・一、一五・五一など)。ここでは「隠された」という意味を含まないで、それが「前もって」立てられた計画であることを強調する《プロテシス》が用いられていますが、思想内容は黙示思想に典型的なものです。
このように「御計画に従って召された者たち」には、「すべてのことが共に働いて善にいたる」ことを、「わたしたちは知っています」とパウロは言います。「すべてのことが共に働いて善にいたる」という時の「善」《アガトス》とは、究極的な意味での善、すなわちここでは神の救済を指すと理解すべきです。
当時のユダヤ教では、「人は常に次のように言う習慣をつけるべきである。すなわち憐れみに満ちる神は為すところすべてを善(益)のために為すのである」(ラビ・アキバ)と教えられていました。この格言が、敬虔な者には万事が好都合に運ぶという、処世訓的な意味で使われていたことも事実です。現在もそういう意味でよく用いられます。しかし、パウロはこの格言を、二九〜三〇節で語ろうとする救済の終末的完成を意味する文として用いています。わたしたちが地上で体験する苦難を含め、すべてのことが最終的な救済の完成に役立つように働くとします。ここに、一切の苦難を耐えさせる、信仰による至上の楽観主義(最近流行の用語ではプラス思考)が表明されています。
パウロは、キリストの民を代表して、このことを「わたしたちは知っています」と言います。「知っています」の内容は、二八節だけでなく、二九節冒頭の接続詞《ホティ》で始まり三〇節まで続く、一連の定型的な文で構成される部分全体であると考えられます。五つの動詞(あらかじめ知る、あらかじめ定める、召す、義とする、栄光とする)が同じ形の文で繰り返されて鎖のように連なる部分は、パウロが何らかの定型的な信仰告白文を利用している可能性があります。わたしたちが日頃唱え告白しているように、神は確かに以下のことを成し遂げて、「御計画」《プロテシス》を完成してくださることを、わたしたちは知っていると言うのです。
この「御計画」の根底は、「神はあらかじめ定めてくださった」という「予定」にあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の像と同じ形になるようにあらかじめ定めてくださいました。それは、御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるためです」(二九節)。
「前もって知っておられた者たち」とありますが、何よりも前なのか、パウロは語っていません。しかし、天地創造は救済史の最初の段階であると見る見方からすれば、天地創造の前に神は救済史を担う者たちをあらかじめ知っておられたことになります。エフェソ書一章四節はそのような理解で書かれています。また、エフェソ書のその箇所が示唆するように、この「知る」は「愛する」を含んでいることになります。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分のものとなるように選ばれたのです。
神は前もって知っておられた者たちを、「御子の像(かたち)と同じ形になるように」あらかじめ定めてくださいました。人間は神の像(かたち)に創造されている(創世記一・二七)という人間観が、聖書の人間観の基本です。ここではその「像(かたち)」という語を用いて人間の救済が語られます。人は創造者なる神に背くことによって神の像(かたち)の実質を失いました。そこで神は、御自身の像(かたち)である御子キリスト(コリントU四・四、フィリピ二・六、コロサイ一・一五)によって、御子キリストを信じる者たちが御子の像(かたち)に合わせられて同じ形になるという仕方で、失われた神の像が回復されるように計画されたのです(本節)。これが神の救済計画の内容です。ここの「あらかじめ定めた」は、上記の「御計画」の内容をあらかじめ定められたという意味であって、救われる者と滅びる者をあらかじめ決定されたという「二重予定」の意味ではありません。
この御計画は、その実現が地上で始まっています。御子キリストを信じる者たちは、「主の御霊の働きにより、栄光から栄光へと主と同じ像に造りかえられていく」のです(コリントU三・一八)。そしてこの救済の過程は、神の子の栄光が現される終わりの日に完成することになります。
この「御計画」によってキリストに属する神の民が「御子の像(かたち)と同じ形になる」とき、「御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となるため」という神の目的が達成されます。あるいは、この文(不定詞構文)を、神の民が御子の像と同じ形になる結果、「御子が多くの兄弟たちの中で最初に生まれた者となられるのです」と、結果を示す文と読むこともできます。どちらの読み方も、御子キリストとキリストに属する民の一体関係、先に「初穂」という語で表現されていたあの一体関係を指し示している点は変わりません。
「最初に生まれた者」という語はよく「長子」と訳されますが、原語は《プロトトコス》(最初に生まれた者)という語です。ごく初期から、イエスの復活は詩編二編(とくに七節)の成就と解釈され、イエスは復活により神の子キリストとして生まれたと理解されて(ローマ一・四)、そう宣べ伝えられていました(使徒言行録一三・三三)。キリストは最初に死者の中から復活した方として、やがて死者の復活によって現れる神の子たちの長子(最初に生まれた者)となられたのです。パウロはこの意味で用いていますが、後のパウロ系文書では、この意味も保持しつつ(コロサイ一・一八)、「すべての被造物のプロトトコス」、すなわち、天地創造よりも前に神から生まれ、創造を仲介する方と理解されるようにもなっていきます(コロサイ一・一五)。
神があらかじめ定められたこの救済計画はすでに進行しつつあります。そのことが、「(神は)さらに、あらかじめ定めた者たちを召し、召した者たちを義とし、義とした者たちを栄光ある者とされたのです」(三〇節)という文で簡潔に提示されます。
「さらに」というのは、「御子の像(かたち)と同じ形になるようにあらかじめ定めて」くださっただけでなく、その予定の御計画を現に今この地上で進めてくださっているのだという気持ちを表しています。この「さらに」あるいは「その上に」という語は、「義とし」と「栄光ある者とされた」という動詞にもついていますので、この節は丁寧に訳すと、「あらかじめ定めた者たちをさらに召し、召した者たちをさらに義とし、義とした者たちをさらに栄光ある者とされたのです」(協会訳参照)となります。
今福音が宣べ伝えられ、その福音によって御子キリストを信じる民が諸民族の中から呼び集められていますが、この出来事は神が「あらかじめ定めた者たちを召し」ておられることに他なりません。わたしたちは、自分の決断とか霊的体験によって信仰に入ったと考えていますが、実はそうではなく、神があらかじめ定めておられた者を、時満ちてご自分のもとに召された出来事であるというのです。これは、信仰さえも自分の側に根拠があるのではなく、神の予定とそれに基づく神の召しにある、すなわち神の側にだけあるという絶対恩恵の告白に他なりません。
神はさらに「召した者を義とし」てくださっています。神は福音によって召した者を、キリストにある贖いによって義としてくださいました(三・二四)。この信じる者はキリストにあって神の恵みにより無償で義とされることは、ローマ書の主題であり、パウロはこの書簡(とくに第一部)で力を尽くして論じてきました。キリストにある者を義とされる神の恩恵の働きが、この「召した者を義とし」という一句に凝縮されています。
そして、さらに「義とした者たちを栄光ある者とされた」のです。ここの動詞は「輝かす」とか「栄光を与える」とか「栄光を現す」という意味の動詞です。普通これは終末に起こることとして未来形で語られるのですが、パウロは先行する四つの動詞(あらかじめ知る、あらかじめ定める、召す、義とする)と同じく、すでに起こったことを示す形(アオリスト形)で語っています。たしかに、神の子としての栄光をもって現れる完成は将来の出来事ですが(八・一八〜二三)、神が子とされた者に栄光を与える過程はすでに始まっています。先に引用したように、「主の御霊の働きにより、栄光から栄光へと主と同じ像に造りかえられていく」(コリントU三・一八)過程は、御霊の働きによりすでに地上で始まっています。この事実に目を注いで、パウロは未来の完成を含む「栄光を与える」という神の働きを、先行する四つの動詞と同じ過去時制で語ることができるのです。
「義とする」ことは神の働きのすべてではありません。義として受け入れた者を、神はさらに復活のいのちの現実に生かして、栄光へと導いてくださるのです。この救済の構造は、すでに五章一〇節で示唆されていました(その箇所の講解を参照)。すなわち、「敵であったときでさえ御子の死によって神と和解させていただいた(義とされた)のですから、和解させていただいている(義とされている)今は、なおさら御子のいのちによって救われることになるはずです」。この「御子のいのちによって救われること」は未来形で語られていますが、それは義とされた結果、現在において始まり、将来の完成に向かって進む過程です。したがって、そこには将来の完成への熱い希望が含まれることになります。この構造に従って、このローマ書講解は、第一部で「義とされる」ことを扱い、第二部で「御子のいのちによって救われる」過程を扱ってきました。この構造が、ここで「義とした者に栄光を与えた」という一文に凝縮されているのです。
22 神の愛による勝利 (8章 31〜39節)
31 それでは、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか。 32 御自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に引き渡された方は、御子と共に万物をわたしたちに賜らないことがあるでしょうか。 33 誰が神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょうか。彼らを義とする者は神なのです。 34 断罪する者は誰か。わたしたちのために死んだ方、いやむしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、執り成してくださっているのです。
35 誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか。患難か、それとも困窮か、それとも迫害か、それとも飢えか、それとも裸か、それとも危険か、それとも剣か。36 次のように書かれているとおりです。
「あなたのために、
わたしたちは一日中死にさらされ、
屠られる羊のように見られている」。
37 しかし、わたしたちはこれらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって勝ちえて余りがあります。 38 わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、 39 高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。
神が味方
パウロはここまで、人間の罪と死の現実から出発して、キリスト・イエスにおける神の救いの働きとその完成の希望にいたるまで、溢れる神の恩恵の世界を論証してきました。信仰による義から御子のいのちによる救いまで、キリストにおける救いのすべてを語り尽くして、聖霊による高揚した思いで、これまでの論述を締めくくります。ここまで語ってきたことすべてを指して、「それでは、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」と、溢れる思いをどう表現したらよいのかと自ら問いかけ、「神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか」という叫びで答えます(三一節)。この「誰がわたしたちに敵対することができるでしょうか」と、すぐ後の「勝ちえて余りがあります」(三七節)という叫びが示しているように、第二部をまとめる最後の段落(八・三一〜三九)は、第一部の最後(五・一〜一一)が勝利の賛美であったのと同様、勝利の凱歌となります。
「わたしたちの味方である」と訳した部分は、「わたしたちのために」《ヒュペル・ヘーモーン》という前置詞句(英語の for us に相当)で、この短い箇所(三一〜三四節)で三回繰り返されています。神はそのすべての働きを「わたしたちのために」なしてくださっているのです。すなわち、わたしたちの側にいてくださる味方として、わたしたちに敵対する諸力と戦ってくださり、わたしたちを助けてくださっているのです。そのように、神がわたしたちの味方である以上、キリストにある者は、「誰が、どのような霊的勢力が、わたしたちに敵対することができるか」と、勝利の凱歌を挙げることができます。
神が「わたしたちの味方」として、すべてを「わたしたちのために」なしてくださっていることが、続いて御子の死を確かな根拠として語られ、その根拠に基づいて、神が万物をわたしたちに賜ることが保証されます。パウロはこう語ります。「御自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に引き渡された方は、御子と共に万物をわたしたちに賜らないことがあるでしょうか」(三二節)。
ここでキリストの十字架上の死が「わたしたちすべての者のため」の死であることが明言されます。キリストは「わたしたちのために」死なれたとするのは、福音の基本的な使信です(五・八、 コリントT一五・三、 ガラテヤ三・一三、 マルコ一四・二四)が、パウロは「すべての者」という語を加えて、この「わたしたち」が「すべての人」を指すことを強調します(五・一八)。
「御自身の御子をさえ惜しまないで」という表現には、アブラハムが神に従って自分の息子イサクを捧げようとしたことについて語られた「自分の息子すら惜しまなかった」(創世記二二・一六)という言葉が反響しています。初期の教団においてイエスの死は、アブラハムのイサク奉献をモデルにして、父なる神が御自身の子を惜しまないで、罪の贖いのために死に引き渡された出来事と理解されていました。
「死に引き渡された」という部分の原文は「引き渡した」(能動態)という動詞だけです(ここでの「引き渡された」は受動態ではなく、敬語の「された」)。「引き渡す」という動詞は、イエスについて用いられるときは、ユダがイエスを権力者の手に引き渡したことを指すのに多く用いられ、行為者なしの受動態はイエスの死を指すことになります(四・二五、コリントT一一・二三)。また、イエスの死は神の御計画によるものとして、神がイエスを死に「引き渡した」とも語られます(本節)。
そしてパウロはさらに進んで、神がご自分の御子をさえ惜しまないで死に引き渡されたことを、神が御子と共に万物をわたしたちに賜ることの保証とします。「御子と共に万物をわたしたちに賜る」というのは、先(八・一七)に語られたように、御子キリストと共同の相続人として、万物を支配する栄光の地位に引き上げてくださることを指していると理解することもできますが、この「万物」《タ・パンタ》を「どのようなものでも」と理解して、「御子をさえ惜しまないで与えてくださった方は、苦難の中にいるわたしたちにどのようなものでも与えて、勝利に導いてくださらないことがあろうか」と受け取ることもできます。いずれにしても、神がわたしたちの味方として、わたしたちのために働き、わたしたちに勝利を賜るのだという確信が溢れています。
「御子と共に」という句は二つの意味に理解されます。すなわち、万物を受け嗣ぐ御子と一緒に、御子との共同相続人として万物を受け嗣ぐ(八・一七)という意味に理解するか、または、神はすでに御子をさえ惜しまないでわたしたちの救いのために与えてくださったのであるから、御子にそえて、万物をも与えてくださるはずだという意味に理解することも可能です。日本語訳は文語訳、協会訳(口語訳)とも後者の意味に理解しています。新共同訳はどちらともとれますが、おそらく先行する日本語訳と同じ理解でしょう。しかし、前者の理解も十分可能(ウィルケンス)で、欧米諸語の訳はみなどちらにもとれる訳になっています。本私訳では両方の理解が可能な訳にしてあります。
さらにこの勝利の確信が、法廷の場面を比喩として用いて繰り返されます。「誰が神に選ばれた者たちを訴えることができるでしょうか。彼らを義とする者は神なのです。断罪する者は誰か。わたしたちのために死んだ方、いやむしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、執り成してくださっているのです」(三三〜三四節)。
「訴える」と「執り成す(弁護する)」は検事と弁護士、「義とする」と「断罪する」は裁判官の働きを示す動詞です。キリストに属する者は、人を滅びに定めようとするいかなる霊的な支配力にたいしても勝利する者であることが、法廷での勝利の判決を比喩として、法廷の用語を用いて語られます。
「誰がわたしを訴えるのか」とか「誰がわたしを罪に定めることができるのか」というような法廷的な表現は、「主の僕」の歌の中の一部(イザヤ書五〇章八〜九節)から取られていると見られます。イザヤ書の中の「主の僕」は主イエス・キリストを指す予言として初期の信徒たちに親しまれていましたが、パウロはその一節を用いて、キリストにある者の勝利を歌います。
この「主の僕」の歌の中に、「わたしの正しさを認める方は近くにいます」という一節があります。「わたしを義とする方」(七十人訳ギリシア語聖書での表現)がわたしの側にいてくださる、すなわち判決を下す神がわたしの側にいてくださると歌っています。これは、神がわたしの味方であるということです。パウロはここで、神がわたしの味方であることを、イザヤ書の「主の僕」の歌を用いて歌い上げています。
「神に選ばれた者たち」、すなわち神に選ばれて今キリストに属する者となっている民を訴え、断罪する者は誰か、それができる者は誰もないのです。裁判官である神が彼らを義としておられる以上、もはや誰もキリストに属する者を断罪することはできません。その上、「わたしたちのために死んだ、いやむしろわたしたちのために復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、わたしたちのために執り成して(弁護して)くださっている」のですから、この方の弁護に打ち勝って判決を覆すことができる者は誰もありません。
三四節の最後に置かれている「わたしたちのために」は、直前の「執り成してくださる」という動詞だけではなく、「死んで」、「復活して」、「神の右にいまして」、「執り成してくださる」という本節全体を修飾すると理解すべきです。そのことを示すために、翻訳ではこの句を文頭に置き、講解の中では三四節の動詞にこの句を繰り返して用いました。
初期には、復活はキリストが高く挙げられて神の右に座す方になる出来事であると理解され、そう表現されていました。最初期の教団は、復活を詩編二編や一一〇編を成就する出来事と理解し、復活されたイエスはキリストとして神の右の王座に座す方となられたと告白しました。詩篇では「神の右に座す」は万物の支配者としての地位を意味しており、初期の信仰告白もその意味で用いていますが、パウロはここで「神の右に座す」を弁護者としての立場を示す表現に転用しています。
この三一〜三四節には、初期の教団が告白した定型的な信仰告白文が多く用いられていることが、注解者によって指摘されています。たしかにそうですが、パウロはそのような定型的な告白文を用いて、実に力強い勝利の凱歌を歌い上げています。さらにこの箇所は、「誰が…するのか」という修辞的な問いかけが三回繰り返されて、読む者を引き込む力を高めています。
先の段落では、聖霊がわたしたちの内にあって執り成してくださることが語られていました(八・二六〜二七)。ここでは、高挙されたキリストが神の右で「わたしたちのために」、すなわち「わたしたちの味方として」執り成しをしてくだっていることが語られます。両方とも現在の事実であって、弱いわたしたちが終末の栄光にあずかることを保証する、神の恵みの備えです。こうして、「神がわたしたちの味方である」ことが、御子と御霊の働きによって実質を与えられることになります。
キリストにおける神の愛
「わたしたちのために死んだ方、いやむしろわたしたちのために復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右にいまして、わたしたちのために執り成してくださっています」。わたしたちの救いと栄光の希望の根拠は、このキリストにあります。キリストがわたしたちを愛して、わたしたちのために死に、わたしたちを代表して復活し、神の右に座してわたしたちのために執り成してくださっています。先に法廷の比喩で語られたわたしたちに対するキリストの働きの源泉にはキリストの愛があります。ここで源泉にあるキリストの愛が正面に出てきます。
「誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか。患難か、それとも困窮か、それとも迫害か、それとも飢えか、それとも裸か、それとも危険か、それとも剣か」(三五節)。
パウロはここで自身が体験した苦難を要約して列挙しています(コリントT四・九〜一三、 コリントU六・四〜一〇、 コリントU一一・二三〜二九参照)。「患難」は外からの圧迫、「困窮」は内的な苦悩を指すのでしょう。「迫害」は会堂での鞭打ちや総督の法廷での裁判など実際の出来事を指しているのでしょう。「飢え」は食べ物を買うことができないほどの伝道生活の逼迫や獄中での飢えをパウロは体験してきました。「裸」は寒さの中で十分な衣服がないことだけでなく、むち打ちなどの処罰のさい、公衆の面前で裸にするというような社会的な恥辱をも指しています(使徒一六・二二)。「危険」は川の難、荒野の難、海上の難など伝道旅行の危険を含むのでしょう。この一連の苦難のクライマックスは「剣」、すなわち処刑です。パウロは獄に入れられた経験もあり、処刑をも覚悟しなければなりませんでした。
このような苦難の中でパウロを支えたものは、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」キリストの愛でした(ガラテヤ二・二〇)。このキリストの愛がパウロを捉えて(コリントU五・一四)、キリストを告白させ続けたのです。パウロは自分の体験から、「誰がわたしたちをキリストの愛から引き離すことができようか」と、勝利の凱歌をあげます。パウロに対してだけではなく誰に対しても、キリストの愛はあらゆる苦難に打ち勝つ力です。
このように、パウロはキリストのために自分が体験した苦難を列挙した上で、その苦難が神の御心から出たものであることを、聖書を引用することで示します。
「次のように書かれているとおりです。
『あなたのために、
わたしたちは一日中死にさらされ、
これは詩編四四編二三節の引用です。文章は七十人訳ギリシャ語聖書(詩編四三・二三)と一致しています。
聖書に書かれている通り、わたしたちが地上で苦難に遭うことは必然であるが、それでもなお、これらすべての苦難の中でわたしたちは「勝ちえて余りがある」と、パウロは勝利の凱歌をあげます。
「しかし、わたしたちはこれらすべてのことにおいて、わたしたちを愛してくださった方によって勝ちえて余りがあります」(三七節)。
「わたしたちを愛してくださった方」は、(アオリストの分詞形が用いられていることから)わたしたちを愛して、わたしたちのために死なれたキリストを指していると理解することができます(ガラテヤ二・二〇、 コリントU五・一四)。しかし、同時にこのキリストにおいて神の愛が啓示されているのですから(五・八)、この句において、キリストの愛(三五節)と神の愛(三九節)が重なっていることになります。パウロにおいては、そして福音においては、「キリストの愛」と「キリストにおける神の愛」は重なっていて区別することはできません。
ご自分の命を与えるまでに愛してくださったキリストは、すでに復活して死の力に勝利しておられるのですから、この方に結ばれて復活のいのちに生きるわたしたちは、あらゆる敵対的な力に勝利することができます。
この勝利の確信が、最後に「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」を根拠にして歌い上げられます。
「わたしは確信しています。死も生も、御使いたちも支配者たちも、現在のものも将来のものも、いかなる力も、高いところのものであれ深いところのものであれ、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」(三八〜三九節)。
この勝利がいかに力強いものかを示すために、パウロはわたしたちに敵対する諸々の霊的支配力を列挙します。
「死も生も」とは、「死の恐れや脅しも、生の苦悩や苦闘も」ということでしょう。ここでは「生」も死と並んで、信仰を脅かす現実と見られています。「生も死も」という組み合わせはコリントT三・二二にも見られます。
「御使いたちも支配者たちも」とは、当時の宇宙観では、天界は層に分かれ、各層にはその層を支配する《アンゲロス》(御使い)たちや《アルコーン》(支配者)たちがいると考えられていました。当時の人たちは、そのような霊的支配者が災禍をもたらすことを恐れて宗教的な礼拝を捧げたりしていました。
「現在のものも将来のものも」とは、現在の地上世界および将来の天上の世界を支配しようとする敵対的な力を指すのでしょう(エフェソ一・二一参照)。なお、この組み合わせもコリントT三・二二に見られます。
「いかなる力も」の《デュナミス》(力)も、天界の支配力を指す用語です(コリントT一五・二四)。ここまですべて二項一組で列挙されてきたのに、ここだけがその形になっていません。おそらく、次の「高いところのものであれ深いところのものであれ」という二項一組と一体で、「高いところの力も、深いところの力も」と言おうとしたと見られます。そうすると、「天上の力も、陰府の力も」を意味することになります。
「他のどんな被造物も」とは、天上、地上、地下のいかなる力も、それが被造物であるかぎり、創造者なる神の働きを妨げることはできないという気持ちで、以上に列挙された項目から漏れるものがあっても、それらをすべて含ませるために加えられた表現であると見られます。
これらの諸力は「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです」。その愛は、万物の創造者であり支配者である神の愛だからです。その愛をキリストにあって、十字架の下で、聖霊の圧倒的な働きによって、わたしたちは知っています。それゆえ、キリストにあるわたしたちの勝利は確かであり、わたしたちはこのような苦難の現実や霊的諸力の脅威にあっても、「勝ちえて余りがある」と凱歌をあげることができるのです。
ここでパウロはキリストを指すのに、「わたしたちの主キリスト・イエス」という荘重な形を用いています。この句は、キリスト者の信仰告白を凝縮した形であって、パウロは一連の論述を締め括る文の最後に、この荘重な形の告白句を置く傾向があります。第一部もこの句で終わっていましたが(五・一一)、この第二部を締め括る本節の最後にもこの句が置かれることになります。
こうして、「今の時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとしている栄光の前では、取るに足りないとわたしは見なしています」(八・一八)という宣言で始まった、現在の苦難と将来の栄光を対比する論述は、この勝利の凱歌で締めくくられることになります。同時に、この凱歌はここまでのローマ書の全論述を締めくくる凱歌となります。
そもそも存在の根底が愛であることを体験することが人間にとって宗教的体験の究極の境地ですが、わたしたちは、パウロと同じく、その愛を現実の苦難の中で、「わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛」として体験します。すなわち、キリストの十字架と復活の出来事により啓示され、聖霊によって注がれる神の愛として体験するのです。このキリストにおける神の愛こそ、信仰の勝利の原動力であり、キリスト者の存在そのものの根源です。