市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第9講

第二節 世からの憎悪と迫害

52 世の憎悪( 15章 18〜25節 )

 18 「もし世があなたたちを憎むならば、あなたたちよりも先にわたしを憎んできたことを知っておくがよい。 19 もしあなたたちが世に属する者であったなら、世は自分のものを愛したであろう。ところが、あなたたちは世に属する者ではない。わたしがあなたたちを世から選び出したのである。そのために世はあなたたちを憎むのである。 20 『僕は主人にまさるものではない』と、わたしがあなたたちに言った言葉を覚えていなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたたちをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたたちの言葉をも守るであろう。 21 しかし、人々は、わたしの名のゆえに、このようなことをすべてあなたたちに向かってするようになる。わたしを遣わされた方を知らないからである。 22 わたしが来て、彼らに語らなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、彼らには自分の罪について弁解の余地はない。 23 わたしを憎む者は、わたしの父を憎むのである。 24 他の誰もしなかったわざをわたしがしなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、それを見て、わたしもわたしの父も憎んだのである。 25 しかし、彼らの律法の中に書かれている、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』という言葉は満たされなければならない」。

ユダヤ教会堂との対立

 「もし世があなたたちを憎むならば、あなたたちよりも先にわたしを憎んできたことを知っておくがよい」。(一八節)

 ぶどうの木の比喩を用いて、復活者イエスと弟子の一体性、および共同体の愛による一体性を説いた後、それと対照してイエスを信じる者の共同体と「世」との対立が取り上げられます。ヨハネ共同体は今対立する外部の勢力から激しい憎悪を受けています。著者はその勢力を「世」と呼んで、彼の共同体に彼らの憎悪に立ち向かう覚悟を促します。
 「世」を形成する原理(自己追求と功績の原理)は、イエスの原理(自己放棄と恩恵の原理)に敵対し、自分の存立を否定する者としてイエスを憎みます。ここで具体的には、律法主義に立つユダヤ教世界が恩恵の支配を告知するイエスを憎んだことを指しています。イエスの十字架の死はこの憎悪と敵意の結果です。イエスを憎んだのは、異教世界ではなく、ユダヤ教世界です。この段落の「世」とか「彼ら」は、ユダヤ教世界とユダヤ人を指しています。イエスと弟子たちに対する「世の憎悪」を取り上げるこの段落は、イエスを信じるユダヤ人を会堂から追放しようとする動きが一段と強くなってきた状況(九章参照)が背景となっていると推察されます(一六・二の講解を参照)。

 「もしあなたたちが世に属する者であったなら、世は自分のものを愛したであろう。ところが、あなたたちは世に属する者ではない。わたしがあなたたちを世から選び出したのである。そのために世はあなたたちを憎むのである」。(一九節)

 「世に属する者」の原文は「世からの者」です。ここでは具体的には、ユダヤ教の中にいる者を指しています。もしあなたたちがユダヤ教の中にいるのであれば、ユダヤ人はあなたたちを身内として愛したはずだということです。ところが、イエスの弟子たちは今やユダヤ教団に属する者ではありません。イエスが選んでユダヤ教の枠の外へ連れ出されたのです。だから、ユダヤ人たちは自分たちと敵対する陣営に行った弟子たちを憎むことになります。

 「『僕は主人にまさるものではない』と、わたしがあなたたちに言った言葉を覚えていなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたたちをも迫害するであろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたたちの言葉をも守るであろう」。(二〇節)

 「僕は主人にまさるものではない」という語録は、ルカ(六・四〇)で「弟子は師にまさるものではない」という形で用いられています。マタイ(一〇・二四)では、「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」と、ルカの形とここのヨハネの形が合わせられた形で用いられています。ただ、この格言的な語録が用いられる文脈は、ルカでは「しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と続くのに対して、マタイでは師であるイエスが迫害されたのだから弟子も迫害されるのは当然だという、迫害の文脈で用いられています。ヨハネはここでマタイと同じく、迫害の文脈でこの語録を用いています。しかし、一三・一六ではルカに近い意味(師は弟子の模範という意味)で用いられています。一つの語録が、初期の宣教の様々な流れの中で、違った意味を担っていた様子がうかがわれます。
 続いて、主人と僕・師と弟子の関係を迫害の文脈で語る語録が反対側から見られます。『僕は主人にまさるものではない』のですから、もし人々が主人であり師であるイエスの言葉を受け入れて守ったのであれば、イエスの僕であり弟子である者たちの(イエスを証言する)言葉をも受け入れて守るはずです。

 「しかし、人々は、わたしの名のゆえに、このようなことをすべてあなたたちに向かってするようになる。わたしを遣わされた方を知らないからである」。(二一節)

 ところが実際は、彼らはイエスの言葉を受け入れず、イエスを憎んだのですから、その僕であり弟子である者をも憎むことになります。彼らは「イエスの名のゆえに」、すなわち彼らがイエスの弟子であるという事実のゆえに憎むことになります。その憎しみのゆえに、彼らユダヤ人たちは「このようなことをすべて」イエスの弟子たちに向かってするようになると予告されます。「このようなことすべて」とは何を指すのか、具体的に指示されていませんが、著者の念頭には、すぐ後で語られる「彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう」(一六・二)という状況があったと推察されます。ヨハネ共同体のユダヤ人は、すでに会堂において異端扱いをされ、様々ないやがらせ(審問や鞭打ちなど)を受けていたと考えられます。
 ユダヤ人がイエスの弟子たちに「このようなことすべて」をするのは、イエスが神から遣わされた方であることを信ぜず、イエスを遣わされた父を知らないからです。この主題はこの福音書全体を通して繰り返されています。

ユダヤ人の罪

 「わたしが来て、彼らに語らなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、彼らには自分の罪について弁解の余地はない。わたしを憎む者は、わたしの父を憎むのである」。(二二〜二三節)

 この箇所(二二〜二四節)の「罪」は単数形です。それは迫害などの個々の行動ではなく、父を憎むという根源的な罪です。イエスが父から遣わされた方としてユダヤ人の中に現れ、父を啓示する働きをされたのでなければ、彼らはイエスを憎み、そのことによって父を憎むという罪を現さなくても済んだでしょう。「しかし今は」と言うとき、ヨハネはユダヤ人がイエスを殺してしまった今はという意味で語っていると考えられます。これほど明確にイエスを憎むことを顕わにしてしまった今は、イエスを遣わされた父を憎んでいるという自分の根源的な罪を弁解する余地はありません。

 「他の誰もしなかったわざをわたしがしなかったのであれば、彼らは罪がなかったであろう。しかし今は、それを見て、わたしもわたしの父も憎んだのである」。(二四節)

 イエスが父から遣わされた方として父を啓示する働きをされたことが、先には「語る」という働きで取り上げられていましたが(二二節)、ここでは「他の誰もしなかったわざをわたしがした」という働きで取り上げられます。これは福音書前半(二〜一二章)の「しるしの書」が伝えるイエスの力ある業(奇蹟)を指しています。この福音書は、イエスの力ある多くの業の中で代表的な「他の誰もしなかったわざ」を選んで伝え、このイエスの驚くべき働きを「しるし」として、イエスが父から遣わされた方であることを信じるように求めます。
 ところが、ユダヤ人たちはイエスのなされた「しるし」を見ていながら、イエスを信じないで、イエスを「魔術師」とか「詐欺師」と呼んで拒否し、イエスを訴えて死に至らしめます。このようにイエスを殺してしまった「今は」、父を憎んだという彼らの罪は明白です。「彼らはわたしもわたしの父も憎んだ」と断定せざるをえません。

 「しかし、彼らの律法の中に書かれている、『彼らはゆえなくわたしを憎んだ』という言葉は満たされなければならない」。(二五節)

 ここに引用されている「彼らはゆえなくわたしを憎んだ」という言葉は、詩篇六九編五節からの引用です(他にも詩編三五・一九、一〇九・三などにも同じような表現があります)。詩篇では、ダビデあるいは主にすがる敬虔な者が、理由もなく周囲の者から憎まれて追われる苦しみを訴えていますが、ヨハネ共同体はその言葉を、ユダヤ人たちがイエスを理由無く憎んだことを預言する言葉として引用します。このように聖書の言葉を本来の文脈から離れて自分の主張の論拠として引用することは、当時のユダヤ教内の論争では普通のことでした。
 ここでこの詩篇の言葉が「彼らの律法の中に書かれている言葉」として引用されている事実が注目されます。この引用はユダヤ教の聖典である旧約聖書の詩篇からのものですから、「彼らの」というのはユダヤ人を指しています。この事実から、この段落の「彼ら」がユダヤ人を指しており、ヨハネ共同体と対立する「世」はユダヤ教会堂勢力であることが確認されます。

53 迫害の中での証し( 15章26節〜16章4節前半 )

 26 「わたしが父のみもとからあなたたちに遣わそうとしている同伴者、すなわち父のみもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しすることになる。 27 あなたたちもまた、初めからわたしと一緒にいるのだから、証しをすることになる。
 16・1 あなたたちがつまずくことがないように、これらのことをあなたたちに話しておく。 2 彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう。 3 彼らは父もわたしも知らなかったので、このようなことをするようになるのである。4a しかし、これらのことを話したのは、 それらの事態が起こる時が来たとき、わたしが言っておいたそれらの事態をあなたたちが思い起こすためである」。

一五章の段落区分について

 ぶどうの木のたとえで始まる「訣別遺訓」の拡張部分は、一五章の前半(一〜一七節)で復活者イエスにつながっていることの重要性とお互いの間の愛による一致を説いた後、一八節から一転して、イエスの弟子たちに対する世の憎悪と迫害について語り始めます。この主題は一五章の末尾で終わらず、一六章の最初の数節にまで及んでいます。この主題は一六章四節の前半まで続いていると見られます。四節の後半から新しい主題が始まるとして、底本もここに区分を置いています。多くの翻訳も、四節後半から新しい段落が始まるとして、別の見出しをつけています。
 そうすると、一五章は大きく見ると、前半(一〜一七節)の共同体内部の御霊による結びつきを説く部分と、後半(一八節以下と一六章の数節)の外からの憎悪と迫害に対する心構えを説く部分の二つに区分されます。しかし、前半部分にも復活者イエスとのつながりを説く部分(一〜八節)と、お互いの間の愛を説く部分(九〜一七節)という小区分があったように、この私訳では、世の憎悪と迫害を語る後半においても、原理としての世の憎悪(一五章一八〜二五節)と具体的な迫害の状況(一五章二六節〜一六章四節前半)という小区分を認め、それぞれ「世の憎悪」と「迫害の中での証し」という別の段落としています。

《パラクレートス》の証言

 「わたしが父のみもとからあなたたちに遣わそうとしている同伴者、すなわち父のみもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しすることになる」。(二六節)

 この訳では《パラクレートス》というギリシア語を「同伴者」と訳していますが、《パラクレートス》は本来法廷で被告を弁護する弁護士を指す用語としてよく用いられる語です。共観福音書で地上のイエスが、将来聖霊が弟子たちを助けることを語られたのは、弟子たちが信仰のゆえに迫害されて法廷に引き出される場面で用いられただけです(マタイ一〇・二〇)。これが、聖霊を《パラクレートス》という法廷的な用語で指す伝承の起源となったのかもしれません。ヨハネ福音書の《パラクレートス》はさらに広い意味で用いられているので「同伴者」と訳していますが、ここでは法廷で被告を弁護するために証言する方という狭い意味で用いられています。しがって、このような特別の状況では「弁護者」と訳す方が適切となります。

「同伴者」という訳語については、一四章一六節の「別の同伴者」についての注(本書59頁)を参照してください。

 「同伴者」とは、イエスが去られた後、復活者イエスが父のもとから遣わしてくださる聖霊を指していますが、その聖霊はこの福音書では「真理の霊」と呼ばれています。聖霊は、イエスが父から遣わされた御子であるという事実―それが「真理」です―を啓示される霊であるからです。聖霊は、御子としてのイエスの本質と栄光を啓示し、それを受ける者をこの復活者イエスとの交わりという霊の現実(リアリティー)に導き入れる方として、「真理の霊」と呼ばれるのです。

「真理の霊」については、一四章一七節の注(60頁)を参照してください。

 「あなたたちもまた、初めからわたしと一緒にいるのだから、証しをすることになる」。(二七節)

 聖霊がイエスの栄光を証言されるとしても、その証言を実際にこの世の人たちに語るのは、弟子たちの言葉によります。また、弟子たちは「初めからイエスと一緒にいるのだから」、自分たちが見たり聞いたりしたイエスの事実を証言することによって、聖霊が証言する御子としてのイエスの栄光を、具体的な形で伝えることになります。この二重の証言、すなわち聖霊による復活者イエスの本質と栄光の証言と、地上のイエスの出来事を目撃した弟子たちの証言が、イエス伝承を用いて霊なるキリストの栄光を伝える「福音書」という特殊な文学類型を生み出す源泉となります。

ユダヤ教会堂からの迫害

 「あなたたちがつまずくことがないように、これらのことをあなたたちに話しておく。彼らはあなたたちを会堂から追放するであろう。しかも、あなたたちを殺す者がみな、自分は神に仕えているのだと思いこむ時が来るであろう」。(一六章一〜二節)

 すでに九章が、イエスをメシア・キリストと告白するユダヤ人を会堂から追放するという決議がなされていた状況(九・二二)を前提にしていますが、訣別遺訓にこの追加部分(一五〜一七章)を加えた著者または編集者も、あたらめてこの状況に直面する信徒たちに決意を促しています。ここの内容は、イエスを信じる者たちに対する世の憎悪と迫害を語るこの段落(一五・一八〜一六・四a)はユダヤ教内部の対立、憎悪、迫害を問題にしていることを示しています。共観福音書(たとえばマルコ一三・九)では、世からの迫害について「法院に引き渡され、会堂で鞭打たれ」というユダヤ教内の迫害と、「長官(ローマ総督を指す)や王たちの前に立たせられ」という異教ローマ世界での迫害裁判の両方が視野に入ってきていますが(パウロは両方の裁判を受けています)、ヨハネ福音書ではもっぱらユダヤ教会堂との対立だけが問題になっています。

「会堂から追放する」の原文は「会堂から追放された者とする」です。「会堂から追放された者」とその決議(九・二二)については、九章の講解への序説「会堂からの追放決議」の項(T357頁以下)を参照してください。

 ここで、イエスをキリストと告白する者を会堂の裁判にかけて鞭打ちしたり追放するだけでなく、殺すようになることが予告されます。ユダヤ人がユダヤ人キリスト教徒を殺すことは、すでにステファノ以来始まっており、十二人の一人であるヤコブの殺害(使徒七・五八〜六〇)、主の兄弟ヤコブの殺害(62年)などがあります。回心前のパウロも、律法への熱心のゆえにイエスを信じる者を迫害し、後に「わたしはこの道の者を迫害し、獄に投じ、殺すことさえした」と回想しています(使徒二二・四)。ヨハネ福音書の著者または編集者は、このような迫害を知っており、キリスト教徒に対する異端宣告と会堂からの追放決議以後、そのような迫害が公式のものとなって激しくなる状況に直面しています。
 ユダヤ教には、ピネハス以来、律法(ユダヤ教という聖なる宗教)を汚す者を取り除く(殺す)ことは聖なる義務であり、神に仕えることだとする伝統があります(出エジプト記二五章参照)。律法に対する「熱心」がこの伝統を強め、マカベヤ戦争の時期と並んで、ユダヤ戦争前後の時期はこの「熱心」が燃えた時代でした。今ユダヤ教徒のこの「熱心」が、イエスを神とするキリスト教徒に向かい、「あなたたちを殺すことで、神に仕えていると思いこむ」時代が来ようとしている、と著者は警告するのです。この警告は、地上のイエスが語られた言葉の形をとっていますから未来形で語られていますが、著者と共同体はすでにそのような状況が始まっていることを体験しています。

 「彼らは父もわたしも知らなかったので、このようなことをするようになるのである」。(三節)

 このようにユダヤ教会堂がイエスを信じるユダヤ人を迫害し殺すのは、父から遣わされた方としてのイエスの栄光を理解しなかったからであり、したがってイエスが示された父の本質も理解しなかったからです。ここで著者はユダヤ教会堂を神を知らない集団であると断定しています。

 「しかし、これらのことを話したのは、 それらの事態が起こる時が来たとき、わたしが言っておいたそれらの事態をあなたたちが思い起こすためである」。(四節前半)

 イエスはご自身の体験から、律法主義に立つ(=ユダヤ教を絶対化している)ユダヤ教会堂勢力が、父から遣わされて父の恩恵の支配を告知する自分を憎んでいること、ついには殺すに至るであろうことを予告しておられました。そして、「弟子は師に勝らず」ですから、その憎しみは弟子たちにも及ぶことを予告して覚悟を促しておられました(マタイ一〇・二四)。ヨハネ共同体は今そのことが自分たちの身に起こっていることを体験し、イエスのお言葉を思い起こしています。ヨハネ共同体のユダヤ人信徒は、自分たちの信仰の母体であるユダヤ教会堂が自分たちを迫害し殺すことを、何か理解不可能な異常な事態ではなく、イエスが予告しておられたことであり、イエスが神から遣わされた方であることを示す「しるし」の一つとして受け止めています。

四節の「それらの事態が起こる時」と訳した箇所の原文は、「それらの時」または「彼らの時」の両方の理解が可能です。用いられている代名詞が中性複数形とも男性複数形とも理解できるので、両方の訳が可能です。ここでは中性複数形として、ここで話題になっている事態(会堂からの追放や異端者としての処刑)を指すと理解しています。
この箇所の「思い起こす」という動詞の対象は、直前に用いられていた代名詞(「それら」または「彼ら」)と同じです。ここでは「彼らを思い起こすために」という意味ではありえないので、両方とも中性名詞と理解しなければなりません。すると、直後に続く《ホティ》で導かれる節は、「わたしがあなたたちに話したという事実」ではなく、「それら」の内容を説明する節になります。すなわち、「わたしが(あらかじめ)あなたたちに話しておいた内容」という意味になります。四節前半は読み方の異なる写本が数種類あり、確定が困難ですが、底本を直訳すると、「しかし、わたしはあなたたちに語った、それらの時が来るとき、あなたたちが思い起こすために、わたしがあなたたちに言ったそれらを」となります。読みやすくため、「わたしがこれらのことを話したのは、それらのことが起こったとき、わたしがあなたたちにそれらのことについて言っておいたことを、あなたたちが思い起こすためである」としてもよいでしょう(多くの英語訳はこう訳しています)。

ヨハネ福音書における反ユダヤ教論争について

 ヨハネ福音書が「世」というとき、基本的にそれは自分たち信仰共同体と対立する原理で構成される世界一般を指しています。しかし、ここで見たように、もっとも尖鋭に対立する原理をもって自分たちを迫害するユダヤ教会堂を指す場合が多くあります。ヨハネ共同体にとって、ユダヤ教会堂は自分たちの信仰の母体であり、多くの共通点を持つ宗教団体であるだけに、彼らへの反論は激烈にならざるをえません。それで、ヨハネ福音書は自分たちと世との対立を、越えることができない淵を隔てた二つの世界として、二元論的な対立で描くことになります。
 マタイ福音書と同じく、ヨハネ福音書もユダヤ教会堂勢力と厳しく対立する状況で成立していますので、ユダヤ教とユダヤ人に対する判断と言葉が激烈になっています。マタイ福音書も、その二三章でファリサイ派のユダヤ人会堂勢力を「地獄の子ら」と断罪し、彼らの偽善を激しく攻撃しています。しかし、その箇所の講解で述べたように、このようなユダヤ教に対する断罪が新約聖書にあるからといって、新約聖書を正典とするキリスト教会がユダヤ教を永遠に断罪することは、筋違いの論理であり、聖書の読み違いです。
 このような双方の批判と断罪、すなわち、イエスを信じるユダヤ人に対するユダヤ教会堂からの死に値する異端者としての断罪と、信徒共同体からユダヤ教会堂を偽善者とか神を知らない者とする批判は、ユダヤ教内部の二つのグループの対立と相互の断罪です。したがって、その一つの立場からする相手への断罪をユダヤ人全体への断罪とすることは、論理的に間違っています。
 さらに、このような福音書のユダヤ教会堂への断罪をキリスト教の教義の一部とすることは、聖書の読み違いです。聖書の各文書、あるいはその各部分は、それが成立した歴史的状況を考慮して理解しなければなりません。それを無視して、文言だけを絶対化するのは原理主義的な(ファンダメンタリズムの)誤りです。その歴史的状況の中で理解するならば、マタイやヨハネがユダヤ教会堂に対してこのような激しい断罪を語らざるをえなかった事情も理解できます。それは、その状況での信仰告白の必然です。しかし、もはやそのような状況にないわたしたちが、そのような批判と断罪を無批判に教義とすることは、地上の歴史の出来事を通して霊的真理を伝えようとする聖書の本質から外れた読み方になります。聖書の文言の機械的な絶対化は、人間の霊性を抑圧し、宗教を名目とした様々な惨禍を引き起こします。「文字は殺し、霊は生かす」のです。

この問題については、拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』320頁以下の「マタイの反ユダヤ教論争」の項を参照してください。