市川喜一著作集 > 第16巻 対話編・永遠の命U > 第11講

第二節 世に対する勝利

55 悲しみが喜びに(16章 16〜22節)

 16 「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。 17 そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。 18 彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。 19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか。 20 アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる。 21 女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない。 22 そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。

しばらくすると

 「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」。(一六節)

 ここでは「見なくなる」と「見ることになる」と同じ「見る」で訳していますが、原語では違う動詞が用いられています。先の「見なくなる」は、目で見ることを指す普通の動詞ですが、後の「見ることになる」は、復活されたイエスが「現れた」ことを表現するのに、「(誰それに)見られた」と受動態で用いられる動詞(たとえばコリントT一五・五〜八)が能動態で用いられています。この節は、イエスが世を去って、もはや普通の意味では見ることができないようになりますが、その後すぐに復活者として弟子たちには見られるようになることを予告しています。

 そこで、弟子たちの中のある者たちは互いに言った。「『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』とか、『わたしは父のもとに行くのだ』と言われるが、これは何のことだろう」。彼らは、「『しばらくすると』というのは、何のことだろう。わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言った。(一七〜一八節)

 著者とその共同体は、イエスが十字架上に死なれたあと復活して、イエスがそこから来られた元の場所、すなわち父のもとに帰られたことを知っています。そのことを生前のイエスはしばしば「わたしは父のもとに行くのだ」と語られたと描きました。そして、この最後の食事の席でも、すぐに起ころうとしているその出来事を、「しばらくすると」という句を繰り返して、「あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる」と語られたとします。
 しかし、同時に著者は、自分自身を含めて、イエスの生前にその言葉を聞いた弟子たちは、その言葉が十字架の死と復活を指していることは理解できなかったことも熟知しています。弟子たちは、最後の食事の席においてもまだイエスの言葉を理解していません。弟子たちは最後の最後まで、メシアとしての働きと栄光が現れることを期待しており、師の真意を理解していませんでした。弟子たちは師の不可解な言葉に困惑し、互いに議論しています。著者はその事実をよく知っています。そのことをイエスと弟子たちの対話のドラマの中で描きます。
しかし同時に、著者はこの「しばらくすると」というお言葉について一般の信徒たちが正しく理解していないとして、その無理解を正そうとしている面があります。「弟子たちの中のある者たち」とはヨハネ共同体の外の一般の信徒共同体を指しており、彼らはイエスが「しばらくするとわたしを見ることになる」と語られた言葉を正しく理解していないと、著者は心配しています。著者は、彼ら自身が「わたしたちには、お話になっていることが分からない」と言っているとし、無理解を告白しているとします。
 ヨハネ共同体の外の一般の信徒共同体では、この「しばらくすると」は「来臨」《パルーシア》までの時が短いことを指すと理解され、復活されたイエスがすぐに栄光の中に来臨されると待ち望まれていました。そのような理解に対して、ヨハネ共同体はこの「しばらくすると」を復活までの時が短いことを指すのだとして、「またわたしを見ることになる」という再会の約束を、来臨ではなく復活顕現を指すとします。世を去って行かれたイエスに再会するのは、将来の来臨ではなく、聖霊によって復活者イエスに出会うときに起こるのだというのが、ヨハネ共同体の主張です。

 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って、言われた。「わたしが『あなたたちは、しばらくするとわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見ることになる』と言ったので、このことであなたたちは互いに論じ合っているのか」。(一九節)

 このように、「またしばらくするとわたしを見ることになる」というお言葉について、弟子たちの間に論争があることを知っている著者は、その論争にイエスご自身が語りかけるという形(二〇〜二二節)で、一般に終末時のこととして将来に待ち望まれている勝利の事態が、聖霊によって復活者イエスと出会う体験においてすでに来ていることを、以下の数節(二〇〜二二節)で証言します。

産みの苦しみと命の喜び

 「アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちは泣き、嘆くことになるが、世は喜ぶであろう。あなたたちは悲しむことになる。しかし、あなたたちの悲しみは喜びに変わる」。(二〇節)

 この証言は、この福音書特有のアーメンを繰り返す荘重な形式で、復活者イエスが共同体に語りかける言葉として書き記されます。
 頼りにしていた師であるイエスが取り去られ、弟子たちは泣き嘆くことになりますが、イエスを憎んでいた世は、イエスがいなくなったことを喜ぶことになります。この節の動詞はみな未来形です。それは、この最後の食事の時から見れば、十字架と復活は「しばらくすると」起こる未来の出来事であるからです。
 しかし、弟子たちの嘆き悲しみは、すぐに喜びに変わることが約束されます。そして、その約束が、女が子を産むときの体験を比喩として印象深く語られます。

 「女は子を産むとき、その時が来たというので苦しむものである。しかし、子が産まれてしまうと、人が世に生まれたという喜びのために、もはやその苦痛を思い出すことはない」。(二一節)

  出産の時が近づくと、妊婦は陣痛の苦しみを味わいます。しかし、無事出産して、赤ちゃんの元気な泣き声を聞きますと、新しい生命の誕生を喜ぶ命の喜びに満たされて、陣痛の苦しみは忘れてしまいます。この節(二一節)では比喩だけが語られていますが、出産を比喩として描かれる弟子たちの体験、悲しみが喜びに変わるという体験は次節(二二節)で語られることになります。しかし、ここで「産みの苦しみ」が比喩として用いられていること自体が重要です。
 「産みの苦しみ」という表現は、共観福音書では黙示思想的な終末時の苦難を指すのに用いられています(マルコ一三・八)。終わりの時が来て、世界に新しい時代が生まれ出る前には、出産の前に陣痛が伴うように、世界には飢饉や地震や戦争というような激しい患難、とくに義人への迫害が臨むと、黙示思想の諸文書は予告し、それを「産みの苦しみ」と表現していました。それを受けて、復活されたキリストが間もなく栄光の中に来臨されることを宣べ伝えた初期の福音宣教も、その前に迫害など「産みの苦しみ」があることを語っていました(テサロニケT五・三、ローマ八・二二)。ローマ帝国からの迫害の予感の中で書かれたヨハネ黙示録には、キリスト来臨の前に信徒と世界に臨む苦難が激しいイメージ表現で列挙されています。「産みの苦しみ」という表現自体は出てきませんが、その内容は「産みの苦しみ」の提示そのものです。
 それに対してヨハネ福音書は、その「産みの苦しみ」の比喩を十字架・復活の場面で用います。新約聖書の中の黙示思想的な部分がキリストの復活と来臨の間の歴史的出来事としたものを、ヨハネ福音書は師の刑死と復活された栄光のキリストに出会う間の弟子たちの内的な出来事に凝縮していることになります。そして、この出産の比喩が指し示す弟子たちの体験が、次節(二二節)で語られることになります。

二〇節で「悲しむ」とか「悲しみ」と訳し、二一節前半で「苦しむ」と訳した原語は、同じ語を用いた表現であり、その語は悲しみ、苦しみ、苦悩、不安など、内面的な痛みを広く指します。二〇節では、喜びに対立する感情として「悲しみ」と訳し、二一節前半では出産の苦しみ全般を指すと理解して「苦しみ」と訳しています。しかし、二一節後半で「苦痛」と訳した語は、先に「悲しみ」とか「苦しみ」と訳した語とは違う用語で、外的な事情からくる苦難を指す場合が多い語です。迫害による苦難とか終末的な苦難にもよく用いられています。ここでは「産みの苦しみ」を指すので「苦痛」と訳しています。

 「そこで、あなたたちもまた、今は悲しみがあるが、わたしは再びあなたたちに会うことになり、あなたたちの心は喜びに溢れるであろう。そして、その喜びをあなたたちから奪い去るものはない」。(二二節)

 最初の句「あなたたちもまた」において、「あなたたち」が強調されています。出産に臨んだ女と同じように、あなたたちもまた同じ状況にある、の意です。イエスが去っていくと語られたので、弟子たちは「今は」悲しみで一杯です(六節参照)。しかし、先にも述べたように(六節の講解)、この「今」の悲しみは、実際は師が刑死された直後の弟子たちの状況を指しています。正確には、二〇節が語っているように未来形で語られる状況です。事実としては十字架直後の状況が、今のこととして語られ、今のこの悲しみがすぐに喜びに変わることが約束されます。それは、陣痛の後に出産の喜びを体験する妊婦のように、確かなこととして語られます。
 そのように悲しみが喜びに変わるのは、去って行かれたイエスに「再び会う」ことになるからです。この「再び会う」は、ヨハネ福音書においてはキリストの来臨《パルーシア》を指すのではなく、「別の同伴者」の姿で戻ってこられる復活者イエスにお会いすることを指しています(一四・一八)。このことは、訣別遺訓の主題として著者が繰り返し強調するところです。
 聖霊による復活者キリストとの交わりから発する命の喜びは、存在の最奥から溢れ出る喜びですから、地上の状況がどのようなものになろうとも、それに左右されることはありません。また、神の右に座す方との交わりですから、霊界のいかなる力もその喜びを妨げることはできません。パウロがローマ書八章の末尾であげている勝利の凱歌が、この喜びを彩ります。

>56 世に対する勝利(16章 23〜33節 )

 23 「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう。 24 あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう。
 25 これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る。 26 その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない。 27 あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである。 28 わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。
 29 弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 30 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。 31 イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。 32 見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである。 33 わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。

直接父に求めよ

 「そして、その日には、あなたたちはわたしに頼むことは何もないであろう。アーメン、アーメン、わたしはあなたたちに言う。あなたたちがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたたちに与えてくださるであろう」。(二三節)

 「わたしに頼むことは何もない」というのは、「その日」を境にして、それまでは弟子たちは地上のイエスに頼って、何でも師であるイエスにお願いしていたが、その日になると、イエスの名によって(イエスの立場で、イエスがそうしておられたように)直接父に求めるようになるので、それ以前のようにイエスに頼むことはなくなる、という意味です。

「頼む」と訳した動詞《エロータオー》は、普通「尋ねる(質問する)」という意味で用いられる動詞であって、二三節後半と二四節に用いられている「求める」《アイテオー》とは違う動詞です。しかし、ヨハネ福音書ではこの《エロータオー》は「願う」とか「頼む」という意味の用例もかなりあります(四・三一、四・四〇、四・四七、一二・二一、一四・一六、一六・二六、一七・九、一七・一五、一七・二〇、一九・三一、一九・三八)。とくに一六・二六では、二つの動詞が並行して用いられており、《エロータオー》の方は明らかに「頼む」の意味であって、「尋ねる」では意味をなしません(英訳はこの二つの動詞をいつも同じ ask で訳しています)。ここ(二三節)でも、前後の意味のつながりから、「願う」とか「頼む」と理解しなければなりません。

 このような劇的な変化が起こる「その日」とは、この訣別遺訓で繰り返し語られていた「真理の御霊」が来られる日、その御霊において復活者イエスが戻ってきて、同伴者としていつも信じる者と共に、またその内にいてくださるようになる日です(一四・一六〜二〇)。黙示思想が「かの日」とか「その日」と呼んで将来に待ち望んできた終わりの日に起こる決定的事態が、イエスの十字架・復活、そして聖霊到来の事態においてすでに起こっているとし、ヨハネ福音書はその出来事が起こる時を「その日」と呼びます。
 ヨハネ共同体は(そして現代のわたしたちも)「その日」に生きています。その共同体に復活者イエスが語りかける言葉(おそらく霊感された預言者によって語り出された言葉)が、荘重にアーメンを繰り返すこの福音書独自の定型句で書きとどめられます(二三節後半)。これはすでに本来の訣別遺訓(一三〜一四章)に置かれていましたが(一四・一三〜一四)、この拡張部分でも繰り返されます。ただ、一四章では「あなたたちがわたしの名によって求めることは、わたしがそれをする」と言われていましたが、ここでは「父が与えてくださる」となっています。ヨハネ福音書では父と復活者イエスが(わたしたちへの働きかけにおいては)重なっていることが、ここにも現れています。

 「あなたたちは今までわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい。そうすれば受け取って、あなたたちの喜びは満ちあふれるであろう」。(二四節)

 「わたしの名によって」という句は、本来「わたしの名代として」の意です。その名の人物の代わりに行動する立場を指しています。「その日」以後は、弟子たちはイエスの立場で父に求めることを許されます。父はイエスにされたように、イエスの立場で求める者にしてくださると約束されます。
 「求めよ、そうすれば受けるであろう」というこの句には、「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という「語録資料Q」の語録(マタイ七・七、ルカ一一・九)が、用語を変えて響いています。ヨハネ共同体もこの語録を受け継いでいたと見られます。

もはや謎ではなく

 「これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る」。(二五節)
 地上のイエスは神の国について、また父についていつも「謎《パラボレー》の形で」、すなわち隠された形で語られましたが、「その日」には復活者イエスは聖霊によって父の栄光を魂に直接、もはや何も隠すことなく明白に告げ知らせることになります。

共観福音書では、イエスはすべて《パラボレー》(たとえ)の形で神の国のことを語られたとされていますが(マルコ四・三三など多数)、ヨハネ福音書ではこの語は用いられないで、ほぼ同じ意味の《パロイミア》が用いられています(ここと二九節、および一〇・六の三箇所)。両方ともヘブライ語の《マーシャール》(格言、謎、比喩、象徴)に相当するギリシア語ですが、ここでは「(何も隠さないで)明白に」と対照されているので、「謎の形で」と訳しています。一〇・六では「たとえ」「比喩」としてもよいでしょう。

 「時が来る」というのは、この訣別遺訓で繰り返し「その日には」と語られている時を指します。その時は、イエスが世を去り「別の同伴者」(聖霊)が来られる時です。その日は復活されたイエスに会う日であり、栄光の主が世に臨まれる日です。ヨハネ福音書ではイースター(復活顕現)、ペンテコステ(聖霊降臨)、パルーシア(キリスト来臨)が重なっています。

 「その日には、あなたたちはわたしの名によって求めることになる。わたしは、あなたたちに代わってわたしが父に頼んであげようとは言わない」。(二六節)

 この箇所(二三〜二八節)では、「その日には」父と弟子たちの関わり方が変わることに重点が置かれています。それまでは弟子たちはイエスを介して初めて父と関わりを持つことができたのですが、「別の同伴者」である聖霊が来られる「その日には」、弟子たちは「イエスの名によって」(イエスの立場で)直接父と関わるようになるのです。もはや、イエスが弟子たちに代わって父に頼んでくださるという仲介を必要としなくなります。そして、そうなる理由が次節で語られます。

 「あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので、父御自身があなたたちを親しく愛しておられるからである」。(二七節)

 そのように弟子たち(わたしたち)が、もはや地上の人であるイエスの仲介なしで直接父に求めることができるようになるのは、父御自身がイエスに属する者を直接「親しく愛しておられるから」です。ここでは肉親や友人など身近な親しい者を愛するという意味の《フィレオー》が用いられているので、こう訳しています。
 父が弟子たちを親しく愛しておられるという文が、二六節の言明の理由として(原文では前節に)すぐに続いていて、その後に「あなたたちがわたしと親しくし、わたしが神から来たことを信じたので」という、父が弟子たちを親しく愛される理由を示す文が続いています。この文にも弟子たちがイエスを「愛した」《フィレオー》とありますが、ここでは「親しくした」と訳しています。ここではイエスと親しくすることの中に、イエスが「神から来たことを信じる」ことが含まれます。この福音書では、イエスが神から来られた方であることを信じることだけが求められていますが(六・二九)、ここではそれが「親しくする」《フィレオー》という具体的で人間的な情愛に包まれて登場しています。そして、父とわたしたちのかかわり方も、「父御自身があなたたちを親しく愛しておられる」という、暖かみを感じさせる表現になっています。

 「わたしは父のもとから出て世に来たのであるが、世を去って再び父のもとに行くのである」。(二八節)

 イエスは父からこの世に遣わされた方であり、その死とそれに続く出来事(復活)は、イエスが世を去って再び父のもとに行かれることであるという使信こそ、この福音書が世に向かって、とくにユダヤ教会堂に向かって語る使信の核心です。それがここで繰り返されます。

 弟子たちが言う、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません。 あなたはすべてのことを知っておられ、誰かがあなたに頼むのを必要とされないことが、今はわたしたちにも分かります。このゆえにわたしたちは、あなたが神から来られたことを信じます」。(二九〜三〇節)

 この部分の解釈は混乱しています。混乱の理由の一つは、「必要としない」という動詞の主語がほとんどの邦訳であいまいだからです。邦訳はほとんどみな「誰もお尋ねする必要がない」と訳していますが、これは「必要とする」の主語を「誰か」(三人称単数)として読んでいることになり、文法的に成り立ちません。「必要としない」という動詞は二人称単数形であって、主語は「あなた」です。英訳はみな「あなたは(誰かがaskすることを)必要とされない」と正しく理解しています。日本語訳では、文語訳の「人の汝に問うを待ち給はぬこと」だけがこの意味に理解しています。

「誰かがあなたに頼む」という句の動詞《エロータオー》は、「尋ねる」と理解するか「頼む」と理解するかは問題が残ります。この箇所に関しては、ほとんどの現代語訳は「尋ねる」としていますが、私訳では一貫して「頼む」と理解します(二三節の「頼む」の注を参照)。

 「あなたは人が頼むのを必要とされない」というのは、人から頼まれてはじめて何かを行う方ではなく、人が頼む前にすべてを知って事をなされる方である、という意味に理解することができます。この文は、直前の「あなたはすべてのことを知っておられる」と並行しており、「すべてのことを知っておられる」ことを別の表現で語ったものです。
 このように文意を理解して読むと、「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません」という弟子の言葉は、イエスがこの訣別遺訓で「その日」に起こることを予告しておられる事態を指していると見ることができます。「その日」に起こることは、弟子たちが頼んだので起こるのではなく、すべてを知っておられるイエスが、これから起こることをすべて知っておられ、これからしようとすることを「明らかに」予告されたのだと、弟子たちは気づきます。イエスがこのような方であると分かって、弟子たちは「あなたが神から来られたことを信じます」と告白するに至ります。
 イエスは先に「これらのことを、わたしはこれまで謎の形であなたたちに語ってきた。もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに告げ知らせる時が来る」(二五節)と、未来形で語っておられました。その箇所の講解で述べたように、その「時」とは、イエスが世を去り「別の同伴者」(聖霊)が来られる時です。その日は復活されたイエスに会う日です。その時には復活者イエスは「もはや謎の形で語るのではなく、父について明らかに」告げ知らせてくださることになります。したがって、弟子たちがここで「今あなたは明らかにお話になり、もはや謎を語られません」と言い表しているのは、聖霊が来られて、聖霊によって復活者イエスが明らかに父のことを語ってくださるのを聴いているヨハネ共同体の現在の体験を、先取りして告白していることになります。
 「その日」の弟子たちは、明らかにされる父とイエスの一体関係を理解して、イエスを神から来られた方として力強く告白することになるでしょう。しかし、最後の食事の席の弟子たちは、まだその理解はありません。「その日」以前の弟子たちは、わたしたちは信じます」と言っても、力はありません。現実には、彼らが目の前で苦しみを受けるイエスを見棄てて逃亡するようになることが予告されます。

イエスは世に勝っている

 イエスは彼らにお答えになった、「今あなたたちは信じているのか。見よ、あなたたちがそれぞれ自分の所に散らされ、わたしを独り置き去りにするようになる時が来ようとしている。いや、すでに来ている。だが、わたしは独りではない。父がわたしと一緒にいてくださるからである」。(三一〜三二節)

 イエスの死にさいして弟子たちがイエスを見捨てて逃亡することは、共観福音書(マルコ一四・二七と並行箇所)では最後の晩餐の後ゲッセマネへ行く途上で、イエスがゼカリヤ書の預言を引用する形で予告されたとされていますが、ヨハネ福音書では最後の食事の席での訣別遺訓の中で予告されています。用語と状況は違いますが、弟子たちの逃亡をイエスが予告されたことについて共通の伝承があったと見られます。
 弟子たちが受難する師を見棄てて逃亡することが予告され、その時が「来ようとしている」と言われた直後に、「いや、すでに来ている」と言い直されます。この食事の直後にそのことが起ったことを知っている著者は、こう言い直さないではおれなかったのでしょう。
 「そんな人は知らない」と言って、イエスとのつながりを否定したのはペトロだけではなかったでしょう。弟子たちはみなイエスを否定し、「それぞれ自分の所に散らされ」、ガリラヤの生活に戻ります。
 弟子たちはイエスを見棄てて逃げ去り、イエスはひとり世からの迫害の苦しみをお受けになりますが、そのことを覚悟しながら、イエスは「だが、わたしは独りではない」と断言されます。イエスはどんな時、どのような状況においても「父が一緒にいてくださる」という現実に生きておられます。

 「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように、わたしはこれらのことをあなたたちに語った。世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」。(三三節)

 最後に、この訣別遺訓でイエスが語られたことは、「わたしの内にいることであなたたちが平安を得るように」なるためであると、この遺訓全体の意図が説明されます。この世界の中でイエスに従う弟子であることは、多くの苦しみを引き受けることになるが、すでに世に打ち勝たれたイエスの内にとどまることによって、平安と勝利を得ることが約束されます。だから「勇気を出しなさい」という励ましで、この遺訓が締め括られます。
 「勇気を出しなさい」という表現は、ヨハネ福音書ではここだけに出てきます。マルコでは二回(六・五〇と一〇・四九)、マタイでは三回(九・二、九・二二、一四・二七)ありますが、新約聖書での用例は比較的少ないようです。マルコ六章とマタイ一四章では、湖上で顕現された復活者イエスが恐れる弟子たちにこう呼びかけておられます。
 「勇気を出しなさい」という励ましの根拠は、「わたしは世に打ち勝っている」という言葉で表現されています。復活者イエスはすでに死と闇の領域である世に打ち勝っておられるのですから、復活者イエスの内にとどまる者は、復活者イエスと共に「世に打ち勝つ」ことができるのです。この確信が勇気の根拠となります。

特注―ヨハネ福音書における「世」

二つの用語

 では「世に打ち勝つ」とはどういうことでしょうか。それを理解するために、まずヨハネ福音書において「世」という語がどういう意味で使われているかを確認しておきましょう。
 新約聖書で「世」と訳されているギリシア語原語は二つあります。一つは《アイオーン》で、もう一つは《コスモス》です。《アイオーン》というギリシア語はもともと限りなく長い時、すなわち永遠を指す語ですが、比較的長い時間的スペースを指す語として、「世代、時代、時期」という意味でも用いられます。この語はヘブライ的終末論とか救済史上の時代区分として、とくに黙示思想においてよく用いられ、神が特定の仕方で民を扱われる時代区分を指すのに用いられます。とくに、神の支配が実現する「来るべき《アイオーン》」に対して、悪しき者が支配する現在の時代を「この《アイオーン》」と呼ぶのが典型的な用法です。このように《アイオーン》は時間についての用語ですから、「代」と訳す方がよいのかもしれません。
 それに対して《コスモス》というギリシア語は、本来「秩序、整然としていること」を意味する語であり、ギリシア人はこの語を宇宙とか存在界全体を指すのに用いました。ギリシア人は存在界全体を秩序ある美しい統一体と見て、それを《コスモス》と呼んだのです。そして、ギリシア思想においては、この秩序ある存在界全体は、その秩序に合致して生きることが人にとっての善であるとして、価値の源泉、神的存在とされていました。
 ギリシア語を用いたヘレニズム期のユダヤ教において、神が創造された天地の万物がこの《コスモス》という語で語られるようになり、地に住む人間の世界もこの《コスモス》という語で指し示されるようになります。ユダヤ教においては、人間は神によって造られたものでありながら、創造者なる神に背いていると見られているので、《コスモス》という語も、この人間世界を含む被造物世界全体を指すと同時に、神の被造物でありながら神に背いている世界を意味することになります。新約聖書各文書の著者たちは(パウロもヨハネも)基本的にこのヘレニズム・ユダヤ教の用法を引き継いで《コスモス》という語を用いています。
 ところで、パウロは《アイオーン》と《コスモス》の両方の用語を用いていますが、ヨハネになると《アイオーン》の方はほとんど用いられず、もっぱら《コスモス》が用いられています。ということは、パウロが「世」というときは、なお救済史的・黙示思想的な「時代」という意味が残っていますが、ヨハネになるとそのような救済史的・黙示思想的な時間の枠組みはほとんどなくなり、ギリシア思想的な空間的な概念が前面に出て来ています。

ヨハネが《アイオーン》を用いるのは、「永遠に」とか「いつまでも」という意味の熟語として用いるだけで、救済史的な時代を指す用例はありません。それに対して《コスモス》の方は、全新約聖書の一八六回の用例の中、ヨハネ文書(福音書と手紙)で一〇八回を占めています。ヨハネが《コスモス》をいかに強く意識していたかがうかがわれます。

対立する二つの領域

 ヨハネも、先に見たヘレニズム期ユダヤ教における《コスモス》の用法を受け継いでいますが、ヨハネはこの語にヨハネ独自の意味合いをこめて用いている面があります。ヨハネは、自分たちが復活者キリストにおいて体験し生きている新しい命《ゾーエー》の領域と、その自分たちに対立し別の原理で存立している外の世界とを峻別して、両者をまったく相容れない領域として描きます。ヨハネ福音書においては、復活者キリストにあって生きる共同体は命と光の領域にあり、それに敵対する外の領域は死と暗闇の領域を形成することになります。この外の死と闇の領域を、ヨハネは「世」《コスモス》と呼ぶのです(たとえば三・一九、八・二三、一五・一八〜一九、一七・九、一八・三六)。
 著者ヨハネとその共同体にとって、自分たちがとどまっている命と光の領域を支配されるのは父なる神であり、父から遣わされた子である復活者イエスです。そして、父と復活者イエスの支配は重なっています。それに対して、対立する死と闇の領域を支配するのは「この世の支配者」と呼ばれる霊的勢力です(一二・三一、一四・三〇、一六・一一)。これは他の箇所では「サタン」とか「悪魔」と呼ばれています。
 この二つの領域は、相交わることなく、まったく別の原理で支配され成り立っている世界であるとされるので、この二つの領域の峻別はよくヨハネの「二元論」と呼ばれます。哲学的には厳密な呼称ではないかもしれませんが、ヨハネの思想傾向をよく現しています。
 もちろんヨハネは、この《コスモス》という語を自分たちと価値的に対立する暗闇の勢力とか領域を指すのに用いるだけでなく、先に見たヘレニズム・ユダヤ教における神に背く被造世界とか人間界一般という意味でも多く用いています(大部分がこの用例です)。しかし、ヨハネが《コスモス》と言うときには、この二つの意味合いが溶け合っていて、どちらか一方に決めることができない場合もあります。
 ヨハネが自分たちの共同体に対立する領域やその勢力を「世」と呼ぶとき、その代表的勢力はユダヤ教会堂です。ヨハネ共同体は、イエスが神から遣わされた方であるという告白をめぐって、その時代のユダヤ教会堂と厳しく対立し、会堂側から激しい迫害を受けています(一六・二〜三)。したがって、ユダヤ教会堂を批判し攻撃する言葉も激しくならざるをえません。この福音書が「世」を激しく攻撃するとき、それはユダヤ教会堂に対する攻撃である場合がかなりあります(たとえば七・七、八・二三、一四・一九)。
 ヨハネ共同体は、直接には対立するユダヤ教会堂勢力と論争しつつ、ユダヤ教会堂と同じ原理で構成される外の世界一般と戦っているのです。「世」《コスモス》は、イエスを受け入れず、真理の御霊を受け入れようとはせず、自分の力で立とうとする世界です(一四・一七)。この外の世界に対してヨハネ共同体は、ただイエスを神から来られた方として受け入れ信じることだけが命と光の領域に入る道だと、説いて止みません。
 イエスが最後の食事の席で語られたとされる「訣別遺訓」では、世に残される弟子たちのために、世にあっていかに戦うのか、去って行かれるイエスが弟子たちを教え励まされることになります。したがって、弟子たちがこれから対峙する「世」が主題となり、最後に「世にあってあなたたちは苦しみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは世に打ち勝っている」という励ましの言葉で締め括られるのも当然です。
 弟子たち(イエスを信じる者たち)は、世から引き出されて、もはや世に属する者ではありませんが、現実には世にあって歩んでいます。対立する原理で成り立っている世からは、憎しみと迫害が来るでしょうが、その「世」に打ち勝つには、世から命の領域に移るのはイエスを信じることだけであったように、どのような状況にあっても、死から復活して世に打ち勝たれた復活者イエスの中にとどまる以外にはありません。世にありながら、どのような困難な状況にあっても、そこから導き出された元の世に戻ることなく、世と峻別される命と光の領域にとどまり続けることが(ヨハネが言う)「世に対する勝利」です。そのとき(わたしたちが復活者イエスの内にとどまるとき)、復活者イエスが遣わしてくださる「別の同伴者・助け主」である聖霊が、わたしたちを助けて力を与え、勝利させてくださるのです。このことが「訣別遺訓」全体の内容でした。

「世に勝つ」という同じ主題について、パウロは少し違ったアプローチで語っています。パウロの場合については、『天旅』二〇〇五年6号の福音講話「世に勝つ信仰」を参照してください。なお、この講話は『市川喜一著作集』第一版には入っていませんが、第二版の『教会の外のキリスト』増補版に掲載する予定です。

 なお、ヨハネ福音書の《コスモス》に対する厳しい態度ないし反感は、後のグノーシス主義者たちにこの福音書に親近感を覚えさせる一因になったのではないかと考えられます。グノーシス主義は、《コスモス》を価値の源泉として仰ぐ正統のギリシア思想に反抗して、《コスモス》を悪と見る思想であり、《コスモス》の外に、あるいは《コスモス》を超えたところに神的世界があるとし、そこへの帰還を救済とする宗教思想です。しかし、ヨハネ福音書とグノーシス主義との関係は、問題があまりにも大きくて、この講解の範囲を超えますので、ここでは《コスモス》に対する態度にある種の共通点が見られる事実を指摘するにとどめます。