4 マリア、エリサベトを訪ねる (1章39〜45節)
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。(一・三九〜四〇)
「そのころ」というのは、マリアが天使の告知を受けてから何ほどかの日時が経ったころを指しているのでしょう。しかし、ルカはこの表現を物語のつなぎに用いるだけですから、出来事の日時を問題にすることはありません。マリアは天使のお告げで親戚のエリサベトが懐妊してもう六か月にもなっていることを知って、急にエリサベトに会いたくなり、彼女のところに急ぎます。「急いで」の一句に、この時のマリアの上から迫られている熱い気持ちが表されています。この句は「熱心に」とか「決意をもって」と訳すこともできます。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」。(一・四一〜四二)
「おどった」と訳されている語は、「跳び上がる」という意味の語です。胎児は六か月以上になっているのですから、エリサベトはその胎動を感じることができます。その時、エリサベトは「聖霊に満たされて」声高らかにマリアと胎内の子を祝福します。ルカは「聖霊」の働きに触れることが多い福音書記者です。その傾向はとくに誕生物語で目立ちます。ルカはその福音書で「聖霊」という語を一三回用いていますが(これは他の福音書と較べると圧倒的に多い回数です)、その中の六回は誕生物語に出てきます。この事実はこの誕生物語が、日頃聖霊の働きを強く体験していて、恵みの事態をすべて聖霊の働きに帰して神を賛美していたルカの時代のパウロ系共同体での成立であることを示唆しています。実際にマリアが出産したときのユダヤ教社会では、このように「聖霊」が言及されることはなかったはずです。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」。(一・四三〜四四)
エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」と呼んでいます。この呼び方は、やがてマリアから生まれる子が自分の《キュリオス》(主)となることを知っている者の呼び方です。この呼び方には、復活されたイエスを《キュリオス》と呼んだ最初期共同体の信仰が反映しています。ここでエリサベトは、イエスを《ホ・キュリオス》と言い表すキリスト信仰を予感する魂として描かれています。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。(一・四五)
天使ガブリエルが伝えた主の言葉を、「わたしは主の奴隷です。お言葉どおりこの身になりますように」と言って、ひれ伏して受け入れたマリアを、エリサベトは「なんと幸いでしょう」と祝福します。この信仰がマリアを「女の中で祝福された者」とします。エリサベトは今も、夫の祭司ザカリアが天使の言葉を信じなかったためにものが言えなくなっている現実に直面しています。それだけにマリアが信仰によって祝福されていることを強く意識するのでしょう。このエリサベトの祝福にも、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」信仰に生きた最初期共同体の信仰が鳴り響いています。