9 羊飼いと天使(2章8〜21節)
先の段落で、馬小屋での誕生という事実がキリストの《ケノーシス》のしるしであることを見ましたが、神の右にまで上げられる方の誕生であることを指し示す「瑞兆」も与えられていたことが、この段落で語られます。この二つの段落が一組となって、イエス誕生の様子を伝える箇所になります。この二つの段落を一つの段落にまとめて扱う注解書も多くあります(たとえばNTD)。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。(二・八〜九)
その「瑞兆」は、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに与えられます。ここで、羊飼いという身分が当時のユダヤ教社会できわめて低いものであったことを思い起こす必要があります。彼らは、徴税人や遊女や盗賊と並んで、証言の資格もない、ユダヤ教社会の枠外の階層の人たちでした。そのような人たちに天使(単数)が現れて、救い主の誕生を告げ知らせます。これは、宮廷の博士たちにその誕生が告げられ、彼らからの高価な宝物の捧げ物で飾られたマタイの物語と対照的です。ルカでは、汚れた衣服の貧しい羊飼いたちが、馬小屋の飼い葉桶を取り囲むことになります。なお、この段落の羊飼いの物語は、メシアの原型となったダビデが若いときはベツレヘムの羊飼いであったという伝承が背景にあるとされています。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。(二・一〇〜一一)
怖じ恐れる羊飼いたちに、天使は「恐れることはない」と呼びかけ、その理由を続けます。すなわち、天使は恐ろしいことを告知するために来たのではなく、「わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる」ために来たのだから、と告げます。この文は、理由を示す《ガル》で始まっています。ルカにおける《ソーテール》の使用については、拙著『福音の史的展開U』414頁「異邦人向けの表現」の項を参照してください。
《クリストス》は「油を注がれた者」という意味のギリシア語です。このギリシア語は、旧約聖書の《マーシアハ》(メシア、油を注がれて王とか祭司というような職務に任じられた者)の訳語として用いられ、後のユダヤ教では、終わりの日に神の霊を注がれてイスラエルの救いのために遣わされると約束されている救済者を指すようになります。福音書ではイエスがこういう意味での《クリストス》であるかどうかが問題となり、復活後ではそういう《クリストス》であると告知されるようになります。ルカは誕生物語で、「今日ダビデの町で生まれた」幼子をそういう意味の《クリストス》だと告知するのです。その《クリストス》を、新共同訳は当時のユダヤ教での呼び方である「メシア」に戻して訳出しています。協会訳(口語訳)は「キリスト」と訳しています。新約聖書における《クリストス》の訳語については、、拙著『マルコ福音書講解T』330頁「メシアとキリスト」の項、および拙著『マタイによるメシア・イエスの物語』224頁の「ペトロのメシア告白」の項を参照してください。
《キュリオス》というギリシア語はもともと財産(とくに奴隷)の所有者を指す語で、「主人」という意味です。「キリスト」という称号が終末的救済者を指すという聖書的背景がなく、「イエス・キリスト」が一人の人間の呼び名のようになりがちなギリシア語圏で、復活されたイエスの地位を指すのに、支配者や神々を指す《キュリオス》という称号が用いられるようになります。復活されたイエスは、ギリシア語圏では《キュリオス・イエスース・クリストス》と呼ばれるようになります。ルカは誕生物語で、この幼子こそ《キュリオス》となる方だと告知するのです。《キュリオス》という称号については、拙著『福音の史的展開T』238頁以下の「V ギリシア語系ユダヤ人の福音告知」、とくに「《キュリオス》としての復活者イエス」の項を参照してください。
こうしてルカは、復活されたイエスを告知するこの三つの称号を並べて、誕生物語で今日生まれた方が誰であるかを指し示しています。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。(二・一二)
天使はこのように告知した後、羊飼いたちがその方を正しく見つけることができるように、その方を指し示す「しるし」を与えます。その「しるし」が「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という姿です。飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が「救い主」であり、「メシア」であり、「主」であるというのです。そのような称号にふさわしい宮殿とか華麗な衣服ではなく馬小屋であり、おむつにくるまった赤子です。なんという大きなギャップ、落差、裂け目でしょうか。人の常識はこの裂け目を乗り越えることができません。この「しるし」は逆のしるし、「逆徴」です。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。(二・一三〜一四)
羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告知した天使が、ザカリアやマリアに現れた天使ガブリエルであったのかどうかは分かりません。この天使は単数形で指されています。この一人の天使に突然「天の大軍」が加わります。「部隊」という軍隊用語が使われていますが、これは旧約聖書の「天の万軍」という表象を受け継いだもので、ここでは一群の天使を指しています。当時のユダヤ教には、ヤハウェは多くの廷臣をもっているという考え方がありました。この「天の大軍」が天使たちの群れを指すことは、この一群がすぐ後(一五節)で「天使たち」と言われていることから確認できます。最初に羊飼いたちに現れた天使(単数形)は高位の天使であり、その下で仕える大勢の天使たちが、この天使(単数)の告知が終わったとき突然、この出来事を与えた神を賛美する合唱に加わったのでしょう。天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。(二・一五〜一六)
羊飼いたちに現れて救い主の誕生を告知した天使(単数)と、告知の後突然現れて賛美の合唱に加わった「天の大軍」が、ここでは「天使たち」と呼ばれています。その一群の天使たちが役目を終えて、そこから派遣された場所である天に戻って行ったとき、あまりにも不思議な出来事に茫然となっていた羊飼いたちは我に返り、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と語り合います。ベツレヘム近郊の野で野宿していた羊飼いたちは、天使が言った「ダビデの町」がベツレヘムを指すことを直ちに理解します。そして、「主が(天使を遣わして)知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合ってベツレヘムへ急ぎます。おそらく彼らはごった返すベツレヘム中の家々の戸を叩いて捜し回ったことでしょう。そして、ついに飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。「捜す ― 見つける」の図式は、ルカの信仰物語において重要な意義を担っています(たとえば二・四一〜五〇の両親がいなくなったイエスを捜し神殿で見つける物語)。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。(二・一七〜一八)
「飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子」という光景は、当時でもきわめて異例の光景で、それを見た羊飼いたちは直ちに、この場面こそ天使が自分たちに語った「しるし」であることを悟ります。そして、出産を世話したり祝福するためにそこに集まってきていた人々に、自分たちが天使のお告げを受けてここに来た次第を話します。彼らは出て行って町の人々にも知らせたのかもしれません。「聞いた者は皆、羊飼いたちの話に驚いた」(直訳)とありますが、聞いた人たちは皆ユダヤ教徒です。日頃神を信じ聖書の物語に親しんでいる人たちですが、彼らもこの出来事の不思議さにただ驚くばかりでした。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。(二・一九)
この不思議な出来事の話を聞いてただ驚いている周囲の人たちと対照的に(この節は《デ》という小辞で前節と対照されています)、「マリアはこれらの言葉すべてを思い巡らし、心に納めておいた」(直訳)と、マリアの態度が描かれます。《レーマタ》(《レーマ》の複数形)は言葉という意味のギリシア語ですが、ヘブライ語の《ダーバール》と同じく、出来事という意味にもなります。マリアが思い巡らした「すべての《レーマタ》」というのは、羊飼いたちが語った言葉とそれが指し示す出来事だけでなく、受胎告知からこの出産に至る「すべての出来事」を指していると見るべきでしょう。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(二・二〇)
ここの「帰って行った」は、ベツレヘムの町から出て、天使のお告げを受けた野宿の場所に帰って行ったことを指します。自分たちが体験したことがすべて天使が告げたとおりであったことから、それが神から出たことであることを知り、神がこれから民のために大きなことを成し遂げようとしておられることを予感して、神をあがめ、賛美しながら帰って行きます。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(二・二一)
ユダヤ人の男性はすべて生まれて八日目に割礼を受けることが律法で定められています。その時に名前がつけられます(一・五九の講解参照)。イエスも八日目に割礼を受けます。イエスの割礼を記述するのは、新約聖書ではルカのこの記事だけです。この割礼の記事は、イエスはユダヤ教徒であったという、あまりにも当然でありながら、イエス理解の営みにおいてしばしば見落とされる事実を、改めて確認させます。割礼を受けた者はモーセ律法をすべて行う義務があります(ガラテヤ五・三)。イエスは割礼を受けたユダヤ教徒としての生涯を送られます(ガラテヤ四・四)。